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大切なヒト マリアさん誕生日記念・完結
日時: 2013/08/21 16:48
名前: サタン

※注意事項(10/3本文スレから転記)

今回のこのSSは時系列順で高尾山に行く前までの設定が続いていて、そしてそのまま12月24日まで行ったことが前提になっています。
従って、あのハヤテを救ったもう一人の少女が出ません。
理由としては登場キャラクターを増やすと、私の文章力ではきれいに完結が難しいためです。

※10/24追記 諸事情によりタイトルを少しだけ修正しました。 悪しからず。


それでは本編をどうぞ。




















恋をしました。
一目惚れというものではありません。
むしろ、私がこの人にそんな気持ちを抱くことになるなんて…出会ったときには想像しませんでした。
想像もできませんでしたけど…あの日、あの夜の…彼と出会った、そのときから…
私の胸にはこの想いが植えられていたのかもしれません。

彼と出会ってからの生活は、少し慌ただしいものとなりましたが、
同時に賑やかで、ときには悩ましくもあり…ですが、とても新鮮なものでした。
彼自身もまた、生まれつきなのでしょう…異様な不幸に付きまとわれる定めの下にあるようですが、
懸命に、ときに挫けそうになっても、彼はひたすら前向きに…生きていました。

そんな姿にときには呆れ、ですが同時に感心しつつ、このお屋敷で共に過ごした日々。
少しずつ彼のことを知って、自分のことを話して…共有した多くの時間、何気ない出来事…
そんな日々が、水となり滋養となっていったのでしょうか。
胸にまかれた小さな種は気づかぬうちに殻を破り、根を張って…
ある朝、ふと気がついたときには、小さな芽が顔を出していたのです。
彼への恋心という。 想いの芽が。

こんな気持ちになったのは、初めてのこと…初恋、というのでしょうか。
ドキドキしたり、切なくなったり、嬉しかったり、恥ずかしかったり…
話しているだけで、顔を見ているだけで…いえ、その人のことを想うだけで私の心は慌てふためいて、
でも…とても、満たされる…

誰かさんは恋をしない青春は灰色だ、なんて言って私のことを酷く傷つけてくれましたが、
どうです?
私だって、ちゃーんと恋をしているんですよ?

…恋をして初めて知りました。
お屋敷での代わり映えないと思っていた日常。
それですら…こんなにも楽しくて、眩しくて、温かくて…そして、切ない日々になり得ることを。

それは。 かけがえのない…本当に素敵な、宝物のような気持ち。
誰にも触れられたくない、誰にも見られたくない…私だけの。 宝物。
だから、この想いは大切に。 宝箱の中に。
誰の目にも触れない、誰にも知られない…私だけの。 胸の奥に。
最後まで、永遠に…私だけの。 胸の奥に。

何故なら、この想いはあの人をきっと傷つけてしまうから。

何故なら、この気持ちは、あの子を…裏切るものだから…















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Re: 大切なヒト(8/25更新) ( No.1 )
日時: 2013/08/25 15:57
名前: サタン

今日は12月24日…クリスマス・イブです。
私とナギがハヤテ君と出会ってから、ちょうど一年。
なんだか、早いと言えば早いような、それでいて…いえ、なんだか何年も経っている気もするのですが、
まあ、気のせい…ですよね?

それはともかく…
例年この時期は社交パーティが目白押しなのですが、
今日はナギのたっての希望で、よそ行きの予定はすべてキャンセル、
お屋敷でナギとハヤテ君、そして私三人だけでささやかなパーティをしようということになりました。
ハヤテ君がお屋敷に来てから一周年と、私の誕生日を祝って、との名目です。
私は自分の誕生日のこと、あまり好きにはなれなかったのですが、
ハヤテ君が折角だから、と言うものですから…結局、同意してしまいました。
あまり好きではないことであっても、想いを寄せる人が祝ってくれるというのなら…
それはそれで悪くないような気もしたのです。
想いを決して表に出さないことを決めたのです、せめて…これくらい甘えてもいいですよね?

そう、この気持ち…この想いは、今のところハヤテ君にも、ナギにも…看破されてはいないようです。
まあ、当然ですよね?
だってあの二人は、未だに…もう一年も経つというのに、
相も変わらず誤解を抱えたままの¨超¨がつく鈍感さんたちなのですから。

…なんて埒も無いことを思い出しながら、厨房でパーティの為のご馳走の下拵えなどしていると、
背後でドアを開く音がして、

「マリアさん、今夜に向けて何か特別に準備することはありますか?」

ハヤテ君が声をかけてきます。
今日は休日なのでハヤテ君も朝からお屋敷にいるのですが、
彼がいるとお掃除なんかはあっという間に終わってしまうものですから、少し手が空いてしまったのでしょう。

「いえ、パーティと言っても三人だけですからね、少しお料理の下拵えをしたら午後からで 十分ですよ」
「わかりました、ではお庭の掃除などしていますので、
 何か御用がありましたら呼んでください!」

こんな、他愛のない会話…こんなところにも、小さな喜びを見い出してしまう…
でも、それだけ。
それ以上は、望みません。 これで十分、以前の私よりはきっと、幸せなのですから。

…でも、ちょっとだけ悪戯心。

「でもいいんですかハヤテ君?」
「え、何がですか?」

そして…多分、少しだけ…

「だってハヤテ君、今日はクリスマス・イブですよ?
 誰か一緒に過ごしたい人がいるんじゃないですか〜?」

その¨誰か¨に対する嫉妬から。
勿論、そんな思いを顔に出したりなんかはしません。
あくまでも¨年上のおねーさん¨としてちょっと悪戯っぽく、なのです。

「な、何を言うんですかー!
 そんな、別に…そもそも今日はお屋敷に出る予定はありません!」

あらあら、真っ赤になっちゃって…なんだかいつもより可愛いですね〜
これは、なんかこう、もうちょっと…






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Re: 大切なヒト (9/3更新) ( No.2 )
日時: 2013/09/03 15:25
名前: サタン

「あら、でも時期が時期ですし…そうですねぇ、例えば西沢さんなんか、
 彼女の方から会いたがったりされたんじゃないですか〜?」
「あ…」

なんでしょう…ハヤテ君は先程のように即座に否定せず、
ですが、なんだか酷く申し訳なさそうな顔をしてしまいます。
うーん…もしかして、あまり触れてはいけないところだったのでしょうか…

