ぴたテン SideStory
聖なる願いのかなえ方
SSの広場へ
夜の帳が降り始める繁華街の夕方。街のあちこちで灯りが点りはじめ、人工の光を放つ幾千の星々が街路樹に化粧を施してゆく。道行く人たちは輝く樹々たちをまぶしそうに見上げ、年に1度の聖なる夜の始まりに向けて期待に胸を膨らませてゆく。
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス!」
デパートのスピーカーがベルの音を鳴らす。それを合図にするかのように、街のあちこちで楽しそうな掛け声が上がった。子供たちは眼を輝かせながら両親の手を引き、恋人たちは見つめ合って微笑みを交わした。華やかな商店のあちこちから楽しげな音楽が流れ始め、そこかしこでクラッカーが撃ち鳴らされた。
《……ジングルベール、ジングルベール……》
《真っ赤なお鼻の〜♪、トナカイさんは〜♪……》
そんな街の喧噪を、電波塔の頂上から1人の少女が見下ろしていた。黒髪黒瞳の少女は白い帽子とスコートを身にまとい、ひび割れた球のついた1本の杖を携えていた。聖なる夜の到来を祝う人々のざわめきを目の当たりにしながら、その少女はまるで地上を見守る月のように、普段と違う街の賑わいを眺めていた。
「みんな、とっても楽しそう……」
少女はささやくような声でつぶやいた。彼女の表情は楽しげと同時に寂しげでもあり、喜ぶと同時に自嘲しているようにも見えた。少女の声を聞きつけた傍らの黒猫は、少女にだけ聞こえる特殊な言葉で相棒の注意を促した。
「ぼんやりするな、紫亜。探し物を見つけに来たんだろう」
「……はい」
「これほど人間たちの心が無防備になる日も珍しい。いい機会かもしれんな」
黒猫は少女の腕から肩へと登った。少女は手にした杖を身体の中央に立て、透明な球に向けて念を集める準備を始めた。そんな彼女の集中を途切れさせぬよう注意しながら、黒猫は昼から感じていた疑問を少女に投げかけた。
「それにしても解せんな。この分ならあの小僧や女の子も、今頃きっと気持ちが浮き立っていることだろう。あいつらの傍にいた方が効率的だったのではないか?」
「樋口さんと紫乃ちゃんは……」
堅く目を閉じたまま、黒髪の少女は呪文を唱えるようにつぶやいた。
「今夜は、私が一緒でない方がいいんです……」
**
「メリー、クリスマスっス!」
ちょうどその頃。繁華街から駅3つ離れた樋口湖太郎のマンションでは、元気すぎる隣人がパーティーの始まりを高らかに宣言していた。部屋のテーブルにはケーキや七面鳥が所狭しと並べられ、窓辺には銀紙やお菓子で飾られた身の丈ほどのクリスマスツリーがきらびやかな輝きを放っていた。
「おにいちゃんぅ〜、くりすます、おめでとぅ〜」
「あ、ああ、良かったね紫乃ちゃん」
傍らで嬉しそうに笑う従姉妹の少女に言葉を返しながら、樋口湖太郎はかすかな居心地の悪さを感じていた。子供の頃に母親を事故で亡くし、父親は不在がち……去年までの彼にとってはクリスマスは別の世界の出来事であり、誰もいないマンションで買い置きのコロッケを食べる、いつも通りの1日に過ぎなかった。近年になって親しい友達ができてからはパーティーに呼ばれることもあったけれど、母親の居ない湖太郎の部屋が会場になることは決してない。パーティーから帰宅した湖太郎を待っているのは、いつもと変わらない閑散とした部屋と宿題の山。去年も今年も来年も、同じ光景が続くと思っていたのだが……。
「てひひー、さぁコタロー君、張り切って食べるっスよ!」
