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キュートな会社の作り方

悪魔の計略編(第41〜47話)

初出 2003.02.12〜2003.02.19
written by 双剣士 (WebSite)
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登場人物紹介入社初出勤小さな魔法美少年の事情才女の憂鬱せつない想い天誅の行方悪魔の計略幸せの広め方巻末クイズ


【41】 2003.02.12

「紫亜……紫亜よ……」
 闇の中から染み出す声。遠い異世界からの呼び声。彼女だけに聞こえるその呼びかけを耳にして、上機嫌で鼻歌を歌いながらバッグに荷物を詰め込んでいた紫亜はきょろきょろと辺りを見渡した。
 夜も更け、美紗と紫乃は明日に備えてすやすやと寝入っている。湖太郎たちも自分の部屋に戻った今となっては、紫亜のことを呼ぶ者は居ないはず。なのにその声は、明らかに彼女の名前を呼んでいた。紫亜は心細そうに返事をした。
「……ど、どなたです?」
「俺の声を忘れたのか、紫亜よ」
 再び投げかけられた闇の声。それは漆黒に染まったベランダの窓の外から聞こえて来ていた。紫亜が立ち上がって窓を開けると、ベランダの脇に……部屋からの明かりが差し込まない暗黒の一角から、金色の目が彼女のことを見上げていた。それは一対の猫の瞳に似ていた。
「何をしているのだ、お前は」
「あの、明日からのスキー旅行に備えて、お荷物の準備を……」
「そんなことを聞いているのではない。お前に与えられた使命に進展はあったかと聞いておるのだ」
「…………」
 紫亜は黙って首を横に振った。宿題を忘れて叱られている生徒のような沈黙。だが、それはいつも優しく社員たちに接している秘書としての表情とは、全く異質の憂い顔であった。
「まったく……久しぶりに様子を見に来てみればこの有様。魔界の落ちこぼれ、最下級ダメ悪魔としてのお前の性格には、まるで進歩の兆しが見えないようだな」
「……すみません……」
「お前のことだ、人間たちとの日々の生活にかまけて、使命のことなどけろりと忘れておったのだろう」
「…………」
「……少しは否定したらどうだ、情けない奴め」
 闇の目は厳しい口調で美人秘書を叱責した。そして意外なことを言い出した。
「明日から旅行だといっていたな? いい機会だ、他の者が居ないうちにお前の使命に取り組むがいい」
「えっ、でも、明日からの旅行は皆さんが、ずっと楽しみにしていたもので……」
「知ったことか。それともお前、自分の使命よりも人間たちとの友誼のほうを取るとでも言う気か?」
 紫亜は再び沈黙した。闇の声は一切の反論を許さぬという勢いで、迷う紫亜に向かって畳み掛けた。
「紫亜よ、お前は何をしにここに来たのか、分かっているのか?」

                 **

 翌朝。入社してから初めての社員旅行に胸を躍らせていた天と湖太郎は、美紗の話を聞いて顔を曇らせた。
「紫亜さんが、風邪?」
「そうなんス〜、今朝からすごく苦しそうにしてて、奥で休んでるっス」
 心配そうに部屋に入ってくる会社の面々。その奥では氷袋を額に当てた紫亜が、熱い吐息をつきながら床に臥せっていた。その横では美紗ともう1人の分のスキー用品が丁寧に揃えられ、お弁当まで添えられていた。きっと準備のために昨夜1人で無理をしたに違いない。
「紫亜さん、大丈夫ですか?」
「あ……綾小路さん、ごめんなさい……あの、私のことはいいですから、皆さんでスキーに行ってらしてください……」
「そんなわけには行きませんよ! オレ、残って看病します」
 息せき切ってそう主張する綾小路天。だが意外な方向から、反対の声が挙がった。
「そうはいかないわね。だって今日の旅行、あの御手洗家のお坊ちゃんが、仲直りの印にって招待してくれたものなんだもの。あなたと美紗が行かなきゃ意味がないでしょ」
「はぅー、私も残って看病したいっス。ダメっスか、さっちゅん?」
「気持ちは分かるけどね」
 こういうとき、感情に流されない判断のできる早紗は本当に頼りになる。しかしだからといって、誰もが納得できる結論が出せるわけでもなかった。
「それじゃ僕が、残って紫亜さんの看病を……」
「小星さんも来るのよ、不思議少年のコタロー君。あの子を雪山で独りぼっちにするつもり? 行かなくてもいいのはアタシくらいなものよ」
「はぅー、それは困るっス。さっちゅんが仕切ってくれないと私、あの薫ちゃんにイジメられちゃうっスよぉ〜」
 まさに八方ふさがりの状況だった。厳密に言うと、綾小路天の知らない人物がもう1人居るのだが……物を持つことすら出来ない幽霊の女の子を残していくわけには行かない。それに今日の旅行を一番楽しみにしていたのは、その女の子なのだ。
「……大丈夫ですから、皆さんスキーに行ってらしてください。誰かに移したりするといけませんし、それに私、自分でご飯とか作れますから」
 無理に笑顔を作りながら病床の紫亜はそう微笑んだ。一同は困ったように顔を見合わせたが……スキー旅行そのものをキャンセルしない限り、他の選択肢があるとも思えなかった。
「……お土産、楽しみにしてますね」
 紫亜のその一言が、判断を促す決定打となった。美紗たちは済まなそうに瞼を伏せると、名残惜しそうに立ち上がって次々にドアへと向かった。




