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ファーストキスのもらい方(上)

初出 2003年11月24日
written by 双剣士 (WebSite)
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 広大な敷地と数多くの使用人を有し、武道・茶道・陰陽道などの世界において揺るぎなき名声を博している名門・御手洗家。その屋敷の中央に位置し、屋敷の住人たちが畏敬のまなざしを向ける、1年を通して決して光の差すことのない和室。かびた匂いと共に薄ら寒い冷気が漂う異質な空間。その部屋の中央に、坐禅を組んだまま固く目を閉じ続ける1人の少年の姿があった。
《心頭滅却、心頭滅却……》
 心の中でそうつぶやきながら少年は身を引き締めていた。歴代の御手洗家当主の写真が少年の周囲にずらりと並ぶ。坊ちゃん刈りの少年の額には深い皺が刻まれ、その皺に沿って脂汗がたらたらと滴り落ちていた。彼の他には誰も居ないのに、重苦しい圧迫感を感じる空間……そこは少年にとって聖なる空間であり、翌日の全国模試に向けて精神を集中する恒例の儀式を行う場でもあった。
《ご先祖様、どうか見ていてください……この御手洗大みたらい ひろし、明日の模試では由緒ある御手洗家の世継ぎに恥じぬ成績を残して見せましょうほどに……》
 心頭滅却といいつつ現世利益を求めているところがおかしいが、本人にとっては切実なことであった。名門の嫡男として生を受け、並み居るライバルたちを蹴落として頂点に立つことを義務付けられている彼の立場からすれば、勉強の成績などは本来『勝って当然なことのひとつ』でしかない。しかし未だ小学生の身である御手洗大にとっては自分の実力を世に知らしめす数少ない機会であり、全身全霊をこめて打ち込まねばならぬ戦いの場であった。
 まして……まして、未だに凡人どもを見下す結果を残すことが出来ぬとあっては!
「おのれ……おのれ綾小路……」
 呪詛の言葉が無意識のうちに唇を震わせる。名を口にするも汚らわしい男。模試のたびに自分よりひとつ上の順位に座り、最近では全国首位の座すら射程に収めた強運の持ち主。どれほどの名家の出かと思っていたのに、転校して席を並べた奴の姿はどう見ても軽薄な女たらしにしか見えぬ。どうして、あんな奴にこの俺が……。
『心が乱れておるな、未熟者よ』
 そのとき、御手洗大の脳裏に重々しい声が響き渡った。少年はまぶたを閉じたまま深々と平伏した。この部屋で時々聞こえる、ご先祖様のお叱りの声である。
『勝利こそすべて、敗北は恥辱……御手洗家の家訓を忘れてはおるまいな』
「は、ははぁっ、肝に銘じて……」
『相手のある戦いじゃ。戦いのすべてにおいて完勝を収めよとは言わぬ、重要な戦いにおいて勝ち切ることこそ肝要……そう思うてお主の無調法を見過ごしてきたが、一度も乗り越えられぬ相手がいるようでは先が思いやられるな。お主、嫡男という立場にあぐらをかいておるのではないか』
 ご先祖様の言葉はいつも手厳しい。御手洗大は額を畳にすり付けた。結果を残せぬ今の自分は、何を言われようとも耐えるしかない。
「そ、そのようなこと、決して……明日は、明日こそは……」
『お主、その言い訳をこれまで何度口にした?』
 何も言い返せず、御手洗大は唇を噛み締めた。明日こそは正念場……唇からにじむ血の苦さとともに決意を固める彼であった。全国首位でなくてもいい。2番でも100番でも構わぬ。断じて、断じて綾小路にだけは負けてなるものか!
『その決意、しかと見届けたぞ』
 ご先祖様には何もかも筒抜けである。厳しくも暖かい言葉に、御手洗大ははっと顔を上げた。その瞬間、部屋の壁に並ぶ歴代当主の写真から、幾重にも重なる波動が少年の胸に流れこんできた。
『よいか、今度の模試において綾小路とやらの後塵を拝することがあれば、二度とこの屋敷の敷居をまたぐことは出来ぬと思え!』
「ははあっ!!!」
 少年は再び平伏した。

