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ちーちゃんのジレンマ

初出 2009年01月28日
written by 双剣士 (WebSite)
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 この作品は緋桜絶華に寄贈しました。



 それはごく普通の水曜日、白皇学院のお昼休みのこと。
 クラスの生徒たちはそれぞれ仲のいい子たち同士で席を寄せ合い、持ち寄ったお弁当に舌鼓を打ちながら他愛のないおしゃべりを楽しんでいた。偶然(?)にも主要キャラの大半が在籍することになった高等部2年○組も例外でなく、みんな教室内でいくつかの島に分かれて歓談を繰り広げていた。大宇宙に浮かぶ銀河の星々にも似た小さな集団の中には、ナギ・ハヤテ・伊澄・ワタルらを中心とした飛び級グループ、そしてヒナギク・泉・美希たちを中心にした生徒会グループも含まれていた。
《……ふむ、今日の卵焼きは上出来だ》
 そんななか、春風千桜は黙々と自分のお弁当を口へと運んでいた。別にクラスで孤立してるわけではなく、一応は生徒会グループの一員として席をあてがわれてはいる。しかし泉や理沙のようにマシンガントークを繰り出したり、ヒナギクや美希のように要所要所で反撃や突っ込みを入れるような器用な芸当は彼女にはできない。自分の周囲1メートルを“絶界”で取り囲み、気づかれぬうちに会話の輪から外れて自分ひとりの世界に閉じこもる、それが彼女にとっては普通のお昼休みの過ごし方であった。ヒナギクたちもそんな彼女の態度には慣れっこで、とくに気にする風でもなく楽しい会話は進んでいく……今日も昨日までと同様、平和で平穏な数十分が過ぎ去って行くだけのはずだった。
 そう、隣の島で発せられた楽しげな少女の声が、いきなり千桜の耳に突き刺さってくるまでは。

「ハヤテ、今日はガンダムεの特別編があるから、8時間目はさぼって早退するからな」

《……なんだって?!》
 その一言を聞いた途端、千桜の周囲の光景は全ての動きを止めて無機質なモノクロームの彫像と化した。あれほどかしましく響いていた泉たちの笑い声は山の向こうの木霊のように小さくなり、ヒナギクの呆れ顔やいわくありげな美希たちの表情も粘土細工のように輝きを失った。そして隣の島でナギとハヤテの放つ声だけが、まるで盗聴器を通しているみたいに千桜の脳みそに直接飛び込んできてガンガンと頭の中に響き渡った。
「お嬢さま、それはさすがに……授業はちゃんと受けませんと」
「何を言う、授業なんかよりガンダムが優先するに決まってるだろ? なにしろ大人気御礼で緊急制作された幻の特別編だぞ、これを見逃したら一生後悔するんだぞ!」
「見逃すもなにも、ゆうべあんなに何回もHDDレコーダの予約をチェックしてたじゃないですか。上空を万一飛行機が通り過ぎて電波が遮られたら一大事だって、お屋敷のあちこちにTVアンテナを設けて別々のレコーダに接続までして! あれだけやれば見逃すことなんて……」
「甘い、甘いぞハヤテ! 録画して保険をかけるなんてのは日本国民なら当然だ、そのうえで放映時間にテレビの前に座って生放送をリアル体感してこそ、愛のあるオタクのあるべき姿というものだ!」
「訳わかんないですから!」
 誇らしげに無い胸を張りながらオタクらしい暴言を吐くナギと、彼女を引き留めるのは無理と承知しつつも常識論で対抗するハヤテ。だが千桜は主従のじゃれあいなどに興味はなかった。あのディープオタクで知られる三千院ナギが“幻の特別編”とまで呼ぶアニメが今日の夕方に放映される、その衝撃情報の詳細を盗み聞くことだけに全身の神経を集中させる。彼女にとってもガンダムは、絶対に見逃すことのできないアニメの1つなのだ。
「それにアニメ見るのはいいですけど、なんで8時間目をサボらなきゃならないんですか?」
《そうだ、素直に吐いてしまえ。その特別編とやらは何時からだ?》
「だってガンダムだぞ、ガンダムなんだぞ? オタクたる者、数時間前からモニタを磨き座席を整え正座して待つのが礼儀ではないか!」
《いやいやそんな助走区間いらないから! 5時か6時か、それとも4時か?》
「そういうのはみんなマリアさんにやってもらってるじゃないですか……」
《……変な方向に話を引っ張るなぁっ!!》


