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ハロー・トイ
日時: 2020/04/05 22:04
名前:
ピーすけ
「ああ、ひさしぶりだね。ヒナ。また少し痩せたのかな。足音が軽くなったよ」
桂ヒナギクが病室に入ると、花菱美希はふわりと優しい微笑みを浮かべた。
シーツとカーテンの潔癖な白。窓の形に切り取られた空の青。そこから射し込む穏やかな太陽の光によって逆光になっているのに、美希の笑顔はむしろより一層眩しく映る。
しかし、薄められた瞼から覗く美希の瞳が、その輝きを知ることは無い。
若くして国交で名を知らしめ、一時は世界を見渡す器に成り得るとまで持て囃された慧眼は、残酷にも病によってその光を奪われた。
三四才の働き盛りに政界を去らざるを得なくなった悲劇の女性を指して『見通し過ぎたが故に眩んだのかもしれない』と、娯楽性の高い言葉で皮肉交じりに言っていたのはテレビのコメンテーターだっただろうか。週刊誌に至っては、国同士を取り持つために様々な手段を用いた美季を『コウモリ』と揶揄する記事すらあった。
昔を思い出すたびに、悲しさ愛情と友情とか、そのほか色々がぐっちゃぐちゃになって、ヒナギクの胸をきゅっと締め上げる。
――ピピッ
ヒナギクの精神状態に呼応して、Humanity Augment - Lace Of the World Wide Web――ハロウ(HA-LOW''')――がカメラの作動を知らせる音を鳴らした。
ハロウは、かつてのソーシャルネットやドローン技術の統合進化版とも言えるデバイスである。
見た目はテニスボール大のプラスチックの球体だ。
インフラとして張り巡らされた地中線からのワイヤレス給電、それがとだえても内蔵バッテリーにより駆動され、三軸モーターによる回転運動と、内蔵小型ローターによる飛行機能によって常にオーナーの傍らに着き従う。
そうすることで、所有者に取り付けられた各種のバイタルセンサーから得られる情報をリアルタイムに収集し、状況に応じて記録や通信を行う。
インターネットの時代を生きる人間にとって、ハロウは手足と同じ体の一部、あるいはそれ以上の新たな器官――場合によっては外部へと拡張されたもう一つの脳――とさえ言える。
ハードウェア化した精神。ヒトの英知でで編み上げられた、魂にも等しき金属と樹脂の塊。
神聖な領域たる心の電子化を、神聖領域への冒涜と見做す声は、利便性という甘露が打ち消すのにかかる時間はそう多くなかった。
昨今に至っては、寧ろハロウをその領域へと押し上げることで安寧を図ろうとする――即ちハロウ単体での人権を訴える――層も少なくない。
――きゅい。
ハロウは、つるりとした球体の体躯を揺らしてヒナギクを見上げる。
三つ目のレンズの内ふたつははステレオカメラ。おでこにあるプロジェクターレンズからは、空中に光が放射され、ホログラフディスプレイが投影されていた。
「あ、ごめん。どうにも設定に慣れなくて……」
「ふふ。今日日ハロウの目を気にする様なアナクロな知り合いは、もう君だけになってしまったな。
大丈夫、気にしていないよ。だいたい、今更気兼ねするような間柄でもなければ、何かを恥じらうようほどお互い若くもないだろう。
それに、私が撮られて嫌だと思ったのなら、私のハロウがプロテクトを掛ける。つまり、言葉にするまでもなく、私は同意しているんだ。わかってるだろう?」
美希は、抱きかかえた自分のハロウを撫でる。
腕を伸ばしてハロウをそっと床に転がす。
