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ファーストキスのもらい方(中)

初出 2003年11月24日
written by 双剣士 (WebSite)
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 真っ白な風景の中を、御手洗大は駆けていた。
 そんな少年のすぐ後ろを、ひとつ年下の妹が走っていた。少女は泣きそうな声でたった1人の兄を呼び、その背中を追っていた。そして少女が転ぶ度に、少年は駆け足をしながら立ち止まって振り返るのだった。
《お、お待ちになってぇ、お兄様ぁ》
《どうした薫、そんなことで御手洗家の長女が務まるものか、立て、立って俺について来い!》
 守り役たちが自分に対してそうしたように、少年は決して妹に手を差し伸べようとはしなかった。信じているからこそ、一人前になって欲しいからこそ厳しく接することが出来るのだと少年は自負していた。そしてそんな兄の気持ちを、妹も分かってくれるはずだと信じていた。
《お兄様……ぐすっ、お兄様ぁ》
《…………》
《……うわああぁぁ〜〜ん……》
 歩くことを放棄した妹の声が、大きな泣き声となって少年の耳に届いてきた。御手洗大は溜め息をつきながら立ち止まった。仕方がない、妹にはまだ御手洗家の掟は厳しすぎるようだな。ここは寛大なる兄として、傷ついた妹に背中を貸してやるくらいのことはしてやるか……。
 ところが振り返った少年の視界には、意外な人物の姿が映った。
《どうしたの? いい子だから泣かないで。どう、僕と一緒に遊ばない?》
《ぐすっ……う、うん》
 自分の分身ともいえる妹のそばには、どこからか現れた軽薄そうな美少年がしゃがみこんでいた。そして美少年の差し出した手のひらを少女は恐る恐る握っていた。御手洗大にとってそれは、大切な妹を堕落の道へと引きずり込む天使の姿をした悪魔の振舞いに見えた。
《待てぇっ、薫、そんな誰とも分からんやつの言うことを聞くんじゃないっ!》
 だが正義の鉄槌をくだすには、その悪魔との間にはあまりにも距離がありすぎた。
《さぁ、一緒に行こう。君とならきっと楽しいよ》
《はい……あ、あの、わたくし薫って言います》
《薫ちゃんか、いい名前だね》
《……えへへ》
 手を伸ばして叫びながら妹のほうに駆け戻る御手洗大。しかし大切な妹は見知らぬ少年に手を引かれたまま、見る見るうちに白い風景の中に溶けていった。そして兄のほうを一度も振り返ることのないまま、少女の姿は消えてしまった。
《か……薫ぅ〜!!!》
 声をからして叫んだ少年の叫びは、白い世界の奥へと吸い込まれていった。走り疲れ叫び疲れて少年はついに膝をついた。そして駆けるのをやめた途端、一人ぼっちになったという実感が津波のように少年の胸に押し寄せてきた。
《俺は……どうしたらいいんだ……》
 たった1人の妹の薫。それを誘拐していった謎の少年。そして白い世界に取り残された自分……心細さに彼は震えた。妹を探すにも当てはない。1人で帰るにもどこへ向かったらいいのか分からない。道を聞こうにも、この白い世界には誰もいない……。
《あ……あ……》
 御手洗家の長男というプライドの殻は、あっという間に剥がれ落ちた。かしずく執事も忠実なる部下たちもいない世界において、そんなものは何の役にも立たなかった。どうして自分がこんな世界にいるのかさえ少年には思い出せなかった。すがるものも頼るものもないちっぽけな自分。震える肩を少年は抱きしめた。誰ひとり、何ひとつない白い世界の中にたたずむ自分。今日も明日も明後日も、これからもずっとそうなのかもしれない。自分がこの世界に取り残されてしまったことを、誰も気づいてくれないままかもしれない。
《……泣いちゃダメっスよ……》
 そのとき。御手洗大の頭上から、柔らかい光と優しい声が降ってきた。ふと見上げた少年の目に映ったのはまばゆいばかりの光の渦だった。そして目が慣れるにつれて、その光は美しい女性の姿へと変わっていった。
《大丈夫っス、私がいるっスから。いつでも一緒にいてあげるっスから》
 少年をいざなう優しい声。彼はその声の持ち主に覚えがあった。天の岩戸が開いたかのような感慨に胸を打たれながら、少年は万感の思いを込めて彼女に向かって両手を広げた。
《ああ、あなたですね。やはりあなたなのですね、我が心の天使、マイスイートエンジェル、み……》

