セイバーマリオネットJ SideStory  RSS2.0

アイデンティティ(後半)

初出 1999年04月14日
written by 双剣士 (WebSite)
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 夕日が沈み、辺りが薄闇に覆われたころ。ジャポネスの町を午後いっぱい駆けずり回っていたライムは、かさはり長屋へ戻る道をとぼとぼと歩いていた。
「チェリー、居ないよぉ‥どこに行っちゃったんだろう。ジャポネス城にも夢ちゃんの所にもポンタくんのところにも居ないし‥」
 いつになく沈んだ表情で元気なく歩くライムを、道行く人たちも心配げに見送っていた。マリオネットであるライムは疲れることはないが、度重なる無駄足に徒労感を感じることはある。しかも今日は昼ご飯抜きで走り回ったためお腹が空いている。しかしライムの表情を暗くしているのは、そのどちらの思いでもなかった。
「ボクのせいで、チェリーきっと怒っちゃったんだ‥どうしよう。チェリーがこのまま帰ってこなかったら‥」
 3人のうちの誰かが欠ける。これまで考えたことも無かったし、そんな心配をしたことも無かった。今回だって、見つけ出して謝れば許してもらえるものと思っていた‥さっきまでは。しかし心当たりを全部あたってみてもチェリーは見つからない。自分たちの知らないどこかへ、隠れたか連れ去られてしまったことになる。自分たちがあんな事を言ったばかりに!
 ライムの小さな胸は、心配と申し訳なさで一杯になった。自分とは別にチェリーを探している小樽とブラッドベリーが、きっとチェリーを見つけ出してくれているに違いない。そう祈るような思いで、ひとまず長屋に戻ることにしたのだが‥。
「お帰りなさい、ライム」
「あっ‥‥」
 しょぼくれたライムを迎えたのは意外な声だった。真ん丸に見開かれたライムの眼が徐々に光を帯び、そして歓喜の色に染まった。
「チェリー、チェリー! 良かった、良かったよぉ!」
「きゃっ‥ど、どうしたのよライム」
 突然飛びついてきたライムに押し倒されたチェリーは、ライムを抱きしめながら頭を撫でてくれた。その表情はいつもと変わらない素敵な笑顔‥少なくともライムにはそう見えた。
「びっくりしたわ、戻ってきたら小樽様もあなたたちも居ないんですもの‥ねぇ、ふたりは一緒じゃないの?」
「よかった、チェリー怒ってない‥ボク、いっぱい心配したんだよ。チェリーが戻ってこないから‥小樽も、ブラッドベリーも、みんなで探しに行って‥見つからなくって‥」
「‥ごめんなさい、またみんなに心配を掛けてしまったみたいね‥」
「ううん、ううん、いいんだよ。チェリー帰って来てくれたんだもん‥そうだ、小樽たちにも知らせなきゃ! 待ってて、すぐみんな呼んでくるからね!」
 ライムは涙をいっぱい溜めた眼でチェリーに笑いかけつつ起き上がると、再び猛スピードで長屋を飛び出していった。今度は幸せいっぱいな明るい表情で、みんなに吉報を届けに。心配の吹き飛んだ彼女の心には、さきほど胸をいっぱいにしていた申し訳なさは微塵も残っていなかった。

