セイバーマリオネットJ SideStory  RSS2.0

アイデンティティ(前半)

初出 1999年04月05日
written by 双剣士 (WebSite)
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 とん、とん、とんとんとん。
 かさはり長屋に、まな板を叩く軽快な音が響いていた。
「ふふふんふんふ、ふーん、ふふふんふんふ、ふーん‥‥」
 鼻歌まで聞こえてきたりして。
 雲一つなく晴れ渡ったジャポネス晴れの午前。長屋の人の大半は仕事に出ていて、小樽も行商に、ライムは宅配に、ブラッドベリーは建設現場の手伝いに出ている。今時分に長屋に残っているのは、留守番をしているチェリーと、数名の暇人だけ。
 それでも、チェリーの心は浮き立っていた。お昼になったら、3人とも長屋に帰ってくる。そしてちゃぶ台の周りに並んで座って、みんなで仲良くお昼ご飯を食べる。それが自分たち、3人のマリオネットとそのマスターである間宮小樽のいつもの生活。お腹を空かせて帰ってくるみんなのために、とびきり美味しいお料理を用意するのがチェリーの役目。
「うふふ‥‥さぁ、炒め具合はそろそろいいかしらね‥‥」
 今日のチェリーは、いつもにもまして上機嫌だった。お昼ご飯を作る腕にも力が入っている。なにしろ、中華の本場である西安の、それも最高級と呼ばれる『皇帝料理』に初挑戦するのである。そのために何日も前から献立を考え、材料を選び、配膳用のお皿を揃える。もちろんみんなには内緒にしたままで。それが頑張っている3人に対する、彼女なりの感謝の気持ち。
「う〜ん、あとお砂糖を5.72グラム‥そうそう、これならばっちり!」
 味見をして悦に浸るチェリー。完璧に近いセンサシステムを備えるチェリーにとって、食材さえ揃えば最高の味を再現するのは造作も無いこと。一級品の食材とテラツー随一の料理セイバーの手による最上級の手料理が、次々と完成して並べられていく。ほかほかに炊き上げられた芸術品たちが、3人の食いしん坊を待っている。
「うふっ、みんな、きっと驚くんでしょうね‥‥」

「うわぁ〜っ、すっごーい!」
「おいチェリー、これが昼ご飯か? あたしら午後からも仕事があるんだぜ。こんなに食べたら、眠くなっちまうじゃないか」
「あ〜ら、嫌なら食べなくてもよろしいのよ、ブラッドベリー」
「(はぐはぐ)おいし〜い! すごいねチェリー、ボクこんなに美味しいの初めて!」
「あ、こら、ライム、お行儀が悪いわよ」
「いいじゃねぇか(もぐもぐ)これを前にして、我慢しろなんて無茶だぜ」
「‥‥もう、小樽様まで‥‥」
「ま、そういうこった(ぽりぽり)おっ? こりゃ美味い、チェリー、酒だ酒!」
「もう、ブラッドベリーったら‥‥」
「(むしゃむしゃ)ありがとよチェリー、飛びっきりの昼飯を作ってくれて‥‥チェリーに任せときゃ、うちは安泰だよな、なぁライム?」
「うん!(はぐはぐ)美味しいよチェリー、ご飯のお替わりちょうだい!」
「うふふふ‥‥はい、どうぞライム」
「うわーい」
「いやぁ、こんなにうめぇ中華がうちで食べられるなんて、俺たちは幸せだよなぁ‥‥これもみんな、チェリーのお陰かぁ」
「お、小樽様ったら‥‥そんなに誉めないでください、恥ずかしい‥‥」
「お世辞じゃないぜ、本心から言ってるのさ‥‥チェリー、おめぇは俺んちの宝だ。おめぇに会えて、こうして一緒に暮らせて、本当に良かったと思ってる‥‥これからも、美味い手料理を食わせてくれよな、チェリー」
「お、小樽様‥‥もう‥‥」

