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ファーストキスのもらい方(下)

初出 2003年12月08日
written by 双剣士 (WebSite)
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 白い白い、どこまでも純白に包まれた1人だけの世界。温かくて柔らかい雲の中にいるような浮遊感。嫌なこと全てから身を守ってくれるような優しいまどろみの中に彼はいた。御手洗家のことも妹のことも試験のことも、何ひとつ彼の安息を妨げるものはない。太陽の光をいっぱいに浴びようとする木の葉のように、全身の力を抜いて心地よい霧に身を任せる。
《…………》
 何かに悩んでいたような気がするが、それももう遠い昔のこと。こんな穏やかな気分になれたというのに、昔のことを思い出すなんて野暮なことはよそう。試験がなんだ、ライバルがなんだ。1番になれなかったからといって何だというんだ。今の俺には、この白い世界がある。何もかもが許される至福の現実がある。俺はなんてちっぽけなことで、今まで大騒ぎしていたんだろう。
「……!! …………ま!」
 遠い遠いどこかから誰かの声がする。しかし今は、そんなものはどうでもいい。頼むから俺の平穏を邪魔しないでくれ……。
「……さま!! ……に………さま!」
 誰かの声は次第に大きくなってくる。俺のことを呼んでいるのだろうか。どこのどいつだ、そんな無粋なことをする奴は……せっかくいい気分でいるというのに、この俺様が相手をするとでも思っているのか、片腹痛い。
「ちっとも……ませんわね。こうなったら……」
 かすかな怒りを含んだ誰かの声。そしてその声を合図に、少年を包み込む白い世界に異変が起こった。遠くから地鳴りのような音が響いたかと思うと、突如としてどす黒い渦巻きが少年の目の前に現れて、白い霧の世界を切り裂き黒い穴を空けてしまったのである。その渦巻きの中心からかすかに見える遠くの世界では、小柄な誰かが棒のような物を懸命に振り回しながら何事かを叫んでいた。その叫び声が耳に届いた瞬間、少年の深層記憶に眠る危険な感覚がむっくりと目を覚まし……直後に少年の意識に雷鳴をとどろかせた。叫び声の奥に隠された、わずかながら拭いがたい歓喜の響きとあたかも化学反応を起こしたように。
「参ります……薫のハートフル・ラブリースパイラル……」


「どわあぁぁあぁーー!!!」
 絶叫とともに御手洗大は目を覚ました。半身を起こした後ろではさっきまで頭のあった位置に薙刀がめり込み、豪奢なベッドを突き破って大きな穴を空けていた。
「ちっ……あら、お兄様、おはようございます♥」
「“ちっ”って何だ、“ちっ”って! 二度と目覚めない身体にされるところだったぞ、もう少しで!」
 起きるなり妹に罵声を浴びせる御手洗大であったが、心の奥では忙しく自問していた。ここはどこだ? なぜ薫がここにいる?……だがその回答はすぐに得られた。妹の容赦ない一言が彼を現実に引き戻すとともに、少年の逡巡を断ち切ったのだ。
「お急ぎくださいまし。全国模試が始まるまで、もう時間がありませんのよ」
 御手洗大はあわてて部屋を見渡し、いつも自分の部屋に置いてある壁掛け時計を見た。時計の指す時刻は8時10分。試験が始まるまで20分しかない。
「なんたる不覚! 今から急いでも間に合うかどうか!」
「100メートルを7秒で走れば間に合いますわ!」
「そりゃ世界記録だ!」
 お約束のボケをかましながら、騒がしい兄妹は着替えを済ませて家を飛び出した。