【42】 2003.02.13

 純白の新雪に包まれた、すり鉢状の山の頂上。まだ誰もシュプールの跡を刻んでいない今シーズンの新規開拓地。雲ひとつない晴天を縫ってその頂上に飛来したヘリコプターは、山頂すれすれでホバリングすると8人の男女を次々と吐き出した。最後にヘリから降り立った坊ちゃん刈りの青年は誇らしげに一同に説明した。
「どうです美紗さん、素晴らしい光景でしょう……ここはつい最近になって我が御手洗家が買い取った山でして、これまでスキーヤーが足を踏み入れたことのない、とっておきのスポットなのですよ。美紗さんの美しさにはとうてい及びもつかぬでしょうが、日々の糧を得るためにあくせくしている愚民どもを見下ろすこの絶景感をぜひ堪能してください、わーっはっはっはっ」
 仲直りとお近づきの印としてこれ以上のものはあるまい、と御手洗大は高笑いしながら胸を張った。しかし、
「ねぇ湖太郎ちゃん、私スキーって初めてなんだ、よかったら教えてくれない?」
「う、うん、僕なんかでよければ……」
「てひひー、コタロー君コタロー君、一緒に滑るっスよ〜♪」
「美紗さん、湖太郎ちゃんにくっつかないでください!」
「綾小路さまぁ、わたくしと一緒に、愛のシュプールを描きましょうねぇ〜」
「……(紫亜さん大丈夫かな、心配だな)……」
「うわーい、高い、高いぅ〜」
「うーっ寒いっ……なんなのよ、この吹きさらしの風は?!」
 ……当然かつお約束な展開として、誰も御手洗大の言葉など聞いちゃいなかった。
 それにしても考えてみれば、ここはこれだけ雪が積もるのに過去にスキー場が建設されなかった場所。スキー初心者にとって易しい傾斜であるはずもないわけで……しかもまだ誰も踏み固めていない新雪の上を滑るのである。この脳天気な連中がどんなに危険な場所にいるのか、読者諸兄は想像してみていただきたい。
「じゃコタロー君、行くっスよ〜」
「わっ、うわわっ!!」
 隠し持っていた2人乗りのソリをいきなり取り出した美紗は、それを雪上において湖太郎を放り込むと、その後ろに飛び乗りながら地面を蹴った。一同が制止する間もなく2人を乗せたソリは山の急斜面を直滑降で滑り落ち始めた。
「うわわあぁぁーーっ!!!」
「てひひー、GOっス、GOっス〜♪」
 2人を乗せたソリは湖太郎の悲鳴と美紗の嬌声を伴って猛スピードで斜面を滑り降りていく。スキー場として整備されていない山の斜面のこと、彼らの進路には次々と岩や巨木が立ちふさがって来た。だが不思議なことに、美紗たちのソリは帆を張っているかのようにその脇をするりするりと軽快にすり抜けていくのであった。
「ああっ、湖太郎ちゃん待ってえっ!!!」
「み、美紗さん俺も……い、一緒に行き……ぐぼはぁっ」
 そして数瞬後、我に返った植松小星はさっきのしおらしさなど空の彼方に放り出して、アルペンばりの豪快なフォームで2人の乗ったソリを追いかけ始めた。そして3人の後ろを、巨大な雪玉となりながら御手洗大が転がっていく。こうしてあっという間に山頂の人数は半分になった。
「さぁ綾小路さま、わたくしたちは2人っきりになれるところに参りましょうか♪」
「…………」
 天の無言を承諾の証と解釈した御手洗薫は、天の背中にしがみついたままで美紗たちとは反対側の斜面へと駆け下りていった。山頂には子供向けのスキー服(もちろん美紗のおまじない付き)をまとった幽霊少女と、こんな山頂でも何故かミニスカートな魔法少女が残された。
「さしゃおねえちゃん、スキーってどうやるのぅ?」
「あは、あははは……子供はそんなこと気にしなくていいのよ」
 寒さに足を震わせながら、引きつった表情で早紗は幽霊少女に笑いかけた。
「いいから、先に行きなさい。アタシが後ろから見ててあげるから」
「本当ぅ?」
 不安そうに後ろを振り返りながら、紫乃は1人で急斜面へと挑戦した。そして何度か転倒した後、おぼろげに要領を掴んだ幽霊少女はぎこちない姿勢ながらもゆっくりと斜面を滑り降り始めた。山頂から笑顔で手を振っていた早紗は、その様子を見てほっと胸をなでおろした。
「さぁて、それじゃアタシも行きますか……む、難しくなんかないわよね。美紗みたいに翼を広げて、風でバランスをとればいいんだから」
 そう言って体重を前に向ける早紗。だがすくんだ足は凍りついたように言うことを聞かなかった。早紗は仕方なく背中の翼を広げて……背後からの強風にあおられてバランスを崩しかけ、あわてて翼をたたんだ。
「だ、ダメよね最初からズルしちゃあ……スキーに来たんだもの、翼を使うなんて邪道よね」
 苦笑いを浮かべながら自分に言い聞かせ、恐る恐る片足を前に出す。だが足元の雪が小さく崩れた途端、彼女は驚いたように出した足を引き戻した。彼女の背中に冷たい汗が滑り落ちた……スキーって、こんなに怖いもんだっけ?
「リフトで降り……られなかったのよねえ、ここ。どうやって帰ろう……?」
 初心者コースなんてつまらないわよ、と見栄を張った今朝の自分を、敏腕の営業部長は今頃になって猛烈に後悔していた。

