Re: そして朝風と寄り添うように ( No.2 )
日時: 2015/05/30 14:50
名前: ひよっくー

神様はきっと僕のことが嫌いだろう。
だけど少しだけ信じてみようと思うんだ。




パッケージを破ってタバコを一本取り出し、恐る恐る口にくわえて、僕はマルボロライトに火を点けた。喉の奥を突き刺す、痛みにも似た違和感。
途端に咳き込んだ僕は、庭の向こうで呆れたように渋い顔をするマリアさんに見つかったことに気づく。
「お屋敷の中はポイ捨て禁止ですからね。SPの皆さんの真似でもしたくなったんですか?」
彼女の視線は冷たい。とはいえ人は慣れるもので、そんな極寒の視線を前にして言い訳を紡ぐスキルくらいは、僕といえども学ぶものなのである。
「ここに来て、もうすぐ“十年”になりますから、僕も自分の目標というものを決めてみようかと思いまして」
「目標?」
 マリアさんは首を傾げてみせる。この人は出会った頃から、あんまり外見が変わっていないものだから、年を重ねた今でも、そんな幼い動作に違和感がない。
「日に日に立派になっていくお嬢様に近づくためには、僕もまた、高みを目指す執事であるべきだと思うんです。そして理想の執事といえば、そう、ウォルター・C・ドルネーズ以外にありえな痛ッ」
 マリアさんの持っていた箒が、綺麗な弧を描いて僕の額を打ち据える。
「タバコを吸う上に物騒な技を持ってて、最終的に主を裏切るような執事を見習ってどうするんですか。見習うなら、もっと平和で問題の少ない人にしなさい」
 額を押さえて反論の言葉を探すけれど、満足のいくセリフはでてこなかった。
前言は撤回だ。
 慣れ親しんだマリアさんのお説教には、僕なんかでは反撃の糸口さえつかめそうにない。
 ふぅ、と一息ついて、彼女は出来の悪い生徒を見る教師のような目をする。
「趣味嗜好にまで口を出したくはありませんけど、あの子の前では吸わないでくださいね。健康に悪いですから」
「大丈夫です。もう吸いませんよ。自分には合わないってことが、よくわかりましたから」
 そう言って、僕はタバコのパッケージをポケットに納める。あとで焼却炉にでも放り込むか、愛煙家のSPに渡すとしよう。
 吸殻の火を消して携帯灰皿に押し込み(結局これも一回使っただけでお役ごめんになってしまうだろう)、仕事を再開することにした。マリアさんに手を振って、早足気味に歩き出す。
 “26歳”の僕、綾崎ハヤテにとって、人生はすばらしいものだ。怠けてばかりだった主は立派な大人に成長しつつあり、親しい友人がいて、仕事は充実している。恋愛のこと、将来のことがどうなるかまでは、気が回らない部分もあるけれど、幼い頃の暗い日々からすれば、満たされすぎて怖いくらい。
 目の前に道は見えている。
前に進み続ければ、きっと何があってもなるようになるだろう。
どこまでもポジティブな予感に包まれて、僕は今、幸せの真っ只中にいる。
 願わくば、こんな日々がいつまでも続きますように。なんてことを不幸な僕が祈ったら、その願いを神様は握りつぶすだろうか。
そんな少々不謹慎なことを、僕は考える。

 そして実際、彼の人生は順調に続いていくのだ。終わりが来るまでずっと、幸せなままで。


 起き上がった僕が手始めにしたことは、ベッドサイドの水差しが空になるまで、喉を潤すことだった。
そのままそれを地面に投げつけて、目の前を手で覆い、亀のように背中を丸める。
とにかく、現実を見つめていたくなかった。
 ベッドの傍らには伊澄さんがいた。彼女がどんな顔をしているか、僕は目でなんとなく追ってはいても、それを認識することができなかった。
「……不公平だって思うのは、僕の器が小さいからですかね」
「多分、正常な反応だと思います。少なくとも、見る勇気もないわたしより、あなたのほうが強いはずです。ハヤテさま」
「慰めになってないと思いますよ」
「ごめんなさい、そういうのは苦手で」
「いえ、すいません。気が動転していて」
 謝る伊澄さんが、本当に申し訳なさそうに見えて、僕は少しだけ冷静になる。
 病室のように真っ白な部屋は、眩しいくらいに明るい。けれどその明るさが、僕を元気付けることはない。もう一度ベッドに倒れこんで、僕は自分の内面を省みる。何を見たのか、反芻していく。
 今の自分が何をしていたのか。それを再確認しなければならない。
 
僕は彼女の力で、眠りながら未来を見ていた。
既に失われた未来。
それはお嬢様が生きている未来。マリアさんが心を病まなかった未来。僕の友達が生きている未来。僕が笑っている未来。みんなが楽しそうに走り回っていた未来。
一年前の“2006年”に、白皇学院高等部の卒業式を襲った、実用化は40年後の未来予想図にしか存在しないはずの、レーザー兵器を使った突然のテロがなかった未来。
僕の目の前で、みんなが蒸発しなかった世界。
消えてしまった未来を、何故垣間見ることができるのか。全ては伊澄さんにしかわからない。僕にもわかるように話してくれた内容からすると、彼女の能力は時間にも作用することが出来る、ということになる。
何故そんなことが出来るのか。その問いに、彼女はこう答えた。
「それはきっと、わたしが未来を身近に感じたからでしょう」
これは抽象的だけど、事実とそう遠い意味ではない。運良く(僕の体質から言えば、これは不幸に位置することなのかもしれないけれど)吹き飛ばされて大怪我で済んだ僕と、咄嗟のことに自分の周囲数人しか守れなかった伊澄さん。そのそばには“時間を越えた何か”が存在していたのだという。「わたしのそばで起きた現象に、きっとわたしのセンセーショナルが反応したのでしょう。だから、多少原理が曖昧なままでも、こうして消えていく未来の欠片を、ハヤテさまに見せるくらいは出来るんです」
 そのとき、僕は黙って聞いていた。頭がパンクしかかっていて、突っ込みを入れる気力もなかったのだ。
 彼女が天才であることはゆるぎない事実で、それは他の誰にも真似の出来ない資質なのである。だからそれを受け入れた上で、僕らが出した結論は、あれは未来からのテロである、ということだった。
 白皇学園の卒業生一同が会するあの場所に、テロを起こさねばならなかった者が、未来に存在するというわけである。
「つまりはターミネーターの真似をしたわけですね」なんて呟きは冗談にもならない。映画の中にしか存在しない現象が、僕らを殺しかけ、僕らの大切な人々を殺したわけだから。
 これからどうするべきか。あの場にいて助かった僕、伊澄さん、それに咲夜さん、執事の巻田さん、国枝さん、クラウスさんとワタルくん、それにサキさん。頭をつき合わせて出した結論は、目の前の悪夢に真っ向から立ち向かう、ということだった。
「じゃああれを、なかったことにしてやろうじゃねえか」
ワタル君の言葉には、その内容とは裏腹に力強さが欠けていた。
それは実際的な行動を起こすための宣言というよりも、現実を受け止めきれないまま、なんとか立ち上がるための儀式と言ったほうが的確だっただろう。冷たく凍りついた理性はそう言っていた。
「ええ、同感です」
 僕の口がそう動いたことに、不思議はなかった。僕もまた、現実を直視するよりも夢物語に身を預けることを望んでいた。
 