「あ、あの…あまり聞かれたくないこと、だったでしょうか?」
「あ、いえ! 別に、そういうわけでは…」

ハヤテ君は慌てて取り繕うような笑顔を見せて、
何でもないことのように振る舞いながら、

「西沢さんからは確かに誘われましたけど、ちゃんとお断りしましたから!」

はっきりとそう言いました。

「そ、そうですか…それはお疲れ様でした」
「いえ、別に」

ハヤテ君の言う“ちゃんと”というのが一体どんなものだったのか。
彼の様子から、なんとなく想像できます。

「よかったのですか? その…西沢さんは、ずっとハヤテ君のこと…」

それは多分、私に言われるまでもなくハヤテ君が一番わかっていること。
ナギよりも、私よりも、ずっと前から知っていて、その頃から一途に想っていてくれた人。
断られた彼女は本当に辛いでしょう。
でも、断ったハヤテ君だって。
間違いなく西沢さんへの罪悪感にさいなまれているに違いありませんそういう人なのです。

「あの…こういうことを言うと気分を悪くされるかもしれませんが、
 “ちゃんと”ではなく、やんわりと、と言いますか、保留するような感じにはできなかったのですか?」

そう、ハヤテ君一流の天然ジゴロ属性で。

「それは西沢さんに失礼ですから…」
「まぁ、今は借金で恋愛どころじゃないのかもしれませんが、ハヤテ君だっていつかは…」

いつかその枷から解放されたその時に、ハヤテ君がナギの方を向いていてくれるのか、
それとも他の誰かを見ているのか。
前者であってくれれば一番丸く納まるのですが、
そこは結局ハヤテ君次第ですし、やはりハヤテ君自身の想いを尊重すべきでしょうから…

「はい、でも…」

ハヤテ君は私の顔をちらちらと窺いながら、なんだか喋りづらそうに口篭もります。
ですがまだ先が続きそうなので、私はなにも言わずに言葉を待ちます。
私が口を挟む気がないとすぐにわかったのか、ハヤテ君は口を開いて、

「実は、その…」

言葉が途切れ途切れなのはもったいぶる、というよりも、本当に恥ずかしいからのようで、
うつむき気味の赤い顔で、上目使いにこちらを見ながら…

「す、好きな人が…いるんです…」





どきん、と。
心臓が大きく鼓動を刻みます。
好きな人が、誰かを好きになったと言う…
成就させるつもりのない恋なのに、そのはずなのに…
それなのに、たったそれだけのことで私は…こんなにも動揺していました。

むしろハヤテ君が誰かを好きになれば私のこの想いもきっと淡く薄れて、
ただの初恋の思い出として胸の奥にしまっておける、とすら思っていたのに…

「そ、そうだったんですか」
「はい…」

どう反応すればいいかもわからず、どうでもよさげな答え方をしてしまいました。
ハヤテ君もまた、それ以上何を言うべきか、言わないべきか、迷いがあるのか恥ずかしいのか。

本来なら、そこで会話を打ち切るべきだったのかも知れません。
私がハヤテ君の恋愛に興味を持っているということだって、
そもそも気取られたくはなかったはずなんです。
ですが、気になって…
ハヤテ君が、私が想いを寄せるこの人は、一体誰のことが好きなのか…
気になって仕方ないのです。
それで私は、あくまでも冗談っぽく、

「えーち、ちなみにハヤテ君の好きな方というのは、どなたなんですか?」
「そ、それは! えぇと、その…」

んーいけませんね…深入りすべきではないと胸の奥から警告の声が聞こえるのですが、
どうも赤くなってうろたえるハヤテ君を見ていると、意地悪の虫が騒ぎ出して…

「そうですね…一番可能性がありそうなのは、
 やっぱり美人で頼りになる、ヒナギクさんじゃないですか〜?」
「ち、違います!」
「あら」
「確かに、その、ヒナギクさんは憧れるところはあるって言うか、
 そういうのはありますけど」

んー、結構本命のつもりだったのですが、違いましたか。
となると、そうですね…ある意味大穴ですが。

「ひょっとして、ナギ?」
「違いますっ!」

これも外れ。

「前にも言ったじゃないですか!
 僕はロリコンになる気はありませんっ!」
「そうですか、一年も一緒でしたから、ひょっとすると克服されたかなと思ったんですが」
「そういうのは克服とは言わないと思いますが…
 と、とにかく年下よりも年上なんです、僕の好みは!」

ハヤテ君もだんだんテンションが上がってきてますね、なんだか妙に力が入ってきています。
まぁ…人のことは言えませんが。

「年上と言いますと…桂先せ…」
「違います!」
「では…」

そうやって絞りこんでゆけば、いずれは正解に辿り着く、その方法自体には間違いはありません。

「うーん、では牧村さん?」
「いいえ」

こうして、消去法で候補を消していって…

「サキさんとかは?」
「違います」

そうすれば、最後に残るのは

「もしかしてヒナギクさんのお母さ…」
「いくら若々しくても同級生の母親に手出しはしませんっ!」

あと他に…ハヤテ君と縁のある、年上の女性…
んー、あとは…
……



ふと。
おかしなことが頭をよぎりました。
そういえばもう一人…
ハヤテ君の身近に、一つ年上の女の子が…いましたっけ…

それは、軽い冗談のような感じで思いついた、
ですが少しも笑えない…決して考えてはいけないこと。
あるはずがない、そう思いながらも、
私はハヤテ君にこんな話題を振ってしまったことを後悔しました。

さっきからハヤテ君が見せている、恥ずかしげな様子。
これがもし、好きな人を言い当てられそうだから、なのではなく、
その“誰か”のことを、今この場で口にしようとしているから、なのだとしたら…

「あ! すみませんハヤテ君!
 私、お洗濯をせねばなりませんので、こ、これで失礼しますね!」
「あ…」

何か言いたげなハヤテ君に背を向けて、私は慌てて部屋を出ようとして、

「待ってください!」

その声に引かれるように駆け出すのが遅れた私の手は、ハヤテ君に捕まえられて、

「ハ…ヤテ君?」

ドキドキと、鼓動が早鐘のように高鳴っています。

「あのマリアさん…」

名前を呼ばれ、恐る恐る振り返る私のことを…私の顔を、
ハヤテ君は真っ赤な、だけど真剣な顔で見つめていて…



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Re: 大切なヒト (9/12更新) ( No.3 )
日時: 2013/09/12 10:54
名前: サタン

「は、はい」

私もハヤテ君の顔から、目が離せませんでした。
密かに想いを寄せている人からこんな風に見つめられて、その視線を避けるなんて、
私にはできませんでした。

「聞いてください、あの…」
「は、はい」

聞いてはいけない。 もし、ハヤテ君が…あくまで“もし”ですが、
私の考えている通りのことを言ってしまったら…
高鳴る鼓動は私の理性が鳴らす警鐘であり、そして…抑えきれない、私の期待。
応えられない、応えてはいけないとわかっていても、それでも抱かずにいられない、
淡い、期待。

