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魔法が解けたら

初出 2000年11月13日
written by 双剣士 (WebSite)
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第1章

 しゃーっ、しゃーっ。
 きゅっきゅっきゅっ、きゅっきゅっきゅっ。
 小気味よい音が響きわたる、ちいさな病院の待合室。磨き上げられたテーブルやソファが朝の光を受けてぴかぴかに輝いている。清潔であることは人気のある病院の第一条件。美人で腕のよい女医の評判を聞いて駆け付けた患者たちは、埃ひとつない調度の数々を見てこの医院への信頼を嫌がおうにも高めることであろう。
「……患者が来てくれればな」
 がらがらの待合室の中央で、モップを杖変わりにした青年は額の汗をぬぐった。この医院にバイトとして雇われて以来、来る日も来る日も待合室の掃除ばかり。おかげで掃除の腕は上がったが、肝心の患者が訪れるのを彼は見たことがなかった。ちりとりに溜まるのは患者が残していったゴミではなく、自分とここの女医、そしてその妹の3人が落としていく髪の毛と食事の食べ残し。
「問題ない。医者が暇なのは世が平穏だという証拠だ。胸を張っていいぞ、国崎君」
「いまさら心配しても始まらんだろうが……大丈夫なのか、ここの経営?」
「大丈夫だ。幸いなことに格安で働いてくれるバイトもいることだし」
 この医院唯一の医師は、青年のつぶやきに応じた絶妙のタイミングで、しかし全く危機感のなさそうな様子で姿を現した。モップを手にした青年……国崎往人くにさき ゆきとは、心の中で舌を出しながら彼女のほうに向き直った。
「なぁ、その格安ってやつのことだが……」
「3食昼寝つき、可憐で愛らしい恋人と美しくて親切な義姉に囲まれた待遇に、何か不服でも?」
「……どこの誰のことだ」
 思わず口に出した往人であったが、女医の手が白衣の襟元に差し込まれるのを見て、慌てて言葉を継いだ。
「そ、それはともかく、一度くらい給料の手触りって奴を味わってみたいもんだが」
「……人間、贅沢に慣れるとろくなことはないぞ」
 青年の雇い主こと霧島聖きりしま ひじりは、人の悪い笑みを浮かべながらやんわりと拒絶した。国の補助金で経営を穴埋めする立場でありながら、労働基準法に従う意思は微塵もないらしい。
「…………」
「どうした国崎君、言いたいことがあるのなら、優しいお姉さんに話してごらん?」
 誰が優しいお姉さんだ、というつぶやきは国崎往人の喉の奥でつぶれて消えた。柔和な表情と言葉を用いて相手を脅迫する術において、この女医にかなう者はこの街には居ない。特にこの医院においては、いかなる正論も4本のメスの輝きに包み隠されてしまうのだ。
「ただいまぁ〜」
「ぴこぴこ〜」
 玄関のほうから元気な声が響き、丹精こめて磨き上げた待合室に1人と1匹がどたどたと土足のまま踏み込んできた。顔をしかめる往人とは対照的に、聖は万華鏡のように表情を切り替えると騒々しい乱入者たちに慈愛の瞳を向けた。
「お帰り、佳乃かの
「あ〜っ、お姉ちゃん往人くんと何を話してたのぉ〜?」
「なぁに、黙々と働くことの素晴らしさについて、得々とな」
「ふぅ〜ん」
 いけしゃあしゃあと大嘘を言う聖と、大真面目にうなづく佳乃。揃いも揃って何なんだお前らは、と無給のバイト青年は思ったが、命が惜しいので声には出さなかった。
「佳乃、今日のお昼は焼きうどんにしようと思うのだが」
「ええ〜っ、でも熱いとポテトが火傷しちゃうよぉ〜、ねぇポテトぉ?」
「ぴこぴこ、ぴこぉ〜」
「ほらぁ、冷やしうどんにしようよぉ、お姉ちゃん?」
「……国崎君、うどんのツユを買ってきてくれ」
 即決だった。毎度のことながら、この女医は妹に甘い。それには止むを得ない事情があることを今の青年は知っていたが……自分の発言権が野良犬にも劣る現実を目の当たりにし、彼は心の中ではらはらと涙を流した。
「じゃあ、おツユ買い出し探検隊の出発だよぉ。あたしが隊長さんと隊員1号で、ポテトが2号、往人くんは3号ねぇ〜」
 無邪気に放たれた少女の声が、往人のハートを一段と重くする。その傍らでは、彼より格上の隊員2号が埃だらけの身体をソファの布にごしごしと擦り付けていた。青年は深い深いため息をつくと、せめてもの反撃を別の方角に向けて試みた。
「ところで」
「ん?」
「手元不如意なバイトの身としては、優しいお姉さまに軍資金の提供を願いたいのだが。あんただって、妹の連れにヒモ同然の振る舞いをさせたくはないだろ?」
 露骨に嫌そうな顔をする聖を尻目に、元気な少女は『出発、進行ぉ〜』と高らかに医院のドアをくぐって出ていった。
「ほら」
「……給料から引いておくぞ。そら、持っていけ」
「確かに受け取ったぜ、あんたの老後の介護資金」
 国崎往人は痛烈な捨て台詞を残すと、そそくさとドアをくぐっておツユ買い出し探検隊に加わった。いまは佳乃のそばに居ることが、身の安全を図れる最良の策であった。