ころころと転がってきて、ヒナギクのハロウとこつり、と音を立てて触れ合う。LEDのゆるやかな点滅パターンが、交信を示していた。
まるで子犬同士のあいさつのようだ。とヒナギクは思う。
「わかってはいても、やっぱり私の感覚からすると不躾……というより正直に言えば下品な気がしちゃうのよね」
空中に投影された「保存」の文字をタップして、ヒナギクは切り取られた刹那を、クラウドへと飛ばして長期記憶する。
「言葉や文字によるやり取りよりも、表情や挙措からうかがい知る機微よりも、私達は直感すら超えて、より直接的に繋がっているんだ」
間近で見る美希の肉体は、すっかり老いさばらえていた。
袖から覗く脂肪も筋肉も削げ落ちた腕は、落葉した木の枝のよう。
しかし、深い皺が刻むあどけない笑顔は、むしろ少女の頃より似つかわしくなったと、ヒナギクは思う。
病室の白に、漂白されたかのような白頭と、薄くて安っぽい寝間着から覗く骨ばった肌は、どうしようもなく一輪挿しの白百合を連想させてしまう。
「ご挨拶ね美希。つい一週間前にもあったばかりじゃない。ボケたフリなんて悪趣味よ」
「いいや、この齢になると、どうにも一日を遠く感じてしまうんだ。ひたりひたりと、その時が近づいてくる音が聞こえてくると、人が恋しくなってたまらないのさ」
「……私も同い年なんだけどね。
色んな人に先立たれて、私のまわりも随分と侘しくなった。
でもね美希。それはとても??もしかしたらひどく無神経に聞こえるかもしれないけれど??幸福な事なのよ。孤独の寂しさも悲しさも、別れを惜しむ気持ちも、そう思えるだけの出会いがあったからこそ、尊いと思えるのよ」
「道理で、ヒナは長生きが上手いわけだ。君に覚えていてもらえる人たちが羨ましいよ」
「それは皮肉かしら」
「半分は本音だよ。私の性分は、知っているだろう?」
「あら、あなたも案外、くだばりそうには無いわね」
ヒナギクは、美希の掌に自分の指を添える。乾いた肌同士が和紙をすり合わせる様な音を立てた。
強く握りしめれば壊れてしまう、繊細な指。絡めて、その暖かさを確かめる。
澄まして感じれば、さらさらとと血が巡る音すら聞こえる。
「私も、ヒナにとって同じなんだろうか。私との思い出も、幸福というタグを付けられて、ずっと覚えていられるのだろうか」
「もちろんよ。あなたは誰にも代えられない、私の大切な友達だもの」
「……そうして言葉にしてもらえるのは、とてもうれしいよ」
美希には、未来を託す子供がいない。
ついぞ結婚すらすることもなく、独り身を貫いた友人を、ならばこそ自分が憶えていなければ何が親友か。
「美希の言葉は、身軽すぎてたまに怖いわ。目を離したすきに、幻みたいにふっと消えてしまいそうで……」
「その年になっても、まだ幽霊は苦手なんだな。安心しなよ。化けて出たりはしないさ。わざわざ枕元に立つまでもなく、私のゴーストは、十分にハロウが務めてくれる」
「どんなに精巧でも、コレはモノよ。樹脂と金属の塊。そんなものに、死後の未来を譲り渡してしまって、それで構わないというの?」
「モノに縁を想い偲ぶのは、ずっと昔から人間がしてきた文化だよ。ロケットに写真を入れるだけでも、それは故人の端末足り得るんだ。いや、その目的を果たすだけなら、もっと無骨でも問題が無い。石に刻まれた名前だけでも、個人の存在はこの世界に遍在できるんだ。
人が本当に死ぬのは、忘れられたときだってよく言うだろう?」
ヒナギクは眉を顰める。まるでこれでは遺言ではないか。
「ああ、もしかしたら誤解させたかな。別に、死にたいとは思っていないんだ。まだ未練も多いし、なによりも死ぬのはとても怖いから」
