まもって守護月天! SideStory  RSS2.0

わたしの Sweet Lady

初出 1999年08月24日
written by 双剣士 (WebSite)
SSの広場へ第1幕へ戻る第3幕へ進む

第2幕・北風と太陽

「お邪魔しましたぁ」
「ご馳走さまでしたぁ」
「お休みなさ〜い!」
 元気な声と大勢の足音が山野辺家の玄関に響き渡り、そして扉の向こうへと遠ざかって行く。そしてそれを遮るように扉が閉じられた瞬間、玄関で彼らを見送っていた三船和津絵は元気よく振り返った。
「楽しそうな方たちでしたね。翔子お嬢様が楽しい方たちに囲まれていると分かって、私、心から安堵いたしましたわ。来週は、別荘で豪勢におもてなしをしなくてはなりませんわね。楽しみでございましょう、翔子お嬢様?」
 歓喜に溢れた翔子が、喜びと称賛の声を上げながら自分の胸に飛び込んでくる‥そう期待して和津絵は両手を広げ、翔子の身体を受け止めるべく下腹部に力を込めた。至福のときを全身で感じ取るべく、中空を向いて眼を閉じる。

《和津絵さん、ありがとう。やっぱり和津絵さんは頼りになるよ!》
《いえいえ、翔子お嬢様のお役に立てるのなら、この三船和津絵、これに勝る喜びはありませんわ》
《みんなもきっと喜んでくれるよ。ああっ、和津絵さんが来てくれて良かった! 最高の夏休みになりそうだよ》
 ああ、あのきかん坊だった翔子お嬢様が、こんなに素直に喜びを表してくださるなんて!
 私は幸せ者ですわ。久しぶりにお嬢様の様子を見に来て、本当に良かった。仕事でお忙しいご両親の傍にいられず、不憫な生活をなさっていた翔子お嬢様も、やっと私たちに心を開いてくださったのね。そうですとも、そうですとも。あのお優しい社長の血を引いていらっしゃる翔子お嬢様が、いつまでも私たちを嫌う素振りをお続けになるはずがありませんわ。翔子お嬢様はきっと分かってくださる。その日を楽しみに、お嬢様のご成長を見守ってきたんですもの。
 今、やっとその気持ちが報われるときが来たんですわ!
 ああっ、泣かないでください翔子お嬢様。嬉しいのは私も同じ、お礼を言いたいのは私のほうなんですから。

 既に何百回とリハーサルをこなしてきた感動の抱擁シーンを頭の中で反芻しながら、三船和津絵は両手を広げ、誰も居ない山野辺家の廊下に一人で立ち尽くしていた。屋敷の若い使用人たちはそんな和津絵を遠目に見ながら、しかし決して近づこうとはせずにひそひそと声を潜めて様子を伺っていた。
 妄想にふける三船和津絵に近づくべからず。山野辺家の使用人の間に伝わる鉄の掟を破ろうとするものは居ない。それを破ったものがどうなるか、彼女らは新入りのときに身を持って体験していた‥強烈なベアハッグの痛みと共に。
「‥そろそろよ」
 しばらく経って、時計を持った使用人の一人が声を掛けた。その声を合図に、彼女らは人形劇のように一斉に首を引っ込め‥それと時を同じくして、和津絵の眼がぱちっと開いた。三船和津絵は中空に向けた眼をゆっくりと下に移し‥そして腕の中に誰も居ないことを確認すると、ほうっと息を吐いて広げた両手をすぼめた。
 その間はきっかり2分。しかし和津絵の表情に落胆の色はない。数百回に渡る『感動の抱擁』のリハーサルは、いつだってこういう形で終わるのだから。
「もう‥翔子お嬢様ったら、照れ屋さんでいらっしゃるんだから♪」
 和津絵は悪戯っぽい表情を浮かべると、彼女の大切な姫君のご機嫌を伺うべく玄関から応接間へと歩き始めた。