「あ、あの……お兄様……」
「後にしてくれ、今は忙しい」
 結局、世界記録挑戦は断念して。御手洗大とその妹は、黒塗りのリムジンに乗って試験会場へと向かっていた。すでに警察など各方面への手回しは終えてあるらしく、リムジンは一度も赤信号に遮られることのないまま会場までの道を時速80キロ以上で爆走していた。そんな車内での会話である。
「昨夜やるはずだった分をここで取り戻さねばならんのだ。時間がない、話なら後にしてくれんか」
「いえ、どうしてもいま、申し上げておきたいんですの……あの、昨日はわたくし、言葉が過ぎました。お許しくださいませ」
「うん?」
 慌ただしく参考書に目を走らせていた御手洗大は、いつになく神妙な薫の謝罪にうわの空のままで応じた。
「わたくし、どうにかしていたんですわ。綾小路さまとお兄様を比べるなんて愚かなこと。綾小路さまを基準にしたら、世の殿方の99%は首をくくらなくてはなりませんものね」
「……ふむ」
「出来の良い兄を持った妹は不幸、他の男がカボチャに見える……そう昔から言われているのを思い出しましたわ。お兄様、わたくしお兄様の妹に生まれたことを、心の底から誇りに思いましてよ」
「……そうか、うん、分かれば良いのだ」
 謝罪する気があるのか無いのか。薫の言葉はよく聞いていればノロケ以外の何者でもない内容であったが、参考書に集中していた御手洗大には仲直りしたいという妹の大意しか聞き取れなかった。
「そうですわ。いくら先の見えた勝負といっても、お兄様がわたくしのことで思い悩んで実力を出せないままだとしたら、綾小路さまの連勝記録に傷が付くというもの。お兄様、どうか存分に試験に取り組んでくださいませ。薫は全力で応援いたしますわ」
「……わかった、吉報を待っているがよい。今度こそ見せてやるぞ、兄の本当の実力をな!」
 参考書に目を落としたままの御手洗大は、試験場に滑り込んだリムジンの扉を開けて会場へと降り立った。試験前夜にダッシュをかけられなかった不安はあったが、気分だけはすっきりとしていた。


《なんだ薫のやつ……可愛いところもあるんじゃないか。遅ればせながら兄の真の愛に気づき、綾小路の毒牙から逃れたというわけだな。ふむ、まずはめでたい》
 知らぬが仏とはまさにこのこと。試験会場に着席した御手洗大は、ついさきほどの妹の行為を思い出して忍び笑いを洩らした。最大の懸案を解決したことで気分が軽くなったせいか、少年の思考は昨夜の衝撃的な出来事へと飛んでいた。
《やはりあれだな、夕べのあれで、俺にも運が向いてきたのかも知れんな。美紗さんとのキスでなかったのは返す返すも残念だが、俺が少年時代を卒業した証である、ファ……ファ……まぁ、その、なんだ、とにかくそうであったわけだし。しかしあれだな、天にも昇る心地と話には聞いていたが、あれは本当のことだったのだな》
 受験生らしからぬ妄想にふける御手洗大。しかし解答用紙が配られ試験開始のベルが鳴った瞬間、現実へと意識を引き戻したのは名門の血のなせる業であったろうか。少年は鉛筆を固く握り締めて戦闘体制に入った。
《とにかく、これで綾小路に勝てない要素は微塵もなくなった。今度こそは目にもの見せて……うん? なんだ、この問題は、この時期にこんな簡単な設問でいいのか……おぉ、わかるぞわかるぞ、手に取るように答えが分かるぞ。ひょっとしてこれが大人の境地か、開眼した俺様の真の実力ということか!!》

