ぴたテン SideStory
キュートな会社の作り方
美少年の事情編(第13〜17話)
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登場人物紹介/入社/初出勤/小さな魔法/美少年の事情/才女の憂鬱/せつない想い/天誅の行方/悪魔の計略/幸せの広め方/巻末クイズ
【13】 2002.12.24
「綾小路さまぁ、お慕いしておりますわぁ(はぁと)」
「う、うわわあぁぁーーっ!!!」
綾小路天は大声をあげながら自分の布団で上体を起こした。月明かりの差し込むマンションの一室、自分の他には誰もいない、真新しい畳の匂いのする六畳間。天は額の脂汗を拭った。
「夢、か……」
あまりにもリアルな映像。つい最近まで彼の身の回りで繰り広げられていた、炎のような熱烈アタックと針の雨のような高笑いに翻弄される日常。それらに何の疑問も持たない異様な集団に囲まれ、抵抗はおろか逃避すら許されぬ状況で服従を強いられ続けた、あの地獄にも等しい屈辱の毎日。
「……そうだ、夢なんだ……」
だが今の自分は商事会社の新入社員。風変わりだが気のいい上司と、多少頼りないが素直でまっすぐな同僚、そして野に咲くかすみ草にも似た可憐で清楚な雰囲気を漂わせる美人秘書。そんな仲間たちの中に自分はいる。全力で働いて守るに値するものが、ここにはある。
「……寝よう。明日も朝早いし……」
綾小路天はそうつぶやいて目を閉じた。あの悪夢のような日々は、本当はまだ終わってはいない。今の自分は一時的に居心地のいい世界に逃げ込んでいるに過ぎない……頭の奥で理性がそう告げている。だが天はあえて堅く目をつぶった。そうすることで悪夢を夢として闇の彼方へと追い払うことができる、そう自分に言い聞かせるように。
**
「はい、綾小路さんどうぞ」
「あぁ、ありがとう紫亜さん」
「てひひー、コタロー君じゃんじゃん食べるっスよ〜」
「み、美紗さん、そんな山盛りにしなくても……」
翌朝。天と湖太郎はマンションの隣の部屋で、美紗たちと一緒に朝ご飯を食べていた。初出勤の朝にふとした間違いで彼女たちの部屋のドアを叩いて以来、それが彼らの日常になっていた。絵に描いたような幸福な朝食の風景……もっともテレビドラマなどでは決して出てこないはずの異様な光景も一部にはあるのだが。
「てひひー、美味しいっスか?」
「はいぅ〜(ぱくぱく)」
「……なぁ湖太郎、本当にぬいぐるみって御飯を食べて動くもんなのか?」
美紗と紫亜の間にちょこんと置かれた、小さなお茶碗。そこに陣取ったぬいぐるみの前で、お皿やお茶碗の中身が少しずつ減っていく……不思議に思った天であったが、湖太郎の方は曖昧に笑うのみであった。
「ま、まぁそういうこともあるよ。いちいち驚いてちゃキリがないし……こないだ話したじゃない、ありのままを受け入れようって」
「そうだけどさぁ」
ぬいぐるみが食事をするという異様な光景にいまいち馴染めない天であったが、疑問を持とうが持つまいが、とにかく現実には違いない。それにしゃべるぬいぐるみというのは、別に目の前の奴だけがそうだというわけではないのだし。
「こらぁ、美少年、不思議少年! いつまで御飯食べてんの、仕事に行くわよ!」
「はいっ!」
「はぁい」
「みんな、今日も頑張ってくるっスよ〜」
「お夕食、今日も用意しておきますね」
そして8時。いつものように扉から怒鳴り声が飛び込んできて、2人の青年の社会人としての1日は始まるのだった。仕事が終われば優しい笑顔と暖かい夕食が待っている、そう自分たちを勇気づけながら。
**
だが入社して半月ほど経った頃、現実は再び牙をむいてきた。