 そのころ。一時は半病人状態になりかけた山野辺翔子は、自分の部屋に閉じこもってぺたんとベッドに座り、携帯電話を片手にアドレス帳を広げていた。打ちひしがれて涙をさめざめと流している暇はなかった。三船和津絵の撒き散らした火の粉を消して回るという、崇高にして重大な使命が彼女には有ったのだから。
「(ぷるるる〜がちゃっ)もしもし、野村でございますが」
「もしもし、あの、あたし‥私、野村君のクラスメートの山野辺と申しますが。たかし君は居ますか?」
「あらあら、たかしがいつもお世話に‥ごめんなさいね、まだ帰ってきてないの、たかしったら」
 無理もない。野村たかしが山野辺家の玄関を抜けてからまだ2分と少し、帰宅するにはまだ早すぎる。それでも翔子は電話せずにはいられなかった。彼らが家に着く頃まで、何もせずに耐えつづけることなど我慢がならなかったから。
「たかしが帰ってきたら連絡させましょうか?」
「あ‥いえ、結構です。またその頃に掛け直しますから。ごめんください(がちゃっ)」
 翔子の用件は、相手にとって喜ばしい内容とは言えない。なにせ数分前に見せた甘美な夏休みの夢を、綺麗さっぱり忘れてもらおうと言うのだから。だから伝言ではなく直接話す必要があるし、紛糾するに決まっている話の電話代を向こう持ちにさせるのは忍びない‥妙なところで律義な翔子ちゃんであった。
「シャオたちは‥まだ遠いよな。野村の次に早く家に着きそうな奴というと‥」
 ぴぽばぽばぷぺ。
 とぅるるるる、とぅるるるる。
「(がちゃっ)はい、もしもし」
「あ、あの、私、山野辺と申しますが。愛原さんのお宅でしょうか」
「はい、さようですが‥もしかして、花織のお友達ですか?」
「あ‥そ、そうです。あの、花織さんはご在宅ですか」
「ちょっとお待ちくださいね。・・・・・・もしもし、花織で〜す。ゆかりん?」
 底抜けに元気な声を聞いて、翔子はほっと安堵した。やっと繋がった。これで悪夢を空の彼方に追いやることができる‥ごめんな、みんな。
「悪い。あたしだ。山野辺だよ」
「えっ‥山野辺先輩? うわぁ〜っ、先輩から電話もらうの初めてだなぁ。今日はどうもありがとうございましたっ!」
「‥いや、その、あのさ‥」
「山野辺先輩って、すっごいおうちに住んでたんですねぇ。あたし感動しましたぁ! あんな綺麗なおうちに上げてもらって、美味しいお菓子いただいて、そのうえ案内までしてもらっちゃって!」
「‥あのさ、愛原‥」
「山野辺先輩って、本物のお嬢様だったんですねぇ。あんなに沢山お手伝いさんが居て‥特にあの、何て言いましたっけ、あの声が大きくて親切な叔母さん! すっかりお世話になっちゃいましたぁ」
「‥ちょっと、あの、あたしの話を‥」
「それに嬉しいです、あたし。夏休みになったら先輩のうちの別荘に連れていってもらえるなんて! きっと素敵な別荘なんでしょうね。プールもあるし、テニスコートもあるし、ご馳走は出るし。それになんといってもタダだし。とっても楽しみ!」
 立て板に水を流すがごとく、一方的に喋りまくる花織の様子に翔子は辟易した。おいおい、初っ端からこれかよ‥。
「愛原!」
「はいっ?」
「盛り上がってるところ悪いけどさ。その、別荘の話、無かったことにしてくれないかな」
「えええぇぇ〜〜っ!」
 和津絵にも負けない大声に、翔子は思わず受話器を耳から遠ざけた。
「なんで? どーして? どーいうこと? せっかく楽しみにしてたのに」
 ごめんな愛原。怨むなら和津絵さんを怨んでくれ。
「ごめんな。さっき調べたら先約が入っててさ。お袋の大事なお客が使うことになってたんだよ」
「じ、じゃあ、別の日でもいいです! いつなら空いてるんですか?」
「悪い‥夏休み中、一杯」
 こうでも言わないと、諦めてくれないだろ。
「そんなぁ‥」
「本当に、ごめん。最初の計画通り、愛原やおにーさんの計画に沿ってプランを立ててくれよ」
 そのとき。ずしんずしんという足音と共に、別荘プランを提案した張本人が翔子の部屋のドアの前にやってきた。
「翔子お嬢様ぁ〜っ、こちらですかぁ」
「‥あ、あの叔母さんだっ! 山野辺先輩、あの叔母さん、そこにいるんですか?」
「空耳だよ」
「(こんこん)翔子お嬢様ぁ、さっきお話しした、来週の避暑地行きの件でご相談があるんですがぁ」
 ‥和津絵さんったら! こんなタイミングで、そんな大声を出さなくてもいいだろうに!
「居るんでしょ? 先輩、あの人とお話しさせてくださいっ!」
「混線してんじゃないのか? あたしには何にも聞こえないぜ」
「で、でも、避暑地行きの件だって‥」
「翔子お嬢様ぁ、ここを開けてください。お嬢様の大事なお友達をおもてなしする件で、是非お話ししておきたいことが」
「‥やっぱりそうだっ! 山野辺先輩、お願いです!」
「‥却下。悪いな。それじゃ(ぷっ)」
 翔子が一方的に電話を切ったその瞬間。扉の開く音と共に、この騒動の張本人が姿を現した。満面の笑みをたたえ、世にも幸せそうな足取りで。

