「たー様ぁ、せっかくの日曜日なのに、何してるのぉ?」
「笛の練習をするんだよ。明日この曲が吹けないと、音楽の先生に怒られるんだ」
「ふぅ〜ん、音楽ねぇ‥あたしが音楽の受け持ちだったら、たー様を怒ったりなんかしないのにぃ‥」
「あーもう、くっつくなよルーアン!」
「あら、たー様ご機嫌ななめ‥でもたー様、別に音楽家になりたいわけじゃないんでしょう? 明日を乗り切れればいいのよね」
「お、おい、ルーアンやめろぉ!」
「陽天心、召来!」
「要は明日のテストの時にいい音が出せればいいんだからって思ったんだけど、たー様はそうは思わなかったみたいね。それで、この有り様」
「はぁ‥」
「気にすること無いのよ。美味しいとこをシャオリンが持ってくのは、いつものことだから」
ルーアン先生は深々とため息を吐いた。自分でも分かってはいるんだろう。太助くんのためを思って陽天心を使うことが、ろくな結果に結びつかないと言うことが。
こういう時、たかしくんならどうするだろう。つまらない冗談しか言えないたかしくんだけど、粘り強く連発することでシャオちゃんを微笑ませるくらいのことはできるんじゃないだろうか。僕だって‥。
「ルーアン先生、ねぇ、ねぇってば」
「‥うん?」
「ほ、ほらぁ、もうすぐ雪が降るよね? そしたら去年みたいに、一緒に遊びましょうね。去年は楽しかったなぁ、みんなで雪だるま作って‥」
「‥降ったらね」
「‥あ、そうそう、温泉なんかもいいなぁ。今度一緒に行きません、ルーアン先生」
「‥たー様やシャオリンも行くのよね」
「‥ね、ねぇ憶えてます? 初詣行って、新年のお願いをしたこと。あのとき僕、ルーアン先生ともっともっと仲良くなれたらなぁって、真剣にお願いしたんですよ。ルーアン先生は、なんてお願いしたんですか?」
「‥はーあ、あたしって駄目な精霊‥ちっともたー様に近づけやしないなんて‥」
‥僕は馬鹿だ。必死に話題を探そうとするほど、僕はルーアン先生のことを何も知らないことに気づかされた。僕の知ってる先生は、学校で大騒ぎしている先生、太助くんやシャオちゃんたちと一緒に旅行したり遊んだりしてる先生‥そんなのばっかり。ルーアン先生が一人の時に何をしてるのか、どんな趣味を持ってるのか、何にも知らない。気の利いた台詞ひとつ、僕には言えやしない。
あ、そうだ、二人で見た光景と言えば‥。
「先生、昨日見たあのテニス選手、あの大会で準優勝ですって。今朝の新聞に‥」
「‥‥はぁ〜あ‥」
僕は本当の大馬鹿だ! 先生にこれ以上辛い思いをさせてどうする!
‥‥最低だ、僕って。なにが、先生の力になる、だ。今までの僕って、先生の役に立つどころか、先生が何を望んでるかすら見えてなかったんじゃないか? 憧れの先生の姿を追いかけるだけで、どうすれば振り向いてもらえるかなんて、本気で考えてこなかったんじゃないか? きっとそうだ。そのツケが、こうして肝心な時に回ってきたんだ。
「‥ありがと、遠藤くん」
しばし自己嫌悪に陥った僕の耳に、心地よい声が響いてきた。まさかそんな、都合が良すぎる‥幻聴か?
「教師失格よね、教え子に慰められるなんて」
‥僕は、何にもできないでしゃべってただけなのに。先生、今日はどうしてそんなに優しいの?
