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今のわたしに大切なもの

初出 2001年07月28日
written by 双剣士 (WebSite)
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第1章

「はい、お兄ちゃん。いっぱい食べてね」
「サンキュ、――うん、いつもながら雪希の料理は美味いな」
「あはは、ありがと、お兄ちゃん」
 学校から帰って部屋でくつろぎ、義妹の雪希ゆきのつくってくれた夕食を食べる……ずっと続いてきた、そしてこれからも続くであろういつも通りの光景。その日の晩は、そんな平凡な食卓から始まった。
「うん、いける……おっ、これも……こいつもまた、なんとも……」
「お、お兄ちゃん、そんなに急いで食べなくてもいいのに……」
「いや、せっかくの料理が冷めると悪いからな」
「でも、味わって食べて欲しいな……あっ、ごはんつぶ付いてるよ」
「おっ……サンキュ、雪希」
「うん」
 仲のよい兄妹の、いつも通りの食卓風景。それが健二と雪希の日常であった。妹のいない読者からの怨嗟と、妹のいる読者からの懐疑の声が渦巻いているようだが、彼らの日常はこうなのだ。こうだと言ったらこうなのだ。
「そうだ雪希、このあと時間あるか?」
「えっ、うん大丈夫だよ、どうしたのお兄ちゃん?」
「探してたビデオが、やっと借りられたんだ。雪希もみるだろ?」
「うわぁ、見る見る。楽しみだね」
 心の底から嬉しそうに声を弾ませる雪希。それをみた健二は、微笑み返しながらも心の中で舌を出した。雪希のやつ、あれだけ同じパターンを食らってもまだ懲りないらしい。まぁなんだかんだ言いながら、本人も嫌がってなかったみたいだしな……そんな勝手な想像を頭の中で膨らませていたとき。
「あ、でも……」
「ん?」
「う、ううん、なんでもない。あははは……」
 ついさっきの無邪気な笑顔から一転して、妙に乾いた声で雪希は笑ってみせた。健二はわざとそしらぬ振りで御飯を口にほうり込んだ。そんな兄の様子を見ながら、雪希は次第に肩をすくめて……いつしか上目遣いになりながら、おずおずと口を開いた。
「あの、お兄ちゃん……聞いてもいい? ねぇ、しゅ、主演女優って、誰なのかな……」
「……なんでそんなこと気にする?」
「まさか……あ、あの、エリコさんじゃ……ないよね?」
 雪希はおそるおそる、以前一緒に見たAV女優の名を挙げた。鋭い、鋭すぎるぞ我が妹よ……健二は背中で滝のような冷や汗を流しつつ、表面的には意地悪そうに問い返した。
「そうだって言ったら、どうする?」
「え、えっ、ええ〜っ! あの、えと、そのぉ……」
 兄思いの出来過ぎた妹は、顔を真っ赤にして視線をきょろきょろさせた。並の兄妹なら“不潔”の一言で兄に痛撃を食らわせるところだが、片瀬雪希はそんなことの出来るタイプではない。なんだかんだ言っても兄と並んでビデオを見、その後の第2ラウンドにも付き合ってしまう彼女なのであった……これまでと同様に。
 そんな妹の性格を熟知している健二の耳に、黒い悪魔が入れ知恵をした。健二はもじもじする妹を存分に眺めてから、茶碗をテーブルにおろして胸を張ると、厳かに断言した。
「安心しろ雪希。エリコさんはもう必要ない」
「ほ、本当?」
「そうさ、言ったろ? 俺はお前さえそばに居てくれればいいんだって」
「お、お兄ちゃん……(ぽっ)」
 雪希はトマトのように頬を赤らめた。片瀬健二は堂々と胸を張って、全読者からの非難の洪水に耐えていた。傍が何と言おうが構わない。彼らの思いは兄妹の枠をすでに越えていたのだから……もはや誰にはばかることもないくらいに。
「さ、早く食ってビデオ見ようぜ?」
「はっ……あ、う、うん、そうだね……(真っ赤)」
 こうして微笑ましい夕食風景が再開された。2人の口数は、以前の半分以下に減っていたが。