隣の部屋に越してきた変わり者の少女。彼女が頭上に立ちこめる暗雲を吹き飛ばしてくれたことを、最近の湖太郎は認めざるを得なくなっていた。悩む暇もないくらいにまとわりついてくる元気者の少女と、辛いときに傍で微笑んでくれている物静かな少女。妹のように慕ってくる5歳の女の子も加わって、1年前には想像もしなかった華やぎが現在の湖太郎のマンションにあふれていた。
「あ、あの……紫亜さん、は……?」
「うにゃ? いやー、私にもよく分かんないっスよ。夕方から用事があるって言ってたっス。しあちゃん、こんなにいっぱいお料理を作ってくれたのに、残念っスね」
「そう、なんですか……」
寂しくもあったが、いかにも紫亜さんらしいと湖太郎は思った。きっと紫乃のために気をつかってくれたに違いない。父親の病気のために湖太郎の部屋で預かることになった従姉妹の紫乃は、なぜか紫亜のことを異常に怖がっているようだから。
「ま、用事なら仕方ないっス。しあちゃんの分まで、今夜は目一杯、楽しむっスよ〜♪」
「はぅ、ケーキぅ……」
遠慮がちな紫乃の声に、湖太郎は物思いから引き戻された。早々と七面鳥に手を伸ばそうとする美紗のフォークを慌てて制止する。
「美紗さん! だめですよ、最初はロウソクから行かないと!」
「うにゃ?」
「部屋の電気を消して、ツリーの電球をともして、ケーキにロウソクを立てるんです。そうだろ、紫乃ちゃん?」
「ロウソクぅ〜、おほしさまぅ〜」
「てひひー、失礼したっス。それじゃ!」
元気な少女はしゅたっと立ち上がると、どたどたと灯りのスイッチに向けて駆け寄った。
クリスマスキャンドルが終わり、ケーキを切り分けたあとは、いよいよプレゼント交換。だがその場で繰り広げられた光景は、樋口湖太郎の想像を超えるものだった。
「さぁー、しのちゃん、プレゼントっスよ〜」
「おねぇちゃん、ありがとぅ〜。…………わあぁっ、うさぎさんぅ〜」
「てひひー、仔ウサギさんのパジャマっス。ほら見て、私のとお揃いっス〜」
美紗が紫乃に手渡したプレゼントは、ピンク色のウサギを模したぬいぐるみパジャマであった。しかもそれに続いて、自分が愛用している白ウサギパジャマを取り出してみせる念の入れよう。きゃははと嬌声をあげながらパジャマを抱いて転がる紫乃の隣で自分まで転がりまくっている様子は、まるで仲の良い姉妹としか思えない。
「みしゃおねぇちゃん、ありがとぅ〜」
「気に入ったっスか? それじゃ、さっそく着替えるっス〜♪」
着替えの恥じらいなど、5歳の女の子は持ち合わせていない。その場でぱっぱと服を脱ぎ出す紫乃から、思わず眼を逸らす小学6年生の湖太郎……だが眼を逸らした先には、おせっかいな隣人の笑顔があった。
「コタロー君♪」
「わっ! み、美紗さん……」
「コタロー君の分のプレゼントも、あるっスよ」
「えっ、でも……すみません、僕、紫乃ちゃんの分だけしか用意して……」
「これっス♪」
いつの間に着替えたのか、白ウサギ姿になった美紗がニコニコしながら広げたプレゼントを前にして、湖太郎は大粒の冷や汗を流しながら狼狽した。
「そ、それ! たしか前にもらった、黒猫のパジャマじゃないですか!」
「ういっス♪」
「ぼ、僕はいいですよ、そういうの似合わないし……」
「大丈夫っス。前のはメス猫だったけど、今度はオス猫のを買ってきたっスから」
「そう言う問題じゃ……」
「おにいちゃんぅ〜、どうかなあぅ〜?」
振り返った視線の先には、愛らしい仔ウサギがすがるような瞳を向けていた。
「うわぁーっ、しのちゃんパッチリっス、グーっス!」
「きゃははは♪」
「てひひー、ほらほら、コタロー君も一緒に遊ぶッスよ♪」
プレゼントのお返しの出来ない湖太郎に、もはや退路は存在しなかった。
「6出ろ、6……はわわ、4っス、大暴落っス〜」
