セイバーマリオネットJ SideStory  RSS2.0

かくれんぼ

初出 2000年03月08日
written by 双剣士 (WebSite)
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後編

 冷たい雨のカーテンが神流山一帯を取り囲んでいた。その中にたった1人、身動きも取れずに雨に打たれつづけるセイバーマリオネットの姿があった。
 視界を遮り全ての音を飲み込む豪雨の中で、彼女は一心不乱に助けを求めた。
 冷たい雨に打たれながら、心に忍び寄る黒い影を必死に押し返しながら。取り残された自分と小さな友達がここに居ることを、彼女は全力で訴えつづけた。彼女を探してくれている少年の耳に届くことを祈って。
 彼女を嘲笑うかのように時折鳴り響くプラズマの雷鳴。
 ちっぽけな存在など歯牙にも掛けぬかのように、いつまでもいつまでも降り続く水神の申し子たち。
 倒れた木々。くすぶる煙。冷たい雨を歓迎するかのように喝采をあげる葉っぱたち。絶え間なく彼女の脇を通りすぎて行く、茶色に濁った泥の奔流。
 ‥‥そして、いくら待っても来てくれない間宮小樽。
 世界のすべてが彼女にそっぽを向いていた。彼女の叫びは虚空に吸い込まれ、二度と帰っては来なかった。そこはもはや、通いなれた大好きな遊び場ではなかった。荒涼と変わり果てた森の中に残された彼女は、すぐ傍に倒れている割れた倒木と同様、地を駆ける濁流の行く手を遮る固形物のひとつに過ぎなかった。
 否。
 彼女を誘うものは居た。
《わたしを受け入れなさい。そうすれば楽になれる》
 甘やかな誘い声。彼女が初めて聞く声だった。かつて惑星テラツーに入植した6人が、彼らのクローンでありテラツー300余年の歴史を作ってきた人たちが‥いや人間がこの世に生を受けて以来、いつも彼らの耳のそばにいた誘惑の声。愛する少年の元ですくすくと成長してきた彼女たちが、おそらく生涯耳にすることは無いはずだった声。
 それはあまりにも甘美な声であった。孤独と悲嘆に沈みかけた彼女にとって、思わずすがりつきたくなりそうな声‥だが彼女は必死で耳をふさいだ。その声に身を委ねてはいけないと心の奥で誰かが叫んでいた。その声に‥『諦め』という名の声に耳を貸せば、この身を取り囲む冷たさからは逃れられる。だがその代わり『絶望』という名の絵の具によって身体中を塗り替えられてしまうことを、彼女は無意識のうちに悟っていた。
 ぴぃ。
 冷たい外界と彼女を繋ぐ、唯一のか細い接点。それが彼女の胸の下にあった。このひなたちが居る限り、闇の世界に逃げ込むわけには行かなかった。心細いのはこの子たちもおんなじなんだ‥そう自分を奮い立たせて、彼女は救いを求める手を伸ばしつづけた。
 そして、つい先ほど。彼女の努力は報われたかのように思えた。
《ライム? ライムか?!》
《やっぱりライムか! 探したぜ、ほらこっちにおいでよ!》
《わかったよ、いま行くから待ってな!》
 意外だったけれど。小樽の声じゃなかったけれど。彼女は眼の前がぱぁっと明るくなるのを感じた。自分を心配して探しにきてくれたんだ‥もう大丈夫。もうすぐこの孤独から逃れられる。この子たちをお母さん鳥に返してあげられる。もう少しの辛抱。
 黒い影を押し返す力がすこし強くなった。背中を叩く雨がちょっとだけ弱くなったように思えた。新しい絆を手放さないよう、彼女は残った力を全部つかって声を上げ続けた。1歩ずつ、1歩ずつ、ボクの大好きな温かい世界が迎えに来てくれる‥彼女はそう信じて疑わなかった。
 だが、まもなく。
 ブラッドベリーの声が。
 ‥‥途絶えた。

