ハヤテSS投稿掲示板
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タイトル FFF
投稿日: 2008/03/30(Sun) 20:04
投稿者ウルー


「ねーねー、桂ちゃん」
「んー。なぁにー」

 受け持ちのクラスで委員長をやらせている少女は、私の机の上に、持って来るよう頼んでおいたプリントを置くと、いつもの無邪気な笑顔を浮かべて早々に声をかけて来た。私は湯呑みのお茶を啜りながら、適当に応じる。

「桂ちゃんって、ケッコンとかしないの?」
「ぶぅッ!」

 唐突な言葉に、私は口に含んでいたお茶を思いっきり噴き出す羽目となった。幸いにもプリントにはかからなかったけれど。

「な、なんなのよ、いきなり」
「あー、いやー。純粋に気になっただけなんだけどね? ほら、桂ちゃんってもう三十路手前だし」

 グサリと、言葉のナイフが私の胸に突き刺さった。無邪気ゆえに、容赦なく。

「あ。その顔は、ケッコンどころかそれ以前に相手がいないって顔だねー」

 ナイフ、二本目。

「……なぁに? もしかして、喧嘩売ってるわけ? いいわよ、買ってあげる。いくら? というかタダにしなさい、買い占めてあげるから」

 舐められたままでいるわけにもいかないので、少し凄んでみる。けど、この子にはたいした効果も無かったみたいで、相変わらず笑顔のまま、頭の左右で結わえた髪をぴょこぴょこ揺らしている。

「にははー、そんな怒んないでよ。本当、純粋に気になっただけなんだってば。桂ちゃん、どうしてケッコンしないのかなーって」
「行き遅れに対する挑戦としか思えないんだけど」
「いや、だって。桂ちゃんってなんだかんだ言っても美人だし。本性知らない男の人なら、けっこう寄って来るんじゃないの?」

 少女の言葉に、私はわかりやすく、けれど小さく、溜息をついてみせた。

「……あのね。男なら誰だっていいってわけじゃないのよ? 私にだって女としてのプライドぐらいあるんだから」

 そもそも本性知らない男の人ならってどういう意味よ、とも言いたかったけど。それは何だか、自分でそれを認めてしまうような気がしたから、言わずにおいた。

「女としてのプライドかー。じゃ、どういう人ならいいの? というか、今好きな人とかはいないの?」
「……なんなのよ、さっきから。まさか恋愛相談とかいうオチじゃないでしょうね?」
「ぎくり」

 ご丁寧に声に出しつつ、少女は笑顔のまま固まる。ほんの小さな嘘すらつけないのがこの少女の欠点であり、美点でもあった。
 まあ、それは置いといて。話を逸らすにはちょうどいいネタであることには間違いなかったので、乗っかることにする。

「あなた、例の執事君と付き合ってるんじゃなかったっけ? 喧嘩でもしたの?」
「いやいや、仲良くやってるよー。昨日もね、えっと……」
「あー、ノロケはいいから。何を相談したいのか、それをさっさと言いなさい」
「……実は……彼の、ご主人様のことなんだけど」

 話題の二人――執事とそのご主人様――も、私が受け持っているクラスの生徒だった。大金持ちの子息が集まるこの白皇学院では、然して珍しいことでもない。
 もっとも、件のご主人様は白皇の中でも数少ない飛び級をしている生徒なんだけど。

「あの子はね、私達が付き合うのに反対なんだ」

 少女は笑顔のままその表情を曇らせて――要するに苦笑して――そう言った。けっこう長い付き合いだから分かるけれど、それなりに困っているということだ。

「ふーん……ま、執事なんてご主人様の持ち物みたいなもんだからねー。それに恋人が出来たって言うんじゃ、そりゃ気に入らないでしょうねぇ」
「……そんなんじゃないよ。あの子は、そんなんじゃない」

 軽口を叩いた私に返ってきたのは、真剣な声音だった。
 思わずじっと見つめてしまっていた私の視線に気付いてか、彼女は照れ臭そうに笑った。ガラじゃない、なんて思っているのだろうか。