                 **

「……美紗さん!」
 自分の叫び声で白昼夢から覚めた御手洗大は、きょろきょろと辺りを見渡した。そこには何事もなかったかのような喫茶店の風景が広がっていた。柔らかい日差しの差し込む店内、談笑する客たち、慎ましげにコーヒーを入れるウェイトレス。あまりにも平凡な光景に御手洗大は一瞬我を忘れかけ……数秒後に、自分がなぜここに立っているのかを思い出した。
「……そうだ、薫は? 綾小路のバカは、いったいどこにいるんだ?」
「あ、気が付かれましたか」
 にこやかに微笑む黒髪のウェイトレスが、大の疑問に答えた。
「綾小路さんなら、ついさっきお店を飛び出していかれましたよ。薫さんと手に手をとって」
「なにぃ……?!」
「薫さんに明日の試験がうまくいくおまじないをしてもらったみたいで。わたし、良かったですねってお祝いを申し上げたんですけど、そうしたら綾小路さん、涙が出るくらい嬉しがってくれて」
 鈍感な紫亜の説明に対し、そりゃちがうだろ、と店内の全員が無言で突っ込みを入れた。しかし朴念仁な御手洗大だけは、彼女の説明を言葉通りに受け止めた。
「そうか……さっきの夢は、一種の予知夢だったわけだな……」
 立ったままで何事かを考え込み始めた御手洗大。てっきり天たちを追いかけて店を飛び出していくものと思っていた紫亜は、意味不明なつぶやきを洩らす少年に怪訝そうな表情を向けた。
「あの……薫さんを、探しにいらしたんじゃありませんでした?」
「薫を……そうか、あいつをただ追いかけても効果はないということだな……あいつの目を覚まさせるには、俺と綾小路の差というものを見せ付けてやらねば……こうなっては明日の試験、ますます綾小路に負けるわけには行かぬ。すると俺がいま採るべき行動は……」
 腕を組んだまま独り言を続ける小学生。お世辞にも、傍で見ていて気持ちのいい光景ではない。黒髪のウェイトレスは興味を失ったように少年に背を向けると、再びコーヒーを注ぎなおした。そして彼女を待つ客のテーブルへと軽い足取りで向かっていった。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 華やかさはないが誰もがほっとするような笑顔。すっかり喫茶店tricotの看板となったアルバイト少女の表情に、客の表情も釣られてほころんだ。黒髪のウェイトレスは静かに一礼してからカウンターに戻ろうと振り返り……すぐ背後に立ちふさがる背の低い少年を見て小さな悲鳴を上げた。
「きゃっ……」
「もののけ女。お前に聞きたいことがある」
 紫亜の背後へと音もなく瞬間移動してきた御手洗大は、ふてぶてしさを取り戻したように黒髪のウェイトレスに詰問した。
「おい、もののけ女。お前、美紗さんの家に居候していると言っていたな?」
「は、はい……?」
「美紗さんは何処にいる? 隠し立てすると為にならんぞ!」
「あ、あ、あのぉ……」
 さきほどの静かさはどこへやら、居丈高に指を突きつける御手洗大。そのあまりの豹変振りに付いていけず、いきなり尋問される立場になった紫亜は怯えるようにトレイを胸に抱いた。

