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ちょっとだけ背伸びして

初出 1999年07月05日
written by 双剣士 (WebSite)
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 わたしの初恋の人。
 今でもいちばん好きな人。
 優しくて、格好よくて、あたたかい人。
 その人が、今わたしの隣を歩いてる。わたしと手をつないで。
 喜んであげなくちゃ。笑ってあげなくちゃ。

 耕一お兄ちゃんがわたしの大学に現れたのは、本当に唐突だった。
 講義を受けているわたしが、背中を突っつかれて振り向くと、そこには耕一お兄ちゃんの優しい笑顔があった。
 そして驚くわたしに耕一お兄ちゃんは、初音ちゃん、ちょっと出ないか、って言って、そのままわたしの手を引いて講義室から連れ出してくれた。
 駆け落ち? って冷やかしてくる友達に、ごめんって謝りながら、わたしは耕一お兄ちゃんに引っ張られて講義室を後にした。
 そんなんじゃないんだってば。
 そうだったらどんなにいいかって思うけど、そうじゃないんだってば。

 耕一お兄ちゃんと手をつないで歩く、大学の並木道。
 ポプラ並木に彩られて、木々の隙間から木漏れ陽がシャワーのように降り注ぐ、この大学で一番好きな場所。
 恋人と二人でここを歩けたら素敵だよねって、友達とよく話してた場所。
 その手の話をするとき、わたしの頭の中の光景では、いつも隣に耕一お兄ちゃんが居た。耕一お兄ちゃんの他にも男の人はたくさん居るのに、こういう時はなぜか、耕一お兄ちゃん以外の人が頭に浮かんだことはなかった。小学生の頃から、ずっと。
 そのお兄ちゃんと手をつないで、わたしは今、この道を歩いてる。喜んでいいはずなのに、気分はちっとも沸き立たない。
 分かっているから。
 耕一お兄ちゃんがわたしに何を話すつもりなのか、なんとなく分かっていたから。

 歩く速さを少しゆるめてくれた耕一お兄ちゃんは、綺麗なところだねって言ってわたしの方を振り向いた。
 頭の中で思い浮かべてたのと同じ笑顔で。
 まぶしくて、恥ずかしくって、眼が眩みそうだった。あこがれてた笑顔を久しぶりに見て、思わず涙が出そうになっちゃった。
 ううん、泣いちゃ駄目。
 わたしのことを気遣って会いに来てくれた耕一お兄ちゃんに、暗い顔を見せちゃ駄目。
 わたしは努めて明るく、うん綺麗でしょ、って返事をすると、耕一お兄ちゃんの顔を見上げながら眼を細めた。これで笑顔に見えてくれればいいと思ったんだけど‥。
 でも、やった直後に失敗したって思った。耕一お兄ちゃんの表情が固まってる。思い過ごしかも知れないけど、どう返事をしていいか迷ってるような、そんな表情に見える。
 そりゃそうだよね。耕一お兄ちゃんが、わたしの嘘なんかに気が付かないわけ、ないよね。
 わたしは慌てて顔を伏せると、手をつないだまま耕一お兄ちゃんを追い抜いた。そして背中越しに、今日はどうしたのって耕一お兄ちゃんに問いかけた。
 どうしてわたしの大学を知ってるの。
 家に帰れば会えるのに、どうしてこんな時間に会いに来てくれたの。
 いま時分に、わたしなんかに会いにきてて大丈夫なの。
 いろんな意味を込めた問いかけ。しばらく間を空けてから、耕一お兄ちゃんは返事をしてくれた。
 初音ちゃんと、大事な話がしたいから。
 ああっやっぱり、ってわたしが口の中でつぶやくと、耕一お兄ちゃんはさらに言葉をつないできた。わたしの予想通りの言葉を。
 今日が、最後のチャンスだから。