 僕はそれから何度も夢を見た。
何故こんなことが行われたのかを知るために、僕は僕やその周辺の人々が生きていたらどんな生活を送っていたのか、偵察に出たのである。
僕はもちろん、ナギお嬢様も、マリアさんも、ヒナギクさんも、生徒会のメンバーも、僕のクラスメイトたちも、概ね幸せそうに笑っている。辛いとは言えなかった。言えばきっと、伊澄さんは僕を止めようとするだろう。目覚めたとき、僕は涙を流しているか、酷く動揺している。だからきっと気づかれているだろう。それでも言葉にすることは絶対に出来なかった。時間は少なく、手段はそれしかないのだ。
時空の挟間に消え行く未来の欠片は、伊澄さんの力を持ってしても、どんどん不鮮明なものになっていく。時が経ったからではなく、どんどん距離が遠くなっているためだ、と彼女は言うのだけれど、彼女と、実際に未来を垣間見る僕以外にとって、その言葉は理解しがたいものだったろう。
パラレルワールドは人が認識不可能なほどに多いわけではない。簡単に産まれることもない。
未来は一直線に続き、無数に枝分かれしているけれど、過去から地続きにつながった未来以外の可能性は、誰にも気づかれないまま砕けて、時空間の果てに落ちながら、ゆっくりと拡散していくのだ(ゆっくり、といっても、そこに時間なんてものは存在しないけれど、僕が認識できたものを言葉にするには、時間を持ち出したほうがわかりやすい)。
簡単なイメージにすれば、それは枝のない、果てしなく長い一本の木、というのが一番わかりやすい。
どんどん枝が腐り落ちていくから一本にしか見えないけれど、時々気まぐれに、腐りきる前の枝が地面に落ちて、またそれが別の木になる。ワタル君と咲夜さんには、ストレートに「わかりづらい」と言われた。仕方がないのだ。僕の認識能力の問題もあるけれど、この説明だって、的確に時空の特徴をとらえているとは言い難いのだから。
時空の形を知っているのは、現在僕と伊澄さんだけである。そして未来には、僕ら以外にもこれを知っている人がいるのだ。 
 自分の未来が消えてしまう可能性を知り、タイムマシンに類するものを作って、そのための障害を順番に消していく。動機はそんなところだろうか。だとすれば、大きくなりそうな枝を積極的に切り落とさんとする、庭師のごとき馬鹿げた話である。そんな大馬鹿野郎が、僕らが今生きている時間軸のずっと先に存在しているのだ。吐き気を催す話だ。
 知るべきではなかった知識を知ってしまった者。僕らをその敵を、有害識者と呼ぶことにした。
 名前を付けたからといって何が変わるということもなかったが、卒業式から二年が経っても、僕の中の憎しみが消えなかったのは、きっとその名前がとても腹立たしいからだろうと思う。

「もう、これ以上は無理ですね」
 冷静に言う彼女の髪は、力の使いすぎで真っ白になっていた。長い長い夢のあと。激しい動悸に耐えながら、僕は頭を下げる。
「無理を言って、申し訳ありません。そして、本当に、ありがとうございます」
「いえ、休んでいれば、わたしの力は戻ります。ハヤテさまこそ、今のは相当辛かったはずです。ちゃんと寝てください」
 もはや伊澄さんであっても、これ以上未来を追うことは出来ない。
 身体はさっきまで寝ていたというのに、猛烈に眠かった。たっぷり半日の睡眠をとって、僕らは作戦の実行を決断した。

「一番の目的は、恐らくお嬢様です。とはいえ、恐らく他の方々も同様に邪魔だったのでしょうが」
 結論として、彼女らが遠い未来に行う、なんらかのプロジェクトが、未来を大きく変えるのだろう。ということ。それを行わせたくなかった有害識者が、全てが始まる前に、あの場を襲撃したのだろう。ということ。そしてその何者かが、どうやって未来から過去へと跳んだのか。ということ。
 奴、あるいは奴らが自分が消える可能性に怯えている、ということは既に話していたので、説明に難航することはなかった。
「敵の手段がわかった。ということかね?」
クラウスさんの驚きは、他の誰もが思うところだったらしい。
「どうやって? いえ、それより、それを妨害すれば……」
「ええ、タイムパラドックスが起こることでしょう。今のこの世界は消えて、みんなが生き残る未来を作れる」
希望的観測である。ということは口にしなかった。そんなことはみんなわかっているのだ。
僕らが救った未来を、その目で見ることは出来ない。それも口にはしなかった。みんな一緒だ。巨大な喪失感と、それをなかったことに出来るという希望が、この世界で幸せを見つけるという選択肢を消してしまったのだ。


結論から言えば僕らは失敗した。
僕がつかんだ敵の手段。それは一種のオーパーツによる技術革新と、伊澄さんのような特殊な人の能力が融合して生まれた、一種のバイオティカルマシンである。
僕らが計画したのは、件のオーパーツの奪取、そして破壊だ。
方法自体は悪くなかった。
テロで亡くなった朝風理沙さんの実家である朝風神社。その宝物堂に置かれた、一見普通の“護符”にしか見えないそれは、内部の札に書かれた文字自体が、緻密な論理回路を模しており、霊力を通せば時空の仕組み自体への干渉を可能にするという、あまりにも出来すぎな代物である。
「恐らく、未来から過去へと飛ばされたのでしょう。きっとループしているんです」
適当な見解にしか聞こえないだろうけれど、僕としては伊澄さんの、本人の言うところのセンセーショナルな部分に期待していたし、同意するしかなかった。
実行は、僕、伊澄さん、巻田さん、国枝さん。
ワタルくん、咲夜さん、クラウスさんは待機。
もちろん、未来からの妨害を予期していなかったわけではない。そもそも計画を少人数で進めたのだって、現在だけではなく未来に対しても、情報が漏れることのないよう気を遣ったからなのだ。だけど甘すぎた。
巻田さんと国枝さんが消えたのは、一瞬だった。
それがどんな攻撃であるか把握することもできず、僕はとにかく駆けた。扉を蹴破る勢いで宝物堂に飛び込み、吹き飛んできた伊澄さんを受け止めて、二人そろって堂内の棚や骨董品などを砕きながら転がった。
すぐに動くべきだったけれど、痺れた体は結局動かなかった。出来たのは、ただ見ていることだけだ。
普段のおっとりとした様子からは想像できないくらい早く、伊澄さんは走り、手を伸ばした。
その先には、一枚の護符がある。