「きゃはは、みしゃおねぇちゃん、へたぅ〜」
「にゃあぁ〜」
湖太郎が買ってきたクリスマスプレゼントは、低年齢用の人生双六ゲームだった。家族みんなで騒いで遊べるゲーム……母親がおらず父親も入院中という境遇の紫乃に対する、湖太郎なりの心遣いのつもりだった。紫乃と似たような子供時代を過ごした湖太郎には、あの子の寂しさがよく分かる。せめてこの家に居るときくらいは、一緒に遊んであげられるようにしよう……そんな思いのこもったプレゼントだった。
パジャマを着た3人が双六の周りに陣取る。動物の形をした双六のコマが箱から出てきたとき一同は唖然とし、次の瞬間一斉に吹き出した。なんてタイムリーな。
「はい、じゃウサギさんは破産だね。じゃ次はリスさんの番だよ」
「えっとぅ〜、3つは、ぅ……わぁ、もうすぐあがりだぅ〜」
「はぅぅ……強いっスね、しのちゃん」
学校の成績のいい美紗が、こういうゲームだと惨敗するというのも面白い。彼女の性格からして、紫乃がいるからと言ってわざと負けるようなことは考えないはずだが……対照的な表情の女の子2人を見て、湖太郎は秘かに苦笑した。
「つぎ、おにいちゃんぅ〜」
「あ、そうか。それじゃ……えっと、2……えっ、飛躍のチャンス?」
「はわわ、コタロー君チャンスっスよ。お金じゃんじゃんつぎ込んで儲けまくるっス。ほら、私のを全部あげるっスから」
「ち、ちょっと美紗さん、それ反則……」
「いいっス! 私にはもうコタロー君を応援するしか、楽しみがないっス!」
それはいつものことでしょ……普段から自分の世話ばかり焼いている美紗に心の中で突っ込みを入れながら、湖太郎は丁重に美紗の申し出を断った。反則までして紫乃を追い抜いたって意味はない。
「はうぅ、やっぱり私、コタロー君をお助けできない役立たずっス……」
「美紗さん、落ち込んでないでサイコロ振って」
「あはは、あと1かいで、しののあがりぅ〜♪」
子供の言葉は、ときとして残酷なものであった。
そんなこんなで。遊び疲れた紫乃がうつらうつらし始めたのを期に、クリスマスパーティーはお開きになった。
「それじゃ僕、後かたづけをやっておきますから」
「はわわ、それは申し訳ないっス。私もお手伝いを……」
「いいです。美紗さんはこういうの苦手だし……それより、紫乃ちゃんを寝かせてあげてくれませんか」
「それはいいっスけど……」
「(すー、すー)」
気持ちよさそうに寝息を立てる紫乃。美紗は言い返すのをやめると、そおっと紫乃の身体を抱きかかえて寝室へと連れて行った。すでにパジャマに着替えてあるので、あとは布団に寝かせて掛け布団を掛けるだけ。それくらいなら美紗さんでも出来るだろう……そう思った湖太郎は音を立てないよう注意しながら、盛大に食べ散らかしたテーブルの上を片づけ始めた。
「やれやれ……」
大きく息を吐きながらも、湖太郎の口元には笑みが浮かんでいた。自分の部屋でのクリスマスパーティー。小さい頃から心のどこかで望んでいた光景が、いま目の前にある。散らかったケーキの臭い、元気な人たちのぬくもり、楽しげな笑い声の残響が、いまも部屋の中に残っている……騒々しい隣人から離れて1人になった途端、そんな感傷が湖太郎の胸に不意に沸きあがってきた。
《なんか……こういうのって、いいよな》
汚れた紙皿をゴミ袋に放り込む手が、自然と速くなった。いつも気が重くなるゴミ捨ての日。近所のお母さんたちが談笑する中、1人でゴミ袋を置きに行く時のあの胸の痛み。湖太郎はそんな朝が嫌いだったが、来週の朝はすがすがしい気分になれそうだった。だって……僕はもう、ひとりぼっちじゃ、ないんだから。