                 **

 その1時間後。
「うぅ……だまされてる……ぜったい私だまされてるよ……」
 両頬を手のひらで覆いながら、ぶつぶつとつぶやく雪希。その隣で健二は薄ら笑いを抑えるのに懸命だった……そんな2人の視線は、テレビに映ったベッドシーンにがっちりと釘付けにされていた。
「ほぉら、目を離すなよ雪希。ここから怒濤の急展開が始まるんだからな」
「どうしてアカデミー賞の受賞作に、黒髪の巫女さんが出てくるの……」
「そこはほら、グローバル化の時代だから。主演女優賞のマリコさんの迫真の演技だぜ?」
「やってることがエリコさんと変わらないよぉ……」
 半泣きになりつつも、雪希はビデオのリモコンに手を伸ばそうとはしなかった。ここまでやっても反抗しないとは可愛いやつ……健二は作戦の成功をほぼ確信した。あとは部屋に連れ込んで、用意したあの服を雪希の前に差し出すだけ。結局のところ、自分が駄々をこねれば雪希は嫌とは言えないはずなのだ。
「そぉら、いよいよクライマックスだ!」
「え、えっ、うそ……そんな、あんなこと……」
 テレビ画面の動きが激しくなる。2人の興奮もそれに呼応して高まりつつあった。健二の瞳孔は限界まで開き、主演女優の一挙手一投足を見逃すまいと拳を握りしめた。雪希の額から大粒の汗がしたたり落ちた。
 その瞬間!

 じりりっ!! じりりっ!!

 2人は文字通り飛び上がった。突然鳴り響いた電話のベルはテレビの音をかき消し、2人の魂を力ずくで現実世界に引き戻した。テレビ画面の外にあるいつも通りの応接間の風景があっという間に彼らの目の前に広がる。幻のアカデミー賞作品は一瞬にして、単なる映像のひとつに成り下がった。
「……で、電話、だね?」
「……ああ」
 どこかほっとしたような声を上げる雪希とは対照的に、健二は気のない表情で答えた。素早く手を伸ばしてテレビのボリュームを最小にすると、健気な妹は跳ねるように廊下の電話へと駆け寄った。
「……ちっ」
 健二は舌打ちをしてソファに寝転がった。テレビの画面ではエンディングロールが流れている。準備万端整えた、せっかくの計画がぶち壊し……子供のように膨れていると、小さな音と共に再生を終えたビデオがデッキから吐き出される。今夜は失敗か……そう思って健二が身を起こす。ちょうどそのとき、電話を終えた雪希が困った表情で応接間に戻ってきた。
「お兄ちゃん……さっきの電話」
「誰からだった?」
「お父さんから。もうすぐ、この家に帰ってくるって」
 健二の全身に電撃が走り、背骨がバネのようにまっすぐに伸びた。いつも出張ばかりで、子供の俺たちを放ったらかしにしてる不良親父……よりによって、こんな日に!
「どうしよう、お父さんの夕御飯、私なんにも用意してないよぉ」
「コンビニかどっかで買うしかないだろ。雪希、すぐ行って買ってこい」
「う、うん、でも、もう夜も遅いし……お兄ちゃん、一緒に行ってくれない?」
 上目遣いで頼む雪希。おそらくさっきのビデオの某シーンを見て、やや不安になっているのだろう。でも、だからと言ってそんな眼で俺を見るのは止めてくれ……心がグラグラと揺れ動くのを感じながら、それでも健二は毅然として言い放った。
「だめだ、時間がない。俺は家の片づけをしておくから、1人で行ってくれ、雪希」
「で、でもぉ……」
「こんなビデオを親父に見られるわけにはいかないだろ?」
 健二はビデオデッキを指さした。雪希ははっと息を飲みこみ、それでも寂しそうに言いすがった。
「じ、じゃあ、ビデオの片づけをしてから……」
「しゃべってる時間が惜しい。頼むからすぐ行って、早く帰ってきてくれ。親父が家に着いたときに2人とも留守ってのは、まずいって」
「う、うん……」
 後ろ髪を引かれながらも雪希は頷き、上着を羽織って夜の街に駆けだしていった。健二は妹を玄関まで見送ってから、応接間のビデオを抜き出して箱に戻した。
「……急がないと」
 雪希の看破したとおり、ビデオの片づけはすぐに終わる。しかし健二の仕事はそれだけではなかった。あんな服を親父に見られるわけには行かない……健二は大急ぎで階段を駆け上がり、雪希を連れ込むはずだった部屋のドアを乱暴に開け放った。