                 **

 そしてそのころ、マンションでは……仮病から抜け出した紫亜が、一心不乱に“宿題”に取り組んでいた。
「美紗さんごめんなさい、早紗さんごめんなさい、樋口さんごめんなさい、綾小路さんごめんなさい……」
 紫亜は涙を流しながら呪文のようにそうつぶやいていた。そんな彼女の背後には、縫い目を切り裂かれて綿をはみ出させたコタロー君ぬいぐるみとテンちゃんぬいぐるみが雑然と転がり、死屍累々の様相を呈していた。




【43】 2003.02.14

「そんなに紫亜のことが心配?」

 綾小路天の前には、まるで見覚えのない光景が広がっていた。20数個はありそうなテーブルと見知らぬ人々、広い室内と高い天井、暖炉を模したインテリアと熊の剥製。そして彼の着いたテーブルの向かい側には、心配そうに覗き込む美紗と呆れたような表情をした早紗が立っていた。
「あっ、テンちゃんがこっち向いたっス。さっちゅんすごいっス〜」
「……やっぱりね……」
「あの、オレ? ここは……どこです?」
 自分を取り巻く状況が分からない天に対し、早紗は直接には答えなかった。
「ずーっと上の空だったみたいね。薫さん怒り出しちゃってたわよ、あなたが生返事ばっかりしてるから」
「覚えてないっスか? テンちゃん、薫ちゃんと一緒に何回もスキーで滑ってきて、一緒にこの宿に帰ってきて晩御飯食べてたっスよ、さっきまで」
「えっ……」
「本当に覚えてないわけ? あきれた、紫亜の名前を出した途端に目を覚ましたってことは、ずっとそのことばっかり考えてたんじゃないの?」
 天はあわてて首を横に振ったが、顔を真っ赤にした彼の様子には説得力がまるでなかった。
「今さら隠さなくたっていいじゃない」
「てひひー、テンちゃん優しいっスね〜。私もしあちゃんのこと心配っス」
「は、はぁ……」
 バツが悪そうに肩をすくめる綾小路天。確かに早紗たちに呼び起こされるまで、天には出発以降の記憶がまるでなかった。苦しそうに床に伏せる紫亜の顔が頭の中いっぱいに広がって、気がついたらこの場所にいたという有様であった。恥ずかしさとともに自責の念が胸に込みあげてくる。
「オレ、薫ちゃんと一緒にいたんですか……あの子に謝らないと……」
「あせってもダメよ。一緒にいたときのこと全然覚えてない今のあなたがフォローに行ったところで、傷口を広げるだけでしょ」
「…………」
「まぁ、これでも飲んで落ち着きなさい。全てはそれから」
 目の前に差し出されたビールのジョッキを、天は一気に飲み干した。喉を通る冷たい感触を得て、彼はようやく現実に帰ってきたような気がした。錆び付いていた脳細胞がようやく動き始め、現状を正しく把握し始める。今いるのはスキー場の宿舎の食堂、目の前にいるのは自分の上司、他のみんなは食堂から出て行ってて……とすると、オレがこれからしなきゃいけないことは……。
「ありがとうございます。それじゃオレ、ちょっと紫亜さんに電……わ、を、し、な……」
「うふふ」
 礼を言いながら立ち上がった天の視界が、再びセピア色に変わっていった。早紗の笑顔が斜めに歪み、自分の言葉がスローモーに響く。そして間もなく目の前が闇に包まれた……。


「うふふ、寝た寝た」
「テンちゃん? あれ、どうしちゃったっスか?」
「大丈夫よ、ちょっと薬を盛っておいただけだから」
 立ち上がりかけるなりテーブルに突っ伏して大いびきをかき始めた綾小路天のことを心配する美紗に、彼女の姉は悪戯っぽい表情で種明かしをした。
「さぁてと、美紗、ちょっと手伝ってくれる?」
「ほぇ? 何をっスか?」
「決まってるじゃない。いくらアタシでも、彼を抱えて東京まで飛ぶのはキツイのよ」

