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そして朝風と寄り添うように
日時: 2015/05/30 14:46
名前: ひよっくー

 ※このSSには一部過激な表現が含まれます。大したものではありませんが、そのような表現が苦手な方は、読み進める際ご留意ください。
 また。少々長くなっておりますのでアンカーをつけておきます。
>>1
>>2
>>3
>>4 
>>5 あとがき
>>6

 書き忘れていましたが、ハヤリサで、ちょっとSF風味のお話です。
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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.1 )
日時: 2015/05/30 14:48
名前: ひよっくー

難儀なものだ。歪なあなたを誰もが讃える。




16歳のわたし、朝風理沙にとって、学校生活は基本的に退屈で、それでいて愛すべきものだ。だからこそ、わたしは日常の範囲内で物事を楽しむための努力を怠らない。親友の美希も泉も、そのあたりは同様だろう。ヒナギクだって、些か真面目に過ぎるところはあるけれど、毎日を精いっぱい生きていることに変わりはない。
だけど彼はどうなのだろうか。
わたしはこのところ、その人のことを良く考える。
お人よしで、いつも自分の主をはじめとして、人のことばかり考えている彼、綾崎ハヤテは、自分の人生を彩ることを、ちゃんと考えながら生きているのだろうか。
 彼と話す機会が増えてから、わたしはそんなことを考えてばかりいる。


涼しいが寒いに変わり始める秋の日。二人で防寒着をしっかり着込んで、わたしとハヤテくんは木陰に座り込んでいる。少し動けば汗ばんでしまうだろうけれど、わたしたちがそうすることはない。
「ハヤ太くん。本当に大丈夫なのか?」
「心配要りませんって」
 そう言って、ハヤテくんは苦笑しながら、わたしをなだめる。大げさすぎると彼は笑うけれど、わたしは至って真剣だ。
 一月ほど前のこと。
彼は学校に来てから様子がおかしかった。気になって尋ねてみれば、学校に関することは、白皇に通っていたということ以外、ほとんど何も覚えていないというのだ。
 カウンセリング、診察を経て、突発的な記憶喪失だという診断が下された。
原因は不明。ストレスが原因なのではないか、というのは、なんだか無理矢理に原因を仮定しているように思えたけれど、人に辛いところをなかなか見せようとしない彼のことだから、それが一番ありえそうに思えた。
今ではいくらか回復したけれど、まだ思い出せていないことも多いのだ。「仕事のことは体が覚えているから、心配ないですよ」などと言っているけれど、今は主のナギちゃんにもゆっくり休むように言われて、暇を貰っているらしい。
放課後はこうして、学校を回ったり、わたしとお喋りをしたりする。記憶を取り戻すため、なのだが、最近はわたしと喋ることのほうが多くなった。
「住まわせてもらっておいて、働かないなんて、ニートみたいで心苦しいんですよね……」
「まあ、それだけ心配してるってことだろう。心遣いはありがたく受け取っておくべきだぞ。ハヤ太くん」
 常になく、わたしは優しい声をしていたと思う。こんなのキャラじゃない、とも。気を遣われたら嫌になることだってあるだろうに、どうしてもわたしには、そんな対応しか出来ない。
「そもそも主人のナギちゃんからして、ニートみたいな生活を送っているじゃないか」苦し紛れに、そんな冗談を言ってみたりする。
 ハヤテくんは、喉の奥で呼気を転がすように、小さく笑う。
「朝風さんに優しくされるのは、なんだかいつまで経っても慣れませんね。いつも新鮮な気持ちにされますよ」
「またハヤ太くんは、そうやって人の好意をからかう……」
「いえ、感謝しているんですよ。本当に」
 また、そう言って人のよさそうな笑みを浮かべる。
 わたしはその笑みに、責められているような錯覚を覚える。
 親友の美希も泉も、ここに来ないのはなんとなく似たようなことを考えているからだと思う。ヒナギクも、雪路も、ホモも、他のみんなも、同じようなことを考えているのだ。彼はいつも周囲から被害を被ってきた。彼が記憶を失うほどにストレスを感じていたのなら、それはもしかして、自分のせいではないか、と。
「……そろそろ、帰りましょうか」
 芝生から立ち上がって、ハヤテくんは提案する。こちらの本音を見透かしたような態度に、一瞬、怖くなる。今の状況に、戸惑っていないはずがないのに、自然に気を遣う彼が、なんだか他人のために磨り減っていくような、そんな気がする。
 なんだかんだで、彼のそばはいつだって心地いい。だけどそれは、彼がいつも、誰かのために無理をしていることを証明しているようで。
 だから、きっとわたしは一人で空回りして、焦って、こんなことを言ってしまったのだと思う。
「なあ、ハヤテくん」
 言ってから、物凄い恥ずかしさに襲われた。衆人環視の中に裸で放り出されたような、そんな気分だ。
 わたしと彼の間には、いつだって冗談の壁があった。名前を言い間違えるというのはその際たるもので、わたしが彼に向ける感情をフィルタリングしていた。
 ここからは、それがない。
 真っ白になりかけた頭で、どうにか言葉をつむぐ。
「きみは、もっと、周りに、わがままを、言っていい。そう、思う」
 声はどんどん小さくなって、最後のほうは自分でも聞き取れなかった。
きっと顔が真っ赤になっていたと思う。いつだって、わがままを聞いてもらっていたくせに、図々しくはないだろうか。そんなことを思う。
 反応を見るのが怖くて俯いた。彼の顔に、ひとかけらでも迷惑そうな、あるいは失望したような色があれば、わたしはきっと立ち直れないだろうから。
 わたしが、夕焼けに染まって金色の絨毯みたいになった芝生とにらめっこをしていたのは、そう長い時間ではなかったと思う。
「……それじゃあ。何か、一緒に食べていきませんか? 夕飯に差し支えない軽食とか、もしくは、コーヒーとか」
 声が返ってきても、まだ顔は上げられなかった。そよ風に揺れる芝生をにらみながら、なんとか声を絞り出す。
「なんなら、奢ってあげてもいいんだぞ」
「いえ、そこまで言うのは、わがまま初心者の僕には荷が重いので」
 顔を上げると、彼の笑顔がそこにあった。とびっきりの冗談を言った後みたいな、なんだか茶目っ気のある表情。あまり面白くはなかったが、わたしも笑った。
「スタバでどうだ」
「行きましょうか。あ、そうだ。今お嬢様がバイトをしている喫茶店もあるんですけど」
「そうか。じゃあハヤテくん。これはわたしからのわがままだ。二人っきりがいい」
 不敵そうに笑えたと思う。いつものわたしみたいに。
 後から思えば、わたしは俯くべきじゃなかった。ずっと彼の目を見ているべきだったのだ。

 
 二人が付き合いだすのに、そう長い時間はかからなかった。悔しいことだけど、多分相性がいいのだ。きっとわたしよりも。
 ハヤテ君が誰かと交際をするにあたって、おぼろげにわたしが予想していた障害。つまりはナギのご機嫌については、結局、危惧していたほど悪くはならなかった。彼に対して好意を寄せていた人は数多くいたけれど(たとえばわたしのように)、今でも概ね良好な関係のままだ。きっとそれは理沙に負けた、とみんなが理解せざるを得なかった。というのが大きい。
 ハヤテ君が大変なときに、一番近くにいたのは理沙だった。みんなが彼を傷つけてしまうこと恐れてデリケートになっていたときに、彼女だけは近づいて、傷を癒すことを選択した。自分が傷つきたくなくて、彼のためだと心を偽ったわたしなんかとは大違いだ。
 わたしは今でも覚えている。夏の終わりごろだった。夏休みが終わって色々と慌ただしくて、そんな中で学校に現れた彼の、迷子になったような途方に暮れた顔。クラスのみんなのこともほとんど覚えていなくて、結局彼は少しだけ泣いた。
 その時の「ごめんなさい」という言葉で、わたしはこれ以上ないくらい打ちのめされた。そんなものは見たくなかったし、聞きたくなかった。わたしは彼に、何かをしてあげるべきだったのだと思う。少しでも恩返しをするべきだった。
 だけど動けなかった。
 きっとわたしに、彼のそばにいる資格はないのだと、そのとき思った。
 理沙と付き合うようになって、ハヤテ君は少し積極的になった。もともと行動的ではあったけれど、人間関係で受身に回ってばかりだった頃と比べて、よく冗談を言うようになったり、慌てることが少なくなって、紳士的な態度で接するようになったり、言ってしまえば大人になったというか。魅力的になったというか。
 それが彼女と付き合いだしてからの変化だというのが、なんとも憎たらしいものなのだけど。
 今でも彼は生徒会室に手伝いに来るし、あの三人がサボることも少なくなった。ハヤテ君と他の女の子が二人きりになるような状況が嫌な理沙と、彼女と離れたくない泉に美希、そして険悪な関係にならないよう絶妙にフォローを入れるハヤテ君。
調和が取れているというか、取っているというか。以前までの彼なら、状況に流されて、その状況自体が悪い方向へと向かっていったように思う。恋は人を成長させるということか。ああ、まったく。
「どうしたんですか? ヒナギクさん」
「いいえ、なんでもないわよ。ハヤテ君」
 顔に出ていただろうか。神妙な顔を作って、彼から書類を受け取る。
 と、同時に、さりげなく理沙のほうを伺ってみる。一見仕事をしながら他愛ないお喋りをしているように見えるけれど、長い付き合いのわたしにはわかる。あれはこちらを監視している目だ。目に見える嫉妬は表に出したくないけど、やっぱり心配だし気になる。そんな葛藤が、彼女の背後に浮かんで見える。
 仕方のない子だ。
 やれやれ、なんて心中で呟いて。わたしは浮き輪を投げることにした。
「もう何度も言ってるけど、ハヤテ君と理沙が付き合うって、きっと半年前のわたしに言っても信じなかったでしょうね」
「意外ですか?」
「そうね。理沙なんて誰かと付き合うってイメージがなかったし」
「失礼だな。ヒナ。わたしはこの中でも、随一の乙女だと自負しているぞ。まあ一番の乙女はハヤテくんだろうが」
「それで言うと、一番男勝りなのはヒナギクさんですか」
「よくわかってるじゃないか。流石は我が彼氏」
「ちょっ! ここで反撃するなんてずるいわよ!」
 思わず机を叩くと、ニヤニヤした顔を隠しもせず、美希が話しに加わる。
「ほら、落ち着けってヒナ。帰りにハンバーグ食べさせてあげるから」
「美希! 子ども扱いもしないで!」
「何か食べるならお菓子にしようよ。ケーキとクッキーを、いいんちょさんは所望します」
「泉。所望なんて難しい言葉よく知ってたな。意味はわかってるのか?」
「知ってるに決まってるでしょー!」
 なんで助け舟を出すつもりが、こんなに騒がしいことになったのだろう。
 わたしは結局、その日予定していた仕事を諦めることにした。
元々余裕はあるのだから、今はもう、この騒がしさに身を任せてしまってもいいだろう。
 自分でも驚くほど穏やかに、そんなことを思った。


 彼が仕事を再開しても、わたしとハヤテくんが二人並んで座る放課後の時間は変わらない。広すぎるこの学園をあちこち歩いて、気が向いたら腰を下ろして、二人で話をする。
運動部のランニングの掛け声や、吹奏楽、軽音部、合唱部の音色が遠く響き合い、風に揺れる木々のざわめき、鳥の鳴き声が雑多に混ざる。
 そんな雑然とした音の世界に、ふと静かな時間が訪れる。
 軽口を止めて、目を閉じて、わたしはハヤテくんの前で無防備になってみる。
 予想していた、ついばむような口付けを、わたし余裕綽々といった体で受け入れる。もちろん虚勢だ。心臓の音を聞かれてしまいそうなくらい、わたしの血液は緊張から体中を波打っていたし、普段の十分の一も動かない頭と心で、邪魔が入らないように、神様に祈ってさえいた。
「少しは、上手くなりました?」
 目を開けて、離れた彼の顔を見れば、なんだか少し得意げで、いつものくせで憎まれ口の一つでも叩いてやりたいのだけど、心と喉は嘘を吐くなと、それに反抗する。
 仕方がないから、素直になってやるとしよう。
「ああ、凄く。きっとわたしのほうが下手なんだろうな」
 愛はきっと、お互いを強く抱きしめあうことで伝わるんだと思う。わたしは彼にそれを伝えたくて、のしかかるようにして彼のほうに倒れこむ。
 ポン、と二人の厚着が空気を弾いて、わたしはハヤテくんの腕の中に収まる。難なくわたしを支えてよろけもしない彼に、男らしさを感じる。
 見た目からは想像できないけれど、彼はとても強いのだ。
 少しだけ早くなった心臓の音と、背中に回しあったお互いの腕に身を任せて、わたしたちはそのまま、ぬくもりを確かめ合う。
 なんだか最近、ハヤテくんが凄く大人びて見えるときがある。いつだって笑っているけれど、微笑の消えた彼の顔立ちは、普段の幼げなイメージとはかけ離れた、泰然自若とした青年のような趣がある。
 わたしはそんなハヤテくんが好きだ。思うだけでも気恥ずかしくて、口にしたならきっと、わたしは緊張で体が爆発してしまうんじゃないかと思う。
「上手いですよ。きっと。比較は出来そうにないですけど」
「当たり前だ。そんなこと言ったら軽蔑してやるんだからな」
「心配しなくてもしませんってば。……それに、理沙さんは、甘え方なら世界一上手いですよ。それだけは保障します」
 耳元で交し合う会話に、わたしは返球しなかった。黙って身体を押し付けて、彼の背中側に顔を突き出すような格好になる。今の顔を見られたくない一心なのだけど、きっとこういう行動が、彼の目には甘え上手の動かぬ証拠と映ってしまうのだろう。
 違うと否定したってうそ臭いし、弁解のために顔を見るなんて、心臓が耐えられそうになかった。それに、わたしをからかうような彼の声は、優しくて嬉しそうだった。
 他にも色んな理由から、わたしは甘え上手の汚名を被ることに決めたのだった。
もちろん口に出すことはなく。
ただそこを立ち去るまでの間ずっと、何も言わずに彼を抱きしめて、彼に抱きしめられていた。


 朝風神社の宝物堂には、先祖代々の蒐集癖の結果とでも言うべきか、いわくつきの骨董品だの貴重な絵だの、歴史的に見ればそれなりに価値があろう日本刀だのが、壁際の棚に無造作に並んでいる。
 ヤンチャな子供だった頃の私にとって、ここは兄と忍び込んで探検して回れるかっこうの遊び場だったのだけど、ここを管理している祖父に見つかって日本刀片手に追い回され、宝物堂はわたしと兄にとって、拭いがたいトラウマの象徴になったのだった。
 せっかくのお休みの日に、わたしとハヤテくんが、何故そんなところに来ているのかというと、その手の骨董品の管理や修繕にも詳しいということを、彼が言ったからで、最近いよいよボケてきたお爺ちゃんが、ちょうど維持管理の専門家を探していたからで、これは本当についでなのだけど、彼を家族に紹介できたら、というわたしのささやかな願望があったからでもある。
 将来どうなるか、ということを実はわたしは良く考えていない。高校時代に付き合った人と結婚する、というのが割と夢物語に属することだというのは、なんとなく知っているし、いかに私の家がお金持ちだからと言って、婿養子のために一億五千万をポンと出せるほど彼に甘いかといえばそんなことはいやいやわたしは何を考えているんだ。
「あの、顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ!」
 何も心配することはない、という意思を込めてサムズアップ、ついでに胸を張って、わたしは彼の言葉をさえぎる。
 ハヤテくんの不安そうな視線は、やがて宝物堂の中に戻っていった。真剣な目つきで、いつの時代のものかよくわからない壷をさまざまな角度から眺めて布巾で拭いたり、古書をパラパラとめくってから天日干ししたり、日本刀をゆっくりと引き抜いてから綿でほこりを取ったり、真剣そのものだ。真剣だけに。
「なかなかいい手際じゃな」
 入り口のあたりでそれを見ていたお爺ちゃんが呟く。わたしは振り返るけれど、お爺ちゃんはずっとハヤテくんの手つきを見ている。わたしは彼が盗みなんてするわけないと思っているけれど、お爺ちゃんにとっては自分の管理する骨董品をいじくる彼の手つきを、端から信用するわけにはいかないのだろう。一度は賽銭泥棒と間違えた相手だし。気分はどうあれ、それくらいはわたしにもわかる。
 ハヤテくんは無造作に置かれた護符を手にとって、裏を見て、書かれた文字を数秒注視して、元の場所に戻した。ああいったものへの対処は専門外だったのだろうか。
「お爺ちゃん、一応言っておくけど、ハヤテくんはいいひとだぞ」
「それはわしが見てから決めることじゃよ」
「あと、わたしの彼氏でもある」
 お爺ちゃんは絶句し、ハヤテくんは新たに手にとっていた壷を危うく落としかけた。
 恨みがましそうな、爆弾を投げないでくださいよ。という視線を受けて、わたしはにやりと笑って見せた。兄とイタズラを繰り返していた、一人のヤンチャな女の子に戻ったようで、なんだか少し気分が晴れた。
 作業はそれから放課後や休日に暇を見て続けられたけれど、お爺ちゃんの視線は、警戒よりも品定めのほうに重点が置かれたように、わたしは思う。

 余談ながら、ハヤテくんはこのとき、保護修繕した品を一つ一つリストアップしていた。比較的管理がずさんだった我が家の宝物堂において、それが重宝したのは、また別の話である。宝だけに。


 うちの彼氏には甲斐性がないものだから、基本的にデートは割り勘である。お互いの経済状況からすれば、わたしが毎回奢ったっていいくらいなのだけど、それは流石に拒否された。
「殿方のプライドというものは、わたしにはよくわかりませんわ」
 口元を隠してオホホなんて笑ってみる。
「微妙に似合っているところが、またなんとも嫌味だな」
「いつも悪そうな顔してるだけで、理沙ちゃんほんとは美人さんなんだよねー。気品があるっていうか」
「……そんなに、普段のわたしは駄目かな?」
「あ? え? い、いやそんなことないよ? いつだって理沙ちんは美人さんだよ?」
「美希、泉がいじめるんだ……心にもないことばかり……」
「ち、違うよ! 理沙ちん泣かないでー」
「泉、……遊ばれてることに気づけ」
今は昼休み。三年生になっても、わたしたちの会話は変わらない。
 これはとても望ましいことだし、幸せなことだ。実のところ、ハヤテくんと付き合い始めるにあたって、泉やヒナとの友情にヒビが入ってしまうのではないかと危惧していたのだけど、結論から言えばまったくもって杞憂でしかなかった。友情は恋より硬いのだ。
「しかしそうなると、デートも中々難しいんじゃないか? というか、お前たちは趣味が合うのか?」
 美希の疑問は案外痛いところを突いている。わたしはハヤテくんがわたしに合わせて、自分自身は楽しめない、という状況が一番嫌だ。といっても、ハヤテくんの方からすれば、わたしがつまらなそうにしているというのが一番嫌だ、ということになるだろう(このあたりは、付き合い始めの頃に話し合った内容である)。
 結局のところ、お互いが楽しめてなおかつ金銭的に負担の大きくないデートを、という目的が十全に果たされているかといえば、課題多々、といったところである。
 放課後に二人で話しているだけでもわたしは幸せなのだけど(もちろんこんなことは二人には話せない)、二人で遊んで楽しみたい、というのはまた別の願望なのだ。
 映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、一緒に食事をしたり、ゲームで狩りをしたり、お茶を点ててみたり、恋人同士でやることなのか疑問符の残ることも色々やった。それでももっと、と思うのはわがままだろうか。一緒に楽しめることをなにもかもやり尽してしまったら、わたしと彼の間にある恋人同士の感情は、飽きという名の逃れ得ない奈落に落ちて、消滅してしまうのではないか。
 そんな無形の不安を振り払いたくて、わたしは色んな遊び方を彼に提案しているのだ。
「どうなんだろうな。わたしの趣味はハヤテくん寄りになっている、と思うんだけど、向こうがどうかとなると……」
 そんなわたしのセリフに、まず美希が驚き、ついで泉も可愛らしく口元を押さえて、少し身を引いた。
「え? な、なんだ?」
「いや……、そうか。当たり前だけど、理沙はハヤ太君のことをハヤテくんと呼んでるんだな」
「恋人同士だし、そんなものなんだろうけど、今の呼び方、なんかいつもの理沙ちんの喋り方より、すっごく優しそうだったよ。愛がこもってたっていうか」
 ぬあああああああああああああ!!!
 失態だ。
 あまりにも恥ずかしくて、わたしは頭を抱えた。
 いつだって二人の前では、ハヤ太くんと呼んでいたというのに。そもそもなんで、名前呼びしていることがばれるだけで、こんなに恥ずかしい思いをしなくてはならんのだ。
「理沙ー?」
「今は何も聞かないでくれ…………」
「そうか、ならもう一人に聞こう。ハヤ太君。君はうちの親友から、いつも名前で呼ばれているのかね?」
 いっそここから逃げてしまおうか。
「ええ、そうですよ。恥ずかしがることないんですけどねえ」
 君もなにを普通に答えてるんだ。愛しの彼女が頭を抱えているのが見えないのか。
「あと、うちの彼女をあんまりいじめないでやってくださいね」
「……その発言のほうが、理沙を追い込んでいると思うぞ」
「理沙ちゃん耳まで真っ赤だー」
 この隠れ鬼畜め……。
 結局わたしは午後の授業が始まるまで、ややニヤケ気味の顔を戻せないまま、俯いていたのだった。


「時間は未来から過去に流れる、っていう言葉があるんですよ」
 夏休み前の期末テストが終わった頃、ハヤテくんはそんなことを言った。わたしたちの雑談の種は意外と節操がない。というよりもハヤテくんの雑学が豊富なので、わたしは彼の話を聞いてはなんだか一つ賢くなったような錯覚をして、それを自慢げに親友たちに話したりするのである。
「それは、普通に考えて逆じゃないのか?」
「ええ、僕らは普段、過去に原因があるから、未来でその結果が起こる、という考え方をしています。勉強しなかったから補習を受ける羽目になった、とか」
「……今回は、補習は一個だけなんだからな」
「大幅な進歩ですね」
 さらりと言う彼は、一時期記憶をなくすなんて騒動で、勉強も停滞していたというのに、今では成績優良生。普段の努力の賜物なのだろう。でも劣等生をいじめるのは止めて欲しい。
「話を戻しますと、この考え方は、未来にある結果が先にあって、その原因が過去に生まれるんだ、という考え方なんです。時々ビジネスや受験生相手のうたい文句に使われてますね」
「受かりたければ、受かるための勉強をしろということだな」
「そういうことですね。流石に飲み込みが早い」
「ふふふ、もっと褒めるがいい。あ、いや、頭は撫でなくても……、いやなんでもない。……でも、それがどうしたんだ?」
「最近ではそれを題材にした、未来が確定して過去が変わるっていうSFがでてるんですよ。なんとなく小説を読んでみたら、これが面白くって。……嫌じゃなければ、このまま撫で続けますけど、いいですか?」
「誰か通りがかったら恥ずかしいから、それはあとで。その本は気になるな。タイトル教えてよ。あとで注文する」
「貸しましょうか?」
「いや、いい。きっと時間がかかると思うんだ」
「読書はあんまりしませんもんね。それで、タイトルは……」

