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仇ハ敵ナリ(閲覧注意・2話はじまり)
日時: 2015/08/02 23:13
名前: きは

南の夜空に浮かび上がっていた満月は青白い光を放っている。
その直下にて広がる雲は月の光に照らされ、夜にもかかわらず濃い灰色で映し出されていた。


一度夕立が通り過ぎた後の夜だった。雨が空気中の埃を打ち落とし、風が空気自体を入れ替える。
灼熱だった日中とはうってかわって、少し肌寒く感じるほどであった。


一陣の風が、東京にある辺鄙な港の波止場を吹き抜けていく。
テトラポッドにかき消される波の音を聞きながら、桂ヒナギクは自身の気持ちを落ち着かせるために、一度深呼吸をして澄んだ空気を取り込む。
胸の中の空気は新鮮なものに入れ替わったが、胸の奥底に蠢いているドス黒い感情はそのまま居座り続けている。
むしろ、今一度深呼吸したからこそ、その感情はより洗練されている。それを彼女は、「殺意」と自覚していた。


彼女と対峙している男は、不遜な態度を崩そうとはしなかった。
満月を背にしている男の顔は判然としないものの、二度は見た顔だ。見間違えるはずがない。
三方が海で囲まれているにもかかわらず、その男は白鞘の刀を構え、着実に彼女へとにじり寄ろうとしていた。場慣れした人間のとる行動そのものであった。

「かかってこいよ。それがお前の目的だろ?」

――言われなくても!

男の言葉にヒナギクは愛剣・白桜を構え直した。
だからといって、無闇に憎き敵の懐に飛び込もうとはしなかった。実力は相手が数段も上だったからだ。
数メートルの間を挟んで、互いが互いの隙を探るための睨み合いが続く。
時間が経つにつれて、感情を抑え込んでいたヒナギクの理性の箍は緩み、両目は涙で溢れ始めていた。




――もしも。



もしも、全てを知ろうと思わなければ、何も失わずに済んだのだろうか。



雑念がヒナギクの頭を過ぎる。彼女は頭を振って雑念を振り払おうとするが、散っていくのは目許に溜まった涙だけであった。
滲んだ視界では勝負にならないと、ヒナギクは目許を拭う。同時に感情を制御するように心がけた。


――全てを知ろうとしたから、私は大事なものを失ったんだ。


過去を反芻し、事実を俯瞰する。


言葉にすれば単純ではあるが、彼女を取り巻いて起こったここ一週間の出来事は、反芻するには苦く、俯瞰するには広すぎたのだ。



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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・プロローグのみ) ( No.1 )
日時: 2015/08/03 20:20
名前: 明日の明後日

きたか…!(ガタッ AA略

こんばんは、明日の明後日です。
ついにきはさんの新作が解禁され、ウキウキが止まりません(笑

波止場でヒナギクと対峙する謎の男…一体誰なんだってばよ(すっとぼけ
殺意全開で戦いに臨もうとしているようですが、一週間の間にヒナギク自身、あるいはその周囲に一体何が起こったのか。
今北産業的な流れは当然知っているのですが(笑)、行間で起きた出来事の仔細については一切分からないので、どんな感じで閲覧注意になるのか今から楽しみで堪りません。

私が落とした数個の点が、きはさんの手によりどんな軌跡を描いて繋がれていくのか。
wktkしながら本編の更新を待っていますね、というところで応援の言葉としたいと思います。


それでは失礼します。明日の明後日でした。
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・1話の投稿始めました) ( No.2 )
日時: 2015/09/28 23:29
名前: きは

第1話「過去との邂逅」 



桂ヒナギクの目の前に、彼女の背丈より一回りだけ高い山があった。裾野は五メートル四方に広がっており、ヒナギクのいる小屋の床を半分は覆わんとしている。
その山は夥しい数の本でできており、表面に積もる埃は目に見えるほどであった。
その中から目当ての一冊を探すため、ヒナギクは埃を被るのをいとわず、黙々と目の前の本を手に取っては中身を確認していた。

何十冊と取り除いたところで、「これだ!」と目星をつけた本を見つけた。山の麓にありながら、角が一つしか見えないほど埋まっている本だった。
これを取ればどうなるか、想像に難くはない。そうは考えながらも、ヒナギクは目先の誘惑に駆られそうになる。

そうなるのも無理はなかった。八月も中旬に差し掛かった、暑い暑い日だった。彼女が今いる小屋には窓が一つしかなく、風通しは悪い。
しかも冷房の類は存在せず、ブロックを互い違いに組んだだけの簡易な構造であったから、この小屋は熱気が澱んでいると言っても過言ではない。

べったりと背中に貼りついた汗は、気化熱と共にヒナギクの思考をも奪っていく。
ヒナギクは少しだけためらいつつも、山に埋もれている本を引っこ抜いた。案の定、本の山は表面が抉れたかのように崩れ、埃がもうもうと立ち込める。
窓へ差し込む日光によって埃は目に見え、そのことも相まって彼女の鼻腔はくすぐられた。