 小学生の時に一度遊びに来た、わたしの従兄の耕一お兄ちゃんは、わたしが高校一年生の時、賢治叔父ちゃんが亡くなった後にしばらく家に泊まりに来た。
 4人姉妹の末っ子だったわたしは、大好きなお兄ちゃんが来てくれたのが嬉しくて、高校の授業が終わるとすぐに耕一お兄ちゃんの待つ家に飛んで帰った。そして耕一お兄ちゃんに、トランプなどをして遊んでもらっていた。ちょっとでも長く、耕一お兄ちゃんと一緒に居たかったから。
 千鶴お姉ちゃんも梓お姉ちゃんも楓お姉ちゃんも、それぞれのやり方で耕一お兄ちゃんを歓迎していた。みんな、耕一お兄ちゃんが大好きだった。そしてその中には、わたしとは違う、家族愛とは違う眼で耕一お兄ちゃんを見ている人が居た。
 それから、いろんなことがあった。
 本当に、いろいろなことがあった。
 大学生だった耕一お兄ちゃんは卒業して、今は東京で働いてる。
 高校生だったわたしも卒業して、今は地元の大学に通ってる。
 月日は流れてゆく。わたしの初恋も、徐々に想い出へと変わりつつある。
 ‥ううん、違う。想い出にしなくちゃいけないんだ。

 駅前の喫茶店で、耕一お兄ちゃんとわたしは向かい合って座った。
 チョコレートパフェ、ってわたしが注文するのを聞いた耕一お兄ちゃんは、すっごく優しい微笑みを浮かべながら、甘いものばかり食べると太るよ、と辛辣なことを言った。わたしはすました顔で、カロリーがお腹より上の部分に溜まれば大丈夫だよ、と少し意味深な切り返しをしたんだけど、耕一お兄ちゃんは笑顔を浮かべたまま何も言わなかった。
 それからコーヒーとパフェが届くまで、気まずい沈黙が流れた。耕一お兄ちゃんは明らかに緊張している面持ちで、わたしと窓の外の景色とを交互に見つめていた。わたしはちょっと意地悪な気持ちで、耕一お兄ちゃんの顔を穴が空くほどにじぃーっと見つめてあげた。
 これぐらいは、してもいいよね。
 23歳の耕一お兄ちゃんと、19歳のわたし。向かい合って見つめあってる様は、はたから見たらお似合いのカップルに見えるかもしれない。高校生の頃までは、そんな風に想像するだけで幸せな気分になれた。もう少し大人になれば、耕一お兄ちゃんにお似合いの女の子になれるはず。わたしより先に大人になっていくお姉ちゃんたちに軽い嫉妬を感じながら、わたしはその日が来るのを楽しみに待っていた。
 でも、もう遅すぎる。耕一お兄ちゃんの隣の席は埋まってしまった。耕一お兄ちゃんは本当のお義兄ちゃんになることに決まった。わたしの幼い憧れは、憧れのままで終わってしまった。
 だから、今は他の人からの視線が苦痛だった。届かなかった想いの残滓を見せられるみたいで辛かった。もし誰かに、素敵な彼氏ね、って声を掛けられたとしたら、いいえ義兄です、って訂正しなきゃいけない。そんなの哀しすぎると思った。
 だから、わざとチョコレートパフェを頼んだ。耕一お兄ちゃんと同じコーヒーを頼むのをあえて拒んだ。そのことに気付いてくれてるかな、耕一お兄ちゃん。

 コーヒーとパフェが運ばれてきて、ウェイトレスさんが居なくなってから。耕一お兄ちゃんは意を決したように、初音ちゃん、と口を開いた。
 初音ちゃん、か。
 わたしのことをちゃん付けで呼んでくれるのは、もう世界に一人だけ。お姉ちゃんたちは初音って呼び捨てにするし、友達の呼び方も“柏木さん”か“初音”かのどっちか。19にもなってそう呼ばれるのは恥ずかしい気もするけど、耕一お兄ちゃんだけの特権だと思うと誇らしい気もする。
 でも‥これって、耕一お兄ちゃんにとってわたしが、今でも“妹”にすぎないってことだよね。
 そんなことを考えながら、わたしはなるべく明るい声で、なぁに耕一お兄ちゃん、って返事をした。そして耕一お兄ちゃんから視線を外すと、眼の前のチョコレートパフェにスプーンを差し込んだ。耕一お兄ちゃんの緊張が少しでも和らいでくれるように。
 ‥そして、ソフトクリームの1/4を食べ終えた頃。初音ちゃん、と呼ぶ声が再び聞こえた。今度は少し苦笑ぎみの声で。わたしがわざと顔を上げずにいると、こっち向いてくれないかな、って耕一お兄ちゃんが言ってくれた。
 ごめんなさい、耕一お兄ちゃん。
 耕一お兄ちゃんが何を言いたいのか、なんとなく分かる。わたしにとって楽しい話でないことも分かってる。だけど、だからこそ深刻でない雰囲気で聞きたいな。いいんだよって軽く返事ができるような雰囲気がいいな。
 そう思ったから、もう一口アイスクリームを舐めて口の周りをべとべとにしてから、わたしは顔を上げた。おいしいパフェを食べられて幸せ、って感じの笑顔を作って耕一お兄ちゃんに見せる。今度は涙を堪えるわけじゃないから、きっとうまく行くはず。
 うまくいったみたい。
 耕一お兄ちゃんが少し頬をほころばせてくれた。そして、おそらく他のお姉ちゃんたちにも言ったであろう言葉を、堂々とわたしに向かって投げかけてくれた。