                 **

 一方。御手洗家の家督を背負わぬ少女の立場は、いたって気楽なものであった。
「ふふふ〜ん、今日も上出来ですわ♪ 私の愛の結晶を、さっそく綾小路さまに召し上がっていただかなくては♪」
 唇からハートマークを紡ぎながら、少女は満足そうにつぶやいた。もともとお菓子づくりは得意であったが、喜んで食べてくれる殿方がいれば腕も振るいようがあるというもの。美味しいよ薫ちゃん、って言ってくれる愛しの美少年の笑顔が手に取るように脳裏に思い浮かぶ。ただそれだけで、少女の頬はアップルパイのように紅潮してしまっていた。
 やっぱり大和撫子たるものは、殿方に尽くしてこそ輝くものですわね!
「くぉらぁ、薫ぅ!」
 突然割りこんだダミ声が、御手洗薫みたらい かおるを夢の世界から引き戻した。しぶしぶ開いた双眸の前では、坊ちゃん刈りに黒縁眼鏡、ダサい着こなしにふてぶてしい態度を兼ね備えた、彼女の思い人とは別の次元に住む醜悪な生き物が荒い息をついていた。
「お……お前、よくもまぁ実の兄をそこまで悪く言えるな!」
「なんのことですの、お兄様?」
 しゃあしゃあと言い放つ妹の態度を見て、御手洗大の脳みそは沸騰しそうになった。転校するまでは綾小路のことを『兄の仇敵』と呼んでいたくせに、実物を目にした途端ころりと豹変した妹の薫。綾小路の毒牙に魂まで吸い取られていながら嬉々としていられる女という生き物のことを、彼は到底理解できなかった。薫に言わせれば『真実の愛を知らない子供だった自分を、綾小路さまが救い出してくださった』そうだが……すると俺の立場は?
「俺が試験を控えた大事な時期だというに、お前また綾小路のところへ行く気か!」
「いやですわ、お兄様。綾小路さまのところへ“行く”だなんて……まだ気が早うございます。きゃっ♥」
「きぃーっ! だいたい何だ、その巨大なケーキは! 俺の気も知らずに、せっせと綾小路に貢ぎおって!」
「あらぁ、だって甘いものを口にすると頭が元気になりますのよ♥ 明日は大事な試験があるんですもの、綾小路さまには頑張っていただかなくては♥」
 御手洗大はぎりぎりと歯を噛みしめた。大事な試験があるのは百も承知で、綾小路の方に肩入れするというのか、こいつは!
「う、うう、ううう裏切り者! お前、もう俺のことはどうでもいいと言うのか? 俺と一緒に“打倒綾小路”を叫んでいた頃のお前は、どこへ行った?」
「さぁ? 子供の頃のことをおっしゃられましても……急いでますので失礼しますわ、お兄様」
 駄々っ子には構っていられない、とばかりに薫は視線を外すと、巨大ケーキを乗せた台車を押してずんずんと進み始めた。目指すは玄関、そこから愛しい少年の元へと続く道……だがそこに、旧弊にしがみつく俗物の権化が立ちはだかった。外界の光を背負った俗物のシルエットを、薫は心底から醜いと思った。
「ここは通さん! 目を覚ませ薫!」
「……邪魔です、お兄様」
 妹の冷ややかな一言が御手洗大の心臓に突き刺さった。何をするにも自分の後ろにくっついてきた薫、試験で負けて悔しがる自分と一緒に泣いてくれた薫……仲が良かった頃の思い出が走馬燈のように脳裏を駆けめぐる。こんな冷たい言葉を吐く妹は、何かに取り憑かれているに違いない。それもこれもあの女たらしのせいだ。何もかもあいつの……。