「へっ、へくち!」

とっさに口許を押さえて、ヒナギクは振り返った。
目下の作業に集中していたせいか、「彼」がこの作業を手伝っていることをヒナギクはうっかり忘れていた。
仮に今の姿を見られていたとしたら……。そう考えると、彼女の頬は夏の熱気を上回る熱を帯びる。些細なこととはいえ、彼女からすれば恥ずかしくてたまらなかった。
念のため、振り返った先にあるドアを凝視する。この小屋の唯一の出入り口であるドアに人影らしきものはない。

「あのー、ヒナギクさん。大丈夫ですか?」

良かったと胸を撫で下ろそうとした矢先であった。
目の前の山の反対側から、綾崎ハヤテがひょっこりと顔を出していた。水色の瞳は心配そうにヒナギクを見つめている。

「だ、大丈夫よ。風邪とかでも、誰かが噂したわけでもないから。それよりも――」
「いやー、それはよかったです。この本についてヒナギクさんに確認しようかなと思ったら、いきなりクシャミしてたので……」

ヒナギクが身振り手振りも交えてはぐらかそうとしたくしゃみの件を、ハヤテは無意識に掘り起こす。
言わずもがな、ヒナギクの動きが止まった。

「み、見たのね……!」

反射的に愛剣白桜を取り出し、ハヤテの眼前に突きつける。
想定していた最悪のケースを目の当たりにして、彼女は恥ずかしさで顔を真っ赤に染めた。

「ゴメンナサイゴメンナサイ! 不可抗力なんです! ヒナギクさんにしては珍しく無防備な顔をしてたので、そのまま見てたというか――」
「だ・か・ら! そういうところにデリカシーがないのよ!」

いつも通りヒナギクは白桜を振り上げて、ハヤテに斬りかかった。目にも留まらぬ斬撃である。
が、常人離れした反射神経と、彼女が剣を振り下ろすという異常が日常となるだけの経験を積んでいるハヤテにとっては、白刃取りすることなど容易であった。

しかし、それ以上の異常がヒナギクに降りかかった。
風を裂き殺気を纏う刀身が急に止められたのだ。当然のことながら、斬撃の余波によって辺りに溜まっている埃が一斉に舞い上がった。
狭い小屋に埃の靄がかかる。

「へくち! へっくち! へーっっくち!」

まさかの三連発。
白桜を両手で握りしめていたヒナギクは、口を塞ぐこともままならなかった。
クシャミの後はただただ茫然としていた。我に返って事の重大さに気づいてからは、白桜を仕舞い、両手で自分の顔を隠して小刻みに震え始めた。

時間も空間も凍りついてしまったとハヤテは思った。
静寂は二人のいる小屋に留まらず、小屋の周りにある森もさることながら、ここ白皇学院自体が静まり返ってしまったのではないか。そのようにハヤテには感じられた。

「ハヤテ君……」

覆っていた両手を目許まで下げて、ヒナギクは消え入りそうな声で話しかけた。
いまだに彼女の全身は震えているが、それが怒りをも通り越した感情であることは、ハヤテも十二分に承知していた。

「ここ、掃除するわよ……」

淡々としながらも、穏やかならぬ表情でヒナギクは言った。
彼女の指示に反論を差し挟む余地は当然ないのだが、せめてこれ以上機嫌が悪くならないようにと、ハヤテは愛想笑いを貼り付けて曖昧に返事することしかできなかった。


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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・プロローグのみ) ( No.3 )
日時: 2015/09/28 23:51
名前: きは

<遅すぎたレス返し>


明日の明後日さん、感想ありがとうございます。

私が投稿してから一両日を待たずして感想をいただいたのに、約二ヶ月も空いてしまい申し訳ありません。

「レス返しだけだったら気の毒だから、次の投稿した際にあわせてレス返ししよう」

とか考えてた結果がこれだよ!orz


こ、今後とも生暖かい目でご覧いただければと思っております(震え声



さてさて、レス返しですが……


>私が落とした数個の点が、きはさんの手によりどんな軌跡を描いて繋がれていくのか。


カッコイイ表現をしていただいておりますが、要は明日の明後日さんの「たがけん」の設定をお借りしているだけなので、ただただ恐縮するところです。
しかも、プロット(脳内)は大風呂敷広げてしまってる感が否めなくて、「たがけん」のあのシーンに至るまでに何年かかるだろうかなぁ〜と思ってしまいます。
……2ヶ月で1800字ですもんね。もっと急ぎたいなと思います。


>波止場でヒナギクと対峙する謎の男…一体誰なんだってばよ(すっとぼけ

という部分も、恐らく明後日さんが思われている人じゃないんですよね〜。それぐらい、話がややこしくなっております。
明後日さんが落とされた点よりも、もっと多くの点を私がバラまいて、必死こいて回収する。
そういう風に見ていただいても面白いのかもしれません。