 ごめんな、初音ちゃん。
 俺は初音ちゃんたちのことを、本当の家族のように思ってた。
 伯父さんや親父の跡を継いで、みんなで一緒に鶴来屋を守って行こうって、本気で思ってたこともある。
 だけど、俺、もっと広い世界を見てみたいんだ。
 柏木の男子だからってことで上に立つんじゃなくて、自分に自信を持った、大きな男になって帰ってきたいんだ。
 だから、今は隆山で一緒に暮らすことはできない。
 それどころか、大切なお姉ちゃんを、さらって行くことになってしまった。
 寂しい思いをさせて、ごめんな初音ちゃん。その代わり約束する、俺は楓ちゃんを幸せにするから。みんなの分まで、幸せにするから。

 やっぱり。
 思った通りだった。
 3日前に、休講で早く帰ったわたしが耕一お兄ちゃんが出かけてることに気付いてから。そしてその夜、お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんと二人で帰ってきた時から、嫌な感じはしてた。
 翌日の夜に、耕一お兄ちゃんが梓お姉ちゃんを連れて帰ってきた時、それは確信に変わった。
 次は、わたしだ。二人っきりでないと出来ない話を、耕一お兄ちゃんは一人ずつ順番にこなしているんだ。
 なんとなく、聞きたくなかった。みんなが耕一お兄ちゃんに抱いていた恋心にけじめをつける内容であろうことは容易に想像できた。もうとっくに心の整理は付いたつもりだったけど、改めて耕一お兄ちゃんの口からそれを聞くのは、やっぱり怖かった。
 だから昨日は、耕一お兄ちゃんに会う前に大学に来て、夜遅くまでぶらぶらして過ごした。二人きりになりさえしなければ辛い言葉を聞かずに済む。誰よりも早く家を出て、耕一お兄ちゃんの知らないところで時間を潰して、誰よりも遅く帰れば、大丈夫だろうと思ってた。あと2日の辛抱。そのくらいなら、何とかなると思ってた。
 今日も、そうやって過ごすつもりだった。でも、やっぱり耕一お兄ちゃんは一枚上手。休めない講義が今日あることを見計らって、大学まで乗り込んでくるんだから。

 いいんだよ、気にしないで。
 わたしが言うべき言葉は、それに決まっていた。義妹としても従妹としても家族としても、それ以外の言葉は有り得ないはずだった。
 だけど‥。
 心の奥で、まだ何かがくすぶっていた。耕一お兄ちゃんは、いま眼の前にいる。楓お姉ちゃんはここにいない。いない相手に向かって、あっさり引き下がること、ないんじゃない?
 明日になれば、嫌でも決着がつく。だったら‥。

 うん、でも今日一日は、わたしに付き合ってくれる?
 結局口にしたのは、この言葉だった。耕一お兄ちゃんは、眼をまん丸に開けてしばし呆然としてから、ゆっくりとうなづいた。そしてコーヒーを飲み干すと、じゃあどこに参りましょうか、お姫様? とおどけて一礼して見せた。
 わたしは釣られて、つい笑い出してしまった。そしてエスコートしようと差し出された耕一お兄ちゃんの手に、なるべく優雅に右手を被せた。
 だけど‥そんな短い笑劇は、喫茶店を出た途端に弾けとんだ。耕一お兄ちゃんの一言によって。