                 **

「……あれ?」
 目を覚まして身を起こした綾小路天の視界には、今度は見覚えのある光景が広がっていた。入社以来暮らしているマンションの部屋と、毎晩のように見慣れている天井。いつもと同じ普通の風景、何の変哲もない午後11時。
「……オレ、スキーに行ってたはずじゃ……」
 首をかしげながら天は寝室のふすまを開けた。別室で寝ているはずの湖太郎の姿は見えず、部屋の中は人気なく静まり返っていた。前の晩に荷造りしたはずのスキー用のかばんは忽然と姿を消していた。独りぼっちでこの部屋にいる自分のことを、ようやく天は実感し始めていた。
「あれ、だとするとオレ……」
 湖太郎と荷物が消えた室内、しかしおぼろげにしか浮かばないスキー場での記憶……矛盾する記憶を前にして、スキー行きそのものが夢だったんじゃあ、という解釈が綾小路天の頭の中にむくむくと持ち上がってきた。自分は実はまだスキーになんか行ってなくて、湖太郎は何か別の用事で居ないだけで、スキーに行って食堂でビールを飲んだような気がするのは全て気のせいで。
「……そうだ、紫亜さんは?」
 なんとなく釈然としない自分の記憶。確かさを証明してくれる誰かの言葉がないと、安心して眠れそうもなかった。そのとき綾小路天の脳裏に、あの黒髪の少女の顔が浮かんだ……居ても立ってもいられず、天は隣の部屋のチャイムを押すために部屋を飛び出した。今が真夜中であることなどすっかり頭から飛んでいた。




【44】 2003.02.16

 紫亜たちの部屋のインターホンを押して、懐かしい声が聞こえてきたとき。綾小路天はようやく現実との絆を見つけたような気がした。自分がここにいる理由、心の支えにしている存在……そうした想いの全てが黒髪黒瞳の美人の姿に集約される。そしてまもなく、ドアの鍵が解かれる音がした。
「こんばんは、夜遅くすみません紫亜さん。あの、別に用はないんですけど……」
 照れたように頭を掻きながら天は言葉を繰り出した。紫亜さんには変に思われるかもしれないけど構わない。彼女の顔を見ることができれば安心できる……そう確信するための深夜の訪問。だがそれに対する紫亜の返事は、解消するはずの天の混乱に再び拍車をかけるものだった。
「あやの……こうじ、さん、どうして……あの、皆さんとスキーに行ってたはずじゃあ……?」

                 **

「……どうぞ」
「すみません、紫亜さん」
 ほどなく部屋に招き入れられ、紫亜に出されたお茶をすすりながら。綾小路天は今の状況を理解しようと懸命に頭を働かせた。
《スキーに行ったオレたちと1人でマンションに残った紫亜さん。今こうして向かい合ってるオレたち。このどっちかが夢だと考えるしかない。もしこれが現実だとしたら美紗さんたちとスキーに出かけたこと自体が夢だってことになるけど、それじゃさっき紫亜さんが驚いてた様子の説明がつかない……だとするとこっちが夢か? オレは夢の中で、記憶の中の紫亜さんと向かい合ってるのか?》
 これが夢の中だとすれば、湖太郎や美紗さんたちが居ないこと、風邪で寝込んでたはずの紫亜さんが元気そうに動き回ってることの説明はつく。多少つじつまの合わないことが起こるのは夢の中では珍しくないから……そこまで考えが及んだとき、天は不意にあることに気づいた。
《ひょっとしてオレ……紫亜さんと2人っきり? 夢の中とはいえ》
 天はうつむいたまま目だけを上げて紫亜のほうを見つめた。テーブルの向かい側にちょこんと座った紫亜はどことなく落ちつかなげに、肩をすくめたままそわそわと辺りを見渡していた。その様子は2人っきりで向かい合っている今の状況を恥ずかしがっているように綾小路天には見えた……自分の頬が紅潮し胸の鼓動がどくんどくんと高鳴るのを、青年ははっきりと自覚した。
「あの、綾小路さん……ご用件は?」
「えっ?」
 意外な言葉に天は耳を疑った。いつもの紫亜はこんなことを聞いたりはしない。用事があろうがなかろうが、訪ねたときには温かく迎えてくれて迷惑そうな顔は微塵も見せない……それがこの女性のいいところだったはず。
「あの、もう夜も遅いですし……そのぉ……」
 紫亜は言いづらそうに視線をきょろきょろさせた。『そろそろ床に入って休みたい』その言葉を曖昧に匂わせている様子は恥らっているようでもあり、逆に誘いをかけているようにも思えた。紫亜さんも2人きりだってことを意識してるんだ、と天は思わずごくりと唾を飲み込んだ……こういう状況に到っては、すぐに帰りますとは言いづらい。
「いやその……あの、紫亜さんに、聞きたいことがあって……」
「はい?」
 全身の血が逆流しているのを感じる。そういえば以前にもこんなことがあったっけ、と天は不意に昔のことを思い出した。あれは確かクリスマスイブの夜、オレは紫亜さんの胸で大泣きしてて……いい雰囲気になりかけたはずだったんだ。あのとき美紗さんが起きだして来なかったら、あれからオレたちはどうなっていたんだろう?
「あの、風邪のほうはもういいんですか?」
「風邪?……ああ、あぁいえ、もうすっかり。ごめんなさい、ご心配をおかけして」
「いえ、元気になったんなら、良かったです」
 違うだろ、オレが聞きたいのは!
 天は思わず心の中で絶叫した。頭の中をいろいろな言葉が飛び交い、光っては消えてゆく。触れてはいけない宝石に爪跡をつけようとしてるような、畏れにも似た感情が湧きあがりかけるのを綾小路天は必死で抑え付けた。ここで臆病になってどうする、と身体の奥が懸命に警鐘を鳴らしていた。
「それでは、玄関までお送りします」
 紫亜は席を立つと、天の傍まで歩み寄って立ち止まった。出て行くのを催促するような彼女の態度に、ふと天は違和感を覚えた。
「どうかしたんですか?」
「えっ?」
「オレが来るの、紫亜さんには迷惑なんですか? なんだか今日の紫亜さんって……」
「め、迷惑だなんてそんな……ただ本当に、今日はもう夜も遅いですし、それに……コホン、綾小路さんに風邪を移したりしたらいけないと思って」
 わざとらしく咳をしてみせる紫亜。明らかに矛盾する彼女の言い訳を聞いて、天の心に焦りの色がどんどん濃くなっていった。なんだか知らないが紫亜さんはこの話を打ち切りたがっている。早くしなきゃいけない、ちゃんと言わなきゃいけない……そんなとき、ふと浮かんだある考えが彼の背中を押した。
 これは、夢の中なんだ。
「紫亜さん!」
「きゃっ!!」
 急に立ち上がった天にびっくりした紫亜が尻餅をつく。だが天は紫亜を助け起こそうとはしなかった。胸の奥の勇気がなくならないうちに、この決意が揺るがないうちに……天は直立不動で紫亜のことを見下ろしたまま真剣な表情で、このうえなくストレートな表現を口にした。