 親の仇敵に逢ったかのような、憎しみのこもった視線を向ける翔子。しかし和津絵にとってそれは、苦痛どころか微笑ましい光景と感じられた。そうよ、翔子お嬢様はまだ14歳。14歳といえば難しいお年頃。人一倍繊細なお心をお持ちの翔子お嬢様が、恥ずかしがってお心と反対の態度をお取りになっても、何も不思議なことはありませんもの。
「あら翔子お嬢様、さっそく来週のご相談ですか? 仲のいい友達ってよろしいですわね。みんな喜んでいらっしゃいましたでしょう? この三船和津絵、翔子お嬢様のおん為とあらば、来週は精魂こめておもてなしをさせていただきますわ!」
「いらないよ」
「お夕食は豪華にバーベキューなんかよろしいですわね。翔子お嬢様、あの方たちのお好きな食べ物や、避けた方がいいお料理などございます? なんでしたら、今のうちに伺っておこうかと思いますが」
「行かないってば。別荘なんか」
「それと、夜のお楽しみ企画ですね。昼間は思う存分お日様の下で楽しんでいただくとして、夕食の後すぐに寝るってわけには参りませんでしょう? どんな趣向を凝らしたら、喜んでいただけるのかしら」
「‥人の話を聞けぇっ!」
 和津絵は胸の前で組んだ両手を降ろした。小さな姫君は目尻を吊り上げて、闘犬のように荒い息をつきながらこちらの方を睨み付けていた。今にも掴みかからんばかりの勢いで‥さすがの和津絵も、これが照れ隠しの表情でないことは分かる。だが自分が睨み付けられる理由については、さっぱり見当がつかなかった。
「翔子お嬢様‥???」
「勝手に話を進めるなよ! あたしは別荘なんか行かない、あいつらも連れていかないっ!」
「どうなさったんですか? 皆さん、あんなに喜んでらしたのに‥」
「あいつらは‥」
 《あいつらはシャオと七梨にちょっかいを出したいだけなんだぁっ!》
 そう口を衝いて出掛けた言葉を、翔子は慌てて飲み込んだ。何も和津絵さんにあいつらの複雑な人間関係を説明する義理はないわけだし、それにそれが最大の理由というわけでもない‥どうせあいつらは、別荘が駄目ならどこか別の場所に行くんだろうし。
 翔子が恐怖しているのは別荘そのものではなく、その別荘の持ち主であった。シャオリンたち一行のことを和津絵さんに知られた以上、それが誇張歪曲されて別荘の持ち主の耳に届くのは必然。それだけでも頭が痛いのに、そのことで別荘の持ち主と対面することだけは‥それだけは何がなんでも回避したい。
 だがそんな翔子の気持ちが眼の前で首をかしげている中年女性に理解される可能性は、この世紀末に火星人が侵略してくる可能性よりも低かった。山野辺翔子は拒絶理由の説明を諦め、別の方向から会話の主導権を目指すことにした。