                 **

「ブ‥‥ブラッド、ベリー‥‥」
 最後の叫びを吐き出して。ライムはうつ伏せで肘を立てた姿勢のまま、がっくりと首をうなだれた。長い時間の雨を吸いつづけて衣服はびしょびしょ。髪が頬に張り付き、頭も重い。だがライムの感じている重苦しさは、それらの何十倍にも相当する重さがあった。いくらセイバーマリオネットが怪力を持っていると言っても、この重苦しさには無力であった。
 ぴぃ。
 ぴぃ。
 落とした顔の眼の前で、小さな友達が鳴いている。可愛い声だとは、もはや思えなかった。ひたすら哀れだった。この子たちは自分のお母さんに捨てられたことを知らない。自分たちの頼っている相手が、逃げることも隠れることも助けを呼ぶことも出来ず、ひたすら雨を遮ってあげることしか出来ない、ひ弱な存在であることを知らない。自分たちの同類に過ぎない相手を頼っていることを知らない。
「‥‥来ないよ」
 気がつくとライムはそうつぶやいていた。生まれたばかりのひなたちに分かるわけも無い。だが無邪気に鳴きつづけるひなたちに対し、気休めをいう気力はもはや残っていなかった。
「‥‥捨てられちゃったんだ、ボクたち‥‥待ってても誰も来ないよ。いくら鳴いたって、誰も聞いてくれないよ‥‥」
 ブラッドベリーがすぐ近くまで来ている、という事実はライムの脳裏から消えていた。これだけ待ってるのに誰も来てくれない。声の届くところに居た相手でさえ、ここまで迎えには来てくれなかった‥‥ライムの頭を占めているのはそれが全てだった。
 ぴぃ。ぴぃ。
「来ないってばぁ‥‥」
 ライムは固く眼をつぶった。雨粒とはちがう熱い水滴が彼女の頬を伝って落ちた。だが降りしきる豪雨の音に比べ、彼女の啜り泣く声はあまりにも小さかった。

                 **

「ライム〜〜!」
 間宮小樽は雨の神流山を根気良く歩き回っていた。声はとっくに枯れていた。耳がぎんぎんと鳴り、手足が痺れ、頭も少しもうろうとし始めていた。生身の人間が嵐の中を2時間以上も歩き回っていれば無理もないことである。激しい雨で遮られた視界の中、自分がどこを歩いているのか小樽は時々分からなくなってきていた。
 それでも小樽は叫びつづけた。この森のどこかにライムは居る。この雨のことだから、きっと雨宿りできる木の下か洞穴に隠れているに違いない。だからこれだけ呼んでも声が届かないんだろう‥‥そう思った小樽は、子供の頃に探検した洞穴や秘密の隠れ家を重点的に当たった。ライムならきっとそこに居ると思った。
 ‥‥だが、まだ見つからない。
「ライム〜〜!」
 もはや綺麗ごとを言ってはいられなかった。先に長屋に帰るか、2手に分かれて探すかのどちらかにしろ。いつまでも自分の後を付いてくるんじゃねぇ‥‥さっき、そう言って夢二を追い払った。子供に対して冷たすぎたかとも思ったが、もう捜索の片手間に夢二の面倒を見てやる余裕はない。しょぼくれて背を向ける夢二に対して、無事に帰ってくれよ、と小樽は心の中で手を合わせた。そして長屋で待っているはずのチェリーたちのことを思い、早くライムを見つけて帰ってやらねぇと、と決意を新たにした。
 ‥‥だが、まだ見つからない。
「ライム〜〜!」