「コタロー君……これ、お父さんのっスか?」
そんな感傷に浸りながら湖太郎が片づけをほぼ終えたとき、奥の方から自分を呼ぶ美紗の声が聞こえてきた。顔を上げた先には、奥の部屋から戻ってきたウサギ姿の美紗が、手に大きめの靴下をぶらさげながら立っていた。それを見た瞬間、湖太郎の顔からさーっと血の気が引いた。
「しのちゃんには大きすぎるし……」
訳の分からない様子の美紗から靴下をひったくり、中を覗く。なんでこんな肝心なことを忘れてたんだ、紫乃ちゃんの歳なら当然じゃないか……そんな自責の念に駆られながら覗いた靴下の中には、ちいさな短冊が入っていた。
「美紗さん、いま何時です?」
「ほへ? 8時過ぎっスけど……?」
だったらまだデパートが開いてるかも知れない。今日はイブの夜なんだし……そう計算しながら湖太郎は短冊を取り出した。そこには紫乃のささやかな願いが、5歳の女の子らしい下手くそな平仮名で記されてあった。
おかあさんに、あいたい
**
「ふうっ」
紫亜は目の前にかざした杖をおろすと、小さく息を吐き出した。白い頬には疲労の色が濃い。相棒の黒猫がすかさず聞いてきた。
「どうだった、紫亜」
「駄目、でした……手掛かりになりそうなものは、何も」
電波塔の上から何を見つけようとしていたのか、それはここにいる1人と1匹にしか分からない。人語を話す黒猫は、まるで標本を見るような視線で眼下の人込みを見下ろした。
「これだけの人間が行き交えば、何か見つかってもよさそうなものだがな」
「みんな楽しそうで、幸せに満ちていて……覗いていると、頭がくらくらしてきます」
無造作に電波塔の頂上から飛び降り、鉄骨の上に着地する紫亜。常人なら恐怖で足がすくむ離れ業をいとも簡単にこなしながらも、白い少女の心はこの世界で出会った不思議な少年の方へと向いていた。
「やっぱり……心の奥に暗い空き部屋を持った人でないと……そんな気がするんです」
**
「コタロー君! コタロー君ってば、どうしちゃったっスか?」
背後から執拗にまとわりついてくる年上の隣人が、今は疎ましくてたまらなかった。放っておいてくれ、という声が喉まで出かかっていた。さっきまで華やぎにあふれていた自分の部屋が、今となっては残酷な落差の象徴として湖太郎の前に押し寄せてきていた。
《おかあさんに、あいたい》
小さいころから何度そう口にしたことだろう。夜遅く帰ってくる父親を、何度そう言って困らせたことだろう。お父さんが無理でもサンタさんなら……そう思って願いを靴下に込めたこともあった。翌朝、枕元に置かれていたプラモデルを見るのが無性に悲しくて、朝の空に向かって恨みがましい視線を投げかけたこともあった。
「コタロー君……」
紫乃ちゃんの気持ちは痛いほどに分かる。かなえられるものなら、かなえてあげたい。売ってるデパートがあるのなら、閉店時間を過ぎてても飛んで行きたい……だけど、お母さんはいないんだ。いくらサンタさんでも無理なんだ。明日の朝、目を覚ましてあの娘も泣くんだ。そうやって僕と同じ道をたどるんだ。
ぱふっ。
背後からの声が途切れ、代わって温かい感触が首筋と背中に伝わってきた。悲しそうな少女の声が耳元から響いてくる。
「コタロー君……コタロー君が悲しいと、私も悲しいっス。困ったことがあったら助けてあげたいっス」
気持ちは嬉しいけど、この人には言えない……湖太郎は胸の奥でそう思った。話せば『自分がお母さんになる』って、この人は言うに決まってる。だけどふざけてる場合じゃないんだ。紛い物の母親なんて、かえって紫乃ちゃんが可哀想だ。
「……なんでもないですよ。片付けはやっておきますから、美紗さんはもう帰ってください」