では、とりとめのない感じですが、レス返しとさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。



(注)
本作は、明日の明後日さんのある作品の設定をお借りして、話を展開させていただいてます。いわゆる、原案は明日の明後日さんということになります。
その作品はここの掲示板に投稿されておりますが、それを明言するのは控えておこうかと思います。直リンクもしません。

なぜなら、オチが一発で分かってしまいますもの。

一応、それとなく通称を出していますので、特定はできるかと思います。が、閲覧は自己責任でお願いします。

この文言、最初に載せるべきだよなぁ……
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・1話おわり) ( No.4 )
日時: 2016/09/11 16:33
名前: きは

 2

「じゃあ、掃除用具を取りに行ってくるから、ちょっと待っててね」
「あっ、ちょっと――」

ハヤテの制止を聞かずに、ヒナギクは小屋から出て行った。開けたままの扉から、温い風が入ってくる。
小屋の中で繰り広げられる埃の乱舞には目もくれず、ハヤテはもう木々の合間に消えていったヒナギクの方へ目を向けていた。
その先には、時計塔がある。彼女が全力疾走で駆け抜けても、多少息が上がる程度しか離れていない場所にである。
ただ、この小屋からは、雄々しくそびえ立つ尖塔の一部分すらも視認できない。

このときハヤテは疑問を覚えた。
この小屋の存在とその理由である。

綾崎ハヤテはこの年の二月に白皇学院に編入して以来、約半年とはいえ学生生活を送っていた。特に、生徒会長である桂ヒナギクと知り合ってからは、頻繁に生徒会室のある時計塔を利用している。
時計塔の周りは深い森に囲われており、今彼のいる小屋は、目的のない探索をしない限りは到底発見できない建物であった。
そして、ハヤテはヒナギクの案内でここに到った状況を思い出す。
獣道すら形成されていない森の中を、無数の枝葉を打ち払いながらもずんずんと突き進むヒナギクは、あらかじめこの小屋の存在を知っていたことになる。

書庫としてさえ機能していない、この小屋の存在を、だ。

彼自身、短い期間でありながらも、広大な敷地に点在する施設を知悉しているつもりであった。学校行事のマラソンで敷地内を一周した際にも、彼の主とともに迷うことなく進んでいる。

その彼が知らず、しかし彼女は知っている。
なぜ彼女は知っているのだろうか?
そこまで思考が発展してから、ハヤテの脳裏には彼女の台詞が浮かんできた。

――ある冊子を探しているの。色は……。


「濃い紫と黒の斑模様で……」

頭の中で映し出されるヒナギクの口の動きに合わせて、ハヤテはひとりでに呟く。
風が止み、一旦沈静した埃に覆われた本の山『だった』ところに視線を落としたハヤテは、崩落した中心部に鈍く光る冊子があることに気付いた。

「なんで気付かなかったんだろう……」

ハヤテはその冊子を取り上げた。確かにヒナギクの言っている特徴と合致している。彼女が大胆に山を崩してくれたから露わになったのだろう。
目的の物が見つかり、ハヤテは安堵する。

「お待たせー。――って、その本どこにあったのよ?」

ヒナギクは掃除用具を抱えたまま小屋に戻ってくるや、冊子を開けようとしたハヤテに声をかける。

「崩れたところにたまたまあったようです」
ハヤテは冊子をヒナギクに手渡す。「というよりも、この本は何の本ですか?」

質問するハヤテを聞き流すように、ヒナギクは冊子の頁をおもむろに捲っていく。
頭から順番に、何かを探すというよりは、内容をなぞるようにゆっくりと着実に読み進めている。

「これはね……。昔の剣道部の記録よ」
「剣道部……部活動の記録ですか?」
「そうよ。この小屋には、ほんの十年前までの部活動の記録が納められているの」

ヒナギクの言葉に、ハヤテは改めて室内を見廻した。
人の高さにまで達する山ができるほどの大量の本。それらが全て、部活動を記録した物だと彼女は言う。

それにしては――。

ハヤテはこの小屋の異常性を感じずにはいられなかった。
本一冊一冊の装丁はしっかりとなされているにもかかわらず、それらを集約しているこの場所はあまりにもなおざりで、分類すらなされていない。
見せたくない物を全て、目立たないところに押しやった。ハヤテにはそう感じられた。

「それでね。剣道部って十年前ぐらいに黄金期を迎えていて、インターハイを二連覇するぐらい強かった時期があったのよ。……って、ハヤテ君聞いてる?」
「ふぇっ? も、もちろん聞いてますよ」

ハヤテはいつもの執事スマイルでその場をとりなす。

「まぁ、いいけど。――それで、その強かった頃の練習とか参考になることがあったら取り入れようと思って……って、この年ね」

ピタリと。ヒナギクの指先が止まる。
揚々として頁を捲っていた彼女の表情は一瞬にして吹き飛んでいた。
それから顔は強張り、全身が震えだしていた。
ハヤテから見ても、その変化は明らかであった。
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・1話の投稿を始めました) ( No.5 )
日時: 2016/09/11 16:42
名前: きは

 3


見慣れた景色というものは、容易に思い出せるものだった。

幼い頃は当たり前のように過ごしていた小さな喫茶店。
カウンターに置かれた五個の丸椅子と十脚の背もたれ付きの椅子席。
そして、それらの席を埋め尽くす人々の暖かな活気。
彼女にとっては当たり前だった日常。彼女はその雰囲気が大好きだった。
だが、彼女に訪れた唐突なフラッシュバック。
舞台は同じ喫茶店であったが、いつもの暖かさからは無縁であった。

時間帯は夜。
人物は――少女とその姉のみ。
当たり前にいるべき両親は姿を見せず、少女は素朴な疑問を姉にぶつけるしかない。
 
――お父さんとお母さんは、どこ?
 