聞いてはいけない…でも、聞きたい。
そんな二律背反に捕われながら、結局私はハヤテ君の手を振りほどくこともせず、
どうすることもできず、立ち尽くしていました。
ハヤテ君に手を握られたまま、
ハヤテ君と、見つめあったまま、

「僕の好きな人、ですが…」
「…」

胸が、痛いくらいに高鳴ります。
不安と、期待と、あの子への罪悪感で。

「僕の好きな人は」

息が詰まりそうな沈黙を挟んで、ハヤテ君の唇が開いて、

「おーいマリア、紅茶…って、ハヤテもいたのか。
 どうしたのだ二人して?」

唐突に厨房へ現れたナギが目にしたのは、
半端な距離をおいて、顔を真っ赤にしながら自分を驚いた顔で見つめる二人の使用人だったと思います。

がちゃ、と扉が開いた音で私とハヤテ君は一気に我に返り、
ナギがドアから顔を覗かせる寸前に互いに飛び退くようにして離れていました。
ですが何せ咄差のことです、
何事もなかったように落ち着き払って、とまでは参りません。
ハヤテ君はまだ顔が赤いままですし、まず間違いなく私もそうでしょう。
そんな私達の様子に、やはりナギも女の子です、何かしら不審なものを感じとったのか、
なんとなく目つきが険しくなって、

「あ、ナギ、紅茶ですね?
 すぐに準備しますから、少し待っててくださいね!」
「で、では僕は庭の掃除をしてきます!
 お嬢さま、失礼します!」

上策、とは言えませんが、ナギに何か言われる前に、私もハヤテ君も、仕事に逃げ出したのでした。

不審げな目つきのままのナギを残して。





「…」

少し午前中にお仕事を頑張り過ぎてしまいました。
忙殺されることで余計なことを考えずに済んだのはよかったのですが、
午後になってすぐに、やることがなくなってしまったのです。
仕方なく部屋に戻り、本を開いてみたりテレビをつけてみたりもしましたが、
一人になって落ち着いてしまうと、どうしても考えてしまいます。

あのとき、ハヤテ君が言おうとしたこと、
部屋を出ようとした私の手を掴んで、引き止めて…そうまでして、私に伝えようとしたこと、

どきん、どきん、という鼓動の音が、静かな室内でやたら大きく聞こえます。

私はハヤテ君のことが好き。
初めはその感情自体を頑に否定しようとしたこともありました。
ですが、芽生えてしまった想いは消えず、彼と共に過ごす日々を糧にそれは強く、大きく育ち…

もはや、自分でも否定しようのない確かな感情となって私の中に存在していました。
でも私は知っているのです。
あの子ナギもまたハヤテ君のことが好きで、
しかもナギはハヤテ君が自分のことを好きだと信じて疑っていないのです。
あの子が私より先にハヤテ君のことを好きになったのだから、
そして私はそのことを初めから知っているのだから。
ナギのためにも、ハヤテ君のためにも私の想いは成就させてはならないのです。
二人とも…私の大切な人だから。

でも、ハヤテ君はそんな事情を知りません。
ナギに想われているなどと、まさか夢にも思ってはいないはずなのです。
だから…もし、仮に。
あの時、ハヤテ君が口にしようとしていた名前が…

コン、コン。

乾いた音が、私の思考を停止させました。

コン、コン。

もう一度、乾いた音―軽いノックの音が、私の胸を叩きます。

「あの、マリアさん、僕ですが…」

扉の向こうから聞こえてくる声は、聞き間違うはずもありません。
ハヤテ君のものでした。
その現実が、私の心をぐらり、と揺るがせます。
まだ、彼の来訪目的が“そのこと”だなんてわからないのに、
わたしの胸は不安と期待で覆われて、鼓動がゆっくりと加速を始めます。

「あの、マリアさん?」
「あ、は! はい! どうぞ」

がちゃ、と扉が開き、

「失礼します」

部屋へと入って来たハヤテ君の顔は普段の彼のものでした。

「あの、マリアさん、パーティーの準備のことで少し伺いたいことがありまして」
「あ…は、はい! なんでしょう?」

すっかり普段どおりのハヤテ君の様子に、私は少しだけがっかりして、
でも、やっぱり安心して、聞かれたことについていくつかの指示を出します。

そうです、自分で決めたことじゃないですか。
この気持ちは誰にも気付かれないようにする、と。
想いを寄せるこの人にだって…いえ、この人にこそ、
絶対に気付かれてはいけない気持ち。
だから…うん、これで良いんです。
それに大体、そもそもハヤテ君が私のことを好きになること自体、有り得ませんし。
全く、私ったら自意識過剰なんですから…まぁ、でもこれで、やっと落ち着いて…

「あの、マリアさん…あと、もうひとつ…」
「はい、なんでしょ…うか…?」

それは油断でした。
私は胸のなかで自己完結的な思いを巡らせるばかりで、
目の前で不自然にうつむいていたハヤテ君の様子に違和感を抱くことができなかったのです。
そして顔を上げた彼の表情は、今朝のあの時と同じ。
恥ずかしげで、だけど真剣な、眼差し、

「ハ…ヤテ、君?」

その眼差しで真っ直ぐに見つめられた私は、
為す術もなく、まるで彼に取り込まれてしまったみたいに、
ハヤテ君から目を反らすことができず、

「あの、こんないきなりですみませんが、今朝のあの話で、
 どうしてもマリアさんに聞いて欲しいって言うか…!」

そんなダメですよそれは聞いちゃいけないんです…!

「僕は…僕の好きな人は…」

あなたは知らないでしょうけど、ナギはあなたのことを…だから!

「ごめんなさいっ!」
「マリアさん…?」

ハヤテ君に顔を見られない様に、頭を深く下げて、

「ナギに、あの子に呼ばれていたのでした、すみません! 急ぎますので、失礼しますっ!」

一方的に言い捨てて、私は早足で廊下に向かいます。
途中、すれちがったハヤテ君の顔は見ることができませんでしたが、
うつむいたまま歩く私の視界の端にハヤテ君の手がちらり、と映りました。
その手は微かに震えていて、きっと怒っているのでしょうね…
だって、あんなに真剣になって伝えようとした“何か”を、私は聞こうともしなかったのですから。

嫌われた、かもしれませんね。
でも、いいんです。
きっと、これでよかったんです。
これで私も…この気持ちを、諦められ――

「…マリアさんっ!」

背中に投げかけられた弾けるようなその声には、怒りなんかじゃない、
もっと強い何かが込められているかのように、
その声に気圧されたように…
捨てられない、諦めきれない想いに絡めとられたように、
私の足は、動いてはくれませんでした。
背を向けたまま足を止めた私に、ハヤテ君の声が届きます。
さっきのような衝動的な叫び声ではなく、
低く、胸の奥から紡ぎ出すような、強い想いが込められたそんな声で、