                 **

 鼻歌を歌いながら楽しそうに前を歩く隊員1号と、その後をぴこぴこと付いてゆく隊員2号。1人と1匹の後に続いて商店街の道を歩きながら、往人は手にしたばかりの千円札をひらひらと振って見せた。
 これっぽっちを手に入れるのも、こないだまでは大変だったんだよな。
 小学生らしい2人連れが、楽しそうに往人の脇を駆けぬけて行く。心なしか、以前に比べて商店街を通る子供の数が増えたように感じられた。人形劇で生計を立てていた頃、つい先日までこの商店街で座っていた頃には、1日中待っても数えるほどの子供しか通りかからなかったのに。
 ……夏の暑さが和らいだせいか、それとも自分の心境の変化ゆえか。
 往人は思わず、自分の尻のポケットに手を当てた。幼い頃に母親から受け継いだ小さな人形。これまでの自分の生活の糧であり、生きる目的の証であり、心の支えでもあった薄汚れた人形。人形を動かして子供たちを楽しませ、その親から金銭を得る。そうやって生きていくことしか自分には出来ない、そう思いこんでいたあの頃。
 ……だが、その人形は佳乃の部屋においてある。あの事件の後、往人はその人形をピクリとも動かせなくなってしまっていた。もともと仕掛けがあったわけじゃない、代々受け継いできた“法術”の依り代であった人形は、往人の力が消滅すると共にその役目を終え、普通の人形と同じように部屋の片隅で鎮座することになった。
 そして空になったポケット。法術を失って人形に頼らない生活を送り始めると共に、往人の心からは空の向こうにいる少女への思いがすうっと抜けていった。母親が幼い頃に語ってくれた言葉を胸に抱いて旅を続ける日々は、この街で終わった。交通費を稼ぐためだけに逗留したはずのこの街で、往人は不思議な体験をし、法術と引き換えにかけがえのないものを得た。
 ……失った力が惜しくないといえば嘘になる。でも後悔はしていない。自分の力は、きっとこのために……この姉妹を救うためにあったのだから。母親も言っていたではないか、『空にいる女の子のことは、忘れて生きていってもいい』って。
 今の俺には……
「ぴこ〜?」
「往人くぅん? 大丈夫ぅ?」
 いつのまにか立ち止まってしまったらしい。往人が眼を開くと、佳乃とポテトがイノセントな表情でこちらを見上げていた。心の奥を覗きこむような澄んだ瞳を避けるように、往人は大きな手で佳乃の頭を押さえつけた。
「大したことない。聖にこき使われて頭がボーっとしてるだけだ」
「お姉ちゃん、往人くんのこと、だ〜い好きなんだもんねぇ〜」
 佳乃は可笑しそうな声をあげると、ちょっと視線を斜めにしながら往人の顔を見上げた。
「だ・け・ど。往人くんはぁ、かのりんの親衛隊員の第2号さんなんだよぉ」
「……第1号はポテトが入るわけね……」
 苦笑気味に返された突っ込みには応えずに、佳乃は往人の右手に巻いてある黄色いバンダナをつんつんと引っ張った。
「新入りさんはぁ、こうやってしっかり魔法を掛けとかないと、迷子になっちゃうからね〜」
「……ああ」
「い〜い? お姉ちゃんと仲良くするのはいいけど、ちゃあんとあたしのところに帰ってくるんだよぉ〜?」
「……努力する」
「よろしいっ」
 子供じみた他愛のない会話。そんなささやかな温もりに身を任せながら、往人は以前に佳乃から聞いた言葉を口の中で反芻した。