 やっぱり姉妹だね‥千鶴さんも梓も、同じことを言ったよ。

 耕一お兄ちゃんとの、正真正銘の最後のデート。今まで憧れていたのに、半ば諦めかけていたデート。せっかくのデートなんだから、楽しまなくっちゃ。そう思ってあんな言葉を口にしたものの、いざ行き先を考えてみると、しゃれたデートコースを何一つ知らない自分に気づいてわたしはショックを受けた。
 考えてみればこの歳まで、同年輩の男の子と遊びに行ったことなんか無かったから。どうしてもその人と耕一お兄ちゃんを比べちゃうような気がして、どちらに対しても申し訳なくて、臆病になってたから。
 だけど、お兄ちゃんに任せて着いて行く、と言うのは躊躇いがあった。いつもだったらそれでいい。だけど、耕一お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんや梓お姉ちゃんと一緒に行ったかもしれないところへ、これから向かうのは何だか嫌だった。最後の最後くらい、耕一お兄ちゃんとわたしだけの想い出を作りたかった。
 結局、選んだ先は子供向けの遊園地だった。19にもなった女子大生が行きたがるところじゃないとは思ったけど、逆にこういうところだからこそ、梓お姉ちゃんたちは来なかったんじゃないか、と思った。もちろん千鶴お姉ちゃんも、楓お姉ちゃんですらも。
 ここに行きたい、と言った時、耕一お兄ちゃんは笑いながら、大きな手をわたしの頭に乗せてくれた。わたしも精一杯の笑顔を返した。いつまでも子供みたいだって思われたかも。だけど耕一お兄ちゃんに甘えられるの、これが最後だもんね。それにもう、大人っぽく見せる必要もないんだし。
 そして、それから。
 遊園地でいろんな乗り物に乗りながら、わたしは耕一お兄ちゃんの手を握ったり、悲鳴を上げて耕一お兄ちゃんの胸に飛びついたりした。子供の頃に帰ったみたいな振る舞いに懐かしいものを感じながら、こうして耕一お兄ちゃんの傍に居られるのも今日が最後なんだ、どんどん終わりに近づいてるんだ、という想いが、陽が傾くにつれてだんだんと込み上げてきた。
 午後4時を過ぎた頃にはわたしの胸は早鐘のようにどきどきと鳴り、自分でもどうしようもないほどになってきていた。それを見た耕一お兄ちゃんは、初音ちゃん疲れたの、って言ってジュースを買って来てくれ、今度は俺に付き合ってくれる? と新しい行き先を提案してくれた。

 雨月寺。わたしたち柏木家一族のお墓があるお寺。
 それが、耕一お兄ちゃんが誘ってくれた行き先だった。デートの場所としては似合わないと思う。だけど、お父さんやお母さん、賢治叔父ちゃんたちが眠ってるお寺だと思うと、行きたくないとは言えなかった。
 お寺の山門に入るためには、何段もの石の階段を上らなくちゃならない。少しでも背を高く見せたくて高めのパンプスを履いて大学に通ってるわたしにとって、久しぶりのこの石段は結構きつかった。何度もふらついて足を挫きそうになった。耕一お兄ちゃんの腕にしがみついていなかったら、転んで石段の下まで落ちて行ってしまったかもしれない。
 しばらく登ったところで耕一お兄ちゃんは、おぶってあげようか、としゃがみこんでくれた。いくらなんでも格好悪いよ、とわたしは遠慮したんだけど、あの優しい笑顔で何度も誘われるうちに断りきれなくなった。
 耕一お兄ちゃんの、大きくてあったかい背中。
 胸に飛び込むのとはまた違う、耕一お兄ちゃんの鼓動が感じられる瞬間。すっかり気持ちが良くなって、わたしはほっぺたをお兄ちゃんの背中に擦り付けて、眼を閉じた。石段を登る毎に伝わってくる背中の揺れが、どきどきしていたわたしの胸を次第次第に解きほぐして行くのがわかる。わたしはきっと、耕一お兄ちゃんの傍に居られるだけで幸せだったんだ、と素直に思えるような、そんな気持ちになれた。