その日、綾小路天は新規の顧客を開拓すべく1人で外回りをしていた。見つけた販路は自分が主担当にしてもらえる。そうすれば人脈も広がり社内での扱いも違ってくる……千尋の谷から子供を突き落とす、と早紗部長は形容したが、たしかに難しくやり甲斐のある仕事であった。社長に気に入られているらしい同僚に差を付けるチャンスだ、と綾小路天は張り切って郊外を歩き回っていた。
……そう、この声が彼の耳に飛び込んでくるまでは。
「綾小路さま、ようやく見つけましたわ! どうして連絡をくださらなかったんですの?」
【14】 2002.12.26
森の中央にそびえ立つ天守閣。それは御手洗家の当主の居城であり、大財閥にして政財界の首領たる御手洗一族の権勢を表す象徴であった。そしてその偉容ぶりを、腕を組んだ1組の男女が見あげていた。
「いかがです綾小路さま? 今夜こそ綾小路さまに再会できるものと、薫は固く信じておりましたのよ。そのつもりで精一杯飾り付けましたの」
「…………」
綾小路天は言葉を失っていた。数知れぬ電飾に彩られ、並ぶ者なき森の中で広告塔のごとき明滅を放っている天守閣を見あげて……御手洗家の悪趣味ぶりは今さら驚くことでもないが、まさか天守閣をクリスマスツリーに見立てる発想があろうとは。
「ねっ綾小路さま、まるでわたくしたちの帰りを祝福しているようでございましょう?」
「あぁ……綺麗、だね……」
「きゃっ、綾小路さまったら、わたくしの方ばかりご覧になって……そんな本当のことをおっしゃらなくてもよろしいのに」
少女は天の言葉に頬を染めながら、天の右腕にがっしりとしがみついた。半ば血の気の無くなった自分の右腕を、しかし天は振りほどこうとはしなかった……その気になれば振りほどくのは簡単である。しかし御手洗家当主の妹であるこの少女の機嫌を損ねれば、自分も家族もただでは済まない。
「さぁ中へ参りましょう、お兄様がお待ちかねですわ♪」
はしゃぐ少女に手を引かれ、城門へと引きずられていく綾小路天。聖なる日の夜空を仰ぎながら、天はすっと瞼を閉じた。ご馳走を用意して自分の帰りを待ってくれているはずの黒髪の乙女の笑顔が、瞼の裏に一瞬だけ映って消えた。
**
「おぉ、遅かったではないか綾小路ぃ」
通い慣れた……通い慣れてしまった天守閣の階段を登ると、そこは御手洗家当主とその側近たちが集まるロビーであった。中央に敷かれた赤絨毯の先に座していた黒縁メガネの青年は、入室してきた綾小路天に待ちくたびれたように声を掛けた。
「……ただいま、戻りました……」
「まったく、連絡も入れずに何処をほっつき歩いておったのだ? 半月もの間、この師走の忙しいときに」
クリスマス用の赤いとんがり帽子に蝶ネクタイ、紺のジャージに真紅のスキー用ズボン……相変わらず服装センス絶対零度ぶりを恥ずかしげもなく晒け出している御手洗家当主・御手洗大は、やんわりと綾小路天を詰問した。
「仕事が……忙しくて、なかなか空いた時間がとれませんで……」
「うむぅ、下々の働き蜂どもの暮らしは良く分からんが、そういうものなのかもしれんな。どうだ綾小路、世間の風は冷たかろう? 俺の親衛隊に、もう一度戻してやっても良いのだぞ」
綾小路天、全ての集中力を傾けて口元の震えを抑える。
「……いえ、私めには、そのくらいの逆境がむしろ必要かと……」
「はーっはっはっはっ、なかなか殊勝な奴。まぁいい、俺はお前を気に入っているのだ。俺の恩を身を粉にして働くことで返そうというお前の心がけ、たとえ鼻クソほどの額であっても無下にはせんぞ」
「当然ですわ、わたくしの綾小路さまですもの!」
