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ちいさな勇気の届け方

初出 2000年10月06日
written by 双剣士 (WebSite)
SSの広場へ

 太陽がさんさんと照りしきる昼下がり。久しぶりに顔を会わせた友達とおしゃべりをしたり小突き合いをしたりしながら、真っ黒に日焼けした腕白坊主たちが楽しそうに駆け抜ける通学路。夏休み中日の登校日、小学校から駅へと向かう緩い下り坂にて毎年のように繰り広げられる、真夏の元気と情熱をぎゅっと1個所に集めたかのような眩しい午後の光景。
 そんな中に、他の子たちよりやや遅い速度で並んで歩く1組の少年少女がいた。少年は手で持った本の紙面にじっと視線を固定したまま、一言も口を利かずに駅への道を歩いていた。少女は時折ちらちらと少年の方に視線を送りながらも、話し掛けるきっかけを掴めぬまま少しそわそわした様子で少年に歩調を合わせていた。
 下り坂が緩やかにカーブし、さあっと眼下に街並みが広がる。高層住宅やマンションが立ち並ぶ、箱庭にも似た彼らの街。彼らの歩いている坂道は、蛇行しながらその街の中央にある電車の駅へと向かって伸びている。そしてその坂道が終わったとき、ふたりの共通の時間も終わる。
 少女が不意に、坂の途中で立ち止まった。ちょうど木々が突き出して木陰の出来た坂の中央部。少年は視線を動かさないまま、それでも少しだけ歩調をゆるめた。脇を通り過ぎていた生徒たちとの距離が開き、うるさいほどに鳴り響いていた蝉の声が静まった……その刹那、少女は意を決したように顔をあげると、先行する少年の背中へと声を投げかけた。
「ね……ねぇ湖太郎ちゃん、どっか寄ってかない?」
 湖太郎と呼ばれた少年が振り返る。その視線を受けた少女……植松小星はわずかに口元を震わせながら、それでも精一杯の勇気を振り絞った。
「あ、あの、ごめんね湖太郎ちゃん忙しいのに……でも、せっかく会えたんだし、今日すごく暑いし……ね、ちょっとだけ、どこか涼しいとこに入ろうよ……」
 手を胸の前で合わせながら、大きな瞳で片思いの少年を見つめる小星。それは小星にとって、この夏の勇気をすべて込めた言葉だった。この夏が湖太郎ちゃんにとって大変なのは分かってる。邪魔しちゃいけないのも分かってる……だから辛抱してきた。湖太郎ちゃんと一緒に過ごせる最後の夏休みだと知ってても、一緒に遊びに行きたいのをじっと我慢してた。だから、だからせめて今日くらい、ちょっとの間だけでいいから……。
「……」
 小星の思いが通じたかどうか。樋口湖太郎は手にした学習参考書を静かに鞄の中にしまうと、彼女の方に振り向きながら力強くうなずいてみせた。
「うん。どこ行こうか、小星ちゃん?」
「どこでも!」
 小星ははにかみがちの笑顔で答えると、嬉しそうに湖太郎の傍へと駆け寄った。