そこから先のことは覚えていない。
20歳の僕は、気がついたら16歳になっていた。
2005年の晩夏。夏休みが終わった気だるい季節。
状況を理解した僕は起き上がることも出来ず、ただ涙を流した。
何もかも失敗したことはわかっていた。
しかし、お嬢様がいて、マリアさんが笑っている、懐かしく輝かしい時間が、扉一枚向こうに広がっているのだ。少なくとも、冷静でいることは出来なかった。ただ涙が流れるに任せ、僕は体感としては本当に久しぶりに、執事服に袖を通した。
全てが夢だったのではないか。
そんなことさえ思った。


「お前はさっきまで“神社にいたのか?”」
部屋を出た瞬間、僕の意識は現実に戻った。
ドアの前で待ち構えていたクラウスさんの表情は、今まで見たこともないほど険しいもので、僕はこの人が4年後からやってきたのだとすぐにわかってしまった。
ショックを受けた自分を皮肉るように、僕は苦笑を浮かべた。
「全部夢だったのかも、って、ちょっと期待していたんですけどね」
「同感だな。……わたしが来たのは昨日の夜だ。わたし以外に時間を遡行したのは、ワタルさま、サキさん、咲夜さま、つまり待機していた者たちだな。戻ってこないお前たちを待って、いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めたらわたしは屋敷にいた。他の方々はもっと早くに遡っていた。伊澄さまは普段から何を考えているのかイマイチわかりづらいところのある方だが、まだこちらには来ていないようだ。
恐らく、失敗したのだろう? そして、恐らく伊澄様はわたしたちが先に過去に到着するようにして、突入組が遡行してきたときのための準備をさせるつもりだったのではないか、と見ている。お前が来たということは、あの方や、愛沢家の執事ももうすぐ戻るかも知れんな」
詳しい説明は正直ありがたい。しかしこの人がこんなに長いこと喋るのは、本当に久しぶりじゃないだろうか。
「……巻田さんと国枝さんは、途中で攻撃を受けたようです。何をされたのかは、よくわかりませんでしたが、こちらに戻ることはないかもしれません。それと、何か相手に動きは?」
「……ない。一応警戒はしているが、未来にいるような相手には、伊澄さま以外太刀打ちしようがないのが現実だ。今は待つしかないだろうな」
「ええ、様子を見るべきでしょう。とはいえ何もしないでいるわけにもいきません」少しだけ、間をおいた。自分でもこのアイディアが名案というには程遠いものだと思ったからだ。しかし理には適っている。「僕はこれから、記憶喪失になろうと思います」
「は?」
「大丈夫です。本当になくすわけではありませんし、ショックで頭がおかしくなったわけでもないです。ただ、伊澄さんが戻ったとき、勘付いてくれるように、そして、僕らを相手が見張っていないという保障が持てないからこそ、僕はショックで記憶をなくした、可哀想な子の振りをするわけです。どのくらい効果があるかわかりませんが、注意を引けば他の人も動きやすくなるでしょう」
三秒ほど、クラウスさんは考えるような素振りをした。
表情に変化がないのは、年の功というものだろうか。
すぐに厳しい表情に切り替え、こんなことを言う。
「何を言っているのだ。綾崎ハヤテ。とっととお嬢様の朝食を準備にかかれ。記憶が曖昧などと言って仕事をサボろうなど、三千院家執事に相応しくない無様な言い訳だ」
ありがとうございます。
口の中だけで呟いた。
今のこの時間は、クラウスさんにとっても黄金より貴重な時間だろう。そんなときに、この人は僕の迷案に付き合って、嫌われ役を買って出てくれたのだ。記憶喪失の人間をこき使うなんて、と、お嬢様やマリアさんに怒られることは、不本意に違いないのに。
「わかりました。お嬢様が起きてくれるかは、ちょっと怪しいですけどね」
「それでも用意を済ませておくのが使用人の仕事だ」
「かしこまりました」
誰かのために食事を用意するのは、いつ振りだろう。考えるまでもない。
この幸せな時間がまだ続いていた頃だ。


結局、お嬢様とは話せないまま、僕は一人で教室に来ていた。
マリアさんには、記憶のことは話すには話したけれど、冗談と受け取られたようである。それよりも、お嬢様が今日は本当に熱を出してしまって、そちらのほうが僕もマリアさんも心配だった。
マリアさんの精神が、僕が思っているよりもずっともろいことを、僕は既に知っている。4年後にお嬢様がいなくなってしまってから、彼女は想像の中のナギお嬢様を世話するメイドになってしまった。
見るに堪えないとはまさにこのことで、笑えないのは、僕自身、復讐を志していなかったなら、いつも穏やかに虚空を見つめる彼女と同じ道を歩んでいたかもしれない。ということだ。
白皇の門をくぐり、守ることの出来なかったクラスメイト達と話して、自分がどんな感情を抱くのか、心とは別のところで、僕は心理学的な知的好奇心にも似た視点を持っていた。昔に比べれば、幾分すれていたわけである。
しかしなんてことはない。教室に入った瞬間、大きすぎる安堵感とあまりにも大きな喜びに、僕はすっかり立ち尽くしてしまった。
一人一人抱き締めて、涙を流して、思いの丈を全て吐き出してしまいたかった。
「どうしたの? ハヤ太くん」
入り口で立ち尽くす僕に、泉さんが声をかけてくれる。二年間、聞くことのできなかった可愛らしい声。それに対して本当のことを言えないというのが、ひどく辛い。
「あの、泉さん、ですよね」
「? わたしはいつでもわたしだけど?」
「どうしたどうした? もしかして泉が誰なのか忘れてしまったのか? ちょっとひどいぞ。ハヤ太くん」
「うむ、罰としてこれから……、え? ちょっ? ハヤ太君?」
あまりにも懐かしい、朝風さんのふざけた声が引き金だった。大きすぎる感情の粒が、雫になって頬を伝い、顎から落ちていく。これじゃあ駄目だ。いつもみたいに、笑顔を作らなければ。
ハンカチで涙を拭う。泣くのを止めるのは簡単だ。いつだって、僕は涙を堪えて生きてきたのだから。
「すいません、なんとなく覚えてはいるんですけど、その、僕、学校の記憶があんまりなくって……」
 教室がざわめきに包まれる。みんなが心配してくれている。
このばかやろう。
ええ、ばかですね。
心の中で、そんな問答を繰り返す。僕はまた、大切な人々を傷つけてしまったのだ。