誇らしげに胸を張る、当主の妹の薫。他の側近たちからの羨望と嫉妬の炎が、視線の矢となって綾小路天の全身に突き刺さった。天は全身をこわばらせながら頭を下げた。
「……多大なるご恩義をいただき、恐縮至極に存じます……」
「はっはっは、今日は気分が良いぞ皆の衆。俺の親友にして忠実なる下僕が戻ってきてくれて、こんなに嬉しいことはない。さあクリスマスの夜だ、歌え、踊れ、騒ぐがよい」
側近たちは主君の歓声に拍手で応えた。ロビーの扉が開き、メイドたちがテーブルと料理を運び込む。和服を着た侍女たちが部屋の飾り付けを猛烈な勢いで進めてゆく。
「こっちに来い、綾小路」
喧噪に包まれ始めたロビーの中で、御手洗大は天を手招きした。そして耳を寄せる天に意外な言葉をささやいた。
「お前、親御さんに就職の連絡はしたのか?」
「い、いえ……それが、まだ」
「いかんぞ綾小路。息子が一人前になった姿を見せてやれば、親父さんの病気にもいい影響があるだろう。今すぐ親御さんのところへ行ってやれ」
「えっ、でも……」
気持ち悪いくらいに気前の良い御手洗大。天は思わず耳を疑った。だがそれに続いて、毒々しい企みの声が彼の耳に飛び込んできた。
「その代わり、今夜……久しぶりにアレをやるからな」
「……アレですか」
「そうだ。再び正義のために働けることを誇りに思え……集合は、今夜11時だ」
【15】 2002.12.27
「どういうことだ綾小路、いきなり志望校を公立に代えるとは! お前ならそんなアホ中学、居眠りしてても受かるだろうに」
態度がでかくてずうずうしくて、皆から嫌われている坊ちゃん刈りのクラスメート。テストの成績でオレに勝てないからといって、会うたびに難癖をつけてくる嫌な奴。何もこんなときにまで、ずけずけと踏み込んでこなくてもいいだろうに。
「……お、お前には関係ないだろ」
「いいや、ある! だいたい貴様、こないだまでは俺と同じエリート中学を受けると言っとったではないか」
「うるさいな、人にはそれぞれ事情ってものがあるんだよ」
「ふん、金か? 金なら任せろ、何のために俺がいると思ってるんだ」
びしりと指を突きつける、オレの自称ライバル。
「いいか綾小路、俺がお前より良い成績を取るまで、俺の前から逃げられると思うな!」
「……ああするしかなかった、あの時は……だけど……」
両親への就職報告をすませ、御手洗家当主に言われた集合場所へと足を進めていた綾小路天は、少年の日の過ちに思いを馳せながら深い深い溜め息をついた。
確かにあいつは資金援助をしてくれた。事故で寝たきりになった父さんを系列の病院に引き取ってくれ、治療費を払ってくれた。稼ぎ手のいなくなった母さんやオレの生活費を出してくれて、オレの学費まで負担してくれた。母さんはあいつのことを生き神様のように崇めているし、オレだってあれ以来、あいつに頭が上がらない。
だが、あいつは別に同情や親切でそうしてくれたわけじゃなかった。友情か何かだと勘違いしたオレがバカだったんだ……それに気づくのに時間は掛からなかった。中学校の入学式を終えた後、あいつはオレにこう言ったんだから。
《いいか綾小路、今日からお前は俺のものだ……今後もし俺より良い点を取ったら、1教科につき1日分、お前の親父さんへの投薬を止めるからな。よく覚えておけ》
……以来、綾小路天は御手洗大の言葉に逆らえなくなった。天はテストの時わざと奇数番目の問題を空欄にして提出し、丸暗記した問題を帰宅後に完璧に解きあげることで憂さを晴らした。得意だったサッカーでは後ろをどたどたと追ってくる大にバックパスをし、相手チームになった大が突進して来たときは味方の守備選手の邪魔をしてわざと道を空けた。そのストレスは学校帰りの草サッカー場で晴らした……が、チームの友だちに誘われて試合にエントリーされたときには、当日必ず腹をこわして『親友』に代理を頼むのが常であった。