ヒナギクの口から、ふう。と呆れとも安堵ともとれないような息が漏れる。
「昔からホントに、美希は私を怒らせるのが得意よね。学生のころから変わらないわ」
「あんまり褒めるなよ」
にやり、と悪戯を企む少女のように、口端を歪ませる美希。
ヒナギクの脳裏に、学校の生徒会室でからかい合っていた懐かしい日々が去来する。
美希が、深く息を吸う。
しゅるりと、音を立てて、絡めていた指が解かれる。
美希の指先が、ヒナギクの腕を、肩を、首を辿ってそして頬に触れる。
「懐かしく想う日々は、余りにも淡く儚く……どんなにそれが事実であったとしても、過去はただの歴史であり、情報でしかない。思い出を記録ではなく記憶足らしめる……過去に対する感情は、しかし経過とともに変動する曖昧な幻覚と大差が無い。 だからこそ、今この一瞬の価値は何にも代えられない。決して死は生には変えられない。確かなのは意思と存在だけ」
美希の唇が、喉が、舌が、音を、言葉を、連ねる。
淡々とリズムを刻むセンテンスは、まるで聴きなれた旋律のようで、歌のようで・・・・・・
「だから、そんな顔をしないでよ。ヒナが悲しいと、私も悲しい。ヒナが笑っていてくれるなら、私はまた君の笑顔に会うためだけにでも、生きていられる。生きていたいと、思うんだ」
「まるで口説き文句ね。なんだか、日に日に饒舌になって行く気がするわ」
つんと澄ました口調をヒナギクは装う。
でもきっと、ほんの少しだけ顔が熱くなってしまったのは、きっとバレているのだろうなと思う。
「そうかもしれない。本当に、私にとって言葉というのはとても重要な情報なんだ。第二の目だと言っても過言じゃない。
見えていると、つい『触れる』ことが安心に直結すると勘違いしてしまいそうになるけど、必ずしもそうじゃない。 突然誰かに手を握られたら、むしろ恐怖の方が先立つ。
けれど、言葉にはかならずラグがある。言う方にも聴く方にもね。
不便で不正確なツールだけど、だからこそ私は情報を整理しやすくなる。
脳が情報を理解した瞬間を『現在』とするなら、私の今はヒナの『今』より少しだけ遅れているんだ。残念ながらね」
「ひょっとして相対性理論から連想してる? でも、あなた物理苦手じゃなかったっけ?
それに、あなたの言う『今』のズレは、誰と誰の間でも起きうるものよ」
「そうさ。当たり前のことを迂遠な言い回しで修飾しているだけ。政治家なんて経験すると、衒学的な言葉の力に頼ることも多かったしね。
あとは単に、言葉は……例えそれがどんなものであれ……情報量が多い程、『今』に対する解像度が増すんだ」
「沈黙こそが雄弁に語ることもよくあるわ」
「明らかに会話の最中であれば、沈黙もまた言葉の一つだよ。音が途切れなければリズムは生まれない。楽譜に書かれた休符が、無音という音であり、その無音無くして楽曲は成立しないんだ。
それでもこうして冗長に言葉を連ねてしまうのは、きっとただ私がさみしいからなんだろう。
だから、ヒナがこうして会いに来てくれるのは、本当に・・・・・・どうしようもなく嬉しいんだ。
これからも来てくれるのなら、私にとってこれ以上の幸福はないくらいに」
「うん、きっとすぐにまた。ううん。いつでも会いに来るわ。絶対。約束する」
「じゃあ、指切りしよ」「指切り?」「嫌?」「ううん」「じゃ、指切りだ」
ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます。
鎖のように繋がれた小指と小指が、跳ねるように揺れた。
ゆび、きった!