 焦る千桜の気持ちも知らずに主従の会話はふらふらと迷走を繰り返す。ツッコミを入れたくなるのを必死でこらえながら千桜はじりじりと待ち続けた。噛んだ唇から血がにじみ、握りしめた拳から血の気が引いて白くなってゆく。そしてその辛抱が報われる瞬間が、ようやくやってきた。
「だって5時からのアニメなら、授業とHRが終わってからでもまだ15分残ってるじゃないですか。僕が自転車でぶっ飛ば……いえ、法定速度ぎりぎりで走ればなんとか」
「馬鹿いえ、事故ったらどうする、道ばたに子猫が捨てられてたらどうする? 人生にハプニングは付き物なのだ!」
「人生を語るのはガンダムじゃなくてクラナドの方ではないかと……」
《5時か、そうか5時なんだな?》
 頭の片隅で素早く計算する。千桜の家までは通常の通学ルートで約40分、タクシーを奮発しても25分はかかる。つまり到底5時までには家に帰り着けそうにない。じゃお母さんに電話してレコーダを予約してもらって……あ、お母さん今日はテニスサークルの会合とかで7時過ぎまで帰ってこない日だっけ。となると自分だけが頼りってことだ、かくなるうえは私も適当な理由をでっち上げて早退するしかないか……。
「ちょっと、ナギ!」
 ところが次の瞬間、千桜の超指向性アンテナにノイズが混じる。千桜の意識を脳内から現実世界へと強引に引き戻したのは、正義と秩序と規律の権化たる無敵の生徒会長の一喝であった。
「アニメのために授業をさぼるなんて許さないんだからね! ハヤテ君もハヤテ君よ、ナギを甘やかすばかりが執事の仕事じゃないでしょう?」
「ヒ、ヒナギクには関係ないだろ!」
「はぁ、まぁ……しかしお嬢さまはアニメを見逃すくらいなら息を止めた方がマシだと日頃からおっしゃってまして、あのマリアさんですら諦め顔な状態でして……どうしましょ?」
「もう、シャキっとしなさいよ2人とも!」
《……ダメだ、あのヒナギクの目を盗んで早退だなんて、私にはできない》
 自分に向かって言われてるわけでもないのに、千桜は1人で大きな大きな溜め息をついたのだった。