                 **

「いらっしゃいませ〜」
 10数分後。元気のいい店員の声に迎えられながら、片瀬雪希はコンビニエンスストアのドアをくぐった。夜も休まない店内には数々の調理済み食材が並んでいる。安くもないし新鮮でもないが、急場の時にこういう店の存在はありがたい。
「お父さん、か……」
 夏のおかげで時間の割には暗くない。雪希は店内をうろうろしながら、久しぶりに会える父親のことを思い浮かべた。長期の出張に出ることが多く、1年の大半は家にいないお父さん。いつもは帰る数日前に連絡をくれるのに、さっきの電話は突然だったな。もうすぐ帰るから準備しておいてくれ、だなんて。
「……あっ!」
 いけない、忘れるところだった。お父さんは『連れが1人いるから』って言ってたんだっけ。それじゃ夕御飯は2人分を買わないと。そうだ、お仕事の関係の人かも知れないから、お酒を飲む用意もしとかなくちゃ。
「ありがとうございました〜」
 ほどなくして、白い袋を手に提げた雪希はコンビニのドアをくぐり、帰宅の途に着いた。袋の中には暖めるだけで済む弁当と、父親を歓待するためのアルコール類、そして酒のつまみ少々が入っている。疲れた父親を歓迎するのに十分とは言えないが、急なことだったから仕方がない。
「早く帰ろう」
 心地よい夏の夜風が吹いていたが、のんびり涼んではいられない。お父さんたちより早く帰って準備しておかなくちゃ……荷物を落とさないよう注意しながら、気配り屋の雪希は少しだけ帰る足を速めた。やっぱりお兄ちゃんに付いてきてもらえば良かったな、と心の隅で後悔する。
「……うふふ」
 あの電話を受けたときのお兄ちゃんの表情ったら……早足で家に向かいながら、雪希の頬は自然とゆるんだ。兄が何を企んでいたかはだいたい想像が付く。これまでの経緯から言って、自分に拒否権など無いことも分かってる。いきなり父親が帰ってくると聞いて大慌てし、その直後に残念そうな表情を見せた兄の様子が今でも瞼に焼き付いてる……それでも、まるで子供のように振る舞う兄のことがますます愛おしく思える彼女であった。それに……自分にも、残念な気持ちが全然なかったかと言えば嘘になるし。
「……やだ……」
 激しく頭を振りながら早足で角を曲がると、前を歩く2人組の肩越しに2階建ての我が家が見える。自分の帰る場所がそこにある……胸に暖かいものを感じながら雪希は表情を引き締め、一目散に自宅へと急いだ。ところがそんな彼女に、意外な方角から呼び声がかかった。
「雪希?」
 それはたった今、追い抜いた2人組から発せられた声であった。それは忘れるはずもない大切な人の声だった。いけない、私ったら……雪希は脚を急停止させると、精一杯の笑顔を浮かべながら後ろを振り向いた。2人組の片方の男性も、それに合わせるかのように片手を上げた。
「お帰りなさい、お父さん……あ」
 雪希の歓迎の言葉が不意にとぎれた。雪希の視線は父親の隣に立っている1人の女性へと吸い付けられた。細い肩を凍えるように丸め、おびえたようにちらちらと視線を投げかけてくる1人の女性……父親に背を押されて、ふらつきながらも自分の方へ1歩を踏み出そうとする女性。雪希の手から買い物袋が落ちた。アスファルトに落ちたビールの缶が鈍い音を立てる中、立ちすくむ雪希は両手を口にやり、そして震える唇とうるむ瞳から、心の奥に仕舞っておいたはずの懐かしい言葉を紡ぎだした。