「遠藤くん、先生とどこか行こうか?」
「えっ‥?」
「こうやってたー様が降りてくるのを待ってるだけなんて、あたしらしくないわよね。それでなくてもシャオリンとたー様のデュエットを聞かされて、気がくさくさしてたとこだったのよ。ぱーっと憂さ晴らししましょ」
「‥いいんですか、先生」
夢にまで見た、ルーアン先生とのふたりっきりのデート。しかも先生の方から誘ってくれてる。僕は有頂天に‥なっていいはずだった。でもこの時の僕の心は、嬉しさよりも疑問符と気後れが大半を占めていた。
「‥なによ遠藤くん、先生とじゃ、不満?」
「と、と、とんでもない、お供しますルーアン先生」
「よろしい」
ルーアン先生は手を腰に当てて大きくうなずくと、さっそく応接間のテーブルに陽天心を掛けた。先生と僕を乗せた陽天心テーブルは、4本の脚を馬のように動かしながら、玄関を抜け塀を飛び越えて東の方へと駆け抜けていった。
**
「いくとせ〜過ぎても〜ふたり〜の愛は〜」(筆者注:曲名わかるかな?)
「うわぁ〜っ、すごいよ先生ぇ〜」
ルーアン先生と僕は、ふたりっきりでカラオケボックスにこもって熱唱していた。中学生なのにこんなとこ入っていいのかなぁ‥という一抹の不安はあったが、担任教師同伴よ、文句ある? とのルーアン先生の言に押し切られた。
交代でも歌ったし、デュエットもやった。僕たちは餓えた子供のように、本に載っていた曲を片っ端から歌いまくった。最初のうちは恥ずかしかったけれど、ルーアン先生は大きな声で歌いながら僕をリードしてくれたし、恥ずかしい思いをしないように騒がしい雰囲気の曲ばかりを選曲してくれた。おかげで2時間も歌ううちに、僕もすっかり緊張がほぐれた。
「はあぁ〜っ、楽しいねぇ、ルーアン先生」
「そーでしょっ! もやもやする時は、これが一番よ」
すっかり乗ってきた僕たちが次の曲を選ぼうとした時。部屋に備え付けた電話のベルが鳴った。フロントからの電話だ。
「はいっ‥え、もうそんな時間?‥もちろん延長よ‥あ、それと、適当な食べ物と飲み物を持ってきてくれない‥そう、アルコール抜きで」
時間。その言葉を聞いて、僕は何気なく時計を見た。午後2時過ぎ。太助くんの家を出てから随分になる。
「さぁっ、どんどん行くわよ遠藤くん」
「‥ねぇ先生、そろそろ帰った方がいいんじゃないかなぁ」
ふとつぶやいた僕の言葉に、ルーアン先生の表情が強張った。やっぱり心のどこかで気にしてたんだ。
「太助くんの練習も、もう終わってると思うよ‥ねぇ先生、そろそろ帰りませんか?」
「いーのよ、今日はとことん騒いでやるんだから。遠藤くんも付き合いなさい、絶対90点を超えてみせるわよっ」
‥変だ。ルーアン先生は騒ぐのが好きだけど、太助くんの名前を出しても居残ると言い出すような女性じゃない。どうしたんだろう。
僕を包んでいた熱狂は瞬く間に消え去り、今朝感じた疑問符が脳裏をかすめた。そう、太助くんが笛の練習を終えるまで、という約束だったはずなんだ。そんなことは電話で確認するまでもない、ルーアン先生のコンパクトを使えばすぐに分かる。それなのに、先生はコンパクトをまだ一度も開こうとしてない。
「先生、太助くんの様子を見た方が良くない? あのコンパクトで」
「‥いーのよ。たー様のことは」
「どうしたんです? 何を無理してるんです?」
言ってから口をつぐんだが、遅かった。ルーアン先生はカラオケの本から目を離し、真面目な顔で僕の方を見た。
「あたしが、何を無理してるって? 遠藤くん」
「‥いや、いいんです。先生」
「よくないわ。はっきり言いなさい」
先生の眼が座ってる。僕は逃げ腰になってその視線を躱そうとしたが、ルーアン先生は見逃してくれなかった。燃えるような‥そして、どこか悲しい輝きを持った眼に追いたてられて、僕は口を開かざるを得なくなった。