         **    **

 いかに重要なアニメであろうとも、学生の本分には替えられない。放映の当日まで情報に気づかず録画の準備を怠った自分への報いだ。そうやって自分の中の未練を強引に押さえつけた千桜であったが……午後の授業が進むにつれ、その未練が膨らんで自制心を上回るのに時間はかからなかった。
 時間的に絶対間に合わないのなら、仕方ないとあきらめもついただろう。だが運命の時刻までまだ数時間を残していることが、嫌でも彼女の焦燥心をかき立てる。ひょっとしたら何か方法があるかも、あきらめたらそこで試合終了かも、とわずかな希望に賭けてみたい気持ちになってしまう。
《HRの終わる4時45分まで教室にいたら完全にアウトだけど、8限が終わるのは4時25分、その後は掃除とショートHRがあるだけだ。掃除にいく振りをして教室を出て、校門までダッシュしてからタクシーを拾えば家につくのは4時50分、ぎりぎり間に合うと言えなくもない……》
 彼女の掃除担当は下駄箱で、ヒナギクの目は届かない。突破口を見いだしたと思った千桜はそれに伴うデメリットを1つ1つ検証した。望ましい結論ありきな作戦だけに、客観的な検証とはとても言えない代物ではあるものの。
《どうせ掃除なんて誰も真面目にやってないんだから、私1人くらい抜けたって迷惑になるわけじゃない。最後のHRでは私がいないことがバレるだろうけど綾崎君たちだって姿を消してるから目立たないし、終業5分前じゃみんなで探し回ることにもならないだろう。カバンを抱えて掃除に向かうわけには行かないから教室に置いて帰ることになるけど、それくらいは仕方ない、どうせ今夜は気持ちが高ぶって勉強にならないだろうし》
 考えれば考えるほどナイスアイデアに思える。良かった、これで気になるアニメを見逃さずに済む……今度は落胆でなく安堵の溜め息をつく千桜。ところがちょうどそのとき、メール着信を知らせる携帯電話の振動が千桜の浮き立った心を地獄に突き落した。
『国枝です。咲夜お嬢さまに急なパーティの予定が入りまして、今日の5時からお客様のお迎えをしなくてはなりません。ついてはお嬢さまのお召し替えのため、10分前に愛沢邸に来ていただきたい。学校の終わる4時45分ちょうどに車で校門までお迎えに上がりますので』
《……オーマイガッ!!》
 千桜は教室でうつむいたまま、天上の神々を呪った。自分のオタク趣味のためにバイト先に迷惑をかけるわけには行かない。損な性格を自覚しつつも、千桜は掃除さぼり作戦を放棄せざるを得なくなってしまったのだった。


 5時前には愛沢邸にいなければならない。その前に自宅に帰って録画の予約をすることは、誰かさんのように授業をボイコットしない限り、どう考えても不可能。
 自発的な行動の数々を封じられた千桜にとって、残る手段は「他人の録画してくれた動画を見せてもらう」ことしかなかった。しかしYoutubeやニコ動に流されるレベルの低画質映像を見ることは生粋ガンオタたる自分のプライドが許さない。幸いなことに今日の放送を確実に録画しそうな人間が、すぐ目の前にいる。
「ん? なにか用か?」
「…………」
 休み時間に机に近寄ってきた千桜のことを、小首を傾げて見上げる三千院ナギ。だが千桜のほうは視線をじっと合わせたまま、何も言わずに立ち尽くすのみだった。
「なんだ? お前が自分から私の席に来るなんて珍しいじゃないか、何かあったのか?」
《夕方のガンダムεな、あれ録画してるんだったら、後で見せてくれないか?》
 千桜の脳内ではとっくにそう発言している。しかしその声が喉を通ることは無かった。その言葉を口にしたら負け、そんなささいな拘りが千桜の唇を凍りつかせていた。
 千桜はオタクではあるが、学院ではその素振りを隠してクールな生徒会書記として振舞っている。三千院ナギは千桜の禁断の一面に気づいている少女であり、だからこそ今回のような相談のできる数少ない友人でもある訳だが……似た趣味を持っている者同士だからこそささいな見解の違いが口論の種になるという、実にややこしい関係でもあった。そんな相手に頼み事をするというのは白旗を挙げて降伏するに等しい。
「……あ……あ、あのぉ……」
「ん?」
 口がうまく動いてくれない。録画を見せてくれと言った途端、3つ年下の少女が尊大に勝ち誇りながら「これだから半端なオタは……」と得意満面で説教してくる構図が容易に想像できた。お前と一緒にするなと言い返せない自分の惨めな姿も鮮明に脳裏に浮かんだ。ましてここは学校の教室、そんな光景を目にしたクラスメートたちがどんな想像をするか、考えるだに恐ろしい。
「あ、いや、その、な……き、今日の夕方……」
「夕方? はは〜ん」
 千桜の発したなけなしの言葉の断片を、意地悪そうな笑みで受け止めるナギ。やれやれ、すべて言わずとも分かってもらえたか……嬉しいような恐ろしいような心持ちで千桜が顔をあげた、その瞬間。
「だめだぞ」
「えっ?」
「ゲーセンでレースゲームの決着をつけたいと言うんだろ? 負けっ放しで悔しいのは分かるが、今日は大事な用があるからな。また別の日だったら挑戦を受けてやる」
「…………!!」
 言葉にならない憤りを脳天から噴火させると、春風千桜は無言でぷいっと身をひるがえした。そして自分の情けなさとオタ友の勘の悪さを小声で毒づきながら、自分の席に崩れるように座り込んで両手で頭を抱えたのだった。