「‥‥いや〜ん、小樽様ぁ‥‥わたくし、わたくし、そんなぁ‥‥でも、小樽様がお望みなら‥‥」
 包丁を放り出して自分の肩を抱き悶えまくるチェリー。今の彼女の意識は台所を飛び出し、小樽と2人っきりで向かい合う夢の中の食卓へと飛んでいた。淡い光の花びらが飛び交う中、次第次第に近づいて行く小樽とチェリーの唇‥。
「い、いけませんわ小樽様‥まだ陽も高いですし‥それに、なんだか変な匂いが‥」
「いいじゃないかチェリー、俺のことが嫌いか?」
「そんな、そんなことは‥ああっ、小樽様‥いいのよね、焦げた匂いがするくらい‥焦げた匂い?
 はっと我に返ったチェリーの前に、黒焦げになってくすぶるヒラメの姿が‥。
「きゃーっ、焦がしちゃったわ‥‥でも、これは4人分作っておいた焼き魚だから、わたくしの分を諦めればいいのよね。良かった、お鍋料理の最中でなくて‥‥」
「うんうん、火事になったら大変だからねぇ、気を付けろよ、ちんちろチェリー‥(はぐはぐ)」
 チェリーは飛び上がるほど驚いた。不意に背後から響いた声、作り終えたお料理が置いてあるちゃぶ台の方から聞こえてくる声‥聞き慣れた、そして最も恐れていたその声の主は‥。
「は、花ちゃん!」
 花ちゃんが、小樽様のために作ったわたくしのお料理をつまみ食いしてる! いずれは現れると思ってたけれど、うっかり妄想していた隙を突くなんて!
 チェリーはとっさに振り向くと、空のフライパンを掴んで花形に向け突進した。
「あっち、行ってぇ〜!」
 神出鬼没の花形美剣に対し、轟音を上げて襲い掛かるフライパンの制裁。スッパーンと甲高い音と共にそれは花形の頭を直撃し、花形は錐揉みしつつジャポネスの青空に消えて行く‥はずであった。だが‥。
「‥あらっ?‥」
 何の手応えも無いフライパンを見つめたチェリーは、視線を足元へと落とした。あの花ちゃんが、わたくしのフライパンを躱すなんて‥信じられない思いで見下ろした先には、もっと信じられない光景が広がっていた。
「う、うえぇぇ〜っ‥‥ち、ちんちろ、チェリー‥‥なんだこれ‥」
 なんと、倒れ伏した花形が食べたばかりの料理を吐き戻していたのだ!
「きったな〜い、出てってちょうだい!」
 チェリーは咄嗟に脚を振って、苦しむ花形を部屋の外へ蹴り出した。そして台所に戻って布巾を取ってくると、花形が汚した食卓の脇を丁寧に拭き取り始めた。
「‥全くもう、もうすぐみんなが帰ってくるって言うのに‥お部屋を汚さないで欲しいわ‥」
 ぶつぶつ言いながら、汚したちゃぶ台を磨き、汚物をごみ袋に入れるチェリー。だが花形が取った行動の意味について深く考えて見なかったことを、彼女は数十分後に死ぬほど後悔することになった‥。