                 **

「ごめんなさい、小樽様、ライム、ブラッドベリー‥」
 こうして、みんなが長屋に帰ってきて。チェリーの出してくれたお茶を一気に飲み干して一息ついた3人の眼の前で、チェリーは突然平伏して謝り始めた。もちろん3人には、彼女を責めるつもりなど無い。
「お、おいおい、いいってことよ‥無事に戻ってきてさえくれりゃ‥」
 小樽の言葉はいつものように優しい。彼にとって、チェリーのした不始末とは『昼食中に突然飛び出していったこと』なのだから、戻ってきてくれれば何も言うことはないのである。だが、それで済まない立場の者も居た。
「や、やめておくれよチェリー、悪いのはあたしたちなんだ‥顔を上げてくれよ。せっかく作ってくれた料理を悪く言って、ごめんな‥ほらライム、お前も謝るんだよ」
「‥ごめんなさい‥」
 ライムはチェリーが戻ってきてくれて上機嫌であったが、ブラッドベリーに頭を押し下げられているうちに、忘れかけていた反省が急速に胸に流れ込んできた。ライムの表情はいっぺんに暗くなった。
 そしてそんなライムの変化を見て、チェリーの胸はちくりと痛んだ。まだ全然謝り足りない気もするけれど‥いつまでもこんな愁嘆場を続けていては可哀相。悪いのはわたくしなのだから、わたくしが何とかしなきゃ。
「みんな、一日中わたくしを探してくれてたんですって? ありがとうございます。お腹空いたでしょう? 晩御飯にしましょうね」
「わーい♪」
 いま沈んでいたライムが一瞬で笑顔に戻る。ブラッドベリーも、チェリーの機嫌が悪くなさそうだと察して苦笑いを浮かべた。やっといつもの光景が戻った‥そう思って小樽は眉を細めたのだが‥。
「は〜い、今日はねぇ、お寿司買ってきたのよ。たくさん食べてね」
 チェリーがおもむろに取り出したのは、握り寿司の包みであった。それも3人分‥それをみて表情を曇らせたライムの口を、あわててブラッドベリーがふさいだ。
「あれ、チェリーが作ってくれるんじゃ‥」
「ば、ばか、ライム!」
 寿司の包みを見た3人の心中は、三者三様であった。純粋にチェリーの手料理を楽しみにしていたライムは少し落胆した。ブラッドベリーとしては、いま料理でチェリーに文句を言える立場ではないと思っていたし、昼間にあんなことを言っておきながら手料理を作れとも言いづらかったので、今夜はおとなしくチェリーの言う通りにするつもりだった。そして小樽は‥。
「‥おいチェリー、こんなに高いの買って大丈夫なのか?」
 懐が寂しいがゆえに3人分しか買えなかったのか‥小樽が危惧したのはその点であった。
「あ、小樽様、そうじゃないんです‥あの‥わたくし、外で泣いたあと‥こっそり食べてきたんです。早く元気になりたくて‥ごめんなさい‥」
「え〜っ、チェリーずるいよ、ボクたち一生懸命に探してたのに‥」
「黙ってろライム‥そ、そうかい、それじゃ、しょうがないよな」
「ああ、そうだな‥チェリーが元気になってくれるのが一番だよな。それじゃ、いただくぜ」
 3人はそれぞれに自分を納得させると、握り寿司の包みの封を切った。中に入っていたのは相当に上等の寿司らしく、新鮮な色とりどりのネタがキラキラと光り輝いていた。
「おっいし〜い!」
 舌鼓を打つライム。とっくに飴の効果が消えている上、空腹感が寿司の旨みを増幅している。残る2人にとっても事情は同じだった。3人は満足げに頷き、口々にチェリーの眼の確かさを褒め称えた。
「こんなに美味い寿司、初めて食ったぜ! さすがチェリーが選んだ寿司だ、たまにはこういうのも良いかもな」
「ほんとだねぇ、神楽町の板さんのとことはえらい違いだよ‥それにこのシャリが何とも!」
「ありがと、チェリー♪」
「うふふふ‥」
 争うように寿司を口に運ぶ3人の姿を、チェリーは精一杯の作り笑顔を浮かべながら見守った。空腹でもお腹が鳴らない自分の身体が、こんな時にはとても有り難いと思った‥。

