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内容 ――剣鬼と仏僧―― 空の天蓋に眩く煌めく満月が、盃に満たされた酒に映り込んでいる。 凍てつく寒さの痛みは、しかし刃物で斬りつけられる熱さにも似ている。 弁えてしまえばそのいずれもが、凡庸な酒すらも美酒へと昇華する肴に相応しいものである。まして、杜氏が手塩に掛けた銘品なら尚のこと。 しかしながら、卓に腰を下ろしているのが鳴鳳決殺では、名酒の相伴に預かろうという奇特な輩は皆無である。 ――鳴鳳決殺の殺無生と言えば、ここ東離に於いては知らぬ者の居ない、羅刹や悪鬼と揶揄される悪名である。 過たず数多の刺客を退け、苛烈にして無謬の剣にて返り血を啜り続けてきた彼を指して、人はその二つ名で呼び畏れる。 こくり、と無生は酒を飲み下す。 「さて、いつまでそこに居るつもりだ。用向きがあるならば早々に出て来い。それとも俺を陰から見ているばかりで何か得る愉悦でもあるのか」 「いや、失礼した。拙僧の名は諦空。かくも立派な宴の席を見ては、ただの通りがかりが声を掛けるのも躊躇われ」 闇夜の色をした袈裟に身を包んだ坊主であった。 深々と坊主が頭を下げると、数珠がじゃらり、と乾いた音を立てる。 「行脚の修行中ではあるものの、今晩の寝床を見つけられず。もしどこか古寺でもあればお教えいただきたく」 ふん、と無生が鼻を鳴らす。 「寺、か・・・・・・俺が神仏を敬うような輩には見えまいに」 「さて、私の見込み違いでなければ、貴公には相応の哲学があると見受けられるが……それは信心からではないと」 「そういう貴様は、どうなのだ。貴様ほど袈裟の似合わぬ坊主も中々に珍しい。信仰を心の寄すがとする神職ならば、その瞳には盲目的な光が宿る。しかし貴様の顔からはただ諦観に満ちた絶望のみしか読み取れぬ」 坊主は、能面のような無表情を貫いたまま頷く。 「然り。我が内は虚ろ。信仰に答えがあると、そう教えられて袈裟に袖を通したものの、いまだ道は見つけられず・・・・・・ゆえの行脚なのです。どうかご協力頂けぬであろうか」 「生憎と、俺は寺社の場所など知らぬ。が、一夜の暖を取りたいのならば俺が提供しよう。どの道この宿は空き部屋ばかりだ。折角整えられた床を、誰も使わぬまま済ます意義もあるまい」 無生が、盃をかざす。 「私に施しを与えると仰せか。しかしただの一介の坊主にそこまで果たす意味がどこに」 「逆だ。貴様が俺に施すのだ」 「何も持たない私に、貴公は見返りに何を求めるというのだ」 「その達者な口よ。自らを虚ろと吐き捨て、意味を探して問答を繰り返すその口が欲しい。独り呑むのも飽いた故の、ただの気まぐれだ」 「坊主の問いは所詮は説教。興を満たすには不足すると思われるが」 「ああ、貴様が真っ当な坊主ならそうであろうとも。どう見ても貴様は退屈な人間ではあるが、しかしその退屈さもまた酒の味を変えるに一役買うくらいは出来ると見越しての依頼だ」 「・・・・・・・求められれば施すのは、聖職者の末席を汚す身としては必然やもしれぬな」 「――ハ、貴様が真に神仏に仕えるというのなら、先ずは俺を斬るべきだろうに」 「まるで斬り合うことをご所望のようにも聞こえるが、ならば私を斬る理由を問いたい」 「鳴鳳決殺は意味を求めて剣を取るのではない。剣を求めることこそ意味がある。斬り合い、必然を探求することこそが俺の剣の道よ」 名乗られた二つ名に、僅かに諦空が顔を顰める。 「口先をご所望と嘯いておきながら、真に求めるは命のやり取りとは……いやはや江湖に轟くその悪名、多分に脚色されているものだとばかり思っていたのだが、まこと真実であったか。なるほど、これだけ豪勢な卓に人影が他にないのはそのような理由であったか」 「俺の全ては剣の道に通じている。即ち俺と同じ卓に座るとはそういうことだ。それを弁えた上で、貴様はどうする」 「私に出来るのはただ暗愚のように問いを重ねることのみ。貴殿が至ったその哲学、その意味を、その価値を。その理解の果てに殺し合うことになったとすれば、それは必然として受け入れもしよう」 「ならば早々に卓に着けよ。貴様はこれより俺の客人だ。いつまでも棒立ちされていては、もてなす側の品格が問われる。何、案ずることは無い。勘違いされがちだが、俺はそもそも人と飲み交わすのが嫌いなわけではないのだ。俺とてたまには人恋しくなることもある」 「心にもないことを」 「いや、本心だとも。独りでは、斬り合うことさえもままならぬからな」 「つくづく物騒な御仁だ」 「躊躇わずに酒を口にしようとするような坊主に言われたくは無いな」 「さて私の口を所望したのは貴殿であった筈だったが」 「寡黙そうな佇まいの癖に、口の減らん男だ。全く、興が乗りすぎると斬りたくなってしまうのだがな……貴様は斬るより言葉で問う方が、いくらか面白そうだ」 二人の男の杯が交わされる。 無意味な一夜。 酒のみのために、侠客たちは言葉を交える。 坊主はそこに意味を見出す事は無く、剣鬼は凶刃に手を掛けることもない。 相対していながらも侠客たちの哲学は平行線であり、暇を潰すために注がれる酒は、無意味さこそを贅として甘美に時を満たす。 物語に於いて語られることのない幕間。当の二人にすらも忘れ去られる邂逅である。 ――闇に紛れて、剣鬼と坊主の宴席に聞き耳を立てていた、ある一人の男を除いて。 「ふむ。修羅の道に身を落としても、まだ興を嗜む心があったか。惜しいな……もし再び友を得たと勘違いしたのならば、その驕りをまたぞろ盗むのも吝かではなかったのだが……」 男は、ふう、と嘆息するようにして煙管を吐く。 「所詮は二番煎じと成ってしまうな。遊びつくしたオモチャでは、面白みには欠けるが……それでも、まだ出涸らしというわけではない。君のような修羅が居ると、世に狂乱の風が吹く。 狂乱と暴力は怨恨と驕慢の種を撒き、種が芽吹けばやがては極上の悪党が育つ。 あの僧もまたいずれ空虚の中に満たした絶望を、花粉の如くばら撒く日が来るやもしれぬ。それを刈り取ったとき、さて私はどれ程の甘露を得られるのだろうか」 呵呵と口端に笑みをたたえて、くるりと煙管を回すと、煙が霧のように男の体を包み隠す。 煙が薄れた後には男の姿は無い。 代わりに居るのは、一匹の鴉。 鴉は翼を広げ、ふわりと舞い上がる。 誰の気に留められることも無く、夜空の涼風を切って鴉が飛ぶ。 銀影に照らされる姿は雪のような白。羽ばたく音すら一切立てない。 幻獣のような美しさを讃えたその鴉は、かあ、と何かをあざ笑うような一鳴きを残して、深い闇に消えていく。 了