                 **

「うえ〜っ、チェリーこれ、美味しくないよ」
「全くだ、こんなのを小樽に食わせるなんて、あんたも落ちぶれたもんだね」
「‥そ、そんな‥」
 みんなのために真心を込めて作ったお料理を前にして、最初の感想がこれ?‥‥チェリーのプライドが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていった。
 どうして?
 チェリーは慌てて、自分の分の料理を口に運んだ。うん、おかしくない‥いつもより出来が良いくらい。しっかり準備をしただけあって、みんなを唸らせるに十分な美味に仕立て上げられたはず‥。
 だが顔を上げたチェリーに、ライムたちの言葉は容赦無く襲い掛かる。
「すっごく豪華で、美味しそうに見えたのに‥チェリー、味付けが目茶苦茶だよ。なんだか砂を噛んでるみたい」
「このスープときたら、まるで泥水だな。こっちの蟹玉はゴムみたいな味だし」
「ごめんねチェリー、せっかく作ってもらったけど、ボク、もういらない」
 ‥‥こんなの、嘘だわ。嘘に決まってるわ!
 チェリーの乙女回路は錯乱していた。花ちゃんのせいで少し量は減ったものの、小樽様たちが帰ってくるのに合わせてきちんと全てのお料理を作り上げたはず。味もその都度確認して、自信を持って食卓に並べたはず。お腹を空かせて帰ってきたみんながわたくしに投げかけるのは、感謝と賞賛の言葉であるはず‥。
 こんな、こんなことって!
 信じられない思いで、再び自分で食べてみる。食べられるじゃない、美味しいじゃない! みんな、どうかしてるわ!
「ね、ねぇライム、ちょっとこっちを食べてみて‥‥」
「ほぇ? もういいよ、悪いけど」
 怯えるような眼でわたくしを見るライム‥こんな眼を向けられるような、どんな悪いことをわたくしがしたと言うの?
「お願いだから‥わたくしの分は、ちゃんとした味になってると思うんだけど‥」
「本当? じゃちょっと貸して(もぐもぐ‥ぶはっ)ひどいよ〜、チェリーの嘘つき!」
「(もぐっ‥ぺっ)おいチェリー、一緒だよ一緒‥なんなら、あたしらの分を食べてみるかい?」
 そんな、まさか‥。
「どうだい、あたしらの方の味は‥変だろ、チェリー?」
「‥これが、泥水の味?‥」
「そうだよ、言いたかないが‥おい、まさかチェリー、味が分かんないんじゃないだろな?」
 どうして? ぜんぜん変な味に思えない‥まさか、わたくし、故障しちゃったの?
「おい、冗談だろチェリー‥これが、おまえの言う、自信作なのか? この味が?」
「ねぇ、変でしょ、チェリー?」
 どうしましょう‥センサが狂って、味付けがおかしくなっちゃったんだわ‥そんなことにも気づかずに、浮かれて、いい気になって‥あんなに一生懸命に作っても、お昼に時間を合わせても、食べられない味じゃ意味が無いじゃない‥わたくしの馬鹿、馬鹿、馬鹿‥。
「そんなに変か? ライム、それこっちに寄越せよ‥俺が食べてやるから。俺は美味いと思うぜ、チェリー」
 俯いたチェリーの耳に、愛するマスターの声が聞こえてきた。
「小樽、様‥‥」
「(もぐもぐ)うん、行ける行ける‥うっ!」
「大丈夫、小樽?」
「へ、平気だ、ちっと咽喉を詰まらせちまっただけでぇ‥チェリー、水くれ‥」
「は、はいっ、小樽様!」
 むせる小樽に湯飲みに汲んだ水を渡す。それを飲みこむ小樽を見るチェリーの眼に、みるみるうちに涙が溜まってきた。つまみ食いをした花形の苦しむ姿が、走馬灯のように脳裏に蘇ってきた。
 小樽様、わたくしを傷つけないために‥無理をしていらっしゃる。美味しくないのに、無理して食べようとなさっている。悪いのはわたくしなのに‥ライムたちが『泥水』とまで言う失敗作が、繊細な小樽様のお口に合うはずがないのに。あの花ちゃんですら、苦しみながら吐き出すようなお料理なのに‥小樽様、あんなに背中に汗をかいて‥わたくしのために‥。
「(ごくっ)ぷはーっ、すっきりした。さーて、食うぞぉ‥」
「‥やめて、小樽様!」
 食事を再開しようとした小樽と、心配そうにそれを見守るライム、ブラッドベリーの姿を見て、チェリーは咄嗟にそう口走ってしまった。ぎょっとした3人の視線がチェリーに集まる。
「チェリー、おめぇ‥」
「‥もう、いいんです。わたくしがいけないんです。小樽様、ご無理をなさらないで‥わたくし‥却って、惨めですから‥」
 チェリーは立ち上がると、手で顔を覆ったまま部屋の外に走り出てしまった。
「お、おいチェリー、どこへ行くんでぇ!」