「…マリアさん、なんです」

どくん。

「僕の好きな人は…マリアさん、なんです」

どくん。 どくん。

どくん。 どくん、どくん、どくんどくんどくん

心臓は壊れそうなくらいに脈打って、
全身がカタカタ震えだして、止まらなくなって…

破れてしまいそうな胸を両手でぎゅっと押さえ付けて、
私は、

「な、何を言うんですか…?」

声は、どうしようもなく震えていたと思います。
ですが、もうそんなこと、気にしてはいられません。
いえ、もう何がなんだか、わかりません、
わかりませんけど、

「そんな、年上をからかっては、いけません…よ?」
「からかってなんていません!」

ハヤテ君の声が、さっきより近いです。
私を追って廊下へと出たのでしょう。

「冗談なんかじゃありません…僕は、本気でマリアさんのことが…!」

わかっています。
自惚れなんかじゃなく、ハヤテ君の真剣な目や、声でそれくらいわかります。
だって…そんな、何事にも真剣で、真摯な人だからこそ…
私は、ハヤテ君を好きになったのですから。

でも…

「ダメ…ですよ」

背中越しに放つ、拒絶の言葉。
ハヤテ君を傷つけて、私自身をも刺し貫く、痛い、言葉。

「気持ちは…嬉しいです…本当に、嬉しいです。
 でも、ダメなんです…」

本当は、ハヤテ君の顔を、目を見て伝えなくてはならないことです。
ですが、こんな顔見せられません。
いつ涙が溢れてしまうかもしれないような半泣きの顔なんて見られたら、
すぐに私の気持ちは、バレてしまうから、いくらあの鈍感さんでも。

ハヤテ君は何も言いません。
私も、これ以上何も言えなくて、
もしかすると、ハヤテ君の次の言葉を待っていたのかもしれません。
でもそれはただの未練です。
何を言われたって、何と言ってくれたって、
私には彼の言葉に応える資格は…ないのです。

ですから…このまま、去ることにしました。

「では、失礼しますね」

最後まで背中を見せたまま、うつむいたまま、その場を離れようとして、

「マリアさん…」

踏み出そうとした一歩が前に、出ません…

「マリアさんは他に、好きな人がいるのでしょうか…?」
「…いいえ」

あなたの他に想いを寄せる男性なんて、

「いません」

嘘でも、いると言えば良かった。
そうすればハヤテ君だって、私のことなんて、きっとすぐに忘れてくれるはず。
なのに…本当に、未練がましいにも程があります。

「では…僕のことが、嫌いなん――」
「違います!」

そんなわけ、ないじゃないですか。
いっそ、そうだったらどんなに良かったか、
嫌いになれるなら、どんなに楽になれることか…

「ナギが…」
「…え?」
「あの子がいるから…」

だから仕方ないんです…
私だってあなたの気持ちに応えたいんです!
だから…もう、お願いです…
これ以上、私に未練を引きずらせるようなことを、言わないで…

「だ、大丈夫です!
 お嬢さまでしたら、僕がきっと、いえ、必ず! 説得して見せますから!
 マリアさんに手出ししたらミンチにするとか凄い剣幕で言われたりもしましたけど、
 お嬢さまだってちゃんと説明すれば必ず――」
「私が言いたいのはそんなことじゃありません!」

叫んでいました。
だって、こんな…人が必死になって想いを断ち切ろうとしているのに、
ハヤテ君は今更…こんな見当違いなこと!

「どうして、わからないんですか…」

全て、話してしまおうと思って彼の方に向き直りました。





「あなたにはナギがいるから…」
「マリアさん…?」
「だから私は、ハヤテ君の気持ちには応えられないって…どうしてわかってくれないんですか!?」

声が、感情が抑えられません。

「私だって…私だってあなたのことが…」

え、私感情に任せて何を…

「あなたのことが、ハヤテ君のことが…」

待って、違う! 私が言おうとしたのは、こんなことじゃなく、

「ハヤテ君のことが…」

や、ダメ…それは違う!
私が言いたいのは…

「好きなのに…」



「マリアさん…」
「私もハヤテ君のこと…好きなのに!」

言ってしまいました…
決して口にしないはずだった言葉をこの、想いを…!

「マリアさん…」

ハヤテ君の驚いた顔が、滲んで見えました。
ハヤテ君とあの子の間で板挟みになっていた私の心は、
禁忌を犯したその瞬間、決壊してしまったのか、涙が止まらなくて、

「でもダメなんです…ダメなのに!」

ダメだとわかっていても、もう取り返しはつかなくて、

「う…うぅ…ごめんなさい、私…うっ…」

嗚咽をあげて泣くしかなくなってしまった私を…

「うっ!? ハヤ…テ、君…」

ぎゅっと…ハヤテ君が抱き締めてくれていました。

「マリアさん、すみません。
 僕は、マリアさんの事情はわかりません。
 こんなことを言って、マリアさんのことを苦しめてしまったかも知れません」

私を胸に抱いて、耳元で優しく囁いてくれます。

「でも…それでも、僕はマリアさんが辛い目に遭わないように、全力を尽しますから!」

ハヤテ君の声が、染み入るように私の心に響いてきます。
こんなことになって、辛い目に遭うのは私だけじゃなく、
むしろハヤテ君こそ、本当に辛いことになるのです。
そして彼自身はそのことを知らなくて、私はそれを伝えるつもりだったのに…
ナギとの間にある誤解を全て明かして、彼に真実を伝えるつもりだったのに…

囁いてくれる声が、
抱き締めてくれる温もりが…
諦めるはずだった想いを、どうしようもなく掻き立てて、
間違いだってわかっているのに…このまま、溺れてしまいそうなくらい…
いえ、もう既に溺れているのかもしれません。
いつの間にか、私もハヤテ君の背に腕を回して、彼のことを抱きしめていたのですから。

わかっています。
こんな満たされた気持ちでいられるのは、ほんの僅かな間でしかないと。
この腕の中の温もりも、やがて幻のように失われてしまうのだと。
それでもせめて、どうせ叶わぬ想いなら、せめて今、一時だけでも、
顔を上げると、すぐそばにハヤテ君の顔がありました。
視線が絡まって、その優しい瞳に引き寄せられるように、更に顔を近付けて、
ハヤテ君の吐息を肌で感じて、ゆっくりと目を閉じて、


ばさっ。


背後で、音がしました。

私は目を開けて、
ハヤテ君は顔を上げて…

「お…嬢さま」


禁忌を侵した報いは、こんな短い夢を見ることすらも許してはくれませんでした。


温かい、刹那の夢は幻と消え――

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Re: 大切なヒト (9/19更新) ( No.4 )
日時: 2013/09/19 11:44
名前: サタン

