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乙女の逆鱗

初出 2005年12月23日
written by 双剣士 (WebSite)
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 遅くなりました、先週発売の60話にまつわる小ネタSSです。考えてみればヒナギクを書くのは(リレー小説を別にすれば)今回初めてだったりします。読者のイメージしてるヒナギク像を意図的にぶち壊してみましたが、個人的には当たらずとも遠からずと思ってたりして。

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(本編60話の某シーンより始まる)


 発した側にとっては何げない台詞でも、受けた側にはクリティカルヒットすることが世の中にはままある。それは名門学園を束ねる15歳の正義の味方と言えども例外ではない。
「へ〜んだ、ヒナのバーカバーカ、ペッタンコ〜!」
「ペッタンコじゃない! 子供みたいな拗ね方しないでとっとと帰りなさい!!」


 マラソン自由形の賞金から借金を天引きされ、怒りのままに暴言を残して去っていった世界史教師・桂雪路。嫌な役目を果たし終えた生徒会長・桂ヒナギクはひとり残った生徒会室で大きな溜め息をついたが……小さな胸に巣くった火種が脳細胞に熱を伝えてくるまで、時間はかからなかった。
《なによ、ペッタンコペッタンコって言いたい放題……ひとが気にしてることを》
 若くして生徒会長の座に登りつめたヒナギクに対しては、羨望とともに妬みの声も毎日のように浴びせられる。生徒会長の数少ない外見上の弱点……胸の薄さをからかわれたことも一度や二度ではなく、ヒナギク自身とっくに免疫が出来ていたつもりだった。しかし同じ遺伝子を持つはずの姉に言われたとあっては話は別である。
《そりゃお姉ちゃんみたいに脳みその栄養をぜぇ〜んぶ胸に溜めれば、大きくはなるでしょうよ》
 心の中で悪態をつきながら、ヒナギクは自分の胸を見下ろす。首元からスカートのホックまで一望に見渡せる、数学的意味での垂直平面のみがもたらす百万ドルの眺望。もちろんヒナギク本人にとっては、百万ドルを払ってでも引き取ってもらいたい屈辱の光景である。


 いくら目を瞬かせても現実は変わらない。ヒナギクは前向きに考えようと努めた。考えてみれば自由形を除くマラソン全種目制覇という偉業を打ち立てられたのは、胸の重さが邪魔にならなかったお陰だと言えなくもないことだし。
《軽くて動きやすいのは別に悪いことじゃないわよね……ふ、ふ〜んだ、いいんだもん、何も困りゃしないわよ。見せたい相手がいるわけじゃなし……》
 相手がいないことを免罪符にし、思わずそう考えてしまった自分が急に虚しくなって、がっくりと机に頭を打ち付けるヒナギク。しかし次の瞬間、知り合って間もない転入生の笑顔が脳裏に浮かんできたのには彼女自身がびっくりした。
《な、なんでこんな場面でハヤテ君の顔が浮かんでくるのよ!》
 誰もいない生徒会室で、顔色を真っ赤にしながら激しく首を振る少女。もし盗み見する者がいたら特ダネ大賞まちがいなし、それほど珍しい生徒会長のうろたえ振りだった。ヒナギクの中の天使と悪魔は数分にわたって激論を繰り広げたが……最終的には『とりあえず思い当たる、男の子の代表の1人』という文言で妥協が成立した。