 そして、数分後。
「いらっしゃい、樋口さん」
「……どうも」
「こ、こん、にちは……」
 涼を取るべく飛び込んだ駅前の喫茶店。湖太郎の隣人の女性がアルバイトをしている縁で、気安く通える場となった店のひとつである。黒髪黒瞳の美人が接客してくれるとの評判によって、人気急上昇中の憩いの場……しかしにこやかな笑顔を浮かべる紫亜とは対照的に、小星のこめかみはピクピクとふるえ、湖太郎の口からは大きな溜め息が漏れていた。
 それというのも……。
「てひひひ〜」
「美紗さん、湖太郎ちゃんにくっつかないでください!」
 自分たちと同じ学園の中等部に通う湖太郎の隣人、美紗。彼女もまた今日が登校日のはずである。思えば授業中だろうがなんだろうが神出鬼没に出現して湖太郎の首っ玉にしがみつくのを得意技とするはずの美紗が、登校日の教室でも下校途中でも全く姿を見せない、その方が不思議なくらいであった。夏休みでしばらく会っていなかったために小星はそのことを失念していたが……。
「コタロー君が“暑いからやめろ”っていつも言うから、涼しいとこに入るのを待ってたっスよ〜」
「こ、湖太郎ちゃんのこと付けてたんですか、美紗さん?」
「うにゃ〜、コタローくぅ〜ん」
 頬をぷにぷにと湖太郎の頭にすりつける美紗。言っても無駄だと悟っている湖太郎は不機嫌そうな表情を浮かべながら、人差し指を1本立てて紫亜の前にかざした。
「アイスコーヒー。思いっきり冷たいやつ」
「あ、私もそれにします」
 一礼してカウンターに戻る紫亜を見送りながら、湖太郎はハンカチを取り出し自分の額に当てた。するとその手に年上の女性の掌がすっと重なり、驚いたように離れた。
「うひゃ〜コタロー君、汗だくっスよ〜。しあちゃん、コタロー君の氷、私が割ってあげるっス〜」
 元気すぎる声をあげながら、美紗は紫亜の後を追ってカウンターに飛び込んだ。湖太郎は“ほっ”と息をつき、小星は周囲の客が漏らす忍び笑いに顔を赤らめた。
 一転して訪れる静寂。
 植松小星はどぎまぎしながら、片思いの少年の顔と冷水のコップとを交互に見つめていた。湖太郎に会ったらあれもこれも話そうと思っていた話題が、美紗の来襲によって全て頭から飛んでしまっていた。しかし湖太郎が自分から女の子に話し掛けてくれるタイプでないことは彼女が一番よく知っている……逡巡した末、小星はもっとも無難かつタイムリーな話題を口に載せた。
「あ、あの、湖太郎ちゃん……どう、最近の調子は……?」
「……別に」
 さすがに冷淡すぎる答えと思ったか、湖太郎はすぐに言い直した。
「僕、頭悪いし……一生懸命やってるつもりだけど、みんなとの差はどんどん開いてくばっかりで……」
「で、でも、明日からなんでしょ、塾の合宿? 湖太郎ちゃんだったらきっと大丈夫だよ」
 暗い表情で視線を外す湖太郎を前に、小星は唇を噛んだ。そう、来年は中学受験……うちの中等部は女子しか入れないから、湖太郎ちゃんやテンちゃんは別の中学校に入るために受験勉強しなきゃいけない。テンちゃんは全国トップを取ったこともあるくらいだから何処を受けても平気だろうけど、湖太郎ちゃんは……。
《可哀相な湖太郎ちゃん。小学校最後の夏休みなのに、何処にも遊びに行けなくて……》
 喉まで出かけたその言葉を、小星は奥歯を噛んでこらえた。湖太郎ちゃんだって好きでそうしてる訳じゃないんだもの。こんなことを言って、優しい湖太郎ちゃんを困らせちゃいけない。これじゃまるで私が……してるみたいじゃない。
「小星ちゃん……?」
 湖太郎の誰何の声で、小星は物思いから覚めた。ぎこちない笑顔を大急ぎで作って、瞳の照準を少年の口元に合わせる。
「頑張ってね、湖太郎ちゃん……応援してるから、私」
「……あ、ありがと……」
「それからね」
 ごそごそと鞄のなかを探って、小星は今日のために用意してきたモノを取り出した。
「これ……私こんなことしか出来ないけど、湖太郎ちゃんにあげる」
 差し出された両手のうえには、『学業成就』と書かれた小さなお守りが乗っていた。湖太郎は鼓動が高鳴るのを感じながら、表面上は平静を装って小さなお守りをつまみあげた。
「ありがと、小星ちゃん……大切にする」
「えへへへ……」
 喫茶店の冷房の風とはちがう、暖かくてさわやかな空気が2人の間を通り過ぎた……。
 だが、その直後。
「コタロー君、差し入れっス!」
 ……初々しい雰囲気は一瞬にして吹き飛んでしまった。カウンターから駆け寄ってきた美紗はテーブルの上に何かを置くと、ひんやりとした両腕を湖太郎の首に巻きつけてきた。湖太郎は無意識のうちに小星のお守りを手の中に隠すと、不機嫌そうに振り返ろうとして……背後からしがみつく美紗の指先に気がついた。
「美紗さん、その絆創膏……」
「てひひひ〜、氷を割っててちょっち失敗しちゃったっスよ〜」
 美紗が照れくさそうに頭を掻くのを合図としたかのように、トレイを持った紫亜が静々と3人の前に近づいてきた。白くて細い指先が、湖太郎と小星の前に2つのアイスコーヒーのグラスを並べてゆく。その仕草に引き寄せられるように、湖太郎と小星の視線はテーブルの上へと向いて……そして美紗が置いていった、スイカほどの大きさのある白い固まりに否応なく縫いとめられてしまった。
「これって……」
「か、かき氷なんて注文しましたっけ、僕たち?」
「それ私のおごりっス〜」
 元気な声につられたか、紫亜は片手を口元に当ててくすっと笑った。
「それ、コーヒーに入れるために美紗さんが割ってくれたんです。樋口さんに元気だして欲しいからって言って……頑張りすぎて粉々になっちゃいましたけど」
「てひひひ〜」
 粒の大きさがバラバラで、ほの赤く染まったかき氷。絆創膏だらけの美紗の指先とそれとを見比べながら、ある想像に思い至った湖太郎と小星は複雑な表情を浮かべた。
「た、食べる? 湖太郎ちゃん、これ……」
「……お、おなか壊すんじゃあ? こんなの……いや、こ、こんなに食べたら……」
「あうぅ、やっぱりそうっスか〜」
 恥ずかしそうに頭を掻く美紗。そのつぶやきを聞いて、2人はほっと胸をなで下ろした。