「あーあ、三角関係なんて、面倒くさい初恋しちゃったなー」

 その笑みだけでは誤魔化すのに足りないと思ったのか、今度は彼女が軽口を叩く。
 初恋。どこか懐かしい匂いのする言葉。誰かが開けた窓から吹き込んできた風が、私の髪を揺らした。

「ま、そりゃあ面倒でしょうよ。でも、あんたはまだマシな方ね」
「……? どういう意味?」

 乱れた髪を軽く直しながら、私は――きっと、口元に小さな笑みを浮かべて――言ってやった。

「だって。周りはどうあれ……あなたの初恋は、もう実ってるじゃない」





「……恋、ねぇ」

 陽が沈んだばかりの、夕焼けと夜闇の境界のような空の下、私は無駄に広大な白皇学院の敷地内を、一人で歩いていた。
 最後に恋愛をしたのはいつだっただろうか。記憶を探ってみるも、それらしいものは一向に見つからない。いいな、と思えるような人が何人かいたはずなのだけど……まあ、覚えていないということは、結局たいした男ではなかった、ということなのだろう。
 そうなると、やはり。30年近く生きてきて、まともな恋愛ができていたのは……あの、慌しくも楽しかった2年間だけだったということになる。さっきあの子に偉そうに講釈を垂れていたのを思い出して、私は恥ずかしくなった。人の恋愛にどうこう言えるほど、私は恋というものを知ってはいない。

「……あー、やだやだ。今日はもう、パーッと飲むわよ」

 そのまま黙っていたら、色々思い出してしまいそうだったから……私は、少し無理して大声を張り上げてみせた。
 当然それは独り言で、私の口から出て私の耳に消えていく、それだけの言葉であるはずだった。
 なのに。

「それはいいですね。ご一緒してもよろしいですか?」
「え?」

 今になって、進む先に誰かが立っているのに気付く。周囲の薄暗さのせいで、顔は見えないけれど……背丈と声からして、男の人であることは間違いない。その声は、どこか聞き覚えがあって、それでいて記憶に無い声だった。

「……あ」

 違う。やっぱり知っている声だ。違和感を覚えたのは、その声が記憶にあるものより低くなっているから。それも当然だろう。女の子みたいな顔をしてても、“彼”はれっきとした男の子なんだから……十年も経てば、声だって少しは低くなる。

「……あ、あの」

 かけた声は、ほんの少しだけ震えていた。
 もう私には、目の前に立つ顔の見えない誰かが誰なのか分かっている。分かっていても、信じられなかった。
 彼が、ゆっくりと前に進み出る。
 そうやって、ようやく見えた、その人の顔は――

「お久しぶりです、ヒナギクさん」
「……ハヤテ……くん……」

 ――私の、初恋の人のものだった。





「では……10年ぶりの再会に、かんぱーい」
「乾杯」

 カチン、という音の後、私はジョッキ一杯に注がれていたビールを、一気に半分ほど飲み干した。

「ぷはーっ。やっぱ仕事の後のお酒ってサイコーねっ」
「…………ええと、ヒナギクさん?」
「あ」

 テーブルを挟んだ反対側に座ってチビチビと飲んでいるハヤテ君の視線に気付いて、私は今さらながらに恥ずかしくなる。普段は一人だったり、今の私を知っている人としか飲まないから、つい、いつものようにやってしまった。

「……あ、あはは。えっと、その、まあ……ハヤテ君も飲んで飲んで、ほら、もっと男らしく豪快に」

 結局上手い誤魔化しを思いつかず、私はそう言うしかなかった。
 私達は今、一軒の居酒屋にいる。一人外で飲む時の馴染みの店で、こぢんまりとしてはいるけれど、美味しい料理をこのご時世としては良心的な値で振る舞ってくれる、いわゆる穴場だった。実際どうなのかは知らないけど、私にとっては間違いなく穴場。だから、人に教えるようなことはない……はずなのだけど。

