日常シリーズ番外編(シリーズ本編はRAYROAD2に所載)  RSS2.0

見えない日常

初出 2001年02月23日/Web公開 2001年10月12日
written by 双剣士 (WebSite)
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 ばしゃっ、ばしゃっ。きゅっ、きゅっ、きゅっ。
 顔を洗って、蛇口を止めて。鏡に映った自分の顔を、わたしは今朝もぼんやりとした気持ちで眺めた。
 疲れが顔に出てるみたい。
 唇はかさかさだし、目の周りはくぼんでる。
 ここ数日のことが、やっぱり響いてきてるのかな。でも……落ちこんでちゃ、だめだよね。
 わたしは両手でほっぺたを叩いて気合を入れると、足音を忍ばせながら早朝の台所に向かい、廊下に架けてあったエプロンを身につけた。
 お鍋に水を入れ、コンロに火を入れる。ぼんやりした頭のままでも毎日やっていることは身体が覚えてる。冷蔵庫から油揚げと葱を取りだし、包丁で刻んでからお鍋に入れる。お味噌を適当にすくいとり、温まってきたお鍋に放り込む。
 そう、いつもどおりの朝食の支度。今日もいつものように、いつもどおりの朝の時間が過ぎていく。そしてお料理をテーブルに並べてから、兄さんたちを起こしにいくのがわたしの朝の日課。
 いつもと違うのは……起こしにいっても、起きてくるのは兄さんだけってこと。
 妹のゆずりは、いないってこと。


 兄さんと2人っきり、差し向かいでの朝食の時間が過ぎてゆく。
 兄さんは何も言わない。美味しいって言ってくれるとは思わないけど、お味噌汁が辛いとか、わたしのお魚をよこせとか……何か言ってくれれば救われるのに。兄さんもわたしも1言も口にしないまま、黙々とお皿の上のものだけが姿を消していく。
 ゆずりがいた頃は、朝の兄さんは騒がし過ぎて困るくらいだった。起こしに行ったときには同じ部屋のゆずりとプロレスごっこをやって一汗かいてからベッドを離れるのが日課だったし、朝御飯の席だって何かとゆずりにちょっかいをだして、ゆずりの困る顔を見ながら笑ってた。そんな日がいつまでも続くんだって、兄さんもゆずりも、わたしだってそう思ってた。
 ゆずりがいたから。いま思えば、あの子が泣きながらじゃれ付いてきてくれたから、兄さんもわたしも、わたしたち自身でいられたのかもしれない。
「……ごっそさん」
「うん」
 兄さんとの今朝の会話はそれが全てだった。兄さんはうつむいたまま席を立つと、さっさと窓際の部屋に移って、ごろりと寝転がってしまった。扇風機にあおられた兄さんの髪が、わたしに向かっておいでおいでをしているように見える。でもそれはただそう見えるだけで、本当の兄さんは大きな壁の向こうに閉じこもることを望んでいる……そんな風に思えるほど、今朝の兄さんの背中は大きく険しく見えた。わたしにはその壁を崩すことはできない。兄さんが壁の向こうで待っているのは、わたしじゃ、ない。
「ごちそうさま」
 誰も聞く人のいない食卓で、わたしは小さく手を合わせた。いつもどおりに振舞っていないと、嫌なことばかり考えてしまいそうだった。