                 **

「あはは、ははは、はは‥‥」
 束の間の鳴咽のあと。ライムは濡れた瞳のままで、乾いた笑い声を立てた。にじむ視界の中央には、草で出来た鳥の巣とそこに居る4羽の友達だけが映っていた。この子もボクも、おんなじだ。誰も助けてなんてくれないんだ。自分だけの力で、これから生きていかなきゃいけないんだ。
「だいじょうぶ、ボクがついてる‥‥ボクが絶対助けてあげる。最初からこうすれば良かったんだ‥‥ちょっと待ってて」
 ライムは鳥の巣を胸の下から取り出すと、身体の脇の地面へと移した。急に冷たい雨にさらされて、せっかく乾いたひなたちの身体はみるみるうちにずぶぬれになっていった。か細い声で抗議の鳴き声をあげる4羽のひなたち‥‥だが、このときライムの意識は自分の下半身を抑えつけている倒木だけに向けられていた。身体をねじり、さっきまで鳥の巣のあった位置に片肘を突いた姿勢でライムは眼前の強敵を見上げた。
「自分で、どうにかするしか、ないんだ」
 身体をねじった不安定な姿勢で、倒木をどかすべく力を込める。普段の力の半分も出せさえすれば、こんな倒木にてこずるなんてないんだ‥‥そう自分に言い聞かせながらライムは力を振り絞る。だが依然として、倒木はぴくりとも動かなかった。ライムの放つ力は全て彼女の腰へと跳ね返り、ただでさえ残り少ない体力をごりごりと削り取っていった。
 ぴぃ。ぴぃ。
「あーもう、うるさいなぁ! ちょっと辛抱しててよ!」
 焦燥感と疲労のあまり、ライムはそんな言葉を口走っていた。頭に巻いた布をほどき、鳥の巣に巻きつける。雨に濡れなきゃいいんでしょ、濡れなきゃぁ‥‥無遠慮に泣き喚く友達たちに対し、ライムはそれで精一杯の善行を施したつもりでいた。ぐっしょりと湿った黄色い布を巣にかぶせることでひなたちが余計に冷え切ってしまうことなど、今の彼女には微塵も思い浮かばなかった。
「この〜っ!」
 再び身体をねじったライムは、渾身の力を込めたパンチを倒木に叩き付けた。どけるのが無理なら叩き割ってやる‥‥ささくれだった心に鞭を打って、ライムが精一杯しぼりだした答えだった。彼女の力なら難しくはないはずだった‥‥しかし降りしきる豪雨がまたしてもライムの邪魔をする。湿った倒木はライムの打撃で割れるかと思いきや、ぽこっと拳の形に窪みを作っただけであった。こんな体勢ではリーチも知れている。この、この、この、と喚きながら繰り出されるライムの連打は、倒木の表面に無数の窪みを作り‥‥単にそれだけの効果しかなかった。
「うぅぅ〜っ」
 何もかもがうまく行かない。まるで呪われているかのように、このしがらみから逃れられない。誰も助けに来ないこの状況で、自分の力の1割も出せないまま、いつまでも独りぼっちで居なきゃいけない‥‥それでも、今の彼女に出来ることはこれしかなかった。さまざまに姿勢を変えながら狂ったように拳を打ち付け続けるライム。倒木の窪みの範囲は徐々に広がり‥‥やがてライムの上半身を中心とした半球状の窪みが出来上がっていた。ライムの手の届く範囲は全て窪みと化した‥‥それなのに。それでも、倒木は彼女の下半身から離れようとはしなかった。
「ふうぅ〜」
 万策尽きて。ライムは力無くうつ伏せに倒れ込んだ。眼下の水溜まりが彼女の顔に跳ね返る。顎の下を流れる水の勢いが、さっきより強くなった気がする。ボク、このまま溺れちゃうのかなぁ‥‥そんなことをぼんやりと考えた、その時。
「‥‥あっ!!!」
 視界の向こうに、黄色い何かが映った。とっさに腰の脇に手をやった‥‥ない。ひなおたちの巣が、無い。あるのは激しく流れる濁流の手応えだけ。そ、それじゃあ‥‥いま向こうの方で揺れている、黄色いのは‥‥段々遠ざかっていくように見える、黄色い布を巻いた小船は‥‥。
「待ってぇ!!!」
 ライムは叫んだ。もう枯れたと思っていた声がお腹のそこから飛び出してきた。ライムは全力で手を伸ばし、這いずり出そうと地面を掴んで‥‥地面に深い爪痕を刻んだ。鼻や口から泥水が入るのも構わずに、ライムは手を伸ばし、流されて行く鳥の巣に少しでも近づこうとあがいた。
「お願い、行かないでぇ!!!」
 ‥‥そして。まもなく、彼女を支えていた唯一のものが視界から姿を消した。うつ伏せのまま動きを止めたライムの中で、何かが弾けた‥‥何も出来なかった。ひなろうたちを守ってあげるって約束したのに。お母さん鳥が見捨てても、小樽が見捨てても、ボクだけは見捨てないって約束したのに。この体勢から抜けだすまでの、ちょっとだけの辛抱だと思ってたのに‥‥ひなおたちは居なくなった。ボクの手の届かないところに行っちゃった。ボクは追いかけることも出来ない。助けを呼ぶことも出来ない。雨を遮ってあげることすら、もう出来ない‥‥それというのも!
「この〜っ!」
 ライムは両手を組んで、背後の倒木に向かって振り上げた。もう腰の痛みなんかに構ってはいられなかった。リミッターの外れた、正真正銘のフルパワー。先のことなんか考えていられない。自分をこんな目に会わせた、ひなろうたちを散々苦しめた、全ての元凶である倒木に向かって、ライムは全ての力を解放した。

