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Noirノワール

初出 2009年08月23日
written by 双剣士 (WebSite)
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 この物語は、原作233話「Dearest」(単行本22巻)のネタバレを含みます。
 また語り手のマキナについては執筆時点(2009/08/23)での情報が少なく想像で補っている部分が多いため、今後の原作展開によっては矛盾が生じる可能性があります。ご注意ください。

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 あれはとっくに想定していた事態のはずだった。
 あいつと顔を合わせることも、あいつとオレたちが戦うことも。
 誤算があるとすれば、そいつが今夜……月を見に庭に出ていたアテネの目の前にひょっこり現れたという、その一点だけだった。


 あいつと別れた後、早足で自室に戻ろうとするアテネの背中にオレはあわてて声をかけた。
「なぁ、さっきの奴こいつだろ? 王玉を持ってるっていう執事……なんで素直に帰しちゃったんだよ。あのまま奪っちまえば……」
「少し黙りなさいマキナ。その話はもういいから……」
 自信に満ちあふれた普段の面影は微塵もない、別人のように小さく見えるアテネの背中。絶句して立ち止まるオレと一度も目を合わそうとしないまま、アテネはさっさと寝室に入って扉を閉めてしまった。そしてバタンという扉の音を合図に騒々しかった夜は終わりを告げ、いつも通りの静かな夜がオレたちの周囲に戻ってきた。
《???》
 オレは寝室の壁に背を当てながら宙を仰いだ。今夜のアテネはどこかおかしい。日頃から“この星でもっとも偉大な女神”を自称してる自信家のくせに、不意の遭遇に慌てるでもなく、不測の事態を逆に利用するでもなく、平凡な最小限のやりとりだけであいつを庭から追い払ってしまった。まるでシナリオを棒読みすることしか出来ない三流の舞台女優みたいに。


『どこの誰かは存じませんが……早く立ち去りなさい』
 さっきアテネが言ってた言葉とは裏腹に、オレたちはあいつのことをよく知っている。
 綾崎ハヤテ。三千院帝の遺産の行方を握る男。孫娘のナギが偶然拾って執事にしたという話だけど、そんな話を真に受けるやつは誰もいやしない。三千院帝は強欲じじいだがバカじゃない。自分の遺産の行方を委ねる男としてあいつを指定した以上、あいつがそう簡単には倒されないって自信があるに違いないんだ。
 事実、あいつの武勇伝は白皇学院経由でいくつも聞かされている。このギリシャに来てからも、裏の世界ではそれなりに名の通っている2人の刺客をいとも簡単に返り討ちにしている。まともに戦ってオレたちが負けるとは思わないが、決して舐めては掛かれない相手だ。あいつはあの石の本当の意味など知らないだろうが、主人のためにあれを手放しちゃいけないって覚悟だけはしっかり持ってるらしいからな。
 そんなあいつが徒手空拳でアテネの屋敷に現れた。警戒心も闘争心も空っぽのまま、夢遊病者みたいに迷い込んできた。しかも例の石を首に下げたままで……願ってもない絶好のチャンスだった。倒せるときに倒す。掴めるチャンスは確実にモノにする。普段のアテネだったら、何の躊躇もしないはずだったんだ。
 ……そう、あれが普段通りのアテネだったらな。


 思えばアテネの方も、今夜はどこか変だった。
『花畑に迷いこむクセでもあるのかしら?』
 あいつを見つけたときのアテネの第一声。不審者に対する屋敷の主人としては「あなたは何者ですか」と相手の素性を探るか、あるいは相手の素性など興味はないとばかりに「ここから出て行きなさい」と追い払うのが普通だ。相手がどんなクセを持っていようがアテネの知ったことではないはず……というか、初対面ならクセとかいう単語が出るわけないよな。
『ですから、どこの誰かは知らないと……そう言っているのが聞こえなかったのですか?』
 知らない誰かから話しかけられたら「誰かとお間違えでは?」と相手の思いこみを正す方向に話を進めるのが普通だろう。あいつの事情じゃなくアテネ側の気持ちを拒絶の言葉に選ぶってことは、あいつが自分に向かって話しかけようとする気持ち自体は理解できるってことだ。少なくとも初対面の不審者に向かって返す言葉じゃない。
『少し黙りなさいマキナ。その話はもういいから……』
 あいつと別れてから逃げるように寝室に閉じこもったアテネ。石を奪う絶好のチャンスを棒に振って後悔してる……なんて理由じゃないよな。三千院家の遺産を狙う者と守る者、オレはそういう目であいつのことを見ていたけど、アテネとあいつの間には明らかにそれ以外の何かがある。あのアテネが今夜みたいな奇妙な行動を取るからには、オレの知らない裏の事情があると考えざるを得ない。まぁアテネがあの様子じゃ、あいつと何があったのかをオレに説明してくれる気はなさそうだけど。