 思えば子供の頃から、わたしは可愛げのない妹だった。
 兄さんは、妹であるわたしとゆずりを“全力で可愛がる”ことが自分の役目だと信じ込んでる人だった。小さい頃からいじめられ、からかわれ、泣かされ……3つ歳下のゆずりはそれでも兄さんの袖を握って離さなかったけれど、1つしか違わないわたしは兄さんに振り回されることをだんだん面白くなく感じるようになっていった。
 そして、あの日。家族みんなでハンバーグを食べていた夕御飯の食卓。兄さんはいつものように、ゆずりにちょっかいを出してはハンバーグの欠片やジャガイモなどを失敬していた。ゆずりは『おにーちゃんずるいっ!』と言葉の上では抗議していたが、それでも兄さんとじゃれあっているのが楽しくて仕方ない、という気持ちがきらきら輝く表情のそこかしこに垣間みえていた。
 しかし、あのときのわたしは自分のハンバーグが兄さんに取られてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。ちょっとでも隙を見せればお終いだと思った。だからあえてゆずりの悲鳴が聞こえない振りをし、ハンバーグだけでも急いで食べ終えてしまおうと自分の口ばかりを動かしていた。
 そして。わたしが一息ついてフォークを置いた途端、向かい側の席から光る何かがわたしのハンバーグめがけて襲い掛かってきた。最後に食べようと思って残しておいたお焦げの少ないハンバーグの欠片を敵は一直線に狙ってきた。わたしはゴキブリを叩き潰すかのように、無造作にフォークと反対側の手を動かした。
 ぐさっ。

 外敵は退散した。兄さんはぎこちない笑みを浮かべると、右手をテーブルの下に下ろしたまま、左手一本で自分のハンバーグを食べ始めた。ちょっかいをかけられる心配がなくなったゆずりは、急におとなしくなった兄さんに不思議そうな視線を向けた後、安心した様子で自分のお料理の残りに手をつけ始めた。悪い奴をやっつけて家族に平和をもたらした……ちょっと誇らしげな気分を感じながら、ナイフを失ったわたしはフォークを器用に使って自分のハンバーグを切り分けた。


 兄さんが右手に包帯を巻いているのに気づいたのは翌日だった。全治2ヶ月。謝らなきゃいけないと思ったけど、そのころのわたしは『悪いのはお兄ちゃんだもん』とつまらない意地を張っていたし、兄さんもそのことでわたしを責めたりはしなかった。それでも気まずい気持ちは隠し切れず……なんにも知らないゆずりだけが普段のように兄さんに抱きつき、手の痛みで顔をしかめる兄さんを見て無邪気に笑っていた。
 その日以来。次第にわたしの言葉づかいは『お兄ちゃん』から『兄さん』に変わった。兄さんもわたしとゆずりの扱い方に一線を引くようになった。兄さんが無邪気にからかうのは妹のゆずり相手の時だけになり、わたしにはほんの時々、深入りしない程度の冗談を言うようになっていた。


 わたしだって子供じゃないんだから、兄さんに玩具にされるのはもう卒業するの……意地っ張りだったわたしはそうやって自分を納得させた。当時は本気でそう信じていたんだと思う。仲直りの機会はいくらでもあったのに、ふざけ半分の言葉しか口にしない兄さんをわたしは手厳しく撥ね付けた。何度となく差し出される兄さんの手と、その真意に気づかぬ振りでバイバイをするわたしの手。あまりのしつこさに辟易して筋弛緩剤やフグ毒まで準備するわたし。それでも懲りずに手を差し伸べてくれる兄さん。
 子供だったんだ、いま思えば。劇薬の使い方に慣れるにつれ、わたしは大切なものを自分から削り取っていった。失ったものに気づいたのは半年ほどしてからだった……わたしたち兄妹3人は、はしゃぐ2人と見守る1人に変わっていた。何年たっても子供のようにじゃれあう兄さんとゆずり、決して声を掛けられることの無いわたし。自分だけ子供時代を通り過ぎてしまった気がしたわたしは、お母さんに習ってお洗濯やお料理を覚えた。そうしてお母さんに誉められているうちに、いつしかわたしは“だらしない兄さんとゆずりの面倒をわたしが見てあげなきゃ”と思い込むようになっていた。転勤中のお父さんと夜の遅いお母さんが『いなりが付いててくれれば安心だね』と言ってくれるのを聞いて、『任せといて』と胸を張ったものだった。
 勘違いだったって、今なら言える。2人の面倒をわたしが見てたんじゃない、わたしが2人にしがみついてたんだ。2人の輪の中に戻れないと悟ったわたしは、2人に役立つ家事を覚えることで、兄さんたちのそばに自分の居場所を作ろうとしてたんだ。
 だって……妹のゆずりがいなくなった途端、わたしたちの関係は崩れてしまったもの。張り合いをなくした兄さんは生気なくごろごろしてるだけだし、わたしは……自分のしてることの無意味さを、嫌というほど悟ってしまったもの。