 その瞬間、プラズマの雷鳴がとどろき森一帯を真っ白に染めた。

                 **

 そのころ。半べそを掻きながら森の中を歩いていた花形夢二と遭遇したチェリーは、少年の口からここまでの経緯を聞いていた。
「お‥‥小樽、兄ちゃんが、言ったんだ。自分1人で、ライムを探せないんだったら、すぐに帰れって‥‥だから、だから‥‥僕、怖いけど、寒いけど、決めたんだ、1人でもライムを探すって。だから‥‥」
「‥‥えらいわ、夢ちゃん」
 少年の身長に合わせてしゃがみこみながら、チェリーは優しい声でうなずいた。こんな嵐になっても、ライムを探すのを諦めない小樽。その小樽に厳しく叱られても、なおもライムを探そうとする夢二。チェリーは胸が熱くなるのを感じていた。こんなにも2人に愛されているライムを羨ましく思い、『ライムより先に小樽様を!』と考えていた自分が急に浅ましく思えてきた。
「それで‥‥小樽様は、どちらに?」
「小樽兄ちゃんは岩場の方を探すって言ってた。だから僕、森のふもとの方をもう1回探そうと思って来たんだ。あそこは道が分かりにくくて、探し損ねたところがきっとあるはずだから‥‥」
「分かったわ。それじゃ夢ちゃん、わたくしと一緒にライムを探しましょう」
 こんな話を聞いて、『じゃわたくしは小樽様の元へ!』と言うわけには行かなかった。それにチェリーには、小樽の真意が痛いほどに分かっていた。夢ちゃんに1人で探して欲しいだなんて、小樽様が本気で思ってるわけがない。こんな子を1人で、嵐の森の中を歩かせるだなんて無茶だもの。きっと諦めて帰ってほしいと思ってらっしゃるに違いないわ‥‥でも、夢ちゃんの決意を変えさせるなんて出来そうにない。だったらせめて、わたくしが傍に‥‥。
「‥‥いいの?」
 夢二は上目遣いに顔を上げた。やっぱり1人は心細かったに違いない。チェリーはそんな夢二の頭を撫でてあげると、すっくと立ちあがった‥‥その瞬間、彼女の視界にあるものが映った。
「危ないっ!」
 とっさに夢二を抱きしめて側方にジャンプするチェリー。だが一瞬足が滑った‥‥体勢を崩したまま倒れ込むチェリーと夢二。そして次の瞬間、さっきまで彼らのいた場所に巨大な木がめりめりと音を立てて倒れ込んできた。
 ‥‥そして、しばしの静寂。
「あははは」
 静寂を破ったのは夢二の笑い声だった。チェリーはぽかんとした様子で腕の中の少年を見つめた‥‥恐怖のあまり気が触れたのかしら?
「‥‥どうしたの夢ちゃん?」
「‥‥あはは、ごめんチェリー。ありがと‥‥でも泥だらけ、チェリーの顔。あははは」
 はっとして顔に手を当てると、ねっとりと茶色い泥がくっついてきた。体勢を崩したまま横滑りしたから泥が跳ねたんだわ‥‥そう冷静に分析するチェリー。しかし笑い声の止まらない夢二を見ているうち、むらむらと腹が立ってきた。
「ちょっと、何よ! 命の恩人に向かって!」
「あはは‥‥ごめんごめん、悪かった‥‥だけど‥‥あははは」
「もー! そんなに面白いんだったら、夢ちゃんも仲間に入れてあげるわ!」
 チェリーは顔の泥を手で拭うと、その手を夢二に向けて突き出した。彼女の手から逃げるように笑いながら駆け出す夢二‥‥そうして追っかけっこを始めた2人の表情からは、先ほどの悲壮感は跡形も無く消えていた。