                 **

 その日の夜。樋口湖太郎は美紗の部屋……つまり湖太郎のマンションの隣の一室で、豪勢な夕食を振る舞ってもらっていた。
「あふふ、いやーこの揚げ物すごく美味しいっスよ、しあちゃん」
「くす♪ ありがとうございます」
 かたわらには豪快に食べまくる美紗と、優しい微笑みを絶やさない紫亜。確かに紫亜の作った料理の数々は絶品だった。甘すぎず辛すぎず、食べ応えはあれども腹に持たれず。どれをとっても、ときおり湖太郎が自分で作る料理とは格がちがう。
「コタロー君の合宿の前祝いに、しあちゃんが腕を振るってくれたっス〜」
 夕食の誘いに来た美紗がそう絶賛するだけのことはあった。綺麗に整頓された部屋の中央に置かれたちゃぶ台。そこに並べられた料理皿と、3人分の茶碗と箸。あたかも湖太郎の席があるのが当然であるかのように、しつらえられた暖かい食卓。
「…………」
 だが、湖太郎の箸はいつしか止まっていた。嫌いな料理だからというわけではない、どの料理にも1箸か2箸は付けている……しかし今の湖太郎は、茶碗と端を持った両手を食卓の上に降ろしたまま、難しい表情で卓上の料理皿をじっと見つめていた。
「ほえほえ、コタロー君どうしたっスか?」
「樋口さん?」
 心配そうに顔を覗き込む女性2人。湖太郎は顔をあげ無理に笑顔を作ろうとしたが……果たせずに俯いた。そして茶碗と箸をちゃぶ台に置くと、辛そうに声を絞り出した。
「すみません、美紗さん紫亜さん……僕、もうお腹一杯になっちゃったみたいです。明日の準備があるんで、これで失礼します」
「樋口さん……お口に合いませんでしたか?」
「そんなんじゃありません。ご馳走さま……それじゃあ」
 湖太郎は立ち上がると、そそくさと玄関へと向かった。その背中を美紗の声が追いかける。
「そ、それじゃ私も、コタロー君の準備のお手伝いをするっス〜」
「結構です! 僕1人でやりますから……すみません、それでは」
 バタン、と玄関の扉が鳴った。ほかほかと湯気が立ち上る食卓で、美紗と紫亜はきょとんと顔を見合わせた。