                 **

 そして、数日後。
 朝食を終え、洗濯をしに外に出ていったチェリーを見送ったあと。ちゃぶ台の脇に座った3人の間には、重苦しい空気が流れていた。
「‥ねぇ、小樽」
「‥なんだ、ライム」
「こんなこと‥いつまで続くの?」
 3人の眼の前には、チェリーが買ってきてくれた日の丸弁当の空箱が並んでいた。たった今たいらげたばかりの朝食の残骸である。見ての通り、今朝の朝食は買い置きの弁当だった。昨日の夕食も昼食も朝食も、一昨日もその前の日も‥ちゃぶ台に並んだのは店から買ってきた弁当だった。あの日以来、チェリーは家で料理を作ってくれなくなったのである。
「ボク、チェリーのお料理が大好きだったのに‥」
 ぽつりと、絞り出すような声で話すライム。その声に答えたのは、小樽ではなくブラッドベリーだった。
「仕方ないだろ、チェリーが自分から作る気になるまでは‥あいつがあんなに根に持つ性格だとは思わなかったけどね」
「でも‥」
「それに、あいつなりに気を使ってくれてるじゃないか。あたしたちが飽きないように、毎回買ってくる店を替えてさ。お前だって、美味しいって言ってただろ?」
「そんなんじゃないよ!」
 思わず声を張り上げたライムの口を咄嗟に抑えながら、ブラッドベリーは窓の方に首を向けて外の様子を伺った。
「大きな声出すんじゃないよ、ライム‥チェリーに聞こえたらどうすんだい」
「変だよ、ブラッドベリーも小樽も‥どうして、チェリーの前でお料理の話しちゃいけないの? どうして、チェリーが買ってきてくれたお弁当を『美味しい美味しい』って言わなくちゃいけないの? たしかにお弁当は美味しいけど、お食事しててもちっとも楽しくないよ‥ねぇブラッドベリー、チェリーは許してくれたんじゃなかったの、ボクたちのこと?」
 ブラッドベリーは返答に詰まり、彼女らしくもなくライムから顔を背けた。
 そう、あの日からチェリーは変わった。てきぱきと家事をこなしてはいるものの、その最中に楽しそうな笑顔を浮かべることが無くなった。話し掛ければ笑ってくれるけれども、どこかもの憂げな雰囲気に包まれているために会話が弾まなくなってしまった。そして小樽たちが帰ってくる頃には、チェリーはみんなの分の弁当をちゃぶ台に並べたまま、ぽけ〜っと座っているようになった。
「‥‥(チェリーのやつ)‥‥」
 ブラッドベリーの胸の奥では、チェリーが泣いた日の翌朝に交わした会話が何度も何度も反響していた。
《おいチェリー、今朝も弁当かい?》
《そうよ、今朝は栄養いっぱいの幕の内弁当にしておいたからね》
《あ、いやその‥昨日のこと気にしてるなら謝るよ。昨日のがまずかったのはあんたのせいじゃなくて‥だから、さ‥》
《‥ごめんなさい。怒っているわけじゃないの。でも今は、作る気になれなくて‥》
 このときのチェリーの表情を見て、彼女の心の傷がまだ癒えていないことをブラッドベリーは悟った。そしてそれが、自分が何遍あやまっても癒されるものでないことにも気が付いた。
《そ、そうかい‥怒ってないなら、いいんだ》
 時間が解決するのを待つしかない、そのうち元に戻るだろ‥そう考えたブラッドベリーは、当分はチェリーの好きなようにさせてやろうと思った。源内じいさんにもらった飴が全ての発端であることを説明しそびれてしまったが、いまさら蒸し返すのもおかしいような気がしたし‥彼女自身、その手の話をするのが怖くなってしまったのだ。だがライムの我慢できる時間は彼女ほど長くはなかった。
「ねぇ小樽、ボク、チェリーのご飯が食べたいよ。みんなで喧嘩しながら仲良くご飯を食べたいよ。こんな、チェリーに気を使ってみんなが黙りこくったままのお食事なんて、もう嫌だよ‥」
「‥そうだな。ライムの言う通りだ」
 ぽつりとつぶやいた小樽の言葉に、ブラッドベリーは驚いた。小樽なら、何も言わなくても分かってくれてると思ってたのに‥。
「お、小樽‥」
「でもな、ライム。俺は信じてやりてぇんだ。チェリーが、このくらいでへこたれる奴じゃないって」
 顔を上げた小樽のしっかりした口調に、ブラッドベリーは続く言葉を飲み込んだ。
「あいつはきっと、俺たちを見返してやりてぇんだよ。とびきり美味い料理を作って、『恐れ入りました』と言わせたいんだと思うんだ。すねた振りをしてるのは準備の時間を稼ぐためだし、料理を作らなくなったのはいざって時に俺たちをびっくりさせるためさ」
「‥そうなの?」
「きっとそうさ。だから楽しみに待ってようぜ。何も気づかない振りをしてさ‥こないだの料理を上回る、すごいのを考えてるに違いないんだから。なぁ、ブラッドベリー」
 突然話を振られてブラッドベリーは狼狽したが、小樽の眼の色を見て自分の役割に気が付いた。
「あ、ああ、そうだね‥きっと」
「よかった、じゃチェリー心配ないんだ。もうちょっと辛抱すれば、ご馳走を作ってくれるんだね。楽しみだなぁ」
「さ、じゃあ行こうかライム。チェリーの料理代を稼ぎにさ‥暗い顔してたって始まらないぜ」
「うん!」