しかし、姉は答えずに、ただ少女を見下ろすばかり。
堪らなくなった少女は、両親を呼びながら外に向かって走り出す。
扉をスクリーンに見立てて、自分の眼を映写機に譬えて。
少女の視界には、両親が立体的に映し出されている。
それに目がけて、無我夢中に走り続けている。
その映像が幻だと、少女にはわかりきっていた。だが、同時に淡い希望を抱いている。

ここにいなければ、きっと外にいるだろう。
外にいなければ、もっと自分の知らないところにいるのだろう。

そんな彼女の願望は、来客を告げる扉のベルによって打ち砕かれた。
刹那の時間だけ両親の帰宅だと信じていた少女は、突如現れた見知らぬ男に足を止める。むしろ、立ちすくんだ。
男は闇夜を模した漆黒のスーツに身を包み、怯える少女を睥睨している。

――何や。まだ、残ってたんか。

男の無機質な声に、ヒナギクはすぐさま踵を返して、信頼する姉の元へと駆け込もうとした。
しかし、さきほどまで佇んでいたはずの姉の姿がない。
それどころか。いつの間にかヒナギクの周りは、全て暗黒に染まっていた。
ヒナギクは恐る恐る振り返った。服装のせいで背景に溶け込んでいる男の顔だけが、この空間において際立っていた。
白い歯を見せて笑う様は、彼女に著しい戦慄を与える。

――お前の両親はな……

ヒナギクは男の言葉を振り切るように、全力で駆けだした。
誰もいない、何もない、行く宛てもない闇の中を、ひたすらに。
彼女の耳朶には男の高笑いが届いてくる。
息を切らせて立ち止まろうとも、足がもつれて倒れ込んだとしても。
その不愉快な笑い声はどこまでも響いていて――。




       ◆



「――さん。ヒナギクさん!」

自分を呼びつける大声で、ヒナギクはようやく正気を取り戻した。
暗転していた視界が光を取り戻し、辺りに響く蝉時雨の音を拾えるようになっていた。
過去へと引きずり込まれていた意識は、頬寄せ合う程の距離まで来たハヤテのおかげで戻ってこれたようなものだった。

「大丈夫ですか? すごい汗ですけど……」

心配そうな顔でハヤテはヒナギクを見つめる。
ここに来てようやく、ヒナギクは自分の背中が汗でぐっしょりと濡れていることに気付いた。

「ええ、ちょっと走り過ぎちゃったみたい……」

ヒナギクは適当にごまかした。彼女自身、状況を把握できずにいたのだ。
一度深呼吸をしてから、今彼女が開いている頁に再度目を落とす。
左側の頁は、一枚の写真が余白なしに貼り付けられていた。
右側の頁は、整えられた字体で文章が書き込まれている。

問題は、その写真に一人で写っている男であった。
胸の前で表彰状を掲げ、真顔で撮影に応じる男。
端正な顔立ちも相まって、クールな印象を人々に与えるだろう。
だが、ヒナギクにとっては、印象が異なる。危険、だと本能が叫んでいた。
過去に一度だけ見たことがあるのだ。しかも、最悪な時に。

「これが、全国優勝したときの記録ですか?」

ハヤテも一緒になって、当該の頁に目を通す。右側の頁には、写真の男の情報と戦績などが事細かく書かれている。
その部分を読んでいるのだろうと、ヒナギクはハヤテの顔を見つめながら考えていた。

そのハヤテが、突然表情を険しくした。「あれ……」という間抜けな声が漏れていた。

「この人……会ったことがあります。最近ですが……」

その一言は、ヒナギクにとってはあまりにも衝撃的だった。
予期せぬうちに転がり込んできた、彼女の求めて止まない情報。
それに対して、言葉を用意することができない。それだけ、ヒナギクは動揺しきっていた。

「ふぇ? いつ、どこ、なんで、どうして、というか……」

慌てふためくヒナギクをよそに、ハヤテは頬を掻きながら平静に答える。

「えーっと……去年のクリスマスイブの時に押しつけられた一億五千万の借金を、取り立てようとしたヤクザの一人ですよ」
「借金……ヤクザ……」

ハヤテの端的な説明を聞き、ヒナギクは顎に指を這わせて深く考え込んだ。
彼女の記憶と重なる男の肖像は、曖昧であった。
似ているだけかもしれないし、彼女の勘違いという可能性も拭いきれなかった。
だが、彼のもたらした情報によって、彼女は確信へと至る。