精神科医の診察やカウンセリングを必死にやり過ごし、その日はすぐに放課後になった。心配そうな視線を振り切って「今日はこのまま帰ります」と言って、僕はすぐに学校を出た。
すぐにでも屋敷に帰りたかったのだけど、その前に、僕は秋葉原による事にした。ワタル君とサキさんに、一度会っておきたかったのだ。
「ばーか」開口一番ワタル君は言った。「もっと他のやり方はなかったのか」
「……クラウスさんに聞いたんですか? まあ少なくとも、今朝目が覚めたときには思いつきませんでした」
はぁ、とため息をつく姿は、僕の知るワタル君と変わりない。あの事件の後、彼とサキさんは店を続けながら僕らに協力してくれていたのだけど、それも一年ほどで止めてしまったはずだ。戻ってきたのは何ヶ月も前ということはないだろうから、彼が店頭に立つのは約一年ぶり。にしては、彼の姿は非常にここに馴染んでいる。堂に入っているというべきだろうか。
「俺が戻ってきたのは一週間前だ。そらお前よりは慣れる」
何に?
というのは意地悪な問いかけだろう。きっと一週間前の彼は、僕と同じくショックを受けていただろうから。
「今は出てっけど、サキも一緒だったわけだしな。それに今思えば、俺は現実をきちんと受けいれられていなかったんだろう。今のほうがしっくりきてるくらいさ。全部投げ出して敵討ちやるって決めたのは後悔してないが、それにしたって店が恋しくなかったわけじゃないんだ」
曖昧な言葉だけど、言いたいことはわかる。彼はこの時間に、既に順応しているんだ。恨みがましく思うべきではない。そっちのほうがいいに決まっているんだ。だけどどうにも羨ましい。
「もてたんじゃないですか?」
「……それは今、俺が一番触れられたくないところだ」
「それはすいません」
元々彼は大人びたところもあったけれど、年相応の少年らしさもあった。いまや外見は中学生でも中身は18歳になるわけで、それもそこらの18歳よりも人生経験は豊富ときている。一週間と言っていたけれど、少なくとも近くにいたサキさんなどからすれば、ワタル君はひどく魅力的に見えるのではないだろうか。
「おい、顔がにやけてんぞ」
「おっと、これは失礼」
表情を正すと、ワタル君は苦い薬を飲み干した後のように顔をゆがめる。
「あっちじゃ気付かなかったけど、お前ってこの頃と比べると性格悪くなってんだな。昨日までちょくちょく見てた、この時代のお前と比べると、それがよくわかるよ」
「大人の諧謔というものですよ」
「たかだかハタチで諧謔もないもんだ。単に底意地が悪くなったってだけの話だろ。……おい、何笑ってんだ」
気がつけば僕は笑っていた。こんな風に話をするのが、愉快で仕方なかったのだ。余裕も、笑いも、ずっと前に失くしていた。
「いえ、やっぱり、この時間はいいな、と。ワタル君と、こんな風になんでもない話をするのだって、それこそ二年以上なかったことでしたし」
「……そういや、そうだな」遠くを見るように、彼は目を細める。「余裕なんてなかったもんなぁ。俺たち」


俺は綾崎ハヤテという男に聞きたいことがあった。
今後どうするか、という話ではない。そんなことは既にこいつが来る前から何度となく話してきたことだし、そういう話をするときは、必要最低限以外の情報は口にしないようにしてきた。
「なあ」話したいことは一つだけ。それも、主語は省いて。「何でお前は、一人で背負い込もうとするんだ? 俺が頼りないからか?」
感情が出ないように、俺は気を遣わなければならなかった。俺は未来で、現実感のないままどうにか前に進もうとしては、何も出来なかった。もちろん俺だって、何もしなかったというわけではない。しかしそれは俺が周囲に比べればガキで、伊澄のような力があるわけでもなかったから、復讐の船から振り落とされないよう、誰でも出来るようなことを率先してやっていたというだけのことで。誰が一番辛い立場にいたかといえば、髪が真っ白になるまで力を使った伊澄と、常に中心にあったこいつなのだ。
担げる負担はすべて担いで、こいつはずっと歩いていた。
その重圧のひと欠片でもいいから、こっちに預けてくれれば良かったのに。
そんなものは、わがままと何も変わらないのはわかっている。それでもこいつの口から聞きたかった。
「それは僕のわがままですよ。他の誰にも譲りたくなかったんです。それはワタル君が頼りないから、というわけではなくて。……あなたなら僕より上手くやれたかもしれない。でも、僕はあなたがあなたを侮っていることを、自分の考えに当てはめて、自分に対する言い訳にしたんです」
綾崎ハヤテが喋り終えてから、しばらく俺は何も言わなかった。
さて、これを慰めと取るべきか。本音と見ていいのか。
「そうか」
 わがまま、か。そんなことを言いながら、こいつは謝らなかった。ではきっとそうするべきだと思った。いや、自分がやるしか道はないと、自分に言い聞かせていたのだろうか。
 めんどくせぇなあ。
 俺が想像している通りなら、こいつは心理的にも、重荷を背負わねば歩けないくらいフワフワしていたことになる。想像してやるだけでも面倒なことこの上ない。
 どっちでもいいか。
 最終的に、俺はそう結論付けた。
「サキが戻ってくるまで待つか? 俺だけに会いに来たわけじゃねぇだろ」
「いえ、あんまり遅いと、お嬢様とマリアさんが心配しますから」
「そっか。わかった」
俺はとりあえず手を上げて、それを振ってみる。
気をつけろよ、と声をかける。