このまま飼い殺しにされるわけには行かない。
さまざまな策と運を駆使して、ようやく『外で自分の実力を試す』ことの許しをもらった綾小路天。たった1日だけ許された職場探しにおいて、住み込みで働けることを絶対条件として自らに課したのは当然と言えよう。そして条件にぴったりの、黒髪の美人秘書が務める小さな会社に籍を置くことができた。これからが自分にとって本当の始まりだ、そう決意して新生活に望んだ彼であった。
……が、夢はいつか醒めるものである。
**
「遅かったな綾小路。親御さんは元気にしていたか?」
先に集合場所に来ていた御手洗大は、黒いライダースーツに身を包んでいた。彼が着るとダボダボの作業服にしか見えないのだが。
「はぁ、おかげさまで……」
「いかんぞぉ綾小路、ご両親に心配を掛けては……もっと早く連絡してやらんと心配するだろうが」
連絡したらお前に居場所がバレるだろうが。天は心の中で毒づいた。
「まぁよい。とにかく今日という日に間に合って良かった。クリスマスイブに浮かれ立つエセ成金どもに天誅をくだすには、俺たち3人が力を合わせねばならんからな!」
「そうですわ、お兄様、綾小路さま!」
御手洗大の隣にいた薫が声を合わせた。彼女もまた全身黒ずくめの衣装を着ている。もっとも綾小路天も同じ服装をしてこの場に集まらされたのだが。
「さぁ行くぞ、正義の味方・ウ○コ戦隊ダイレンジャー、ただいま出動だぁ!」
「格好いいですわ、お兄様!」
はしゃぎまくる御手洗兄妹。その横で綾小路天は、おざなりに右拳を突き上げた。
【16】 2002.12.28
○ンコ戦隊ダイレンジャー。資本家の跋扈する現代社会に現れた、弱きを助け強きをくじく由緒正しき義賊の末裔である。彼らの使命は成金どもが自宅に隠し持っている闇の資金を盗み取り、恵まれない窮乏家族たちに分け与えることにある。
戦隊は3名から構成される。まずは成金どもの隠し資産を屋敷から盗み出す役目を請け負う、勇猛果敢な斬り込み隊長・テンレンジャー。盗んだ札束から手数料を除いて残ったお金にサインと励ましの言葉を書いたメッセージカードを添える、リーダーにして正義の使者・ダイレンジャー。そして貧乏家庭の軒先に浄財を配ってまわる、愛と信義の女性隊員・カオレンジャーである。この3名が連携することにより、戦隊は最大限の戦果を発揮する。
彼らの正体は杳として知れない。彼らの恩恵にあずかった貧乏人たちにはダイレンジャーからの勇気の言葉とイラストが贈られているはずなのだが、貧乏人たちはそれを一瞥した後すぐに焼却処分してしまうため、ダイレンジャーの正体に迫る手がかりとして残らないのである。おそらく浄財を受け取った者たちは、警察の手から自分たちの恩人を守るためにあえて非情な手段をとってくれているのであろう。それはそれで構わない……ウン○戦隊ダイレンジャーは正義の味方であり、決して断じてこれっぽっちも、売名行為をしているつもりはないのだから。ダイレンジャーの前衛芸術の理解者を少しでも増やそうなどという不純な意図は、1ミリグラムもないのだから。
クリスマスイブ、聖なる夜。にわか成金どもが金箔混じりのワイングラスを堪能している一方で、籠のマッチが売れないと明日の食事にすらありつけないマッチ売りの少女がいる現状を、不正義と言わずして何と言おうか。歪んだ世界に愛と正義を示すため、ウ○コ戦隊ダイレンジャーは今日も行く!