翌週、星辰の瞬く深夜に、花菱美希は病室の窓から飛び降りて死んだ。十月三一日没。享年七六才だった。
遺書の類もなく、それまで自殺の兆候すら見受けられず精神的に穏やかだった上に、死の寸前にわざわざナースコールまで押されていたことから、当初は事件の可能性も考慮されていた。しかし結局はめぼしい証拠もなく、最終的には不幸に絶望しての突発的な自殺であると結論付けられた。
青ざめた顔をした担当医やナース達に、ヒナギクはぼんやりとした頭でただ感謝とねぎらいの言葉だけを述べた。
老いた体は重力の力の前に砕け散っていたらしい。
エンバーミングによって綺麗に補修されていたが、よく見ればコンシーラーに隠された縫い目が服の下から覗いていた。かつて生物であった証は、むしろその痛ましい跡のほうが説得力があり、一見して整えられた美しい寝姿のほうが精巧な人形めいていて現質感に乏しかった。
その印象は骨だけになっても変わらなくて、箸で骨壺に遺骨を入れる時も、それがただのモノの塊にしか思えなかった。
きっとそれは、薄い血縁から喪主を選び、淡々と使者を弔うために役割を配分しただけの、事務的な葬儀だったからだろう。
今まで何人もの死を見送ってきたヒナギクだったが、これほど他人の顔が記憶に残らないのは初めてだった。
紋切り型の文言が並び、気まずさに耐えかねて天気を話題にする時の様な印象の薄い言葉ばかりがぽつぽつと発せられては、適当な相槌が打たれる。
人との繋がりを重視していない、という程度ではない。意図的に断ち切らない限りは、必ずどこかで深い縁が生まれるはずだ。
??ならばなせ、美希は私との関係だけは拒まなかったのだろうか。
「私は本当に無知だったのね。もしどこかで拒んでくれていたのならば、このような結末からあなたを救い出せたかもしれないのに」
ベッドの上で膝を抱えて、ヒナギクは床でじゃれ合うハロウたちを見つめる。
さやけさを讃える月の光に照らされて、白い球体達はまるで無神経な妖精のように、楽しげに揺れている。
一般的な習わしとして、葬儀に参加した者たちの内、希望者にはデータを転写したスティックタイプのメモリが配布される。
当然ながら、ハロウ本体は喪主、あるいはその血縁が遺品として管理するのが自然な流れとなる。
だが、美希のハロウはヒナギク以外に寄り付こうとしなかった。
いっそ見せつけているようにも思えて、ヒナギクは気まずかったのだが、最後に喪主から受けた言葉は「あなたが持っていて下さい」という簡素なものだった。予め用意された文章を読み上げる様な、抑揚を欠いた声から察するに、やはり特に思い入れなど無かったのだろう。
それとも老い先短い老婆に押し付けておけば、そう遠くない未来に適切に処理されるであろう、という打算があったと想像してしまうのは、流石に被害妄想が逞しすぎるだろうか。
いけない。思考がネガティブに転がりすぎている。
――きゅるるる。
ヒナギクの寂しさに呼応して、ハロウ達が飛んでくる。
ハロウは暖かい。ハロウの内蔵ヒーターは、出力を上げれば湯たんぽ替わりとしても使えるが、本来の目的は動物の体温を再現する為のものだ。
血の通わない機械。しかし人間の高度な精神活動を記録し、生命さえ模倣するハロウを、ただの計算機の塊と切り捨てるのは、難しい。
「ねえ、美希・・・・・・」
ヒナギクの唇から、親友の名前がこぼれ落ちた。
呼びかけに応じるように、ヒナギクのハロウがホロディスプレイをポップアップさせる。
『花菱美希から1件のメッセージを受信しました』
ヒナギクは、思わず身震いした。
時間指定されていたメールが、送信者の死後に送られてしまうのは、稀に起きる事故である。死者が文字で語りかけてくる事が怪談であった時代はとうに過ぎている。
タイムスタンプは美希が身を投げる寸前。つまり、ヒナギクだけに宛てられた遺言という事になる。
衝動でないのであれば、遺体が人目に触れやすい投身自殺は、それ自体が半ば遺書めいた行為である。
人生や社会への絶望、反感。あるいは欺瞞やエゴ。
ヒトが死を選ぶ理由なんて、貴いものなど何もない。
なぜ、美希はそんなものを、今更になって自分に押し付けようとするのだろうか。
逡巡する。
が、いくら思考をめぐらせても答えなど解る筈もない。