「あの、樋口さん? ごめんなさい、私……」
 か細い声が湖太郎の家のドアを叩く。合宿の荷物を鞄に詰め込んでいた湖太郎は腕を止め、ドアに背を向けたままで聞き耳を立てた。
「樋口さんのご都合も知らないで、私はしゃいじゃって……本当にごめんなさい。お忙しいお身体だというのに」
 さっきの夕食のことを言っているのは明らかだった。日頃から自責の念が強い紫亜のこと、湖太郎に何か不愉快な思いをさせたと考えたに違いない。ちがうんです、と思わず上がりそうになる自分の声を湖太郎は全身で抑え込んだ。
「お夕食の残り、少しだけ持ってきました……今夜もお父様、帰りが遅いと伺いましたので。ここに置いていきます……もしよろしかったら、一緒に召しあがってください」
 寂しそうで申し訳なさそうな紫亜の声を聞いて、湖太郎の背中は小刻みに震えた。でも今更どんな顔して紫亜さんに謝ればいい? 説明したら紫亜さんはもっと悲しい顔をするんじゃないか?
「樋口さん……あの、私たちのことはいいですから……樋口さんのお好きなように、なさってください」
 湖太郎は荷物のかたわらにある小さな写真スタンドに眼をやった。まだ自分が幼い頃の、両親と3人で笑っていられた頃の写真。湖太郎の胸を締め付けるばかりか親切な隣人にまで悲しい思いをさせるきっかけになった、2度と帰らない思い出の日々の結晶。
「樋口さん、私なんにも出来ないですけど……明日からの合宿、頑張ってください……それでは、お休みな……」
 バァン!
 湖太郎の手足はとうとう彼の意志に逆らった。勢いよく開いた扉の向こうでは、立ちすくむ紫亜が息を呑んで眼を大きく見開いていた。湖太郎は荒い息をつきながら、眼の前に立ちすくむ少女……今は亡き湖太郎の母親の面影に似た少女から、ばつが悪そうに眼を逸らした。
「すみません、紫亜さん……今日の僕、どうかしてたんです。紫亜さんたちは全然、悪くない……」