『魔法って、誰かを幸せにするためにあるんだよ』

                 **

 そして、スーパーの入口にて。店内に入れないポテトと一緒に店の外で佳乃を待つことになった国崎往人は、懐かしい女性に声をかけられた。
「なんや、うちの居候やないか、元やけど」
「……よぉ」
 往人が顔を向けた先には、買い物袋を両手に下げた神尾晴子かみお はるこが立っていた。国崎往人がこの町に来て間もない頃、宿り場所を貸してくれた少女・神尾観鈴かみお みすずとその母・晴子。口は悪いが往人にとって無碍には出来ない相手である。しかし晴子は再会の喜びとは程遠い表情で、つかつかと往人のほうに歩み寄った。
「ふらっと居なくなったと思ぉたら、まだこの街におったんか。ほ〜ぉ、今度はその毛玉のぬいぐるみで芸をしとんねんな」
「ぴこぴこぴこ」
「へ〜え、腕を上げたやないか。変なぬいぐるみやけど、あの汚い人形よりはましやで」
 さすがの晴子も、このポテトが犬、もとい生物には見えないらしい。
「ま、そっちもなんとか生きとるようで安心したわ。そんじゃ、ちょっとこれ持ってんか」
 当然のように買い物袋を押し付けてくる神尾晴子。国崎往人はやんわりと首を振った。
「悪いな。こう見えても俺は忙しいんだ」
「そんなんうちの知ったことやあるかい。一宿一飯の恩があるやろ。さっさと運び」
 相変わらずの強引な不良ママぶり。往人はスーパーの中を何度も振り返りながら買い物袋を抱えて立ち上がったが、晴子が停車中のバイクを指差すのを見てほっと胸をなでおろした。
「あそこまででいいのか?」
「つれないわぁ、ついでに家まで来たってぇな。観鈴もあんたの顔見たら元気になるかも知らんし」
「元気に? 具合でも悪いのか、観鈴?」
「ちょっと、な」
 晴子は笑って見せたが、無理をしていることはありありだった。だが往人が知る神尾晴子という女性は、娘の容体を気に病んで表情を曇らせるようなタイプではない。何かあったんだろうか……そう怪訝に思いながら国崎往人は言葉を継いだ。
「観鈴、大丈夫なのか? いや、今の俺が聞くのもなんだが……」
「たいしたこと、あれへんあれへん。ちょっと物思いにふけってるだけや。変な夢を見るようになった、言うてな」
「夢だって?」
「うちにもよう分からん。なんや、空を飛んどる自分がいて、沢山の人たちを見下ろしながら泣いとる夢やとか……」
 どさっ。
 国崎往人の下げていた買い物袋が、地面に落ちて鈍い音を立てた。

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