                 **

「‥というふうに、あの2人には言っておいた」
 ライムとブラッドベリーが仕事に出た後。小樽はチェリーを部屋の中に呼び、差し向かいで今朝の顛末を説明した。チェリーは俯いたままで話を聞いていた。
「ごめんなさい、小樽様‥またご心配をお掛けしてしまって‥」
「こないだからずっと、おめぇはそればっかりだ。それが却ってみんなを不安にさせてるって気づかねぇのか?」
 小樽は優しい表情で‥そう、今のチェリーには残酷なほどに優しすぎる表情で、チェリーの顔を覗き込んだ。
「なぁチェリー、おめぇが優しいのは知ってるけど、それも場合によりけりだぜ‥俺たちは一つ屋根の下で暮らす家族じゃねぇか。誰かが我慢してて、他の3人が幸せになれるわけないだろ」
「‥‥‥」
「ライムたちのこと、まだ怒ってるのか?」
 チェリーは俯いたまま、それでもはっきりと首を横に振った。
「だったら、何が気に入らないんだ」
「‥‥‥」
「この俺にも、言えないことなのか?」
 卑怯な言い方と承知で、小樽はこの言葉を口にした。チェリーは雷に打たれたように顔を上げ‥しかし小樽と眼が合った途端に、何も言わずにまた俯いてしまった。
「‥ごめんなさい‥」
「まぁ、どうしても言いたくねぇんなら、いいけどよ‥」
「‥怖いんです‥」
 かすれるような声で告げられたその独白を、小樽ははっきりと耳にした。怖い?‥だが小樽は黙ったまま、チェリーが次の言葉を吐くのを辛抱強く待った。
 重苦しい沈黙が部屋の中を支配した。小樽はじっと待ちつづけた。チェリーは肩を震わせながら小樽の視線に耐えていた‥眼を合わせない睨み合いが、長い時間続いた。そして先に耐えられなくなったのは、セイバーマリオネットの方だった。
「‥怖いんです。あの子たちに『いらない』って言われるのが‥何度も何度も、あのときのことが頭に浮かんできて‥」
「あいつらは、そんなこと言わねぇよ」
「分かっています‥でも、気を使われて美味しくもないお料理を美味しいって言われるのも‥わたくし、恥ずかしくてたまらないんです。自分がこんなに臆病だったなんて思わなかった‥今は何をしても、何をしてもらっても、自分が嫌いになりそうで‥」
「‥チェリー‥」
「‥ごめんなさい。本当にごめんなさい。わたくし自分が情けなくて‥昨日を振り返るのも明日に踏み出すのも怖くって、震えたままの自分が恥ずかしくて‥つい、逃げてしまうんです。お料理なら明日から作ればいい、今日はこれで我慢してもらおうって‥」
 悪循環だな、と小樽は思った。自信の源を打ち砕かれ、行動を起こすのが怖くなってしまい、そんな自分が嫌いになってますます自信を失い‥時間を掛ければ掛けるほど状況は悪くなる。こんなことを一日中考えていれば、そりゃ笑顔も消えるだろう。いやむしろ、表面的に明るく振る舞おうとしていた分、自責の念は深く深く根を張ってしまっているに違いない。
 そういえば‥。
 思い当たる節があった。チェリーは時折、弁当を3人分しか買ってこないことがある。外で食べているからと彼女は言い小樽たち3人が食べるのを見ていたのだが、それはただでさえ出費のかさむ弁当生活の費用を切りつめるためにチェリーが外で軽く食べてくるせいだろうと思って、小樽は密かに心配していた‥だが、違うのだ。チェリーは正真正銘、食事が咽喉を通らない状態になってしまっているのだ。みんなの見ている前で食事を抜くことで、チェリーは自分を責め‥手料理を期待するみんなの表情を見て、また自分を苛んでいたのだ。
「おいチェリー、おめぇまさか、あの日からほとんどなんにも食ってねぇんじゃねぇだろうな」
「い、いえ‥そんなことは‥」