「この写真だと、左目に傷が無かったので別人かなあと思ったんですけど、右のところに名前が『柏木』と書かれてたのでもしかしてと思ったんです。
 あの人、見かけによらず白皇の出身だったんですねぇ……って、ヒナギクさん?」

ハヤテの呼びかけに、ヒナギクは数瞬だけ遅れて答える。

「ありがとう、ハヤテ君。次に行くところが決まったわ」
「へ? 捜し物はもう終わったんじゃないですか?」
「……いいえ。彼のことをもっと詳しく知る必要があるのよ」

ヒナギクは首を横に振った。

このときから彼女の関心は剣道から大きく逸れる。捜し物は、ただ一人の人間に絞られていた。
彼女にとって、この男こそが重要人物たり得る。十年間知り続けたいと希った大事な情報を。

「当時の顧問のところへ行きましょう」

そう言って歩き出したヒナギクの片手には、冊子が握られたままであった。
無数の折り目が付いているのも厭わず、彼女は力一杯握りしめていた。


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1話「過去との邂逅」おわり

2話「過去をしる者・現在(いま)をしらぬ者」につづく
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・1話おわり) ( No.6 )
日時: 2016/09/12 22:11
名前: 瑞穂

きはさんへ


茶会では度々会っていますが、小説掲示板では初めましてですね、瑞穂です。
最近は季節の変わり目ということで体調を崩しやすいですが、お互いに風邪などひかないように過ごしたいものですね。


それでは本題に参ります。

まず強く印象に残ったのは、擬人法を多く用いて書かれているSSということです。
小説掲示板や合同小説本のSSを拝読していますが、他にはない書き方ということで興味深いです。


>>南の夜空に浮かび上がっていた満月は青白い光を放っている。

>>その直下にて広がる雲は月の光に照らされ、夜にもかかわらず濃い灰色で映し出されていた。

>>一度夕立が通り過ぎた後の夜だった。雨が空気中の埃を打ち落とし、風が空気自体を入れ替える。

>>一陣の風が、東京にある辺鄙な港の波止場を吹き抜けていく。


冒頭部分だけでもこれほどまでに表現されていますから驚愕しました。

>>2にも
>>桂ヒナギクの目の前に、彼女の背丈より一回りだけ高い山があった。裾野は五メートル四方に広がっており、ヒナギクのいる小屋の床を半分は覆わんとしている。
その山は夥しい数の本でできており、表面に積もる埃は目に見えるほどであった。
その中から目当ての一冊を探すため、ヒナギクは埃を被るのをいとわず、黙々と目の前の本を手に取っては中身を確認していた。

初めにこの文章の最初の1文を読んだ時には「山」とは一般に言う山だと思いましたので、『本の山』ということに気づかなかった(汗)と同時に、きはさんの表現技法には頭が下がります。このように表現できるというのは素晴らしいですね。
これだけの表現は私には思いつきませんし、こんな考え方があるのだなと発見しました。


次に、内容につきまして気になる点があります。

ハヤテくんがヒナギクさんの探していた冊子を発見して、それ以上にヒナギクさんの思想や口の動きから、彼の発想と閃きで答えに行き着いたのはあまりにも意外でした。ハヤテくんも頭はそんなに悪くはありませんが。
それにハヤテくんが以前に、原作の冒頭で出会った人物がこのSSに大きく関係する展開になるというのは、完全に予想外でした。


長くなりましたが以上をもちまして感想とさせていただきます。
ありのままに書かせていただきましたが、もしお気に障るということであればお詫び申し上げます。
最初にも述べましたが正直なところ、全体を通してきはさんの書き方に心を惹かれました。
また感想を書く機会がありましたら投稿させていただきます。
きはさんも健康に気をつけて執筆を頑張ってくださいね。
それでは失礼します、瑞穂でした。
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・1話おわり) ( No.7 )
日時: 2016/10/10 13:15
名前: きは

<レス返し>

瑞穂さん、感想ありがとうございます。そして、返信が遅くなって申し訳ありません。
まさか1年ぶりに投稿した作品に、感想がつくとは思ってもみませんでした。
久々のレス返しと行かせて頂きます。


>>まず強く印象に残ったのは、擬人法を多く用いて書かれているSSということです。

そんな高度な技術を使っていたとは・・・・・・。書いている自分が一番驚きです(笑)
あまり表現がかぶらないように気にしながら書いてきていましたが、凝りに凝ってこんな描写に至ってしまいました。
それゆえに、文章に対するハードルが上がったりしています。もっと、肩肘張らずにかきたいものですが・・・・・・



まぁ、ぼちぼちやっていきたいと思っております。
今後は原作と大きく乖離していきますが。(最近の原作をちょろっと読んでかるくヘコんだり)
暖かい目で見守って頂ければと思っております。