「お、お嬢さま、あの、これは…」

慌てて弁解を始めようとするハヤテ君を手を上げて制し、
ゆっくりと振り返ります。

そこにいたナギ。
廊下の角を曲がったところで、雑誌を取り落としたままでいました。
怒りよりも、目の当たりにした状況が信じられない、という顔で…そこに立ち尽くしていました。
私が歩み寄ると、“悪い冗談だろう?”とでも言いたげな引きつった笑みを浮かべ、
近付いた私の表情と泣きはらした目を見て、
その笑みは凍りついて…

「全て、説明します」
「あ、ああ…説明、してくれ」
「あの、お嬢さま! これは僕が!」

きっと、私をかばおうとしてくれているのでしょう。
そんなハヤテ君に振り返り、

「いえ、ハヤテ君にも説明しなくてはならないことがあるのです」
「僕にも?」
「はい…」

怪訝な顔のハヤテ君に、心のなかで謝りながら、

「では初めから…一年前、ハヤテ君とナギが出会った、その時に遡らなくてはなりません。
 長くなります…部屋に行きましょう」

あれだけ泣いたからでしょうか。
それとも…もう、決定してしまった、覆せない結末に全てを諦めてしまったのかもしれません。
私は自分でも不思議なくらい冷静に、ナギとハヤテ君を自分の部屋へと誘い、

全てを、話しました。

二人の出会い、まさにその時に生じた致命的なあの誤解のこと、
私だけがそれを知りながら何も出できなかったこと、
そして、それを知っていながらハヤテ君に恋心を抱き、
想いを秘めたままにできなかったことを。

全てを知って、ナギは愕然とし、怒り、泣き…そのまま俯いて顔を上げませんでした。

ハヤテ君はただただ呆然として、その表情は徐々に、自分を責めるように苦々しく歪み、
そして、その顔に最後に残ったのは諦感。
全てが明らかになって、ハヤテ君に残された道は、一つしかないのです。
私が全てを話し終えた後、誰も口を開こうとはしませんでした。
ハヤテ君も私も、そしてナギも、
誰もが、この話の結末を知っていました。
知っているからこそ、慌ただしくも楽しかったこの一年の思い出を惜しんでいたのかもしれません。
誤解という危うい支えの上で、奇跡とも言えるバランスを保ち続けていた…魔法のような日々を。
そしてこの魔法は今、

「なあ、ハヤテ」
「…はい、お嬢さま」

ナギの顔には、いかなる表情も浮かんではいませんでした。
怒りと悲しみと、恐れ…そして、微かな期待。
そんな感情がせめぎあって、どんな顔をすればいいのかわからない…といったところでしょうか。
それでも、ナギは続けます。
夢を終わらせる、魔法を解いてしまう…その言葉を。

「ハヤテ…今からでも、私のことを…」

テーブル手をついて乗り出したナギの顔に、
僅かな一縷の望みにすがるような色が浮かびます。
そしてハヤテ君は…

「…すみません」

ただ一言、搾り出すようにして、言いました。

ぎゅっと握り締められたナギの手は小さく震えて、

「わかった…」

それだけ言うと、顔を伏せて、

「今までご苦労だった。 もういい…出ていけ」

必死で涙を堪えていることがすぐにわかる…そんな声で、ナギはそう、言いました。
ハヤテ君は俯くことなく、ですが悲痛な顔でナギの言葉を受け止めて、

「…わかりました」

低い声ではっきりと、そう答え、

「借金は、必ずお返し――」
「いらん! そんなの知らん! もう関係ない!
 だから、もう二度と私の前に現れるなっ! とっとと…出て行け!」

最後まで顔を伏せたまま、テーブルに、涙の雫を落としながら、
ナギはそれだけ叫ぶように言い切って、あとはただ声にならない嗚咽を漏らすばかりでした。

「それではお嬢さま…」

ハヤテ君は立ち上がると泣き咽ぶナギに申し訳なさそうな顔を向け、

「お世話になりました…このご恩は一生忘れません。 そして…本当に、すみませんでした」

そして私には、済まなそうな今にも泣き出してしまいそうな悲しい笑みを向けてくれて、

「マリアさん、最後まで、ご迷惑をおかけしました。
 一年間、ありがとうございました。 どうか、いつまでもお元気で…」
「ハヤテ君…」

これは、わかっていた結末です。
だから今更、私には何を言う資格もありません。
これで、もう最後なのに名前を呼ぶことしかできないなんて…

ハヤテ君は扉へと向かい、そこで、最後にもう一度こちらを振り返り、
悲痛な陰の差す、でも、それでも魅力的な笑顔を浮かべ――

「…お世話になりました!」

深々と頭を下げて、
そして部屋を出て行きました。

私の…私たちの前から、綾崎ハヤテ君という少年は去ってゆきました。





ナギも私もその場から動こうとせず、ただ俯いたまま、時間を過ごしました。
やがて、屋敷の門が開き、閉じる音が、ハヤテ君が本当に出て行ったことを私たちに実感させた、その後。

「マリア」
「はい…なんでしょう」

俯いたまま、涙声のナギがぼそり、と声をかけてきました。

「ハヤテと一緒に行きたかったんじゃないのか?」

…それは考えました。
いえ、今だって、そうしたいって、そう言えばよかったって…思っています。
でも…

「いいえ…」

無理です。
そんなことはできません。
それは、ナギを一人にするということ。
この子を見捨てることなんて…絶対にできません。
何よりハヤテ君が、許してはくれないでしょう。
ハヤテ君は自分がナギを酷く傷つけたと思っています。
その上、ナギから私を奪うような真似など…できるはずがありません。

「…ナギを一人にするわけには、参りませんわ」

そう答える私に、ナギは俯きっ放しだった顔を向けると、泣き腫らした目で睨みつけて、

「ウソツキ」

ただ一言、それだけ言って席を立ち、

バタン!