「オレ……紫亜さんが、好きなんだ」




【45】 2003.02.17

「オレ……紫亜さんが、好きなんだ」
「ありがとうございます、うれしいです」


 言った。ついに言ってしまった。ありったけの勇気を振り絞った綾小路天の告白。そしてそれに対する返答は、花が咲いたような笑顔と軽やかな返礼の言葉だった。
 だがそこには、恋する乙女らしい逡巡や頬を染める反応といったものは全く見られなかった。むしろ家族に対する愛情の延長線として紫亜が受け止めている、彼女の反応はそんな風に見えた。
「それでは……今日はこれで。玄関までお送りします、綾小路さん」
「え?」
 続いて繰り出された紫亜の言葉が、事態を決定的にした。紫亜の笑顔に見惚れかけていた綾小路天は慌てて意識を現実に引き戻した……これで終わりにするわけにはいかない。これっぽっちで別れたら、また明日からは普通の日々に戻ってしまう。小学生の恋愛(?)とは訳がちがうんだ!
「紫亜さんっ!」
「は、はいっ!」
 立ち上がりかけた紫亜は、びくっと身体を震わせた。そして怯えるように手を握り合わせながら、怖い表情で迫ってくる天に押されるようにじりじりと後ずさった。
「あ、綾小路さん……」
「返事を聞かせてください。紫亜さんはオレのこと……?」
「ごめんなさい、今日はもう、本当にこれで……」
 そういって突き放すように手を前に伸ばす紫亜であったが、天の前進を止めることは出来なかった。そうしてふすまギリギリまで後退した紫亜に、なおも返答を迫る綾小路天。その鬼気迫る表情にたじろいだ紫亜は、小さな悲鳴を上げて後ろへと倒れかかった。
「あっ……きゃっ」
 隣室との間仕切りになっていたふすまが外れ、音を立てて内側に倒れこむ。紫亜はそのふすまの上に尻餅をつく形となった。そして天のほうも、ふすまの倒れる音を聞いて我に返った。
「紫亜さん! 大丈夫ですか?」
 倒れこんだ紫亜に手を差し伸べるべく、慌てて身体をかがめる綾小路天……だがその瞬間、彼の目に飛び込んできたのは奥の部屋の中の様子であった。そこには忘れようにも忘れられない彼の商売道具、コタロー君ぬいぐるみとテンちゃんぬいぐるみが数多く散乱していた。
 ……そしてその全てが、首のあたりで裂かれて綿をはみ出させていた。会社の屋台骨を支える人気商品のあまりの惨状に、綾小路天は思わず息を飲んだ。
「し、紫亜さん、これって……」
「だ、ダメっ!!」
 ぬいぐるみたちの様子に思わず意識を奪われていた天に、横合いから強烈なタックルが襲い掛かる。抵抗する間もなく綾小路天は応接間の床に押し倒された……そして馬乗りになった紫亜は、潤みきった瞳で組み敷いた青年に懇願した。
「お願いです、綾小路さん。このことはどうか、内密に……」
「……紫亜さん?」
 さきほどとは180度ちがう扇情的な彼女の態度に戸惑う綾小路天。その彼の口元に、紫亜はそっと唇を寄せてきた。
「……そのためなら私、なんでもしますから」