         **    **

 それから授業という名の冷却期間を置いた千桜は、肝心の目的が一歩も前進してないことに思い至って愕然とした。しかしもう一度ナギの前に立つ勇気は出せそうにない。悩んだ千桜はナギの録画映像をどうにか出来そうな別の人物の手を借りる作戦を思いつき、その連絡手段を得るべく1人の少女の元を訪れた。
「なぁに、ちーちゃん?」
「あのさ、綾崎君の……メ、メルアドをさ、私にも教えてくれないか」
 ナギに頼むのは無理でもハヤテなら便宜を図ってくれそうな気がする。だがハヤテはいつもナギと一緒にいるから直接頼みに行く訳には行かない。メールでなら頼めそうだけど肝心のメルアドを千桜は知らない……そしてたどり着いた結論は、瀬川泉から彼のメルアドを聞き出すことだった。彼女が綾崎ハヤテとメール交換をしていることはお昼休みの雑談を通じて知っていたので。
「ハヤ太君のメルアドぉ〜?」
 ところが、快く教えてくれると思っていたクラス委員長は言葉を濁すと、千桜の顔をじろじろと見上げた。そして数瞬後、いつもの笑顔に戻った泉の口から予想もしない単語が飛び出した。
「そっかぁ〜、ちーちゃんもハヤ太君のメルトモになりたいんだ。ちょっとびっくりしちゃったけど……いいよ、教えてあげる。ハヤ太君ラマン同盟にようこそ!」
「らまん……同盟?」
「うん、愛人ラマン同盟。美希ちゃんと理沙ちんが名付け親でアドバイザー、会員は私と歩ちゃんとね……」
「ち、ちょっと待て!」
 自分の一言がとんでもない拡大解釈をされてることに気づいた千桜は、とっさに声を荒らげた。
「そんなんじゃない! メルトモになりたいわけじゃないんだ、言いたいことを一言だけ伝えられれば、それでいいんだから」
「うわっ、一夜限りの玉砕アタック?! ちーちゃんって意外とだいた〜ん♪☆♪☆ これは作戦会議をやってあげなくちゃ♪」
「なんだ泉、なんの騒ぎだ?」
「面白そうじゃないか、私たちも混ぜろ」
「あっ、理沙ちん美希ちゃん、聞いて聞いて、ちーちゃんがね〜」
 泉の大声を聞いて面白いこと大好きな連中がわらわらと集まってくる。このままここにいたら話をどんどん明後日の方向に進められて、愛人志望を否定してもツンデレ認定されるに違いない。内容的にも時間制約的にもそんなのに付き合っていられなかった。泉の視線が理沙たちの方に一瞬それた瞬間に、千桜は脱兎のごとく教室から逃げ出した。