最近朝晩の冷え込みが厳しくなってまいりました。
風邪などを引かぬよう、特にご自愛くださいませ。


感想ありがとうございました。
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Re: 仇ハ敵ナリ(閲覧注意・2話はじまり) ( No.8 )
日時: 2016/10/10 13:20
名前: きは

幼少の頃に起こった出来事ほど、記憶として曖昧になるものはない。
事象の焦点が年月と共に移ろっていくからだろうか。
当時は鮮明に焼き付いていた光景が、自身の感情によって虚飾されることもある。

十年来ずっと忘れられなかった出来事。そして、そのときに見た男。
男が登場してからの彼女の境遇を鑑みれば、原因の一端でもある男の存在を消し去ることはできなかった。
だが、その執念じみた感情だけが先鋭化して、場合によっては負の感情を基に記憶をすり替えることだって起こりえる。

記憶は補完されるものだ。保管できるものではない。

だから、彼女はその男について調べることにした。「温故知新」という先人の言葉に倣って。
ひいては自分が探し求めている人達について、新しいことを知ることができるのかもしれないと。


しかし、それ以前に。


彼女は現在も知らされていなかった。



2話「過去をしる者・現在(いま)をしらぬ者」






執事である綾崎ハヤテにとって、高級な調度品とは本来手入れする対象でしかなかった。
仕えるべき主に快く使ってもらおうと、正しい知識を身につけ、品質を保持することに余念がない。
自分自身が使うことなど以ての外だ。敬愛する主、ないしはその主の客人のためにある。
滅私奉公。それが、主に傅く者としての最低限の職分だと、綾崎ハヤテはわきまえていた。

その自分が、「客人」でいることは初めてだった。葛葉キリカの理事室の客人としてである。
革張りのソファに腰掛けているハヤテは、まるでそのまま埋もれてしまいそうな柔らかい弾力に戸惑っていた。
このまま背もたれに身体を預ければ、たやすく深い眠りに陥ることだろう。そうならないように、懸命に背筋を張っている。

彼からすれば、このソファは一種の凶器である。自身の生活の一部に存在しようものなら、彼の生活は一気に崩壊するだろう。
こんな物を日常的に使っている我が主が自堕落的な生活をするのも無理はない、とハヤテは失礼なことを考えていた。

「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ、綾崎君。自分の家だと思ってリラックスしてくれたらいいから」

ハヤテの向かい側に座る女性は、足を組んだままニッコリと笑う。
その態度に、ハヤテはただただ恐縮するしかなかった。

「そんな……ここは初めてですし、理事の一人である葛葉様とお話しする機会なんてめったにありませんから」
「『葛葉様』なんて堅苦しい呼び方は止めなさいって。桂さんが呼んでるように『キリカさん』でいいから」
「わ、分かりました……。では、キリカ――さん」

屈託なく笑っている彼女――葛葉キリカに対して、ハヤテは手を両膝につけたまま名前を呼んだ後、目を逸らして俯いていた。
綾崎ハヤテの抱くキリカのイメージは、「氷の美女」である。
学校の行事などで遠目にしか見たことのなかったハヤテは、顔立ちの整った美人でありながらも眼光の鋭い彼女のことをそのような印象で抱いていた。
だが、実際に面と向かったときの彼女の気さくさとそのギャップに、彼は面食らってしまっていた。

ハヤテの右隣に座っていて、二人のやり取りを流し目で見ていたヒナギク。
彼女は手にしていたティーカップを一度テーブルに置いた後、さり気ない仕草でハヤテの太腿を思い切り抓った。
全身を硬直させて小さな悲鳴をあげるハヤテ。
その様子を見て、口許に手を宛てながらクスクスと笑うキリカ。
そして、一度ため息を吐いたヒナギクは、仕切り直して会話を始める。

「今日はアポも無しに突然押しかける形になって、すみません」
「そんなことなら気にしなくていいわ。学生のいない時なんて暇そのものだから。――でも」

一度言葉を切り上げたキリカは、ティーカップの紅茶を音も立てずに啜る。
そうして空になったティーカップを右手に差し出していた。
すぐさま応じたのは、キリカの執事でもある暮里詩音である。
白磁のポットを持ったまま主のすぐ後ろで控えていた彼女は、空のティーカップに琥珀色の液体を注いでいった。
再度ティーカップに口をつけたキリカは、二人を見つめながら、ようやく言葉を補った。

「まさか、誰もいない学校をデート先に選ぶとはねぇ」

キリカの一言に、彼女の言葉を待っていたヒナギクと、付け合わせのクッキーを口に運ぼうとしていたハヤテの動きが固まった。

「――ちょ、な、何を言ってるんですか!?」

数秒の沈黙を破って、真っ先に反論したのはヒナギクであった。

「あらそう? 夏休み前は二人のことで話題は持ちきりだったのよ。私のような一理事の耳に届くくらいはね。
 そんな二人がほぼ無人の学校に行くなんて、何だかアヤしいじゃない? イヤらしいじゃない?……ねぇねぇ、どこまで――」