 しばしの時が流れて。湖太郎の家の玄関先にて、向かい合って座り込む1組の男女の姿があった。
「さっき……合宿の荷物を整理してて、これ詰めようとして……昔のこと、思い出したんです」
 湖太郎は俯きながら、家族の写真を紫亜に手渡した。紫亜は静かに正座したまま、何も言わずに湖太郎の話に耳を傾けていた。
「前にも話したと思うけど、僕、小さい頃に母親亡くして……父親はいつも帰りが遅くて。しばらくは親戚の家を転々としたんですけど、そのうち1人でいることに慣れちゃったんです」
「…………」
 紫亜の黒い瞳がかすかに揺らめいた。
「ずっとそうやって、1人でごはん作って、1人で食べて……だから紫亜さんの夕食に誘ってもらって、すごく嬉しかったんですけど……なんだか、居心地が悪くて……」
「……辛いことを思い出させてしまったんですね……」
「いいえ!」
 湖太郎は一転して声を強めると、悲しそうに瞼を伏せる紫亜を見上げた。
「ちがうんです。一緒に居るのが嫌なんじゃなくて……なんか、慣れてないもんだから……いいのかなって、僕なんかがここに居て」
「……??」
「僕、美紗さんみたいに勉強できないし……紫亜さんみたいに料理もできないし。僕なんかが、人並みの食卓ってのにありつけて、いいのかなって……紫亜さんたちはどうして、こんな僕に親切にしてくれるのかなって。そう思ったらあの料理がすごく、僕には勿体無いような気がして」
 コタロー君は幸せにならなきゃいけないっス!
 美紗ならばそう答えるに違いなかったが、眼の前に居るのは彼女ではなかった。黒髪の少女はわずかに首を横に振ると、真下を向いてつぶやいた。
「分かるような気がします……樋口さんの気持ち」
「……え?」
「私も、ずっと1人で探し物をしてたから……こっちに来て樋口さんたちに出会うまで、ずっと独りぼっちだったから。美紗さんに拾ってもらわなかったら、今ごろ、私……」
「……紫亜さん」
 思いもよらぬ紫亜の独白。嫌われるか呆れられるかされると覚悟していた湖太郎は、唾をごくりと飲み込んで自分の手をぎゅっと握りしめた。
「だから時々不安になるんです……こんなに幸せでいいのかなって。何から何まで美紗さんのお世話になりっぱなしで……すみません。樋口さんの気持ち、気づいてあげられなくて」
「いや……その……」
 沈むような声で恐縮する紫亜。その彼女を前にして、湖太郎は情けない思いで一杯になった。自分だけが不幸だと思って甘えてたのかもしれない……同じ思いを感じていながら、紫亜さんはにこやかに微笑んで夕食を作ってくれたって言うのに。それに引きかえ自分は……。
「すみません、僕……かっこ悪いですよね、こんなの……」
「ううん、無理しないでください」
 落ち込みかけた湖太郎に、紫亜の声はあくまで優しかった。
「自分に嘘ついてたら疲れてしまいます。樋口さんには樋口さんの良いところがあるのですから……ゆっくりでいいんです。美紗さんだってきっと、同じことを言ってくれると思います」
「…………」
「でも」
 ささやくような口調から一転して。紫亜は突然、湖太郎の顔を両手で包み込むとぐっと自分の顔の近くに引き寄せた。吸い込まれそうな黒い瞳の中に、息をのんで見つめ返す湖太郎の姿が何重にも映った。
「ひとりの方が気が楽だなんて、そんな風に思わないでくださいね、お願いですから」
 紫亜の吐息が頬にかかり、どぎまぎした湖太郎は人形のように首を縦に振った。
「……は、はい」
「樋口さんはひとりじゃないんですから……本当の独りぼっちって、とても寂しくて冷たくて……樋口さんにはそんなふうになって欲しくないですから。多少騒がしく感じたとしても、誰かそばにいる方が、絶対いいんですから……たとえ……」
「紫亜さん?」
「……いえ、いいんです」
 紫亜は不自然に言葉を区切ると、湖太郎から顔を離した。そして呆然とする湖太郎を尻目に、エプロンのポケットをまさぐると小さく折り畳んだ白い紙を差し出した。
「これ、お食事が終わったら渡そうと思ってたんですけど……私だと思って、持っていってください」
「……何ですか?」
「髪の毛……少しだけでも樋口さんのそばに付いててあげたいから」
「あ……」
「樋口さんはいつだって……独りぼっちなんかじゃ、ないんですから」
 頬を桜色に染めて差し出された白い紙折り。湖太郎の知らぬ古風なしきたりであったが、何か抗しがたいものを感じて湖太郎はそれに手を伸ばした。手を触れる直前、左胸が……小星にもらったお守りの辺りがちくりと痛んだような気がした。
「ありがとう、ございます……そうですよね。いつまでもうじうじしてちゃ駄目ですよね」
 紫亜の紙折りと小星のお守りから伝わってくる熱い鼓動に、眼を閉じた湖太郎はしばし身を任せた。独りぼっちじゃない……紫亜の言葉が繰り返し繰り返し脳裏に蘇ってくる。さっきまで悩んでいたことが、とてもちっぽけなことのように思えてきた。心の中に母親の姿が映って消え、続いてにぎやかな友人や隣人たちの笑顔が浮かんで消えた。2度と返らない思い出ではなく、今にも話し掛けてきそうな確かなビジョンとして、湖太郎の心に何かが根をおろした。
「……ん」
 ゆっくりと瞼を開く湖太郎。淡い光の中に懐かしい女性の顔が浮かび出た……だがもう湖太郎は焦らなかった。おぼろげだったその姿は、瞳が明るさに慣れるにつれて徐々に輪郭を確かにしていった。そして……。
「樋口さん?」
「……大丈夫です、すみません紫亜さん」
 心配そうに覗き込んでくる黒髪の女性に、湖太郎はわざと抑揚をつけた言葉を返した。自然に笑みがこぼれ出る。彼女のおかげで持ち得た余裕のなせる技であった。
「……?」
「心配かけてすみません。もう大丈夫、僕は……美紗さんにも謝らないといけませんね」
「そんな……」
 紫亜はか細くつぶやきながら首を横に振った。だがその瞳はもう、悲しげな色合いをたたえてはいなかった。湖太郎の眼の光が強くなったことを見届けると、立ち上がった紫亜は深々と一礼した。
「樋口さん、本当に私たちのことなら、気になさらなくて結構ですから……お勉強、頑張ってくださいね」
「ええ……あの……」
「それでは、お休みなさい」
 湖太郎に最後まで言わせず、紫亜は笑顔を見せると扉のノブをひねった。湖太郎の眼の前で、都会の夜の闇が静かに口を開き……そして、そこから。
「コタローくぅ〜ん!」
「み、美紗さん?!」
 穏やかな空間を突き破る猛タックルが湖太郎の身体にクリーンヒットし、湖太郎と美紗はもんどりうって部屋の真ん中に倒れ込んだ。明日に備えて荷造りした衣類や洗面具が乾いた音を立てて散乱する……そして一瞬の喧燥が収まった後に、すすり泣く美紗の声が部屋の中に響き渡った。湖太郎は意外な面持ちで自分の胸の辺りに眼をやった。
「コタロー君、コタロー君ゴメンですぅ〜、私なんにも分かってなかったっス〜、コタロー君を幸せにするって言ったのに、やっぱり私、なんにも出来ない役立たずっス〜」
「……美紗さん」
 話を聞いてたんですか、などと言う野暮な言葉を湖太郎は口にしなかった。これじゃどっちが年上だか分かりゃしない。かすかに苦笑しながら湖太郎は自分にしがみつく少女に優しい眼を向けた。玄関の扉が静かに閉じ、部屋にいるのが自分と美紗の2人きりになったことを、頭の隅のどこかで感じながら。