「はは……まあ、気持ちは分かりますよ」

 ハヤテ君はそう言って、グラスをぐいっと傾けて、残っていたビールを一気に飲み干した。その仕草はどこか気品を感じさせるもので、私はまた少し恥ずかしくなる。

「そ、そんなことより。いつこっちに戻ってきたのよ」

 適当に頼んだ料理を、これまた適当につまみながら、私は話題を逸らそうと試みる。もっとも、聞きたいことであるのは確かなんだけど。

「昨日ですよ。それでまあ、昔お世話になった人に挨拶に回ろうと思いまして。それで今日、会いに来たわけです」
「なるほど。それにしても、昨日って……それはまた、随分と急ね。あ、注ぐわね」
「あ、ありがとうございます。まあ、お嬢さまの気まぐれはいつものことですし」

 懐かしい言葉が彼の口から出て、それがなんとなくおかしかった。あの子は今25歳になってるはずだし、もう“お嬢さま”なんて歳じゃないだろうに。

「ナギとマリアさんは元気?」
「ええ、それはもう。まあ、お嬢さまは未だに外に出るのが苦手みたいなんですけど……それでも、昔と比べればだいぶ良くなりました。背も伸びましたし」

 それからは、お酒と料理を楽しみながらお互いの近況を報告していく。マリアさんは昔と見た目が全然変わらないんですよ、ウチのクラスは問題児が多くて疲れるわ……そんな他愛も無い話をしている内に、ふと、ハヤテ君が思い出すかのように言った。

「ヒナギクさんは、いつからお酒を嗜むようになられたんですか?」
「へ?」

 間抜けな声を出した私は、ちょうどジョッキを空にしたところだった。

「いやあ、桂先生があんな感じじゃなかったですか。だから、こう……お酒なんて誰が飲むもんですかー、みたいな感じなのかと思ってたものですから。こうやってヒナギクさんとご一緒できているのは、嬉しくもあり予想外でもあるわけです」
「……言っとくけどね、お姉ちゃんと一緒に考えないでよ? 仕事はちゃんとやってるし、借金なんて一銭も無いし、こうやって外でパーッと飲むのは週二回までって決めてあるんだから」
「じゃあ、家では毎日飲んでいるわけですね」
「う」

 ニコニコと笑いながらのからかいに、私は声を詰まらせる。
 10年経ってだいぶ逞しくなったように見えたハヤテ君だけど、その笑顔は私の記憶にあるままだった。そのこと自体はなんとなく嬉しいんだけど、からかわれているのはちょっと悔しい。
 昔は、こういうやりとりをすることは余り無かったように思う。ハヤテ君も色々と大変で、そういうことを言ってる余裕が無かったんだろうし……私がハヤテ君を嫌っている、という勘違いもその一因だったはずだ。
 ふと、思う。今は、どうなのだろうかと。

「それで、どうなんですか? 僕としては、是非とも聞いてみたいんですが」

 私が本気で嫌がれば、ハヤテ君も引き下がるはずだ。実際、あまり喋りたくない――特に、ハヤテ君には――話でもある。
 それでも話してしまおうと思ったのは、それほど酔いが回っていたからなのか、確かめてみたくなったからなのか。

「……そんなに聞きたい? 私とお酒の馴れ初め」
「ええ、ヒナギクさんさえ宜しければ」
「……ふふ、しょうがないわねー。じゃ、特別に話してあげる」

 ハヤテ君が、僅かに身を乗り出す。何がそんなに興味を惹くのか、少し理解しがたい所だけど……まあ、酔ってるんだろう、きっと。

「私が最初にお酒を飲んだのはね……10年前のことよ」

 そのハヤテ君は、私の言葉に動作を止めた。
 数秒の間を置いて、口を開く。

「あの……ヒナギクさん? 10年前と言ったら、ヒナギクさんは未成年では……?」
「ん、そうよ。私、サバなんて読んでないもの」
「…………」

 まあ、ハヤテ君が呆然とするのも分からなくはないけど……そこまで意外なことだろうか。
 これだけでここまでショックを受けているハヤテ君に、この先を告げたら……一体、どうなってしまうんだろう。やっぱり止めた方がいいだろうか――そこまで考えて、私はそれが“逃げ”であることに気付いた。
 ハヤテ君がどうこうなんて、関係ない。私が、言いたくなくて、思い出したくない、ただそれだけだった。