パーフーパーフー、ファンファンファンファン。
「こちらテンレンジャー、警察に逃げ道をふさがれた。救援を頼む! オーバー」
「我に余剰戦力なし。そこで戦死せよ。言いたいことがあれば、いずれヴァルハラで聞く」
「そんなっ……!!」
「あやの……テンレンジャーさま、ご辛抱くださいまし。たとえ虜囚の辱めを受けても、私たちの大義のため、決して口を割ってはなりませんことよ!」
「そうだテンレンジャー、逃げるなら出来るだけ遠くへ逃げろ! 決して我らが秘密基地に近づいてはならんぞ! 力の限り走れっ!!(ガチャッ)」
「くっ……やるしか、ないのか……」
**
「まぁ、綾小路さん! どうしたんですか、その怪我……」
「へへへ、こんばんは……せっかくのクリスマスパーティだってのに、遅くなっちゃってすみません。ひとこと謝っておきたくて……」
マンションに戻った綾小路天を紫亜は驚きの表情で迎えた。天の着衣はボロボロ、腕も顔も傷だらけ……重傷こそ負ってはいないが、気力も体力も底をついている。苦笑いを浮かべながら倒れこみそうになる天を、紫亜はあわてて支えた。
「と、とにかく、お薬を塗らなくちゃ。入ってください、綾小路さん」
招き入れられた部屋は、まだパーティの華やいだ香りが残っていた。食べ散らかされたクリスマスケーキ、空っぽになったお皿、そこら中に落ちているプレゼントの包み紙……そんな中を、サンタの赤い衣装を着た紫亜が救急箱を抱えながら駆けてくる。
「ごめんなさい、散らかってて……そこに座ってください」
「すみません、お手間を掛けさせて。クリスマスパーティ……もう終わっちゃったんですね」
「綾小路さんを待とうと思ってたんですけど、みんな我慢できなかったみたいで……ごめんなさい」
既に寝室に引っ込んでしまったのか、部屋には他に誰もいない。紫亜さんと2人きり……そんな天の胸の高鳴りに気づく風もなく、紫亜はてきぱきと天の怪我を消毒し薬を塗って包帯を巻いていった。
「ハハハー、ごめんね紫亜さん」
「大丈夫ですか?」
「あーもう、バッチリ」
2人きりで居るのが気辛くて、つい軽口で応じてしまう綾小路天。だが紫亜の方は心配そうに眉をひそめた。
「いったい何があったんです?」
「いやぁ、ちょっと喧嘩して階段から転げ落ちちゃって……古い友人に会ってさ。昔の話をしてるうちに」
本当のことを紫亜さんに言ったって仕方ない。天はここに帰り着くまでに考えていた言い訳を口にした。
「そんな……」
「あ、気にしなくて良いんですよ。子供の頃からの腐れ縁だし、こんなのはもう慣れっこだし……」
あいつとの関係なんて話せるわけがない。オレがパーティをすっぽかして何をやってたかなんて、口が裂けたって紫亜さんには言えない。
「でも、喜ぶあいつの顔みてると、やっぱり時々は会ってやらなきゃなって……だから今日みたいに夜遅くなること、これからもあるかも知れないです」
「…………」
「心配してくれる紫亜さんや部長には悪いんだけど、子供の頃からの親友って、どっか特別なとこがあるし」
そう、あいつは特別。これから一生つきあって行かなきゃならないオレの疫病神。でも父さんが世話になってる以上は仕方ない……それに仕方ない、この女性にこんなこと話したって。
隠す想いが大きくなればなるほど、天は饒舌になっていった。目の前の女性が少しでも笑ってくれればいい、そうすれば少しでも救われる……いつしかそんな気持ちになりながら次々と偽りの言葉を繰り出す天。だが黒髪の少女は表情を緩めなかった。じっと唇を閉じたまま、吸い込まれそうな黒い瞳で天のことを見つめ続けていた。
「あはは、だから……ね、ねぇ紫亜さん?」
全てを見透かされてしまいそうな紫亜の瞳に、天はたじろいで言葉を切った。パーティ会場をしばしの静寂が支配した……そして天の鼓動が耳に聞こえるほど高まったころ、紫亜は静かな一言で、綾小路天のプライドのシャボン玉を弾けさせた。
「辛いんですね、綾小路さん」