 結論から言ってしまうと、わたしがその本を読み終えたのは夏休みが終わる直前だった。
海外のSFで、未来を変えるために秘密裏に作られたタイムマシンを使って、過去を奔走する警察官と、彼の手から零れ落ちていく無数の未来を描いた連作短編。ラストでは前提が崩れ落ち、ハヤテくんが言う、未来が確定して過去が変わる、という理屈が正しいのだ。という話から、男がそれに反抗してもう一度歩き出す。というストーリー。最後は未来に行ってしまうのだ。
紹介されたときから既に、わたしはネタバレを食らっていたことになる。特別腹立たしいとは思わなかった。わたしが特に注目して読んでいたのは、主人公と一人の少女が、仕事に翻弄されながらも恋を育んでいく過程だったからだ。結局最後には、主人公はヒロインを置いて、男として最後の仕事をしに未来へ行き、そこで残りの人生を過ごす、というストーリだったのだけれど。
後味がいいとは言えないが、それでも面白い話だった。文句は次に会ったとき、たっぷり言ってやればいいだろう。
一応言っておくと、夏休みの間、ハヤテくんに会えたのは片手で数えられる程度の回数である。
 三千院家は、というかナギちゃんは同人誌を描くのに集中するのだそうで、ハヤテくんはそれを手伝うのだそうな。そしてそれが終わったらバカンスにもでかけるらしい。まあ、彼女より主を優先するのか? なんて文句は、下手をすればわたしたちの関係を崩しかねない爆弾だ。口にする気はない。
それにわたしはわたしで、毎年夏休みはかけがえのない友人と旅行に行ったり、ダラダラと駄弁って過ごすのが慣例だ。友人と彼氏のどちらを優先するか。というのは、わたしたちがその時々で決めることであって、基本的に固執することはない。愛する人しか目に見えない、なんて関係ではないのだ。
それでも、よく写真つきのメールを送りあったり、電話をしたり、旅行先が近いと知って予定を変更して突撃したり、そんな風にして、わたしと彼の夏休みは過ぎて行った。
 夏休みが終わり、少しだけ日焼けしたわたしは、彼に会った。文句を言うのも忘れて「あの本。すごく面白かった」と言うと、ハヤテくんはなんだか誇らしげに笑った。それなのに、どこか寂しげな印象を受けたのは、わたしの錯覚だろうか。
前見たときより大人っぽく見えるのも、きっとあまり会えなかったこの夏の間に、色々と苦労をしたせいなんだろうな。
そんなことを思っていたわたしを、彼は突然抱きしめた。
 みんなに冷やかされた。
 わたしは恥ずかしくて真っ赤になっていた。彼は楽しそうに笑っていた。
 幸せだったと思う。

 綾崎ハヤテが行方不明になったのは、それから一週間ほど後のことである。

 彼の行方不明に関連するあれこれの騒動については、わたしはほとんど覚えていない。ただ、ナギちゃんが手配した捜索隊、それから警察への連絡が、功を奏するように祈っていたことは、なんとなく覚えている。
 祈りも虚しく、ハヤテくんは三日経っても、一週間経っても、一ヶ月経っても、半年後のわたしたちの卒業式になっても、姿を見せることはなかった。
 死んではいないはずだ。とは、わたしとは違って霊能力を持つ本物の巫女、鷺ノ宮伊澄の発言である。身近な誰かが死んだなら、自分にはわかるはずだ。と。彼女の言葉を、今さら疑う余地もない。それがわたしたちの、一縷の希望になった。
 皮肉なことなのだけど、ナギちゃんが学校に来る頻度は、彼がいた頃よりも増えた。朝起きてハヤテくんがいないことを確認し、それでも学校に来れば、何食わぬ顔で自分の席に座っているような気がするのだという。
 悲しい想像だと、わたしは思う。
人のことを言える義理もないだろうに、わたしは彼女を励まそうとした。仲のいいみんなで集まって、彼の思い出話だとか、帰ってきたらどんなお仕置きをしてやろうか、なんてことを殊更冗談交じりに話しては、傷を舐めあった。
 時間が経つにつれて、そんなことをする機会も減っていき、わたしはいつしかどこか義務的な、彼は帰ってきたか、という質問を繰り返すようになった。
 よくもまあ、あんな非生産的で暗いやり取りに、短気な彼女がかんしゃくを起こさなかったものだと思う。
 ともあれ、わたしは高校を卒業。受験勉強の甲斐もあって、どうにか、という体ではあるけれど、晴れて大学生の身分を手に入れることができた。
情けない話だけど、彼のことを過去にするのは、この時点でのわたしにはとても不可能なことで、結局彼氏の一人も、作ることは出来なかったのである。 

 お酒の飲み方を覚えて、代わり映えのない面子と、成人とは思えない遊びに精を出して、時々は新しい友達と笑いあって、気まぐれに勉強して、そんな風にして、わたしの大学生活は過ぎていった。目に見えて堕落したわけではないけれど、やっぱりなんだか惰性で生きているという思いはあった。
 ハヤテくんに会いたかった。
 もはや遠い昔のように思えるあの日々のことを、わたしはどうしても忘れられずにいる。
不敵と冗談と馬鹿な真似は、わたしの得意技だったはずだ。でも、それでは人を誤魔化すことは出来ても、私自身を助けることは出来やしないのだ。
わたしの悪い癖をすぐに見抜いてしまう彼に会いたい。見ているだけで本音を言わずにはいれなくなる、彼のあの眼差しが恋しい。優しさに包まれて、優しさを返してあげたい。
「一体、どこをほっつき歩いているんだ」
 いつまで待たせる気だ。
 そんなことを、わたしは何度となく呟く。
彼のことを振り払えなくて、いや、振り払ってしまうことが怖くて、わたしは日々を消費していった。
いなくなる前、彼に薦められたあの本の続編を、わたしが見つけたのは、そんな大学三年生のときのことだった。

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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.2 )
日時: 2015/05/30 14:50
名前: ひよっくー

神様はきっと僕のことが嫌いだろう。
だけど少しだけ信じてみようと思うんだ。




パッケージを破ってタバコを一本取り出し、恐る恐る口にくわえて、僕はマルボロライトに火を点けた。喉の奥を突き刺す、痛みにも似た違和感。
途端に咳き込んだ僕は、庭の向こうで呆れたように渋い顔をするマリアさんに見つかったことに気づく。
「お屋敷の中はポイ捨て禁止ですからね。SPの皆さんの真似でもしたくなったんですか?」
彼女の視線は冷たい。とはいえ人は慣れるもので、そんな極寒の視線を前にして言い訳を紡ぐスキルくらいは、僕といえども学ぶものなのである。
「ここに来て、もうすぐ“十年”になりますから、僕も自分の目標というものを決めてみようかと思いまして」
「目標?」
 マリアさんは首を傾げてみせる。この人は出会った頃から、あんまり外見が変わっていないものだから、年を重ねた今でも、そんな幼い動作に違和感がない。
「日に日に立派になっていくお嬢様に近づくためには、僕もまた、高みを目指す執事であるべきだと思うんです。そして理想の執事といえば、そう、ウォルター・C・ドルネーズ以外にありえな痛ッ」
 マリアさんの持っていた箒が、綺麗な弧を描いて僕の額を打ち据える。
「タバコを吸う上に物騒な技を持ってて、最終的に主を裏切るような執事を見習ってどうするんですか。見習うなら、もっと平和で問題の少ない人にしなさい」
 額を押さえて反論の言葉を探すけれど、満足のいくセリフはでてこなかった。
前言は撤回だ。
 慣れ親しんだマリアさんのお説教には、僕なんかでは反撃の糸口さえつかめそうにない。
 ふぅ、と一息ついて、彼女は出来の悪い生徒を見る教師のような目をする。
「趣味嗜好にまで口を出したくはありませんけど、あの子の前では吸わないでくださいね。健康に悪いですから」
「大丈夫です。もう吸いませんよ。自分には合わないってことが、よくわかりましたから」
 そう言って、僕はタバコのパッケージをポケットに納める。あとで焼却炉にでも放り込むか、愛煙家のSPに渡すとしよう。
 吸殻の火を消して携帯灰皿に押し込み(結局これも一回使っただけでお役ごめんになってしまうだろう)、仕事を再開することにした。マリアさんに手を振って、早足気味に歩き出す。
 “26歳”の僕、綾崎ハヤテにとって、人生はすばらしいものだ。怠けてばかりだった主は立派な大人に成長しつつあり、親しい友人がいて、仕事は充実している。恋愛のこと、将来のことがどうなるかまでは、気が回らない部分もあるけれど、幼い頃の暗い日々からすれば、満たされすぎて怖いくらい。
 目の前に道は見えている。
前に進み続ければ、きっと何があってもなるようになるだろう。
どこまでもポジティブな予感に包まれて、僕は今、幸せの真っ只中にいる。
 願わくば、こんな日々がいつまでも続きますように。なんてことを不幸な僕が祈ったら、その願いを神様は握りつぶすだろうか。
そんな少々不謹慎なことを、僕は考える。

 そして実際、彼の人生は順調に続いていくのだ。終わりが来るまでずっと、幸せなままで。


 起き上がった僕が手始めにしたことは、ベッドサイドの水差しが空になるまで、喉を潤すことだった。
そのままそれを地面に投げつけて、目の前を手で覆い、亀のように背中を丸める。
とにかく、現実を見つめていたくなかった。
 ベッドの傍らには伊澄さんがいた。彼女がどんな顔をしているか、僕は目でなんとなく追ってはいても、それを認識することができなかった。
「……不公平だって思うのは、僕の器が小さいからですかね」
「多分、正常な反応だと思います。少なくとも、見る勇気もないわたしより、あなたのほうが強いはずです。ハヤテさま」
「慰めになってないと思いますよ」
「ごめんなさい、そういうのは苦手で」
「いえ、すいません。気が動転していて」
 謝る伊澄さんが、本当に申し訳なさそうに見えて、僕は少しだけ冷静になる。
 病室のように真っ白な部屋は、眩しいくらいに明るい。けれどその明るさが、僕を元気付けることはない。もう一度ベッドに倒れこんで、僕は自分の内面を省みる。何を見たのか、反芻していく。
 今の自分が何をしていたのか。それを再確認しなければならない。
 
僕は彼女の力で、眠りながら未来を見ていた。
既に失われた未来。
それはお嬢様が生きている未来。マリアさんが心を病まなかった未来。僕の友達が生きている未来。僕が笑っている未来。みんなが楽しそうに走り回っていた未来。
一年前の“2006年”に、白皇学院高等部の卒業式を襲った、実用化は40年後の未来予想図にしか存在しないはずの、レーザー兵器を使った突然のテロがなかった未来。
僕の目の前で、みんなが蒸発しなかった世界。
消えてしまった未来を、何故垣間見ることができるのか。全ては伊澄さんにしかわからない。僕にもわかるように話してくれた内容からすると、彼女の能力は時間にも作用することが出来る、ということになる。
何故そんなことが出来るのか。その問いに、彼女はこう答えた。
「それはきっと、わたしが未来を身近に感じたからでしょう」
これは抽象的だけど、事実とそう遠い意味ではない。運良く(僕の体質から言えば、これは不幸に位置することなのかもしれないけれど)吹き飛ばされて大怪我で済んだ僕と、咄嗟のことに自分の周囲数人しか守れなかった伊澄さん。そのそばには“時間を越えた何か”が存在していたのだという。「わたしのそばで起きた現象に、きっとわたしのセンセーショナルが反応したのでしょう。だから、多少原理が曖昧なままでも、こうして消えていく未来の欠片を、ハヤテさまに見せるくらいは出来るんです」
 そのとき、僕は黙って聞いていた。頭がパンクしかかっていて、突っ込みを入れる気力もなかったのだ。
 彼女が天才であることはゆるぎない事実で、それは他の誰にも真似の出来ない資質なのである。だからそれを受け入れた上で、僕らが出した結論は、あれは未来からのテロである、ということだった。
 白皇学園の卒業生一同が会するあの場所に、テロを起こさねばならなかった者が、未来に存在するというわけである。
「つまりはターミネーターの真似をしたわけですね」なんて呟きは冗談にもならない。映画の中にしか存在しない現象が、僕らを殺しかけ、僕らの大切な人々を殺したわけだから。
 これからどうするべきか。あの場にいて助かった僕、伊澄さん、それに咲夜さん、執事の巻田さん、国枝さん、クラウスさんとワタルくん、それにサキさん。頭をつき合わせて出した結論は、目の前の悪夢に真っ向から立ち向かう、ということだった。
「じゃああれを、なかったことにしてやろうじゃねえか」
ワタル君の言葉には、その内容とは裏腹に力強さが欠けていた。
それは実際的な行動を起こすための宣言というよりも、現実を受け止めきれないまま、なんとか立ち上がるための儀式と言ったほうが的確だっただろう。冷たく凍りついた理性はそう言っていた。
「ええ、同感です」
 僕の口がそう動いたことに、不思議はなかった。僕もまた、現実を直視するよりも夢物語に身を預けることを望んでいた。
 
 僕はそれから何度も夢を見た。
何故こんなことが行われたのかを知るために、僕は僕やその周辺の人々が生きていたらどんな生活を送っていたのか、偵察に出たのである。
僕はもちろん、ナギお嬢様も、マリアさんも、ヒナギクさんも、生徒会のメンバーも、僕のクラスメイトたちも、概ね幸せそうに笑っている。辛いとは言えなかった。言えばきっと、伊澄さんは僕を止めようとするだろう。目覚めたとき、僕は涙を流しているか、酷く動揺している。だからきっと気づかれているだろう。それでも言葉にすることは絶対に出来なかった。時間は少なく、手段はそれしかないのだ。
時空の挟間に消え行く未来の欠片は、伊澄さんの力を持ってしても、どんどん不鮮明なものになっていく。時が経ったからではなく、どんどん距離が遠くなっているためだ、と彼女は言うのだけれど、彼女と、実際に未来を垣間見る僕以外にとって、その言葉は理解しがたいものだったろう。
パラレルワールドは人が認識不可能なほどに多いわけではない。簡単に産まれることもない。
未来は一直線に続き、無数に枝分かれしているけれど、過去から地続きにつながった未来以外の可能性は、誰にも気づかれないまま砕けて、時空間の果てに落ちながら、ゆっくりと拡散していくのだ(ゆっくり、といっても、そこに時間なんてものは存在しないけれど、僕が認識できたものを言葉にするには、時間を持ち出したほうがわかりやすい)。
簡単なイメージにすれば、それは枝のない、果てしなく長い一本の木、というのが一番わかりやすい。
どんどん枝が腐り落ちていくから一本にしか見えないけれど、時々気まぐれに、腐りきる前の枝が地面に落ちて、またそれが別の木になる。ワタル君と咲夜さんには、ストレートに「わかりづらい」と言われた。仕方がないのだ。僕の認識能力の問題もあるけれど、この説明だって、的確に時空の特徴をとらえているとは言い難いのだから。
時空の形を知っているのは、現在僕と伊澄さんだけである。そして未来には、僕ら以外にもこれを知っている人がいるのだ。 
 自分の未来が消えてしまう可能性を知り、タイムマシンに類するものを作って、そのための障害を順番に消していく。動機はそんなところだろうか。だとすれば、大きくなりそうな枝を積極的に切り落とさんとする、庭師のごとき馬鹿げた話である。そんな大馬鹿野郎が、僕らが今生きている時間軸のずっと先に存在しているのだ。吐き気を催す話だ。
 知るべきではなかった知識を知ってしまった者。僕らをその敵を、有害識者と呼ぶことにした。
 名前を付けたからといって何が変わるということもなかったが、卒業式から二年が経っても、僕の中の憎しみが消えなかったのは、きっとその名前がとても腹立たしいからだろうと思う。

「もう、これ以上は無理ですね」
 冷静に言う彼女の髪は、力の使いすぎで真っ白になっていた。長い長い夢のあと。激しい動悸に耐えながら、僕は頭を下げる。
「無理を言って、申し訳ありません。そして、本当に、ありがとうございます」
「いえ、休んでいれば、わたしの力は戻ります。ハヤテさまこそ、今のは相当辛かったはずです。ちゃんと寝てください」
 もはや伊澄さんであっても、これ以上未来を追うことは出来ない。
 身体はさっきまで寝ていたというのに、猛烈に眠かった。たっぷり半日の睡眠をとって、僕らは作戦の実行を決断した。

「一番の目的は、恐らくお嬢様です。とはいえ、恐らく他の方々も同様に邪魔だったのでしょうが」
 結論として、彼女らが遠い未来に行う、なんらかのプロジェクトが、未来を大きく変えるのだろう。ということ。それを行わせたくなかった有害識者が、全てが始まる前に、あの場を襲撃したのだろう。ということ。そしてその何者かが、どうやって未来から過去へと跳んだのか。ということ。
 奴、あるいは奴らが自分が消える可能性に怯えている、ということは既に話していたので、説明に難航することはなかった。
「敵の手段がわかった。ということかね?」
クラウスさんの驚きは、他の誰もが思うところだったらしい。
「どうやって? いえ、それより、それを妨害すれば……」
「ええ、タイムパラドックスが起こることでしょう。今のこの世界は消えて、みんなが生き残る未来を作れる」
希望的観測である。ということは口にしなかった。そんなことはみんなわかっているのだ。
僕らが救った未来を、その目で見ることは出来ない。それも口にはしなかった。みんな一緒だ。巨大な喪失感と、それをなかったことに出来るという希望が、この世界で幸せを見つけるという選択肢を消してしまったのだ。


結論から言えば僕らは失敗した。
僕がつかんだ敵の手段。それは一種のオーパーツによる技術革新と、伊澄さんのような特殊な人の能力が融合して生まれた、一種のバイオティカルマシンである。
僕らが計画したのは、件のオーパーツの奪取、そして破壊だ。
方法自体は悪くなかった。
テロで亡くなった朝風理沙さんの実家である朝風神社。その宝物堂に置かれた、一見普通の“護符”にしか見えないそれは、内部の札に書かれた文字自体が、緻密な論理回路を模しており、霊力を通せば時空の仕組み自体への干渉を可能にするという、あまりにも出来すぎな代物である。
「恐らく、未来から過去へと飛ばされたのでしょう。きっとループしているんです」
適当な見解にしか聞こえないだろうけれど、僕としては伊澄さんの、本人の言うところのセンセーショナルな部分に期待していたし、同意するしかなかった。
実行は、僕、伊澄さん、巻田さん、国枝さん。
ワタルくん、咲夜さん、クラウスさんは待機。
もちろん、未来からの妨害を予期していなかったわけではない。そもそも計画を少人数で進めたのだって、現在だけではなく未来に対しても、情報が漏れることのないよう気を遣ったからなのだ。だけど甘すぎた。
巻田さんと国枝さんが消えたのは、一瞬だった。
それがどんな攻撃であるか把握することもできず、僕はとにかく駆けた。扉を蹴破る勢いで宝物堂に飛び込み、吹き飛んできた伊澄さんを受け止めて、二人そろって堂内の棚や骨董品などを砕きながら転がった。
すぐに動くべきだったけれど、痺れた体は結局動かなかった。出来たのは、ただ見ていることだけだ。
普段のおっとりとした様子からは想像できないくらい早く、伊澄さんは走り、手を伸ばした。
その先には、一枚の護符がある。

そこから先のことは覚えていない。
20歳の僕は、気がついたら16歳になっていた。
2005年の晩夏。夏休みが終わった気だるい季節。
状況を理解した僕は起き上がることも出来ず、ただ涙を流した。
何もかも失敗したことはわかっていた。
しかし、お嬢様がいて、マリアさんが笑っている、懐かしく輝かしい時間が、扉一枚向こうに広がっているのだ。少なくとも、冷静でいることは出来なかった。ただ涙が流れるに任せ、僕は体感としては本当に久しぶりに、執事服に袖を通した。
全てが夢だったのではないか。
そんなことさえ思った。


「お前はさっきまで“神社にいたのか?”」
部屋を出た瞬間、僕の意識は現実に戻った。
ドアの前で待ち構えていたクラウスさんの表情は、今まで見たこともないほど険しいもので、僕はこの人が4年後からやってきたのだとすぐにわかってしまった。
ショックを受けた自分を皮肉るように、僕は苦笑を浮かべた。
「全部夢だったのかも、って、ちょっと期待していたんですけどね」
「同感だな。……わたしが来たのは昨日の夜だ。わたし以外に時間を遡行したのは、ワタルさま、サキさん、咲夜さま、つまり待機していた者たちだな。戻ってこないお前たちを待って、いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めたらわたしは屋敷にいた。他の方々はもっと早くに遡っていた。伊澄さまは普段から何を考えているのかイマイチわかりづらいところのある方だが、まだこちらには来ていないようだ。
恐らく、失敗したのだろう? そして、恐らく伊澄様はわたしたちが先に過去に到着するようにして、突入組が遡行してきたときのための準備をさせるつもりだったのではないか、と見ている。お前が来たということは、あの方や、愛沢家の執事ももうすぐ戻るかも知れんな」
詳しい説明は正直ありがたい。しかしこの人がこんなに長いこと喋るのは、本当に久しぶりじゃないだろうか。
「……巻田さんと国枝さんは、途中で攻撃を受けたようです。何をされたのかは、よくわかりませんでしたが、こちらに戻ることはないかもしれません。それと、何か相手に動きは?」
「……ない。一応警戒はしているが、未来にいるような相手には、伊澄さま以外太刀打ちしようがないのが現実だ。今は待つしかないだろうな」
「ええ、様子を見るべきでしょう。とはいえ何もしないでいるわけにもいきません」少しだけ、間をおいた。自分でもこのアイディアが名案というには程遠いものだと思ったからだ。しかし理には適っている。「僕はこれから、記憶喪失になろうと思います」
「は?」
「大丈夫です。本当になくすわけではありませんし、ショックで頭がおかしくなったわけでもないです。ただ、伊澄さんが戻ったとき、勘付いてくれるように、そして、僕らを相手が見張っていないという保障が持てないからこそ、僕はショックで記憶をなくした、可哀想な子の振りをするわけです。どのくらい効果があるかわかりませんが、注意を引けば他の人も動きやすくなるでしょう」
三秒ほど、クラウスさんは考えるような素振りをした。
表情に変化がないのは、年の功というものだろうか。
すぐに厳しい表情に切り替え、こんなことを言う。
「何を言っているのだ。綾崎ハヤテ。とっととお嬢様の朝食を準備にかかれ。記憶が曖昧などと言って仕事をサボろうなど、三千院家執事に相応しくない無様な言い訳だ」
ありがとうございます。
口の中だけで呟いた。
今のこの時間は、クラウスさんにとっても黄金より貴重な時間だろう。そんなときに、この人は僕の迷案に付き合って、嫌われ役を買って出てくれたのだ。記憶喪失の人間をこき使うなんて、と、お嬢様やマリアさんに怒られることは、不本意に違いないのに。
「わかりました。お嬢様が起きてくれるかは、ちょっと怪しいですけどね」
「それでも用意を済ませておくのが使用人の仕事だ」
「かしこまりました」
誰かのために食事を用意するのは、いつ振りだろう。考えるまでもない。
この幸せな時間がまだ続いていた頃だ。


結局、お嬢様とは話せないまま、僕は一人で教室に来ていた。
マリアさんには、記憶のことは話すには話したけれど、冗談と受け取られたようである。それよりも、お嬢様が今日は本当に熱を出してしまって、そちらのほうが僕もマリアさんも心配だった。
マリアさんの精神が、僕が思っているよりもずっともろいことを、僕は既に知っている。4年後にお嬢様がいなくなってしまってから、彼女は想像の中のナギお嬢様を世話するメイドになってしまった。
見るに堪えないとはまさにこのことで、笑えないのは、僕自身、復讐を志していなかったなら、いつも穏やかに虚空を見つめる彼女と同じ道を歩んでいたかもしれない。ということだ。
白皇の門をくぐり、守ることの出来なかったクラスメイト達と話して、自分がどんな感情を抱くのか、心とは別のところで、僕は心理学的な知的好奇心にも似た視点を持っていた。昔に比べれば、幾分すれていたわけである。
しかしなんてことはない。教室に入った瞬間、大きすぎる安堵感とあまりにも大きな喜びに、僕はすっかり立ち尽くしてしまった。
一人一人抱き締めて、涙を流して、思いの丈を全て吐き出してしまいたかった。
「どうしたの? ハヤ太くん」
入り口で立ち尽くす僕に、泉さんが声をかけてくれる。二年間、聞くことのできなかった可愛らしい声。それに対して本当のことを言えないというのが、ひどく辛い。
「あの、泉さん、ですよね」
「? わたしはいつでもわたしだけど?」
「どうしたどうした? もしかして泉が誰なのか忘れてしまったのか? ちょっとひどいぞ。ハヤ太くん」
「うむ、罰としてこれから……、え? ちょっ? ハヤ太君?」
あまりにも懐かしい、朝風さんのふざけた声が引き金だった。大きすぎる感情の粒が、雫になって頬を伝い、顎から落ちていく。これじゃあ駄目だ。いつもみたいに、笑顔を作らなければ。
ハンカチで涙を拭う。泣くのを止めるのは簡単だ。いつだって、僕は涙を堪えて生きてきたのだから。
「すいません、なんとなく覚えてはいるんですけど、その、僕、学校の記憶があんまりなくって……」
 教室がざわめきに包まれる。みんなが心配してくれている。
このばかやろう。
ええ、ばかですね。
心の中で、そんな問答を繰り返す。僕はまた、大切な人々を傷つけてしまったのだ。