「だいたいなぁ、和津絵さん。あんたお袋の講演の準備をしに来たって言ってたじゃないか。お偉方を一堂に集めて、壇上から偉そうに喋る下準備と根回しをするんだろ。あたしなんかに構ってていいのかよ」
「だぁい丈夫です。ご心配には及びませんわ。仕事の方は他の人にも任せられますけど、翔子お嬢様のお世話は私にしか出来ませんから」
「だ・か・ら! あんたはお袋の仕事の絡みで来たんであって、あたしの面倒を見に来たんじゃないんだろ! この家に来るなとまでは言わないけど、あたしの友達に勝手なこと吹き込まないでくれよ!」
「翔子お嬢様のお役に立てたのなら、社長はきっと私を誉めてくださいますわ。社長はお嬢様を、それこそ眼に入れても痛くないほど可愛がっていらっしゃるんですもの。そのお友達がお屋敷においでになったとあれば、『私も居たかったのに』って悔しがるでしょうね、社長」
 罪悪感ゼロの陶酔狂を相手にして、いくら怒鳴りつけても糠に釘。のれんに腕押し。翔子は深ぁい溜め息をついた。どこからくるんだ、この人の根拠の無い自信は‥知れたことか。同じ信念を持つもう一人から伝染して共鳴し合ってるんだ。
「‥とにかく。別荘行きの件は和津絵さんが勝手に請け負ったんであって、あたしは承知してないからな。あたしの友達のことはあたしが決める。あさって学校に行ったら、みんなに断ってくるよ」
「そんなぁ‥」
 眼の前の中年女性の口から、さきほど電話で聞いた女子中学生のつぶやきと同じ言葉が漏れた。
「せっかく、翔子お嬢様のお役に立てるチャンスだと思いましたのに‥」
「ああ、ああ、今日はもう十分に役に立ってくれたよ」
「残念ですわ。翔子お嬢様のお友達とお近付きになれれば、社長も私も安心できますのに‥」
「お近づきにならなくていいって。手助けなんか無くたって、あたしたち、ちゃんとやってるからさ。安心しろって、お袋にも伝えといてくれよ」
 翔子の母と和津絵とは、毎日のように電子メールで連絡を取り合っている。今夜の電子メールで、和津絵がシャオリンたち一行のことを書くのは確実。書かないように翔子が念を押しても無駄だろう。だから翔子は、あえてこの言葉を決別の言葉に選んだ。いま話した以上のことは書くなよ、との意味合いを込めて。
 しょぼくれて肩を落とした三船和津絵は、一回りも身体が縮んだように見えた。和津絵は力無くうなずくと、翔子に向かって一礼してから背を向けて、扉をくぐって部屋から出た。そして扉を閉める寸前に、聞こえよがしに一言つぶやいた。
「もう、お嬢様ったら、彼氏のことが恥ずかしいからって、そんなに邪険にすること、ないでしょうに‥」
「‥‥ちょっと待てぇっ!」
 山野辺翔子はベッドの上で飛び上がると、彗星の如き素早さで和津絵に向かって突進した。そして閉じかけた扉に身体をねじ込みながら、必死の思いで和津絵の左手を掴んだ。