 マリオネットであるチェリーは食事を抜いても痩せはしないし、顔色が悪くなることも無い。だから今まで気づかなかった‥小樽は、かまを掛けてみることにした。
「うそつけ、どれだけ一緒に暮らしてると思ってんだ」
「‥‥‥」
 案の定、強く迫るとチェリーは俯いてしまった。こりゃ思ってたより重傷だ。
「よし、決めた!」
 小樽はことさら元気よく声を上げると、俯くチェリーの頬に手をそえて自分の方を向かせた。
「チェリー、今日の昼飯、さっそくこれから作ってくれ‥ライムたちにああ言ったことだし、ちょうどいい機会だ。おめぇの料理を食べるライムたちの笑顔を見れば、もやもやも吹っ飛ぶだろう」
「えっ‥あ、あの、小樽様‥でも‥いまは‥」
「ぐずぐず悩んでたって始まらねぇ。料理がおめぇの全てだとは思わねぇが、それが引っかかってるんなら何とかするしかねぇだろ。だいたいおめぇは、先を考えすぎなんだよ。美味くねぇもんを誉められるのは嫌だからって‥おめぇがまずいもん作るだなんて、誰も思ってねぇよ。いつも通りやってくれりゃいいんだ」
「ごめんなさい!」
 ところが、チェリーの反応は小樽の予想を越えた。チェリーは後ろ飛びで小樽の手から逃れると、土間に平伏したのだ。
「ごめんなさい、いくら小樽様のお言葉でも、それだけは‥それだけは、堪忍してください!」
「いい加減にしろ! 逃げ回ってたって何も解決しねぇんだぞ」
「駄目なんです、今は‥今お料理を作ったら、みんなを不快にさせてしまうだけなんです」
「チェリー?」
「こうなったら、小樽様にだけお話しします‥わたくし、わたくし、味覚のセンサが壊れてしまっているんです。今のわたくしは、昔のようなお料理は作れないんです‥この間のことで、よく分かったんです」
「な‥なに言ってんだよチェリー」
「どんな味付けにすればみなさんに喜んでいただけるか、今のわたくしには判断できないんです‥お願いです、もう少しだけ時間をください」
 もしこの場にブラッドベリーかライムが居たら、即座にチェリーの誤解を解いてくれたことだろう。だが小樽はブラッドベリーたちが嘗めた飴のことを知らなかったので、チェリーの思い込みを間違いだと断定することができなかった。彼が口にしたのは、別のことだった。
「チェリー、いいから作れよ‥作ってくれよ。ライムたちには俺から話しておくから。味に自信が無いんなら、一緒に勉強し直せばいいじゃないか。俺やあいつらだって、少しは料理ができるようになりたいしさ‥な、いいだろチェリー」
「小樽様‥」
 優しい言葉を掛けられたチェリーは、顔を上げて光る眼で小樽を見上げた。小樽はゆっくりとチェリーに歩み寄ると、手を差し伸べた‥だが、小樽の優しさはまだチェリーには届かなかった。チェリーは顔を伏せると突然に自力で立ち上がり、さらに小樽から距離を取った。
「ごめんなさい、ごめんなさい‥でもこれ以上ご迷惑は掛けられません。実はわたくし、ある料理店に弟子入りしたんです。お客様が喜んで食べてくれるお料理の味を、もう一度覚え直している最中なんです‥」
「‥なんで、そんなことを‥」
「お願い、お願いです小樽様。もう少しだけ待ってください‥もう少しで、勇気が出せるようになれると思いますから‥」
 チェリーはそう言うと、小樽の返事を待たずに長屋から駆け出していってしまった。茫然として立ち尽くす小樽‥だがそれも長くは続かなかった。チェリーと入れ替わるように、ブラッドベリーが駆け込んできたためである。
「小樽、ライムにチェリーの後を追わせたよ‥あの子があんなに思い詰めてたなんて。あいつに悪いことしちまった‥」
「‥おめぇら、聞いてたのか‥」
「ごめんな小樽、チェリーのことで言いそびれてた話があるんだ‥あたしたちがいけないんだよ。チェリーが苦しんでるのは、あたしたちのせいなんだ‥」