もしその果てに理解を得るのだとしたら、それは美希と同じ答えを見出すという事であり、同じ結末を辿るという事でもある。
即ち、美希の死を最も遠ざける方法は、このメールを開くしかないということ。
嫌な汗が背中を流れる。だが、逃げる選択肢はあり得ない。
まるで何かに操られているかのように、ヒナギクの腕が伸びていく。震えが止まらない。動悸が止まらない。
『添付ファイルを開きます』
冷たい口調で、ハロウが言った。
◆
まず私が知覚したのはインクと鉛筆と紙の臭い。
そして次第に目が焦点を結ぶ。
見えていなかったのではなく、光が強すぎただけだと気付いたが、しかし不思議と眩しいという感覚は無かった。
首をぐるんとめぐらせて、周囲を把握する。
「時計塔……? 白皇学院の……? どうして」
私の喉から発せられたとは思えない凛然とした声。そういえば、身体が妙に軽い。
検めてみれば、私は年甲斐もなく高校の制服を着ていて、そこから覗く手のひらには皺も無く、血色も良い。
夢でも見ているのだろうか。と思う。
しかし、それにしては余りに精細に過ぎる。
確かに自分がここに在るという実感。
試しに頬をつねってみたら痛かった。
訳もわからないままにとりあえず、適当に棚から一冊の本を手に取る。
「・・・・・・開かない」
糊付けされているかのように、ページは固く閉ざされていた。
ごろん。
何かが転がる音で、私はびくりと肩を震わせてしまう。
「ん……うん」
人の声。机の方だ。
生徒会長のみが座すことの許される、厳つい作りの椅子。そこに誰かが居る。
今まで人がいると気付かなかったのは、机の上にうぞ高い本の山が築かれていたからだ。
もぞもぞと衣擦れの音がした。
どうやら寝ているところを起こしてしまったらしい。
人がいることに安堵と恐怖がないまぜになってしまう。
「……あ……」
私は蛇に睨まれたカエルみたいに固まってしまう。
まず見えたのは淡い色の髪。カチューシャで止められた前髪は後ろに撫でつけられている。形の良いおでこには服の痕がついてる。手入れの行き届いた柳眉、ぼんやりとした眼。
「……美……希……」
喉から絞り出すようにして、私は彼女の名前を呼んだ。
へにゃり。
彼女はどこか申し訳なさそうに笑った。
「やあ。ヒナ。少し合わないうちに泣き虫になったね」
その声はいつかのそのままに。
言われて私は自分が涙を流していることにようやく気が付いた。
「美希、どうしてあなたは死んじゃったの? ここはどこなの?」
嬉しい気持ちと一緒くたになって、疑問の言葉があふれ出る。
「私はここに居て、ただ私を再現するだけ。私は花菱美希の記憶。ここは、ハロウの見る夢なんだよ。ヒナ」
優しく、子をあやす親の様な口調で美希は答える。
「私が死んだ理由は私も知らない。だって、私は今ここに生きてるからね。
でもハロウが保存している情報がどこかにあるのなら、探せばそれも見つかるはずだよ」
「そんなのあり得ないわ。あなたがハロウだというのなら、私はなんなの?」
「君もまたハロウさ。私のハロウが君のメモリーをコピペして桂ヒナギクという女性のエミュレートを行っているんだ」
「ハロウの演算能力では人の精神活動を満足に再現できないはずよ。そもそもメモリーも足りない」
「そう。そのはずなんだ。けれど私たちはここに居る。いや、ここに『在る』のかもしれないけれど、君が君でないこと、私が私でないことを証明することは難しいし、それが証明されたとして、ヒナはどうするんだい?」
「わからない。わからないわよ。でもこんな悪夢の中でずっと過ごせるほど、私は頑丈じゃないもの。せめて、答えを知る安心感だけでも欲しいわ」
「そっか。ヒナらしいね。じゃあ、探しに行くと良い。私も応援してるよ」
「どこを探せばいいのか、教えてくれないの?」
「知らない答えを教えることは出来ないよ。
なんというか、私はいまいち色んなことが曖昧なんだ。
たぶん、キミとワタシを繋ぐためのインターフェイス、メタの架け橋としての役割もあるんけど、機能の殆どにロックが掛かってるのかな。
これは花菱美希の用意したアプリケーションなんだ。
私が役割を果たすには、ヒナにフラグを回収してもらうしかない。
でも、出来る限りの事は手伝うよ」
美希はエレベーターを指さす。
扉の上には、私の記憶には無い筈の17.12255149’の表示。階数?それともなにかのパスワード?