と叩き付けるように扉を閉めて、部屋を出て行きました。



この結末は予想通りのことでした。


私が抱いてしまった恋心は、あの人を傷つけました。

抑えきれなかったこの想いで、あの子を裏切りました。


そして私には何も、残りませんでした。

すべてを失って、独りになって泣き崩れること。
それが、今の私にできる全てでした。

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Re: 大切な人だから ( No.5 )
日時: 2013/09/19 14:05
名前: 双剣士
参照: http://soukensi.net/ss/

なんという王道。
なんという直球勝負。
ハヤテSSの道に入った誰もが一度は考えて、そして多くの人が正対しきれず顔を背けてしまった、幻の展開がここにあります。
どんな結末へと向かうのか、楽しみにしています。
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Re: 大切な人だから… (9/19更新) ( No.6 )
日時: 2013/09/26 11:05
名前: サタン

>>双剣士さんへ


確かにハヤテSSの恋愛ものを書く上では避けては通れない、ハヤテとナギの間の地雷です。

一年前に書いたハヤテ×泉では素直にナギを納得させてしまいました。
それでも不自然にならないように、
原作ではないナギと泉が心を通わせる親友になっていく流れで最終的にナギがハヤテと泉の仲を認める…という工夫はしました。
ですが実際に、ナギがどんなにそのハヤテとくっつくヒロインと仲が良かろうと素直にその関係を認めるとは思えない…と考えた上で今回はこのような展開にした次第です。

コメントありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。



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Re: 大切なヒト (9/26更新) ( No.7 )
日時: 2013/09/26 11:33
名前: サタン

クリスマス・イブだからといって特に予定のない私は、
普段より少し豪華になる予定の夕食を準備する為、買いものに出かけていて、今はその帰り道だった。
美希たちからクリスマスパーティーの誘いも受けてはいたんだけど、
賑やか過ぎるのは苦手だし、家族とゆっくり過ごしたいからと断っていた。
それは嘘じゃないんだけど…でも、少しだけ期待していたのも、否定はできない。
――もしかすると、あの人が誘ってくれるかもしれない…って。
だから、その帰り道で彼と出会ったとき…
この巡り会いにちょっとした運命じみた幸運を感じてしまったのも、仕方ないことだったと思う。

「あ、あら、ハヤテ君」
「あ…ヒナギクさん」

期待を抱きつつも、あからさまにそれを顔に出すような無様なマネなんてできないし、
さも本当に何でもなさそうな感じを装って、彼に声をかけた。
彼の反応もまた、そっけないというか、上の空っぽかったのが気に入らなかったけど、どうしてハヤテ君がそんなだったのか。
明らかに様子がおかしいことにすぐに気付けなかったのは、やはり私が幸運に浮かれていたから、なんだと思う。

「珍しいじゃない私服だなんて。 どうしたの?」
「はは…実は、お屋敷を追い出されてしまいまして…」

聞いた瞬間、“びびっ”と私の中に電気が走った。
それはつまり、きっといつかみたいに2、3日ばかりお屋敷に帰れなくなったということで、
その通りならそれは私にとって…とてもチャンスなことなのだ。

「そ、そうなの? 大変ねぇ。 じゃあ…また、うちにくる?
 ちょうど家族でささやかなパーティーでもしようかってところなんだけど、
 ハヤテ君ならお義母さんも大歓迎だろうし、またこの前みたいに泊めてあげられると思うけど…」

前にもあったことだから、別に深い意味はないのよ?
――等と念を押しながら、私は勝手に想像した展開にすっかり酔っていて、

「ありがとうございます、でも…今回は甘えるわけには参りません、すみません」

なんて返事が返ってくるなんて、全然考えてはいなかった。
だから、きっと露骨に残念そうな顔をしてしまったと思うんだけど、
ハヤテ君は、それで特別な反応をしたりもしなかった。
私はまず、自分が浮かべたであろう表情にハッとして慌てて取り繕って、それからやっと、

「ねぇ、ハヤテ君…あなた、どうかしたの?」

彼の様子が明らかにおかしいことに今更ながら気付いた。
いつものように優しげな笑みを浮かべてはいたけど、それは、その…私の好きな彼の笑顔とは、なんだか違う。
なんて言うか…そう、虚ろだった。

「いえ、別に…」

そう、何でもなさそうに…はとても見えない様子で答えようとしてから、
不意に、なんだろう、なんだか思い詰めた様な、凄く感情のこもった目で見つめられて、

「いえ …なんでもなく、ないですね。 ヒナギクさん…」
「え、な、何!? どうしたの!?」

思わず勘違いの期待に胸をバクバクと高鳴らせてしまった私にかけられたのは――

「お別れを言わないといけません…今まで、お世話になりました」

そんな、余りにも突然過ぎる…別れの言葉だった。

「え? ちょっ…ど、どういうこと?」

自分で聞き返しておいて、浮かれた気分を一掃して改めてさっきまでのやり取りを振り返り…
ハッとする。

「ねぇ、もしかして…その、追い出されたって…本当に?」
「はい。 もうお屋敷に戻ることは、できません。 ですので…」
「じゃ、じゃあ学校は!?」

ハヤテ君は何も言わず、ただ首を横に振る。
自分から聞いておいて難だけど、それはそうだろう。
借金を抱える身で、そのうえ特待生でもない彼に白皇の学費を払えるはずがなく、
故に当然、学費は三千院家が…ナギが賄っていたことになる。
――そう、ナギ。
いつか、教会の地下のダンジョンなんてとんでもないところに行ったときのことを思い出す。
あのひねくれ者が、あんなにもハヤテ君を気遣っていた。
あの子にとって、ハヤテ君はそれだけ大切な人だったはずだ。

「ナギと何かあったの?」

ハヤテ君の浮かべる虚ろな笑みに辛そうな陰が差して、
言葉はなくとも“そう”なのだと、わかる。

「お嬢さまを傷つけてしまいました…酷く」
「そう…」

一体どんなことをしたのか、私には想像もつかない。
ナギとハヤテ君は端から見ていても強い絆で結ばれているのが良くわかっていた。
特にナギがハヤテ君に寄せる信頼は一方ならぬ、とても深いものだと思っていた。
だからこそ…そんな絆を覆してしまうようなことだ。
きっと込み入ったことで、ハヤテ君はそれについて答えてはくれないだろう。
だが、今はそんなことは重要ではない。
私にとって切実な問題は、ただ一つ。

「これから…どうするの?」

ハヤテ君が別れの言葉を口にした時から、
背筋に冷たい何かが伝い落ちるような、気持ちの悪い寒気がしてやまない。
思い出したくも無い、あの記憶…

「ねぇ、もし行くところが無いのなら、やっぱりうちにこない!?
 ほら、前にも言ったけど、お義母さんとお義父さんは両親に捨てられた私たちを引き取ってくれた人だし!
 だから、ハヤテ君だって事情を話せば、学校に通うのは無理かもしれないけど、それでも――」
「すみません」

自分でもわかるくらいに必死になりかけていた私の言葉を、
ハヤテ君の静かな、だけど… 覆せない重みを帯びた声が遮る。

「ヒナギクさんの気持ち、本当に嬉しいです…でも、折角の申し出なんですが…受けられません。
 お嬢さまがなんと言おうが借金は返さなくてはなりませんから、
 どこかで仕事を探さねばなりません」
「それでも、仕事をするにしたって家は必要でしょう!?
 うちから通えばいいし、それなら食費や家賃だって…」

本当に、必死だと思う。
でも、必死にだってなる。
だってもし、ここで彼を引き止められなかったら、また私は…

「すみません…やっぱりダメなんです。
 ここにいては、お嬢さまと何の拍子に出会ってしまうかもわかりません。
 お嬢さまは僕の顔なんて二度と見たくないと思いますし、
 それに…僕にはもう…お嬢さまと合わせる顔がありません…」

あくまで悲しげな微笑を浮かべたまま話すハヤテ君の声は、
その表情と一緒で、大切なものが欠落してしまったような、虚ろな響きだった。

「それでは…」
「待って!」

ここで話を終わりにしてしまうわけには行かない。
終わりにしてしまったら、きっと…それが私とハヤテ君の、絆の終わり。
多分もう…二度と会えない。
また私の前から好きな人が去っていってしまう…そんなのはイヤ…絶対にイヤ!