「だけど、泣いてるっス! コタロー君が泣いてるっス、そんなの嫌っス!」
背後からしがみつかれて左右に振り回された湖太郎は、そのときになってようやく頬を伝う熱い滴に気が付いた。あわてて目元を拭い、偽りの微笑みを背後の少女に向ける。
「美紗さんが、気にかけることじゃ、ないんですよ」
「嫌っス! 私は、コタロー君を幸せにしないと……」
「いいかげんにしてください! 美紗さんに何が分かるんですか!」
思わず激昂して、美紗を振り払うように立ち上がる湖太郎。その手から小さな紙切れがハラリと舞い落ちた。湖太郎がはっとするうちに、拾い上げた美紗が素早くそれに目を通す。
「これ、しのちゃんが……」
「そうですよ! でも紫乃ちゃんのお母さんはもういないんです! いくら待ったって……こればっかりは、いくらクリスマスでも……」
堰を切ったように声を上げる湖太郎。紫乃の願い、自分の胸の痛み、そして涙……見せたくなかったものを何もかも見られてしまったことで、彼の心の鎧は脆くも崩れ落ちていた。そして予想通りの言葉を脳天気に口にする美紗に、恨みにも似た眼差しを向けた。
「ラジャーっス。それじゃ私、しのちゃんのお母さんになるよ」
「結構です!」
「だけど、しのちゃんあんなに小さいのに可哀想っス。このお願いだって……」
「甘いよ、これが現実なんだから辛抱してもらわなきゃ……我慢するしかないんだから、諦めるしかないんだから」
美紗に言い返すというより、自分を押さえつけるように独白する湖太郎。美紗は大きな瞳に涙をいっぱい溜めながら、かすれるような声でつぶやいた。
「だけど、だけど……しのちゃんもコタロー君も、可哀想っス。我慢するなんて、諦めるしかないなんて辛すぎるっス。私、コタロー君の役に立ちたいっス……」
立ち上がった美紗は、とぼとぼと紫乃の寝室に引き上げていった。そんな彼女の背中を見ているうちに、湖太郎の興奮はようやく潮を引き始めた。そしてそれとともに、おせっかいな隣人に容赦なくぶつけてしまった、自分の思いの丈が走馬燈のように頭に蘇ってきた。
《……言い過ぎちゃった。美紗さんは何も悪くないのに……》
だが後悔をすぐ行動に移すには、彼はまだあまりにも子供すぎた。湖太郎は忸怩たる思いのままその場に立ちつくし、そしてよろよろと片づけを再開した。それから20分ほども経った頃、紫乃ちゃんの様子を見るんだと自分を納得させながら、湖太郎はおそるおそる隣の部屋を覗き込んだ。
「う〜んぅ……」
そこには布団の上で寝返りを打つ従姉妹の少女がいた。閑散とした部屋の中央に眠る少女の周りには、他に誰1人としていなかった。薄く開いた窓のカーテンが揺れ、そこに白い大きな羽が落ちていることに気づいたのは、それからまもなくのことだった。
**
「しあちゃん!」
「な、なぜここが分かった、アホ天使……」
ビルの屋上まで降りてきた紫亜は、自分を呼ぶ声に気づいて慌てて振り向いた。振り向いた先には、見慣れた白ウサギのパジャマが……いや、見慣れたパジャマを着た彼女の恩人の、いまにも泣きそうな表情で駆け寄ってくる姿があった。
「美紗さん、どうして……」
「しあちゃん、探したっス、やっと見つけたっス!」
紫亜に抱きついて荒い息を吐くと、美紗はすがるような瞳で黒い髪の同居人を見上げた。
「しあちゃん、お願いっス! コタロー君が泣いてるっス、自分で自分に嘘ついて、すごく辛そうにしてるっス! 私にはどうにもしてあげられないっス、慰めてあげて欲しいっス」
「美紗さん、えっ……樋口、さんが?」