 追っ手の目をくらますべく別学年の女子トイレに飛び込んで、ほっと一息ついた千桜。頬の紅潮と興奮が収まるにつれ、綾崎君のメルアドを結局聞きそびれたと落ち込む彼女であったが……ふと現在の状況に思い至って小さく手を打った。
《そうだよ、ヒナギクの目を誤魔化して早退なんて無理だと思ってたけど……なんだかんだで私は今、教室を抜け出したフリーな立場にいるんじゃないか? ああいう経緯があれば当分私が戻ってこなくてもクラスメートは不審に思わないし、7限が終わったばかりの今なら、いったん自宅に帰ってから咲夜さんのお屋敷に向かっても5時に十分間に合う》
 災い転じて福となす。思いがけず訪れた大チャンスを目の前にして、千桜の気持ちは大きく揺れ動いた。ナギやハヤテへの連絡手段が無くなった以上これが最後のチャンス。あとは誰にも見つからずに校門に向かうことさえ出来れば、ガンダムεの勇姿が家で私を待っている。何をためらうことがあろうか、いや無い!
《よぉし……行こう》
 腹を決めた千桜はこっそりと女子トイレを抜け出し、静かになった授業時間の廊下をそぉろそぉろと歩き始めた。教室にいる生徒や教師の視線をしゃがみこんで回避しつつ下駄箱へと向かう進路を取る。最悪の場合は上履きのまま窓から脱出することも視野に入れながら、慎重に人目を避けるようにして1階へと降りる階段に差し掛かる……すると階段の下から、困った様子の下級生の声が聞こえてきた。
「あうぅ、困ったのです……社会科準備室からプリントを取ってくるようにって先生に言われたのに、準備室がどこにあるのか聞き忘れてしまったのです」
「勢いで安請け合いするからよ、文ちゃん」
「もう授業が始まっちゃったから先生にも先輩にも聞けないのです。このままだと文は使えない子の落盤を落とされてしまうのです」
「落盤を落とされるんじゃなくて、烙印を押される、でしょ。ことわざはきちんと覚えないとグーで殴るわよ」
「シャルナちゃんったら突っ込みは鋭いくせに、校内の地理はからっきしなのです。ああ、誰か親切に道を教えてくれる先輩とかが、偶然通りかかってくれないものでしょうか……」
 千桜の……この手の事に関しては外れたことのない直感が告げていた。この子たちに今、関わったら……自分は今日、ものすごく不幸な目に遭うと……。
《この階段はだめだな、よそを回ろう。早くここを去らなければ》
 そう考えて身を翻そうとした千桜の背中に、不安げな女の子たちの声がグサグサと突き刺さった。
「ああ、あちこち歩いてるうちに迷子になってしまいました。いったい……どうすれば……」
《逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ逃げなきゃダメだ……》
 心の中でリフレインする決意の言葉。だが繰り返し唱えるたびに言葉は力を失っていく。自分が授業をさぼるだけならまだしも、困ってる下級生を見捨ててまでガンダムを観に帰らなきゃいけないものなのか? ガンダムをあらゆる価値の最上位に置いた途端、自分は越えてはならない一線を踏み越えてしまうんじゃないか? 千桜の脳内で天使と悪魔が熾烈なバトルを繰り広げた……そして20秒後。
「……あの……私でよければ、力になろうか……?」
「?! わ、入学して間もないころに時計台に案内してくれたクールで親切な生徒会役員さんです! シャルナちゃん、もう大丈夫ですよ!」
 春風千桜、本当にいいやつである……。


 それから日比野文たちの道案内をした千桜は、文たちと別れた後でお約束のように霞愛歌に見つかってしまい……保健室帰りの愛歌に付き添うという名目で、自分の教室へと戻らされる羽目になってしまったのだった。文たちや愛歌には感謝の言葉をもらったものの、千桜本人にとっての感覚は『強制連行』以外の何者でもなかったことは言うまでもない。

         **    **

「どうかなさいましたか、千桜様」
「……いえ、なんでも」
 こうして8限エスケープ作戦に失敗した千桜は、半ば魂の抜けた状態で愛沢家のリムジンに乗せられていた。掃除の前やHRの前に抜け出すチャンスが無かったと言えば嘘になるが、もはやガンダムεの録画とバイト先への出仕は時間的に両立できない。こういうときに欲望よりも立場や任務を優先してしまうのが春風千桜という人間の習性であった。あそこで下級生たちを助ける選択をしてしまった以上、途中から自分勝手な方向に走ることは首尾一貫性を欠くというものである。
《馬鹿だよ、私は》
 自分の選択に後悔はない。文や愛歌に手を差し伸べてしまったのは時間的には痛手だけど、通りかかってしまった以上は放っておけない。もう一度同じ局面になっても自分はさっきと同じことをするだろう。しょせん自分は、ガンダムε特別編を見ることの出来ない星の下に生まれてしまったんだ。
《ええ〜い、ぐじぐじ悩んでても仕方ない。バイトを優先すると決めたのは自分だ、今はやれることを精一杯やろう》
 リムジンが愛沢邸の玄関前に停車する段階になって、ようやく千桜の覚悟も決まった。このお屋敷に入れば自分はクールな女子高生ではなく、笑顔で皆を明るくするハイテンションなハウスメイド・ハルとして振舞わなくてはならない。さぁ、今日も元気に作り笑いをしなくっちゃ。