                 **

 自室のベッドで天を仰ぎながら、山野辺翔子は自分の不運さを呪った。母親も、和津絵も、いきなり訪問してきたシャオリンたち一行も、全てが呪わしく思えた。もし今日という一日をやり直せるのなら、自分の人生が10年縮まっても良い、と本気で思った。
《あの男の子、翔子お嬢様の彼氏なんでしょう? 隠したって分かりますわよ。髪の毛を後ろで束ねて、翔子お嬢様とお揃いにしてらっしゃったんですから》
 その一言を聞いた時、翔子の顔から血の気が引いた。そしてそれが契機になった。会話の主導権は完全に和津絵の側に奪われ、翔子は防戦一方になったのだ。火の無いところから立ち昇った煙はもはや吹き消すことの出来ない大きさに燃え広がっていた。しかも翔子が吹き消そうにも、あの連中の関係には説明に窮する材料が有りすぎた。
《あ、あれは、彼氏なんかじゃないって! あいつには好きな奴が居るんだよ、一緒にいたろ、あの青白い髪の女の子!》
《ええ、あの方、あの女の子を随分大切になさってましたわね。病弱な妹さんの傍から片時も離れないなんて、何て頼り甲斐のある殿方なんでしょう! さすがは翔子お嬢様、男の方を見る眼は確かでいらっしゃいますわね》
《ちーがーうって! あの二人は‥》
《それにあの、背の高い女の方と男の方。優しい慈しみの眼であの二人を見つめていたの、私にもひしひしと伝わってきましたわ。ご兄弟ぐるみでお付き合いをなさるなんて、なんて素晴らしいんでしょう! でも翔子お嬢様、一人っ子だからって引け目に感じること、ありませんのよ》
 あいつらは中国から来た精霊で、一緒に暮らしてるのは主従関係のせいなんだ‥なんて説明が三船和津絵に通るはずもなかった。たかしや花織を説得することは出来るとしても、和津絵の思い込みを訂正することは不可能‥ましてその思い込みは『和津絵にとっての妄想』にぴたりとはまり、『翔子お嬢様が照れる理由』にも合致するのだから。
 仮に物的証拠が有ったとしても、自分に都合の良いように解釈できることを特技とする三船和津絵である。彼女の思い込みに傷を付けることは、水爆を持ってしても不可能であっただろう。そして‥。
《まぁ、翔子お嬢様がお選びになるほどの殿方ですから、ライバルが多いのは仕方ありませんわね。そうと分かれば社長とも相談して‥》
 やめてくれぇ、と哀願する声が出そうになるのを翔子は必死の思いで我慢した。哀願すれば和津絵の慈悲を乞うことになる。そんなことをしたら、そうして一度でも和津絵の風下に立ってしまったら、和津絵は生涯その優位を手放すまい。翔子を一度でも見下してしまえば、それ以降に翔子が何を言っても和津絵は平然と無視することができる。そして自分の思うとおりに、翔子とその周囲を染め上げてしまうだろう‥それだけの実力と交渉力のある相手なのだ。眼の前に居る、翔子の母親の右腕と称される女性は。
 絶対に敵に回したくない相手‥翔子はそのことを骨身に染みて知っていた。完敗を喫して頭が上がらなくなる相手は、ひとりで十分だった。そう、ひとりだけで‥。
 非常事態であった。翔子は心にも無い台詞を、和津絵に向かって吐かざるを得ないところまで追いつめられた。
《あいつらのことは、あたしからお袋に話すよ。やっぱこういうことは、娘の口から母親に報告すべきもんだと思うしさ。だから、和津絵さんは仕事のことだけ書いてくれればいいよ、今夜のメール》
《ですけれども‥やはり、今日起こったことは今夜報告しないと、社長に叱られますから‥》
《ちょっと時間をくれよ。あたし、お袋へ報告する文書を書くから。そして和津絵さんに渡すから》
 ‥そして。ベッドに横たわった翔子の枕元には、電子メールの下書きには勿体無い最高級の便箋が置かれていた。楽しみにお待ちしてますからね、と狂喜する和津絵の笑い声が、翔子の頭の中でがんがんと反響していた。
「‥ったく」
 寝返りを打ちながらぼやく翔子。上手い嘘を考え出さなくてはならない。自分と七梨太助は恋仲でも何でもないのだが、そのことを強調すれば火に油を注ぐようなもの。しかしあまり上手すぎる嘘をついたのでは、却って母親の興味を引いて裏を読まれてしまう。要らぬ好奇心から勝手な想像をした挙げ句、太助の家に婚約指輪を贈るくらいのことを翔子の母親はしかねない。
 翔子の母親はそういう人であった。受け取り手がどう思うかは問題ではない。受け取り手が喜ぶであろう、と彼女が思えば、即行動に移すのが山野辺真砂子という女性の恐ろしさなのである。それは翔子の部屋の洋服棚で埃をかぶっている、フリフリのドレス数十着が燦然と証明している。
「‥‥‥‥‥‥」
 便箋を睨み付けて2秒、放り出して1分。翔子はそんな動作を何度も何度も繰り返した。名案など浮かびようもない。もともと母親に向けて書きたいことなど無いのだから。翔子の意識は便箋を通り越して天井に向き、扉に向き、壁掛け時計に向き‥ふと窓の方に向いた瞬間。ちょうどその時、翔子の部屋のガラス窓がコツコツと鳴った。
「‥ん?‥」
 ベッドから身を起こして窓の方を見た翔子は、窓の外に誰かが居るのを見つけた。最初は孔雀かと思った‥扇形の影が映っていたので。しかしその扇形はすぐに閉じられ、夜の闇を背景に赤い髪に白い肌を持った少女の姿が次第次第に浮かび上がってきた。
「‥‥キリュウ‥‥???」