                 **

 その日の夕方。
 ジャポネスの外れにある中華料理屋『武州飯店』に、大きな風呂敷包みを背負った客が訪れた。直径が人間の身長ほどもありそうな丸い風呂敷包みを軽々と背負うその姿に、店員たちは度肝を抜かれた。
「ど‥どうも、いらっしゃい」
 まだ夕食には早い時刻で、店に居る客は彼らだけ。給仕役の青年は異様な雰囲気を感じ取ったが、放っておくわけにも行かないのでその客に愛想よく近づいた。そして近づくうちに気がついた‥円卓に座る3人の客のうち、風呂敷包みを抱えた2人がマリオネットであると言うことに。
「作ってもらいてぇもんがあるんだが」
 表情豊かな2体のマリオネットにしばし眼を奪われていた給仕は、3人目の客の声で我に返った。
「は、はい、ご注文ですか?」
「皇帝料理」
「‥へぇ?」
「皇帝料理とやらを、食わせてもらいてぇ」
 皇帝料理。中華料理の最高峰と言われる幻の料理である。給仕はその名を聞いたことはあったが、実物は見たことも食べたことも無かった。もちろん武州飯店のメニューにそんな料理はない。
「お客様‥このお品書きの中から、選んでいただかないと‥」
「こーてーりょーり!」
 マリオネットの片方が突然そう言ったので、給仕は飛び上がるほど驚いた。続いてもう一方も口を開いた。
「食べさせてくれるまで、ここを動かないぜ」
「こういう次第だ。材料は持ってきた。金なら出す。待つ時間はいくらでもある」
「し、しかし‥」
「いるはずだ。皇帝料理を作れるやつが、ひとりだけ、この店にな」
 給仕はすごすごと引っ込んだ。そしてしばらく経って、恰幅の良い中年男性と、その陰に隠れるようにとぼとぼと付いてくるマリオネットが、珍妙な3人の客の席へと歩いてきた。
「やっほー、チェリー♪」
 客のひとりが笑顔で手を振る。しかしそれが眼に入らぬかのように、中年男性は別の客のひとりを睨み付けた。
「あんた、間宮小樽さんだね」
「ああ」
「困るね、こういう嫌がらせは‥あんたはこのチェリーちゃんのマスターだそうだが、今のこの子はうちの店員だ。私には、この子を守ってやる責任があるんだよ」
「店長、そんな言い方‥」
 チェリーが店長の袖を引くが、店長は取り合わずに言葉を続けた。
「チェリーちゃんは作りたくないと言ってる。いや、作れないんじゃないことくらい私だって分かるさ。だがこの子は、一からやり直したいと言ってこの店に来た。教えることなど何も無いといって止める私を押し切ってね‥小樽さん、もうしばらく、黙ってこの子を見守ってはくれないだろうか。こんなふうに無理強いしたって良いこと無いと思うよ」
「‥‥‥」
 黙って視線を返す小樽。2人の男の間で、しばし視線の火花が散った。それに横槍を入れたのは、風呂敷きの中身を広げたマリオネットの元気な声だった。
「ねぇチェリー見て見て、ボク、ジャポネスじゅう走り回って、いちばん新鮮なお魚とお野菜を買ってきたんだよ。どれだけあればいいか分かんなかったから、店にあったのぜ〜んぶ買ってきたんだ。ねっねっ、早く作って食べようよ!」
「あたしも買ってきた」
 もう一方の風呂敷きには、肉の固まりと調味料の瓶とが整然と詰め込まれていた。
「下ごしらえもやっておいたよ。見よう見まねだったけど、3人で食べ比べしながらね。だからチェリー、肩を張らなくていいんだよ。料理がまずかったとしたら、それはあたしらのせいなんだから」
 2人の期待の大きさを目の当たりにした店長は、眼を白黒させながらチェリーと小樽を見比べた。
「店長、こいつに必要なのは時間でも自信でもねぇ。ほんのちょっとしたきっかけだと俺は思うんだ。あんたからも、こいつの背中を押してやってくれねぇか」
 小樽の真正面からの視線を、店長は黙って受け止めた。そして十数秒後に視線を下に向けると、深々と溜め息をついた。
「‥仕方ないな。チェリーちゃん、作ってさしあげなさい」
「‥店長!」
「お客様が材料を持ち込んで、ここに無い料理を指定してきたんだ。たとえ失敗したとしても、この店の恥にはならんよ」
「‥でも、わたくし‥まだ‥」
「それに皇帝料理といえば、私だってどんな味だか知らない料理だ。君に代わって味見をしてあげるわけにはいかないね。君の好きなように作りなさい」
 この言葉を聞いたライムの表情がぱっと輝いた。チェリーは顔を上げずに、肩を落としたまましばらく黙りこくって‥そしてついに、こくりと首を縦に振った。