                 **

「ふははは、どうだった綾小路、今日の調子は?」
「……ああ」
「だーっはっはっはっ、そうともそうとも。今回はちょぉーーっとばかり、いつもより難しい試験だったからな。さすがの貴様といえども実力のなさを痛感したであろう?」
「……ああ」
「ともかく、今度こそ真の勝負ができるというものだな。結果を楽しみにしておるぞ、わーっはっはっはっ」
 高笑いをしながら自称ライバルが試験会場を去った後も、綾小路天はうつろな目をしたまま会場の机に頬杖をついていた。全国1位を取ったこともある秀才の目には、今は試験もライバルも映っていなかった。彼の頭にあるのはただひとつ、黒髪のウェイトレスとの思い出と昨夜の衝撃シーンのフラッシュバックであった。
《紫亜さん……どうして、ウ○コなんかとあんなことを……俺、そりゃ確かにガキだし頼りにならないかもしれないけど、それでも紫亜さんには嫌われてないと思ってたのに……でも紫亜さん誰にでも優しいしな、俺の知らない間にあいつと深い仲に……でも昨日tricotで会ったときにはそんな様子はぜんぜん無かったけどな、ひょっとして俺が気づいてなかっただけで、あのときから紫亜さんたちは演技をしてたのか?……あぁっもう、どうしてあんなことに……紫亜さんはあいつのことが好きなのか、あいつも紫亜さんのことが好きだったのか……日頃あいつが紫亜さんのことを悪し様に言ってたのは、実は俺たちを欺くための演技だったのか、俺はそんなことも見抜けない間抜けだったって言うのか……》
 天の頭の中では、昨夜見かけた紫亜と大のキスシーンが何度も何度も浮かび上がってきていた。自分の胸にあったほのかな思いを、今の綾小路天ははっきりと自覚していた。そして自覚するということは、それが破れたことを認めることに他ならないのだが……これまで彼の知っている周囲の人たちの性格や思い出の全てが、それに反旗を翻していた。
《女々しいぞ綾小路天、現実を受け入れなきゃ……どんなに信じがたくても、どんなに悔しくても有ったことは有ったと……あぁっでも気になる、本当の紫亜さんはどうなんだろう、俺のこと本当はどう思ってるんだろう……それにしてもなぁ、よりによって○ンコなんかと……あんなやつの一体どこが……》
 かくして天の思考は振り出しに戻り、無限に回り続けるのであった。出口の無い袋小路に陥ったまま、綾小路天は漫然と時を浪費し続けていた。試験会場に座ってはいるものの、天の意識はそこには無かった。解答用紙を受け取った覚えも筆箱を開いた覚えも、すっぽりと彼の記憶からは抜けていた。
「テンちゃん、帰ろう」
「……ああ」
「テンちゃん? どうしたの、ぼんやりして」
「……ああ、湖太郎か」
 小さい頃からの親友の声。黒髪のウェイトレスの隣に住む同級生の呼び声で、綾小路天はようやく現実に引き戻された。気がつくと外は夕日がさし、会場には彼と友人の2人以外は誰も残っていなかった。
「顔色が悪いよ」
「……なんでもない、なんでもないんだ。あの……試験、もう終わったんだよな?」
「……えっ?」
「ごめん、変なこと聞いたよな。行こうか、湖太郎」
 こいつには聞けない。紫亜さんと一つ屋根の下同然に暮らしてるこいつにだけは。実はこいつも、今まで俺を騙していたのかもしれないし。
 懊悩を続けた綾小路天の思考は、複雑に絡み合ってしまっていた。表面上はいつもどおりを装いつつも、天は昨日までの親友と目を合わせないようにしながら席を立ち会場を後にした。湖太郎がどんな顔をして自分についてきているか、今の彼には考える余裕すらなかった。