                 **

 あれ?
 真っ暗。
 どうしたんだろ、何にも見えないよ。
 何がどうなってるんだろう‥‥。
 ええっと、ボクは確かあの木を割ろうと思って、手を振りかぶって‥‥。
 ‥‥あれ、そこからの記憶が無い。
 あれからどうなったんだろう。
 ここ、一体どこなんだろう。
 ‥さっきも来たとこかなぁ、ここ。
 真っ暗で、何にも聞こえなくて。周りになぁんにも無くって。
 ‥‥あ、そういえば雨の音が聞こえないね、ここからだと。
 あの森から出られたのかなぁ?
 ‥‥そういえば、ひなおたちはどうなったんだろう。
 小樽は?
 夢ちゃんは?
 ブラッドベリーは?
 ‥‥そばにいないことは、確かだよね。
 ここでも、ボク、独りぼっちなのかな。
 お〜い!
 だれか、いるぅ〜?
 ‥‥いないか。
 ‥‥そうだよね。いないよね。
 こんな寂しい暗い世界に、ボク以外の誰かがいるわけ無いよね。
 当たり前だよ。
 ボク、捨てられたんだもん。
 勝手に小樽とかくれんぼを始めて。
 勝手にひなろうたちを拾って。
 それで。
 小樽に捨てられて。
 お母さん鳥にも捨てられて。
 最後に残ったひなろうたちですら、守ってあげられなくて。
 当然だよ。
 ボクが独りぼっちになるの、当然だよ。
 ‥‥もう、いい。
 疲れちゃった。
 だれも助けに来てくれなくたって、いい。
 ボクのことを見つけられるわけ、ないんだもん。
 それにここ、雨が降ってないから寒くないし。
 うるさい音も聞こえないし。
 プラズマの音でびっくりすることもないし。
 いいもん、ボクはここで暮らす。
 ここを出たって、ボクの居場所ないし。
 期待するの、やめた。
 どうせ誰も、助けになんか来てくれないもん。
 さっきだって、出口かなぁと思ったらすぐに消えちゃったし。
 今度はもうその光すら見当たらないし。
 ‥‥もういいよ。
 放っといてよ。

《ライム‥‥》

                 **

「ふーぅ、間一髪ってところだったね」
 ブラッドベリーはそう独白しながら地割れをよじ登ると、さっと飛び上がって地表に降り立った。とっさに投げた背中の白縄が役に立った。壁にぶつかって服はぼろぼろになっちまったけど、身体の方は別になんてことない。あたしはそんなに華奢じゃないさ。
「さって、と」
 立ち上がってあたりを見渡す。とっさに向こう岸の枝を狙って白縄を投げたから、ここは地割れを越えた向こう岸のはず。つまりこっち側にライムがいるはずなんだ。まだ無事かな‥‥。
「ライム〜〜! どこだぁ〜い!」
 ‥‥しばらく待つが返事が無い。
「おぉ〜〜い! ライム〜〜!」
 やっぱり返事は返ってこない。ブラッドベリーの心にかすかな北風が入り込んだ‥‥が、彼女は強引にそれを振り払った。まだ何も決まった訳じゃない。手掛かりすら無かったさっきよりはましさ。ライムに近づいてるってことは、確かなんだから。
 そういや動けないって言ってたよな。一体あいつに何があったんだろう。
「‥‥ん?」
 ふと足元に向けられた彼女の視界に、雨に乗って流れてくる黄色い船が映った。丸い皿に手ぬぐいをかぶせたような、ゆらゆらと揺れる何か‥‥人間の眼には単にそう映っただろう。だがマリオネットであるブラッドベリーには、その布の下にうごめく生命反応がはっきりと見えた。
「おやおや、どうしたんだい、おチビちゃんたち」
 ブラッドベリーの手のひらの上で、生まれたばかりの鳥のひなたちがぴぃぴぃと鳴いていた。ブラッドベリーの眼がすっと細まる‥‥だが次の瞬間、あることに気付いた彼女は愕然と反対側の手に握られたものを見つめた。草で作られた、ひなたちを乗せた船。それに被せられていたこの黄色い布は‥‥。
「お、おい、教えてくれ! この布をどこで手に入れたんだ?」
 だがひなたちは彼女の問いに答えず、怯えたように身を竦ませるばかりであった。ブラッドベリーはきっと顔を上げ、森の奥へと視線を向けた。この鳥の巣をここまで運んできた、濁流の上流へと‥‥。
「‥‥こっちか」
 頼りない手掛かりではあるが、ライムのものに間違いない。ブラッドベリーは迷わなかった。小さな生き証人たちを左手に乗せたまま、彼女はずんずんと森の奥へと足を踏み入れた。