                 **

 窓を開けた翔子の耳に、さあっという雨の音が突き刺さった。いつのまにか雨が降っていたらしい‥そしてその雨を避けようともせずに、赤い髪の精霊はベランダに腰掛けていた。冷たい表情から繰り出される視線は、翔子の眼ではなく足元の方を落着きなくさ迷っていた。
「‥ち、ちょっと!」
 どうしたんだ、こんな夜更けに‥と掛けるはずだった言葉を飲み込んだ翔子は、あわてて部屋の棚に向かい、タオル数枚を手にしてキリュウの方へと駆け戻った。びしょ濡れで唇を震わせている万難地天にそれを差し出す‥しかしキリュウは静かに首を横に振った。
「翔子殿、夜分にすまない‥長居はしないから」
「そんなのいいから! 早く雨を拭けよ、風邪引くぜ」
「心配いらない‥私は風邪など引かない」
 そう口にするキリュウであったが、青ざめた表情で全身を震わせながら言っても説得力はない。翔子は裸足のままベランダに飛び出すと、大きめのタオルをキリュウの肩に掛け、別のタオルで頭をごしごしと拭いた。そして雫が落ちるのも構わずに、キリュウの手を引いて部屋の中に引きずり込む。糸が切れた人形のようにぺたんと絨毯に腰を下ろすキリュウを、服の上からごしごしと拭いてやるうちに、ようやく彼女の顔に赤みが戻ってきた。
「‥重ね重ね、すまない。もう大丈夫だから」
 あらかた身体を拭き終わって着替えの服を探そうと立ち上がる翔子を、キリュウはその一言で制止した。そして振り向いた翔子に頭を下げる。
「昼間は、本当にすまなかった」
「‥なんのこと?」
「面目ない。暑さごときで、真っ先に音を上げてしまうとは‥そればかりかあんなことまでしてしまって。翔子殿に多大な迷惑を掛けてしまったことをお詫びする。このとおり」
 そう。今日の騒動は、極言すればキリュウの暴走に端を発する‥だがびしょ濡れで震えているキリュウを前にして声を荒らげるほど、翔子の神経は太くなかった。ほとんど反射的に言葉を返す。
「そんなのいいからさ。早く着替えろよ」
「いや、そう長居もできないのだ‥このあと回るところもあるし。それに主殿が心配するしな」
「‥‥‥‥‥??」
「翔子殿、今夜は挨拶に来たのだ‥夏の間、私は短天扇に戻ることにする」
 短天扇‥精霊であるキリュウが封じられている扇であり、シャオリンにとっての支天輪、ルーアンにとっての黒天筒に相当する呪具である。七梨太助に呼び出されるまで、キリュウはそこで何千年も待ち続けていたと聞いている‥たったひとりで。
「‥どうして」
 キリュウの言葉の重みを感じとった翔子が呆然とつぶやいた言葉に、万難地天は生真面目に答えた。
「今日この家に入れてもらってから、ずっと考えていたのだ。全くもって情けない、試練を与える精霊が夏の暑さごときで我を忘れるとは‥主殿はさぞ、軽蔑したであろうとな」
「‥そんなこと」
「思えばこの世界に来て以来、何度か夏はあったが‥試練を与える時はいつも、涼しい夏山に行っていたような気がする。広い場所で思う存分主殿を鍛えてやろうと思っていたのだが‥知らず知らずに、この暑さから逃げていたのかも知れぬな。ひょっとしたら主殿も、私に気を使ってくれていたのかもしれない」
「‥だからって」
「翔子殿‥主殿に嫌われるのは構わぬが、舐められてしまってはお終いなのだ、私の役目は。これから主殿は、試練を受けながらこう思うだろう‥あいつはじきに暑さでへばってしまうに決まってるって。そして悔しいことにそれは事実なのだ‥眼を覚ますと主殿に背負われて帰途に就いているに違いない‥」
 悲痛な様子でキリュウは言葉を絞り出していた。試練を与える精霊の彼女にとって、自分のために主人に余計な気を使わせることはプライドに関わることなのだろう‥生真面目な彼女は、炎天下で格闘する太助を前にして、自分だけが木陰や日傘の下で涼を取ることを潔しとしないに違いない。全くもって損な性格だが‥。
「だ‥だったら、試練やらなきゃいいじゃんか。夏休みなんだしさ。それに元々、毎日試練をやってたわけでもないんだろ」
「夏のあいだは絶対に試練が無い‥そう思って弛んでいく主殿の横で、無駄飯を食べていられるほど私は図太くない。主殿の役に立てないのなら、いない方が良いのだ、私など‥」
「そんなことないって!」
「ありがとう、翔子殿‥その言葉があれば、短天扇の中の無聊にも耐えられよう。また会える日を楽しみにしている‥」
 そう言って立ち上がったキリュウの姿は、いつもより随分小さく見えた。自信を失うと人はここまで変わるものか‥そんなキリュウを、黙って見送ることなど翔子にはできなかった。翔子は大きく深呼吸して自分の心に楔をはめると、立ち去ろうとするキリュウの肩を掴んだ。
「夏が暑くなけりゃいいんだろ!」
「‥無理を言わないでくれ。気休めなら‥」
「暑くないところに行けばいいんだよ!」
 偽善者、偽善者、偽善者‥そう自分を罵倒しながら、翔子は努めて明るく言葉を吐き出した。
「あたしの別荘、すっごく涼しいんだぜ!」

