偽花嫁、請け負います
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「それじゃあ、行って来ます」
「行ってらっしゃい!」
「あっあっ、ちーちゃんこれっ!」
船の乗船口に向かって歩き始める新婚夫婦。その千彰に向かって、恵があわてて鍔広の帽子を差し出した。
「詩織ちゃんとボクからのプレゼント。ちーちゃんに似合うだろうと思って……やっぱり新婚旅行の花嫁は、帽子をかぶってなくちゃね」
「ありがとう、恵さん。大切にしますね」
もらった帽子を頭に乗せて、手を振りながら船の階段へと歩いていく千彰と和宏。HELPSの一同はにこやかにそれを見送った……そして声が届かない距離にまで離れてから、あれこれと雑談を始めた。
「楓音、俺の勝ちだな」
「何がよ?」
「千彰さんさ。思いっきり普段着で来ただろ、予想通り」
「……まだそんなこと気にしてたの?」
千彰の格好は、近所の商店街にでも行くような当たり前の普段着だった。和宏の方も夏向きの軽い服装だった。ぴしっとスーツを着こなした楓音の格好は、3週間前とは逆の意味で浮いていた。
「決めるべき場所に普段着で行くのは恥ずかしいけど、逆は良いのよ」
「はいはい、そういうことにしとくかね」
「そ、それにしてもさ、詩織ちゃん気が利くじゃない。帽子をプレゼントするなんてさ。あれで千彰さん、だいぶサマになったわよ」
楓音はばつの悪さをごまかすように、涼谷詩織のほうに話を振った。花嫁の帽子のことに気を回すなんて、あの恵ちゃんにできるわけない……そう確信しての言葉。しかし詩織の方は、どこか恥ずかしそうに首を横に振った。
「いえ、あの帽子は……恵ちゃんの発案なんです」
「えっ?」
「ウシシシ、これでちーちゃんのハネムーンはバッチリだもんね」
薄気味悪い笑顔を浮かべる恵。こういう笑顔の方が彼女のイメージに合っているというのは、悲しいことだが現実であった。拓海が怪訝そうに従妹の少女を見下ろす。
「恵、また何か企んでるのか?」
「うん、なんだかんだ言っても心配だからね。盗聴器を仕込んで置いたんだ」
「盗聴器ぃ?!」
「……ああ、それで」
恵の言葉に皆が驚く中、ようやく納得できたように手を叩く由宇子。そして由宇子は、10日ほど前に1本の麦藁に似せた盗聴器の開発を恵に頼まれたことを明かした。そんなものを作れる由宇子も由宇子なのだが。
「なにかと便利だからって言われて作ったんだけど、あの2人に付けるつもりだったんだね」
「ゆ、由宇子ちゃん納得してる場合じゃないよ。趣味悪いじゃないか、新婚夫婦の会話を盗み聞きするなんて」
「心配ないよ。どんな装置だって、要は使い方なんだから」
平然と微笑む倉品由宇子。そんな彼女の表情をみて、HELPSの中で一番の常識人という評価は降ろした方がいいかも、と葉賀楓音は心の中で思った。
**
船の甲板へとのぼる階段を並んで歩く、美しい新妻。清水和宏は至福の時を噛みしめていた。思えば結婚してからの3週間、年上の千彰さんにリードされっぱなしであった。彼女はきちんと自分のことを立ててくれるのだが、彼女が勤め人で自分が学生であるという現実は予想以上に重い。この新婚旅行、見知らぬ土地で格好良いところを千彰さんに見せなければ。
「あっ!」
いきなり襲ってきた突風。千彰の帽子が宙に舞い、カモメのように空を飛んだ。2人はハラハラしながら帽子の行方を目で追ったが、迷った末に港の方に戻っていく帽子をみて安堵の表情を浮かべた。あれなら間に合う。
「俺、ちょっと戻って取ってきます。千彰さん、先に船に乗っててください」
「すみません、和宏さん」