「もっと、詳しく言ってあげましょうか」

 でも、私の口は勝手に動いていた。あるはずだった胸の奥の痛みは、不思議と感じられない。

「私が初めてお酒を飲んだのはね……10年前の、私の18歳の誕生日。私がハヤテ君にこっぴどくフラれた、その夜よ」








 私は一人、部屋に閉じ篭って泣いていた。お義母さんに心配をかけるのは嫌だったから、声が漏れないよう、枕に顔を押し付けて。
 ただただ、悲しかった。自信があったわけじゃない。きっと駄目だ、無理だと、分かっていた。分かっていても、悲しかった。2年という歳月は、彼への想いをそこまで大きくさせるのには十分すぎるほどの長さだった。
 告白なんて、する気は無かった。あの時、観覧車のゴンドラの中で歩にそう言ったのは、気恥ずかしさと自分の意地っ張りな性格のせいだったけれど……いつからか、その言葉は違う意味を持つようになっていた。
 ハヤテ君に、私のことを好きになってもらいたかった。
 私が告白して、もしハヤテ君がそれに応えてくれたら……それは、ハヤテ君が私のことを好き、ということなのかもしれない。でも、私には、それだけでは足りなくて。ハヤテ君の方から告白してくるぐらいに、私のことを好きになってもらいたくて。だって私は、もう、この気持ちを伝えたくてしょうがないほどに、彼のことを好きになっていたから。
 だから私は、告白しようとはしなかった。その気になれば、言う機会はいくらでもあったけれど……今日この日まで私は何も言わず、ただ彼に好きになってもらえるようにと、色々なことをしながら、日々を過ごしてきた。
 なのに。

「……う……あ……ああ……」

 なのに私は、言ってしまった。
 そうしなければいけないと思った。何も伝えられずに全てが終わってしまう、それだけは絶対に嫌で。何も言えないまま遠く離れてしまう、それが耐えられなくて。
 その結果が、この様だった。
 誕生日なら断りにくいんじゃないか、そんな卑怯なことも考えて……皮肉なことに、誕生日に始まった私の恋は、誕生日に終わることになった。


 そうして、どれだけの時間が経っただろうか。電気も点けず、私は真っ暗な部屋の中で泣き続けていた。たくさんの涙を吸った枕はもうグショグショで、気持ち悪くて、それでも私は、涙を止めることができなかった。
 突然、部屋に光が射し込んだ。

「ヒナ、入るわよ」

 いつものようにノック一つもせず、お姉ちゃんがドアを開けていた。電気を点けてそのままズカズカと入ってくると、私のすぐ傍まで来て、ベッドの上に腰を下ろした。
 私は顔を上げることも、声を出すこともできずにいた。

「……あー、ヒナ?」
「…………」
「……いつまでそうしてんのよ、らしくないわねー。別にいいじゃない、フラれたって。世の中、綾崎君よりいい男なんてゴマンといるわよ」
「……ッ、そんな人、いるわけない!」

 お姉ちゃんの言葉に無性に腹が立って、私は跳ねるように起き上がって、怒鳴ろうとして――出てきたのは、近くにいてようやく聞こえるぐらいの、掠れた小さな声だった。

「ようやく顔を見せたわね」
「あ……」
「……まったく、酷い顔しちゃって。ほら、これでちょっとは綺麗にしなさい」

 お姉ちゃんは有無を言わせず私にタオルを押し付ける。一度顔を上げてしまった手前、また伏せることもできず、私は渡されたタオルで顔を拭いた。気分は晴れないままだけど、ほんの少しだけさっぱりしたような、そんな気がする。

「ん、ちょっとはマシになったわね。じゃ、ヒナ。そこに正座っ」

 お姉ちゃんが何を考えているのか分からなかったけれど、私はとりあえず、言われた通りベッドの上で正座をした。お姉ちゃんも座り直して、同じように正座になった。
 ベッドの上に正座して向かい合う二人。なんだか、とてもおかしな図のように思える。

「あのね、ヒナ。お姉ちゃん、ヒナを慰めなきゃいけないと思うの」
「……うん」

 正直、慰めの言葉なんて欲しくはなかった。余計に辛く、悲しくなってしまいそうだったから。それでも、お姉ちゃんは私のことを思ってくれているのだから――私は小さく頷いていた。