 しばらくして、耕一お兄ちゃんの背中の揺れが止まった。わたしは顔を上げて、お兄ちゃんの背中越しに前を見て‥山門をくぐったところに立っている、女の人に気が付いた。
 楓お姉ちゃん。
 わたしは急に恥ずかしさが込み上げてきて、耕一お兄ちゃんの背中から飛び降りた。そして耕一お兄ちゃんの背中に隠れながら、えっとあのこれはね、などと意味不明なつぶやきを口に乗せた。
 ふるふる。
 楓お姉ちゃんは黙ったまま首を横に振ると、耕一お兄ちゃんを見つめたまま、ゆっくりとこちらに歩いてきた。金縛りにあったように身体が動かないわたしの耳に、楓ちゃんどうしてここに? お墓参りです、という二人の会話が飛び込んできた。
 そうか、耕一お兄ちゃんも、楓お姉ちゃんがここに来てること知らなかったんだ。そうだよね。知っててわたしをここに案内するような意地悪を、耕一お兄ちゃんがするはずないよね。わたしはほっと胸をなで下ろした。
 短い会話を交わしてから、楓お姉ちゃんはわたしの方に歩いてきた。そして少し緊張していたわたしの傍をすり抜けざまに、ごゆっくり、と小さな声でつぶやいた。
 お、お姉ちゃん、お墓参りだったら一緒にしようよ。
 ‥もう、済んだから。
 取りつく島もなかった。楓お姉ちゃんはちょっと近寄りがたい空気を身体に纏ったまま、一度も振り向かずに山門の方に向かい、そしてあの石段を降りて姿を消した。
 そして。楓お姉ちゃんを眼で追ったまま動けずに居るわたしの頭に、あの大きな手がかぶさってきた。初音ちゃん行こうか、という優しい声と共に。

 耕一お兄ちゃんとわたしは、お父さんたちの眠るお墓の掃除をし、お花を手向け、線香を立てて手を合わせた。
 わたしたちを産んでくれたこと。耕一お兄ちゃんと会わせてくれたこと。その他もろもろのことに感謝をして。そして、耕一お兄ちゃんと楓お姉ちゃんを祝福し、守ってくれるように願いを込めて。
 お父さんたちのお墓は泥や落ち葉が積み重なっていて、二人で掃除するのには少し時間が掛かった。でもそれは、耕一お兄ちゃんが千鶴お姉ちゃんや梓お姉ちゃんと一緒にここには来ていないと言うことになるので、わたしはちょっと嬉しかった。
 お父さん、お母さん。賢治叔父ちゃん。耕一お兄ちゃんと楓お姉ちゃんのこと、しっかり見守ってあげててね。
 横を見ると、耕一お兄ちゃんも静かに手を合わせていた。すごく真剣な様子が、見ているだけでも感じられた。わたしはそんな耕一お兄ちゃんの横顔に見とれて、耕一お兄ちゃんが眼を開くまでずうっと、お墓に向かってそっぽを向きつづけてしまった。

 そして。
 お父さんたちのお墓から立ち去ろうとした時、そこから少し離れたところに立つ墓標が眼に入った。山奥のお寺のお墓には珍しく、そこだけは綺麗に掃き清められ、お花も供えられていた。このお寺のゆかりの人のお墓かな、とその時は軽く考えたけど、耕一お兄ちゃんがそのお墓を指差して話し掛けて来た時にはちょっとびっくりした。
 初音ちゃん、あのお墓知ってる?
 えっ?
 耕一お兄ちゃんが言うには、そこは次郎衛門と言う500年ほど前の人のお墓だと言うことだった。わたしたち柏木家のご先祖さまに当たる人らしい。そして、この雨月山に伝わる鬼退治伝説の、主人公として伝わっている人物だと言うことだった。
 ご先祖さまなら、お祈りしておかなくちゃね。
 わたしと耕一お兄ちゃんはその墓標の前に移動すると、眼を閉じて手を合わせた。わたしはすぐに眼を開いて手を降ろした。だけど耕一お兄ちゃんは、眼を閉じて手を合わせたまま、わたしにぽつりと話し掛けてきた。

 初音ちゃん、何か感じない?
 ‥ううん。
 そう。この次郎衛門って人はね、鬼退治の話ばかりが伝わってるけど、本当はとても辛い恋をした人なんだよ。愛する人と巡り合って、でも引き裂かれて、悲しみのあまり暴走して‥そんなひとだったんだ。でもこの人が居たから、いまの俺たちが居るんだよ。初音ちゃんには馴染みのない話かもしれないけど、こういう人がご先祖にいたってこと、憶えておいてくれないか。
 ‥うん。耕一お兄ちゃんがそういうのなら。