[ここから大人っぽい展開に持ち込むことも可能ですが、本作品ではその路線は採りません]

 しばらくの時を経て。感情の爆発を静めた紫亜は、ぺたんと隣室の床に座り込んで目の辺りをぬぐっていた。綾小路天は切り裂かれたテンちゃんぬいぐるみの1つを手にとって、あれこれと向きを変えながら破損状況をうかがっていた。
「……オレを早く帰らせようとしてたのは、これを見られたくなかったからなんですね」
「仕方なかったんです」
 紫亜はしくしくと涙を流しながら、何度も何度も頭を下げた。
「美紗さんたちにはあんなにお世話になっているのに、こんな罰当たりなことをして……美紗さんたちに知られたら、私、もうここには居られません……」
「そんな! 事情を話せば、きっと美紗さんも分かってくれますよ」
「事情を話すなんて、そんなことをしたら余計に……」
 天はいつしか紫亜を弁護し始めていた。とにかく彼女にこの会社を辞めさせないよう説得しなければいけない。もはや告白に対する紫亜の答えなどに拘っては居られなかった。
 すると、紫亜の背後の暗闇から甲高い猫の鳴き声が聞こえた。奇異に思う天の目の前で、後ろを振り向いた紫亜は誰かと会話をし始めた。
「……いえ、それは……ダメです、それだけは……でも……」
「紫亜さん? 誰と話してるんです?」
 途切れ途切れに聞こえる紫亜の言葉に対して、相手の声は聞こえない。正確には猫の鳴き声に塗りつぶされて聞き取れない。不思議に思った天が身を乗り出すと……その瞬間、紫亜の肩越しに1匹の黒い猫が、綾小路天の顔めがけて飛び掛ってきた!
「ニャーッ!!」
「うわっ、うわわっ!!」
 猫に襲い掛かられて天は後ろ向きにひっくり返った。黒い猫は天の顔をかきむしった後、天の首筋に爪を立てようと前足を振りかぶった。その黄色い瞳には明らかに殺意があった。
《やばい!》
 だが黒猫の奇襲は寸前のところで不発に終わった。紫亜に抱き上げられた黒猫は前足を振り回しながら、不服そうにニャーニャーと奇声を上げた。天は首筋を撫でながらほっと息をついた。
「ごめんなさい綾小路さん、大丈夫でしたか?」
「あ、あぁなんとか……なんです、この猫?」
「……もう、誤魔化しきれないですよね……」
 紫亜は悲しそうに目を伏せると、天に向かって信じられない言葉を投げかけた。
「私の監視役さんです……私が悪魔としての務めをきちんと果たすように、魔界から催促しに来たんです」
「えっ? あ、悪魔って……」
「そして今、秘密を知ってしまったあなたを……殺せと言っています」




【46】 2003.02.18

《紫亜さんが、悪魔?》
 衝撃的な一言が天の脳裏を駆け巡っていた。先日、御手洗薫が来訪したときに紫亜が引き起こした異様な出来事が、頭の奥の引き出しから鮮明に浮かび上がってきた。忘れ去ろうとしていた記憶だが、もう無かったことには出来ない。あれは紫亜がただの人間でない何よりの証だったのだ。
「人間界に来て途方にくれていた私を、美紗さんは拾ってくれました……それ以来ずっと、私は使命のことなんて忘れていたんです。美紗さんや綾小路さんたちとの生活は、本当に楽しかったから」
 重大な秘密を口にして気が楽になったのか、紫亜はいつになく饒舌だった。
「でも、やっぱり無理だったんです……悪魔の私が、普通に暮らすだなんて」
「…………」
「ゆうべこの人……この猫の姿をした人に言われたんです。悪行を積まないと永くは生きられないって。悪魔なら悪魔らしく、人間を悪の道に誘い込んでみせろって。飛ぶように売れる人気商品を送り出せる立場にお前は居るんだから、その気になれば簡単だろって」
「……ああ、それで」
 首を切り裂かれて部屋中にまき散らされたぬいぐるみ。あれは壊していたのではなく何かを埋め込もうとしていたのだと、綾小路天はようやく理解した。人気絶大の商品に隠された悪魔の胞子。愛情を込めてぬいぐるみを抱きしめる時の顧客の心は裸同然になると言っていい。悪の芽は伝染病のごとく日本中を駆け巡り、そうなってからでは決して根絶やしにすることは出来ないであろう。
「こんなこと、誰にも知られたくなかった……」
 紫亜は暗い顔をして悲しそうにうつむいた。黒猫は彼女の腕に抱かれたまま、ニャーニャーと騒ぎながら暴れまわっていた。何をべらべら喋っている、さっさとこいつを殺せ……そんなふうなことが言いたいのだろう。確かにこんな秘密を聞いて、何も聞かなかったかのように営業を続けることは天には出来ない。
 ……待てよ、すると?
「紫亜さん……どうしてそこまで、オレに話してくれるんです?」
「だって……」
 紫亜は上目づかいに天のことを見上げた。その瞬間、綾小路天の背中に悪寒が走った。誰にも知られたくなかった秘密を、こうしてオレに向かって話している。知られればここに居られなくなると承知の上で……これは死出の手向けではないのか? オレがこのことを誰にも話せないのを知ってるからこそ、最後に全てを語ってくれているのではないか?
「……あ、あぁ……」
 紫亜の顔がゆっくりと近づいてくる。逃げることも振り払うことも天には出来なかった。肉食獣の牙をただ待っている獲物のように、すくみきった天の全身は金縛りのように動かなくなっていた。いつかこうなるとオレは分かっていたのかもしれない、紫亜さんとひとつになるのを心の底で望んでいたのかもしれない……妙に澄み切った頭の中で、綾小路天はふとそんなことを考えた。
「……ごめんなさい」
 紫亜がそうささやいた。天は固く目をつぶった。だがその直後、意外な言葉が天の耳に飛び込んできた。