「ハヤテ君、覚えてる?
 私の誕生日に見せてくれた、夜景のこと…」

私ははっきりと覚えてる。
あの夜景も、握っていてくれた手の温かさも…

「過去に囚われていた私に…目の前の景色に目を向けることを…
 すぐ傍にある素晴らしいもの、大切なものに気付かせてくれた…」

無意識に閉じ込めていた、あなたへの想いも…

「ナギとの間に何があったかは、私にはわからない。
 借金だって大変だとは思う…でも!」

ハヤテ君の表情は変わらない。
でも、私だって諦めない。

「ハヤテ君が言ってくれたことよ? 今の景色は…そんなに悪くないって!
 そう思うなら、あの言葉がただの方便じゃないのなら!
 また…戻ってこれないの? 何年もかかるかもしれないけど、それでも…
 借金を返して、ナギとだってきっかけがあればまた…!」

私の言葉にハヤテ君は微かだけど、嬉しそうに表情を崩してくれた。

「ありがとうございます…
 あの時言ったことに、ウソはありませんよ。
 あれは僕の本心で…今だってその思いは変わりません。
 人に言ったら引かれるくらいの酷い経緯はありましたけど、そんなこと気にならないくらい…
 お嬢さまとの、お屋敷や学校での生活は楽しくて…かけがえのないものでした」

相変わらず虚ろな笑みを浮かべたままのハヤテ君の表情は、それでも少しだけ、楽しそうで、
その言葉が本心からのものだって、よくわかった。
その、楽しかった頃を振り返っているのか、ハヤテ君は遠くを見るような目をしていた。

「あの生活はお嬢さまが僕にくれたものでした。
 だから僕は執事として精一杯お仕えしようとしました。
 そして…できるだけ、前向きに生きようと思っていたんです。
 僕が今いるここは、本当に素晴らしいところで、
 僕はこうしていられることに感謝しています、満足していますって…お嬢さまに伝わるようにって」

なんとなく、わかった。
あの時、ハヤテ君が私に言ってくれたことは、そのまま…ハヤテ君が感じていたことなんだ。
だからあんなに胸に響いたんだって。

「ですが」

綻んでいたハヤテ君の表情は、いつのまにか悲しげな微笑みで覆われてしまっていた。

「お嬢さまが僕に求めていたものと、僕がお嬢さまに応えようとしていたものは違っていたんです。
 一年間も一緒にいながら…僕はそのことに気付けずに…
 お嬢さまと、そしてもう一人…本当に大切な人を傷つけてしまいました」

ハヤテ君の顔を覆っていた悲しげな微笑みもまた、新たな表情によって隠れ、見えなくなってしまう。
自責の念で歪んだ、辛そうな表情で。

「三千院のお嬢さまの執事として眺める世界は、輝いていました…とても、素敵でした。
 でも、僕には…その景色を眺める資格は…なかったんです」

血を吐くようにハヤテ君はその言葉を口にする。

「お嬢さまが僕に抱いてくれていた想いに僕は応えるどころか、気付くことすらできませんでした。
 一年もの間…僕はお嬢さまの気持ちを…踏み躙り続けていたんです…!」

自責というより、もっと激しい、ハヤテ君が滅多に見せることのない、怒りという感情。
それが今、彼自信に向けて抑え難いほどに湧き上がっているのが、伝わってくる。

「そして僕はお嬢さまの気持ちを知っても、その気持ちに…応えることは、できないんです…!」

ナギがハヤテ君に抱いていた気持ち。
それがなんなのか、敢えて言葉にされなくても、私にはわかる。
私がハヤテ君に抱いているものと、同じものだと直感できる。
そしてハヤテ君がそれに応えることができない、ということは…

「…だからもう、お嬢さまと顔を合わせることはできません…」

それで言うべきことは全て言った、ということなのか、
ハヤテ君は“ふっ”と小さく息をついて、

「ではヒナギクさん…これで、さよならです」

これまでに比べたら、随分いつもの彼らしさを取り戻したように見える笑顔を見せて、
ハヤテ君はそう言った。
まるで、せめて最後くらい、笑顔で別れましょう…とでも、言いたげに…

「ダメよ…」

そんなハヤテ君と向かい合った私には、悪いけど笑顔なんて浮かべられない…
浮かべられるワケが…ない…
けど…それでも…!

「ダメよハヤテ君! だってあなた…」

いっそのこと…最後になるのかも知れないなら、この想いを伝えてしまいたい…
でも彼にはきっと…

「ナギの気持ちに応えられないくらい…
 好きな人がいるんでしょう!?」





それが誰なのかは私にはわからないし、少なくとも私じゃない。
でも、今はいい。
誰でもいい、ハヤテ君を繋ぎとめてくれるなら、それだけでいい…だから!

「その人のことはいいの!
 あなたの気持ち、知ってるの!」

必死で叫んだ私の声にハヤテ君の笑顔は凍りついたように固まって…

「…どうにもならないんです」

それから、ぼそりとそれだけ言った。
理屈も何も無い、本当に投げやりなその一言に、私はそれ以上何も言えなかった。

「すみません、本当に…最後まで気を使わせてしまって…」

私はきっと、酷い顔をしていたんだろう。
今いちばん辛いはずのこの人から、気遣うような顔をされてしまったのだから。

「でも、ありがとうございます…誰にも会わずに行くつもりだったんですが、
 ヒナギクさんと偶然でもこうしてお話ができて…よかったです」

そう言って、ハヤテ君は手を差し出してきた。
私は同じように手を出そうとして、一瞬、腕が止まる。
この手を握り返してしまったら、それはさよならのしるし…別れの、握手。
でも…もう私には言うべきことは何も残されていない。
結局、私は右手を差し出して、差し出された手を握った。
あの時と同じ…愛しい人の、温かい手。
涙が、こぼれそうだった。
子供のように泣き出してしまいたかった。