驚いて話を聞こうとする紫亜であったが、『コタロー君が、コタロー君が……』がとにかく先行する美紗の説明を理解するのには、いささか努力と時間を要した。そして15分後、ようやく事情を把握できた紫亜の口から、同情とも羨望とも取れる小さな息が漏れた。
「樋口さんが、そんなことを……」
「そうっス! コタロー君が可哀想っス、しあちゃん一緒に帰って欲しいっス」
だが白い少女は、ゆっくりと首を横に振った。
「どうしてっスか? しあちゃん、コタロー君が心配じゃないっスか?」
「いいえ、樋口さんの気持ちはよく分かります。私もずっと、独りぼっちだったから……でも私、樋口さんが羨ましい」
「うにゃ?」
「だって、こんなに一生懸命に心配してくれる人がいるんですもの」
吸い込まれそうな黒瞳で、優しく美紗の顔を見つめる紫亜。美紗の瞳から涙が消え、代わって困惑の表情が浮かんできた。
「でもでも、私じゃコタロー君の役に立てないし……」
「そんなことはありません。美紗さんまで落ち込んでたら、樋口さん、かえって心配しますよ」
あまり馴れ合うな……そんな意志を込めた黒猫の視線に気づかない振りをしながら、紫亜は丁寧に白ウサギの少女を諭した。
「本物のお母さんになれなくても、それは美紗さんのせいじゃありません。もし私が美紗さんの立場だったとしても、紫乃ちゃんたちのお母さんの代わりにはなれないでしょう。樋口さんも本当はそんなこと望んでないと思います……美紗さんは美紗さんのやり方で、精一杯の愛情を注いであげれば良いんじゃないでしょうか」
「でも、しのちゃんのお願いは……」
「大丈夫です。紫乃ちゃんのお母さんも、きっと美紗さんに感謝してくださってると思います。こんなに紫乃ちゃんのために頑張ってくれてるんですもの。今夜のパーティーで紫乃ちゃん楽しそうだったんでしょう? 美紗さんのおかげですよ」
美紗の瞳が、徐々に輝きを取り戻してきた。
「そ、そうっスか?」
「ええ。美紗さんの気持ち、きっと樋口さんや紫乃ちゃんにも伝わります。きっとそうですよ、だって今夜はクリスマスイブなんですもの」
「ういっス! 私、頑張るっス!」
すっかり機嫌を直した美紗は、紫亜から手を離すと屋上でひとしきり円を描くように踊って見せた。にこやかに見守る紫亜の方に、いつも通りの元気な笑顔で手を振ってみせる。
「それじゃすぐ、コタロー君のところに帰るっス! しあちゃんも一緒に行くっスよね?」
「いえ、私はまだ用事があるので」
「そうっスか……じゃ私、しあちゃんの分まで頑張るっス! てひひー」
元気いっぱいで走り去る美紗を、紫亜は優しく手を振りながら見送った。足元の黒猫が、怒ったように口を開く。
「どうする気だ、紫亜……あの小僧のところに戻るチャンスだったのに。今夜はもう、ここで探すものなど無いぞ」
「いいんです」
どこか晴れ晴れとした表情で、紫亜はそっと瞳を閉じた。
「樋口さんたちにとって、今夜は……きっと特別な夜なんですから」
**
「そういうわけで、やっぱり私、しのちゃんのお母さんになるよ!」
「はい、はい」
夜遅くに戻ってきた美紗は、元のハイテンションをすっかり取り戻していた。対する湖太郎は怒鳴り散らす気力をすでに失っていた。
「あの、美紗さん……さっきは、すみませんでした」
「いいっス、いいっス、全然オッケーっス」
どうやって美紗さんに謝ろうか。美紗が姿を消している間、湖太郎はあれこれと思い悩んでいた。いくら何でも言い過ぎたという後悔の念もあったし、とにかく自分たちのために何かをしようという美紗の熱意だけはひしひしと感じ取っていたから……だがそんな湖太郎の心配は、一瞬であっさりと解決した。
《せっかく世話を焼いてくれる人がいるのに、わざわざ断ることもないよな。紫乃ちゃんは美紗さんになついてるんだし、そもそも僕がサンタさん役のことを忘れてたってこともあるし》