第1幕へ戻る  第3幕へ進む


次回予告:

「ああっ、次回は翔子さんとお母様の感動の再会! たとえ地球の裏側にいようとも、愛娘の頼みとあらば賢母の力は無限大! 幸薄い邸宅で育った翔子さん、今こそお母様の胸に顔を埋め、子供の頃に甘え足りなかった分を思いっきり取り戻してください!」
「し、シャオちゃん‥それ、本気で言ってるの‥?」
「‥いえ、大家さんに頂いた台本に、こう喋れって書いてあるんですけど」
「よかったぁ。びっくりしたよ。とてもじゃないけど次回のシーン、感動の再会になるとは‥」
「思えないよなぁ。同情するぜ山野辺。だけど人生、苦あれば楽あり。別荘で涼しい夏を過ごすためには、避けては通れぬ道なのだ。頼むぜ山野辺、おれとシャオちゃんの甘い思い出のために、一肌脱いでくれっ!」
「‥たかしくん、けっこう残酷なんだね‥」
「‥なんだか私、翔子さんに悪いことをしてしまったような気が‥」
「あぁあ、気にしなくていいよシャオちゃん。山野辺のやつ、おれたちに全然台詞を回さないまま次回も出ずっぱりなんだからさ。このくらいの苦労はしてもらわなきゃあ‥」
「‥だったら野村、次回におまえも出してやろうか? あたしの代わりにお袋の相手をしてくれるんなら‥」
「ひっ山野辺っ! い、い、要らない要らない、遠慮させていただきますです、はい‥」

SSの広場へ