                 **

「……あっ!!!」
 翌朝、塾の前にて。合宿所行きのバスに乗り込むべく道の脇で待っていた樋口湖太郎は、思わず大声を上げてしまった。塾の生徒たちがいぶかしげに視線を向けるのにも構わず、身体中をパンパンとてのひらで探り、そして鞄のチャックを開いて中をごそごそと掻き回す。
「……ない」
 あの時だ、と耳の奥で叫ぶ声がした。昨日の夜、紫亜さんからもらった紙折りを握り締めたところへ美紗さんの体当たりを受けて……辺りが散らかって。美紗さんが落ち着いてから荷造りをやり直した、あの時しか考えられない。
 湖太郎は素早く立ち上がると、自分の家に向かって駆け出した。不思議そうに見送る周囲の目をくぐりぬけて、今朝きた道を逆に……だが数メートルも行かないうちに腕がぐいっとつかまれ、湖太郎は強引に元の場所へ引き戻された。
「どこ行く樋口、バスが来たぞ。早く乗れ」
「すみません、ちょっと忘れ物を……」
「だめだだめだ。ノートか、テキストか? 大事な合宿だというのに気持ちがたるんどる証拠だ。準備不足は努力で補うんだな」
「ノートやテキストよりも大事な……」
 湖太郎の反論はバスのクラクションに押し潰された。小学生の湖太郎では大人の腕力に逆らう術もない。大型バスは子供たちの身体と荷物を無理矢理に詰め込まれ、湖太郎の気持ちだけをその場に残して慌ただしく発進し始めた。