そんな諦めにも似た結論に、激昂から冷めた今の湖太郎は辿り着いていた。今夜は美紗さんの好きにさせてやろう……そう思って紫乃の寝室から出ようとした瞬間。自分に向かって投げかけられた言葉に、湖太郎は思わず耳を疑った。
「コタロー君、お母さんってどうやるっスか?」
「……は?」
「てひひー、しのちゃんのお母さんって、私よく分からないっス。教えて欲しいっス」
そんな無茶な、と思ったが美紗の瞳は真剣そのものである。
「ね、ね、コタロー君?」
「そ、そりゃあ……お母さんと言ったら、やっぱり子供のことを優しく抱いて……」
そう口にした瞬間、背後から柔らかい何かが押しつけられてきた。思わず顔を赤らめた湖太郎の背中から、脳天気な声が聞こえてくる。
「てひひー、こうっスか?」
「み、美紗さん、離れてください!」
「しーっ、しのちゃんが起きちゃうっスよ」
湖太郎の口の前に差し出される人差し指。年頃の女の子の甘酸っぱい臭いが、湖太郎の鼻先に広がる。
「しのちゃんに聞くわけには行かないから、コタロー君、教えて欲しいっス」
「そんな、だからって……」
「で、で、次はどうするっスか?」
こうなったらこの人は梃子でも動かない。湖太郎は長い経験からそのことを察した。子供を扱う母親の仕草がどうだったか、淡い記憶をフル回転させる。
「えっと、ほっぺたを摺り合わせて……」
「(すりすり)こうっスか(すりすり)」
「頭をなでながら、ゆっくりと揺らして……」
「(なでなで、ゆらゆら)こうっスか?」
言ったことが全てリアルタイムで実演される。湖太郎の頬はリンゴのように真っ赤に染まった。されるがままになっているうちに、だんだん自分が赤ん坊になったような錯覚に見舞われる。自分を抱いているのが紫乃の母親役なのか、自分の母親なのかが曖昧になってくる。
「それで、優しく子供の名前を呼んで……」
「コタロー君……こうっスか?」
「自分の子供に“君”は付けませんよ」
「湖太郎」
どっきん!
その声を聞いた途端、湖太郎の心臓が大きく鳴った。視界が雲に包まれ、ゆらゆらと温水に浮かんでいるような気がした。湖太郎は思わず目を閉じた。
「も……もう一度……」
「湖太郎」
「そう、そうやって……さっきまでのを繰り返して……」
「(なでなで、すりすり)湖太郎、湖太郎、湖太郎……」
湖太郎は全身の力を抜いた。優しい少女の温かい声が、何度も何度も孤独な少年のマンションの部屋に木霊した。
**
翌朝。目を覚ました紫乃は、人肌のぬくもりの上にいる自分に気がついた。
「はぅ……?」
紫乃の右には白ウサギ姿の少女がいた。左には黒猫姿の少年がいた。2人とも紫乃の方に身体を向けながら、紫乃を囲むように川の字になって眠っていた。すーすーと漏らす吐息が頬に当たるのが、紫乃にはちょっとだけくすぐったいように感じた。
「おにいちゃんぅ……おねぇちゃんぅ……」
紫乃は交互に首を振って、傍で眠っている2人の顔を見比べた。中央の紫乃に腕枕をしながら、2人は幸せそうに目を閉じていた。腕枕をしない方の腕は紫乃のお腹に回され、温かい掛け布団で小さな身体を包んでくれていた。
「……(すぅー)……」
優しさに包まれながら、紫乃は再び瞳を閉じた。少年少女たちの寝室に再び静寂が戻った。柔らかい朝の光に照らされて、吊るした靴下がわずかに揺れた。その影の先にあるものは、誰が見ても疑う余地のない、どこにでもいる家族たちの光景であった。
Fin.
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