朝風理沙という女性のことを、僕がどう思っているのか、実を言うと自分でもよくわかっていない。いや、彼女に対する感情にどんな名前がついているのかはよくわかっている。
僕は彼女に惹かれている。
しかし疑ってもいる。
彼女が嘘をついているとは思いたくない。しかし記憶を失ったと僕が嘘をついてから、近づいてきたのは彼女だけで、未来における僕の記憶は、朝風神社で途切れたのが最後なのだ。彼女は操られていないか? 催眠などにかかってはいないか? 彼女の演技力を侮っているということはないか?
こんな疑いを一度でも持ってしまったら、もうマイナスの想像力が止まることはない。彼女は美人で、空気が読めて、冗談ばかり言っているけれど実際は真面目で優しくて、恥ずかしがりやでいじっぱり、可愛いところばかりが目について……いやいやそういうことじゃない。
ともかく、全面的な信用をするべきか。という宿題を、僕は日々解かねばならなかった。罪悪感は無視した。最優先事項はお嬢様なのだ。それ以外は後回しでいい。
「おいしい?」
「え、ええ」
「わたしの奢りだからって、遠慮することはないんだぞ。それはわたしのオススメなんだ。もっと喜んでくれたほうが、わたしも嬉しいんだけどな」
僕らが今いるのは学外のカフェである。今日も彼女に誘われて、僕は放課後をのんびりと過ごしていた。お洒落なジャズが響く店内には、見るからにお金持ちの雰囲気をまとった人ばかりで、その時点で僕は自分が浮いているような気がして落ち着かなくなる。
普段ならどうということはない。こういう雰囲気は慣れているし、執事として、そういったときに被る外面の出来にも自信はある。しかし彼女は友人で、魅力的な女性で、そんな人の前で僕の執事としての仮面を被ることには、些か抵抗があるのだ。
だが僕の緊張とは無関係に、勧められたコーヒーとケーキは美味しかった。舌にはあまり自信がないけれど、これはお嬢様に用意するお菓子の参考になるな、などと頭の中で製法を分析してしまう。
コーヒーの酸味を喉に流してから、僕はなるべく紳士的に見えるように、余裕を持って話す。
「凄く美味しいです。柔らかい生地とクリームの甘さのバランスが非常に良いといいますか、それでいてコーヒーもケーキの味を引き立てるブレンドになっていて……」
「いや、ハヤテくん。気に入ってくれたのはわかるから、感想を言わなくても」
苦笑している彼女を見て、僕は突然恥ずかしくなる。
格好付けたくて饒舌になってしまうのは、まず紳士とは言いがたいだろう。誤魔化すように一つ咳をする。
「美味しかったです。が、やっぱり奢ってもらうのは気が引けます。最近朝風さんにはお世話になりっぱなしなんですから、むしろこういうときは僕のほうが……」
「ダーメ。言っただろ。君はもっと自分勝手で、わがままになってもいいんだ。だから君はもっとこう、その、ほら、オラオラしてるような、まあそんな感じでもいいんだぞ?」
「……僕はスタンドとか使えませんよ? それにそういうタイプになる気もありません。お世話になってばかりじゃ申し訳なくて気になっちゃうんですよ」
「君は悪人にはなれないな」
彼女の微笑みを見ると、心臓を引き絞られるような痛みを感じた。僕はかつて女の子を誘拐しようとしたし、今現在だって目の前の人に嘘をつきながら接している。
「とにかく、ちゃんと自分で支払います」
「わかったよ。それなら、なんでわたしが、君が言うところのお世話を焼いているのか。その理由を言うよ」
背もたれに体を預けて、朝風さんはなにか覚悟を決めたように、強い視線を僕に向ける。神職者に懺悔をする咎人のようだと、僕は思った。
「正直なところを言うと、申し訳ないと思ったんだ。君が記憶を失くしたのは、わたしたちがずっと迷惑をかけていたからじゃないかって。だから」そこで彼女は言葉に詰まった。消費しきった決意を込めなおすように、だから、と口の中で言葉を転がす。「だから、わたしは君のためになることをしたいんだ。友達のままで、いて欲しいんだ。だから、その、罪滅ぼしができるなら、なんだってしたい。ただ、それだけだ」
限界がきたようで、朝風さんは俯いてしまった。彼女は恥ずかしくなると、無防備に下を向いてしまう。はじめて、わがままを言ってもいい、と言われたときもそうだった。そのときの僕は彼女の言葉が無性に嬉しくて、しかし自分自身に対しては皮肉すぎる言葉に、口元を押さえて、なんとかつまらない冗談を搾り出したものである。そう、あの時も僕は仮面を被った。
「……わかりました。朝風さん。でも、迷惑をかけたなんて言わないでください。記憶を失くす前の僕は幸せでした。いや、幸せだったはずです。騒がしかったけど、それが凄く楽しかったんです。だから、俯くのは止めてください。僕も、あなたと友達でいたいです」
自分の言葉に含まれた、嘘と偽善の塊に、僕は嫌悪感を覚える。だけど彼女に対する感謝は本当だ。だから、彼女を傷つけないように、精一杯気丈に話した。胸が痛むのは、彼女のせいじゃない。きっと僕への罰だ。
「じゃあ、その、とにかくここはわたしが払うからな」
 顔を上げた朝風さんは、ちょっとだけ不機嫌そうだった。なんだか睨み付けられているように感じるのは、きっと気のせいではあるまい。
「はい、ご馳走になります」
 なるべく平静を装って、僕は答えた。内心が嵐であれ、静かに振舞うのが執事の嗜みだ。


「これから、どうすべきなんでしょうね」
「何がや」
 次の日、僕は咲夜さんのお屋敷に来ていた。流石に不審者と間違えられることはなかったけれど、二人だけで話すと言うと、巻田さんと国枝さんからはかなり疑わしげな目で見られた。
 未来において、彼らは咲夜さんの一歩後ろで控えつつ、様々な便宜を図ってくれたり、危険なことにも率先して付き合ってくれたのだけど、今の彼らは僕らと違って、未来から送られてきたわけではないらしい。
 最初に咲夜さんと会ったとき、彼女は自分の執事たちが何故戻ってこないのかを尋ねた。
彼らが突然消えてしまったこと。恐らく攻撃されたのであろうということを告げると、彼女は何も言わずに、ソファの背もたれを殴った。
 さておき、僕がここを尋ねるのは久しぶりのことだから、咲夜さんにもなんだか不審げな表情をされてしまった。基本的に僕らが情報交換をすることはない。いい意味でも悪い意味でも、状況は変わらず、日々は至って平穏なのだ。
「こんなことをあなたに相談するのは、自分でもどうかと思ったんですが」
「自分最近、ひと言多いって言われへんか?」
「よく言われます。で、実は僕、好きな人が出来たみたいで」
「は?」