精神科医の診察やカウンセリングを必死にやり過ごし、その日はすぐに放課後になった。心配そうな視線を振り切って「今日はこのまま帰ります」と言って、僕はすぐに学校を出た。
すぐにでも屋敷に帰りたかったのだけど、その前に、僕は秋葉原による事にした。ワタル君とサキさんに、一度会っておきたかったのだ。
「ばーか」開口一番ワタル君は言った。「もっと他のやり方はなかったのか」
「……クラウスさんに聞いたんですか? まあ少なくとも、今朝目が覚めたときには思いつきませんでした」
はぁ、とため息をつく姿は、僕の知るワタル君と変わりない。あの事件の後、彼とサキさんは店を続けながら僕らに協力してくれていたのだけど、それも一年ほどで止めてしまったはずだ。戻ってきたのは何ヶ月も前ということはないだろうから、彼が店頭に立つのは約一年ぶり。にしては、彼の姿は非常にここに馴染んでいる。堂に入っているというべきだろうか。
「俺が戻ってきたのは一週間前だ。そらお前よりは慣れる」
何に?
というのは意地悪な問いかけだろう。きっと一週間前の彼は、僕と同じくショックを受けていただろうから。
「今は出てっけど、サキも一緒だったわけだしな。それに今思えば、俺は現実をきちんと受けいれられていなかったんだろう。今のほうがしっくりきてるくらいさ。全部投げ出して敵討ちやるって決めたのは後悔してないが、それにしたって店が恋しくなかったわけじゃないんだ」
曖昧な言葉だけど、言いたいことはわかる。彼はこの時間に、既に順応しているんだ。恨みがましく思うべきではない。そっちのほうがいいに決まっているんだ。だけどどうにも羨ましい。
「もてたんじゃないですか?」
「……それは今、俺が一番触れられたくないところだ」
「それはすいません」
元々彼は大人びたところもあったけれど、年相応の少年らしさもあった。いまや外見は中学生でも中身は18歳になるわけで、それもそこらの18歳よりも人生経験は豊富ときている。一週間と言っていたけれど、少なくとも近くにいたサキさんなどからすれば、ワタル君はひどく魅力的に見えるのではないだろうか。
「おい、顔がにやけてんぞ」
「おっと、これは失礼」
表情を正すと、ワタル君は苦い薬を飲み干した後のように顔をゆがめる。
「あっちじゃ気付かなかったけど、お前ってこの頃と比べると性格悪くなってんだな。昨日までちょくちょく見てた、この時代のお前と比べると、それがよくわかるよ」
「大人の諧謔というものですよ」
「たかだかハタチで諧謔もないもんだ。単に底意地が悪くなったってだけの話だろ。……おい、何笑ってんだ」
気がつけば僕は笑っていた。こんな風に話をするのが、愉快で仕方なかったのだ。余裕も、笑いも、ずっと前に失くしていた。
「いえ、やっぱり、この時間はいいな、と。ワタル君と、こんな風になんでもない話をするのだって、それこそ二年以上なかったことでしたし」
「……そういや、そうだな」遠くを見るように、彼は目を細める。「余裕なんてなかったもんなぁ。俺たち」


俺は綾崎ハヤテという男に聞きたいことがあった。
今後どうするか、という話ではない。そんなことは既にこいつが来る前から何度となく話してきたことだし、そういう話をするときは、必要最低限以外の情報は口にしないようにしてきた。
「なあ」話したいことは一つだけ。それも、主語は省いて。「何でお前は、一人で背負い込もうとするんだ? 俺が頼りないからか?」
感情が出ないように、俺は気を遣わなければならなかった。俺は未来で、現実感のないままどうにか前に進もうとしては、何も出来なかった。もちろん俺だって、何もしなかったというわけではない。しかしそれは俺が周囲に比べればガキで、伊澄のような力があるわけでもなかったから、復讐の船から振り落とされないよう、誰でも出来るようなことを率先してやっていたというだけのことで。誰が一番辛い立場にいたかといえば、髪が真っ白になるまで力を使った伊澄と、常に中心にあったこいつなのだ。
担げる負担はすべて担いで、こいつはずっと歩いていた。
その重圧のひと欠片でもいいから、こっちに預けてくれれば良かったのに。
そんなものは、わがままと何も変わらないのはわかっている。それでもこいつの口から聞きたかった。
「それは僕のわがままですよ。他の誰にも譲りたくなかったんです。それはワタル君が頼りないから、というわけではなくて。……あなたなら僕より上手くやれたかもしれない。でも、僕はあなたがあなたを侮っていることを、自分の考えに当てはめて、自分に対する言い訳にしたんです」
綾崎ハヤテが喋り終えてから、しばらく俺は何も言わなかった。
さて、これを慰めと取るべきか。本音と見ていいのか。
「そうか」
 わがまま、か。そんなことを言いながら、こいつは謝らなかった。ではきっとそうするべきだと思った。いや、自分がやるしか道はないと、自分に言い聞かせていたのだろうか。
 めんどくせぇなあ。
 俺が想像している通りなら、こいつは心理的にも、重荷を背負わねば歩けないくらいフワフワしていたことになる。想像してやるだけでも面倒なことこの上ない。
 どっちでもいいか。
 最終的に、俺はそう結論付けた。
「サキが戻ってくるまで待つか? 俺だけに会いに来たわけじゃねぇだろ」
「いえ、あんまり遅いと、お嬢様とマリアさんが心配しますから」
「そっか。わかった」
俺はとりあえず手を上げて、それを振ってみる。
気をつけろよ、と声をかける。


朝風理沙という女性のことを、僕がどう思っているのか、実を言うと自分でもよくわかっていない。いや、彼女に対する感情にどんな名前がついているのかはよくわかっている。
僕は彼女に惹かれている。
しかし疑ってもいる。
彼女が嘘をついているとは思いたくない。しかし記憶を失ったと僕が嘘をついてから、近づいてきたのは彼女だけで、未来における僕の記憶は、朝風神社で途切れたのが最後なのだ。彼女は操られていないか? 催眠などにかかってはいないか? 彼女の演技力を侮っているということはないか?
こんな疑いを一度でも持ってしまったら、もうマイナスの想像力が止まることはない。彼女は美人で、空気が読めて、冗談ばかり言っているけれど実際は真面目で優しくて、恥ずかしがりやでいじっぱり、可愛いところばかりが目について……いやいやそういうことじゃない。
ともかく、全面的な信用をするべきか。という宿題を、僕は日々解かねばならなかった。罪悪感は無視した。最優先事項はお嬢様なのだ。それ以外は後回しでいい。
「おいしい?」
「え、ええ」
「わたしの奢りだからって、遠慮することはないんだぞ。それはわたしのオススメなんだ。もっと喜んでくれたほうが、わたしも嬉しいんだけどな」
僕らが今いるのは学外のカフェである。今日も彼女に誘われて、僕は放課後をのんびりと過ごしていた。お洒落なジャズが響く店内には、見るからにお金持ちの雰囲気をまとった人ばかりで、その時点で僕は自分が浮いているような気がして落ち着かなくなる。
普段ならどうということはない。こういう雰囲気は慣れているし、執事として、そういったときに被る外面の出来にも自信はある。しかし彼女は友人で、魅力的な女性で、そんな人の前で僕の執事としての仮面を被ることには、些か抵抗があるのだ。
だが僕の緊張とは無関係に、勧められたコーヒーとケーキは美味しかった。舌にはあまり自信がないけれど、これはお嬢様に用意するお菓子の参考になるな、などと頭の中で製法を分析してしまう。
コーヒーの酸味を喉に流してから、僕はなるべく紳士的に見えるように、余裕を持って話す。
「凄く美味しいです。柔らかい生地とクリームの甘さのバランスが非常に良いといいますか、それでいてコーヒーもケーキの味を引き立てるブレンドになっていて……」
「いや、ハヤテくん。気に入ってくれたのはわかるから、感想を言わなくても」
苦笑している彼女を見て、僕は突然恥ずかしくなる。
格好付けたくて饒舌になってしまうのは、まず紳士とは言いがたいだろう。誤魔化すように一つ咳をする。
「美味しかったです。が、やっぱり奢ってもらうのは気が引けます。最近朝風さんにはお世話になりっぱなしなんですから、むしろこういうときは僕のほうが……」
「ダーメ。言っただろ。君はもっと自分勝手で、わがままになってもいいんだ。だから君はもっとこう、その、ほら、オラオラしてるような、まあそんな感じでもいいんだぞ?」
「……僕はスタンドとか使えませんよ? それにそういうタイプになる気もありません。お世話になってばかりじゃ申し訳なくて気になっちゃうんですよ」
「君は悪人にはなれないな」
彼女の微笑みを見ると、心臓を引き絞られるような痛みを感じた。僕はかつて女の子を誘拐しようとしたし、今現在だって目の前の人に嘘をつきながら接している。
「とにかく、ちゃんと自分で支払います」
「わかったよ。それなら、なんでわたしが、君が言うところのお世話を焼いているのか。その理由を言うよ」
背もたれに体を預けて、朝風さんはなにか覚悟を決めたように、強い視線を僕に向ける。神職者に懺悔をする咎人のようだと、僕は思った。
「正直なところを言うと、申し訳ないと思ったんだ。君が記憶を失くしたのは、わたしたちがずっと迷惑をかけていたからじゃないかって。だから」そこで彼女は言葉に詰まった。消費しきった決意を込めなおすように、だから、と口の中で言葉を転がす。「だから、わたしは君のためになることをしたいんだ。友達のままで、いて欲しいんだ。だから、その、罪滅ぼしができるなら、なんだってしたい。ただ、それだけだ」
限界がきたようで、朝風さんは俯いてしまった。彼女は恥ずかしくなると、無防備に下を向いてしまう。はじめて、わがままを言ってもいい、と言われたときもそうだった。そのときの僕は彼女の言葉が無性に嬉しくて、しかし自分自身に対しては皮肉すぎる言葉に、口元を押さえて、なんとかつまらない冗談を搾り出したものである。そう、あの時も僕は仮面を被った。
「……わかりました。朝風さん。でも、迷惑をかけたなんて言わないでください。記憶を失くす前の僕は幸せでした。いや、幸せだったはずです。騒がしかったけど、それが凄く楽しかったんです。だから、俯くのは止めてください。僕も、あなたと友達でいたいです」
自分の言葉に含まれた、嘘と偽善の塊に、僕は嫌悪感を覚える。だけど彼女に対する感謝は本当だ。だから、彼女を傷つけないように、精一杯気丈に話した。胸が痛むのは、彼女のせいじゃない。きっと僕への罰だ。
「じゃあ、その、とにかくここはわたしが払うからな」
 顔を上げた朝風さんは、ちょっとだけ不機嫌そうだった。なんだか睨み付けられているように感じるのは、きっと気のせいではあるまい。
「はい、ご馳走になります」
 なるべく平静を装って、僕は答えた。内心が嵐であれ、静かに振舞うのが執事の嗜みだ。


「これから、どうすべきなんでしょうね」
「何がや」
 次の日、僕は咲夜さんのお屋敷に来ていた。流石に不審者と間違えられることはなかったけれど、二人だけで話すと言うと、巻田さんと国枝さんからはかなり疑わしげな目で見られた。
 未来において、彼らは咲夜さんの一歩後ろで控えつつ、様々な便宜を図ってくれたり、危険なことにも率先して付き合ってくれたのだけど、今の彼らは僕らと違って、未来から送られてきたわけではないらしい。
 最初に咲夜さんと会ったとき、彼女は自分の執事たちが何故戻ってこないのかを尋ねた。
彼らが突然消えてしまったこと。恐らく攻撃されたのであろうということを告げると、彼女は何も言わずに、ソファの背もたれを殴った。
 さておき、僕がここを尋ねるのは久しぶりのことだから、咲夜さんにもなんだか不審げな表情をされてしまった。基本的に僕らが情報交換をすることはない。いい意味でも悪い意味でも、状況は変わらず、日々は至って平穏なのだ。
「こんなことをあなたに相談するのは、自分でもどうかと思ったんですが」
「自分最近、ひと言多いって言われへんか?」
「よく言われます。で、実は僕、好きな人が出来たみたいで」
「は?」

 僕はそれから、朝風理沙さんに対して自分がどう思っているのかをかいつまんで話した。出来る限り誠実な話し方をしたつもりだったけれど、黙って話を聞き終えた咲夜さんはきっぱりとひと言。
「単なる惚気話やんけ」
 あほらし、とそんなことまで言って、彼女はことさらわざとらしく、どっかりとソファに腰を下ろす。やさぐれたようにそっぽを向く様は、お嬢様としての肩書きを成層圏の彼方まで放り投げたようで、ある種爽快な感慨を僕に抱かせる。
「そもそも、なんでそんなことをうちに言おうと思ったんや」
「だって一番恋人作ってたのは咲夜さんじゃ痛ッ」
「あれを恋人とは言わん。どうせなかったことになるなら、社会勉強でもしておこうと思っただけや。断じて恋ではない。わかったか? 借金執事。リピートアフターミー?」
「はい、あれは恋ではなく遊びだったんですね」
「ほう……」
 殺し屋みたいなオーラを纏って、咲夜さんはそれなりに重量のありそうな置時計を手に取り、立ち上がる。僕はホールドアップしながら後ずさり。
「すいませんすいません調子に乗りましたすいません」
 ジリジリと距離をとりながら、僕は降参の意を示す。人の怒りに鈍感な僕ではあるが、今の彼女が本気で怒っていないのはわかった。しかしここでそのパフォーマンスを流してしまうと、そのおどけた態度は本物の怒りに変わるのである。
 まったくこいつは、とでも言いたげなため息をついて、咲夜さんは置時計を戻した。そして幾分真剣な目をして、僕を見る。さてこいつの頭をどうやってカチ割ったものか。そんな風に観察されているような気がして、どうにも背筋が冷える。
「なあ、自分、いま幸せか?」
「……考えたこともないです」
「そうか、じゃあグダグダ考えるまでもないな。ええか? 今お前は自分が幸せになるチャンスを逃そうとしてる。ナギのため、みんなのためって理由を、自分が幸せになることへの障害に置き換えてる。お人よしの阿呆ここに極まれり、って感じやな。気になる可愛い女の子がいる。でもあの子は自分を騙しているかもしれない。そうじゃなくても利用されてるかもしれない。アホ。そんなもん、うちらみたいなお嬢様となれば日常茶飯事やボケ。それからすれば、心構えが出来る分上等なくらいや。違うか?」
 怒涛の発言に面食らったけれど、僕はなんとか異論を差し挟む。
「しかし、それでも用心に越したことは……」
「お前程度を篭絡してどうにかしようって相手なら、伊澄さんが片手で処理して終わりやろな」
 これにはぐうの音も出なかった。
 先ほどの僕の予想は当たったわけだ。頭をカチ割られた気分。
「おお? やっと気づいたか借金執事。自分ちょっと自意識過剰が過ぎるで。そんなもん、自分の臆病を正当化するのに使おうなんて片腹痛いわ」
 頭をカチ割られて塩を塗りこまれていた。
「……さっきお前が言ってたことやけどな? うちは後で全部なかったことになる恋愛ごっこでも、案外楽しかったんやで? もちろんそれで傷つきもしたけど、それは全部自分の糧になってるって、実感してる」照れたように頭をかく仕草をして、とにかく! と前置きの上でこちらを勢いよく指差す。「お前は今、一番アカン状態や。人のためと思ってるつもりで、その実自分も、その子も、うちら周囲の人間も、全員を侮辱してる。目ェ覚ませ。お前がやるべきは、自分が幸せになる権利を放棄しないこと。そのために行動を起こすことや。幸せになる努力怠ったら、人間終わりやで」
 自分の心をすり替える。自分を騙す。どちらも覚えがあることだ。僕はそれを後悔していたはずなのに、また同じ失敗をしてしまったらしい。
 彼女の言うとおりだ。
 幸せになる権利を、僕の前で大勢の人が奪われた。それを取り返そうとする僕自身が幸せを放棄することは、彼ら彼女らに対する一番の侮辱だ。
 立ち上がって、きっちり90度。僕は年下の女の子にお辞儀をした。
「ありがとうございます。咲夜さん。おかげで目が覚めました」
「よし、善は急げや。ちゃんと特攻してこい。……今から行くんやないぞ? ドン引きされて成功するもんも駄目になるから」
 そこまで先走った表情をしていただろうか。ともあれ時間はもう9時を回っている。仕事は休めと言われているとはいえ、今から帰ったら小言の一つは覚悟しておくべきかもしれない。
 ともあれ、明日だ。
 明日、僕は彼女に告白する。
 そう思うと、一気に視界が広くなり、世界が明るく感じられた。爽快で仕方なかった。そうだ、僕は僕のために動くんだ。いちいち他人を言い訳にすることなんてない。
 僕は咲夜さんの手を握った。
「本当に、ありがとうございます。成功したら、一番に報告に来ますから」
「失敗しても来てええよ。盛大に慰めパーティー開いたる」
 それはちょっとご遠慮願いたい。

 僕がどんな告白をしたのか。それは秘密である。
理沙さんにも、恥ずかしいから口外しないで欲しいとお願いしてある。「まったくの同感だから、みだりに口にはしないとも」とは彼女の弁。これは恐らく、彼女のかけがえのない友人にも明かされていない秘密だ。
 だからその時間は、僕と彼女だけの秘密である。誰にも話す気はない。
 というわけで、ささやかなおめでとうパーティーを主催してくれたり、そのあと起こったナギお嬢様とのちょっとした騒動を取り持ってくれた咲夜さんにも、それは内緒なのです。あしからず。


 僕と彼女が恋人になって何が変わったかといえば、たまの休日にデートにでかけたり、生徒会の手伝いによく顔を出すようになったり、動画研究会の部室で謎の動画を見たりするくらいである。端的にいえば理沙さんとの接点が増えたわけで、美人な彼女をものにしたという事実を、ずっと見せびらかしているようなものだから、これはなかなか周囲からやっかまれる立場になったとも言える。
とはいえ顔見知りや友人には決まって祝福されるから、そこまで苦にはならないのだけど。
 僕はもともと、高校生活の後半あたりから色々な趣味に目覚めていた。もともと持っていた雑多な知識に加えて、お嬢様のゲームに付き合ったり、アニメに詳しくなったり、というオタク趣味を深めたり、読書、音楽鑑賞、映画鑑賞なんかの一人用の趣味を開拓したり、失われた幼少期から少年期を取り戻すように、僕は自由な時間に楽しみを見出すようになっていった。かつて言われた「ローマの休日も知らないのか」という趣旨の言葉に反発信を覚えたというのも、理由の一つではある。
 とはいえ、お嬢様が「ハヤテが自分のことばかりでかまってくれない」と言って拗ねることもあったので、三年生の後半くらいからはお嬢様に付き合うことが多くなったのだけれど。
 とはいえ、平和だった頃の僕がそんな風に浅く広く趣味を開拓してくれていたおかげで、彼女との話題に困ることは少なかった。
「ハヤテくんの雑学は、なんだか頭が良くなる気がするから、わたしは好きだよ」と彼女は言ってくれるのだけど、あまり調子に乗って話しすぎるとそれはそれでうんざりされそうなので、喋り過ぎないように心がけている。
ちなみに「多分それは気がしているだけですよ」なんてことを言ってからかうと、彼女は目に見えてむっとする。なだめるのが大変なのでこれも控えるよう心がけているのだけど、彼女は怒っていても可愛いので、時々ついつい誘惑に負けてしまうのである。
 ちなみにデートはいつも割り勘だ。これは男のプライドの問題なのだ。

 彼女のお爺さんが、朝風神社の宝物堂を整理しなおそうとしている。というのは、彼女がそれとなく言っていたことだった。「一応出来ますよ。そういう仕事をしていたこともありますから」というのは、嘘ではない。
 嘘ではないが、渡りに船とばかりに「なら頼んでも良いかな?」なんて言ってくる理沙さんを見て、心が痛まないといえば、それは嘘になる。
 宝物堂に入るとき、なんとなく周囲を見渡してみたのだけれど、特に不審な点はなかった。巻田さんと国枝さんがいなくなったあたりを見て、なんとなく彼らがここにいないかを確かめてみたりする。馬鹿な想像だ。彼らがいなくなったのは未来の話で、亡霊がいるならもっと先のことになるはずである。
 骨董品はそこまで傷んではいなかったけれど、いくつかは専門の業者に修繕を依頼したほうが良さそうだった。簡単なものなら昔仕込まれた技術でどうにかなるけれど、僕では手に負えないものだってあるのだ。
 そして、未来で僕らが探していた護符を発見したのは、ある意味必然であったと言える。
目に見えて慌てることはなかった。背筋を氷が滑り落ちるような緊張感を、肌より外に晒すわけにはいかなかった。
 怪しまれない程度に、護符を色んな角度から眺めてみたり、振ってみたりしてみたけれど、なにがしかの妨害を受ける気配はなかった。中身を見るのは、修繕を任された身として適当な行いだろうか。
 開けようか。
 いや、人目があるからには、不審なことをするわけにはいかない。
 理沙さんとお爺さんの会話をそれとなく耳に入れながら、僕は護符を元の場所に戻して、高そうな壷を手に取る。きっと偽者や贋作ということはあるまい。綺麗なものだが、一応外側だけでも拭いたほうが……。
「あと、わたしの彼氏でもある」
 あやうく壷を取り落としかけた。
 爆弾を投げないでくださいよ。そんな視線を彼女に送る。
 お爺さんは、取り立てて何も言うことはなかった。しかしその目は厳しい。これは僕の予感だけれど、もし少しでも不備があったなら、お前のような奴に孫は渡せん! と怒鳴り散らされて追い出されそうだ。
 結局それから数日間、僕がその護符を調べる機会は見つからなかった。その代わりに、一つ一つ写真を撮った上で、名簿に纏め上げ「今後はこれを使えば管理がしやすいと思います」と言ってその名簿をお爺さんに渡した。
どうもそれをいたく気に入ってくれたらしく、結構なバイト代を貰ったのだけど、件の護符だけは名簿から外しておいたのは、言うまでもない。さりげなく、その護符を見つかりにくい場所に置きなおしておくのも忘れなかった。
罪悪感は僕を放してはくれなかった。いや、僕は決して、これを忘れてはいけないのだ。


とうとう始まってしまった新学期に焦りを隠せないまま、僕は幸せと添い遂げたかのように、いくらかの時間を彼女と過ごした。
恐らくは、僕がここに戻ってきた理由に関すること以外、全てのことが上手くいっていた。昨年のクリスマスまでにあった、三千院家の遺産やロイヤルガーデンに関する問題も、僕にすれば過去に解決した出来事である。多少の不幸に巻き込まれつつも、滞りなく解決した。
僕が単なる高校三年生の執事であったなら、きっとこの時期を小躍りしながら満喫していただろう。だけど18歳になる僕は本当はもう21歳の青年で、一年もしないうちに起こる惨劇を止めるために何をすればいいのか、手がかりすら掴んでいなかった。
伊澄さんがいなければどうすることもできない。しかし何故未だに彼女だけが戻ってこないのか。悲観的な想像はいくらでも出来る。何か僕らがこちらからアシストをするべきではないのか? 戻ってこれるとしてそれは間に合うのか? 何か彼女からのメッセージを見落としていないか?
咲夜さんも、ワタルくんも、クラウスさんも、サキさんも、僕と同じ焦りを共有していたから、どこか暗号じみた会話を交わすことが多くなった。
鷺ノ宮伊澄がこの時代に戻ってきたのは、そんな風に行き止まりの前でグルグルと歩いていた僕らが、六月の暮れを恨みがましく見送っていたときのことだった。