 ゆずりの笑顔がこの家から消えて、今日で5日目。兄さんの顔には日に日に頬骨の影が濃くなっていく。かける言葉を見つけられないわたしは、食器を洗い終えると何も言わずに自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。
 兄さんとゆずりの間には誰も入れない。ゆずりの先輩の香織さんは2人の間に割り込もうとはしていたけど、ゆずりの抜けた穴を埋めるなんてことは頼めるわけもない。もちろんわたしにだってゆずりの代わりなんかできない。できっこない。
 ……でも。子供のころ、ゆずりと一緒になって兄さんにいじめられ、きゃーきゃー言ってたころの自分になら戻れるかも。ゆずりの代わりをするんじゃない。わたしがわたしに……兄さんの妹だったわたしに戻るだけ。それなら兄さんは……ううん、お兄ちゃんは心を開いてくれるかも。お兄ちゃんのそばに、わたしの居場所を作ってくれるかも。
 鏡の前に立つ。これが今のわたし。同級生と比べてもちょっと自信を持ってるプロポーション、少女から大人の女性に変わりつつあるアンニュイな顔の造形。兄さんはよく『お前、ほんとーに胸ないなぁ』とゆずりをからかっていて、そのたびにゆずりは恨めしそうな目でわたしを見ていたけれど。このときばかりは、そんな成長した身体が恨めしい。
「お兄ちゃん」
 鏡に向かって小さな声で、何年かぶりにそう呼んでみる。一瞬で顔が真っ赤になった。全然わたしらしくない。三村いなりは、こんな甘えたささやき声を口にするタイプじゃなかったはず。
 ……でも、わたし自身が不自然だと思うようなことをして、兄さんの心の扉が開けるはずもない。恥ずかしがってる場合じゃない。これは兄さんと、わたし自身のためなんだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 もう一度鏡に話し掛ける。さっきより多少は、不自然さがなくなったかもしれない。でも何かが違う。
「お兄ちゃんってば♪」
 わざと弾んだ声を出しながら兄さんの背中にしがみつく。そんな自分を想像して……わたしはあることに気づいて暗澹たる思いにとらわれた。無邪気で愛らしい妹を演じようとすれば、どうやったってゆずりの真似になってしまう。ゆずりという“本物”の背中を追うだけになってしまう。それじゃいつまでたっても、ゆずりにはかなわない。ゆずりのことだけを待っている兄さんを慰めることなんて出来やしない。
 ううん、そうじゃない。本物がいない今では、なまじあの子に似た振る舞いをすればするほど、かえって兄さんを傷つけてしまうかもしれない。兄さんはより頑なに心を閉ざしてしまうかもしれない。
 もう遅い。遅すぎる。兄さんとわたしの時間はもう元には戻らない……やっぱりゆずりが居ないと駄目なんだ、兄さんもわたしも。
 なけなしの勇気はすぐに底を打ってしまった。わたしは鏡の前で両肩を抱いてしゃがみこみ、自分の情けなさを呪った。このままだと、兄さんだけでなくわたしまでどうにかなってしまいそう……。
 ピンポーン。
 そのとき、いきなり玄関のチャイムが鳴った。わたしはのそのそと顔を上げると、ふらつきながら立ち上がって涙をぬぐった。