 僕はそれから、朝風理沙さんに対して自分がどう思っているのかをかいつまんで話した。出来る限り誠実な話し方をしたつもりだったけれど、黙って話を聞き終えた咲夜さんはきっぱりとひと言。
「単なる惚気話やんけ」
 あほらし、とそんなことまで言って、彼女はことさらわざとらしく、どっかりとソファに腰を下ろす。やさぐれたようにそっぽを向く様は、お嬢様としての肩書きを成層圏の彼方まで放り投げたようで、ある種爽快な感慨を僕に抱かせる。
「そもそも、なんでそんなことをうちに言おうと思ったんや」
「だって一番恋人作ってたのは咲夜さんじゃ痛ッ」
「あれを恋人とは言わん。どうせなかったことになるなら、社会勉強でもしておこうと思っただけや。断じて恋ではない。わかったか? 借金執事。リピートアフターミー?」
「はい、あれは恋ではなく遊びだったんですね」
「ほう……」
 殺し屋みたいなオーラを纏って、咲夜さんはそれなりに重量のありそうな置時計を手に取り、立ち上がる。僕はホールドアップしながら後ずさり。
「すいませんすいません調子に乗りましたすいません」
 ジリジリと距離をとりながら、僕は降参の意を示す。人の怒りに鈍感な僕ではあるが、今の彼女が本気で怒っていないのはわかった。しかしここでそのパフォーマンスを流してしまうと、そのおどけた態度は本物の怒りに変わるのである。
 まったくこいつは、とでも言いたげなため息をついて、咲夜さんは置時計を戻した。そして幾分真剣な目をして、僕を見る。さてこいつの頭をどうやってカチ割ったものか。そんな風に観察されているような気がして、どうにも背筋が冷える。
「なあ、自分、いま幸せか?」
「……考えたこともないです」
「そうか、じゃあグダグダ考えるまでもないな。ええか? 今お前は自分が幸せになるチャンスを逃そうとしてる。ナギのため、みんなのためって理由を、自分が幸せになることへの障害に置き換えてる。お人よしの阿呆ここに極まれり、って感じやな。気になる可愛い女の子がいる。でもあの子は自分を騙しているかもしれない。そうじゃなくても利用されてるかもしれない。アホ。そんなもん、うちらみたいなお嬢様となれば日常茶飯事やボケ。それからすれば、心構えが出来る分上等なくらいや。違うか?」
 怒涛の発言に面食らったけれど、僕はなんとか異論を差し挟む。
「しかし、それでも用心に越したことは……」
「お前程度を篭絡してどうにかしようって相手なら、伊澄さんが片手で処理して終わりやろな」
 これにはぐうの音も出なかった。
 先ほどの僕の予想は当たったわけだ。頭をカチ割られた気分。
「おお? やっと気づいたか借金執事。自分ちょっと自意識過剰が過ぎるで。そんなもん、自分の臆病を正当化するのに使おうなんて片腹痛いわ」
 頭をカチ割られて塩を塗りこまれていた。
「……さっきお前が言ってたことやけどな? うちは後で全部なかったことになる恋愛ごっこでも、案外楽しかったんやで? もちろんそれで傷つきもしたけど、それは全部自分の糧になってるって、実感してる」照れたように頭をかく仕草をして、とにかく! と前置きの上でこちらを勢いよく指差す。「お前は今、一番アカン状態や。人のためと思ってるつもりで、その実自分も、その子も、うちら周囲の人間も、全員を侮辱してる。目ェ覚ませ。お前がやるべきは、自分が幸せになる権利を放棄しないこと。そのために行動を起こすことや。幸せになる努力怠ったら、人間終わりやで」
 自分の心をすり替える。自分を騙す。どちらも覚えがあることだ。僕はそれを後悔していたはずなのに、また同じ失敗をしてしまったらしい。
 彼女の言うとおりだ。
 幸せになる権利を、僕の前で大勢の人が奪われた。それを取り返そうとする僕自身が幸せを放棄することは、彼ら彼女らに対する一番の侮辱だ。
 立ち上がって、きっちり90度。僕は年下の女の子にお辞儀をした。
「ありがとうございます。咲夜さん。おかげで目が覚めました」
「よし、善は急げや。ちゃんと特攻してこい。……今から行くんやないぞ? ドン引きされて成功するもんも駄目になるから」
 そこまで先走った表情をしていただろうか。ともあれ時間はもう9時を回っている。仕事は休めと言われているとはいえ、今から帰ったら小言の一つは覚悟しておくべきかもしれない。
 ともあれ、明日だ。
 明日、僕は彼女に告白する。
 そう思うと、一気に視界が広くなり、世界が明るく感じられた。爽快で仕方なかった。そうだ、僕は僕のために動くんだ。いちいち他人を言い訳にすることなんてない。
 僕は咲夜さんの手を握った。
「本当に、ありがとうございます。成功したら、一番に報告に来ますから」
「失敗しても来てええよ。盛大に慰めパーティー開いたる」
 それはちょっとご遠慮願いたい。

 僕がどんな告白をしたのか。それは秘密である。
理沙さんにも、恥ずかしいから口外しないで欲しいとお願いしてある。「まったくの同感だから、みだりに口にはしないとも」とは彼女の弁。これは恐らく、彼女のかけがえのない友人にも明かされていない秘密だ。
 だからその時間は、僕と彼女だけの秘密である。誰にも話す気はない。
 というわけで、ささやかなおめでとうパーティーを主催してくれたり、そのあと起こったナギお嬢様とのちょっとした騒動を取り持ってくれた咲夜さんにも、それは内緒なのです。あしからず。


 僕と彼女が恋人になって何が変わったかといえば、たまの休日にデートにでかけたり、生徒会の手伝いによく顔を出すようになったり、動画研究会の部室で謎の動画を見たりするくらいである。端的にいえば理沙さんとの接点が増えたわけで、美人な彼女をものにしたという事実を、ずっと見せびらかしているようなものだから、これはなかなか周囲からやっかまれる立場になったとも言える。
とはいえ顔見知りや友人には決まって祝福されるから、そこまで苦にはならないのだけど。
 僕はもともと、高校生活の後半あたりから色々な趣味に目覚めていた。もともと持っていた雑多な知識に加えて、お嬢様のゲームに付き合ったり、アニメに詳しくなったり、というオタク趣味を深めたり、読書、音楽鑑賞、映画鑑賞なんかの一人用の趣味を開拓したり、失われた幼少期から少年期を取り戻すように、僕は自由な時間に楽しみを見出すようになっていった。かつて言われた「ローマの休日も知らないのか」という趣旨の言葉に反発信を覚えたというのも、理由の一つではある。
 とはいえ、お嬢様が「ハヤテが自分のことばかりでかまってくれない」と言って拗ねることもあったので、三年生の後半くらいからはお嬢様に付き合うことが多くなったのだけれど。
 とはいえ、平和だった頃の僕がそんな風に浅く広く趣味を開拓してくれていたおかげで、彼女との話題に困ることは少なかった。
「ハヤテくんの雑学は、なんだか頭が良くなる気がするから、わたしは好きだよ」と彼女は言ってくれるのだけど、あまり調子に乗って話しすぎるとそれはそれでうんざりされそうなので、喋り過ぎないように心がけている。
ちなみに「多分それは気がしているだけですよ」なんてことを言ってからかうと、彼女は目に見えてむっとする。なだめるのが大変なのでこれも控えるよう心がけているのだけど、彼女は怒っていても可愛いので、時々ついつい誘惑に負けてしまうのである。
 ちなみにデートはいつも割り勘だ。これは男のプライドの問題なのだ。