《やっぱりハヤテ君も胸の大きな子がいいのかな、男の子だし》
 別に彼にお熱な訳じゃない、男性心理のサンプルの1人なだけ……沸騰寸前まで茹で上がったヒナギクの脳細胞は何度もそう自分に言い聞かせていた。そのくせ薫先生や東宮といった連中の名は微塵も思い浮かべない所が彼女らしさではある。
《でもナギだってペッタンコなのよね、紛れも無く。まぁあの子は年下だから仕方ないんだけど》
 ハヤテが主人として仕えている同級生の少女のことを思い浮かべて、ちょっとだけ安堵するヒナギク。なんでそんな気持ちになったのかは彼女自身にも分からない。
《ナギとハヤテ君って、やっぱり……なのかな。まぁナギのほうはバレバレだけど、ハヤテ君の方は……でもあの2人すごく仲いいのよね。こないだのマラソンだって……》
 ナギを両手に抱いたまま森の中を颯爽と駆け抜けて行く少年の姿、旧校舎で自分を助けに来てくれた少年の姿。彼女の胸に強烈な印象を残したハヤテの勇姿に、しばしうっとりとする生徒会長。そしてまもなく我に返った彼女は、そういえば胸の話だったっけと思い返し……その瞬間、脳みその一部で火の手が上がった。
《ちょっと、いくらなんでも扱いに差があり過ぎない? なんであの子はお姫様だっこなのに、私は吊り橋の上でいじめられなきゃならないのよ!》
 ヒナギクはハヤテの主人じゃないから。そんな当たり前の理由が、今のヒナギクには首肯できない。
《胸の薄さは似たようなものなのに!》
 ハヤテにとっての主従関係と胸の薄さには何の関係もないはずなのに、燃えさかる怒りが触媒となってありえないはずの化学反応を起こす。なんだかんだ言ってもヒナギクだってお年頃の少女、ぐちゃぐちゃな論理を激情だけで振り回し始めてしまえば自分でも制御などできないのだ。


《そういえば初対面のときも、木から飛び降りるのを受け止めてくれなかったし! ナギの代わりに東宮君の相手をしてあげてもお礼のひとつも言ってくれないし! 旧校舎でも私のことなんとも思ってないなんて冷たくあしらうし! なんなのよ、あれこれ世話を焼いてあげてるってのに、何様のつもりなわけ?》
 あまりにも理不尽な、しかし当人にとっては正当で納得ずくめの感情が若き生徒会長の全身を包み込む。理知的に見られることの多い釣り目がちの目尻は、いつしか人間と妖怪の境界ぎりぎりにまで釣りあがっていた。全校生徒の憧れになっていた清々しいオーラは、いまや紫色めいた禍々しさに満ち溢れていた。側に誰かがいたら近づいただけで気死してしまいかねない、フォースの暗黒面に落ちてしまった正義の味方がそこにいた。
 ちーん。
 ちょうどそのタイミングを見計らったようにエレベータからチャイムが鳴る。ヒナギクは冷や水でもかぶったかのように我に返った。燃え盛る激情を理性のヨロイで押さえ込み、にこやかな生徒会長の仮面を大急ぎでかぶる。そうして正義の味方の体裁を整えた彼女は優雅に椅子を回して、エレベータから降りてくる来客を迎える体勢を作った。
 だが来客の姿を一目見た瞬間……ヨロイの下に隠したはずの感情は再び少女の全身に燃え広がってヨロイを真っ白な灰に変えた。そして自制心という名の鎖を引きちぎり、頭の中にいる天使に10センチの爆弾を浴びせてリング外に弾き飛ばしたのだった。


「あの、ヒナギクさんに相談が……」
「相談?!」
 照れくさそうに用件を切り出す綾崎ハヤテを目の前にして、それでも表面上は冷静に相槌を打つ桂ヒナギク。もちろん心の中は以前にも増して荒れ狂っていたのだが。
《ハヤテ君のことだもの、相談ってどーせナギ絡みよね? それでぬけぬけと私に相談ですって? 私も都合よく見られたものよね》
 不幸や不機嫌が臨界点を超えると、人間は泣きも怒りもせずに乾いた笑いを浮かべるようになる。今のヒナギクがまさにそれだった。
「それは面白そうね」
 生徒会長としての使命など宇宙の彼方に飛んでいた。目の前の少年と親しげに会話し、馴れ馴れしく下の名前で呼び合っていたことなど遠い過去の話だった。暴発寸前のヒナギクはコメカミをピクピクとひくつかせながら、それでも表向きは普段どおりの穏やかな口調で、少年に向かって白い手袋を叩きつけた。
「それじゃ、ゆっくり聞かせてもらおうかしら……綾崎君」


(本編60話の某シーンに続く)


Fin.

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