「おのれぇっ!!」
「きゃあっ!!!」
 いきなり御手洗大はケーキの台車に体当たりをした。飛び散ったクリームが顔や髪に付着するのも構わず、床に転がった巨大ケーキに怒りを込めてパンチを叩きつける。あたかも綾小路本人を相手にしているかのように。
「お兄様、やめてっ」
「おのれ綾小路、きさまのせいだ、何もかもきさまの……」
 その先を口にすることは出来なかった。次の瞬間、御手洗大の腹部に衝撃が走り、前傾した身体が一瞬宙に浮き……それに続いて乾いた音と強烈な痛みが彼の耳に届いた。
 どばきぃっ!
 御手洗大の意識が暗転する。彼は数メートルも吹き飛ばされ、ぶざまに廊下の隅に転がった。顔をしかめた少年が腹を押さえながら眼を開けると、そこには涙目になった妹が薙刀を持って仁王立ちしていた。そしてまだ息を継げぬ少年を見下ろす少女の口から、容赦のない言葉の刃が降りかかった。
「なんてことをするんですの? ひどいですわ! 鬼! 悪魔! 綾小路さまが何をしたと言われますの? 薫のなにがいけないと言われますの?」
「……か、薫……」
「綾小路さまはお兄様より優しくて、お兄様より凛々しくて、お兄様よりセンスがおありで、お兄様より勉強がお出来になって、お兄様よりスポーツが得意で、お兄様より社交性がおありになる、それだけじゃありませんの!」
「……ぐぅ……」
 薫の言うことはすべて当たっている。当たっているからこそ御手洗大は彼に敵意を抱くのだが、綾小路の魅力の虜となった妹にとってはそのすべてが美点として映るらしい。
「素敵な殿方にあこがれる薫がいけないとおっしゃるの? 共に生涯をと定めた殿方のために尽くすことがいけないとおっしゃるの? 愛する方の成功を自分の幸せとすることが、乙女の道に反するとでもおっしゃるの?」
 どんどん暴走する薫の妄想。断っておくが御手洗薫の綾小路に対する思いは、現時点では彼女の片思いでしかない。しかし恋する乙女の思いこみの強さというものは、古今東西にわたり違いはないのだ。
「ひどいです、あんまりですわ! もてない男のひがみ! シスコン!」
「…………」
「いいですわ、こうなったらお兄様は敵です! 薫は綾小路さまの元に参ります!」
 御手洗薫はずんずんと歩き出し始めた。兄の脇を通るときに蹴りを1発入れることも忘れなかった。玄関で靴を履いた薫は、最後に一度だけ振り返った。
「勝利の女神を手放したことを、後悔するがよろしいわ、お兄様!」
「ま、待たんか薫ぅ〜」
 いまだ立ち上がれぬ兄を尻目に、御手洗薫は疾風のように屋敷を飛び出していった。後には腹を押さえてうずくまる少年と、散乱したケーキの破片、そして薫の残した叫び声の残響がわんわんと残った。それらは御手洗大に自らの無力さを痛感させるに十分であった。
「……業腹だが、止むをえん」
 御手洗大はよろよろと立ち上がった。明日が試験だとはいえ妹の身には代えられぬ。何が何でも妹を綾小路の手から取り返し、薫の目を覚まさせねばならぬ。それが御手洗大、この選ばれし正義の使者の定めであるのならば!
「待ってろよ薫、俺が悪魔の手から救い出してやるからな……」
 救われる当人にすら期待されていない正義の使者(自称)は、杖でその身を支えながらとぼとぼと玄関口に向かった。