                 **

 ‥‥誰かいるの?
 ねぇ、キミは誰?
 どこにいるの、出てきてよ!
《‥‥‥‥‥‥‥‥》
 ‥‥気のせいか。
 気のせいだよね。
 誰もボクのことなんか、気にして‥‥。
《‥‥ライム‥‥》
 えっ?
 やっぱり聞こえる!
 ねぇ誰なの、ボクのことを呼ぶのは?
 早く出てきてよ! 真っ暗でこわいよ!
《‥‥可哀相なライム‥‥》
 誰なの?
 ねぇ、どこにいるの?
 そばにいるんでしょ? 出てきてよ!
《‥‥怖がっては、だめ‥‥》
 えっ?
《だいじょうぶ‥‥あなたは、捨てられてなんかいないわ‥‥》
 うそっ!
 ボクは独りぼっちなんだよ。誰も助けになんか来てくれないんだよ。
 意地悪しないで、姿を見せてよ!
 お願いだから!
《本気で、そう思っているの‥‥?》
 本気って‥‥。
 仕方ないじゃない!
 来ないんだもん。いつまで待っても、誰も来てくれないんだもん。みんないなくなっちゃうんだもん。
 鳥さんも、ブラッドベリーも‥‥。
 小樽だって、ボクのことなんでも分かるって言ってくれたのに‥‥。
《それなら、信じてあげて‥‥》
 信じたいよ!
 ボクだって、みんなのこと、信じていたいよ!
 だけど‥‥。
 ねぇ、お願いだから出てきてよ! ボクがここにいるのを知ってるの、キミだけなんだから!
《‥‥‥‥》
 どうして!
 キミまでボクをいじめるの?
 ボクが悪い子だから? ひなおたちのことを守れなかった、悪いマリオネットだから? だから意地悪するの?
《ライム‥‥》
 どうなってるの?
 ここ、いったいどこなの?
 どうしてなんにも見えないの?
 どうしてどこへも行けないの?
 どうして出てきてくれないの?
《ライム‥‥勇気を出して。ここを出られるかどうかは、あなた次第なのよ》

                 **

「みゃっ?」
 そのころ。木の洞にうずくまっていた子ポンタくんは、ふいに背中に妙な感触を感じた。雨粒とは違う。もっと何か、硬い、尖ったもので突つかれたような感触。恐る恐る振り向くと‥‥。
「ぴぃ〜〜っ!」
 洞の入り口に止まっていたのは、小さな鳥だった。小鳥は鋭い鳴き声を上げると、再び子ポンタくんに近寄って背中をくちばしでつんつんと突つきだした。よく見れば子ポンタくんよりもずっと身体の小さな鳥‥‥自分を食べようとしてるわけでは、無い。
「みゃ〜っ」
 安眠を妨害された子ポンタくんは、迷惑そうに身体をひねった。小鳥は驚いたようにぱたぱたと羽ばたいて飛びすざったが、子ポンタくんがそれ以上動こうとしないのを見ると、再び近寄ってきてくちばしを寄せてきた。
「みゃっ?」
「‥‥ぴぃっ!」
 1こと1羽の視線がしばし絡み合う。すると小鳥は意外な行動に出た。子ポンタくんの興味を引くことに成功した小鳥は、ぱたぱたと木の洞から飛び出すと、隣の木の枝に乗り移って一声鳴いた。子ポンタくんの居る洞から直接見える、隣の木の枝に。そしてその枝から洞の入り口へと飛び移って一声鳴き、枝に戻ってまた一声鳴き‥‥何度も、何度も、小鳥は不可解な行動を繰り返した。
「みゃ〜〜っ???」
 子ポンタくんは首をかしげると、のそのそと洞の入り口へと身を寄せた。いつのまにか雷鳴はやみ、雨も小粒になり始めていた。嵐の恐怖が薄らいだことに気づいた子ポンタくんは、好奇心に引かれて木の洞から首を出した。
 そのとき。
「ぴぃ〜〜っ!」
 洞に飛び移ろうとしていた小鳥は、子ポンタくんの鼻先で急停止した。そのままそこで、数秒間の上下動を繰り返す小鳥‥‥それから小鳥は隣の枝に戻り、一声鳴くと今度はより遠くの枝へと飛び移った。そして今度は、さっきの枝と遠くの枝との間での往復を始めた。
「みゃ〜っ♪」
 誘われてる。子ポンタくんがそう理解するのに時間は掛からなかった。さいわい嵐は遠のいた。空は徐々に明るさを取り戻して行く‥‥子ポンタくんは別の洞に隠れていた仲間に声を掛けると、のそのそと木から降りて小鳥を見上げ、小鳥の飛び移る先を追いかけて歩きだし始めた。

