偽花嫁、請け負います
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ここで時刻は1時間ほど戻る。千彰たちの旅立つ港に向かって、制限速度を順守しながら高速道路を疾走する1台の乗用車があった。そしてその中では、3人の男女が姦しい言い争いを繰り広げていた。
「拓兄ちゃん、もっとスピード出してよ」
「無茶いうな。制限速度は80キロなんだぞ」
「高速道路で制限速度を守る人なんていないよ。ぐずぐずしてるとちーちゃんの出発に間に合わないよ」
「背中越しにゴチャゴチャ言わないでくれ恵。3人も乗せて運転するなんて久しぶりなんだ、まだ感覚が戻らないんだから」
ハンドルを握る青年の名前は胡桃沢(拓海(。古那賀大学の3回生で、同級生の徹や楓音とともに便利屋HELPSでバイトしている青年である。「お前は本と結婚するのか」と親に心配されるほど物静かな性格の持ち主だが、2つ年下の従妹とその親友が大学に入ってきてからというもの、「沈黙のドンファン」との異名を冠せられるほどの羨ましい同棲生活を送っている。
「もう、拓兄ちゃんは臆病なんだから」
「私たちが一緒だから、事故を起こさないように気をつけてくれてるんですよね、拓海さん」
後部座席から不平をたれているボーイッシュな少女が、拓海の従妹の早河(恵(。助手席で優しくフォローしてくれるお嬢さま然とした少女が恵の親友の涼谷(詩織(。ともに拓海の同棲相手である。
2人は一時、拓海をめぐって恋敵の関係にあった。しかし子供のころから従兄の拓海のことしか見てこなかった恵と、男性恐怖症の箱入りお嬢様ゆえに拓海以外の男性には口を聞くことすら出来ない詩織では、どちらも身を引くことが出来ず……拓海に一方を選ぶなんてことが出来るわけもないまま、現在の3人同棲へとなだれこんでいる。もっとも当人たちにとっては、十分に考え納得したうえでの行動であるわけだが。
「それにしても清水さんたち、新婚旅行が船旅だなんて、素敵ですよね」
「違うって詩織ちゃん。こないだ和君(をからかってたら、資金面と語学力の事情によるやんごとなき選択だって白状してたよ。ちーちゃんもその辺は分かってくれたみたいだし」
夢見る箱入りお嬢様がふと漏らしたつぶやきを、がさつな社長令嬢が木っ端微塵に吹き飛ばす。ところが箱入り娘の想像力は、とんでもない方向にスライドした。
「ねえ拓海さん、私たちの新婚旅行は、どこへ行きましょうか?」
「いっ?!」
危うくハンドル操作を誤り、追い越し車線の車の真ん前に滑り出す3人の車。急ブレーキとクラクションの音が鳴り響く。拓海は慌ててハンドルを逆方向に切り、後部座席の恵は人形のように車内を転がった。助手席の詩織は小さく悲鳴を上げた……そして神のご加護か、若葉マークの拓海はどうにか無事に元の車線に戻ることが出来た。
「いたたたた……詩織ちゃん、いきなり何てこと言うんだよ!」
後部座席から身を乗り出した姿勢で、思いっきり拓海と頭をぶつけた恵。だが詩織は何事もなかったかのように言葉を続けた。
「私、あんまり旅行ってしたことがなくて……恵ちゃん、恵ちゃんはどこがいいと思う?」
「えっ、ボ、ボク?」
「うん、3人で素敵な思い出の作れそうなところって」
どうやら詩織に抜け駆けをするつもりはないらしい。ほっと安堵した恵は真剣に考え込んだ。同行するのは男性恐怖症の親友と、読書好きで出無精な従兄。どう考えても、旅行の主導権は自分が握るしかない。
「そうだね、じゃイギリスなんてどぉ? 拓兄ちゃんは大英博物館でも見てもらって、ボクはシャーロックホームズの変装して……」
「それじゃ私は……」
楽しそうに空想の翼を広げる少女たち。蚊帳の外に置かれた拓海は、ハンドルを握りながら深々と溜め息をついた。3人での新婚旅行という非常識な空想に、何の疑問も持たなくなりつつある自分たちに恐ろしさすら感じる。だが……。
《これでも僕たちって平凡な部類のカップルなんだよな、うちの事務所の中では》
拓海は薄笑いを浮かべながら、これから行く先で待つであろう新婚さんカップルのことを頭に浮かべた。
**
そしてその頃。便利屋HELPSの面々に温かく見送られるはずの新婚ほやほやのカップルは、拓海たちの車の十数キロ前方をオープンカーで爆走していた。こちらは制限速度など守っちゃいない。そして焦る運転手に茶々を入れることもなかった。
「まずい、まずい、まずい……新婚旅行に夫婦そろって遅刻なんて、サマにならなすぎる」
新郎の清水(和宏(は荒々しくハンドルを切りながらつぶやいた。徹や拓海と同じく古那賀大学の3回生で、便利屋HELPSのバイトをしている彼が、めでたく華燭の典を挙げたのは3週間前。それから今日までの至福の日々は、まさにこの世の春と呼ぶにふさわしいスイートライフであった。優しい新妻とのふたりっきりの生活。憧れの恋人を独占できる夢のような日々。そんな2人の将来の基盤を作るためと思えば、苦痛だった医学部の講義を聞くのにも熱が入るというもの。
古那賀の撃墜王との異名をとった清水和宏をそこまで変えた、天使のような花嫁はというと……。
「すぅーっ、すぅーっ……」
オープンカーの轟音をものともせず、助手席で寝ていた。
彼女の名は清水(千彰(、結婚前の姓名は小野阪(千彰(。便利屋HELPSの事務処理を一手に引き受ける24歳の女性で、彼女が休んだらHELPSは1週間でつぶれる、と冗談抜きで言われるほど有能な事務員である。人当たりのよい性格と天然の入った雰囲気で事務所内外にもファンの多い女性であったが、女性関係の清算の手伝いを依頼してきた清水和宏と行動を共にするうちに恋に落ち、初恋がそのまま実る形で和宏とゴールインしてしまった次第。
……そして千彰は、どこでも寝られて裸にされても起きないという独特の特技を、いま遺憾なく発揮しているところであった。運転席の和宏は無防備な彼女を見て、思わず生唾を飲み込んだ。
《ちくしょう、千彰さんがいけないんだ! 毎朝あんなに美味しい料理を作るから……あんな可愛い顔で笑うから……今朝だって、あんなに可愛いしぐさで俺のネクタイを締めようとするから、俺だってつい……ええい、今だって……》
後半は完全に和宏の八つ当たりである。かつて50人の女性と同時に付き合ったという伝説のプレイボーイは、今や天然ボケの年上妻の前にメロメロなのであった。こうなってしまっては、もう運転に集中することなど出来ない。
《千彰さんがいけないんだ》
和宏はそうつぶやきながら、緊急駐車帯に車を停めた。そしてオープンカーの座席を周囲の目から隠すために雨天用の電動カバーのスイッチを入れてから、眠っている妻の顔に唇を近づけた……。
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そして十数分後、停車した和宏の車の脇を、拓海たちの車が走り抜けた。互いにそうとは知らぬ一瞬の出来事であったが。