「で・す・か・ら! 元々用事があって学校に行っただけで、そんなんじゃないですって!――ほら、ハヤテ君!」

「はいッ! な、何でしょう!?」

「貴方も何か言い返しなさい!」

「――そ、そうですよ! 僕だって今回は、ヒナギクさんに無理矢理連れてこられただけで……」

「無理矢理って言うなぁぁ!!」

反射的に繰り出されたヒナギクの右アッパーをもろに食らい、易々と宙を舞ったハヤテ。
その有様を見て、キリカは腹を抱えて笑い、詩音は笑いを噛み殺すのに必死であった。



「からかってごめんなさいね。――それで、用事というのは何かしら?」

一頻り笑い続けたキリカは、ハヤテがよろよろと席に戻ったのを見て仕切り直した。
ヒナギクは、顔を真っ赤に染めたまま、スカートをポンポンと払う。

「キリカさんは昔、剣道部の顧問をしていたと聞いています」
「あら、よく知ってるわね。たしかに、理事になった最初の二、三年だけしていたわ」
「その中に、『柏木』という部員がいませんでしたか?」
「かしわぎ……あっ! もの凄く強い柏木なら知ってるわ。負け知らずだったから、彼」

キリカの返答に、ヒナギクは胸を撫で下ろした。幸先の良いスタートだとも捉えていた。
むしろトントン拍子で話が進むことに、一抹の不安を覚えるほどだった。

十年間忘れ得なかった男。見つけるべきと思っていた男。
別段、ヒナギクは十年間その男を捜し続けていたわけではない。
それは当時幼稚園児だった彼女が、一度見ただけの男を捜せる術を持っていなかったからでもある。
が、それ以上に、捜そうとする彼女の意欲を掣肘する存在が、彼女の中にあって欠くべからざる人だったこともあった。
それが――ようやく。

「たぶんその『柏木』だと思います。彼についてですが――」

質問が続かないことにヒナギクは驚いた。口を何度もパクパクと動かすが、声が出てこない。
言葉にできないのではなく、言葉にならない状態に彼女は陥っていた。
自身を刻む脈動が、唐突に早まっていく。
全身から血の気が引いていき、手足の感覚が鈍くなる。
肺の縮こまっていく様が、直感的に見て取れた。
頭の中の警鐘が、忙しなく叩かれている。

「人となりとかを知りたいのだと思います」

ヒナギクの代弁をするかのように、ハヤテが口を開く。
二人して、ハヤテに視線を向けた。

「全国大会を二連覇するほどの実力者。ヒナギクさんは、そんな偉業を成し遂げた大先輩がどんな人だったのかを知りたがってました」

ハヤテは右手でヒナギクの背中を優しくさする。
先ほどグーパンチで吹っ飛ばされたにもかかわらず、彼の行為はそれに対する遺恨を微塵も感じさせなかった。
ヒナギクは彼の温もりに触れ、再び平静を取り戻す。呼吸も安定し始めた。

「貴方、本当に――」

キリカはハヤテの顔を凝視する。

「何か、顔に付いてますか?」
「――いえ、何でもないわ」

歯切れ悪く答えた後、キリカはティーカップに一度口をつけた。

「それで、彼について知りたかったのね?」

キリカの問いかけに、ヒナギクは頷く。

「残念ながら、彼は白皇学院から除籍されているわ」
「除籍ですか!?」

ハヤテとヒナギクの言葉がぴったりと重なった。ハヤテに至っては、僅かに腰が浮いている。
除籍――退学よりもさらに重い処分である。
辞めた者としてではなく、元々いなかった者として扱われるのだ。

「昔の白皇学院は、文武両道の名門校を目指していたの。それこそ、潤沢な資金を使って部活動の環境を整え、スポーツ特待生を設けて人材を獲得していたわ。
 そうやって数多くの部活動が全国区で名を馳せていた。柏木が全国優勝したのも、その黄金期とでも言って差し支えない頃だった。本当にすごい時期だった」

そう語るキリカは遠くを見遣っていた。感傷に浸っているのは、二人の目から見ても明らかであった。
しかし、キリカの表情は瞬く間に険しいものへと変わっていく。
まさに、ハヤテが常日頃から見ている表情であった。

「でもね、ある日事件が起こったの。――恐喝よ。
 この学校は金持ちの子弟が多く通っているから、スポーツのできる腕っぷしの強い彼らからすればカモでしかなかったの。
 その中でも、柏木・皆月・白田の三名は暴力沙汰を起こしてしまったから、理事会で審議して除籍処分としたの。だから名前も残ってない」

この話を聞いて、特に「カモ」という言葉でハヤテは自身の主を思い浮かべた。
その主は十三才。飛び級で高校生になっているから、周りに比べて華奢であるのは当然の話である。
仮に同じ学生から虐げられて、金を巻き上げられていたと考えたとき、彼の中で怒りが湧き上がっていた。
一方のヒナギクもスカートの裾を握りしめ、わなわなと震えていた。
正義感の強い彼女からしても、ハヤテと同じ感情に至っていた。