 不幸な人生を送り続けてきた僕だけが気づいた。
それは幸せの終わりを告げる鐘の音であったのだと。


「夏休みの旅行には、わたしと咲夜も一緒に行きます。そして、ハヤテさまには訓練を受けてもらおうかと」
 愛沢家の屋敷。誰もいない一室に集まった僕らを見て、彼女は開口一番にそう言った。
「訓練?」
「銃器を扱う訓練です」
「……一応、一通りのものは扱えますが」
「ええ、だからそこまで厳しい訓練にはならないでしょう。使ってもらうのは狙撃用の銃器です」
 背筋が冷える。もちろん予想していたことではあった。しかし彼女は僕に、誰かを殺すよう、明確に指示しているのである。怖気づくなというほうが無理な話だ。
「僕に、敵を撃てというんですね」
「……ええ、あなたがやらないならわたしがやります。だけどきっとわたしはその瞬間、力を使えないでしょう。だから銃を使うのが手っ取り早いのです。ですからハヤテさまに」
「伊澄さん」
 いつもおっとりとした彼女らしからぬ、言いづらいことを一気に言ってしまいたくて仕方がないような、性急な口調である。それだけでわかってしまった。
 きっとこれに乗ったら、僕はこの時代に帰ってくることは出来ない。
 僕は今、かつてないくらい幸せな時間の中にある。
 しかしそれは断る理由にはならなかった。
「俺がやる。こいつは十分頑張ったじゃねえか。銃くらい俺だって練習すれば……」
「若……」
 サキさんが、ワタル君のシャツを引っ張って、彼を止めようとしている。そして眼鏡越しに、罪悪感のこもった視線を、僕に向ける。彼女は気づいているのだろう。
 顔をそらしたサキさんに、僕は心の中で大丈夫です、と呟く。
 彼女がワタル君を止めるのは当然だ。それを責める権利が僕にあったとしても、それを使おうとは思わない。
「いえ、僕が行きます。……もう、帰ってこられないんでしょう?」
「なっ!?」
「……わたしも、出来る限りのことはするつもりです。しかし帰ってこられる確証は、向こうに行ってから出なければ得られないと思ってください」
「では伊澄さんも?」
「当然です。私にしか出来ないことですから」
 表面上は平静そのものだ。だけど、その言葉の裏側にどんな感情が込められているのか、僕にはわからない。
「じゃあ、失敗したら、うちらは友達を二人失くすってことやな。それは勘弁してほしいけど、伊澄さんがどうなるかわからないって言うんなら、きっとその通りなんやろ」
 力なく呟く咲夜さんは、あさっての方向を向いたまま、誰とも目をあわせようとしない。
「大丈夫。迷子になんてならないから」
 伊澄さんの言葉は冗談のようでいて、その実真剣である。
 重苦しい雰囲気は、その後も晴れることはなかった。夏休みの計画を話し合って、その日は解散となった。


 もうすぐ夏休みが始まる。
 放課後、僕らはいつものように二人で歩く。
 僕が理沙さんと過ごせる時間は、もしかしたらこれが最後かもしれない。梅雨が終わった初夏の季節で、彼女の夏服姿が眩しかった。
僕と彼女が会えなくなったなら、彼女は僕を忘れるだろうか。そんなことを思う。抱きしめて、キスをして、それからもっと先に進めば、彼女が他の誰かと幸せになったとしても、僕のことを時々は思い出してくれるのかもしれない。
僕にだって人並みの欲求はある。人として当然の行動を、彼女に乞うて何が悪いというのだ。
「どうかしたのか?」
 そんな風に尋ねられたとき、僕は自分の思考が彼女に読まれているのかと邪推した。それだけやましいことを考えていたということだけれど、僕は一瞬跳ねた心臓を押さえ込んで聞き返す。
「いえ、特に何かあったわけではないですけど」
「ふうん、そうか、ならいいんだ。ハヤテくんはたまに凄く真剣そうな顔をするから、時々心配になるんだ」
「……大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしていただけです」
「彼女と一緒にいるのに?」
「まあ基本的に、理沙さん相手だと一緒にいるだけで僕は楽しいので。暇を持て余した頭のほうが、勝手に働いちゃうのかもしれません」
「冗談にしてもキレが悪いんじゃないか?」
「いや、本音ですよ」
「……天然なら、単純に性質が悪い」
 顔が赤いのは日差しが強いせいだろうか? 彼女は時々今のように、不機嫌とも嬉しいとも取れない表情であさっての方向を向くことがある。
「そ、そうそう。この間君が言っていた小説な。amazonで取り寄せたんだよ。それで、あらすじを読んだけど。あれ、わたしに紹介する時点でネタバレしてただろ?」
「あれ? そうでした、か……」
 ……しまった。僕が彼女に薦めた理由からして、物語の核心部分が面白いというものだったけれど、最初から読み始める人にとってはネタバレ以外のなにものでもない。
「すいません……。確かにネタバレでしたね……。いつもみたいに、注意しておくべきでした」
「いやいや怒ってない。怒ってないんだぞ? そんな世界の終わりみたいな顔をしなくてもいいんだって」
 彼女はおどけて笑っているけれど、僕自身は自己嫌悪の炎に焼かれていた。これは紛れもなく、僕の失態である。
「ま、それなら一つ、君には償いをしてもらうとしようか」
 なんです? と僕は聞き返した。いや、聞き返そうとした。実際発音できたのは、「な」だけだ。
 人気がないとはいえ、道のど真ん中で、彼女は僕にキスをした。
 ついばむようにそっと、しかし時間にすれば3秒ほど、僕らは動きを止めていた。
「……暑いのは嫌いか?」
「……我慢しますよ。償いですから」
 今度は僕がキスをした。
夏休み前の最後の逢瀬まで、結局僕らはプラトニックな関係のままだった。
でもきっと、これでいいのだろう。今でも、割と僕は満足しているんだから。


「迷える子羊にこれを授けてやろう」
 旅行の前日。
十字架を掲げた幽霊神父がそんなことを言い出したとき、僕がここ数日抱えていたシリアスな悲壮感は、空気を入れすぎた風船のように割れた。
よほど苦みばしった顔をしていたのだろうか。神父さんは不満げに、手にもった十字架を、さらにこちらに押し付けてくる。
「いやいや突然なんですか。迷える子羊て」
「出会った頃と比べて、君の感情の起伏はやたらと激しい。ため息をついたかと思えば、この世の春の訪れのようにはしゃいでいたり、はっきりいって不安定この上ない。経験上、そういう人間は大きな悩みを抱えているものなのだよ。そしてそこから現実逃避を始めるんだ」
「はあ、最近出番もないから成仏したかと思っていたのに、ずっと人間観察をしていたわけですか。というか成仏してくださいよいい加減。なんで十字架持ってるのに消えないんですかあなた。ゲームでいったら闇属性でしょ」
「わたしは神に仕える身なんだぞ。光と闇が合わさり最強に見えるだろう」
神様も、とっととこんなの見捨てればいいのに……。
「まあ、とにかく持っておくといい。何もかもに堪え切れなくなったとき、重荷を一人で抱えてしまったとき、主が自分を見てくれていることを思い出すだけでも、少しは気が楽になる」
「……一人で旅行に行く気も、お嬢様から離れる気もありませんよ」
「だとしても、君の不運が君を追い込むことは想像に難くない。今の君はそんな状況に、頭からはまり込んでしまいそうな、そんな顔をしている」
非常に不本意ではあったけれど、このろくでなしの言うことはだいたい当たっていた。
僕はいざ伊澄さんが危なくなったら、彼女だけでもなんとか守ろうと思っているし、生きてこの時代に帰ってこれるという希望を、どうにか引き剥がしてドブに捨てようとしている最中なのだ。
「まあ、お守り代わりにはなるでしょうし、一応受け取っておきますよ」
十字架は軽かった。僕はこれが幽霊神父の装飾品の一つで、実体を持たない幽霊のようなものなのではないかと、一瞬疑った。
「マフィアの銃弾を受け止めるのには役立たずだろうが、向こうで吸血鬼に合わないとも限らない。肌身離さず持っていたまえ」
「……いやいやいや、止めてくださいよそういう冗談。ほんとに出そうで怖いじゃないですか」
旅行の日程というのが、欧州をジェットで回るものだというのも、僕を不安にさせた。吸血鬼発祥の地も、当然予定に組み込まれているのである。
「なに、君なら吸血鬼にも勝てるだろう」
そんな無責任なことを、神父さんは言った。


 夏休みの出来事は、いつも通り過ぎるほどにいつも通り、トラブルだらけの日常が過ぎていった。幸いなことに(皮肉ではなく、これは本当にラッキーだったのかもしれない)吸血鬼と出会うことはなかった。
お嬢様やマリアさんと、これが最後になるかもしれないと思いながら過ごした。仕事に、遊びに、訓練に、全力を尽くした。
 もう会えないかもしれない。と思っていた理沙さんにも、何度か会うことが出来た。
 時間は黄金色に輝いていて、夏休みが終わらないことを、僕はかつてないほど真剣に願った。
 だけど、楽しい時間はすぐに終わってしまうものだ。
 夏休みはすぐに終わって、僕は泥棒になった。
朝風神社の宝物堂から、件の護符を盗んだのだ。
その一週間後に、僕と伊澄さんは未来に旅立った。

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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.3 )
日時: 2015/05/30 14:52
名前: ひよっくー

君の面影を、今日もまた一つ消していく。
 君がずっと幸せでいてくれることを祈っています。




 惰性で滑り落ちていくかのように日々を消費していた21歳のわたしが、一念発起したときのことを話しておかなければなるまい。
 季節は秋。長い休みの終盤に差し掛かった頃。
 きっかけは姿を消してから3年にならんとする、綾崎ハヤテという彼氏のことを思い出したことだ。ふらりと立ち寄った本屋の一角に、彼から最後に薦められた本の続編を見つけたときだ。
時空を行き来する警察官が、愛しい恋人との関係を断ち切って、未来に行った話。
わたしはそれを手にとって、レジに向かった。続編が出たらすぐさま買って読みたい、と思えるほど好きな本ではなかったけれど、恋人に別れを告げた男がどのようなことを思いながら生きていったのか、なんだか無性に気になったのである。
 笑いたければ笑えばいい。わたしは行方不明になりつつもまだ生きているはずの彼氏が、わたしを含むみんなとの日常を捨てたのではなく、やむを得ない理由によって姿を消しただけで、いつか必ず戻ってくるのだ。という夢見がちにすぎる幻想を捨てられずにいた。それどころか、その思いを努力して維持し続けようとさえしていた。
過去に縛られて前に進むことを忘れた人間など、馬鹿の極みだ。哀れなものである。
そんな風に自分を嘲笑しながら、わたしは恋というものへの情熱をダストシュートに投げ込みながら、日々を過ごしていた。
家に帰って、わたしはその本を開いた。そして呆れた。
毎回毎回恋人に会っては鬱陶しいくらい愛をささやき、イチャイチャしていた主人公は、あっさりと別の女を作っていたのである。そして「あいつはあれからどんな風に生きているのだろう」なんてことを、悲劇の主人公みたいな口ぶりで嘯いたりする。
渾身の力で、わたしは本を壁に叩きつけた。彼女と別れたとき、自分の彼女がどれだけ悲しんでいたか。こいつはもう忘れてしまったのか? いつか帰ってくるときを信じて待ち続けた彼女の気持ちはどうなる? 女なら誰でもいいのか? 
言葉にこそしなかったが、わたしは所詮は紙の上のキャラクターでしかない彼に、そんな文句を言い続けた。そして部屋を出た。
夕食を食べてお風呂に入り、寝間着に着替えたわたしは、壁際に落ちた本を拾い上げ、布団に寝転がってもう一度開いた。
深呼吸して気を静めてから、やはりどうしても気になる物語の続きを読み始める。
イライラを鎮められないまま読み進め、中盤に差し掛かったところで、わたしは驚いた。
視点が変わり、ヒロインが再登場したのだ。そして彼女は、彼を追って未来に行く。
自分が持つ全てを捨てて、愛を優先する。
ひどく眩しくて、なんだか目眩がしたものだから、わたしは3分の2ほど読み進めた本を閉じた。
電気を消して布団を被り、眠るために目を閉じて、だけどハヤテくんのことを思い出して、いつまでも眠れなかった。


わたしが鷺ノ宮伊澄の家を訪ねたのは、その翌日のことだ。
彼がまだ生きているのか。どこにいるのか。探ることは出来ないか。かつてぶつけたそんな質問を、もう一度彼女にするためだ。無意味かもしれない、と思う。だけどそのときのわたしは、とにかく動かずにはいられなかった。
本に触発された。という言い方は、実を言うと正しくない。
わたしの鬱憤はどれだけガス抜きをしようとも、胸の奥底に汚泥のように溜まっていて、いつか訪れる爆発の日をずっと待っていた。それを行動に変えるきっかけが、たまたまあの本だったというだけの話なのだ。
 静謐とした和室に正座して、わたしと伊澄ちゃんは向かい合う。我が実家よりも情緒ある庭園を横に、彼女に問う。
「ハヤテさまの行方、ですか」
 おっとりとした雰囲気で何を考えているか隠してしまう彼女らしからぬ、はっきりとした困惑の色である。元々そんなに深い付き合いがあったわけではないけれど、こんな彼女を見るのは初めてのことだ。
「ああ、生きているのならどこにいるのか。今でもわからないかな?」
 表情は、困惑から煩悶へと移り変わる。付き合いの浅いわたしでもわかるほど、彼女は悩んでいる。不安が心臓を鉄線で締め付ける。彼がもうこの世にいないかもしれない、という不安はいつだってわたしの中にあって、これまで行動を起こせなかった原因の半分は、それに真っ向から向き合う度胸がなかったから、というものである。
「ハヤテさまは生きています。ですが」
「ですが?」
「……あなたたちは、確か付き合っていた、と聞いています」
 それは明らかに、わたしを試す言葉だった。不安はさらにわたしを苛む。
 しかし意地っ張りはわたしの得意分野である。彼氏のお墨付きだ。
「そうだ。今でも彼が好きだし、戻ってきて欲しい。白皇を卒業してから今の今まで君に尋ねなかったのは、ハヤテくんが戻ってこないかもしれないと思うと、怖くて仕方なかったからなんだ。それでももう我慢の限界だ。なにか知っているのなら、どうか教えて欲しい」
 ……合格だろうか?
 わたしはそんな風に、小賢しく考える。
 伊澄ちゃんは懐から、一枚の札を取り出した。一度それを振り、こちらに差し出す。
 朝風神社の巫女として普段振舞ってはいるものの、わたしには彼女と違って特別な力はない。しかしそれでもわかった。これは彼女の力の一片だ。
「その言葉が嘘ではないなら、この札をお取りください。もしもあなたの心に邪念があれば、少々痛い目に遭うことになるでしょう。一応、命には……」
 言い終わるより早く、わたしはそれをひったくる。
 何も起こらなかった。札はわたしに危害を加えることもないけれど、静電気を帯電したドアノブのように、熱でも振動でもない、ほのかな圧力を放っている。
「信じてもらえたかな?」不敵に笑えただろうか。バクバクと高鳴る心臓を押さえつけて、わたしは正座したまま、彼女に詰め寄る。「教えてくれ。君は何かを知っているんだろう?」
「……わかりました。少しだけ歩きます。付いてきてください」
 立ち上がった彼女を追って、わたしも和室を出た。
 小さな後姿には、決意が滲んで見えるようだった。彼女がわたしに何を見せようとしているのか、歩きながらつらつらと考えてみる。
 少なくとも、このときのわたしは期待していた。
 まあ、屋敷を出てすぐに彼女が迷ったものだから、歩いた距離は少しというには少々謙遜がすぎるものになり、わたしはちょっとうんざりしてしまったのだけれど。


「ここは?」
 長い道のりを歩き続け、着いたのは鷺ノ宮邸から1キロと離れていない、古びた病院だった。
何故この距離で迷うのか、わたしにはわからない。方向音痴にも程があるだろう(ちなみに、わたしが彼女の方向音痴エピソードを詳細に聞いたのは、これより少し後のことになる。このくらいは迷ったうちにも入らないのだそうだ)。
「うちが経営している病院です。ただ、普通の患者さんはここには入院しません。訳ありの方専用です」
「……その訳ありの患者さんが、ハヤテくんと関係あると?」
「実際に見てもらってからのほうが早いでしょう」
 受付に携帯を預けたあと、はぐれないように伊澄ちゃんと手を繋いで、わたしたちは病院の地下へとエレベーターで下った。病院は苦手だけど、ここはより一層、わたしの背筋を寒くさせた。外観は病院そのものなのに、まるで監獄のように、中のものを外に出さないような仕掛けが目に付くのだ。それでいて、行き場のない情念が吹き溜まりに集まっているかのような、暗い雰囲気を感じる。
「精神病院、か?」
 伊澄ちゃんは答えなかった。
答えはすぐそこにあったからだ。

 行き着いた個室の病室に、ハヤテくんはいた。

待ちに待った瞬間だ。
わたしは涙を流して喜び、彼に抱きつくべきだったのだろうか。
黙って立ち尽くしたまま、わたしは頭の片隅でそんなことを考える。
彼は動かない。病的に白い肌。入院患者用の貫頭衣。まっさらなシーツが敷かれたベッドから体を起こして、ただ虚空を見つめている。細いようでたくましかった体は、今は見る影もない。喉元に浮き出た骨の形が痛々しく、わたしは目を背けたくなるのを必死で堪えた。
ベッドに駆け寄り、彼の手を掴む。痩せこけた手のひらはまるで老人のよう。
「ハヤテくん?」
 返答はない。
 優しくて、驚くほど強くて、馬鹿みたいにお人よしで、とびっきり不幸なわたしの彼氏。
この世の誰よりも愛しい人の心が壊れてしまったのだと、わたしはもうはっきりと理解していた。
 動かねば。そう思った。
 こうしていたら、またわたしの足は凍り付いてしまう。
「伊澄ちゃん。何故、ハヤテくんは……」
 振り返ったとき、不意に視界が滲んだ。
 それはショックだろうさ朝風理沙。
だけどうすうす予想は出来ていたんだろう? 今は状況を理解するべき時だ。彼に何があったのか。どうすればいいのか。それを考える時じゃないか。
 だけどわたしの理性は、大きすぎる衝撃と悲しみに押し流されてしまっていた。わたしの体は涙を流す以外のことをさせてくれなかった。
 肺から喉まで痙攣が上ってきて、わたしは大きくしゃくり上げ、盛大に泣いた。ハヤテくんにも、伊澄ちゃんにも見られたくなくて、だけど立ち上がることも出来ずに、シーツに顔を押し付けて、声を殺して泣き続けた。


 もう終わった話ですから。
 伊澄ちゃんはそう前置きした。
 わたしからすれば始まってすらいないことだ。情緒不安定なまま怒鳴ってしまいそうになったけれど、何も知らないくせにそんなことをするのはどうにも不公平に思えて、わたしは黙って話を聞いた。
 本来ならば、白皇学院高等部の卒業式は無事には終わらなかったこと。
未来からのテロによって、わたしたちのほとんどが死んでしまうはずだったこと。
生き残った伊澄ちゃんとハヤテくんは、協力者と共にその現実をなかったことにしようとしたこと。
一度は失敗して、2005年の夏休み後まで、全員の意識をタイムスリップさせたこと。
わたしが知る記憶を失ったあとのハヤテくんは、未来から過去へと跳んだあとの彼であること。
タイムスリップの鍵が、わたしの実家の宝物堂にあったこと。
彼がそれを盗みだしたこと。
しかし綾崎ハヤテは、打算であなたと交際をはじめたわけではない、という慰め。
「大丈夫だよ。それより、ハヤテくんがこうなった原因は? まだ続きがあるんだろ?」
 ここまでの話も大概理解しがたいことばかりで、頭が着いていけないところもある。だけど疑う気はなかった。目の前のハヤテくんがこんな状態でいるときに、こんな下手な冗談を言うこともないだろうし、もう一度彼と会う機会をくれたというだけで、わたしは彼女に大きな感謝の念を抱いているのだ。
ただ、わたしは彼女が全てを話し終えた後、何もかもが壮大なドッキリだと明かされる。という、あまりにも現実味のない可能性を願ってもいた。伊澄ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべて「大成功」と書かれたプラカードを取り出し、呆然とするわたしの後ろでハヤテくんが大笑いして、振り返ろうとしたわたしを優しく抱きしめてくれる。こんな状況でするには、あまりに的外れで、だけどとても心地よい妄想だ。
続きを言いづらそうに、伊澄ちゃんが胸の前で手を組み、深呼吸を一つ。
「わたしたちがもう一度、未来を変えるために動いたのは、夏休みが終わって一週間ほどしてからです。テロを起こした未来の敵を止めるため。……いえ、命を奪うために、わたしとハヤテさまは未来に飛びました。
 未来での出来事は、わたしの口からは話せません。ここまで話しておいてあなたに黙っているのは、申し訳ないのですが。
 ……ハヤテさまがこうなってしまったのは、この時代に戻ってきてからです。今の状態を、ナギたちに見せるわけにはいかない。というのは、わたしたちが出した共通見解です。だから、行方不明ということにして、ハヤテさまが自分を取り戻すまで、ここに……」
「戻るのか?」
 声にした瞬間、わたしは心の中にわだかまっていた不安が、一気に形になるのを感じた。顔を上げておくことができなかった。伊澄ちゃんの表情を見ていたくない。もしもそこに落胆の色があったなら、わたしは堪えられそうにない。
「ハヤテさまなら……、きっと大丈夫だと思います。少なくとも、わたしたちはそう信じています」
 なんとか頷けた、と思う。
「今まで黙っていてごめんなさい」と、伊澄ちゃんは最後にそう言って、部屋を出て行った。きっと彼女は、わたしがもっと怒ると思っていたんだろう。怒る権利くらいはあると思う。だけどそんな気力は、少なくとも今のわたしには存在しない。
 わたしはハヤテくんのほうを振り返る。
 期待していた笑顔は、そこにはない。

 
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
その日、無理を言って病室に泊まったわたしは、彼がいつも自失しているわけではないということに気づいた。ベッドに横たわりながら、彼はうわ言のように呟き続けている。
 そばに寄っても、彼の目は何も見てはいない。淡い室内灯の灯る天井を見つめている。
漂白されたような部屋の空気に許しを乞う言葉が溶けていき、言葉の数だけこの部屋の重力が増したかのようで、わたしはうかつに動けなくなる。けれど、彼の苦しみを少しでも軽くしてあげたくて、恐る恐る手を握る。
「大丈夫だ」言葉を搾り出すのにも一苦労だった。だけど繰り返す。無責任な言葉だ。彼の自責の念を取り除くことは、わたしには出来ないかもしれないけれど「大丈夫」だと言うたびに、彼が少しでも楽になることを祈る。
 言葉を繰り返すたびに、部屋の空気が軽くなるような錯覚を感じる。それをどうか、彼も共有してくれますように。
 思えば、この謝罪はわたしが三年ぶりに聞いた、ハヤテくんの肉声だ。
「気分のいいものじゃないな。まったく。あとでちゃんと上書きしてくれよ」
 抱きしめても、彼は抵抗しなかった。鼓動を刻む心臓の音を聞いて、体温を感じて、彼が生きていることを実感した。
そうだ、生きているんだ。
今はそれだけでいい。

それからわたしは家にも帰らず、友人にも会わず、もちろん課題にも手をつけることなく、出来る限りの時間を彼のそばで過ごした。離れていた時間を埋めたいだとか、寂しいからというのも少しはある。しかし一番の理由は恐怖だ。目を離したらその瞬間に彼が消えてしまいそうで、怖くて仕方なかった。
三日目はまだ看護師さんたちも大目に見てくれたのだけど、四日目を迎えると、消灯時間以降は立ち入り禁止にされてしまった。忍び込んだら、次の日には病室に鍵をかけられた。ピッキングの道具を持ち込んだら、受付でこっぴどく怒られ、仕方がないのでわたしは病室前の長椅子に、夜の間中座り込む生活を送ることになった。
そんな生活を三日も続けたあたりで、ついに向こうが折れて、こっそりと中に入れてくれることになった。
「呆れたわ。お嬢様だって聞いてたけど、たいした根性ね」
 そんな看護師さんの言葉に、わたしは不敵に笑って胸を張る。それはわたしにとって儀式のようなものだ。実を言えば、気力はガス欠になって、今にも倒れてしまいそうなくらい疲れきっていたのだけど、こういうときに強がっていないと、わたしの心は案外簡単に折れてしまうということを、この数年で学んでいた。
 ハヤテくんは変わることなく、夜になるたびに怯えたような言葉を吐き出し続ける。わたしは彼を抱きしめる。そばにいるだけで何かを変えることは出来ないと思う。だけどそれでもわたしは、彼のそばを離れることが出来ない。
「大丈夫か?」
 時々見舞いに来る橘ワタル君は、わたしに何かを尋ねることもない。ただ缶コーヒーを手渡して、心配するだけだ。
「自分でも歪んでるな、と思うよ。でも大丈夫だ。多分何もしなかったら、寂しくて死んでしまうだろうからね」
 元動画研究会会長のワタル君とは、気心が知れたとは言わないまでも付き合いはあった。だから体も心も疲れていたって、気楽に軽口を叩ける。
「なあ元会長。わたしはここに来るようになってそう長いわけじゃない。だから聞きたいんだけど、ハヤテくんは、前より良くなっているのか?」
「……最初はもっと酷かったぜ。伊澄と二人で未来に行って、俺たちからはすぐに戻ったように見えたけど、あいつらの体感じゃ、割と長い時間だったらしい。戻ってきたあいつが俺たちの前で倒れたときは、何が起こったのか理解できなかった。目を覚ましたあいつは死人みたいな顔してて、何も話そうとしなかった。いや、話せる状態じゃなかった。あれに比べりゃ、弱音の吐き方思い出しただけでも、たいした進歩さ」
「わたしは、少しは役に立てているかな?」
「俺たちは3年待ってる。先は長いもんだと覚悟してるんだ。明日や明後日でどうにかなるもんじゃねえ。役に立つかなんてのもわかるわけがねえ。でも、あんたがここに来たことには、多分意味はあると思う。だからちゃんと休めよ。忘れないでいてくれるってだけで、きっと大きな支えになるはずなんだ」
 自分のコーヒーを飲み干して、ワタル君は軽く手を振って帰っていく。
「今日はここに泊まるけど、明日は一度帰ってみるよ。……ありがとう」
 応える声はなかった。聞こえていないかもしれないが、もう一度言おうとは思わなかった。