 どうして僕って、いつもこうなんだろう。
 流れる景色をバスの窓から眺めながら、樋口湖太郎は深い溜め息を吐いた。せっかく小星ちゃんと紫亜さんから勇気をもらったのに。頑張れって2人に言ってもらったのに。まだ合宿が始まってもいないうちから、こんな形でつまづくなんて。
 愚痴を言っても始まらないのは分かっていた。言い訳しても仕方ない。お守りが無くたって、僕を応援してくれてる人たちがいることに違いはないんだから……そう自分を納得させようとする。しかし胸に空いた喪失感は簡単に拭い去れるものではなかった。
『だいじに持っていて』
 そう言われたお守りを忘れてきた、その事実自体が湖太郎の胸を重くしていた。単なる紙切れではない、彼女らの想いそのものを置いてきてしまったような……合宿のあいだ、彼女らの応援抜きで戦わなければならないような。そんな気さえしてきていた。
 ……僕、だめかも。
 湖太郎は両手で顔を覆った。一度頼るものを知ってしまっただけに、それを失った心細さは昨日までの比ではなかった。周囲の生徒たちがすぅすぅと寝息を立てる中、寂しさと情けなさに押し潰されそうになった少年は低い嗚咽を漏らした。
 コタロー君、元気出すっス。
 あの元気な少女の声が浮かんできて、湖太郎は思わず耳を塞いだ。すみません美紗さん、僕はみんなを裏切ってしまいました……励ましてもらう資格なんか、無いんです。
 コタロー君、大丈夫っスか?
 もういいです、僕なんか、もう……。
「コタロー君!」
「えっ?」
 幻聴にしてははっきりとした声。湖太郎ははっと顔を上げた。まさかと思いつつバスの中を見渡してみるが、当然あの少女の姿はない。乗っているのは塾の友達と先生、到着後の猛特訓に備えて窓を閉め寝息を立てている連中ばかり。
「ういっス」
「……!!!」
 右手の方でまた声がした。恐々と首を向ける湖太郎に両手を振って答える美紗……それはある意味で見慣れた光景だった。窓の向こうから元気一杯に美紗が話しかけてくるというのは。
 でもここは湖太郎のマンションじゃない。高速道路を走っている長距離バスの中なのだ!
「み、美紗さん!」
「てひひひ〜、コタロー君やっと追いついたっス〜」
 窓の外の美紗は、いつものように窓ガラスにほっぺたを押し付けていた。湖太郎は思わず窓を開け、美紗の方に手を伸ばそうとして……だがそれよりも早く、窓の外から白い両手がすっと湖太郎の方に伸ばされた。
「コタロー君、忘れ物っスよ」
「……え」
 惚けたように口を開ける湖太郎。その湖太郎の手の中に、美紗は2つのお守りを……湖太郎の胸の穴にぴったりと嵌まる勇気のかけらを、ぐっと押しつけて握り込ませた。
「だめじゃないスか、ちゃんと持ってなきゃ……それとっスね」
 白い両手はいったん窓の外に引っ込むと、今度は小さな写真立てを湖太郎の前に差し出してきた。
「はい」
 母親の写真。夕べ紫亜と湖太郎が話したときに持ってきていたもの。湖太郎が小さい頃から見つめつづけてきた、懐かしい風景を形作る記憶の結晶。
 いろんな感情がいっぺんに頭の中を駆け巡る。湖太郎はついお礼を言うのも忘れ、機械的に写真立てを受け取った。美紗は両手で……そう、バスの外から両手だけを突っ込んだ姿勢で、湖太郎の手をぶんぶんと振り回した。
「良かったっス、間に合ったっス。これでコタロー君、試験もばっちりっスね。みんなの分まで頑張るっスよ〜」
 真ん丸の笑顔で、窓越しにエールを送る美紗。湖太郎の視界はようやく色彩を帯び、美紗が渡してくれたものの意味と言葉を現実のものとして理解できる状態になりつつあった。湖太郎はおずおずと美紗の白い手を見つめた……そのとき、その白い手がするすると短くなり始めるのを湖太郎の瞳は捉えた。走ってるバスの外から、両手をバスの中に突っ込んで……それじゃ美紗さんは、いま何に掴まってるんだ?
「えっと、それじゃ忘れ物は届けたし……コタロー君のお邪魔をするといけないから、私これで失礼するっス。それでは」
「……ま、待ってください! 危ないって!」
 思わず上げた大声で、バスの何人かが目を覚ました。怪訝な視線が向けられたが構やしない。樋口湖太郎は窓を大きく開けると、美紗の白い手を引いてバスのなかに引っ張り込んだ。美紗は背中の白い翼を畳むと、湖太郎に引かれるままバスの中に身を乗り出した。
「……ふぅっ」
「てひひひ〜」
 荒い息をつく湖太郎と、そのうえに覆い被さって照れたような笑みを浮かべる美紗。思わぬ珍入者にバスの中の少年たちはざわめきの声を上げた。そんな中、息を整えた湖太郎は言うべき言葉を告げようと口を開いた。
「美紗さん、あの、僕のために……」
「コタロー君♪」
 すべてを圧する満面の笑顔。お礼の言葉の腰を折られて絶句する少年に、地上に降りた粗忽者の天使は小首をかしげて問いかけた。

「私、コタロー君の役に立ったスか?」

Fin.

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