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あかぎれ(一話完結)
日時: 2020/12/25 15:54
名前: 吉野あせび
参照: https://twitter.com/asebi_yoshino


「──っ」
 ぱつりと弾ける音がして、唇に鋭い痛みが走った。思わず唇を合わせると、左側が冷たく濡れている。舌先を這わせれば鉄の味がして、なるほどすっかり冬になっていたのだ、と合点がいった。
「どうした、ハヤテ?」
 思わず呻いた僕を訝しんで、スマホをリズム良く叩いていたナギが顔を上げた。動きに合わせて揺れる髪は、まるで清流のように柔らかかった。
「いや、ちょっと唇が」
「唇?」
 ナギは寝転んでいたソファからほんの少し体を起こした。目を細めると僕の唇にすぐ気が付いて、「切れたのか」と小さく呟いた。
「乾燥してるんだからちゃんとケアしないと」
 それから少し待っていろとジェスチャーして、サイドテーブルに置かれたポーチを手に取る。上品なグレージュ色のそれは先日僕が誕生日プレゼントとして贈ったものだ。
 ナギは中から円筒状のリップクリームを取り出して、僕へと差し出した。
「ほら、リップクリーム。……あ、そうだ」
「え、どうしたの?」
 受け取ろうと手を伸ばして、その手がそのまま空を切る。
 ナギを見ると、顔一面ににやあと心底楽しそうな笑みを浮かべ、僕から遠ざけるかのようにぎゅうとリップクリームを胸元で握りしめていた。
「塗ってやろうか」
「え?」
「リップクリーム」
 どきり、と。
 心臓の跳ねる音がした。
 思い浮かべてしまったからか、ナギの唇に目が吸い寄せられる。朝露を含んだ蕾のようなそれは、小さく柔らかで艶やかだった。
「いや、いいよ」
「いいではないか」
 断って手を伸ばすが、ナギは腕を引いて握ったリップクリームを遠ざけた。更に手を伸ばすと、更に遠ざかる。幾度か繰り返した後、僕は観念して大きく息を吐いた。
 そう。そうだった。この三千院ナギという女の子はずっと前から負けず嫌いで、頑固で、時に大胆な性格なのだった。
「じゃあ」
「うむ」
「お願いしようかな……」
「うむ!」
 渋々、といった体でそう言うと、ナギは嬉しそうに頷いた。
 それからこちらに身を乗り出して、とん、と僕をソファに押し倒す。照明に背を向けたためか顔は影で覆われていたが、ナギの頬が赤く染まっているのは分かった。思わず顔を背けそうになって、それを許さぬように彼女の手が頬に添えられる。ひんやりと冷たい手だ。きっと、僕の顔も彼女と同じ色なのだろう。心臓が暴れ回って今にも口から飛び出そうだった。
「じゃ、塗るぞ」
 きゅぽんと空気を擦ってキャップが空いた。匂いはない。きゅるきゅると底を回すと白く滑らかな、けれど先の削れたクリームが顔を出す。
「動くなよ……」
 ゆっくりとクリームが近付く。クリームだけではない。ナギの人形のように整った顔も一緒だった。肌は陶器のように白く滑らかで、瞳は濡れた宝石のようにつややかで、睫毛は漆のように深く黒い。
 まずは下唇。ぴたりと吸い付くような感覚があって、すっと横に引かれていく。華奢なガラス細工を扱うような優しい手つきだ。
 嬉しいのか恥ずかしいのか、なんとも言えない感覚で胸がつまる。彼女から目を逸らしたいのに逸らせない。胸に置かれた彼女の手から早鐘を打つ鼓動が伝わるのではないかと気が気でなかった。
 ──ああ、これではまるであべこべじゃないか。
 まだ僕らが執事と主人であった頃、そのかわいらしい唇が傷つかぬよういつでも懐にリップクリームを忍ばせていたのは僕だった。塗ってあげるのも僕。守らなければすぐ壊れてしまいそうだった少女が、見るだけでこんなにも胸が込み上げてくる慈しみに満ちた表情をするなんて。
 彼女のその表情が嬉しくもあり、寂しくもあり、そしてたまらなく愛しかった。
 上唇も塗り終えてクリームが離れていく。同時に、彼女も。
 それに名残惜しさを覚えた自分が気恥ずかしくて、僕は誤魔化すように唇を合わせクリームを馴染ませた。
「今度からは気をつけるんだぞ」
「うん、ありがと。ナギ」
「塗り忘れてたらまた塗ってやるからな」
「……それは遠慮しとく」
「ふふ。それは残念」
 鈴を転がすようにからころと笑うナギを見て、僕はそれもありかもなと釣られて笑ったのだった。


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はじめまして
以前、別のHNでひなたのゆめの頃からこちらでお世話になっていたのですが、今は吉野あせびで活動しています。
TwitterでSSやイラストを投稿しているのでよければ覗いてみてください。

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Re: あかぎれ(一話完結) ( No.1 )
日時: 2021/01/04 11:02
名前: プレイズ

はじめまして、プレイズと申します。
なかなか好みの短編ハヤナギアフターでした。
リップクリームを塗ってあげるというちょっとした小ネタですが、ハヤテとナギの良き関係が感じられるお話ですね。
かつての執事と主の関係を経ての現在、自然だけどひとつまみの甘みがある2人の関係の描写が良かったです。
ハヤテの1人称の文も表現が丁寧で、少し上品な香りも伝わってくるような作品でした。短編ですけど読後感が良かったですね。
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Re: あかぎれ(一話完結) ( No.2 )
日時: 2021/01/12 09:40
名前: 吉野あせび

ブレイズさん、はじめまして。
感想ありがとうございます!

二年後のハヤテとナギの関係は、主従だった頃と比べてどう変わっているのかな、と考えると妄想が止まりません。今回はハヤテが攻められてますが、きっと普段はハヤテが攻めることのほうが多そうですね。
丁寧な描写を心がけているので、評価していただけて嬉しかったです。

また投稿することもあると思いますので、そのときはよろしくお願いします。
それでは!
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