「お……お母さん?」

                 **

 それから30分後。片瀬家の応接間で、家の主人と長男が向かい合って座っていた。一方には聞きたいことが山ほどあったが、もう一方はその全てに答えるつもりはなかった。どこまで話すべきか思案した末に、健二の父は重々しく口を開いた。
「驚かせて済まなかった。亜弥乃あやのさんは遠慮していたんだが、父さんが無理を言ってつれてきた。雪希が会いたがっていると思ってな」
「……」
 健二は何も言わずに父親をにらみつけた。まだ子供の頃、母親を早くに亡くした健二の元へ、父親に手を引かれてやってきた妹の雪希。最初の頃は『お母さんに会いたい』と泣いてばかりで、健二もほとほと手を焼いたものだった。雪希に心を開かせるために、柄にもない嘘を付いた日のことが昨日のことのように思い起こされる。
「雪希の母親は遠いところに引っ越した……確か、昔はそう教えてくれたよな、親父?」
「そうだ。そして今日、そこから帰ってきた」
 健二の父は短く答えた。それじゃ返事になってない……言いしれぬ不安と不審に駆られた健二は、思わず声を荒らげた。
「遠いとこって何処だよ? 俺はまたてっきり、雪希を残して死んじゃったもんだと思ってたんだぜ?」
「……大きな声を出すな、雪希に聞こえる」
 重く静かな声に制止されて、健二は息を整えた。雪希とその母親は、今は2人で一緒に風呂に入っている。旅の疲れを癒すようにと健二の父がそう勧めたのだ。しかしそれは母娘の旧交を温め合うための配慮であると同時に、健二に対して事情を説明する時間を設けるためでもある。少なくとも健二はそう理解していた。
「……ともかく、亜弥乃さんは帰ってきた。娘と再会することも出来た。だが可哀想なことに、あの人には身寄りがない。しばらくの間、うちに置いてやって欲しいのだ。分かってくれるか」
「急にそんなことを言われても……それに俺には事情が全然……」
「あの人は雪希の母親だ。それだけじゃ不足か」
 息子の疑問に取り合わず、健二の父は有無を言わさぬ口調で返答を迫った。こうなると父は梃子でも動かない。そのことを健二はよく知っていたし、それに雪希の母親を住まわせることに強く反対する理由もなかった。少なくとも、反対すれば雪希が悲しがることは間違いないのだから。
「分かったよ。雪希のお母さんなんだもんな。出来る限りのことはする」
「……そうか。よく言ってくれた」
 健二の父は嬉しそうに微笑んだ。父親の圧力がゆるんだのを感じ取った健二はすかさず反撃に出た。
「で、説明してくれよ。どうなってるんだ? 親父は知ってるんだろ、あの人の身の上を」
「……お前は、雪希の支えになってくれるな、これからも?」
 健二の父は再び息子の質問を遮った。当然とばかりに頷く健二。
「ならばいい」
「良くない! 教えてくれよ、いったい何が……」
「雪希には何も話さないつもりだ、亜弥乃さんが自分から口を開かない限りはな……だからお前も、何も聞かずにいてくれ。雪希と同じ立場にいてやってくれ」
 冷たい拒絶の言葉だったが、そこに込められた思いは重かった。健二は続く言葉を思わず飲み込んだ。片瀬家の応接間を静寂が支配した……だが缶ビールの封を切る音を機に、その静寂は破られた。缶ビールを手にしたのは父の方だったが、溜め息まじりに先に口を開いたのは息子の方だった。
「分かった、あの人の過去のことは聞かない。それで、いつまで置いてあげればいいんだ、親父?」
「……」
 健二の父はすぐには答えなかった。缶ビールを1口あおると、彼は息子と目を合わせずに視線を伏せた。健二はしばらく黙って父の返答を待ったが、じきに焦れてきてテーブルを両手で叩いた。
「親父!」
「……やむをえん、これは話しておかないとな」
 健二の父は顔を上げた。深い悲しみをたたえた瞳がそこにあった。それは健二をたじろがせるに十分だった。
「あの人はな、自分には母親の資格がないと思ってる。生きる意味を見失いかけているんだ。雪希の前に連れてきた理由もそこにある……いつまでかと聞いたな。亜弥乃さんが生きる目的を取り戻すまで、それが答えだ」
「い……いまさら何を言ってるんだ? 当たり前だろ、雪希を捨てたんだから……そんな虫のいいこと……」
「そうじゃない」
 短くも重たいつぶやきが健二の反論を断ち切った。そして……絞り出すような一言が、その後に続いた。
「亜弥乃さんは、刑務所にいたんだ」

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