 予想に反し、ハヤテくんの容態はその日の夜のうちに進歩を見せた。
「ねえ、良かったらそのまま、聞いてくれないかな」
 不覚にも、わたしは耳を疑った。
 彼が意味のある言葉を口にするのは、わたしがここに来て初めてのことだ。咄嗟に名前を呼びそうになって、喉元までのぼった言葉を、胸に手を当ててどうにか飲み下す。
 触れてはならない。
サナギから羽化を迎えた蝶を見守るように、せっかく伸ばした羽根が歪んでしまわないように、わたしは彼のそばで、いつになく静かに言葉を待つ。
 待った時間は、5分だろうか、1時間だろうか、それとももっと長いのだろうか。不安が大きな雪だるまになろうとする頃に、小さな小さな言葉の束を、彼はつむぎ出す。
「僕は人を殺してしまったんだ。大切なものを守りたかったんだ。悪いのは向こうだって信じ込んでいたんだ。でもたとえそれしか方法がなかったとしても、僕自身が危なかったとしても大切な人がいつかそいつによって殺されてしまうとしても僕は犠牲を出さずに助ける道を探すべきだったんだ。四次元じゃなくて三次元に生きる僕らが未来に犯罪を犯すかもしれないという理由で人を裁いてはいけないんだ。それは人ではなくて神様の仕事だから僕は神様じゃないからただの不幸な男でしかないんだから。
 小さな女の子だった。見たこともないくらい高いビルの屋上に伏せて日よけのシートを被ってゴーグルを覗いて。やり方は訓練して学んでいたから問題なくって。カチューシャと眼鏡をかけた女の子が自動で動く歩道みたいなものに乗って学校に行くからそれを一発で仕留めなきゃならなくて他に方法はないと思っていたし僕に責任なんかいや駄目だ背負わなくちゃいけないんだ」
 そこで充電の切れたロボットみたいに、ハヤテくんは黙り込んだ。
抑揚がなく、感情の欠片も伺えない喋り方だ。私の知る彼とはかけ離れたその有様に、今さら驚きはしないけれど、胸を痛めるなというのは無理な話である。こんなにも痛々しい姿を見て、平気でいられるものか。
「女の子の周囲に女の子の移動パターンを変化させる不確定要素が消えて風も止んで光が反射して居場所がばれる可能性が排除される瞬間を僕は待った。何日も待ったんだ。一度失敗したらその瞬間から発生した未来の可能性が僕を消し去ってしまうことは疑いようがなかったんだ。時空干渉を押さえ込んだあの子のためにも絶対成功させなきゃいけない。でも僕は不幸だから運に左右される状況なんて絶対に駄目なんだ。ずっと待った。何日も何週間も。待っているうちに女の子の友達の顔を覚えた。親を覚えた。好きな人を覚えた。好きな漫画を覚えた。待っている時間が長くて孤独で仕方なくって僕はあの子がどんなことを話しているのかを想像するようになった。これから命を奪う相手に対して何を考えていたんだろう。
そのうち絶好のチャンスが来た。これ以上に条件の揃った瞬間は100年待ったって来やしないと思った。音速を超える銃弾が銃身から飛び出してこめかみを貫いて反対側に飛び出すイメージを僕はずっと固めてきたんだ。それを実行するときにも躊躇わなかった。
イメージの通りに事は運んだ。
僕は喜んだ。狙撃の瞬間を待ち続けるのは凄く退屈で大変で辛くてそれから開放されるというだけで嬉しくて仕方なかった。目的を果たせたし大切な人をこれで守ることが出来て誇らしかったんだ。やったって叫んだんだ。
女の子にたくさんの人が男の子が女の子が大人が駆け寄ったんだ。
みんなが憤ってみんなが悲しんでいたんだ。
きっと女の子が好きだった男の子が動かない体を抱き上げて泣いていたんだ。
女の子の手が上がったんだ。
あれは間違いなく奇跡だった。
泣いていた。唇が生きたいと呟くのを死にたくないと呟くのを僕は望遠スコープで確かに見たんだ。心から言っていたんだ。あの女の子は僕の大切な人を傷つける敵じゃなくてただの幸せに生きようとする子供だったんだ。あの子はこうするしかなかったって言ってくれたんだ。でも許されるべきじゃないんだ。だから謝るんだ。幸せになるわけにはいかないんだ」
そこで終わりだ。
充電の切れたロボットではなく、糸の切れた操り人形のように、ハヤテくんは倒れこんだ。毎日綺麗に洗濯されているシーツから、ホコリが飛ぶことはない。
恐る恐る顔を覗き込むと、ハヤテくんは目を閉じて寝息を立てている。心なしか、私の知るここ最近の彼の寝顔よりも、幾分穏やかに見える。
とにかく考えをまとめたかった。
地下にあるこの病室には月光も差し込まない。満月ではないけれど、今日は確か月の光が強い夜だったと思う。外に出ることにしよう。一旦落ち着かなければ、わたしは今聞いた話をどう受け止めるべきか、よくわからないままだ。
わたしはエレベーターで地上に上がり、口うるさい職員から小言を言われないように、人目を避けて外に出た。秋の夜風は少し肌寒いけれど、こんなこともあろうかとコートを着込んできたわたしには、風邪を引くほど寒いということもない。
ベンチに座ったわたしは、先ほどのハヤテくんの独白のことを考える。が実際問題、現実感は皆無と言っていい。これからどうすればいいのかもよくわからない。ようやく前に進んだ気がして、どこか安心すらしていた。
このときわたしは疲れていた。
深く物事を考えられなかったのもそのせいだ。
いつの間にか座ったまま眠りこけてしまったわたしは、朝になって、綾崎ハヤテが再び行方をくらませたことを知った。




いつか罪を犯した人間が、その罪の報いを受けるとするならば、それはいつの事だろう……。

朝焼けの町並みに目をすがめ、僕は本当に久しぶりに太陽の光を浴びながら、朝食のおにぎりとサンドイッチを頬張り、ブラックコーヒーで流し込む。使う機会も意思もないだけで、お金は病室の戸棚にずっとあったのだ。とはいえ大した額ではない。どこかで稼がなくては、この先生きていくには心もとない。
「言葉は不完全だから、言葉にすれば誤解を生む。勘違いの元となる」
もう合わせる顔もなくなった、小さな主はそんなことを言っていた。
まったくその通り、言葉は感情を表現するにはどうしようもなく不完全なツールで、僕はいつも人を勘違いさせたり、勘違いをしたりしては、痛い目を見てきた。
だけど、人はそれでも感情を言葉で表現しようとする。人が人と繋がるには、言葉はどうしても必要なものだから。言葉にすることで自分の感情を定義しなければ、前に進む勇気を持つことも出来ないものだから。
靄がかかったような混濁した世界と、僕は長いこと隣人として付き合ってきた。目の前に誰がいて何を話しているのか、自分がどんな状態でどこにいるのか、そんなことも理解出来ないまま、僕は自分の内側にだけ目を向けて日々を消費してきた。
朝風理沙が隣にいてくれたことが、崩壊して瓦礫の塊でしかなかった僕の自意識が、もう一度形を取り戻す手助けになったことは、疑いようもない。
ドロドロに溶けた自責の念と、後悔と、罪の意識を、整頓して受け止められるように形を整えることが出来たのは、彼女のおかげで、言葉にするだけの余裕が生まれて、言葉にすることで、僕を責め続けた大きすぎるそれに向き合うことが可能になったからだ。
今の僕にはそれがわかる。だから僕はここにいる。存在している。
我思うゆえに我あり。
昔の人はよく言ったものである。
しかし自覚したからには、僕は愛する人々のそばにいるわけにはいかない。もう何も出来ない僕ではなくなった。自分の足で歩くことが出来るようになった。だったら歩かなくてはならない。誰とも近づかずに一人で。
コンビニのレジ袋には、食料のほかにも染髪塗料や新聞、そして1箱のタバコとライターが入っている。髪を染めるのも、現在の日本がどうなっているのかを知るのも必要だ。しかし何故、こんな体に悪いだけのものを買ったのだろうか。自分でもよくわからない。
失われた未来で、僕はこれに手を出していた。
幸せな“彼”に近づきたかったのか?
だとすれば、僕も可愛いものである。そんなことは無理だと、わかっているはずなのに。
それともなんだろう。僕は落ちるところまで落ちてしまいたいのか?
 あるいは、自分の体を心配してくれる人がいないという現実を、真っ向から見るためか?
――きっと、その全てだろう。
ふと出た、そんな結論が、喉元を滑り落ちる氷解のように、僕の背筋を冷やす。
弱いものだ。誰かのために強くなろうとしてきたのに、僕は僕自身にとんと弱い。
寂しさと後悔に止められそうな足を動かして、僕は朝焼けに踏み出す。誰にも見つからないよう祈りながら。



「宗谷さんって変な人ですね。自動道路もVR広告も知らないなんて。どれだけ田舎に住んでたの?」
「ハハハ、まあ遠いところから来たのは本当だよ。東京には昔住んでたらしいんだけど、昔のこと過ぎて覚えてないんだ」
 眼鏡とカチューシャ。髪は淡い茶色。上品な言葉遣いと明晰な頭脳。道に迷った田舎の青年に自分から声をかけるくらい、気配りのできる女の子。
 未来に来て早々、頼みの綱だった伊澄さんとはぐれた僕が出会ったのは、そんな可愛い女の子だった。
 咄嗟に偽名を使った今の僕は、綾崎ハヤテではなく南野宗谷である。純真な笑顔を向ける女の子に嘘をつくのは心苦しいけれど、今の僕はこの世界に戸籍の存在しない異邦人だ。どの道本当のことなど、何一つ言えない立場なのである。
 区画は随分と変わっていて、ここは東京のはずなのに、見慣れた風景はほとんどなかった。そんな僕に、彼女は声をかけてきた。
「ところで、都庁まで案内してくれるのはありがたいんだけど、君はこんな怪しい変な人と一緒に歩いてていいのかい?」
「自分で言うんですか?」
「いやいや、青春は貴重だよ。放課後は友達と遊んだりしたほうがいいんだって」
「いいんですよ。困ってる人がいたら助けてあげる。これはわたしのポリシーなんです。それに、宗谷さんは悪い人じゃなさそうだし」
 なんともまあ、こちらに来てまでそんなことを言われるとは、非常に光栄なことである。なにせ僕はかよわい女の子を誘拐しようとしたり、愛しい人に嘘をつき続けたり、挙句未来まで人を殺しに来るような、稀代の善人なのだ。良心が痛むったらありゃしない。

 女の子と別れてから、都庁を足がかりに土地勘を掴んで、あてどなく町を歩く。
 外国人が、僕のいた時代と比べるとかなり多い。道行くスーツを着たビジネスマンの割合は、日本人的な顔立ちよりも北欧系の男が多い。
 色々と下調べして、実際に見た僕には、もうわかっていた。
もはや日本と世界各国を分かつものは、海以外にないと言っていい。というよりも、日本という国名が、もう昔ほどの意味を持たないのだ。
 今や人々のパーソナリティは、国ではなく所属する企業に依存する。だから陸続きに国境のある国同様、この島国にも様々な人が訪れ、根を下ろし、生きていく土壌が出来上がった。一方的ではなく双方向的に。
だから日本人もまた、世界中あちこちに住む場所を求めて旅立っていく。今や人は土地ではなく、そこに根を下ろした企業に寄り添っているのだから、僕のいた時代とは比べ物にならないくらい、海を渡ることへの心理的障壁は低い。
これを国際化が進んだと見るか、民族が分裂して、国という枠組みが貶められたと見るかは人によるだろうが、はっきりしたことは、現状に不安を持つ者も大勢いることと、その体勢を推し進めるための旗頭に、三千院ナギがいたこと。そして、彼女は既にこの世を去った今でも、恨み言を言われていること。
暗殺の原因が、なんとなく見えてきた気がする。
あてどなく思考を続けながら、僕は伊澄さんを探して歩き続けた。
 結局、伊澄さんと合流できたのは、その日の夜のことだった。
 僕が暗殺する敵が、僕に親切にしてくれたあの女の子だと知ったのは、次の日の朝だった。

「やあ」
「あ、怪しい宗谷さん!」
 またその次の日。夕日が落ちかける黄昏の頃に、僕は彼女を待ち構えて、さも偶然見かけたという風を装って話しかける。
 殺すためではなかった。
 もうそんなことは出来なかった。
 彼女は今のところ、どう見ても悪人には見えない。
だから自分に彼女を監視させてほしい。そう、伊澄さんに頼み込んだのだ。

『それで、なにかあればハヤテ様が止めて、説得するというんですか? 会ったばかりの女の子のために』
 返す言葉はなかった。しかしそうするべきだと思った。
彼女がいつか過去に向けてテロを起こすとしたら、それはなんのためなのか。理由を僕らは知らない。だが、何か原因があるならそれを止める。傷ついて道を踏み外すようなら話を聞いて癒してあげる。
 最初から違和感があったんだ。誰かを守るために誰かの命を奪うなんて。
 誰もを救う方法があるなら、それを模索することを、僕らは放棄してはならないのだ。
『そんなことでは、元の時代に帰れるときにはお爺さんですよ。いえ、あまりに時間をかけすぎれば、わたしはあの時代を見失って、もう帰れなくなるかもしれません。……ですが、協力しましょう。わたしも出来ることなら、酷いことはしたくありません』
 そうして僕らは綺麗ごとを選んだ。

「怪しい、っていうのは酷いな」
 そうして僕は嘘を重ねながら、彼女との距離を縮めることに成功したのだ。
 そして、それから……。



 もし神様がいるなら、なんでこんな惨いことが出来るのか、一度問いただしてやりたい。
目を覚ました僕は、昔幽霊神父にもらった十字架を、潰れそうなくらい強く握り締めて、そう思う。
 かつて僕は、伊澄さんの手によって失われた未来を垣間見た。今、僕に起こった現象のように。
もちろん未来の断片が何もかも見えたわけではないし、彼女の助けがなければ不可能なことだ。だけどそれを、僕は何度も何度も繰り返した。そして三年前、僕は一度未来へと飛び、もう一度ここへ戻ってきた。
そして、つい昨日まで僕は自失していた。まともな思考回路を形成することが不可能なまま、時間を浪費してきたのだ。
 未来を垣間見て、時間を跳躍し、それによって僕の脳、あるいは精神になんらかの異常が起きた可能性は、十二分に考えらえられる。
彼女が適宜外していた僕のリミッターがバカになり、睡眠中の僕の意識が、失われた未来を欠片を勝手に観測するようになってしまった。ありえない話ではない。
そしてその場合、僕は眠るたびに、何もかもを救えたかもしれない可能性を見せ付けられることになる。
「勘弁してほしいな……」
 自分の失敗を毎晩毎晩見せ付けられるのだとしたら、それは拷問に等しい。
 僕ははっきりと覚えているのだ。
助けを求めてか、最期に誰かを求めてか、彼女が小さな手を伸ばす姿を。
 落ち着かなくて、僕は真っ黒に染めた髪を触った。ごわごわとした感触はあまり気持ちのいいものではないけれど、今は東京から出ることだけを考えなければ。
いつかこの街に戻ってきて、影からナギお嬢様を見守ることが出来ればいいと思う。僕が病院から抜け出したことを、お嬢様は知っているだろうか。理沙さんは怒っているだろうか。愛する主と愛しい人を、僕はまた傷つけてしまったのだろうか。
現実に堪えられる気がしなくって、僕はタバコのパッケージを破り、ライターで火をつけた。案の定、喉に絡まった煙は苦々しく、盛大にむせてしまう。すぐに火を消して、忌々しい有害物質を踏み潰した。
こんなものの何が美味いというのだろう。喫煙者の気持ちはよくわからない。
買うならお酒のほうが良かったな。現実から逃げるなら、多分そっちのほうがずっとよかった。 
 結局その日、僕は眠ることはなかった。
 十字架を握り続けたところで、神様が助けてくれるはずもなかった。


 突然だが、あなたは出会いがしらに銃を向けられた経験はおありだろうか?
 僕はある。そして今もホールドアップの真っ最中だ。
「やあ、ハヤテくん。また会えて嬉しいよ」
 朝風理沙さんの家に、初めて行ったときのことを思い出す。神社の地下で、僕と彼女はやたらと大きなワニに遭遇した。それを理沙さんは麻酔銃で撃ち、僕らは事なきを得たのだが……。
「まさか、それを向けられる日が来るとは、夢にも思いませんでしたよ」
「同感だよ。なあ、ハヤテくん。目が覚めたとき、君のすぐそばには今でも君を慕う彼女がいたし、大切なご主人様にも、君のことを心配していた友達にも、その気になれば会えたはずだろ? それなのにいつの間にかいなくなって、髪まで染めて、どこに行く気なんだ?」
小さな古着屋で適当に見繕って、うんざりするほど多い人ごみに紛れ込むのは、そう難しいことではなかった。公共交通機関を使うのは避けたかったから、どこかで自転車でも購入できれば、それでゆっくり移動しようかと思っていた。
 声をかけられて振り向いたときには、銃口はしっかりと僕を見定めていた。
彼女に遭遇したのは、きっと偶然ではなかっただろう。
正午に近づいた午前の秋空の下、姿は見えずとも僕と彼女の周囲には、目的を持って包囲を固めようとする気配がある。
「もう僕には、そんな資格がないからですよ。ナギお嬢様にも、みんなにも、そしてあなたにもです。出来ることなら、すぐに忘れて欲しかった」
 その瞬間の、理沙さんの表情を、どんな言葉に出来るだろう。悲しさか、怒りか、失望か、はたまた自責か。彼女の整った顔が歪んだその一瞬の隙間には、何もかもが混ざり合った、ミックスジュースの表面みたいなさざ波が浮かんでいた。
「それを決めるのは、君じゃなくてわたしたちだろう。愛想を尽かしたら、とっくに君のことなんて忘れてるさ」
「……僕は」
「知ってるよ。君が何をしたのか。何を悔やんでいるのか」
 驚きはしなかった。伊澄さんから聞いたのだろうか。僕がベッドで寝ていた時間の間、彼女たちが何をしていたのか、ほとんど僕は知らない。けれど、何もしないということだけはあるまい。
「軽蔑しないんですか? 僕は自分でも驚くくらいのクソ野郎だと思っているんですが」
「どうかな。荒んだ君の顔も素敵だと思うよ。ハヤテくん」
 僕は、演技でもいいから、うんざりした表情を作るべきだったのだと思う。しかし冗談めかした彼女の笑顔は、物騒な銃を持っているにも関わらずとても魅力的で、その言葉に、自分でもどうしようもない嬉しさがこみ上げてしまったものだから、それが顔に出ないようにするだけで精一杯だった。
「……からかわないでくださいよ」
「怒ったならごめん、謝るよ。でもね、君がどんなことをしたのかなんてのは、結構わたしにとってはどうでもいいことなんだ。現実味もないし、辛いのだとしてもそれをわかってあげることは出来ないし、君を裁く人がいるわけでもない。わたしが怒っているのは、君がわたしを置いてどこかに行こうとしたから。つまり彼女としてのささやかなわがまま」
 自嘲するように肩をすくめて、理沙さんは一歩、こちらに近づく。
 目を離す気にはなれない。銃口を避けて、狭まりつつある包囲網を抜けるにはどうすべきかを考える。そもそも逃げ切れるのだろうか。だったら、もういっそのこと、みんなが僕を軽蔑するように何もかもを話してしまおうか。なんなら多少脚色したっていい。そうだ、それでいい。そうすれば、みんなが僕を見捨ててくれる。こんな人でなしは地獄に落ちてしまえ。そう思われれば、それでいい。
「今の君がさ、何を考えているかくらいは、実を言うとわたしにもわかる気がするんだ」困ったように、彼女は笑う。「だけど気づいてないのか?」
「何をです?」
「捨て鉢になってる人間の表情じゃないってこと。ハヤテくん、君はなにもかもに怯えてるみたいな、そんな顔をしてるよ」
 お前は自分を騙そうとしているんじゃないか?
 理沙さんの表情と、僕の中で客観的に僕自身を見つめる視点とが、同時にそう囁くのを聞いた。
 腰からうなじまで、暑気を弾き飛ばすように、全身に鳥肌が立った。それを認めたら、もう走ることが出来ないと思った。
「そんな! ……そんな、こと、は……」
 僕は僕を責め続けなければならない。償いにならない自己満足だとしても、僕は“幸せになってはいけない”。そうだ、そうやって生きていく道しか、今の僕にはないのだ。ないはずなのだ。
 肩に手が置かれた。
 こちらを向く銃口のことも忘れて、振り向いた先には、見事な髭を生やした執事長と、美しい金髪をツインテールにした、高校生くらいの女の子がいた。
 見間違うはずもなかった。
「お嬢……」
 言い終える前に、女の子の痛烈な平手打ちが、僕の頬を張った。