せっかく恵にもらった帽子なのに、出発前になくすわけには行かない。千彰は拾いに戻ろうとしたが、和宏の言葉を聞いて気持ちを改めた。和宏さんが拾ってきてくれるなら、私はそれを待ってればいい。和宏さんはきっと取り戻してきてくれる。私、和宏さんを信じているんですもの。
**
一方の和宏は、次々と階段を上がってくる後続客をかき分けながら階段を下り、波止場へと降り立った。そして帽子が落ちている場所へと走る。残念ながら見送りの連中からは離れた方向で、どっちかというと駐車場の方に近い。また風に飛ばされないうちに拾わなくては。
色男の例えにも有るとおり、和宏はあまり足が速いほうではない。和宏が追いつくまで風が吹かずにいてくれたのは僥倖と言っても良かった。だが帽子を手にした瞬間、別の意味での突風が彼を襲った。
「和ちゃん〜!!!」
「……!!!」
駐車場の方から響く、彼を呼ぶ声。聞き覚えのある女性の声だった。そして和宏が顔を駐車場に向けた瞬間、その声は白いドレスを着たまま彼に体当たりしてきた。
「和ちゃん〜っ、和ちゃん〜和ちゃん〜和ちゃん〜〜っ!!!」
「ち、ちょっと待ってくれ、君は……」
とっさのことで名前が浮かばない。だが和宏の脳裏に、明らかな危険信号が鳴り響いた。昔ごく短い間つきあって、すぐに別れた女の子である。確かこの子、ヤバイ事情を抱えてたはずじゃあ……。
「お願いっ! あたし追われてるの、助けて!」
「そ、そんなこと言われたって、俺はこれから……」
よりにもよって千彰さんとの新婚旅行に、昔の彼女を連れて行くわけには行かない。和宏はその場に立ち上がると、すがりつく彼女を振り払おうとした。ところが……。
「あっ、あそこだ!」
「逃がすな、捕まえろ!」
その時、駐車場に滑り込んできた黒い車から黒服の男たちが数人ほど飛び出してきた。荒い声を上げながらこちらに向かって走ってくる。女の子はおびえたように和宏の背後にうずくまる。
その時、出航を知らせる2度目の汽笛が鳴った。
「悪い、急ぐから!」
「待ってお願い!」
早く船に戻らないとまずい。理性と本能が頭の中で騒ぎ立てていた。和宏は一目散に船の階段へと走った。1歩遅れてドレスの女性、そして20メートルほど遅れて黒服の男たちが続く。そして黒服の男たちとの距離は見る見る縮まっていく。
「一緒に連れてって!」
必死で追いかけながら叫ぶ女の子。だが和宏に出来ることは振り向かずに走ることだけだった。女性に厳しい言葉を掛けられない元プレイボーイの習性が、こんな時になって災いした……そして、船の階段に取り付いて後ろを振り返ったとき。女の子は搭乗口ぎりぎりで、港の職員に制止されていた。
「お願い! あたしあの人の連れなんです、通して!」
「切符は? 無賃乗船はダメだよ、もう出航だ、離れなさい!」
すがるような瞳の光が和宏に突き刺さった。和宏は差し伸べそうになる手を必死に押さえていた。可哀想だが仕方がない、あの子の事情は俺とは関係ない……それにこの手を伸ばしたら、千彰さんを裏切ることになる。
《すまない、俺なんかに頼ったのを不運だと思って……》
ずぎゅーうぅーん!
和宏がそう諦めかけた瞬間、1発の銃声がその場の空気を引き裂いた。
「「「きゃあぁーっ!!」」」
黒服の男の放った威嚇の銃声。それを聞いた見送り客たちは悲鳴を上げながら頭を低くし、港の職員までその場にうずくまってしまった。警備員たちがバラバラと黒服の男たちに駆け寄る。制約の無くなったドレスの女の子は、最後の力を振り絞って和宏の方に駆け出した。そして和宏は……その銃声によって、心の中に残っていたわずかな逡巡を吹き飛ばされてしてしまっていた。
「こっちへ来い!」
「和ちゃん?!」
「いいからこの手に捕まれ! 早く!」