 彼女のお爺さんが、朝風神社の宝物堂を整理しなおそうとしている。というのは、彼女がそれとなく言っていたことだった。「一応出来ますよ。そういう仕事をしていたこともありますから」というのは、嘘ではない。
 嘘ではないが、渡りに船とばかりに「なら頼んでも良いかな?」なんて言ってくる理沙さんを見て、心が痛まないといえば、それは嘘になる。
 宝物堂に入るとき、なんとなく周囲を見渡してみたのだけれど、特に不審な点はなかった。巻田さんと国枝さんがいなくなったあたりを見て、なんとなく彼らがここにいないかを確かめてみたりする。馬鹿な想像だ。彼らがいなくなったのは未来の話で、亡霊がいるならもっと先のことになるはずである。
 骨董品はそこまで傷んではいなかったけれど、いくつかは専門の業者に修繕を依頼したほうが良さそうだった。簡単なものなら昔仕込まれた技術でどうにかなるけれど、僕では手に負えないものだってあるのだ。
 そして、未来で僕らが探していた護符を発見したのは、ある意味必然であったと言える。
目に見えて慌てることはなかった。背筋を氷が滑り落ちるような緊張感を、肌より外に晒すわけにはいかなかった。
 怪しまれない程度に、護符を色んな角度から眺めてみたり、振ってみたりしてみたけれど、なにがしかの妨害を受ける気配はなかった。中身を見るのは、修繕を任された身として適当な行いだろうか。
 開けようか。
 いや、人目があるからには、不審なことをするわけにはいかない。
 理沙さんとお爺さんの会話をそれとなく耳に入れながら、僕は護符を元の場所に戻して、高そうな壷を手に取る。きっと偽者や贋作ということはあるまい。綺麗なものだが、一応外側だけでも拭いたほうが……。
「あと、わたしの彼氏でもある」
 あやうく壷を取り落としかけた。
 爆弾を投げないでくださいよ。そんな視線を彼女に送る。
 お爺さんは、取り立てて何も言うことはなかった。しかしその目は厳しい。これは僕の予感だけれど、もし少しでも不備があったなら、お前のような奴に孫は渡せん! と怒鳴り散らされて追い出されそうだ。
 結局それから数日間、僕がその護符を調べる機会は見つからなかった。その代わりに、一つ一つ写真を撮った上で、名簿に纏め上げ「今後はこれを使えば管理がしやすいと思います」と言ってその名簿をお爺さんに渡した。
どうもそれをいたく気に入ってくれたらしく、結構なバイト代を貰ったのだけど、件の護符だけは名簿から外しておいたのは、言うまでもない。さりげなく、その護符を見つかりにくい場所に置きなおしておくのも忘れなかった。
罪悪感は僕を放してはくれなかった。いや、僕は決して、これを忘れてはいけないのだ。


とうとう始まってしまった新学期に焦りを隠せないまま、僕は幸せと添い遂げたかのように、いくらかの時間を彼女と過ごした。
恐らくは、僕がここに戻ってきた理由に関すること以外、全てのことが上手くいっていた。昨年のクリスマスまでにあった、三千院家の遺産やロイヤルガーデンに関する問題も、僕にすれば過去に解決した出来事である。多少の不幸に巻き込まれつつも、滞りなく解決した。
僕が単なる高校三年生の執事であったなら、きっとこの時期を小躍りしながら満喫していただろう。だけど18歳になる僕は本当はもう21歳の青年で、一年もしないうちに起こる惨劇を止めるために何をすればいいのか、手がかりすら掴んでいなかった。
伊澄さんがいなければどうすることもできない。しかし何故未だに彼女だけが戻ってこないのか。悲観的な想像はいくらでも出来る。何か僕らがこちらからアシストをするべきではないのか? 戻ってこれるとしてそれは間に合うのか? 何か彼女からのメッセージを見落としていないか?
咲夜さんも、ワタルくんも、クラウスさんも、サキさんも、僕と同じ焦りを共有していたから、どこか暗号じみた会話を交わすことが多くなった。
鷺ノ宮伊澄がこの時代に戻ってきたのは、そんな風に行き止まりの前でグルグルと歩いていた僕らが、六月の暮れを恨みがましく見送っていたときのことだった。

 不幸な人生を送り続けてきた僕だけが気づいた。
それは幸せの終わりを告げる鐘の音であったのだと。


「夏休みの旅行には、わたしと咲夜も一緒に行きます。そして、ハヤテさまには訓練を受けてもらおうかと」
 愛沢家の屋敷。誰もいない一室に集まった僕らを見て、彼女は開口一番にそう言った。
「訓練?」
「銃器を扱う訓練です」
「……一応、一通りのものは扱えますが」
「ええ、だからそこまで厳しい訓練にはならないでしょう。使ってもらうのは狙撃用の銃器です」
 背筋が冷える。もちろん予想していたことではあった。しかし彼女は僕に、誰かを殺すよう、明確に指示しているのである。怖気づくなというほうが無理な話だ。
「僕に、敵を撃てというんですね」
「……ええ、あなたがやらないならわたしがやります。だけどきっとわたしはその瞬間、力を使えないでしょう。だから銃を使うのが手っ取り早いのです。ですからハヤテさまに」
「伊澄さん」
 いつもおっとりとした彼女らしからぬ、言いづらいことを一気に言ってしまいたくて仕方がないような、性急な口調である。それだけでわかってしまった。
 きっとこれに乗ったら、僕はこの時代に帰ってくることは出来ない。
 僕は今、かつてないくらい幸せな時間の中にある。
 しかしそれは断る理由にはならなかった。
「俺がやる。こいつは十分頑張ったじゃねえか。銃くらい俺だって練習すれば……」
「若……」
 サキさんが、ワタル君のシャツを引っ張って、彼を止めようとしている。そして眼鏡越しに、罪悪感のこもった視線を、僕に向ける。彼女は気づいているのだろう。
 顔をそらしたサキさんに、僕は心の中で大丈夫です、と呟く。
 彼女がワタル君を止めるのは当然だ。それを責める権利が僕にあったとしても、それを使おうとは思わない。
「いえ、僕が行きます。……もう、帰ってこられないんでしょう?」
「なっ!?」
「……わたしも、出来る限りのことはするつもりです。しかし帰ってこられる確証は、向こうに行ってから出なければ得られないと思ってください」
「では伊澄さんも?」
「当然です。私にしか出来ないことですから」
 表面上は平静そのものだ。だけど、その言葉の裏側にどんな感情が込められているのか、僕にはわからない。
「じゃあ、失敗したら、うちらは友達を二人失くすってことやな。それは勘弁してほしいけど、伊澄さんがどうなるかわからないって言うんなら、きっとその通りなんやろ」
 力なく呟く咲夜さんは、あさっての方向を向いたまま、誰とも目をあわせようとしない。
「大丈夫。迷子になんてならないから」
 伊澄さんの言葉は冗談のようでいて、その実真剣である。
 重苦しい雰囲気は、その後も晴れることはなかった。夏休みの計画を話し合って、その日は解散となった。