 この時わたしは、耕一お兄ちゃんに嘘をついた。
 次郎衛門さんの伝説のこと。彼の愛した鬼の娘のこと。わたしは、本当は知っていた。賢治叔父ちゃんが元気だった頃、楓お姉ちゃんがよくその話を叔父ちゃんとしてたのを聞いてたから。
 楓お姉ちゃんは、かなり真剣にその昔話を聞きたがっていた。次郎衛門さんと引き裂かれた鬼の娘の気持ちが、自分には良く分かるとお姉ちゃんは言っていた。自分がその鬼の娘で、賢治叔父ちゃんが次郎衛門さんなのかも、って赤い顔をしながらつぶやいていた。そしてそのたびに、楓ちゃんは想像力が豊かだね、って叔父ちゃんに笑われていた。
 でも。叔父ちゃんは亡くなった。楓お姉ちゃんは叔父ちゃんではなく、その息子の耕一お兄ちゃんのお嫁さんになる決心をした。楓お姉ちゃんは500年越しの恋人ではなく、今の時点において一番好きで一番大切にしてくれる人を選んだ。
 でも、それでいいと思う。
 500年前の恋人に会えたのに、結ばれないまま死に別れるなんて可哀相すぎるから。いつまでもいつまでも、会えるかも分からない恋人を求めて転生を繰り返すなんて哀しいから。それに、今好きな人と一緒になる方が、きっと素敵なことだと思うから。耕一お兄ちゃんに対する楓お姉ちゃんの想いは、そういう素敵な恋だと思いたいから。
 ‥それに。もし楓お姉ちゃんの前世の恋人が賢治叔父ちゃんでなく、耕一お兄ちゃんだったとしても。二人は今のお互いに引かれあったんだと思いたいから。わたしの耕一お兄ちゃんに対する恋心が、前世からの因縁に負けたんだなんて思いたくないから。

 そのときになって、わたしははっと気が付いた。
 滅多に人が訪れない、山奥のお墓。どれも落ち葉で汚れていたお墓。他のお墓と同様に汚れていた柏木家のお墓。その反面、綺麗に手入れされてお花まで備えられていた、次郎衛門さんのお墓。
 そして、さっきまでお墓参りに来ていたはずの、楓お姉ちゃん。
 まさか、ひょっとして‥。
 わたしの頭の隅に、小さな疑惑が根を張った。そこから黒い渦巻きが巻き起こり、頭の中をぐるぐると駆け巡り始めた。そしてその合間合間に、わたしが見たことのない光景が‥火に包まれた山の光景、傷を負った武者の姿などが、鮮明に脳裏に浮かんできた。
 なに、これ?
 頭を振っても振っても浮かんでくる、見知らぬ戦場の光景。刀の鳴る音、勝利の雄叫び、そして断末魔の苦鳴。めらめらと燃える炎。そして、胸に突き刺さる苦しさ。
 耕一お兄ちゃん!
 わたしは必死で叫ぶと、隣に居るはずの耕一お兄ちゃんにしがみついた。どぅっと倒れる衝撃。わたしは必死で首を振りながら、耕一お兄ちゃんをきつくきつく抱き寄せた。
 どっくん、どっくん。
 お兄ちゃんの鼓動。さっきおぶってもらったときに聞いた音。大好きな耕一お兄ちゃんのぬくもり。
 お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!
 わたしは心の中で、何度も何度も叫びつづけた。忌まわしい光景を追い出してしまいたかった。耕一お兄ちゃんが居てくれれば、このぬくもりが感じられてさえ居れば、わたしは自分を失わずにすむような気がした。
 そして。
 わたしの背中を撫でてくれる、あったかい手の感触が伝わってきた。確かな鼓動がわたしの鼓膜を揺らしていた。太い指が、わたしの眼に溜まった涙を拭ってくれるのが感じられた。
 わたしは眼を開いた。そこには一番欲しかったもの‥耕一お兄ちゃんの、優しい笑顔があった。

 耕一お兄ちゃんは何だか心配そうに、しきりにわたしに話し掛けてくる。さっきまでは手をつなぐだけだったのに、いつしかわたしの肩を抱いて並んで歩くようになっていた。わたしは大丈夫、大丈夫と安心してくれるように言ったんだけど、こうやって肩を抱いてもらえるのも悪くないと思ったので、無理に振りほどこうとはしなかった。
 幸せだった。遊園地に行った時より、ずっとすっきりした気分だった。ここに来て良かったと思った。こんなときが、いつまでも続いてくれたらって思った。
 だけど。山門をくぐって石段の下を見下ろした時、わたしは現実に立ち帰らざるを得なかった。
 白い日傘。
 その下から見上げる、おかっぱ髪の女性。
 楓お姉ちゃんだ、と分かった途端、わたしの身体は反射的に動いた。ちょっとここで待ってて、と耕一お兄ちゃんに言い残してから、わたしはお寺のお手洗いへと走った。理由なんかない。完全に衝動的な行動だった。