「その一件があってから、白皇学院は勉学に特化していくようになった。対照的に部活動の立ち位置は、娯楽程度のものとなった。
 特待生を廃止し、部活動の規模を徹底的に縮小した。立派な施設やグラウンドがたくさん残っているのは、当時の名残でしょうね。
 あとは新校舎を建設して、学校方針の刷新を内外に示した。――突発的な理事長の空位の中で、よくこれだけのことができたと思ってるわ」

葛葉キリカの理事室は、夏の陽気とは正反対の暗く陰険とした空気で支配されている。
少なくとも、白皇学院の別の側面を聞かされた二人は、思わぬ新事実に閉口したまま俯いてしまう。
キリカは温くなった紅茶を一気に飲み干し、詩音におかわりを促した。
湯気の立つ紅茶を香りで楽しみながら、キリカはこの重苦しい空気を切り開こうとする。

「ごめんなさいね。こんな昔話をするつもりはなかったんだけど。
 でも、柏木はもうこの学校の『関係者』ではなくて、私も今彼が何してるかはしらないのよ」
「そんなことありません、彼が何をしでかしたかを知ることができました」

ヒナギクは口ごもりながら答えた。ハヤテも辛うじて頷く。

「でも、私も元顧問として、彼の足取りを探してみるわ。だから、今日のところはこれでお引き取りいただけるかしら?」

キリカはわざとらしくウインクしてみせた。








暮里詩音は内心で冷や汗をかきながら、主の背中を眺め続けていた。
二人が退室してからは、キリカはティーカップを持ったまま、部屋の奥に面する窓のカーテンへと歩み寄っていた。
その窓からは、白皇学院の敷地内を遠く見晴らせるようになっている。荘厳な校門とて例外ではない。
キリカが今もなおあの二人を『気にかけて』いることは、執事としての経験上察知することができた。

執事は研ぎ澄まされた機微を以て、主の心境を悟らねばならない。
本来なら言われてから動くのではなく、主のしたいことを汲み取るべきであった。
しかし、詩音はあえてそれをしなかった。
否、する必要がないと判断した。

背中越しに彼女へと伝わってくるのだ。
押し殺しきれずに滲み出ているキリカの苛立ちが。

「ケータイ」

十数分の沈黙を破って、キリカがたった四文字の命令をする。
詩音は迅速にキリカの元へと駆け寄り、空いている左手へ携帯電話を差し出した。
キリカはそのまま片手で操作する。親指でダイヤルを入力し、耳許へと宛がった。
電話の相手は、軽薄な口調でしゃべり始める

「姐(あね)さん、ご無沙汰です。突然の電話なんて珍しいですね」
「……姐さんと呼ばないで。ただでさえ苛々してるんだから」
「あら、姐さんらしくないですねえ。どうかしたんすか?」

男の問いかけに、キリカはしばらく黙り込んだ。
ティーカップを持ち続けている右手で、押しのけるようにカーテンを僅かばかり開けた。
窓から校門を見下ろせば、そこから出ようとする二人の男女がいる。
その二人に目を凝らしながら、キリカは言葉を紡ぎ出した。

「――最優先事項ケースC」
「……はい? 姐さん、何を」
「最優先事項ケースC。復唱しなさい。――柏木」
「最優先事項、『我々の存在を暴こうとする者の確保、ないしは排除』。承知した」

柏木と呼ばれた男の声色は、ドスのきいた威圧的なものへと変わっていた。
口調も軽いノリから関西弁へ。彼が『仕事』で用いる口調である。

「よろしく頼むわ。私が直接手の出せない案件だから」
「……てことは、姐さんとこにいる人間やから、学校関係者ということやな」
「ええ。そうよ。名前は『桂ヒナギク』。
 ――名字は変わっているけど、『ユキジ』の妹よ」
「そうか。アイツのか……」

そう言った後、柏木は愉快そうに笑っていた。その笑い声を聞かさているキリカは顔を顰める。

「また近いうちに連絡するわ。すぐに動けるようにして」
「分かっとる。でも、明後日にはデカい取引があるんや。ボスも直接出向くと言ってる」
「――分かったわ。早いうちに連絡する」

通話を切り、傍に控えていた詩音へと左手を差し出す。
平然と動かした左手に対して、ティーカップを持つ右手は震え始めていた。
琥珀色した表面は、さざ波からすぐさま大きな波へと変貌していく。
そして、カップの縁から零れたときと同じくして、キリカはティーカップを床へとたたきつけた。
がしゃんとティーカップが割れ、絨毯に大きな染みができる。
その音が部屋中に響き渡るときにはもう、ヒールの踵で、目につく破片を順々に踏み抜いていた。

「なんで! 今になって! あともう少しなのに!」

呪詛のように怨嗟を込めて、しかもヒステリックにキリカは叫んでいる。
詩音は呆然としたまま、その光景を眺めていた。主の心情など推し量りようがなかった。
粉々になっていくティーカップの処分をどうしようかという、義務的なことしか頭が回らない。
こんな主の醜態を見るのは、彼女にとって初めての出来事であった。




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