                 **

 そしてその頃。御手洗大に名指しされた悪魔の化身は、喫茶店tricotで本物の悪魔と楽しげに談笑していた。
「それでさ……だったんだよ、これが」
「うふふ♪ 楽しそうですね」
 マスターが暖かい視線で見つめるなか、毎日のように喫茶店に顔を出すようになった甥っ子は黒髪黒瞳のウェイトレスに一生懸命に話しかけていた。幸いまだ客は少なく、ウェイトレスの手は空いている。カウンター越しに交わされる若い2人の語らいを、遮る理由は何もない。
「ねぇ、紫亜さんも一緒に行かない?」
「そうですね、樋口さんや美紗さんの都合も聞いてみないと……」
「……そ、そうだね。湖太郎には俺からも話してみるよ」
 紫亜さんが折に触れて湖太郎の名を出すのは仕方がない、隣だし……綾小路天あやのこうじ たかしは自分にそういい聞かせた。
「私、たくさんお弁当を作っていきますね」
「本当? ありがと紫亜さん、楽しみにしてるよ」
「お口に合うといいんですけど」
 にこやかに微笑む少女。釣られるように綾小路天の表情もゆるんだ。出会ったときからずっと憧れ続けてきた、内気な少女との初デート……期待に胸を膨らませた、その瞬間。
「くぉらぁ女たらし、薫をどこへやったぁ!」
 突風のように飛び込んできたどす黒いダミ声が、綾小路天の幸福なひとときを空の彼方へと吹き飛ばした。しぶしぶ振り返った先では黒縁眼鏡をかけた天の自称ライバルが、頭から湯気を上げそうな勢いでこちらを睨みつけていた。もっとも喫茶店の窓に顔をへばりつかせた彼の姿は威圧感の欠片もないものだったが。
「こんにちは、御手洗さん」
「また来たのかよ、ウ○コ……」
 にこやかに挨拶をする紫亜と、いかにも不機嫌そうに顔をしかめる天。憧れの少女の前で女たらし呼ばわりされては無理からぬところと言えよう。そんな彼らの硬軟とりまぜた視線を浴びながら、御手洗大はどこか痛々しげな足取りで店内に入ると天に向かってピシッと指を突きつけた。
「綾小路! きさま、余裕を見せて俺をたばかろうとしてもそうは行かんぞ! 薫が来てるのは分かっておるのだ、とっとと白状して俺に許しを乞わんかぁっ!!!」
「まぁ、それは大変ですね」
「し、紫亜さん、あいつの言うことなんか真に受けないでよ。俺さっきからずっと紫亜さんと一緒にいたじゃない」
 心配そうに頬に手を当てるウェイトレスとそれを取りなす宿敵の姿を目の当たりにして、御手洗大のボルテージは上昇の一途を辿った。
「きさま、今後に及んでシラを切る気か! もののけ女と口裏を合わせて誤魔化そうとは浅はかな奴! いいや貴様は稀代の女たらし、女の陰に隠れることなど恥とも思わぬ卑劣漢であったな。よく分かったぞ、今こそその性根、この俺が叩き直してくれる! 男なら尋常に勝負せいっ!」
「あぁ、あの、こいつ訳わからないこと言ってますけど、とりあえず俺以外にとっては無害な奴ですんで。気にしないでやってくれませんか」
 支離滅裂な大の言い分は店内の客からの失笑を誘い、相対的に綾小路天に同情を集める結果となった。怒気を軽々と受け流された御手洗大は軽く息を吸い込むと、黒縁眼鏡の角度を直しながら得意げに胸を張った。
「……まぁいい。俺と勝負するのがそんなに怖いのなら、今日のところは見逃してやろう。どうせ明日の全国模試で雌雄を決することになるのだからな」
「……(呆れ顔)……」
「それにしてもだ。俺の妹を人質にするとは、いくら何でも卑怯千万な振る舞いではないか。きさま、そこまで俺の実力を恐れておるのか?」
「……そうなんですか、綾小路さん」
「ち、ちょっとちょっと紫亜さん」
 このまま黙っていては紫亜に何を吹き込まれるか分かったもんじゃない。綾小路天は嫌々ながら自称ライバルの方に向き直った。松葉杖を突きながら苦しそうに腹を押さえた少年の姿は無惨の一言に尽きたが、眼鏡の奥の瞳だけはメラメラと燃えさかっていた。どんな誤解や勘違いをしてるのかは知らないが、どうやら根も葉もないものではないらしい。
 おい○ンコ、と言いかけて綾小路天は口をつぐんだ。仮にも飲食店の中での会話である。天は目の前に立つ同級生に呼びかける三人称にしばし迷って……結局それを省略した。
「……で、なにがあったんだよ。薫ちゃんがどうかしたのか?」
「薫ちゃん、だと! 貴様よくも馴れ馴れしげに……どうもこうもあるか。俺を足蹴にしたうえに、貴様のもとに行くと言って家を飛び出したのだ! 耳くそほどの良心でも貴様にあるのなら、さっさと薫をここに連れてこい!」
「……要するに兄妹喧嘩ってことかよ……」
「仲がよろしいんですね♪」
「まったく。そんなことで店に怒鳴り込んでこないで欲しいよな」
 ひそひそと言葉を交わす2人の姿が、ますます御手洗大の癪に障った。
「ええい問答無用、綾小路、さっさと薫を呼んで来んかぁっ!」
「だからぁ、俺はなんにも知らないって。ずっとこの店にいたんだからさ」
「分かっておるわ、貴様の貧相な生活パターンを俺が知らぬと思うか! 薫は真っ先にこの店に来たはずなのだ、さぁ出せ、すぐ出せ、ここへ出せ!」
「……はぁっ」
 まともに相手をするのも馬鹿らしい。溜息をついた天が軽く目配せすると、紫亜は軽く会釈をして店の奥へと戻っていった。天はカウンター席から立ち上がると、ゆっくりと御手洗大に向かって歩を進めた。全身傷だらけの少年は狼狽した。
「な、なにをする気だ貴様、暴力反対、家内安全!」
「さっさと出て行けよ、店の迷惑だからさ。薫ちゃんは来てないって、さっきから言ってるだろ」
「ふん、口先で誤魔化そうとしてもそうはいかんぞ! 女たらしの貴様の言うことなど……」
「じゃ、薫ちゃんが来たら電話してやるからさ。それでいいだろ」
「ふ、ふん、寛大なところを見せようとしても俺は騙されんぞ。見ていろ綾小路、明日の模試では貴様の身の程を思い知らせてやるからな!」
「まだそんなこと言ってんのかよ……」
「そうですわ、綾小路さまが負けるはずがございません!」
「そうそう……って、えっ?」
 突然すぐ後ろから響いてきた少女の声。綾小路天は反射的に振り返った。すると小さくて温かい手のひらが彼の両頬を挟み込み、続いて柔らかい感触が少年の唇を襲った。

「綾小路さま、わたくしが勝たせて差しあげます!」

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