                 **

《ライム‥‥だいじょうぶ、誰もあなたを見捨てたりなんかしないわ‥‥だから信じてあげて》
 信じてるよ!
 絶対来てくれるって、信じてたよ!
 だって、ボク小樽大好きなんだもん!
《辛いからといって眼を閉じてはだめ。怖いからといって耳をふさいではだめ》
 ふさいでないよ!
 ずっと小樽が来るのを待ってたんだよ!
 それなのに‥‥。
《可哀相なライム‥‥頑張って、小樽はすぐそばまで来ているわ》
 うそだ!
 小樽がこんなに遅いわけないもん。ボクの声が聞こえないわけ、ないんだもん。
 それに、ここ、何にも見えないもん。どこにも小樽が居ないんだもん。ボク1人しかいないんだもん!
《震えているだけでは、なにも見えはしないわ》
 ‥‥だって、だって‥‥。
《勇気を出して。小樽はあなたを見捨てたりなんかしない。どんなことがあったって、誰よりも大切に想ってる‥‥だから、あなたも小樽のことを信じてあげて。どんなに辛くなっても、小樽を信じる心を捨てたりなんかしないで。みんながあなたのことを愛してることを、忘れたりなんかしないで》
 でも、小樽こないよ? ここがどこだか小樽は知らないよ?
《だいじょうぶ‥‥ライム、あなたが眼を開ける勇気を持てば、こんな闇はすぐに晴れるわ。寒くても心細くても、小樽たちのことを信じて待っている勇気を持ちさえすれば‥‥きっとできる。だって、あなたはそのために生まれてきたんですもの》

                 **

「ライム! ここにいたのか!」
「ライム! あ、小樽まで!」
「小樽様!」
「小樽兄ちゃん! よかった、ライムここにいたよ!」
「ぴぃ〜っ?」
「みゃ〜っ♪」
 長い雨が上がり、木漏れ陽の差し込んだ森の一角で。倒れたまま動かない青い髪のマリオネットを探しに来た4人と1羽と30こが、一堂に顔を合わせた。

                 **

 本当に本当? ボク、小樽のところに帰れるの? もうちょっと辛抱すれば、小樽に会えるの?
《本当よ。さぁ眼を開けて‥‥》
 でも、真っ暗だよ? ボクさっきから眼を開けてるけど、なんにも見えないよ?
《胸に手をあてるの‥‥いったん眼をつぶって、あなたにとっての小樽、小樽にとってのあなたを思い出してごらんなさい‥‥なにも怖がることなんてないわ。そう‥‥そうよ。さぁ、ゆっくりと眼を開けてみて‥‥》