「だ‥だって、ルーアン先生らしくないんですもの。太助くんを置いて、僕なんかに‥こんな僕なんかに付き合ってくれるなんて。僕はとっても嬉しいけど、やっぱりルーアン先生らしくない。太助くんに怒られたことがそんなにショックなんですか?」
「‥たー様の傍には、シャオリンが付いてるから」
「そんなっ‥」
ルーアン先生がこんな事を言うなんて。僕は驚きのあまり、つい口走ってしまった。
「どーしちゃったんです先生! ま、まさか‥僕が、僕がいけないんですか? 僕がだらしないから、先生を励ますつもりで励まされちゃってるから、先生、僕の前で無理してくれてるんですか? 帰りたいのを我慢してくれてるんですか?」
この言葉を聞いたルーアン先生の表情は、複雑に変化した。最初は唖然とし、次にくすくすと笑いを噛み殺し、続いて優しい表情になって、僕の頭に手を乗せてくれた。
「‥そうやって自分を悪く言うのは、あなたの悪い癖よ」
「‥先生‥」
「‥でも、本気で心配してくれてるのね。誤魔化そうとして、ごめんね」
ルーアン先生はそういうと、僕の席の隣に移ってきてくれた。
遠藤くんも分かってるわよね。たー様が、シャオリンのことを好きだってこと。
ううん、いいのよ。もともと日月同主ってのが、そもそもの間違いなんだし。それにあたしの望みは、たー様に幸せを与えること。たー様の望む幸せが、シャオリンと共にあると言うのなら、あたしは他に望むことなんて無いわ。
もちろん、あたしは今でも諦めてなんか居ないわよ。あのポケポケ娘に負けるなんてしゃくだもの。それに、たー様はまだシャオリンに告白する勇気が出ないみたいだし。可能性はまだ十分にあると思っているわ。それにシャオリンとの競争なら負ける気なんかしないしね。
えっ、それならどうして家に帰らないのかって?
‥まぁ、遠藤くんの言うとおり、昨日の尾を引いてるのかもしれないわね。ほら昨日、あんな事があって、たー様はシャオリンの側についてあたしに怒鳴ったじゃない? でもシャオリンは怒ってなかった。それどころか、帰るのが遅くなったあたしを気遣って、あたしとたー様が気まずくなってたのを直そうとしたのよ。それであの子には、ちょっと借りができちゃったような気分でね‥。
今朝だって、たー様の笛の練習にあたしは何もできないのに、シャオリンは傍についてみっちり教えてあげられるしね。あたしは慶幸日天なのに、たー様に怒られてばっかり。たー様の役に立てるのはシャオリンばっかり‥昨日のことが無ければ、シャオリンの邪魔をしてやるところなんだけど。それで気分が沈んでたところに、遠藤くん、あなたが来てくれたって訳よ。だから、ね。少なくとも今日のうちは、たー様とシャオリンが仲良くやっているところに、割り込んでいく気がしないの。
遠藤くん、あなたには感謝しているわ。あなたが来てくれたおかげで、あしたからは元どおりのあたしに戻れると思う。だから、今日はもう少しだけ付き合ってちょうだい。
いつしか、僕は泣いていた。ルーアン先生に同情しての涙か、先生の気持ちを知らなかった自分を悔いる涙か、それとも今なお自分が太助くんの対抗馬になり得ないことに対する涙か‥どれでもあり、どれでもないような気がする。そんなぼくを、先生は優しく慰めてくれた。
「‥ばかね、遠藤くん‥どうして、あなたが泣くの?」
また先生の力になれなかった。それどころか、先生に慰められている自分がここに居る‥情けなくて、悔しくて、どうしようもない気分だった。気晴らしをするために来たはずの場所で、僕はまたしても自分の無力さを痛感することになった。
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