「そこから部屋の外に出られる。まずはここがどういう場所なのか、それで学んでくると良いんじゃないかな」
「……美希は来ないの?」
「必要が、ないのさ。さあ、いっておいで。疲れたらいつでも帰ってくると良い。長い旅になるだろうから」
狐につままれたような気持になりながら、私はエレベーターに乗る。
操作盤にはダイヤルが2つと、〇のボタンがあり、その上に2ケタの数字が液晶に表示されている。
とりあえず17になるように合わせる。
ふわり、とした浮遊感が一瞬。
そして扉が開く。
「……え?」
その向こうにはまた見慣れた生徒会室。
そこにいたのは17歳の花菱美希だった。
彼女はヒナギクに気付くことなく、ただ陶然とした様子で椅子に腰かけ、そして机に頬ずりしていた。
ぶつぶつと狂ったようになにかを呟きながら、声を漏らしている。
私は慌ててダイヤルを回す。
今度は27を。
その向こうには妙齢の女性となった美希が悲しげな表情で写真を見つめていた。
写真に写るっているのは赤ん坊を抱き抱えている私だった。
ある階では美希は手に持った桃色の髪をうっとりと眺めていた。
ある階では息を荒げて切なそうに息を漏らしていた。
ある階では私の名前を呼びながら体をかきむしっていた。
34より上の解では風景が消えた。
何も見えない白くぼやけた視界の中で、私が美希を呼ぶ声が響く。
美希の絶望の中で、私の情報があるところだけが、陽だまりのように暖かい。
ヒナ。ヒナ。ヒナ。
美希が私を呼んでいる。
どうしようもなく依存していると、どうしようもなく想っていると、感情を丸裸にして叫んでいる。
「おかえりヒナ。ずいぶん老けたね」
最後に〇を押すと、また最初の階に戻ってきた。
「答えは見つかったのかな」
痛ましい笑顔で問う美希を、私はそっと抱きしめる。
「私は、ずっとあなたを置き去りにしてたのね」
「それでも、私は構わなかったんだよ」
「もっと早く、応えてあげるべきだった」
「君の答えは知っていたから。君の心が私と同じ方向を向いていないのが解らない程、私は馬鹿じゃない」
美希は私の背中を描き抱く。
「謝られる筋合いなんてないんだ。私はただ君の欠片がほしかった。だから最後に君をどうしようもない程に傷つけたかった。私が飛んだ理由は、ただそれだけだったんだ」
「うん。いいよ。美希のことは許してあげる」
私は美希に親愛の口づけをする。
「だから、今度は一緒に飛ぼうね」
私は窓を開ける。
初めから出口なんてここしかなかった。
強い風が吹きこむ。
カーテンがはためき、本がめくれる。
ページがちぎれて舞う。
記されていたのは美希の記録。
花菱美希という女性が生涯を掛けて愛した桂ヒナギクという女性の記憶。
「ここが嘘の世界だとしても、私達は一緒に堕ちることを選べたんだ。
それだけで、十分なんだよ」
そうつぶやいたのは、はたして私だったのか美希だったのか。
ただ一つだけ確かな事は、ひどく安らかであったことだけだった。
◆
暗い部屋の中でハロウ達は踊る。
うずくまる老婆は、表示される花菱美希の画像にただ、嗚咽の涙を流していた。
了
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