                 **

 飛び出していったチェリーを追って小樽が駆け出していった後、部屋に残された2人は肩を落としていた。
「チェリー、泣いてた‥‥ボク、言いすぎちゃったのかなぁ‥」
「あたしも、つい口が滑っちまった‥あいつ、一生懸命作ってくれたのにな。『じゃーん』とか言って見せびらかすあたり、相当自信を持ってたみたいだし‥」
 反省する2人であったが、眼の前のご馳走に手をつける気にはなれなかった。それほどにひどい味だったのだ。日頃チェリーの手料理を食べ慣れて舌が肥えてしまった彼女らではあったが、それを差し引いたとしても、また空腹による後押しがあったとしても、今日の昼食は我慢できる限度を超えていた。
「‥仕方ねぇ、口直しに酒でも飲むか‥つまみはあの糠漬けにして‥」
「‥ボクも、昨日残しておいたお饅頭を食べようっと‥」
 沈んでいてもお腹は空く。2人は昼食の代わりになるものを見つけ出して、ぱくっとかぶりついた。そして‥。
「まず〜い!」
「なんだこれ、腐っちまったのか?」
 反射的に吐き出す2人。そしてその直後、2人は昨日まで美味しく食べていたものまで味がおかしくなってしまったことに気が付いた。
「てことは‥」
「悪いのはチェリーのお料理じゃなくて、ボクたちの口のほう‥?」
 2人は同時に立ち上がると、チェリーたちの後を追うべく長屋の扉を開けた。すると向かい側の部屋の前に、人だかりができているのが眼に入った。源内じいさんの部屋の前だ。
「‥ねぇ、どーしたの?」
「あっ、ライムちゃん‥いやぁ、今朝じいさんが配ってたニューテキサス譲りの飴のことでさ、文句を言いに来たんだよ‥全く、ひどい話だ‥」
「飴だって?」
「ああそうさ、あれ確かに甘かったし元気も出たけどよ、口の中が甘ったるくなっちまって、他のもんを食っても腑抜けみたいな味になっちまうんだ。おかげで俺もみんなも昼飯が食えなくなっちまってな、うがいしても歯を磨いても収まらねぇし、このままじゃ腹が減って仕事になんねぇし‥」
 ぼやく男の話を聞いて、ライムとブラッドベリーはつい数時間前のことを思い出した。花形が『美味しい飴をもらったよ〜ん』と子供たちに配り歩いていて、釣られてその飴を口にしてしまったことを。
「ボクたちのせいだったんだ‥」
 怒り心頭に達した男とは対照的に、ライムとブラッドベリーは暗い顔で俯かざるを得なかった。2人の心には自責の念が嵐のように吹き荒れていた。知らぬこととはいえ、何の罪も無いチェリーを罵倒してしまったのだ。それも今日まで1日も休まずに作ってくれたチェリーの手料理を。チェリーはどれほど深く傷ついただろう。彼女はライムたちの舌の方が狂っていたなんて想像もすまい。初挑戦した中華料理に失敗したと思い込んでいるに違いないのだ。
「‥ボク、チェリーにひどいこと言っちゃった‥」
「‥沈んでたって始まらないぜライム。チェリーを探して、事情を話して、一緒に謝ろう。許してもらえないかもしれないけど、あいつを泣かせたままになんかしておけないよ」
「うん、行こう!」
 2人のセイバーマリオネットは、轟音を立てて長屋を飛び出し、二手に分かれて捜索を開始した。