 うわぁ、という声が、後ろから確かに聞こえた。
 3年の時間が経って、ナギお嬢様は背が伸びて、大人びた顔立ちをするようになって、ついでに言えば力も少々強くなったようである。
 それとは反対に、衰えきった僕の体は、強烈な平手打ちの衝撃に耐え切れずたたらを踏んだ。驚いてろくに考える余裕もないまま、お嬢様の声を聞く。
「3年待ったぞ。この馬鹿ハヤテ。いつの間にかいなくなって、ずっと心配かけて、ようやく会えたかと思ったら、ガリガリに痩せて、今にも倒れそうな顔をして。わたしが、マリアが、ヒナギクが、伊澄が、咲夜が、ワタルが、白皇の連中が、みんなが、どれだけ……」
感情に任せるまま、氾濫しそうな言葉を切り、お嬢様は震える手をこちらに伸ばしてきた。
 そして両手で、僕の胸倉を掴む。
「どれだけ! ……わたしが、どれだけ、心配したと思っているのだ! いつもの不幸に巻き込まれていたのならわかる。でも勝手にどこかに消えるなんてことは、わたしが許さん! 借金を返してもらうまで! わたしが、幸せになるのをしっかり見せ付けて! お前がわたしを振ったことを後悔して、地団太を踏むところを見るまで、お前を離したりするものか!」
 大きな瞳に、涙が膜を張っているのがわかった。それが零れてしまう前に、お嬢様は僕の背中に勢いよく両手を回して、がっちりと抱きついてきた。
 昔は僕の肩くらいの身長だったのに、今の彼女は頭を僕の左肩に乗せるようにして、顔を見られないようにしている。少しだけ背伸びしているけれど、僕とお嬢様の身長差は、驚くほど縮まっていた。
「お嬢様……」
「うるさい、馬鹿、見るな」
 耳元で、お嬢様がしゃくりあげながら、にべもなく言い切る。
 ということは、涙が引くまで離れるな、ということだ。
それは困った。
 というのも、成長した彼女は女性としても急激な成長を遂げており、ということは昔のような子供そのものの体ではないということで、慎ましいながらも確かな存在感を発する柔らかい物体が、薄い生地越しに僕の胸に押し付けられているわけで。
 僕は13歳の彼女をまったく意識しなかった。しかしそれは、16歳の彼女に女性としての魅力を感じない、ということは決してない。
「君たちの主従関係には、なんだか妬けるな」
 そう言って、背中側から理沙さんも抱きついてくる。感触については、もう何も言うまい。意識を鋼のように硬く保ち、前後のなにもかもを無視することに決める。
「……理沙。お前、この状況だとお邪魔虫も同然だぞ」
「気にしないでくれ。というか、わたしだって久しぶりなんだ。ハヤテくんをこうして抱きしめるのは。大目に見てくれたっていいだろう」
「ふん、まあいい」
「恩に着るよ」
 理沙さんはそこで一息。
 空いている僕の右肩にあごを乗せて、転がすように骨を刺激する。
「なあ、ハヤテくん。わたしも君も、もう二十歳だ。お酒も飲めるし、選挙にもいける、立派な大人の一員だ。子供の手本になるように、大人としての責任を果たすべきなんじゃないかな。借金を返す。主の幸せを見届ける。恋人を一方的に振らない。他にも色々、そんな感じで」
 軽い口調と、からかうような意図。だけど背中から感じる圧力は強く。
彼女の言葉は正論だ。
「です、けど」
「けど、じゃない。君はさっきから自分なんてって言ってるが、たとえどんな理由があったって、幸せを手放す理由にはならない。口をすっぱくして言っただろう? 君はわがままになるべきだって。誰も君を責めたりしない。責める資格なんかない。ただ、わたしたちのことをちゃんと見てよ。君の幸せを願う人が大勢いることを、思い出してよ」
 彼女の腕が、お嬢様ごと、僕を一層強く抱きしめる。
 泣いているのだろうか。
顔が見えないのに、僕はそんなことを思った。
幸せになるチャンスを見逃す理由などない。それはいつだったか、咲夜さんにも言われた言葉だ。誠実な言葉を返さねばならないと思う。ほんの少しだけ状況を忘れて、彼女の言葉に真正面から向き合わなければ。
ぼんやりとしていた脳みそを回転させて、心の奥底で自分が何を思っているのか覗き込んで、心臓の底にこびりついた一滴の勇気を振り絞って、僕は口を開く。
「僕は……」
「……ところで、ハヤテ、なんだか臭いぞ」
 空気を読まない言葉の槍が、僕の心を勢いよく貫く。
「ああ、確かに。なんだか匂うぞ。ハヤテくん」
 さらにもう一撃。
「た、確かに昨日は入浴もできませんでしたけど……。というかあの、今そういうことを言いたいわけではなくて」
「いや、体臭じゃないんだ。どこかで嗅いだことがあるような……」
「ああ、わかった。タバコだ。時々吸ってるSPがいて、匂いが移るってマリアにこっぴどく怒られてた。ハヤテ、もしかして不良になっちゃったのか?」
「いや、別に不良というわけでは……」
「確かに成人がタバコを吸っても問題はないが……」
「え? あ、あの……」
 というか乗っかるんですか?
 さっきまであなた主導で、シリアスな空気が出来上がってたと思うんですけど。
「吸ったといってもちょっとだけですよ? まずいだけでしたからすぐに捨てちゃいましたけど、そんなに匂いが染み付いてます?」
「染み付いてる。口臭が物凄いことになってる」 耳元で、物凄く心が傷つくようなことを言われる。「ふん、がっかりだよ。こんな煙臭い男が好きだったなんて」
「度量が狭いな。人の嗜好に口を出す女の子は嫌われるぞ」
 理沙さんのフォローとともに、背中から感じる圧力が少しだけ緩む。
「ふん、嫌われて結構。有害物質を撒き散らすような奴と一緒にいられるか」
 言うが早いか。お嬢様は顔を背けたまま、僕から離れていく。小さな落胆が心臓にすとんと落ちた。
 逃がすまいとでも言いたげに、理沙さんが僕を抱きしめる腕に、また少しだけ力がこもったのがわかる。
「そうか、わたしは好きな人のせいで死ぬなら、それでも満足だけどね」
「理沙さん、滅多なことを言うものじゃ」
 少しでも声が届きやすくなるように、僕は僅かながら左に顔を向ける。
言葉の続きは言えなかった。
いつかと同じように、懐かしい柔らかな感触と、清潔な石鹸の香りが、僕の唇を包む。
単純なもので、僕の驚きはさほどの時間もかからぬうちに、腹の底から脳天まで突き抜ける幸福感に取って代わられる。罪悪感も、決意も、鬱屈とした迷いも、困惑も、もう一人の少女の存在すら、洪水に巻き込まれた流木のように押し流してしまう。
かつて、僕と彼女との間で、長いキスはそれほど珍しいわけではなかった。
 違っていたのはその先だ。
 片手で後頭部を押さえつけられて、逃れられないよう固定される。口腔に割って入ってきた舌が、僕の歯を舐めとるように動く。驚きに僕の体は硬直し、首元から頬まで一瞬で紅潮するのを感じた。
 次の瞬間、小さくて硬い金属製の何かが、僕の口の中に転げ落ちてきた。
「――ッ!」
 抵抗は無意味だった。振りほどくことも、その鮮やかな舌使いを跳ね除けることも。
軽く鼻をつままれて、空気を求めた喉が勝手に開く。
 僕の喉は、その何かを嚥下せざるを得なかった。
瞳に映る色彩まで判別できそうなくらい近づいた彼女の目に、してやったりとでも言いたげな色が浮かんでいるのが見えた。
 そのあともたっぷり十秒ほど、僕らのキスは続いた。
 唇が離れた後、彼女は無性に懐かしい、悪戯に成功したあとのような、あの憎たらしい笑顔を作って見せる。昔よりずっと大人びた彼女が浮かべる子供のような表情が、激しく鼓動を刻む心臓を、今にも止めてしまいそうになる。
「満更でもない、って顔をしてるぞ。ハヤテくん」
 僕を抱きしめていた腕を解いて、彼女は踊るように一歩後ずさる。手を腰に当てて少し前かがみになって、からかうような「にひひ」という表情を隠そうともしない。
「……なんです? 今の」
「発信機」
「なっ」
 発信機? あれが? ということは……。
「君が思っている通り、君の居場所はわたしに筒抜けになったということさ。長い間体内に留まることになって、体外に排出されるのはいつになるやら、わたしにも見当がつかない。なにせ牧村先生の試作品だからな」
「な、なんて危ないものを人の体に入れてくれてるんですか!」
「まあまあ、死なば諸共ということさ。さっき言ったとおり、わたしは君のせいで死ぬなら本望だし、そのために何を捨てても構いはしない。何が言いたいか、わかる?」
「……わかりませんよ」
「嘘つき。わたしは君がどこに行こうと、絶対についていくと言ってるんだよ。君が誰に愛想を尽かされようと、わたしが何を捨てて何に見捨てられようと、ね。絶対に見つけ出すし、君が死んだらわたしもそこで死ぬ」
 彼女の表情だけを見れば、そこに狂気と呼べるものは見当たらない。むしろ誇らしげな風でさえあった。つまり彼女は正気で本気だ。
「さっきの話の続きだ。君はね、幸せにならなきゃいけないのさ。君を愛した人のために。そして君はもう、いくつかの義務を負わなければならない立場なんだ。
まず生きる義務。
借金を返す義務。
そして、君が愛した人を幸せにする義務」
言い切った理沙さんは、どうだ、と言わんばかりに胸を張っていた。
思わずため息が漏れる。そうだ、昔から変わらないことじゃないか。僕の彼女は呆れるくらい強引な方法で僕を引っ張りこんで、お互いが笑う道を探そうとするのである。
思えば、彼女と恋人として過ごした一年足らずの間、喧嘩をしたことは一度もなかった。その原因は多分これだろう。彼女のこういう強引さが、僕から苛立ちや毒気を抜いて、やるせない馬鹿馬鹿しさに変えてしまうのである。
今もそうだ。意固地になるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった僕は、自然と口元が緩むのを自覚していた。嫌われるためにそれを隠そうという気もしなかった。
というよりも、僕はきっと彼女に嫌われることを、最初から心から望むことが出来なかったのだと思う。
「覚悟は決めたかい? ハヤテくん」
 得意げな、いや“不敵な”笑みが、僕の心をまた揺らす。
「あなたといて、あんなに幸せだった理由が、なんだか今さらわかった気がしますよ」
 一歩一歩、彼女に近づいていく。
 彼女が差し出した手を引いて、胸元に抱き寄せる。僕と彼女の身長はほとんど一緒だから、胸に抱きしめて、独占欲を十全に満たすことは出来ないけれど、きっとそれでいいのだろう。予測のつかないことを悠々とやってのける彼女だからこそ、こんなに大切に思うことが出来るのだ。
「諦めがつきました。……不幸にかけては右に出るもののいない僕ですが、どうか、あなたを幸せにさせてください」
「期待してるよ。それに、間違ってるぞ。わたしも、君を幸せにするんだ。幸せは二人で作るんだからな」
「……そうですね、そうしましょう」
「なあ、ちゃんとわかってるかい? 君はわたしを嫌いだと言えば、わたしの言ってる屁理屈を真っ向からひっくり返せたんだぞ?」
 もちろん百も承知である。
言わなくてもわかることだと思ったので、僕は何も言わずにもう一度顔を近づける。
 今度のキスは短かった。
 それで十分だと、僕も彼女もわかっていた。
 

「三千院ナギさん」
 僕らのやり取りをじっと見つめていた小さな女の子に、僕は声をかける。心なしか顔が赤い気がするが、まあ気にしないほうがいいのだろう。
 ポケットに入っていたタバコを取り出して、それを箱ごと握りつぶす。くしゃりと潰れたそれを指でつまんで、彼女に見えるように掲げた。
「タバコはお嫌いとのことでしたので。――これで、というのも失礼な話だとはわかっておりますが、どうか一つお願いを聞いていただけませんか?」
 お嬢様の表情が変わるのを、僕は見た。釣り目がちなまなじりをさらに上げ、口を引き結び、彼女は真剣な面持ちを作る。
「言ってみるがいい」
 丁寧に一礼。
「僕は今、三千院家に一億五千万の借金をしているんです。これをきちんと返済しなければならないと思っています。それに、かつてそこにお仕えしていた頃からの、一つの心残りがあるのです。……主であった女の子をずっとお守りする。その約束を、果たせなかったことが」
 泣きそうな表情を、僕は無視することにした。僕自身、緊張と不安で今にも泣いてしまいそうだった。
「……それで?」
「一度投げ出しておきながら、こんなことを言うのは、大変心苦しいのですが、その心残りを解消する機会が、もしあるのなら、僕はその機会を離したくはないのです」
 僕は熱気の残るアスファルトに跪く。
 少々キザだっただろうか?
 頭を下げたまま、僕は不安を無視して言葉を紡ぐ。
「どうかもう一度、僕を執事として雇ってはいただけないでしょうか?」
「わたしを、守ってくれるのか?」
「あなたが僕を邪魔だと思うまで、ずっと」
「わがままな主でも?」
「慣れていますよ。そのほうが楽しいくらいです」
「不満があるから、どこかに行ってしまったんじゃなかったのか?」
「それはやむを得ない事情と、僕自身があなたのそばにいる資格がないと思っていたからです」
「今は、思っていないのか?」
「実を言うと……、よくわからないんです」誰にも見られることのない苦笑が、つい顔に出てしまう。「駄目だと思ったら、どうか放り出してやってください」
「そんなことをするか、馬鹿者」
 作法に反して、僕は思わず顔を上げてしまった。
 懐かしい主の泣き顔が、そこにはあった。
 彼女は涙を隠そうともせず、ただ手を差し出す。
「こっちからクビにした覚えはないんだからな。執事をやろうというなら、すぐにでも元通りだ。……だけど、ここはハヤテの意思を尊重してやる」
 意地っ張りな内面が透けて見えるようで、僕は苦笑しそうになるのを堪える。
あの頃の僕は、途方に暮れた少年で。
 あの頃のお嬢様は、退屈な女の子で。
「もう一度、わたしの執事を、やらないか?」
「……はい」
 今の僕らは、喧嘩のあとの、遠回りな仲直りをしようとする、不器用な子供のようだった。
本当は、僕が一方的に悪いのだけど。
 謝罪の意味も込めて、僕は小さな手をとり、手の甲に口付ける。
 バッ、とお嬢様は手を引いた。
 その顔は耳まで真っ赤になっていて、驚いて飛びのいた猫みたいな体勢のまま、なんだか恨みがましそうな声を上げる。
「そういうことをするから、誤解されるんだ……」
「同感だ……」
 何故か理沙さんまで、僕に計り知れない馬鹿を見るような視線を向けてくる。
 ……失敗したかな?
「ハヤテ、今のお前は一応彼女がいる身なんだから、主人相手でもこういうことをするのは……その、駄目だぞ」
「相変わらず、無意識に女の子を落とすのは得意なんだな。ハヤテくん」
 誠意のつもりだったのですが……。
 手の甲への口付けは忠誠の証である。
 しかし女の子にとっては、口付けという行為そのものが、神聖かつ不可侵な儀式的なものらしい。
「い、以後、気をつけます」
 二人分の視線の圧力に気おされて、僕は頷く。
 お嬢様は気を取り直したように、背後を振り向いた。
「クラウス、この新しい執事に執事服の用意を。それと、色々と教えてやれ。仕事のやり方を忘れているかもしれん」
「は、お任せください」
 それまで一度も喋らず、はっきり言ってしまうと途中から存在そのものを忘れられていたクラウスさんは、丁寧に一礼する。
 そして僕に向き直ると、しわの増えた顔にどこか嬉しそうな笑いを浮かべる。
「この三年間、久しぶりに忙しい日々だったぞ。一から仕事を叩き込んでやるから、覚悟しておくといい。だが……、さし当たっては体力を戻さなくてはな。お嬢様、帰って食事といたしましょう。まだまだ暑い季節ですから、マリアが精のつくものを作ってくれているはずです。――朝風さまも、ご一緒にいかがですか?」
「ええ、是非」
「なんだ、来るのか」
 お嬢様の憮然とした表情に、僕は笑みがこぼれるのを自覚する。
 歩き出したお嬢様と理沙さんについていくように、僕とクラウスさんも歩を進める。
「ナギちゃん。来るのか、とはなんだ。来るのか、とは」
「ふん。どうせ今日中にパーティーでも開く気なんだろう。そのときでもいいじゃないか。というかだな、食事中に目の前でイチャイチャされたら鬱陶しいんだよ」
「僕ら、人前では基本そんなにくっつきませんよ? さっきのは特別です」
「そうだそうだ。人をバカップル呼ばわりするのは止めていただこうか」
「バカップルじゃなくても馬鹿には間違いないだろうが。何を自慢げに言ってる」
「天才基準で人を馬鹿扱いするなー! これでもちゃんと大学に受かってるし、勉強だってついていけてるんだぞー」
「大学生ですか。もう理沙さんに勉強を教えることも出来なくなったんですねー」
「今からでも勉強してみたらどうなのだ? 成績が悪かったわけではないのだろう? お嬢様も大学生だし、教養を身に着けるにはいい機会かも知れんぞ?」
「いえ、執事に専念させていただきます。とにかく仕事をちゃんとやらないと。キャンパスライフに憧れているわけでもないですしね。同じ学校じゃなくなったからといって、理沙さんに会いに行くのにいちいち理由をつける必要もないことですし」
「あ、友達に彼氏として紹介する必要があるな。これでちゃんと合コンに断りを入れられるよ」
「時間を作って大学まで会いに行きますよ。そのときにしましょう」
「ふふ、楽しみだな」
 屈託なく笑いながら、理沙さんは腕を絡めてくる。肩が触れ合って、歩幅を合わせて、僕にはそれが心地よい。
「早速イチャついてるじゃないか……」
 お嬢様は呆れたように肩を落としてみせる。
 すいません。前言撤回します。僕らがバカップルです。
 あ、そういえば。
「お嬢様、一つお聞きしたいことがあるんですが」
「ん、なんだ? ハヤテ」
 さっきの会話に、一つ気になる点があったのだ。

「僕に惚れてた。というのは、本当なんですか? 振ったというのも、なんのことだかよくわからないのですが」

 空気が凍る音というのを、久しぶりに聞いた気がする。
 信じがたいものを見る目を向けてくる、お嬢様と理沙さん。天を仰ぐクラウスさん。雰囲気の変化に、地雷を踏み抜いたことを悟る僕。
「こんなところも、相変わらずか」
 理沙さんの声が、緊張の最中にある僕の耳には、実際以上に遠く響く。
 衝撃から立ち直ったお嬢様の目は屈辱と怒りに燃え盛りはじめ、拳は力強く握り締められていた。
「ハヤテの……」
 運動不足で引きこもりな、現代っ子の代名詞のようだった少女が体をそらすように振りかぶった構えは、見違えるほどに力強く。
「馬鹿ァァァ!」
 意識を失う寸前まで、僕は妙な安心感を抱いていたのだった。
 変な奴だと思われるようなら、心外なことこの上ない。
なにせこれは、僕が愛した日常の光景であるのだから。

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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.4 )
日時: 2015/05/30 14:55
名前: ひよっくー

どうして僕のこと、嫌いにならないのさ。



 僕が三千院家の執事に戻ってから、二ヶ月が過ぎた。
 僕がこの屋敷の敷居をまたいだあと、どんなことがあったのかは省略させていただく。
熱烈な複数のお説教と、ささやかな数の強烈な暴力と、膨大で盛大で壮大なお祝いが、僕を迎え入れてくれた。と、その程度の描写に留めさせていただきたい。
 僕は滞りなく執事に復帰し、毎日のように彼女と話をしたり、お嬢様の漫画を手伝ったり、尋ねてくる友人や知り合いとの思い出話に花を咲かせ、今の彼ら彼女らがどんな風に生きているのかを聞いては、過ぎた時間の流れに思いを馳せた。
 穏やかな日々だと思う。怖いくらいに幸せな。
「悩みは解決したようだな」
 幽霊神父がまた姿を見せたのは、そんなある日のことである。実に三年ぶりの再会になるのだけど、幽霊だけあって外見にまったく変化というものがない。大人らしくなったり、頼れる大人になりつつある他の人を何人も見てきただけに、今までになく、現代に戻ってきたのだという実感が湧いた。
「……なんだか久しぶりですね」
「声優ライブを回るために全国行脚に出ていたからな。会場に行くたびにエクソシストや霊能者とかち合ってしまい、君が帰ってきたところに居合わせることは出来なかったのだよ。いやはや、血なまぐさい死闘だった……」
「この国の霊能者は伊澄さん以外あなたの同類なんですね……」
 というか、これはとっとと祓われるのが一番自然なのではないだろうか。
「わたしが渡した十字架は、まだ持っているようだな」
「ええ、まあ。吸血鬼にはついぞ会いませんでしたが」
「十字架はヴァンパイアハンターのためのものではないよ。神を身近に感じるための、一種の象徴だ。特に、罪の意識に苛まれている人間には必要なものなのだよ」
「そんな風に見えますか?」
「見えるとも。詳しくは聞かないがね」
 時々、幽霊には僕の思考が全て筒抜けなのではないかと思うことがある。それとも死んでさえ意識を保ち続けるような存在だからこそ、人を見る目も鍛えられているのだろうか。この幽霊神父に限ってそんなことは……、とは思うものの、確かめる気にはなれない。
 結局、十字架も神様も、僕を助けてくれることはなかった。
 だけど、信じるものが全て救われるということもないだろう。きっと、信仰というのは気休め程度のものなのだ。僕は自分自身でも気づかないうちに、その気休めに救われていたのかもしれない。結局、ずっと肌身離さず持っていたのだから。
「まあ、気休め程度にはなりましたよ」
 そんなことを言うと、神父は苦笑いを浮かべたのだった。


僕が鷺ノ宮家を訪れたのは、季節が冬へ移り変わる準備期間中のことだった。
 風情のある庭園と、純和風の広い屋敷。なんだかひどく懐かしい気分になりながら門をくぐり、出迎えてくれた執事の方に、広い畳敷きの一室に通される。
静かだ。
 執事に戻ってからの二ヶ月間、伊澄さんが僕の前に姿を見せることはなかった。
 責任を感じているのだろうか。だとしたらお門違いというものである。僕らは出来ることをやろうとしたし、決断したのは僕だ。
 それを置いても、彼女には聞きたいことも、話したいことも数え切れないほどある。
お礼もその一つだ。理沙さんを僕の元まで連れてきてくれたのは、伊澄さんだと聞いている。それによって僕は自分を取り戻すことが出来たのだし、逃げ出した僕を捜索するのにも、彼女は協力を惜しまなかったと聞く(このあたりは理沙さんから後に聞いた話である)。お嬢様や理沙さんをはじめとしたみんなを守れたのも、彼女がいなければどうにもならなかった。いくら感謝の言を述べても足りないくらいなのだ。
 そんなことを考えている僕の背後で、ふすまが開く音がした。
 振り向いた先には、二人の女の子の姿があった。伊澄さんと、もう一人。
「え、あの……?」
 言葉をなくす僕の前で、伊澄さんはぺこり。
「お久しぶりです。色々と忙しくて、お会いする機会がありませんでしたね」
 いえ、そうではなく。
 三年ぶりに正気で対面する彼女は、もはや少女という枠から抜け出しつつある、楚々として上品な一人の女性である。が、周囲を意に介さないマイペースな姿勢は相変わらずらしい。
「そ、そうですね。僕のほうもやることが多くて、これまで顔も出せませんで……。ところでそちらの方は……」
 見覚えのある女性だ。年頃は二十台の中盤といったところだろうか。薄い茶色の髪を長くして後ろで一本に縛り、ノンフレームのメガネの奥には深い知性が覗く。カチューシャも、優しい笑顔もない。しかし間違いない。
「とぼけなくてもいいわ。わたしのことは覚えているでしょう?」
「……忘れるはずがないでしょう」
 言葉はどこか冷たく、突き放すようで、僕の記憶とは似ても似つかない。だけど多少年をとったって、その声を忘れるはずがなかった。
 僕がこめかみを撃ち抜いた、あの女の子だった。
「……わたしとしても、色々とあなたには話したいことがあるんだけど、まずは名乗ったほうがいいでしょうね。わたしは……」
「九条美鈴さん、ですよね」
 その瞬間の彼女の反応ときたら、いっそ痛快なほどに劇的だった。
「い、伊澄ちゃん!? わたしのことは知られてないって……」
「そのはずですが……」
 実際、僕が未来において彼女の名前を知る機会はなかった。まあそれも当然だ。ずっとスコープ越しに覗いていただけなのだから。外見は覚えられても、声を直接聞くのはこれが初めてと言っていい。しかしそれも「現実においては」という枕詞をつければの話である。
「実を言うと、今日ここに来たのはその相談もあるんです。――僕は自分を取り戻してから二ヶ月間、毎日、なくなったはずの未来の可能性を見てきました。あなたが僕に見せ
てくれたのと、同じものですよ」
 伊澄さんが呆れたように顔をしかめる姿を、僕は初めて見た。
 怒った顔や澄ました顔、笑顔は何度か見たけれど、基本的にいつだって無表情な女の子なのである。
「何故もっと早く言ってくれなかったのですか。わたしのサポートなしでその状態にあることが、どれだけ危険か……。わかっていれば対応したのに。……いえ、今からでも遅くはありません。申し訳ありませんが、あなたのことは後日に。わたしは今からハヤテさまの回復の手立てを……」
「いえ、その必要はありません。実は三日前から見てないんですよ。その夢」
予想外の事態に飲み込まれないよう、少しだけ気を張る。ここから先は言いづらいことなので、隠すことなく全てを話してしまうことにする。
「簡単に説明します。僕が見ていたのは、僕が未来で放棄した可能性です。つまり僕がそこの九条さんに銃を向けず、原因を探ってテロを未然に防ぐために動いた結果を、僕は毎晩夢で見てきたわけです。14歳の九条さんと知り合いになった僕は、たびたび彼女に接触を図りながら、戸籍の取得や定職探しに明け暮れて、……結局何もわからないまま、九条さんに巻き込まれて突然死んでしまいました」
「はい?」
 まあそんなリアクションも無理はない。僕も大体同じような感想である。
「なんとなくでもわかっているのは、あの未来がどんな状況にあるかということ。それと、九条美鈴という女の子が、僕ら以外からも恨みを買っていて、暗殺を企てた連中がいるということだけです。多分僕らと同じく過去から来た連中でしょう。テロリストがレーザー銃を使うニュースがいつも流れてたのに、僕らを襲ったのは実銃でした。音から推定するに、この時代と技術的にはそう変わりません」
 九条さんは頭痛の種を抱え込むように、こめかみに手を当てて上を向いた。子供の彼女しか知らない僕の目には、疲れたようなその仕草が、ひどく人間臭く映る。
「それで、それに撃たれてわたしとあなたは死んだというの?」
「ええ、気がついたときにはどうしようもなく」
「そう。ともかくそれは、確かに可能性の一つとして存在していたはずね。かくいうわたしも、あなたにとっては大して変わらないのでしょうし」
 計算が狂ったわ。と呟いて、九条さんはため息を一つ。僕に向き直る。
「あらためて、わたしは九条美鈴。あなたの時代に拡散レーザーを打ち込むはずで、それによってあなたに殺されるはずだったところを、あなたによって救われた、この時代から分かれた、ちっぽけなパラレルワールドの住人よ」
「はい?」
先ほどの彼女と同じ反駁を、僕は口にした。

