タイトル | : 痴話喧嘩 |
記事No | : 32 |
投稿日 | : 2008/03/02(Sun) 13:19 |
投稿者 | : ウルー |
「ねえ、歩」 「ん? どうかしたのかな、ヒナさん」
夕暮れ時、喫茶どんぐりでのことだった。 客もマスターもいない店の中でバイトに勤しむ――まあ、することもないので適当に雑談しているだけなのだが――二人の少女。
「それよ」 「へ?」
ヒナギクからビッと指差され、歩は半歩仰け反った。ついでに、目の前の少女が言わんとしていることが分からず、ハテナを一つ二つ、周囲に飛ばす。
「なんだか他人行儀だわ。そろそろさん付けを卒業する時期だとは思わない?」 「ああ、そういうことですか」
二人が知り合ったばかりの頃、歩はヒナギクの家に泊めてもらったことがある。その時に、「ヒナギクと呼んでほしい」と言われたのだが。
「そんなに嫌なんですか? さん付け」 「そういうわけじゃないけど……」 「じゃあ、別にいいじゃないですか」 「むぅ……」
不満顔のヒナギクに、歩は苦笑する。要するに、なんとなく、ということなのだろう。そんなヒナギクを歩は、なんとなく、可愛いと思った。
「しょうがないですね〜。それじゃ、こういうのはどうかな?」 「うん?」 「これから私が、ヒナさんの耳元で色んな呼び方を囁いてみますから。それで、今後のヒナさんの呼び方を決定!」 「……耳元で囁くことに意味はあるのかしら?」 「まあまあ、いいじゃないですか」
ニコニコと、それでいて悪戯っぽく笑う歩に不審げな視線を送るヒナギクだったが。
「……まあ、いいわ。やってみましょう」
元々の話題の発端が自分ということもあってか、結局は了承した。
「じゃあ、早速いきますよー」
歩がヒナギクの右隣に移動する。お互い、その気になればすぐにでも相手を抱き締められるほどの距離だ。 ヒナギクは耳にかかっている髪をかき上げ、歩はその耳に口を寄せて、
「ヒナちゃん」
囁いた。
「……えっと……なぜ、ちゃん付け?」 「いや、なんとなく。ダメですか?」 「歩に言われると、なんだか子供扱いされてるような気がするわ」 「えー? そんなことないですよー」
そんなやりとりの間に、歩は、ヒナギクがちょこちょこと距離を開けていることに気付いた。
「ヒナさん?」 「……いや、その。やっぱり、耳元で囁くとか、そんな必要は無いと思うのよ。普通にやればいいんじゃない? 普通に」
ヒナギクの頬が薄っすらと赤いように見えるのは、夕陽のせいだろうか。否。例え夕陽のせいだとしても、そうではないことにしておく。
「ヒナさーん!」 「きゃっ!? ちょ、ちょっと、歩?」
歩は小動物的な素早さで一気に距離を詰めると、両腕を伸ばして、ヒナギクが逃げられないように抱き締めた。ヒナギクの、頬の赤みが増す。
「可愛いなぁ、もう。じゃあ次行きますねー、次」 「だ、だから、ちょっと待ってってば!」
じたばたと暴れるヒナギクだが、歩の抱擁から逃れることは叶わなかった。もっとも……ヒナギクが本気だったなら、それも簡単なはずなのだが。 結局、この、恋敵でもある友人とのスキンシップは、ヒナギクにとっても満更ではないのだった。
「えっと、次は……そうですねー」 「…………」 「ヒナギク」
囁かれた声は、どこか凛々しさを感じさせるものだった。というより、普段よりも男の子っぽい声、とでも言うべきか。
「どうですか? 一応、ハヤテ君の声真似なんですけど」 「あ、そうだったの。……って、な、な、なにバカなことやってるのよ!?」
言われるまで分からないほど似ていなかったが、そう言われたことで、ヒナギクはその光景を夢想してしまった。
大きめの、純白のベッド。そこに、ハヤテとヒナギクは並んで横になっていた。布団がかかっていて、はっきりとはしないが……お互い、何も着ていないのではないだろうか。ヒナギクはハヤテに抱きつき、ハヤテはヒナギクに、こう囁きかける。 ――愛してるよ、ヒナギク。
「って、何よ今のはッ!? 私、そんなハレンチなこと考えないわよ!!」 「い、いきなり、どうしたのかな?」
顔を真っ赤に染め上げて意味不明なことを叫び始めたヒナギクを、歩は心配そうに見つめる。だが、抱擁を解くことはしない。 ここで、ヒナギクが思わぬ反撃に出た。
「ふんだ、もう西沢さんのことなんて知らないんだから!」 「え……? あ、あの、ヒナさん……?」
ぷいっとそっぽを向くヒナギクに、これまで優位に立っていた歩が初めて動揺を見せた。
「あら、どうかしたの西沢さん」 「え、や、その……あ、歩って呼んでくれるんじゃなかったのかな……?」 「ふーんだ。そんなこと言っても、ときめいたりしないんだから。同じ手は通用しないわよ」 「な、何を言ってるのかな?」
二人の体勢――歩がヒナギクを抱き締めている――は変わらないままだから、傍目にはイチャついているようにしか見えないのだが、歩にとっては割と深刻な問題だった。このままは良くない気がする。なんとなく。
「ヒ、ヒナさん、機嫌直してくださいよ」 「別に機嫌悪くなんかないわよ、西沢さん」 「……じゃあ、私だって桂さんって呼んじゃいますからね!?」 「え」
何がじゃあ、なのかは歩自身よく分かってはいない。だが、涙目の歩から放たれた苦し紛れの抵抗は、それなりに効果があったようだ。
「な、なによ。西沢さんの好きにすればいいでしょ」 「……桂さんの頑固者っ!」 「う……」
今度は、歩がぷいっとそっぽを向き、ヒナギクがオロオロし始める。
「ちょ、ちょっと、西沢さん」 「なんですか、桂さん」 「…………」 「…………」
互いに譲らず、膠着が続くと思われた状況は、
「……悪かったわよ。ごめんね、歩」
実にあっさりと瓦解することになった。
「……いえ、こちらこそ。ヒナさん、ごめんなさい」
お互いに謝って、お互いに照れくさそうな笑顔を浮かべる。ヒナギクの身体を抱く歩の両腕に、ぎゅっと力が込められる。
「……こんな風に意地を張ってばかりだから、ハヤテ君にも誤解されちゃうのかなぁ」 「うーん、そうかもしれませんね。でも、ヒナさんの気持ちを知ってる身からすると、そういうの……ふふ、すごく可愛いんですけどねー」 「そ、そう?」 「そうですよ。私が男の子だったら、ヒナさんみたいな子、ソッコーで手篭めにしちゃうんじゃないかな?」 「て、手篭めって……変なこと言わないの」
薄っすらと頬を赤らめるヒナギクが最高に可愛くて、歩は両腕に込める力をさらに強くする。
「ちょ、ちょっと。痛いわ、歩」 「やっぱり、負けられませんね」 「え?」 「あの競争ですよ」
ヒナギクは、先日の観覧車での告白を思い出した。 歩がハヤテを口説き落とすのが先か、ハヤテがヒナギクに告白してくるのが先かの、競争。
「ハヤテ君にヒナさんを渡すのは癪なので、これは是非とも勝たないとなー、と」 「何よそれ。目的が変わっちゃってるじゃないの」 「ふふ」
すぐ傍にある、本気とも冗談とも取れない歩の笑顔。それを見ながらヒナギクは、なんとなく、思う。 この子には、ずっと……もしかしたら一生、かなわないかもしれないな、と。
Fin.
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