
偽花嫁、請け負います
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和宏と白いドレスの少女を乗せた船は逃げるように出航していった。警備員たちを殴り倒すのに時間を要した黒服の男たちは洋上の船に向かって散々に悪態を付いてから、大急ぎで自動車に乗り込んで走り去っていった。嵐のような時間が去り、平伏していた見送り客たちは徐々に身を起こし始めた。そしてHELPSの面々は、たったいま目の前で起こった出来事を惚けたように反芻した。
「和君が……」
「ドレスを着た女の子と手に手を取って……」
「銃を持って追ってくる男たちを振り切って……」
「新婚旅行の船に飛び乗った……」
言葉にすれば、そういう状況になる。まるでスパイ映画のような展開に、なかなか頭が着いてこない。清水和宏、古那賀大学のプレイボーイの面目躍如。いかにも彼らしい旅立ちであり、彼以外には(おそらく彼自身にとっても)想像も出来ない活劇シーンであったことだろう。
「でも、千彰さんが……」
皆が胸に感じていたしこりを形にしたのは、こういう活劇とは正反対の生い立ちをしてきた詩織お嬢様の一言であった。そう、これは新婚旅行。和宏のことを仔犬のように信じ切っている千彰が、このことを知ったら……自分の夫が、自分のために50人もの彼女を精算してくれたはずの初恋の相手が、別の女性と手に手を取って船に飛び乗ったと知ったら!
「ちーちゃんが怒ったら、一体どうなっちゃうんだろ……」
「私、千彰さんが怒るところなんて想像できないんだけど……」
「私もです……」
小野阪千彰といえば、笑っているか居眠りしているか。それ以外の顔を一同は見たことがなかった。それくらい彼女はHELPS事務所にしっくりと溶け込んでいた。彼女だって人間なのだから、怒るときや悲しむときもあるだろう。理屈では皆そう思っている。しかしいくら想像しても、あのほけほけとした笑顔に青筋や陰影を浮かばせることはできなかった。
「ひょっとして、あの笑顔のまんまで怒ったりするのかな、ちーちゃん」
「……怖い、怖すぎる。否定しきれないだけに」
「あの和宏が千彰さんに頭の上がらない理由って、意外とそう言うところにあるのかもね」
恵の言葉に徹は身震いし、拓海が危険な想像をやや毒の薄い表現へと還元した。だがそんな不毛な妄想に一石を投じたのは、またしてもお嬢様の一言だった。
「だけど……きっと清水さん、包み隠さず千彰さんに話すんじゃないでしょうか」
「そうかしら? カズにそんな度胸があるとは思えないんだけど」
「でも……私が千彰さんの立場だったら、清水さんのこと怒れないと思うんです」
「……たしかに、非常事態だったもんね、あれ」
詩織の言葉を由宇子が引き継ぎ、一同は深々と頷いた。そう、銃声まで轟いたあの状況は、明らかに非常事態。あそこで手を差し伸べなかったとしたら、自分たちは和宏のことを一生軽蔑し続けたことだろう……それが分かっているから、さすがの恵も「和君の女たらし」とは言わなかった。一同が心配したのはあくまで「千彰が知ったらどう思うか」であって、和宏の行動そのものではないのだ。
「……まぁ、千彰さんがどう思うかを僕たちが心配しても仕方ないよ。それよりもこれからだ。あの黒服の男たち、あの船の行き先に先回りするんじゃないかな?」
「そうだった! カズたちが危ないわよ」
拓海の指摘に楓音は色めき立った。考え事があまり得意でない彼女は、事態がアクション方面になると俄然元気になると言う困った性格をしている。だがそんな楓音を由宇子が制止した。
「まぁ、とりあえず……事務所にいったん戻らない? こういうことは大輔さんが専門だろうし、それに恵ちゃんが仕掛けた盗聴器の受信機も事務所にあるしね」
「そんな! あの連中が追いついちゃうかも知れないって時に、わざわざ事務所まで戻ってたら!」
「大丈夫だよ。和宏さんたちが乗ったの、水中翼船だから……追いつけるボートなんか無いって」
そう、千彰たちが新婚旅行に選んだのは優雅な客船ではなく、豪放な水中翼船だったのだ。おそらく何も考えずに選んだんだと思うが……今回はそれが幸いした。船体を浮かせて水中翼だけで水上を駆ける水中翼船の巡航速度は、商業用ですら45ノット(時速83キロ)。水上でこれに勝てる乗り物はホバークラフト以外ない。
「だけど……」
「とにかく、ここにいたって私たち何にも出来ないよ。事務所に帰れば相談も出来るし、いざとなったら転送装置で好きなところに送ってあげるから。ねっ」
緊急事態を前にしながら、現場を離れて本拠地に戻る。由宇子の提案はきわめて非常識なものであったが、物質転送装置の存在がその戦術を合理的なものにしていた。楓音は渋々由宇子の提案に従った……それに冷静に考えてみたら、銃を持った男たちを相手に手ぶらで喧嘩できるわけもないのだ。
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「はい……あ、大輔さん! 聞いて聞いて、大変なことがあったんだよ……えっ、依頼?」
そして港からHELPS事務所に帰る車の中。物質転送装置でやってきた徹・楓音・由宇子の3人を加えたため、拓海の車の乗員は6人になっていた。身体の大きい徹が助手席に座ったため、女性たち4人は後部座席にすし詰め状態。そんな女性陣の1人の携帯電話に、HELPS所長からの電話が入ったのは高速道路から抜けた直後のことだった。
「うん……うん……えっ、でもそれって、もしかして……いいのかな、本当に……」
由宇子は電話機を耳に当てず、液晶画面を目の前に立てて大輔のボディランゲージを読みとっている。もちろん由宇子以外の者には大輔が何を言っているのかは一言半句も分からない。耳をそばだてても無駄だと悟った一同は、黙って由宇子の電話が終わるのを待ち受けた。
「うん……わかった、もうすぐそっちに着くよ……じゃ」
数十秒後、由宇子が電話を切ると同時に最初の質問を投げかけたのは、遠慮という言葉を知らない社長令嬢であった。
「由宇子ちゃん、何かあったの?」
「急な依頼だって。時間がないから早く帰ってきてくれって……大輔さんが」
「へえ、大輔さんが僕たちのことを待つなんて、珍しいね」
「恵ちゃんの出番だって言ってたよ」
「ボク?」
「うん、到着が遅れてる花嫁さんのために、結婚式場で代役を務めて欲しいんだって」
由宇子はあっさりと微笑んだ。このころはまだ、これが大騒動の幕開けになると予想している者は居なかった……。