                 **

「ライム、ライム、しっかりしろ!」
 ライムはゆっくりと眼を開けた。眩しい光が‥‥雲間から覗いた初夏の太陽が、真っ先に彼女の眼に飛び込んできた。そして光を背負ったシルエットとして浮かび上がってきたのは、ライムがずっとずっと待ち続けてきた少年の泣き顔だった。
「小樽‥‥」
「ライム!」
 シルエットはすぐに視界から消えた。代わりに自分を抱きしめてくれる、温かい腕の感触がライムの身体を包み込んだ。現実感のない瞳で呆然とするライムの顔のすぐ横で、優しい少年の感情が堰を切ったようにほとばしり出た。
「ライム‥‥よかった、俺ぁもう、どうなることかと‥‥おめぇが冷たくなって倒れてるのを見たときにゃ、もう心臓が止まりそうに‥‥良かった、本当に良かった‥‥」
 間宮小樽に抱きしめられながら、ライムの視界は徐々に焦点を取り戻してきた‥‥小樽の後ろには笑顔を浮かべた2人が立っていた。ぼろぼろの服を着た長身の影と、全身を泥だらけにした淑やかな陰影。ライムや小樽と共に、いつでも一緒に居た2人の姿であった。2人は笑っていた‥‥ライムの大好きな、いつもの笑顔で。
「ライム〜!」
「みゃ〜っ♪」
 頭上から聞こえる懐かしい声。よろよろと首を上に向けると、木の枝にまたがった夢二とポンタくんたちがこちらに手を振っていた‥‥そして彼らの座っている枝の上には、草の葉で出来た茶色い皿型の巣があった。その巣へ舞い下りては飛び立ち、舞い下りては飛び立つ忙しそうな小鳥の姿も見えた。
「‥‥‥‥」
 ライムは胸がいっぱいになった。ありがとう。どうして? おはよう‥‥いろんな言葉がいっぺんに出て咽喉が詰まる。そう、ボクにはみんなが居るんだ‥‥闇の中で聞いた話は本当だったと心の底から思った。自分の大好きな人たちが両手を広げて迎えに来てくれたことを、ライムは柔らかい陽光の中で身体全体で実感した。
 そして‥‥。
「‥‥ごめんね、ごめんね、小樽‥‥」
 ライムの口から最初に出たのはその言葉だった。驚いたように抱きしめた手を緩めた小樽を、ライムは涙のいっぱい詰まった瞳で見あげた。どうしよう、小樽になんて言おう‥‥嬉しさと恥ずかしさと後悔とが頭の中でごちゃ混ぜになる。ライムの乙女回路はどくどくと鼓動を早め、瞳からどんどん涙があふれ出てくる‥‥。
「小樽‥‥ボク、ボクね‥‥」
 ぺしっ。
 ライムの涙が止まった。ライムはきょとんとした表情を向けた‥‥いきなりおでこを弾いてきた間宮小樽に向かって。
「見つけたぞ、いたずらっ子め。これで“かくれんぼ”はお終ぇだな」
「‥‥‥‥」
 許してもらえた。小樽は怒ってない。ライムにはそれだけで十分だった。感極まったライムは何も言わずに小樽の胸に飛び込み、ぎゅ〜っと愛する少年に抱きついた‥‥そのとき。
 ぴぃ。ぴぃ。
「???」
 聞き慣れた声がライムの腰のあたりから聞こえた。あれ、ひなおたちは枝の上に戻ったはずなのに‥‥そう思った次の瞬間、ライムの脳裏に雷光がひらめいた。ライムは小樽にしがみついたままの体勢で、左腕の袖の中に右手を突っ込んだ‥‥そして取り出した手のひらには、白い殻をかぶった小さな鳥のひなが乗っていた。
「‥‥生まれたんだ‥‥」
「どうした、ライム?」
 優しい声で問い掛ける小樽には答えず、ライムは小樽から身体を離すと生まれたばかりの小さな友達を顔の前まで持ち上げた。やっと生まれたんだ、ちょっと遅くなったけど‥‥濡れた身体を小刻みに震わせながら、ゆっくりと眼を開こうとしている小さなひな。ライムは優しく語り掛けた。
「がんばって‥‥なんにも怖くなんか、ないよ‥‥」
 ‥‥そして一同が注視する中、新しい生命はぱっちりと瞳を開けて、眼の前にある白い顔をじっと見つめた。そんな5羽目の友達に、ライムはにっこりと微笑みかけた。
「こんにちは。ボク、ライムだよ。そうだ、キミの名前は、ね‥‥」

Fin.

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