「まず、わたしにとっての認識を話させてもらうわね。わたしはこの時代から約200年後、23世紀に生まれた人間よ。あなたたちが来たのはわたしが14歳の時代ね。未来の社会情勢なんてものを、ここで話してもあまり意味はないでしょうけど、手短に言えば、あなたたちのクラスメイトは、後の時代に大きな爪あとを残していったのよ。それは世界を潤したけれど、同等のうらみも買った。ここまではあなたたちも想定していた通りね。
そしてここからが本題。現在のわたしは26歳。タイムマシンを完成させたのは2年前、わたしが24歳の頃よ。実用化に成功したわたしは、それから様々な実験を行った。わたしはその実験の過程で、魔が差したのかもしれないわね。変わってしまった時代に違和感を覚えて、その分水嶺を作り上げた、三千院ナギをはじめとした連中を殺してしまおうかと思ったのかもしれない。
それか、時空というものに対して増長してしまったのかも。死後100年以上が経過してなお、三千院ナギは有名人で、時代を象徴する伝説的な英雄だったから、子供の彼女がいなくなってしまった場合のタイムパラドックスを、この目で観測したかったのかもしれない」
「何故そんなに曖昧なんです?」
 あなた自身のことでしょう。とは言わなかった。そのまま苛立ちを言葉にしてしまいそうだったのだ。そんな権利は僕にはない。
「わたしが取りうる可能性だったらしい、というだけで、わたしはそんなことをしていないんだもの。何故かというとね、そのときのわたしには友人がいたのよ。年上の、お人よしで変な人だけど、優しくて格好いい男の人。……なにを不思議そうな顔をしているの? あなたこれで察することも出来ないなら、天然とかじゃなくてただの馬鹿よ?」
「わかってますよ」
 なんとなく察しはついていた。驚いたのは、彼女の僕に対する印象が思いのほか好意によったものであることと、語る口ぶりが、思いのほか柔らかかったからだ。
「わたしのそばにはあなたがいたのよ。綾崎ハヤテさん。14歳のわたしと出会ったあなたは、わたしのことをいつも守ってくれた。そして、あなたと出会ってからの騒動が、わたしのタイムマシン理論完成を早める助けになった。わたしが世紀の大発明をしたって大喜びであなたに告げたとき、あなたは全てを話してくれたわ。あなたがご主人様を守るために、200年後の未来に来たことも、一生の友達だと思ってた伊澄ちゃんがその目的のためにわたしに近づいたこともね」
 なんと言っていいかわからない。九条さんの話を聞きながら、伊澄さんはそんな表情をしていた。
きっとこの話は、僕がここを尋ねる前から何度も交わされていたのだろう。それでもなお、伊澄さんにはありえたかもしれない未来の自分を、どう受け止めていいものか、わからずにいるのだ。
「勘違いしないでね。別に恨んでいるわけではないの。二年前のわたしは落ち込みもしたけれど、子供でもなかったからね。あなたが打算だけでわたしを守ろうとする人じゃないって事も、伊澄ちゃんが本心を全て偽って、十年も人を騙し続けられる人じゃないって事も、ちゃんとわかってたのよ。だから、わたしの中で、あなたたちは今でもかけがえのない友人」
 ただね、と彼女は嘆息する。
「わたしは死ぬはずだったのよ。この時空ではね。わたしが生き残ったことによって、その先の未来は解消しきれない矛盾を抱えてしまった。わかる? 月並みな言い方をすれば、あなたたちは運命を変えたの。驕りでもなんでもなく、九条美鈴という天才の存在はそれほど大きいものだった、ということ。それによって、わたしがいた時空はこの時間軸から離れてしまった。そして一本の枝から根を生成する歪な樹木のように、この時間軸のそばに落下した。つまりわたしは異世界人、パラレルワールドの住人というわけ。ここまではわかる?」
「え、ええ」
 生返事を返しながら頭の仲を整理する。
 今目の前にいる女性は、僕が殺した女の子でも、守ろうとした女の子でもなく、守ることが出来た女性なのだ。そしてそのせいで、彼女のいた時間はこの世界からはじき出され、パラレルワールドになった。
 では。
「あなたは何故、ここに?」
「時空間を行き来する渡航機を作ったからよ」
 一応言っておくけれど、色々と妙な経験をしたとはいえ、僕は彼女の専門分野に関してはまったくの素人だ。
そんな僕でもわかる。彼女は今めちゃくちゃなことを言っている。
「えっと、タイムマシンを作ったのは、あなたにとって二年前なんですよね?」
「そうよ」
「二年で、そんなとんでもないものを作ったんですか?」
「うん、その通り。といっても、理論は既にあったから、それを実行しただけなんだけどね。タイムマシンの理論も流用できたし、伊澄ちゃんの協力で時空断絶の観測に成功したのも大きかったけれど、そもそもわたし、天才だから、ね?」
超鈴音(チャオリンシェン)じゃあるまいし。
などということは言わなかった。まあ、それが出来たというのなら、それが正しいのだろう。僕のちっぽけな常識の物差しは、こういう場合一切役に立たないのだ。十分すぎるくらいに僕はそれを学んでいる。
「と、いうわけで、わたしがここに来ることができた訳はわかったわね? ここに来た理由はわかる?」
「……実験ですか?」
「半分正解」
 合わせた手のひらを蝶の羽根のようにはためかせて、九条さんは可愛らしい拍手をした。
「だけど上出来。もう半分の理由は、あなたたちは本来どのように生きていたのか、それが気になったから。言うなれば完全な興味本位ね。わたしと一緒にいるあなたたちは、もう向こうで生きることを選んでしまったし、渡航機にはまだ1人しか乗れない。だから、元の時空に帰すことは難しいし、やる意味も今のところないの」
 どこか得意げな表情からして、彼女は僕の考えを先読みして答えた気だったのかもしれない。だけど、僕は別の世界にいる僕のことを上手く想像出来なかったし、彼ら(あえて彼らと呼ばせてもらいたい)が元の時代に戻りたがっているかもしれない。ということにも思い至ることは出来なかった。
 過去に変えることの出来る可能性を放棄してまで、手を汚すことを拒んだ彼の気持ちは十分に理解できていたからだし(それは毎晩夢に見てきた、彼女とともに死んでしまった“ありえたかもしれない僕”が考えていたことだから)、僕とはみなまで言わずとも通じ合ってしまう、親しい友人だと錯覚している九条さんの勘違いのせいでもある。
「あなたの知る僕と、今ここにいる僕は別人ですよ」
「顔を見たときからわかっているわ。向こうのほうが数段いい男よ。あなたはずっと、罪悪感で死にそうな顔をしているもの」
 どこかがっかりしたような顔を見せる九条さんに、僕は返す言葉もない。
「えっと、それでこの時間軸にきたのは、いつ頃なんですか?」
「二ヶ月前」
「ああ、僕が目を覚ましたのと同じくらいですね」
「……若くても、やっぱりハヤテさんなのね。思考が硬いわ。あなたが目を覚ます時間に合わせて来たに決まってるじゃない」
「え……、どうやってその時期がわかって……、いやいいです。これ以上混乱したくないので教えてくれなくて結構です」
「思い出したように失礼な言い方をするとこまで一緒なのね……」
 まったく。と、そんな風にため息をついて。
「あなたが綾崎ハヤテなのは、今までの会話でよくわかったわ。……正直言うと、心配してたのよ。あなたが時間移動の影響を受けて、罪悪感にかられて、心を壊して、あなたでなくなってしまったかもしれないってね。でもどうやら問題ないようね。愛する人のおかげかしら?」
 あとになって思い返せば、そのときの彼女の笑顔には違和感があった。
 そのときの僕は、得体の知れない居心地の悪さから逃れようと必死で、それに気づくことはなかったのだけれど。
「理沙さんのことも、知ってるんですか」
「知ってるわよ。もちろん。あなたは知らないでしょうけどね。彼女はあなたを追いかけて未来に飛んできて、今でもわたしの友達なのよ?」
 そしてその言葉で、僕が頭の片隅で抱えていた違和感も吹き飛んだ。
 どうしよう。リアクションに困る。もちろん嬉しい。だけどそれは僕の知らない朝風理沙が全てを捨てて、僕ではない彼を追いかけた、という事実だ。もちろん今の僕たちと何の関わりもないというわけではなく。いやそれは置いておくとして、そもそもどうやって……。
 ああ、そうだ。
「ということは、伊澄さんが?」
「らしいですね」
 水を向けた伊澄さんはというと、なんとも退屈そうに畳に座り、お茶とお饅頭をつまんでいた。リラックスしすぎじゃないですか……?
「九条さんが言うには、向こうのわたしはハヤテさまのために、理沙さんを迎えに行ったのだそうです。あくまでも本人の意思を尊重して、でしょうが。永住も視野に入れていたようですから、そういう行動も取れたのでしょうね。とはいえ、とても危険な行動でもあったようなのですが」
「……というと?」
「あなたが陥ったのがそれです。先ほど九条さんも言ってらしたでしょう。“時間移動の影響”です。わたしが行った時間移動は、秘術である強制転移の法にアレンジを加えて行ったものです。しかし時間をまたぐとなると、色々と支障が出てしまうらしく……」
「簡単に言ってしまえばね、時間移動は感情の増幅をまねくの。高揚していればハイになるし、落ち込んでいれば際限なく気分は沈む。この時代に取引されている麻薬のようなものだと思えばいいわ」
「麻薬の知識が一般的なものだと思われるのは納得いきませんが……。じゃあ僕が正気を失ったのも、そのせいなんですか?」
「そうなるわね。わたしも調べてみたんだけど、転移と時間移動では本来プロセスがまったく違うのよ。転移は周囲の空間ごと移動させるだけ。といっても、それだって物理法則を力業で無視するようなとんでもないことなんだけど、これが時間移動になるとそうもいかないから、転移先で存在を再構築することになる。人の思考を司るのは脳だけど、思考、感情、人間性などを総括して呼称するべきもの。大まかに言えば魂と呼ばれるものは、そこを流れる電気信号のことなのよ。だけどそこを流れる信号は刻一刻と変化していく。彼女の時間転移の方が実行される時は、ニュートラルな安定した状態を0とした場合、極端に言えば高揚の+にも悲嘆の−にも、針が振れていてはならないのよ。極端な高揚は情緒不安定に繋がり、精神のバランスを崩してしまう。極端な悲嘆の例は、あなたが良く知っている通り。当たり前だけど、これからタイムスリップしようってときに完全に冷静でいられるはずもないんだけどね」
 長い説明は、正直半分くらいよくわからなかった。
 伊澄さんは、僕のほうに深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。わたしがしっかりしていれば……」
「いえ、そんなことは……。そもそも伊澄さんがいなければ、僕らは何も出来なかったでしょうし、……むしろあなたには感謝しているんです。自分の手を汚したことに対して、後悔がまったくないと言えば嘘になりますが、恨む理由はありません」
 彼女の肩に手を置いて、頭を上げさせる。
 言葉に嘘偽りは一つもない。悔やむのは僕のみであるべきだ。そもそもここに来たのだって、伊澄さんにお礼を言うためなのだから。
 今思えば、僕はなんて馬鹿なことをしようとしていたのだろう。あの日、誰にも見つからないように姿をくらませていれば、彼女はこうして自分を責め続けたに違いないのに、そんなことにさえ気が回らないなんて。
「悪い奴がいるとすれば、あなたのご主人様を亡き者にしようとした、別の世界のわたしくらいよ。だからといって、わたしに責任があるわけじゃないから、謝ったりはしないけどね。あとはまあ、伊澄ちゃんがあり得ないくらい天才だったせい、と言えなくもないかしら。感覚的な術のアレンジだけで、不十分とはいえ人類の可能性を200年以上早めたんだから。それを自分で責めるのもどうかと思うけどね」
 九条さんの言葉はなんともあけすけで、もしかしたらそれが良かったのかもしれない。伊澄さんの表情は柔らかくなり、僕もシリアスな気分は飛んでしまった。
「そうですね。さっきの言い方からして、理沙さんにもそんなに大きな影響はなかったんでしょう? 結果オーライですよ。伊澄さんも大丈夫そうでしたし、僕も今ではどうということもありません」
「…………そうね」
「何故目をそらすんですか?」
 彼女が気まずそうな顔をしているものだから、にわかに不安になってくる。
「朝風さんはその、わたしも聞いただけなのですが、ハヤテさまを思う一心で、未来まで飛ぶ決意を固めたらしくて……」
「簡単に言うと、ヤンデレというか、ね? 愛が重いってやつ? わたしが知る限りでも、あなた三回くらい刺されてるわ」
「一大事じゃないですか……」
「いやほら、平穏な心を取り戻すまで一年くらいかかったけれど、今では鬱陶しいくらいいちゃついてるから平気平気。仲良くなったのもここ一年の話でね。あなたに近づく女全員に殺意振りまいてた時期は脱したから、心配することなんて一つもないのよ」
 どのみち僕に、パラレルワールドとやらを確認する術も、行く手段もない。だから関係ないと思ってしまったっていいのだけれど、彼女の言葉にはなんとも不安にさせられる。
「……とりあえず、伊澄さん」
「はい?」
「あれは、もう使わないほうが良いですね」
「そうですね」
 そういうことになった。


 九条美鈴が自分の世界に帰ったのは、それから二日後のことである。
観光くらいしていったらどうですか? と聞いたら、僕が鷺ノ宮家を尋ねる前に散々したのだそうだ。僕に会ったから、この時代の用事は全て消化済み。「はっきり言ってもう飽きたわ」とまで言われると、もはや言うこともない。基本的にドライな人なのだろう。
「理沙さんには会ったんですか?」と聞くと「一人で会うのもあなたと一緒に会うのも怖いし、伊澄ちゃんはいつの間にかいなくなってるから論外」と返ってきた。心の傷があるらしい。詳しく聞く気にはなれなかった。
 前日には二人でお酒を飲んだ。いまや僕は精神的にも肉体的にも成人を迎えているし、彼女はいわずもがなだ。
 その夜話したことは、本当に多い。
 彼女の世界での僕のこと。僕が見た彼女のこと。誰かのこと。僕らのこと。過去のこと。未来のこと。こいのはなし。あいのはなし。ゆうじょうのはなし。
 大量の情報はアルコールが綺麗に洗い流してしまい、気絶するように酔いつぶれた僕らは、お酒を飲みながら交わした会話を7割がた忘れていた。お茶漬けをつつきながら、どちらからともなく笑いあった。
 きっとこれでいいのだろう。
 本来なら出会うはずのなかった僕らであるから、きっと何もかも忘れてしまうのが一番自然なのだ。
色んなことを吐き出して、必要に応じて忘れて思い出して、それぞれ生きていけばそれでいい。
 別れの日、涙はなかった。
 僕を抱きしめた彼女は、僕より少しだけ背が高くて、花の匂いがした。
 ただそれだけだ。覚えているのは、本当にそれだけ。


 秋は冬に変わり、年が明けた。
 お正月の三が日は、神社の娘である理沙さんにとっては一年で一番忙しい時期と言っても過言ではない。だから僕と彼女が二人でゆっくり出来たのは、1月の三分の一を消化してからのことである。
「慌しいわたしたちの新年に」
「乾杯」
 寒風の吹き込む縁側で、カツン、という音を立てて打ち合わされたのは、甘酒入りの湯のみである。夜の早い冬であるが、太陽はまだ僕らの頭より上にある。こんな時間から酒盛りをするわけにもいかない。
 僕はそこそこ飲めるけれど、彼女は底なしの酒豪である。おまけに酒癖もそこそこ悪い。恩師に似たんですかね。なんてことを言うと、あとあと口移しで日本酒を飲まされたりするので、あまりお酒の席でからかわないようにしている。恥ずかしさと驚きと幸せとアルコールで、僕は体中が熱くなって、林檎みたいに真っ赤になってしまうのだ。
「ここ何日か、親戚や地元の名士の席に呼ばれては、酌をして回ってたんだ。今はゆっくり座って、君と一緒に冬の景色を眺めていられる。いい気分だよ」
 コートを羽織ってマフラーを巻いて、おまけに耳当てまでつけた彼女は、大人びた表情とは裏腹にモコモコしていて可愛らしい。赤くなった顔を見て、なんだか頬が緩んでしまった僕は、湯せんにつかったとっくりから甘酒を注ぎ、顔を隠すようにあおる。
「お」
 純な高校生ではなくなってしまった僕らは、少しだけ大人の付き合い方というものを学んでいる。だけど不思議なもので、僕が一番楽しいのは、彼女の子供じみた悪戯に振り回されているときだったりする。
たとえばこんな風に、甘酒とお酒をすり替えられたり。
「ゴホッゴホッ」
 予想していた甘さとは違う、強烈なアルコールの匂いと味。美味しいのだけれど、それは心構えをしていればの話だ。驚いた僕は思いきり咳き込んでしまった
「ごめんごめん、匂いで気づくかと思っていたんだけど。なにか考え事でもしてたのかい?」
「……まったくもう、また変な悪戯をして。気がつかなかったのも不覚……」
 口直しに熱いお茶を一口。こちらに細工はないようだ。
「まあまあ許してくれたまえ。多忙なわたしの、ささやかなお遊びなんだ。なんならもっと飲むかい?」
「ふむ、昼間から酔っ払ってるようなダメ人間が、理沙さんのお好み、と」
「そんな雪路みたいな彼氏は嫌だが、まあ君なら許すよ。許容範囲だ」
 不敵な笑みを浮かべて、彼女はとっくりを手に取った。そしてそれをそのまま口元に運び、味わうように一口。そしてそれをこちらに向ける。
「わたしの酒が飲めないか?」
「まったく、可愛い彼女が変なことを覚えてダメ人間と化して、しかも恋人をダークサイドに誘うこの悲しみ。誰に相談したものですかね」
「誰にも相談できやしないさ。また惚気話かって、煙たがられるだけの話だよ」
「そんなところばっかり冷静なんですから……、まったく」
 とっくりを受け取り、僕も一口。一口も二口も変わらないだろう。ああ、こんな考えがまたダメ人間っぽい。
 理沙さんはどこか子供っぽくニヒヒ、と笑い、二人の間にある湯せんをどかしてこちらに近づく。
「これで今日の仕事は無理だね」
「……ですね」
「心配しなくていい。既にナギちゃんには話を通してあるから。一本電話を入れるだけだ」
「こういうときは本当に、用意周到ですね……」
 不承不承、といった顔を作っているつもりなのだけれど、理沙さんは一向に気にしていないようである。
 きっと見抜かれているのだろう。彼女の提案が楽しそうだと感じていることも、嫌な気持ちなど持っていないことも、ちょっとした後ろめたさを感じること自体に、少しだけ興奮していることも。
「さて、どうしようか。今日は神社のほうに警備の人とバイトの子がいるだけだから、家の中にいても見咎められたりはしないんだ。部屋でテレビでも見ながら飲むか?」
「そうしましょうか。どこかに出かけて、新年早々昼間から酔っ払ったカップルとして見られるのは嫌ですからね」
「確かに。それでヒナや美希たちに見つかったら最悪だな」
 姉に向けるのと同じような視線で僕らを叱るヒナギクさんや、こちらを大笑いしながらはしゃぎ回って仲間に入れろと騒ぐ美希さんや泉さんを想像する。なるほどそれは考えうる限り最悪の事態である。
 含み笑いを堪えきれないまま、僕は彼女の手をとった。なんで笑ってしまうのかな。お酒のせいだろうか。きっとそうだろう。
 引き寄せた理沙さんの体を抱きしめて、頬をくっつける。真っ白な肌は柔らかくて絹のような感触。猫のように頬でその手触りを確かめながら、僕はささやく。
「今日はゆっくりしましょうか。二人っきりで、飽きるくらいだらだらしてましょう」
「ふふ、みんなが働いているときに、わたしたちは酔いどれてだらだら時間を消費するわけか。背徳的だね」
 わかっているくせに。とは言わない。
 言わなくてもわかるなら、言う必要はない。
 それでもなお話すのなら、それは決まりきった問答のときだけである。
「今日くらい、わがままになってもいいじゃないですか。堕落しましょうよ。頑張ってきた僕らへのご褒美には、ちょうどいいわがままです。……そしてまた、明日から頑張ればいいんですよ」

 そんな馬鹿馬鹿しい問答が、僕にとっては何にも変えられない宝物なのである。

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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.5 )
日時: 2015/05/30 15:00
名前: ひよっくー

どうもこんにちは。あるいはこんばんは。ひよっくーと申します。
見にくい上に、なんだか長くなってしまってすいません。本当はこの三分の一くらいの、さらっと読めるものにするつもりだったんです。本当です。
まあとにかく、ここまで読んでくださってありがとうございました。
しかし。
「なんか長いしわかりづらいけど最後まで読んでやったぞゴルァ」という方には申し訳ないのですが、もうちょっとだけ続くんじゃ。
よかったら見てやってください。

追記
オリキャラの名前に関しては、チャットにてアイディアを頂きました。
ロッキー・ラックーンさん、霞煌さん、充電池さん、ありがとうございました。もう一人分案を出していただいておりましたが、その子に関してはボツにいたしました。申し訳ありません……。
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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.6 )
日時: 2015/05/30 15:02
名前: ひよっくー

22世紀の、いつかのある日。どこかの場所で。

 火照った体に心地よい風が吹く。
 人口の光が見当たらない、自然に囲まれた風景を、九条美鈴は小型の暗視ゴーグル越しに見やる。風情も何もあったものではないが、明かりを灯すわけにもいかない。この時代ともなると、こんな緑しかないような空間は貴重なもので、時々管理人が訪れる以外は人の足が入ることは少ない。それだけに忍び込む者もいるから、不審な明かりなどが管理人室から見えたりすれば、途端に警備員が飛んできて包囲網を敷かれてしまう。
 だから戦闘の規模は可能な限り小さく、かつ迅速であることが求められる。
 先程までのように。
「案外早かったですね」
「早く済ませるために入念に準備したのよ。そんなこともわからないの?」
「そうでしたか。では言い換えましょう。早く終わってよかったですね」
「まったくね」
 肩にかかりそうな水色の髪、優しげでありながら精悍さを増した青年らしい顔立ち、細いが鍛え上げられた身体。その顔に浮かんだ、どこか皮肉そうな微笑み“28歳”の綾崎ハヤテの顔を、九条は暗視ゴーグル越しにはっきりと見る。その手が掴んだ、一枚の護符も。
 元々それを持っていた者は、既に意識を手放していた。長い黒髪と白い肌、たおやかな顔立ちに小さな体、身にまとった着物は相当値が張るものだろうが、ところどころ焦げてしまっている。
「向こうの僕も、やっぱり抜けてましたね。自分の目で見て、わかっていたはずなのに。お嬢様を襲ったのは、自力でタイムマシンを開発した天才少女じゃなくて、この護符を使って時間遡行した何者かだっていうことに」
「見事にスルーしてたわね。多分何度も意識を時空間に飛ばしたせいで、現実感をなくしてたんだろうけれど、それにしたって迂闊よね。最後までこれで丸く収まったって思い込んでたわよ。倒れるくらいお酒飲ませても様子が変わらなかったから、多分本気でそう思ってるんでしょうね」
「人間は見たいものしか見ない、ってことですか。まさか自分がその実例を演じるところを見るとは、思ってませんでしたけど」
 色々と起こりすぎて、頭の中で整理できないまま、自分のあずかり知らぬところで物事が丸く収まりそうになる。そうなると、人間無意識のうちにそのための順路を探してしまうものだ。実際に把握できていないことであっても、これはこういうことだろう、と想像して把握した気になってしまう。
 連続する特殊な環境で、神経をすり減らしていた綾崎ハヤテが、そんな落とし穴にはまってしまったとしても、不思議はない。
 しかしそんなことでは、三千院家の執事として失格だぞ。
 声には出さず、遥か過去にいるはずの自分に、綾崎ハヤテは語りかける。
 そして、目の前で倒れている、黒い髪の少女をもう一度見る。
 予想していたこととはいえ、どうにも納得しきれない感情が、胸の奥でとぐろを巻いている。
「伊澄さんは知っているんですか? 犯人が、ずっと未来で生まれた、彼女の遠い血縁だってこと」
「片方は知ってるし、片方は知らないわ。知ったところでどうしようもないことだもの。下手なことをすれば、今度は人為的にパラレルワールドを作ることになりかねないわ。知らないほうがいいことだってあるの」
 反論するための言葉を、ハヤテは飲み込んだ。一番複雑な立場にいるのは、自分ではなく彼女だということくらい、彼でも理解している。
「さて、時間を越えたテロ事件の犯人は捕縛したわ。あなたはどうする? 戻ったら、理沙と伊澄と一緒に過去に帰る? わたしの協力がなくても可能よ。その護符があればね」
 護符、正確には緻密な論理回路が刻み込まれたタイムトラベルの“指南書”は、鷺ノ宮伊澄が製作したものである。鷺ノ宮家の宝物庫に代々保管され、いつか子孫によって過去へと場所を移し、朝風神社の宝物堂に収められ、再び少女時代の鷺ノ宮伊澄の手に渡る、時間のループを成立させるために、時間を越えて存在し続けるオーパーツ。
 これがあれば、移動のたびに精神面に不安を抱えることにはなるが、同一時空内で身体ごと移動させることが可能だ。そして、精神だけを過去や未来に移動させることも(こちらの方法は、今ここにいるハヤテには使えないのだが)。
伊澄に見せれば、改造によって別時空への渡航も可能になるかもしれない。というより、彼女ならば可能だろう。やるとなれば、負けず嫌いの意地にかけてやり遂げてしまうビジョンが、ハヤテには見える。
 ハヤテの返答がどんなものか、九条には察しがついているだろう。それでも聞かずにはいられないのだ。
「やめておきます。昔みたいに暮らすには、戻った先で向こうの僕や理沙さん、伊澄さんをを亡き者にして、それに成り代わるしかありません。そして、僕はそんなことをしたくありません。二人とも同じことを言うと思いますよ」
「へえ、そう。わたしとしては、あなたの顔を金輪際見ずに済むようになる、いい機会だと思ってたんだけどね」
 僕の周りの女の子は、素直じゃない人ばっかりだ。
 そんなことを思いながら、ハヤテが苦笑を表に出すことはない。言葉の裏に気遣いの色があることくらい察しがついているし、いちいち茶々を入れてからかうなんてことは、紳士としての矜持に反する。
 ハヤテは、遠いパラレルワールドから遥々回収しに来た護符を、目の前にかざす。過去に目にしたときは、和紙で包まれて古びた封筒に入れられていたから、じっくりと見るのはこれがはじめてのことである。しかしどう見ても、鷺ノ宮伊澄が全力を挙げて作り上げた希代のオーパーツには見えない。
その気になればすぐにでも引き裂くことの出来そうな、こんなちっぽけなものに、十年以上振り回されていたのだと思うと、苦い喜悦に笑ってしまいそうになる。
「救われませんね。手違いで殺されてしまったあなたも、殺してしまった僕も」
「それと、よりによって時間旅行で迷子になった伊澄もね。思えば間抜けな話だわ。こんなことで一生苦悩し続ける羽目になったかもしれないんだから」
「あなたを助けることを選択した伊澄さんは、もう吹っ切れています。しかし、あなたを殺す手助けをしてしまった伊澄さんは、もしかしたら自力で気付くかもしれません。あなたは彼女に“九条美鈴が犯人”だと言った。“あの僕”は九条美鈴が撃たれたのは、僕らと同じような恨みを買ったせいだろうと推測した。それで彼女らの推測は、一応は矛盾なく収まります。だけど、ぼんやりしているように見えて聡明な人ですから……」
「それはどうかしら……。あの天然っぷりは筋金入りのように見えるけれど」
 