                 **

「まったく、もののけのくせに使えないやつ。なんで俺がこんなことをしなきゃならんのだ」
「ごめんなさい……」
「あ、あぁあぁ気にするな。無理を言っているのは俺のほうなのだからな、うむ」
 その日の夕方。喫茶店tricotのアルバイトを終えて買い物をしてからマンションに戻る紫亜の隣には、あの坊ちゃん刈りの勤勉少年の姿があった。紫亜の荷物の一部を手に下げた松葉杖の少年は偉そうな口を叩きながら、隣の少女よりもはるかに危なかしい足取りでフラフラと前に進んでいた。
 御手洗大にとっては不本意極まりない事態であった。黒髪のウェイトレスは同居人の居所を知らず、一緒に住んでいるマンションの番地や地図を書くことすら出来ないというのである。頼りにならないウェイトレスのことを少年は激しく罵倒し、少女は恐縮するばかりだったのだが……それは喫茶店のマスターや客たち全員を敵に回す行為に他ならなかった。肩身は狭くとも他に行く当てはなく、かといって『明日の試験のために美紗さんに励ましてもらう』などと公言して御手洗家の執事たちに捜索を命じるわけにも行かない。少年としては飲みたくもないコーヒーや食事を注文し、閉店時刻まで待って帰宅する紫亜に同行する以外には方法がなかった。自然に愚痴も多くなるというものであろう。
「それにしても、戻ってみたら美紗さんが帰ってきてない、ということはないだろうな」
「分かりません……樋口さんにおイモを食べさせてくるって、お昼ごろにそう言って飛び出していったきりですから」
「また樋口か……美紗さんといいお前といい、何であんな男にそんなに世話を焼くのだ? たかだか全国模試100位にも入れない凡人ではないか」
「すみません……」
「あ、いや、お前を責めているわけではないのだ。謝らなくてよい、うん」
 いつも誰かの批判や不満へと話題が向かい、気弱な声で謝ろうとする紫亜をなだめる。万事がこんな調子で、2人の会話はちっとも盛りあがりを見せなかった。御手洗大は失敗するたびに自問を繰り返した。
《う〜む、このもののけとの会話は疲れる……子供の頃から帝王学しか学んでこなかった俺には、こういうやつの機嫌をとる方法など分からぬしな。だが美紗さんの心証をよくするためには、こいつを無下に扱うわけにもいかぬし》
 御手洗大にとって、これは失敗の許されない作戦だった。実力さえ出せれば綾小路など敵ではない、これまでは運に見放されていただけだ……そう固く信じている彼にとって、さっきの白昼夢は天の知らせ以外の何者でもなかった。美紗さんを味方につければ綾小路の強運にも対抗できる、あわよくばその先も……つい先ほど自分の妹がライバルに施した行為を脳裏に思い浮かべながら、御手洗大は無意識のうちに目を閉じて唇を突き出した。
「御手洗さん……?」
「うん、あぁいや、なんでもない、なんでもない」
 心の奥をも見通すような紫亜の黒い瞳。御手洗大はあわてて妄想を振り払い、顔を赤らめながら表情を引き締めた。しまった、という思いが頭の中を駆け巡った。このもののけ女、のほほんとしているようで余計なところだけはきっちりと見ている。神聖なる俺と美紗さんの絆をこいつがどうにかできるとも思えんが、今回は今日1日だけで成果を出さねばならないのだ。こいつに足を引っ張られでもしたら、少々面倒なことになる。
「な、なぁ……なにか、欲しいものはないか? この際だ、好きなものを言ってみろ」
「あ、ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
 懐柔を試みた御手洗大の提案はあっさり空振りに終わった。しかし少年はそれを紫亜の無欲さゆえとは取らなかった。生意気にもこいつ、俺に借りを作りたくないというのか? まずいまずい、やはり思ったとおりだ。こいつを手なずけておかないと厄介なことになる。
「まぁそう言うな。そうだな、あの店がいい。ちょっとこっちへ来い」
「あ、えっ……きゃっ」
 御手洗大はいきなり黒髪の少女の手を引いた。しかし両手に荷物を下げた細身の少女と松葉杖をついた少年である。突然の行動に紫亜の上体が泳いだ。そして次の瞬間、バランスを崩した2人は派手に転倒して荷物を路上にぶちまけた。

                 **

「おいどうした、しっかりしろ!」
「う……あ……」
 荒い息をついてうずくまる少女を御手洗大はあわてて抱きかかえた。こんなはずではなかった、まったくそんなつもりはなかったのだ。転んで膝小僧を擦りむいた少女にいいところを見せようと、御手洗家秘伝の薬効あるお札を素早く傷口に貼り付けてやったのが間違いの元であった。相手がもののけ女であることを思い出したときには後の祭り。黒髪の少女の表情は蒼白に変わり、脂汗をにじませながら苦しみ始めたのである。
「まったく、もののけのくせに怪我などするから……いや今はそれどころではなかったな。安心しろ、もうお札は外してやったぞ」
「う……はぅ……」
 紫亜の苦しむ表情は一向に治まる様子がない。御手洗大の頭の中は疑問符でいっぱいになった。どうすればいい、こういうときはどうすればいい。美紗さんになんて言い訳すればいい、いやそれ以前に冷たくあしらわれたらどうしよう。
「はぁ……はぁ……」
「どうした、何か欲しいのか? 水か、薬か?」
 何かを探すかのように、伸ばした紫亜の両手が宙を舞う。御手洗大は必死で呼びかけた。美紗さんに会う前にポイントを稼いでおくはずが、これでは台無しになる。なんとしてもこいつに元気になってもらって、俺が如何に手厚く看病したのかを語ってもらわねば。
「どうした、何が欲しい?」
「う……」
 うつろな目をしたまま小さく動く紫亜の唇。切れ切れの言葉を聞き取ろうと、御手洗大は耳を少女の前に近づけた。すると伸ばされた紫亜の両手が首に回され、御手洗大は思いもよらぬ力で頭を引き寄せられた。
「な、なにを……!!!!!」
 驚愕した少年の言葉は、柔らかい唇でふさがれた。甘くとろけるような痺れが御手洗大の脳髄に伝わってきた。そしてそれと同時に、まるで魂を吸い出されるかのような強烈な陶酔感が彼の全身を襲った。
《これが、これは……俺は今、ひょっとして……あぁ、なんだこれは、これは一体なんなのだ……》
 理性などとっくに飛んでいる。御手洗大は初めて味わう甘美な感覚に身を任せた。そして高い空から飛び降りるかのように、あっさりと意識を手放した。


「う、嘘だろ……」
 そして。ここにもう1人、意識を現世から旅立たせようとする少年がいた。彼の瞳には偶然見かけた、熱いディープキスを交わす少年と少女の姿が痛いほどに焼きついていた。

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