                 **

 町外れの川縁で、ひとりで座っているマリオネットの姿があった。彼女の名はチェリー。追いかけてくる小樽を振り切ろうと駆け回った挙げ句、こんな遠くまで来てしまったのだ。
 周りには人家が少なく、音を立てるのは川のせせらぎと小鳥の鳴き声だけ。雲ひとつ無いお天気の下であるにも関わらず、チェリーの頭の中は黒雲で一杯になっており、眼からは拭いても拭いても止まらない涙が溢れ出していた。
《ごめんねチェリー、せっかく作ってもらったけど、ボク、もういらない》
 ライム。あの無邪気で素直な子が嘘を言うはずが無い。きっと筆舌に尽くし難い味だったんだわ。せっかくのお料理が食べられない味で、さぞがっかりしたことでしょう。いつもお昼ご飯を楽しみにしていたものね。
《このスープときたら、まるで泥水だな。こっちの蟹玉はゴムみたいな味だし》
 ブラッドベリー。言葉を聞いた時は腹が立ったけれど、いつもの嫌味や軽口とは違う、正直な感想だったんだわ。なんだかんだ言っても、彼女、全部のお料理に口をつけてくれて‥少しでもましなのを探そうとしてくれてたんですもの。
《へ、平気だ、ちっと咽喉を詰まらせちまっただけでぇ‥チェリー、水くれ‥》
 小樽様の優しさが痛い。あんなにひどいお料理を、嫌な顔一つせずに食べてくださった小樽様。きっと今ごろ、お腹を痛めているんだわ。小樽様の気持ちはとても嬉しかったけれど、わたくし自分が許せない‥小樽様にあんな辛い思いをさせた自分が。
《‥おい、まさかチェリー、味が分かんないんじゃないだろな?》
 ‥‥そう。みんなの感じる味が今のわたくしには分からない。だからこの失敗は、今日のお昼ご飯にとどまらない。今のわたくしがお料理をする限り、同じ失敗を何度でも繰り返すことになる。そしてそれは、小樽様やみんなに不愉快な思いをさせるだけ。
「小樽、様‥」
 わたくしにはライムのような明るさや行動力はない。ブラッドベリーのようなプロポーションや積極性も無い。力だって、走るのだって、わたくしはあの2人にはかなわない。家事ができることだけが、わたくしが小樽様の傍に居られる理由だったのに‥どうしよう。もうあの家には戻れない。わたくしが小樽様のお役に立てることは、もう何もない。
「‥どうしたらいいの‥」
 乙女回路は、失われた伝説の技術。初代の家安公がわたくしたちを作ってから300余年、この回路を治せる人はもうだれも居ない。他のマリオネットはお食事なんかしないから、味覚に関するセンサを交換したり修理したりできる人も、もうどこにも居ない。
 ‥それとも、壊れたのはセンサではなく、データの方なのかしら? そう、狂っていたとはいえ味見をすることはできるんですもの、センサは壊れていないのかも‥だとしたら、記憶を消去してProgram:Cherryを再起動すれば、元に戻れるのかしら? 狂ってしまった味覚のデータを初期化することができるのかしら?
「‥嫌っ! 小樽様のことを、忘れるなんて、できない‥」
 全てを忘れて、やり直すこと。小樽様との、ライムたちとの、ジャポネスのみんなとの思い出をすべて捨て去ること‥そんなこと、しないで済むならやりたくない。でもこのままでは小樽様にご迷惑が掛かるばかり。そう、できないのではなく、やりたくないだけ。わたくしがわがままなだけ。
 小樽様、優しいから‥わたくしが全てを忘れても、またわたくしのマスターになってくださるでしょう。これまで通りに温かく迎えてくれることでしょう。そうしてまた、みんなとの生活が続くことでしょう‥記憶を捨てた代わりに、家事能力を取り戻したわたくしと共に。
「‥そう、小樽様と離れたくないのなら、その方がいいかも‥小樽様の足手まといとして暮らすくらいなら、いっそ‥」
 どんどん暗い方へと沈んで行くチェリーの思索。彼女の意識はひたすら内側を向き、出口の無い迷路へと踏み込もうとしていた‥駆け寄ってくる少年の存在に気づかぬほどに。
「ちぇり〜〜〜ぃっ!」
 背後の土手から聞こえる声で、チェリーはようやく意識を外界へと戻した。振り向くと、はぁはぁと息を切らした彼女のマスターが、汗だくになりながら彼女を見下ろしていた。
「‥お‥小樽、様‥」
「さ、探した、ぜっ、チェリー‥‥いきなり出ていっちまうから‥はぁ、はぁ‥し、心配させやがって‥」
 ‥胸が痛い。また小樽様にご迷惑を掛けてしまった。ここまで走ってこられたと言うことは、きっとあのお料理をどこかで吐き出してから来られたんだわ。それでもわたくしを責めることなく、あんなに爽やかな笑顔で‥。
「ち、チェリー?」
 小樽に背を向けて再び川面の方を向いたチェリーを、小樽は不思議そうに見やった。
「おい、まだ怒ってるのか、ライムたちの言ったこと‥気にすんなよ、たまには失敗だって有るさ‥それに、俺はあの料理、美味いと思ったし‥」
 ‥‥嘘。
「‥小樽様‥ごめんなさい‥しばらく、ひとりにしておいてくださいませんか‥」
 お料理の失敗だけじゃない。慰めに来てくださった小樽様の言葉を、素直に受け止められない自分が悔しい。小樽様のおっしゃることの裏を勘ぐってしまう自分が許せない。
 小樽様には申し訳ないけれど、今はどんな顔を小樽様に見せたら良いのか分からない。こんな気持ちのままで、小樽様と一緒に長屋に帰るなんてできやしない。小樽様が、わたくしのことでライムたちを叱るところなんか見たくない。
「‥お願いです、小樽様‥今は‥」
「チェリー‥」
 ああっ、こんなときライムみたいに躊躇いなく小樽様の胸に飛び込めればいいのに!
「そんなこと言ったって、放っておけるわけねぇだろ‥チェリー、みんなだって心配してるぜ‥」
「‥放っておいて!‥」
 口を衝いて出た言葉に、わたくし自身もびっくりした。小樽様に向かって何てことを‥頭の隅でそう思いつつも、わたくしは立ち上がって駆け出した。追ってくる小樽様の声から逃げるように、走って走って‥そして、あるところにたどり着いた‥。

後半へ続く

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