「おねーちゃん、ただいま♪」
「お、おかえり、ゆずり」
 わたしの声はうわずっていたかもしれない。ここに居るはずのない妹が、目の前で笑っていたのだから。玄関に立ち尽くしたまま、わたしは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「あんた……どうして……」
「うん、海にサメが出てきちゃったみたいでね、臨海学校の予定が変更になっちゃったの。だから予定より早く帰ってきちゃった♪ あ、でも楽しかったんだよ、水族館とか連れてってもらえて」
 楽しそうに話す妹。その屈託の無い笑顔を見て、わたしは心の中で白旗をあげた。どんなに努力したって取り戻せないものを、当然のようにこの子は持ってる。兄さんがこの子を待ってた気持ちが、今なら良く分かる……ゆずりはつくづく、兄さんに可愛がってもらうために生まれてきたような娘なんだ。
「ねぇ、おにーちゃん奥にいる? おみやげ一杯買ってきたんだよ」
 この子は分かってる。家に帰ってきて真っ先にすべきことは何なのかを身体で知ってる。それが兄さんやわたしを何よりも喜ばせるってことを知ってる。この家での自分の役割を、何の迷いもなく果たしている。
 わたしは思わず、玄関に立ったままのゆずりを抱きしめていた。
「お、おねーちゃん……?」
「……大変だったんだから」
 あんたが居ない間、兄さんがどんなだったか。わたしがどんな思いをしていたか。いろんな思いがいっぺんに出て、わたしはゆずりを抱く腕の力を強めた。なんにも知らずに戸惑っている妹がちょっぴり憎らしく、でもたまらなく愛おしい。
「おねーちゃん、痛いよ〜」
 ゆずりが戻ってきた。うちの家族にとって欠かせないピースが、あるべき位置に戻ってきてくれた。だったら……だったら、たっぷりと歓迎してあげなくちゃ。
「早く帰ってきてくれて良かった。実は兄さん、病気で寝込んでるのよ」
「ええっ! おにーちゃんが?」
 妹の顔色が変わる。疑うことを知らない、本当にいい子。
「そう。すごい熱が出て……ゆずりに会いたいって、さっきからうわごとみたいに」
 奥の部屋に聞こえるような大きな声で、わたしは口からでまかせを言った。あわてて玄関から上がろうとするゆずりをがっちりと抑え込む。妹を身動きできなくしながら聞き耳を立てると、急いでお布団を出し入れする物音が奥の部屋からかすかに聞こえてくる。
「大変! ねぇ、なんの病気なの?」
「まだよく分からないんですって。夕べは危なかったみたいだけど、どうにか今は落ち着いて……」
「どこの病院にいるの?」
「それが……」
 わたしはゆずりの耳元に口を寄せて、小さくささやいた。
「……最後くらいは、住み慣れた家にいさせてあげてくださいって、お医者さまが」
「!!!!」
「落ち着いて……お願い。兄さんはきっと直るから。わたしたちの兄さんだもの。そうでしょ?……ね」
 声を震わせて妹を抱きしめながら、わたしは奥の様子をうかがった。物音が止んでいる。もうそろそろ、いいかな。
「ゆずり、兄さんは奥にいるから、早く会ってあげて」
「うん!」
 十分に時間を稼いでから腕の力を緩めると、ゆずりは小猫のようにわたしの手からすり抜けた。そしてせっぱ詰まった表情でわたしの脇を通り抜け、奥の部屋へと駆け込んでいった。


「おにーちゃん大丈夫? わたしだよ、ゆずりだよ!」
「……」
「お、おにーちゃん? 寝てるの……わきゃあぁ〜っ!」


 捕獲成功。わたしは安堵のため息をつくと、自分の部屋に戻ってカメラを手にした。
「こらぁゆずり、さんざん心配させやがって、こーしてやるこーしてやる!」
「はぅうう、おにーちゃん元気じゃない……」
「兄さん、うまくいった?」
「おぅいなり、ゆずりの顔見たら病気なんか一発で吹き飛んだぜ!」
「良かった。じゃゆずりの無事生還と兄さんの全快祝いを兼ねて、記念撮影するわね♪」
「はにゅぅうううう〜っ、おねーちゃんの嘘つきぃ〜」

 わたしたちの日常が、また今日から始まる。


Fin.

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