【17】 2002.12.29
「辛いんですね、綾小路さん」
紫亜のその一言は、綾小路天の虚勢の砦を木っ端微塵にうち砕いた。瞳からあふれ出る涙と感情の津波を、もう抑え込むことは出来なかった。わーっと大声をあげながら、天は憧れの少女の胸にしがみついた。
「綾……」
「なんでだよ!」
心の奥からあふれる言葉が紫亜の抵抗を押し流した。黒髪の少女への遠慮も、義賊ごっこをしてきたことの恥じらいも、父親の病気のことも……すべてをイブの星空に放り出して、綾小路天は子供のように泣きじゃくった。
「オレ、一生懸命やってんのに……やりたいことも我慢して、目立たないよう辛抱して……なのに、なんでダメなんだよぉ」
「…………」
「やっと出られたと思ったのに……大切にしたいものができたって、そう思って張り切ってたのに……なのに、なのにオレ、大事な日にウチに帰ってくることすら出来ねぇよ!」
紫亜は押し戻そうとする両手を外し、天の背中へと回した。身体を優しく包んでくれる感触に、天のハートは完全に裸同然になった。
「頑張ってんのに……なんでいつも、こうなんだよ……いつも……いつも……」
天の嗚咽がマンションの部屋に響き渡った。イブの夜に似合わない、辛さと苦しさと寂しさの入り交じった泣き声が。てひひ商事のホープと呼ばれた好青年は今この瞬間、ただの泣き虫な少年に戻っていた。
……そして。天の嗚咽がようやく収まってきた頃、紫亜は仰向けの姿勢でチラッと壁掛け時計を見あげて、こう言葉を継いだ。
「綾小路さん……0時まで、あと2分あります……」
そして紫亜は天の頬を両手で挟むと、そっと自分の顔の正面に向けながらゆっくりと語りかけた。
「イブの夜は、まだ終わってはいませんよ」
「……紫亜さん……」
**
「うにゃ〜……あ、テンちゃんお帰りっス!」
「わっ、うわわぁっ!!!」
「……あ、美紗さん起きてらしたんですか」
突然飛び込んできた元気な声に、現実に引き戻された綾小路天はあわてて身を起こした。仰向けに横たわった紫亜のほうは、驚いた風もなく首を横に向けた。その視線の先には、白ウサギのパジャマを着た敏腕女社長が寝ぼけ眼をこすっていた。
「なんか台所で声がすると思ったっスけど、テンちゃんだったっスね。良かったっス〜♪」
「い、いやその……すみません、夜分遅くに」
「いいっスいいっス、全然オッケーっス」
「お、オレ、帰ります!」
顔を真っ赤にしながら綾小路天は弾かれたように立ち上がると、駆け足で玄関へと向かった。美紗はキツネにつままれたような表情のまま台所で彼を見送った。
扉をくぐって外に出た天に、あわてて見送りに出てきた紫亜が声を掛ける。
「綾小路さん……大丈夫ですか?」
「ああ、バッチリバッチリ……ってまでじゃないけど、だいぶすっきりした」
頬を少し赤らめながら天は笑顔で振り返った。それは苦笑いを浮かべていたさっきまでの表情よりは、確かに晴れ晴れとしたものだった。ほっと胸をなでおろす紫亜。
「綾小路さん、あの……」
「えっ?」
自分を見あげて口ごもる紫亜の瞳に吸い込まれそうになる。天はそのまま金縛りのように動けなくなった……そしてゴクリと唾を飲み込んだとき、紫亜は視線を切って俯きながらつぶやいた。
「……イブ、終わっちゃいましたね……」
「えっ? あ、あぁ……」
「……お休みなさい」
紫亜はそう言って軽く頭を下げ、静かにドアを閉めた。紫亜さんは何が言いたかったんだろう? ふいに胸をときめかせた綾小路天は、楽しい空想に浸りながら自分の部屋のドアを開けた。御手洗家のことも父親のことも警察に追われる身であることも、綺麗さっぱり頭から消えていた。
この聖なる夜のことを、天は決して忘れなかった。だが2人きりの時に生まれた微妙な雰囲気のことを紫亜と天が思い出すのは、まだ少し先のことであった。
……才女の憂鬱編へ続く。
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