「だって、これって悪いことじゃないですか」
「……はぁ?」

 普通の女の子らしい、しかしこの場には全く似合わない紫亜のつぶやきに綾小路天は素っ頓狂な叫び声をあげた。それと共に彼の身体の呪縛は一瞬にして解けた。
「ウチのぬいぐるみを買ってくれるお客さんを騙すなんて、やっぱりいけないことだと思うんです。自分がとっても悪いことをしてる気がして、だからぬいぐるみの改造もうまく出来なくて」
 ……前言撤回。悪魔だろうが使命に縛られていようが、やはり目の前の女性は紫亜さん以外の何者でもなかった。
「うすうす気がついてたんです。私、悪魔に向いてないんじゃないかって。誰かが不幸になると悲しいし、それが綾小路さんたちだったらもっと悲しいし。だから、このまま消えたほうが……」
「な、何を言ってるんですか!」
 呪縛の解けた綾小路天は紫亜の両肩を掴んで揺さぶった。さっきまで感じていた疑念や恐怖心は煙のように掻き消え、代わって愛おしさが全身に込みあげてきた。
「紫亜さんは悪くなんかないですよ! 美紗さんたちに相談しましょう、きっと何か方法が……」
「ダメですよ。だって美紗さんたちは、てん……」
 途端に紫亜の全身が、糸の切れた人形のように脱力した。彼女の手から滑り落ちた黒猫が、一声鳴いてから暗闇に姿を消す。ぐったりとした紫亜の身体を天は必死で揺さぶった。
「紫亜さん! しっかりしてください、紫亜さん」
「ごめん……なさい。思ったより……早かった、みたい、です……」
 力の抜けた紫亜は途切れ途切れにつぶやいた。永くは生きられない……さっきの紫亜の言葉が天の脳裏でこだました。天は思わず、紫亜の華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。
「紫亜さん! ダメだ、こんなんで死んじゃったりしちゃ!」
「あ……綾小路、さん、ダメ……」
 若い人間の男性の肌と触れ合った紫亜の瞳に獣欲がともる。だが紫亜は固く目を閉じて、それを振り払おうと努めた。幸いにもそれは天の視界の外での出来事であったが。
「離して……ください。お別れです……」
「嫌だ、紫亜さん!」
 天はいっそう固く紫亜の身体を抱きしめた。触れ合った互いの胸を通して鼓動が共鳴しあう。その温もりを絶対に手放さぬよう、綾小路天は強く強く腕に力を込めた。だが紫亜の身体からは見る見るうちに生気が失せていった。
「離して……」
「離さない!」
「もう……私、もうダメ……」
 そう彼女がつぶやいた瞬間。綾小路天の頭が、すごい力で横に引かれた。紫亜さんのどこにこんな力が、と驚く間もなく、しがみつかれた天の顔に紫亜は金色の瞳を向け、そのままむさぼるように唇を奪った。
「…………?!」
 濃厚なディープキス。魂まで吸い出されそうな禁断の甘露に触れた綾小路天は、そのままあっさりと意識を手放した。