 ……ん、いや待てよ?
 今夜のことは千載一遇のチャンスだと思ってたけど、アテネとあいつが以前からの知り合いなら……今夜みたいな偶然に頼らなくても、いくらでも石を奪う機会は作れるんじゃないか? あいつはすぐ近くに来てるわけだし、さっきの感じなら呼べばすぐにでも飛んできそうな気配だったし。
 だったら……。


 しばらく時間が経ったのを見計らって。オレは寝室の外から、部屋の中にいるアテネに話しかけた。話をするのは翌朝でも良かったんだけど、アテネはまだ眠ってないって確信があった。壁越しで姿が見えなくてもそれくらいは分かる。
「なぁ、アテネ……ちょっと提案があるんだけどさ」
「マ、マキナ?!……ま、まだそこにいたんですの?」
 慌てたようなアテネの声と急に起きあがる気配、そしてベッドのバネの音とかすかに伝わる衣擦れ。寝起きの悪いアテネにこんな素早い動作は出来ない。やっぱり眠れずにいたんだなと安心したオレは、アテネが不機嫌になる前に用件を伝えることにした。
「さっきのあいつ……居所はわかってんだからさ、いっそ屋敷に招待してやったらどうだ?」
「しょ、招待するって? このお屋敷へ?」
「ああ。あいつアテネに何か言いたそうだったから、呼べばあっさり来るんじゃねぇの?」
 壁の向こうの空気が弛緩する。好感触を感じたオレは一気に畳み掛けた。
「さっきはああ言って追い返したけど、あいつと2度と顔を合わせないって訳には行かないんだしさ。だったら主導権を握れる形の方がいいだろ?」
「……そ、そうかしら……」
「この屋敷まで誘い込んでしまえば、石を奪う方法はいくらでもあるしさ……好都合なことに明日の晩、あいつは三千院ナギと別行動を取るらしいし」
 ところが、ここまで話したところで寝室の気配が一変した。


「よ、余計な差し出口はお止めなさい! あの人をどうするかは私が決めますわ!」
 一瞬の間隙をおいてアテネから返ってきたのは拒絶の言葉だった。まるでハリネズミのようにトゲを生やした、いつも冷静なアテネの口から出たとは思えないほどの。
「あの人のことはもう言わないでって言ったでしょう? マキナ、あなたは私の言うとおりにしていればいいんです!」
《あの人、か……》
 激しい語気とは裏腹に、オレは冷めた脳みそでアテネの言葉を反芻した。大富豪令嬢のアテネは誰かを話題にするとき、「あの方」とか「彼」といった上品ながらも薄皮1枚挟んだような呼び方をすることが多い。「あの人」なんて親しげな呼び方は初めて聞いたような気がする……女では1人いたけどな。白皇で知り合った礼儀知らずの女生徒のことを、「あの子」と楽しげに呼んでいたことが以前あったっけ。
「聞いていますの、マキナ?!」
「……あ、ああ、悪かった」
 だがアテネがあくまで嫌だと言うならオレにごり押しできるわけもない。言葉尻にツッコミを入れて許してくれそうな雰囲気でもなさそうだった。オレはそれ以上の追及をあきらめて踵を返し……ふと念押しをしたくなって足を止めた。
「アテネ、最後に1つだけいいか?」
「なんですの?」
「あいつはオレたちの……敵なんだよな?」
 返事はなかなか返ってこなかった。そして夜の風が6回ほど庭の木々を揺らし終えたころ、普段のアテネとは思えない、まるで駄々っ子の悲鳴にも似た甲高い叫び声がオレの耳に飛び込んで来た。
「て、敵ですわ、敵に決まっているでしょう?!」


Fin.

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