「ほんま、急に呼び出して悪かったな、ハルさん」
「いえいえ♪ お客様じゃ仕方ないですよね、咲夜さんのほうこそ大変でしょう」
「まー本当のこと言うたら会いに来るんは知り合いやし、普段着でも構わへんかってんけどな。なんていうか、今日は戦闘服を着込んでおきたかったんや」
「これが戦闘服ですか? なんでやねん、って感じですけど」
 いかにも良家の子女らしいゴージャスなドレスを咲夜の身にまとわせながら、千桜……もとい、メイドのハルは咲夜が期待してるであろう軽いツッコミで切り返した。咲夜は満足そうに肯いた。
「戦闘にもいろんな形があるんや。相手のペースに持ち込まされへんよう、初手から度肝を抜いてやるんも交渉術のうちでな……よっしゃ、なんとか間に合いそうや。行こうか、ハルさん」
「はい、咲夜さん」
 ゴージャスなドレスを引きずりながら来客の待つ部屋へと向かう愛沢咲夜と、ドレスのスカートの裾を持つ形で後を追うハル。赤い絨毯のうえをズンズンと進んだ2人は、5時きっかりに客間の扉の前へと辿り着いた。巻田と国枝が両脇から扉を押し開けるのに合わせて、部屋の中へと足を踏み入れた2人は……。

「おぉサク、先にお邪魔してるぞ」
「咲夜にもぜひ、こいつの良さを分かってもらわないとな」
「わくわく、わくわく」
「……って、やっぱりこれが狙いかーっ!!」
「……う、そ……」

 客間の正面に据え付けられた80インチモニターには、いま始まったばかりのガンダムε特別編の映像が息を呑むばかりの迫力で映し出されていた。意外すぎる展開に呆然と膝をつくハルを尻目に、咲夜は招かれざる幼なじみたち……ナギ、ワタル、伊澄の3人と激しい口論を始めた。
「なんべん言うたら分かるんや! あんたらがオタクやるんは勝手やけど、くれぐれもウチを巻き込むなって!」
「いや、食べず嫌いはよくないぞ、サク。ガンダムはいまや国民文化、その特別編ともなれば同じ時代を生きた者共通の合い言葉だ! 知らないと人生を損するぞ」
「騙されたと思って観てみろって。咲夜も絶対ハマるからさ」
「…………」
「あーもう、悪い予感がしたから馴れ合わんとこと思うて盛装して出て来たったのに……こら、ハヤテ、なんとか言うたってんか!」
 咲夜は暴君ナギを唯一制止できそうな少年に助けを求める。しかしあいまいな笑顔でスルーされたことに気づくと、今度は矛先を自分のメイドへと移した。
「あぁあ、なんやのこの異次元空間?! 多勢に無勢もええとこや、ここを誰のお屋敷やと思てんねん!」
「ここはガンダムが占拠した、異議は認めない」
「ハルさん! あんたはウチの味方やよな? 言葉の通じんオタクどもからウチを守ってくれるよな?」
「……本当に仲のいい、素敵なお友達ですよね……」
「ちが――――うっ!!」
 孤立無援でヒステリックな金切り声をあげる咲夜の絶叫など、忘我の境地にいるハルには届いていなかった。涙を両目いっぱいに溜めたハルの瞳には神々しく躍動するガンダムたちの雄姿がはっきりと映し出されていて、それ以外は何ひとつ入り込む余地などなかったのだから。


Fin.

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