「でもさ、悪いとは思うんだけど。私バカだから、なんて言葉をかければいいのか、分かんないのよ」
「……うん……?」

 もう一度頷きつつも、段々とお姉ちゃんが何を言わんとしているのか、分からなくなってくる。

「昔、友達が失恋して、やっぱり泣いちゃったんだけどさ。そん時は、ちゃんと出来たのよ。でも、今は出来ない。何でか、分かる?」

 私はふるふると、首を横に振る。

「ま、私にもよく分かんないんだけど。多分、あんたが私の……大事な妹だからよ」
「…………」
「やっぱ、色々と違うのよ。大事な妹だからこそ、何を言ってあげればいいのか分からないってわけ」
「……おねえ、ちゃん」

 不意に、止まっていた涙が、また溢れ出しそうになった。

「と、まあ、そういうわけだから」

 今まで真剣だったお姉ちゃんの声が、途端に柔らかくなった。いや、むしろ……軽くなったと言うべきか。
 お姉ちゃんは背に手を回すと、そこに隠してあったらしい何かを引っ張り出して、それを、どん、と私の前に置いた。

「えっと、お姉ちゃん。これは……」
「見て分かんない?」
「……いや、分かるけど。でも……」

 酒瓶、だった。ついでに、コップが二つ。

「いーい、ヒナ? ヤなことがあったらね、パーッと飲んで忘れちゃうのが一番。ヤケ酒よ、ヤケ酒!」
「……あの、私、未成年……」
「こんな日ぐらい、そんなの無視しちゃっても大丈夫よ。お姉ちゃんからの誕生日プレゼントだと思いなさい」

 そのムチャクチャな物言いに、私は呆気に取られていた。さっきまでの感動は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
 でも。

「さ、飲むわよー! 朝までだって付き合うからね、ヒナ!」

 それは、いつかの日にも私を救ってくれた、大好きな笑顔だった。








「結局、次の日は物凄く酷い二日酔いで身動き取れなかったのよねー」
「…………」

 ハヤテ君は、グラスのビールをチビチビと喉に流し込みながら、黙って私の話に耳を傾けてくれていた。

「それで、次にお酒を飲んだのは……二十歳の誕生日だったかな。お姉ちゃんを連れてちょっと高いお店に行って、一緒に飲んだの。いつか、ちゃんとした形でお姉ちゃんと一緒に飲みたいなって思うようになってたから……まあ、ちょっとした恩返しね」

 まあ、ハヤテ君が黙ってしまうのも分かる。彼にとっても、かなり気まずい話であったろうから。ハヤテ君は俯いているわけではなかったけど、私は極力、彼の顔を見ないようにしていた。恐いのかもしれない。

「それで、ちゃんとお酒を飲むようになってから知ったんだけどね。その“ヤケ酒”、すごく高いお酒だったらしくて。なんかもう、その時は泣けてきたわよ」
「……大事に思われていたんですね、ヒナギクさんは」

 ずっと口を閉ざしていたハヤテ君が、そう言った。私は、恐る恐る彼の顔を見る。飾り気のない、けれど綺麗な笑顔だった。

「……悪いわね、せっかく楽しく飲めてたのに、こんな話しちゃって」
「いえ、気にしないでください。しかし、その……二日酔い、だったんですか。すごく心配してたんですけど」
「ま、二日酔いじゃなくても多分行けなかっただろうから。っていうか、心配するぐらいなら最初からフッたりしないでよ」
「す、すいません」

 少しずつ、和気藹々とした雰囲気が戻ってくる。
 この雰囲気に乗じて、私は言ってしまうことにした。そうしなければ、私はどうやっても前に進めないような、そんな気がするから。

「ね、ハヤテ君」
「なんですか、ヒナギクさん」

 あの時と同じように声をかけて、あの時と同じように声が返ってくる。

「私、ハヤテ君が好き」

 あの時は、なんと言って告白しただろうか。長々と前置きをしていたような気もするし、大仰な言葉で愛を説いていたような気もする。
 でも、今は。ただ、私の気持ちをそのまま、言葉にした。
 ハヤテ君は少し驚いて、