 二人の考え方の違いは、悲観と楽観というだけで説明が付くだろうか。
 九条美鈴は、違うと思う。
「あなたと伊澄は、わたしを殺そうとした。そして一方の可能性ではわたしのこめかみを射抜いて、一方の可能性ではわたしの命を救った。ただそれだけなのよ。両方の可能性をあなたたちは内包していて、それぞれが結実した結果があるだけ」
「大雑把すぎます。二つの可能性に分かれた僕らは、姿は同じでも別々の存在なんですから」
「被害者が割り切ってるんだから、加害者もそれに同調してればいいのよ。死んだわたしはなにも言わない。だけど、生き残ったわたしにとってはただそれだけの話なの。あなたはわたしの友達。伊澄も理沙も、わたしの友達。わたしを殺した綾崎ハヤテと、その手助けをした鷺ノ宮伊澄の罪は、どうやったって裁けるものではないし、独りよがりな贖罪をしたって何の意味もない。だからね、きっと考えたってしょうがないと割り切るわよ。あなたはお馬鹿さんな上に、うじうじしてるから未だに納得がいかないんでしょうけど、伊澄はきっとそう考えるわ。本質的に、あの子は悩みとは無縁なの」
 ハヤテの顔には、理解できない。という文字がでかでかと書かれている。
 それでも九条は気にしなかった。何度でも言えばいいことなのだ。彼がこの時空に帰る気がないというなら、いくらだって時間はあるのだから。
「さて」
 一瞬で、簡易型の遮光音カーテンが張られる。そして、腰に下げていた銃器型のデバイスを、気を失った女の子に向ける。躊躇うことなくトリガーを引くと、カーテンの内側には、雷にも似た光と電流が迸り、耳をふさいでも全身を揺さぶってくるような轟音が響く。
 時間はきっかり一分。意識を取り戻しては失い、世界が反転して宇宙に放り出されたかのような常識の範疇を外れた衝撃と激痛に、少女の体はのたうち回り、痙攣を繰り返す。
 トリガーから力を抜いたとき、幸いにも少女の体は原型を留め、心臓は動いていた。外見上の傷もなく、髪や衣服も電流を浴びる前と変わりない。
 カーテンを収納して、ハヤテの顔を見やると、悪魔を見るような目を九条に向けていた。
「なんでそんなに冷静なんですか……」
「失敬ね。実験はいつだって、心躍る作業工程よ」
「いえ、そういうことではなく……」
「とにかく、理論上は問題ないはずよ。これでこの時代、この場所に来た目的は達したわ。彼女は記憶をなくしたし、もうその護符を使うための霊力も喪失した。あなたの目的の後始末は、これで完了よ。お疲れ様」
 そう、本来の目的はこれだ。
時空渡航の実験のついでに、九条美鈴を殺害した綾崎ハヤテ、鷺ノ宮伊澄に会い、嘘を交えた説明をすること。
そして、三千院ナギ、九条美鈴に危害を加える前の犯人を追い詰め、無力化すること。
どちらも、目の前のお人好しな青年のためのものだ。
人のことを言えないくらい、彼女自身もお人好しで甘いのである。
「ありがとうございます。……でも、これで大丈夫なんですか?」
「理論上は、って言ったでしょ。彼女が起きても問題なければ、成功したってことよ。だから今夜は一晩中見張り」
 森の中に開けた草原のただ中に少女を寝かせて、周囲に偽装フィールドを設置。
 そして二人で、小さな声で雑談しながら時間を消費する。
 心配事の種は、もう大分消えてしまった。あとは流れに身を任せるだけ。
 さて。
「何から話しましょうか?」
「そうですね。それではひとまず、これからの未来の話を」
 今までの道のりを考えれば、少しばかりユニークな話題である。
「そうね、帰ったらどうするか、ちょっと腰をすえて話し合いましょうか。帰ることができればの話だけどね」
「大丈夫ですよ。あなたは天才で、僕は悪運が強い。それに、渡航機は二人乗りなんですから。二人でいれば、命の危険なんてあってないようなものですよ」
 そういうことは彼女に言え。
 そんな言葉を、九条美鈴は口にするかどうか迷った。
 結局何も言わず、彼女はただ心のままに笑った。


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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.7 )
日時: 2015/05/31 10:02
名前: プレイズ

初めまして。
とても良い小説だったので、稚拙ですが感想を書かせてください。
理沙とハヤテのCP小説って珍しいなと思って読み始めましたが、いやー……これは凄い大作でした。
これだけの文章を制作するのに、一体どれくらいの時間がかかっているのでしょうか。
とてもとても奥が深くて、卓越して面白かったです。

 まず、理沙の良さが凄くよく表現されていて、感心しちゃいました。
ハヤテとの独特な恋愛模様がツボでした。ああ、ハヤテと理沙が付き合ったらこんな感じになるんだなと読みふけっちゃいましたよ。
個人的に、理沙って表現するのがなかなか難しいと感じるキャラなんですよね。つかみどころがないというか。しかし、この小説では理沙のらしさが良く表されていました。
普段馬鹿な言動をしてはいても、彼女は実際はそこまで馬鹿な人ではなくて、頭の回るところもある子なんですよね。不敵に笑うところとかもとても彼女らしかったです。
なおかつハヤテに対する恋愛感情が加わっている彼女の描写がとても魅力的で。
普段の彼女らしさでハヤテに恋人としてさらに親しく接しているのが、魅力的で良かったです。そして、それを見ているヒナや美希達とのやり取りも面白かった。

 そして、最初はハヤテ理沙の平穏な日常の恋愛話で終始すると思っていたのですが、途中からSF要素が入ってきましたね。最初のページの説明でSF要素が入る事はわかってましたが、まさかここまで壮大で本格的な内容になっているとは思ってなかったので、非常に読み応えのある文章に、読み進めるごとにどんどん惹き込まれていってしまいました。

 未来から来る襲撃者を事前に潰すために、伊澄の能力を使って時間移動をするっていうの、凄いですね。伊澄は超常的な力を持っている子ですが、それを活かしてのこのストーリー創りは見事でした。
 理沙と付き合っているハヤテが実は数年後の未来からやってきたハヤテだった、そして彼とその仲間は壊される現在の時間軸を未来の襲撃者から守るために、とても重大な目的を持って時間移動をしているという。その壮大な設定と、それを実際に真実味があるように文章に落とし込んで描かれていて、読んでいて驚かされましたね。
 ハヤテや伊澄やワタルやクラウスらが、その重大な計画を達成するために真剣に奔走している様がハラハラドキドキして、読む行為をやめられずに一気に最後まで読んでしまいました(量があったのでもちろん休憩を挟みながらですが)。
 時間移動が精神異常のリスクを伴う事や、未来の襲撃者からの未知の危険な攻撃で計画を壊される等、SF部分の面白い部分が多々あって凄く楽しめました。それを、ハヤテのごとくの世界観を崩さずに上手く保ったまま、見事に描いていたのが素晴らしかったです。
 個人的に、強制転移と時間移動の違いを表した文章のとことか、凄く興味深い内容だったので読んでてキュリオシティを抱かされましたよ。

 そして、視点キャラ・時間軸が所々で巧みに変遷しており、以前の文章部分と読み合わせると、より深みが増しました。
 全体を通して、キャラクターの魅力が皆凄くしっかりと出せていたと思います。性格や味の深さが良く伝わり、皆魅力的でした。
 メインの理沙やハヤテはもちろんのこと、他にナギが想いを吐露する所とか、そこに理沙が絡んできてのやり取りとか。ワタルが色々気遣いする所とか、伊澄の優しい心遣いとか。書き切れないくらい全般にですね。
 理沙がハヤテに対して、彼はいつも他人の事ばかり大事にしているから『君はもう少しわがままを言った方がいい』と言うのが彼の事をよく見ていて彼女の優しさが感じられました。未来から帰って来たハヤテが壊れてしまった時に傍で寄り添って彼を支えた事、そしてそのおかげでハヤテが回復した所もとても良かったです。

 途中の分岐した時空の世界の様子の表現や、それによって影響を受けたハヤテらの描写等も、読んでてとても凄いと思いました。
 未来の世界でハヤテが女の子を殺しますが、その子が悪い子には見えない子だったためにハヤテが凄く罪悪感にかられて壊れてしまい、それを理沙に話しているシーンとか心にきましたね。
 そして、九条美鈴を殺すハヤテ伊澄の他に、美鈴を殺さない事を選んだハヤテ伊澄も存在して。その辺りの事が最後に書かれてますが、どちらの時空の彼らも、最善を尽くそうとして動いた結果で。だから、殺された事に関しても水に流して受け入れていた美鈴は優しい良い子だなと思いました。


ああっ、何だかすっごく長くなってしまいました。すいません(>_<)
まだ書ける感想が色々あるんですが、さらに長くなるのでここらでやめときます(苦笑)

この小説は全体を通して文章表現が色々巧みだったので、頭を使って読まないと読解し切れない所があり、その分読み応えがありました。
 ハヤ理沙の味のある恋愛模様、種々のキャラの魅力、そして未来と過去の分岐した時空を行き来して、何とか救われる世界を作ろうと奔走したお話がとても素晴らしかったです。
 こんな凄いハヤ理沙小説を読んだのは初めてでした。素晴らしい小説をありがとうございました。
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レス返し ( No.8 )
日時: 2015/05/31 23:04
名前: ひよっくー

はじめまして、プレイズさん。
感想ありがとうございます。ここに小説を書くの初めてでして、楽しんでいただけたこと、またそれを伝えていただいたことで、とてもほっとしております。そしてまさかこんなに褒めちぎってもらえるとは……。とても嬉しいです。スラムダンクのフクちゃんみたいな心境です。もっと俺を褒(ry

>>これだけの文章を制作するのに、一体どれくらいの時間がかかっているのでしょうか。

今年のバレンタインに、ここのチャットでの雑談でアイディアが浮かび、その日から書き始めたので、ざっと四ヶ月半です。フハハハハ(乾いた笑い)


>>個人的に、理沙って表現するのがなかなか難しいと感じるキャラなんですよね。つかみどころがないというか。しかし、この小説では理沙のらしさが良く表されていました。
普段馬鹿な言動をしてはいても、彼女は実際はそこまで馬鹿な人ではなくて、頭の回るところもある子なんですよね。不敵に笑うところとかもとても彼女らしかったです。

実を言うと、最初は理沙のキャラをつかむのに苦労しました。
流石は作者に、扱いにくさナンバーワンと言われるだけはあるというか……。馬鹿かと思いきや時々先を見越してハヤテをからかったり、私生活が謎だらけで(結局キスの相手って誰なのさ……)、ミステリアスな印象を持たされたり、でもこの子デレたら絶対可愛い。それを書いてやる! というのがモチベーションの主な要因でありました。
ですので、気に入っていただけたのはすごく嬉しいですよ。


>>そして、最初はハヤテ理沙の平穏な日常の恋愛話で終始すると思っていたのですが、途中からSF要素が入ってきましたね。

>>時間移動が精神異常のリスクを伴う事や、未来の襲撃者からの未知の危険な攻撃で計画を壊される等、SF部分の面白い部分が多々あって凄く楽しめました。それを、ハヤテのごとくの世界観を崩さずに上手く保ったまま、見事に描いていたのが素晴らしかったです。
 個人的に、強制転移と時間移動の違いを表した文章のとことか、凄く興味深い内容だったので読んでてキュリオシティを抱かされましたよ。

SFというとどうしてもとっつきにくいイメージが付き物で、書いている途中で時々不安になったり(笑)
しかし受け入れていただけてなによりです。
キュリオシティ……、ググりました。好奇心ですね。無知ですいません。
SFといえば未知への果てなき好奇心、それを目の当たりにした時のカタルシスであります。これをハヤテでやろうとしたとき、伊澄がファインプレーをしてくれました。しかし一番頑張ってたのに貧乏くじひかせて幸せになるフラグも立ててやれなかったので、ちょっと悪いことをしてしまったかも。
彼女の能力を拡張させすぎたかなあ、とも思うのですが、まあ千年に一人の天才ですから、このくらいいいですよね!


>> そして、視点キャラ・時間軸が所々で巧みに変遷しており、以前の文章部分と読み合わせると、より深みが増しました。
 全体を通して、キャラクターの魅力が皆凄くしっかりと出せていたと思います。性格や味の深さが良く伝わり、皆魅力的でした。

実は当初の予定では、理沙のみの一人称視点で話を書くつもりでした。終わり方もビターなトゥルーエンドで、未来から帰ってきたハヤテが失踪し、理沙がそれを追い掛け、ハヤテが自分を許せるようになるまでそばで支え続ける……。というなんだか後味の悪い終わり方。
しかし途中で、やはりハヤテの視点も書くべきだ。と思い直し、それを書いて行くうちにやっぱり救われるところまで書くべきだ。となり…….、そうなると不思議なもので、優しい登場人物の多い話だからか、みんなが人の幸せのために自然と動いてくれました。ナギなどは誤算の際たるもので、ヒロインの理沙より目立つ始末(笑)
難産な小説でしたが、それぞれの特徴を出すことができたのは幸いでした。
ハヤテは最近原作でも結構ふざけるようになったり、人のことばかり気にせず自分の都合を考えたりしていますけれど、やっぱりどこか遠慮が見えていて、そこを指摘して人に甘えられるようにしたらいいなあ、と。理沙とのやりとり、というか彼女の意図はそこですね。そんな彼女が君のためなら死んでもいい、なんて言い出すあたりがちょっとおかしなものですけれどw


>> 途中の分岐した時空の世界の様子の表現や、それによって影響を受けたハヤテらの描写等も、読んでてとても凄いと思いました。

一番肩肘張って書いてた部分です(笑)
未来のあたりはいろいろ考えてましたが、出せないままの部分が多くてちょっと心残り。でも考えてたこと全部書いたらハヤリサ小説からどんどん遠ざかってしまうの……。
最後のあたりのハヤテに関してはどうしても許し、あるいは割り切りが必要で、最初は神父に懺悔を聞いてもらおうかと思っていました。でもあの神父自身が法で裁けない罪(人のお金を勝手に使ったり、覗きしたり)を犯しまくっているので没に。
結局被害者の本人から、誰も悪くないと言わせることになりました。これは彼女が合理的なリアリストでないと無理な話で、なおかつハヤテ本人を憎からず思っていないとあそこまで出来ないのです、つまりあの子は優しいいい子というより……おっと、誰か来たようだ。


ところどころに比喩やユーモアを含ませる手法には昔から憧れていまして、今回はそれを多用しております。わかりづらいところもあったかとは思いますが、それによって読み込んでくださったのなら結果オーライ?(反省の色なし)
返信も長くなってしまったなあ。

最後に、繰り返しになりますが、こんなに長い小説を読んでくださって、また力の入った感想をくださって、本当に嬉しく思っております。
ありがとうございました。

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Re: そして朝風と寄り添うように ( No.9 )
日時: 2015/06/01 20:54
名前: 明日の明後日
参照: http://soukensi.net/perch/hayate/subnovel/read.cgi?no=373

明日の明後日です。茶室ではいつもお話していますが、こちらでは初めましてですね。


無事、お話が完成されたようでおめでとうございます。

ガチ短編というお話は伺ってましたが、正直このボリュームは想像以上でしたw
小冊子程度なら作れてしまうんじゃないかと思うほどで、しかし文量だけでなくお話の密度もすごく濃くて、これを四ヵ月半で書き上げるなんてすげぇなぁ、というのが素直な感想。

ハヤリサでSFというこれまた随分と難易度の高そうなジャンルですが、どちらの要素も高いレベルでまとまっていて、感嘆の一言です。

ハヤリサに関して、「理沙は乙女」説を色んなところで見たことがありますが、このお話を読んですごい納得したというか。
美希や泉にいじられて狼狽するところとか、恥ずかしげもなく彼氏とか言っちゃうところとか、余裕があるような素振りを見せても全然そんなことなくてしかもそれを見透かされてるところとかすごく可愛いです。
ハヤリサというCPの魅力が十分に引き出されているなと思います(触発されてハヤリサ(らしき)短編SSを一本書き上げてしまったくらいw

SF面に関して、時間移動というよくある(?)けれど難しい題材を矛盾なく書き切ったところがこれまたすごい。
時間軸がどうとか言う話をすると、必然的にパラレルワールドの存在が必要となりますが、設定を細かく煮詰めて、時間軸ごとの時系列を完全に把握していないとしっちゃかめっちゃかで大変なことになると思うのですが、そこをしっかりクリアした上で、少しずつ真実に迫っていくようなお話の構成を作り上げたことには頭が下がるばかりです。
それにしても、記憶喪失のフリをするってなかなか難しいと思うのですが、精神科医の診断をも潜り抜けてしまうとは、ハヤテ・・・恐ろしい子!


気になった点としては二つ。
反逆軍(?)にエントリーしたのにもかかわらず、巻田と国枝が特にクローズアップされることもなくフェードアウトしてしまったこと。
まぁ、エピソードが必要だったとは特には思いませんが、台詞の一つもなく敵に吹っ飛ばされるだけというのは少々可哀そうな気が・・・w
もう一つは、伊澄が時間移動の護符を『いつ』『どのような目的で』作ったのかがよく分かりませんでした。「卒業式で襲撃され、しかし過去改変を選択しなかった時間軸」の未来における伊澄が「過去改変を選択した時間軸のために」作ったけれど、ある時間軸ではそれが悪用されてしまった、みたいな解釈をしているのですが、何かしっくり来ないというか。



ではではこの辺りで。またお会いしませう。
明日の明後日でした。
この作者は、誤字脱字の連絡を歓迎しています。連絡は→[チェック]/修正は→[メンテ]
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レス返し ( No.10 )
日時: 2015/06/02 23:20
名前: ひよっくー

明日の明後日さん。感想ありがとうございます。
確かにこちらでは初めましてですね。しかしなんだか、そう言ってしまうと凄い違和感が(笑)
応援をいただいたお陰で、なんとか完成までこぎつけることができました。重ねてお礼を申し上げます。
頑張りましたー!(小学生並の感想)


>>ハヤリサに関して、「理沙は乙女」説を色んなところで見たことがありますが、このお話を読んですごい納得したというか。
美希や泉にいじられて狼狽するところとか、恥ずかしげもなく彼氏とか言っちゃうところとか、余裕があるような素振りを見せても全然そんなことなくてしかもそれを見透かされてるところとかすごく可愛いです。

チャットでも語ったことがありましたが、理沙ってすごく可愛いと思うんですよ。デレたら一番可愛いのはこの子だと確信を持って言えます(熱弁)
乙女説はわたしもなんとなく感じているところで、この子のキャラを意識しながら恋愛に絡めた場合、必然的に本心をなかなか明かさない(明かせない)けど甘え上手な女の子になってしまうのです。それでいていたずら好きで、案外隙だらけで、そんな風に可愛い理沙を書こうと思っていましたので、そこをお褒めいただくのはすごく嬉しいです。
あ、短編の公開、楽しみに待ってますね。


>>気になった点としては二つ。
反逆軍(?)にエントリーしたのにもかかわらず、巻田と国枝が特にクローズアップされることもなくフェードアウトしてしまったこと。
まぁ、エピソードが必要だったとは特には思いませんが、台詞の一つもなく敵に吹っ飛ばされるだけというのは少々可哀そうな気が・・・w
もう一つは、伊澄が時間移動の護符を『いつ』『どのような目的で』作ったのかがよく分かりませんでした。「卒業式で襲撃され、しかし過去改変を選択しなかった時間軸」の未来における伊澄が「過去改変を選択した時間軸のために」作ったけれど、ある時間軸ではそれが悪用されてしまった、みたいな解釈をしているのですが、何かしっくり来ないというか。

実を言えば巻田、国枝に関してはあそこで出す必然性というのはあまりなくて、咲夜があそこに参加しないわけないから、じゃあこいつらも……という程度だったんですねー。だからセリフもなくて、すぐにやられ役になってしまいました。すまない二人とも……。終盤まで作者に存在をスルーされていたせいで、参加する理由あったのに全編通して出番のなかった西沢さんよりマシだと思って成仏してくれ……。
ちなみにあそこのシーンは吹っ飛ばされたというよりも、ジョジョでいうヴァニラアイス戦みたいなことになっています。わからなかったらジョジョ好きのお友達に聞いてみよう!(多分そのあとドン引きされるでしょう)

さて伊澄のことなのですが、作中においてはあのあと彼女がどんな思いでいたのか、まったく書かれておりません。ただあの護符を作ることになる、という説明だけです。
最後のあたり、九条は「こんな護符作るんだから割り切ってるか、そもそもこの護符はなんの関係もなかったんじゃないかと勘違いしてるわよね。多分」という心境なのですが、伊澄本人からしたらそれはとんでもない勘違いで、彼女は未来にタイムマシンが出来ること。そしてそれだけ未来であっても、気まぐれにナギを害さんとする何者かが生まれる”かもしれない”ということを知ってしまっているのです。
だったらそれに対抗するためにも。そして科学に対抗できる霊能力を開発することで鷺ノ宮家の地位の安定。そして一番の理由としては、これがあることで、大変だったけれど今の私たちはなんとかなったのだから、それまでの流れを乱す理由もないでしょう、という日和見主義。こんな感じで彼女なりに色んなことを考えた末の行動なのです。
こんな風に書くとなんとなくお察しかもしれませんが、護符が作られたのは伊澄がおばあちゃんになってからのことになります。母や祖母があんな感じですから、自分の編み出した技を後世に残したいという子供じみた考えもあったのかもしれませんね。

こんな回答でご満足いただけるでしょうか……(ビクビク)
本音を言うと、半分くらいは今考えました。形にした、とも言えますが。

感想、とても嬉しかったです。
チャットでまたお会いしましょう。

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