【47】 2003.02.19

 気持ちよく寝入っていたところを電話で叩き起こされた挙句、1晩のうちに2度までも東京まで飛ぶことを余儀なくされた早紗は、すこぶる虫の居所が悪かった。
「……事情は分かったわ。なにか言い残すことはある?」
「綾小路さんを助けてあげてください。お願いします」
「よく言うわね、美少年の生気を根こそぎ吸い取っておきながら」
「我慢できなかったんです……」
 早紗は不機嫌そうにマンションの室内を見渡した。身体中の生気を吸い出されて息絶え絶えになった綾小路天とは対照的に、紫亜の顔は赤ん坊の肌のように瑞々しくツヤツヤと輝いていた。それがますます早紗の癪に障った。
「美紗にほだされて今まで黙ってたけど、こんなことが起こるようじゃ見逃す訳にはいかないわ。覚悟なさい、人に仇なすダメ悪魔!」
「はい……」
「ダメっス、さっちゅん!」
 正座したまま神妙に目を閉じる紫亜に対して、高らかに魔法のステッキを振り上げる早紗。だがステッキが振り下ろされる寸前、2人の間に割って入ったのは彼女の妹であった。
「どきなさい、美紗!」
「イヤっス! だってさっちゅん、テンちゃんなら助かるってさっき言ってたじゃないスか!」
「そりゃまぁ、美少年の場合はややこしい前世の記憶とかは無さそうだし、アタシの魔法で何とかなるとは思うけど……でも、それとこれとは話が別よ」
「でも、しあちゃん反省してるっス! 一番傷ついてるのはしあちゃんっス、許してあげてほしいっス」
 美紗は涙目になりながら必死で訴えた。彼女にとっては天使も悪魔も関係ない、大切な友だちを守りたい一心であった。
「しあちゃんだって好きでやったわけじゃないっス。だってしあちゃん、テンちゃんが倒れた後すぐに、泣きながら私たちに電話してきたっスよ? テンちゃんのことを助けてくださいって」
「美紗さん……」
「さっちゅんに怒られるの知ってて、みんなと一緒に居られなくなるの分かってて、それでもテンちゃんのために私たちを呼んでくれたっス! しあちゃんは悪くないっス!」
「……ありがとうございます美紗さん。でも、もういいんです。これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「私があげるっス! 私はテンちゃんみたいにはならないから、私のをあげるっス。しあちゃんは1人ぼっちじゃないっス!」
 両手を広げて立ちはだかる美紗と、その背中から出てこようとする紫亜。2人は泣きながら責任の引き受け合いをしていた。その様子をしばらく見ていた早紗は、ふうっと息を吐き出すと振り上げたステッキを下ろした。
「……アタシも甘くなったもんね」
「さっちゅん!!」
「壊したぬいぐるみ、アタシたちがスキーから帰ってくるまでに直しておきなさい。分かった、紫亜?」
「は、はいっ!」
 美紗と紫亜は肩を抱き合いながら喜び合った。そんな2人を横目に見ながら、すっかり人間くさくなった魔法少女は意識のない青年のほうを振り返った。
「さて、と……これからも紫亜と一緒に暮らすんだったら、問題は美少年のことをどうするかよね……ちょっと小細工が要るかしら?」

                 **

「綾小路さま、お起きになってくださいな……」
「う、うーん……うわぁっ!」
 深い眠りから目覚めた綾小路天は、目を閉じたまま唇を突き出す御手洗薫の顔が枕元にあるのに気づいて、慌てて飛び起きた。舌打ちをしながら顔を起こす薫。
「惜しかったですわ……」
「か、薫ちゃん?! あれ……ここは、いったい……」
 天の視界には、宿舎の高い屋根が広がっていた。身を起こしたベッドも部屋の調度も、彼にとってはまるで見覚えのないものばかりだった。
「ここ……オレ確か、ゆうべはマンションで……」
「まだ寝ぼけてらっしゃいますの、綾小路さま?」
 呆れたように頬を膨らませる御手洗薫。そういえばオレたちスキー旅行に来てたんだっけ、と天はぼんやりと思い出した。
「ひどいですわ綾小路さま、ゆうべはわたくしの話をぜんぜん聞いてくださらなかったし、夜はお酒を召し上がって、どこかの部屋でずっと眠ったままだったそうじゃありませんの」
「そうだっけ……?」
 鈍った頭を揺さぶりながら天はゆうべの記憶を辿った。そう言われてみれば食堂で早紗に生ビールを勧められて以降の記憶がない。自分はそんなにお酒に弱いタイプじゃなかったはずなのだが。そう、たしかあの時は……。
「……そうだ、紫亜さん!」
「紫亜? ああ、あの魔性の女のことですのね……そういえば今朝、副社長さんがおっしゃってましたわよ。風邪は直ったから心配しないでと東京から電話があったそうで」
「……そう、良かった……」
 気になっていたことの答えが簡単に得られて、天は心の底から安堵した。薫の前では言えないことだったが、実は彼はその夜、紫亜に会いに行く夢を見たのだ。
《よくは思い出せないけど、楽しいことや悲しいこと、びっくりすることや辛いことがあったような気がする……すごく大切な話をしたり、不思議な体験をしたような気もするけど……》
 しかし現実には紫亜はここに居ないのだし、風邪が治ったのならそれに越したことはない。夢だよ夢……記憶の淵で揺らいでいる不思議な思い出に、綾小路天はそうやってピリオドを打った。すると自然に頬がほころび、口元が楽しげに緩んだ。
「あ・や・の・こ・う・じ・さまぁ〜」
「い、痛い痛い薫ちゃん、降参降参〜」
 怖い顔をした薫に両耳を引っ張られて、綾小路天は強引に現実世界に引き戻された。そして襲い掛かる薫のキス攻撃を、笑い声を上げながらかわしまくった。


「お帰りなさい、皆さん」
 それから数日後、スキー旅行から帰って紫亜の笑顔を見た途端、綾小路天の中のわだかまりは完全に消え失せた。そして自分の居るべきところに戻ってこられたことを、あらためて実感するのだった。


……幸せの広め方編へ続く。

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