 お手洗いで手を洗ってから、わたしは自分の見たものを反復した。
 楓お姉ちゃんが下で待ってるのは当然。楓お姉ちゃんは、耕一お兄ちゃんの婚約者なんだもの。もう陽も暮れたし、あとは柏木家に帰るだけ。耕一お兄ちゃんやわたしを待って一緒に帰ろうとしたって、何の不思議もない。
 そして、耕一お兄ちゃんがそうすることも当然。楓お姉ちゃんは、わたしたちが来るまで何時間でもあそこで待つだろう。たとえわたしが裏門から帰ろうって駄々をこねたとしても、楓お姉ちゃんの性格を知ってる耕一お兄ちゃんが我が侭を聞いてくれるとは思えない。
 つまり。耕一お兄ちゃんとのデートは、ここで終わり。あの山門をくぐって石段を降りれば、本当の本当に、終わりが来る。
 ‥分かってはいたけれど、なんだか、嫌だった。せっかく幸せな気分になれたのに、楓お姉ちゃんに催促される形で終わりを迎えるなんて、嫌だった。いま別れたらこのさき永遠に耕一お兄ちゃんから離れられないような気がした。永遠に楓お姉ちゃんを怨みつづけるような、そんな気がした。
 何かが、欲しい。
 痛切にそう思った。楓お姉ちゃんに耕一お兄ちゃんを返すのは、いい。それは仕方がない。でも、想い出だけじゃ足りない。何かが欲しかった。楓お姉ちゃんの知らない、わたしたちだけの、何かが。遊園地の想い出以上の、何かが。

 山門で待ってたはずの耕一お兄ちゃんは、わたしがお手洗いから出てきたところで待っていた。顔がかぁっと熱くなるのが分かった。お兄ちゃんの意地悪、というと、耕一お兄ちゃんは笑いながら、ごめん、と言った。
 それじゃあ、帰ろうか、初音ちゃん。
 うん‥ねぇ待って、耕一お兄ちゃん。
 山門の方へ歩き出そうとした耕一お兄ちゃんを、わたしは呼び止めた。胸の奥がちくりと痛んだけど、我慢することにした。きっと今しか出来ないことだから。

 あのね、楓お姉ちゃんの、お料理のことなんだけど‥。
 料理?
 うん。だいたいは梓お姉ちゃんが先生役をやってたんだけど、一部の料理については千鶴お姉ちゃんが教えてくれてね。あの、その‥ば、バラエティに富んだ味になってるんだよ、楓お姉ちゃんの料理って。
 ‥そりゃ重大な情報だな。命に関わる。千鶴さんに教わった料理ってのは、何だ?

 ‥ごめんね、千鶴お姉ちゃん。

 ちょっと耳を貸して、とわたしが言うと、耕一お兄ちゃんは膝を曲げて耳を寄せてくれた。耕一お兄ちゃんの顔が、手に届くところにある。大好きなお兄ちゃんの顔が。さっきまではわたしのものだった、耕一お兄ちゃんの顔が。
 ちょっとだけ背伸びして、わたしは自分の顔を近づけた。明日からは別の人のものになる、耕一お兄ちゃんの顔へと。

 ちゅっ。

 ほっぺたへのキス。わたしのファーストキス。本当は唇にしたかったけど、それじゃ楓お姉ちゃんに悪いものね。
 耕一お兄ちゃんは、まさかわたしが騙すとは思ってなかったみたい。呆然とした表情で、わたしの方に顔を向けてきた。その耕一お兄ちゃんに、わたしは今日一番の笑顔と、心からの祝福の言葉を贈った。

 ご結婚おめでとう、耕一お兄ちゃん。わたしからのお祝い。

 そして何かを言いかける耕一お兄ちゃんの口に人差し指を当て、濡れたハンカチでキスの跡を拭いてあげながら、こう言葉を継いだ。

 ふたりだけの秘密だよ。

 明日の結婚式が済めば、耕一お兄ちゃんは楓お姉ちゃんだけのものになる。
 大きな手も、あったかい背中も、気持ちのいい腕の中も、みんな楓お姉ちゃん独りのものになる。
 だけど、ね。
 今日一日だけは、みんな、わたしのものだよ。
 そして、耕一お兄ちゃんのほっぺたは、これからもわたしのものだよ。
 わたしの初恋の爪痕は、そう簡単には消させないよ。

Fin.

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