「てひひー、コタロー君お疲れさまっス〜♪」
「わわっ、くっつかないでください美紗さん」
 そして。湖太郎と天が試験会場の門を出た瞬間、迎えに来ていた少女の笑い声が2人の頭上に降りかかってきた。そのハイテンションな笑い声も今の綾小路天にはむなしく響くだけであったが……その直後に響いた鈴の音のような少女の声が、彼の心のスイッチを切り替えた。
「樋口さん、お疲れさまでした。美味しい夕ご飯、用意してあるんですよ♥」
「あ……ありがとうございます、紫亜さん」
「……紫亜さん?」
 ぼんやりと、しかし聞きまちがえようもない憧れの少女の声。綾小路天が開いた瞼の先では、すでに彼のものではなくなったはずの黒髪の少女が、以前と変わらない屈託ない笑みを浮かべていた。楽しかった頃の思い出を垣間見ているような気分になった天は、涙があふれそうになって思わず目を拭った。
「綾小路さんも、お疲れさまでした」
 何の迷いもなくまっすぐにこちらを見つめる黒い瞳がまぶしすぎて、複雑な表情で目をそらしてしまう綾小路天。だがそんな彼の仕草に、紫亜は不思議そうに顔を曇らせた。
「綾小路、さん……?」
「あっ紫亜さん、テンちゃんさっきから様子が変なんですよ。なんだか試験の調子が悪かったみたいで」
「ほへ?」
 余計な説明を入れる湖太郎と、彼に抱きついたまま首を傾げる美紗。天にはどちらもわずらわしかった。俺をそっとしておいてくれ、紫亜さんを連れて俺の前から消えてくれ……理不尽ながら真摯な要求を心の中で繰り返す。しかし当然ながら、3人が天の前から立ち去ろうとする気配はなかった。それどころか心配そうに見つめてくる3人の視線が、針のムシロのように綾小路天のハートをちくちくと突き刺した。
《そうだよな、紫亜さんが誰とくっつこうと、そんなの紫亜さんの自由だし……勝手に憧れてた俺が失望したからって、気遣ってもらえると思うほうが間違ってるんだ》
 諦めと共にそんな考えが頭に浮かび、自分のほうから立ち去ろうとした瞬間。
「綾小路さん、ごめんなさいっ!!」
「……えっ?」
 意外な謝罪の声が前方から降りかかった。驚いた綾小路天が顔をあげると、そこには深々と頭を下げた黒髪の少女のつむじがあった。腰を90度に折ったままの紫亜は大きな声で謝り続けた。
「ごめんなさい、私が悪いんです。私が、お弁当にハンバーグを入れ忘れたから!」
「……あの、紫亜さん?」
「綾小路さんがハンバーグ好きなの知ってて、お弁当に入れてあげようと思ってたのに、つい忘れてしまって! 本当にごめんなさい、綾小路さんが全力を出せなかったんだったら、それは私のせいです!」
 必死で謝罪の言葉を続ける紫亜。そんな彼女を見ていて、綾小路天はふっとアホらしい気分になった。試験の出来をハンバーグのせいだと思い込むようなピュアなハートの持ち主が、自分を騙して他の誰かと恋仲になれるはずがない。そうだ、俺はなにを馬鹿な想像をしていたんだ。
「紫亜さんのせいなんかじゃないですよ。顔をあげてください」
 そう、夕べ見たのは何かの間違いに決まってる。紫亜さんは目の前にいるじゃないか。
「許してくれるんですか?」
「あははは」
 紫亜はゆっくりと顔をあげた。その彼女の目に映ったのは、はにかんだような表情を浮かべたいつもどおりの少年の姿だった。

                 **

 数日後、模擬試験の結果返却の日。意気揚々と教室に乗り込んだ御手洗大は、先に来て湖太郎や小星と談笑していた綾小路天を見つけて指を突き立てた。
「ふっふっふっ、綾小路、ようやく決着をつけるときが来たようだな!」
「……ああ、○ンコか。そうか、今日はテストの結果が出る日だっけ」
「な、なにぃ?!」
 肩透かしを食らったように御手洗大は目をむいた。今日を境に泥にまみれるはずの彼の宿敵は、テストのことなどどこ吹く風というように愚民どもと語らっている。それほどの余裕があるというのか、また全国1位を取る自信があるのか?
「……ふっふっふっ。さすがは我がライバル、負けるにしてもただでは転ばんようだな。しかし見ておれ、前回の試験はすごく調子がよかったのだ。これまでお前を偽りの順位へと持ち上げておった強運も、今回ばかりは通じんぞ!」
「……強運のせいだってさ」
「嫌な言い方だよね」
 凡人どもがなにを叫ぼうと今の御手洗大には応えない。だが相変わらずの余裕ぶりを見せる綾小路天の様子は、彼の神経を刺激せずにはいられなかった。
「別にいいよ。1番とるために勉強してるわけじゃないし」
「ムキィ〜ッ!!! おのれ綾小路、結果を見て泣きべそをかくなよ!」
 紫亜のことばかり考えていて試験に集中できなかった綾小路天は、今回の試験結果にはまったく期待していない。だがそんな事情は御手洗大の想像の外であった。ライバルの余裕をあくまで結果に対する自信と受け取った少年は、1人で勝手に敵愾心を燃え上がらせるのだった。


 そして。ご先祖様の霊に誓ったとおり、今回の御手洗大は綾小路天の後塵を拝することはなかった。
   御手洗大 0点(全教科、受験番号記入漏れ)
   綾小路天 0点(全教科、白紙)
 おめでとう、御手洗大。彼は生まれて初めて、綾小路天と順位で並ぶことに成功したのだった。これを快挙といわずしてなんと言おう。
「う……嬉しくなぁ〜〜い!! うわあぁ〜〜」

Fin.

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