                 **

 厨房で肉を広げたチェリーは、ブラッドベリーの『下ごしらえ』を目の当たりにして唖然とした。
 確かに良い味が付いている‥ほんの一部分については。だが他の個所は辛すぎたり、そもそも調味料がかかっていなかったりと散々な味。肉の表面にまだら模様が見えるほどだったのである。
 きっと漬け込みを中途半端にしたまま、自分が味見する部分だけに調味料をふりかけ、ああでもないこうでもないと試しまくったのに違いない。もう一度全体の味付けをやり直さなければ、食べられる味にするなど不可能だ。
「もう‥ばか‥」
 チェリーは器を取り出すと、肉と調味料を入れて漬け込みをやり直すことにした。その器の中に、いつしか彼女の瞳から落ちる透明な滴がぽたぽたと交じり合い始めた。
「‥本当に‥みんな‥ばかなんだから‥」

                 **

「どう、でしょうか‥」
 1時間後。チェリーはお盆を胸に抱いた格好で、むさぼるように卓上の料理を口に放り込む3人を見据えていた。しかし3人はチェリーの問いに答えること無く、争うように伝説の料理を平らげていった。
 やがて、チェリーは不安になり始めた。誰も何も言ってくれない‥やっぱり駄目だったのかしら。みんなお腹が空いてたから一生懸命に食べてるだけで、味のことは言わないようにしてるのかしら‥わたくしに気を使って。
 そして、しばらくして。俯いたチェリーの顔の前に、ぬっと白いものが差し出された。びっくりしたチェリーが顔を上げると、そこには空になった皿の山を差し出す手と、ライムの満面の笑顔があった。
「やっぱりチェリーのお料理、大好きだよ。お替わりちょうだい!」
 これに合わせたかのように、逆の方角からブラッドベリーが杯を差し出した。
「この店で最高の酒を持ってきてくれ‥いや、ジャポネスで一番の。でないとこの料理には釣り合いそうにないよ」
 チェリーは震える手で、空のお皿と杯とを受け取った。彼女の瞳は自然と愛するマスターの方へと向いた‥小樽は何も言わなかった。何も言わずに微笑すると、彼は再び顔を伏せて伝説の料理との戦いを再開した。
「良かったな、チェリーちゃん」
 立ち尽くすチェリーの背後から新しい料理皿と酒瓶を持ってきた店長は、小さな声で彼女に語りかけた。
「お客を料理の虜にする‥これほどの喜びが、料理人にあるかい。やはり私が教えることなんて何もなかったようだね」
「‥店長‥」
「うちに帰んなさい。チェリーちゃんの料理を一番楽しみにしてるのは、この人たちなんだろう」
 3人が再び猛スピードで食べ始めるのを見ながら、チェリーは何度も袖で眼を拭った。もう取り戻せないのかと思っていた暖かい食事の光景が、いま彼女の眼の前に戻ってきていた。胸に熱いものが込み上げてきて、チェリーは何も言えなくなってしまった。
「おわ〜っ、なんだこのいい匂いは? 小樽くんを追ってきてみたら、なんでちんちろチェリーがここに居るんだ? それになんだ、このご馳走の山は?」
 ちょうどそのとき。神出鬼没の花形美剣が、扉を突き破って顔を覗かせた。武州飯店の店長は眼を丸くし、頭から湯気を吹き上げた。だがチェリーは眩しいばかりの笑顔を浮かべて、花形に向かって優しく微笑みかけた。
「どう、花ちゃんも食べる?」

Fin.

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