 もうすぐ夏休みが始まる。
 放課後、僕らはいつものように二人で歩く。
 僕が理沙さんと過ごせる時間は、もしかしたらこれが最後かもしれない。梅雨が終わった初夏の季節で、彼女の夏服姿が眩しかった。
僕と彼女が会えなくなったなら、彼女は僕を忘れるだろうか。そんなことを思う。抱きしめて、キスをして、それからもっと先に進めば、彼女が他の誰かと幸せになったとしても、僕のことを時々は思い出してくれるのかもしれない。
僕にだって人並みの欲求はある。人として当然の行動を、彼女に乞うて何が悪いというのだ。
「どうかしたのか?」
 そんな風に尋ねられたとき、僕は自分の思考が彼女に読まれているのかと邪推した。それだけやましいことを考えていたということだけれど、僕は一瞬跳ねた心臓を押さえ込んで聞き返す。
「いえ、特に何かあったわけではないですけど」
「ふうん、そうか、ならいいんだ。ハヤテくんはたまに凄く真剣そうな顔をするから、時々心配になるんだ」
「……大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしていただけです」
「彼女と一緒にいるのに?」
「まあ基本的に、理沙さん相手だと一緒にいるだけで僕は楽しいので。暇を持て余した頭のほうが、勝手に働いちゃうのかもしれません」
「冗談にしてもキレが悪いんじゃないか?」
「いや、本音ですよ」
「……天然なら、単純に性質が悪い」
 顔が赤いのは日差しが強いせいだろうか? 彼女は時々今のように、不機嫌とも嬉しいとも取れない表情であさっての方向を向くことがある。
「そ、そうそう。この間君が言っていた小説な。amazonで取り寄せたんだよ。それで、あらすじを読んだけど。あれ、わたしに紹介する時点でネタバレしてただろ?」
「あれ? そうでした、か……」
 ……しまった。僕が彼女に薦めた理由からして、物語の核心部分が面白いというものだったけれど、最初から読み始める人にとってはネタバレ以外のなにものでもない。
「すいません……。確かにネタバレでしたね……。いつもみたいに、注意しておくべきでした」
「いやいや怒ってない。怒ってないんだぞ? そんな世界の終わりみたいな顔をしなくてもいいんだって」
 彼女はおどけて笑っているけれど、僕自身は自己嫌悪の炎に焼かれていた。これは紛れもなく、僕の失態である。
「ま、それなら一つ、君には償いをしてもらうとしようか」
 なんです? と僕は聞き返した。いや、聞き返そうとした。実際発音できたのは、「な」だけだ。
 人気がないとはいえ、道のど真ん中で、彼女は僕にキスをした。
 ついばむようにそっと、しかし時間にすれば3秒ほど、僕らは動きを止めていた。
「……暑いのは嫌いか?」
「……我慢しますよ。償いですから」
 今度は僕がキスをした。
夏休み前の最後の逢瀬まで、結局僕らはプラトニックな関係のままだった。
でもきっと、これでいいのだろう。今でも、割と僕は満足しているんだから。


「迷える子羊にこれを授けてやろう」
 旅行の前日。
十字架を掲げた幽霊神父がそんなことを言い出したとき、僕がここ数日抱えていたシリアスな悲壮感は、空気を入れすぎた風船のように割れた。
よほど苦みばしった顔をしていたのだろうか。神父さんは不満げに、手にもった十字架を、さらにこちらに押し付けてくる。
「いやいや突然なんですか。迷える子羊て」
「出会った頃と比べて、君の感情の起伏はやたらと激しい。ため息をついたかと思えば、この世の春の訪れのようにはしゃいでいたり、はっきりいって不安定この上ない。経験上、そういう人間は大きな悩みを抱えているものなのだよ。そしてそこから現実逃避を始めるんだ」
「はあ、最近出番もないから成仏したかと思っていたのに、ずっと人間観察をしていたわけですか。というか成仏してくださいよいい加減。なんで十字架持ってるのに消えないんですかあなた。ゲームでいったら闇属性でしょ」
「わたしは神に仕える身なんだぞ。光と闇が合わさり最強に見えるだろう」
神様も、とっととこんなの見捨てればいいのに……。
「まあ、とにかく持っておくといい。何もかもに堪え切れなくなったとき、重荷を一人で抱えてしまったとき、主が自分を見てくれていることを思い出すだけでも、少しは気が楽になる」
「……一人で旅行に行く気も、お嬢様から離れる気もありませんよ」
「だとしても、君の不運が君を追い込むことは想像に難くない。今の君はそんな状況に、頭からはまり込んでしまいそうな、そんな顔をしている」
非常に不本意ではあったけれど、このろくでなしの言うことはだいたい当たっていた。
僕はいざ伊澄さんが危なくなったら、彼女だけでもなんとか守ろうと思っているし、生きてこの時代に帰ってこれるという希望を、どうにか引き剥がしてドブに捨てようとしている最中なのだ。
「まあ、お守り代わりにはなるでしょうし、一応受け取っておきますよ」
十字架は軽かった。僕はこれが幽霊神父の装飾品の一つで、実体を持たない幽霊のようなものなのではないかと、一瞬疑った。
「マフィアの銃弾を受け止めるのには役立たずだろうが、向こうで吸血鬼に合わないとも限らない。肌身離さず持っていたまえ」
「……いやいやいや、止めてくださいよそういう冗談。ほんとに出そうで怖いじゃないですか」
旅行の日程というのが、欧州をジェットで回るものだというのも、僕を不安にさせた。吸血鬼発祥の地も、当然予定に組み込まれているのである。
「なに、君なら吸血鬼にも勝てるだろう」
そんな無責任なことを、神父さんは言った。


 夏休みの出来事は、いつも通り過ぎるほどにいつも通り、トラブルだらけの日常が過ぎていった。幸いなことに(皮肉ではなく、これは本当にラッキーだったのかもしれない)吸血鬼と出会うことはなかった。
お嬢様やマリアさんと、これが最後になるかもしれないと思いながら過ごした。仕事に、遊びに、訓練に、全力を尽くした。
 もう会えないかもしれない。と思っていた理沙さんにも、何度か会うことが出来た。
 時間は黄金色に輝いていて、夏休みが終わらないことを、僕はかつてないほど真剣に願った。
 だけど、楽しい時間はすぐに終わってしまうものだ。
 夏休みはすぐに終わって、僕は泥棒になった。
朝風神社の宝物堂から、件の護符を盗んだのだ。
その一週間後に、僕と伊澄さんは未来に旅立った。