「……ありがとうございます。僕も、ヒナギクさんのこと、好きですよ」

 そう答えた。
 彼もまた、あの時とは違う言葉。そして、私はその言葉に続きがあることを知っていた。

「でも」

 そう、でも、と続く。私には分かっていた。

「僕の言う“好き”と、ヒナギクさんの言う“好き”は……きっと、同じではありません。だから……ごめんなさい」
「……ん、そっか」

 あの時のような悲しさは無い。むしろ、清々しい気分でさえあった。
 この10年。きっと私は、心のどこかで期待していたんだと思う。あの時の返事はハヤテ君の本心じゃなかったんじゃないかっていう、ひどく自分に都合のいい期待。
 仮に、あの時ハヤテ君が私の気持ちを受け入れてくれていたとして……私達は、一緒にいることは叶わなかっただろう。そんな状況だったからこそ、私は告白しようと思ったのだから。
 ハヤテ君は、本当は私のことを好きだったのではないか、私のためを思って断ったのではないか、そんなみっともない期待を、自分でも気付かない内に抱いていたから……だから私は、この10年、ハヤテ君のことを吹っ切ることができなかったんだ。

「あははー、ごめんね、こんなこと言っちゃって。さっきはああ言ったけど、私、実はお姉ちゃん以上にだらしなくて。常日頃から酔っ払ってるもんだから……気付かなかったのよね、薬指のそれ」

 私は、おどけて言ってみせる。
 そう。最初から、分かっていた。

「……すみません、ヒナギクさん」

 ハヤテ君は、少し顔を曇らせた。いつまでも彼にそんな顔をさせていたくなくて、私はことさら明るい感じを心掛けて、話を続ける。

「謝らないで。むしろ、ようやく本当に失恋できて、感謝してるぐらいなんだから」
「……ありがとうございます」

 ハヤテ君は、小さな笑みを浮かべた。

「さ、もっと飲みましょ。今日はまだ大丈夫なんでしょ?」
「ええ、とことん付き合いますよ」
「そう来なくちゃ。おじさーん、鶏の唐揚げと枝豆追加ねーっ」

 はいよー、と声が返ってくる。
 ハヤテ君はなぜか、どことなく複雑な表情を浮かべていた。

「なによ?」
「いえ……さっきの話を聞く限り、ヒナギクさんがこうなってしまったのは……僕のせいなんだろうなぁ、と」
「まるで今の私じゃダメみたいな物言いね」
「いや、そんなことないですよ! 昔にも増してお綺麗になられましたし! きっとモテるんだろうなぁ!」

 何とかして誤魔化そうとしているのがバレバレだった。
 その様子がおかしくて、つい、からかいたくなってしまう。

「残念なことに、まっっっっったくモテないのよねー」
「うぐ」
「というか、年齢=恋人いない歴ってさすがにヤバいと思うのよ。そうは思わない? ファーストキスだってまだなのよ、私」
「そ、それは……その……」

 たまに、自分で「ああ、酔ってるなぁ」と強く感じる時がある。今がまさに、その状態だった。視界はしっかりしているから、まだまだ大丈夫だとは思うけど……その内、わけのわからない無茶なことを言い出してしまいそうな気がする。

「それもこれも……全部、ハヤテ君のせいよ!」
「ええっ!?」

 ほら、やっぱり。
 でも、あながち間違いでもないような気がする。私の方にも多分に問題があるのは確かだけど。

「そ、そう言われましても……」
「これはもう、責任取ってもらわなくちゃ」

 酔った勢いで出た言葉に乗じて、今度はしっかりした私の意志で、言葉を紡ぐ。責任、なんて大袈裟な言葉に、ハヤテ君が戦々恐々としているのが見て取れる。

「せ、責任ですか」
「ええ。ハヤテ君には、責任取って――」

 断られたらどうしよう。そんな不安とは、もう無縁だった。

「――これからも。たまに、こうやって……一緒に飲んでもらう、ってことで」
「……へ?」

 何を言われるかと身構えていたらしいハヤテ君は、拍子抜けしたらしく、なんとも間抜けな顔をしていた。

「嫌なの?」
「あ……いえ、僕でよければ、喜んで」

 すぐに、笑顔に変わる。私もきっと、心からの笑顔を浮かべているだろう。





 ああ――今宵の酒の、なんと格別なことか。


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