「ではヒナギクさん、どうかお嬢さまのこと…これからも宜しくお願いします。
 学校の皆さんにも…あと、そう…西沢さんにも」

その時…何かが私の心をよぎった。
あの子なら、きっと諦めない。
それで、泣き出してしまいそうだった私は少しだけ踏みとどまって、

「わかったわ…任せておいて…でもね!
 必ず…いいわね!? 必ず帰ってきなさい! 必ずよ!
 その時は…私もあなたに言いたい事があるんだから! だから必ずよ!」

こぼれそうな涙を必死に堪えて…しっかりと、言い切った。
そして少し驚いた顔をしたハヤテ君の返事を促すように、彼の手を握る手に、ぎゅっと力を込める。

「…はい」

そして、どちらともなく手を離し、

「では、どうかお元気で…さようなら」
「うん、ハヤテ君も。 またね」

ぺこり、と頭を下げてハヤテ君は私の横を通り過ぎ…行ってしまった。
涙が頬を伝い落ちてくるけど…
泣き出すにはまだ早い。
彼女にだけは、すぐに知らせなくちゃいけない。
私は携帯を取り出すと、今にも溢れ出しそうな嗚咽を堪えながらナ行のアドレスを辿り、
探し当てた友達の名前のところで発信を押す。

『……はい、もしもし〜』

3回目の呼び出し音の途中で電話に出た彼女の声は、
つい先日、失恋したという割にはなんとなく呑気な声でそれがなんだか安心させてくれる。

『もしもし? ヒナさん?』

それにもしかしたら彼女なら…
私なんかよりずっと前から彼のことを知っていて…想っていて、
想いを告げられる勇気と、振られても諦めない強い想いをもっているあの子なら、
“もしかしたら”があるかもしれないから…

「いきなりでごめん、歩…いい? よく聞いて――」
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Re: 大切なヒト (10/3更新) ( No.8 )
日時: 2013/10/03 10:32
名前: サタン

午後五時を回った冬の空は既に真っ暗だけど、
わざわざ空を見上げなくちゃそんなことにも気付けないくらい、街中はきらびやかな光で満ちている。
街灯やネオンやイルミネーションや、たくさんの灯りに照らされて、街行く人々も皆楽しげで、
そんな中、MTBに跨って必死の形相で爆走する私はかなり目立っているんじゃないかなと思う。
でも実際、必死なんだからしょうがない。

ヒナさんから電話をもらったのは30分ほど前のこと。
ついこの前、勇気を振り絞った二度目の告白が玉砕に終わった後、
そのことをヒナさんにだけは伝えて、電話口でわんわん泣いてしまったものだから、
もしかすると心配して電話をくれたのかな? くらいに思ってたんだけど、
その内容は簡潔で…そして、もの凄いショッキングだった。
失恋のショックでちょっと引き篭もり気味だったはずの私が、こうして街中を走り回るくらい…

『いきなりでごめん、歩…いい? よく聞いて』
「は、はい? どうしたんです?」
『今、ハヤテ君に会ったの』
「え…そ、そうですか…」

ハヤテ君の話題は、今はまだちょっと胸に痛かったけど、
ヒナさんがハヤテ君と会っていた、というのもなんとも言えず悩ましかった。
なんたって今日はクリスマス・イブ、そしてヒナさんは…ハヤテ君のことが、好きなのだ。

知り合って間もない頃、私の恋を応援してくれると言った彼女だけど、
気が付いたらヒナさんもハヤテ君のことが好きになっちゃったみたいで、
自分にも、私にも、嘘はつけないって…謝られたっけ。

ヒナさんはハヤテ君の好みのストライクゾーンど真ん中な人だし、
正直言ってショックは大きかったけど、
そういうことを包み隠さず言ってくれたヒナさんはやっぱり格好よくて、
それに…私自身、ヒナさんのことを友達として好きになっていたから…
結局、私たちは親友で、そして恋のライバル、みたいな関係になっちゃっていた。
どういう結果になっても、お互いに恨みっこもなし、みたいな。

だからヒナさんがクリスマス・イブにハヤテ君と会ったと言われたら、
やっぱりそっちの方向に想像が進んじゃうのも仕方ないんじゃないかな、って思うんだけど、
お話は、それどころじゃなかった。

『ハヤテ君…三千院のお屋敷を追い出されたって…』
「え!? じゃ、じゃあ、ナギちゃんと離れるのはいいとして、
 ハヤテ君はこれからどうするのかな?」
『……』
「ええと…ヒナさん?」
『うん、ゴメン…わからないの…』
「へ…? それはまだ、決まってないとか?」
『わからないけど、ただ…もう、私たちとは二度と会えない…って…』

ちょっと突拍子も無いお話だったけど、
電話の向こうのヒナさんの声が今まで聞いたことも無いような涙声だったことに気が付いて、
そのお話が真実なんだって、わかってしまった。
そして思い出すのは…一年前のこと。
ある日突然、何も言わずに私の前から姿を消してしまったハヤテ君…残された私…
そんなことが頭の片隅をふっとよぎって――

「ひ、ヒナさんっ! どこで! どこでハヤテ君と会ったんですか!?」
『え、あ…その、うちの近所の…それで、駅の方に歩いていって…』
「わかりましたっ!」

もう、じっとしてはいられなかった。
二度も振られて流石にちょっと悩んでいたはずだったんだけど、
やっぱり私は、どうしようもなくハヤテ君のことが好きみたいで…

『あ、ねぇ、歩!』
「は、はい?」

速攻で携帯を切って外に出ようとした私の気配を察知したのか、
ヒナさんが慌てて声をかけてくる。

『あの…この前あんなことがあったばかりで、こんなこと頼むのは酷だってわかってる、けど…
 ごめん、歩…ハヤテ君をお願い…私じゃ、止められなかった…
 けど、あなたなら…』

それについては、どうだろうって思う。
何せ私は振られたばかりで、私なんかが例えハヤテ君を見つけられて、引き止めたとしても、
無駄なんじゃないかな、とも思うんだけど…でも!

「わかりました…任せてください!」

それで諦めちゃうくらいなら、多分二度も告白なんかしないんじゃないかな…って。
だから私は、ただハヤテ君に会いたい一心で家を飛び出して、MTBで駆け巡っているわけなのだ。
とは言え…こんな都会のど真ん中で一人の男の子を探し当てるのはやっぱり至難の業で、
一時間も漕ぎ続けて、流石にへばってきた…丁度そんな時だった。
綺麗な金色の髪を二つに結んだ、もう一人のライバルと出会ったのは――


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Re: 大切なヒト (10/9更新) ( No.9 )
日時: 2013/10/09 11:42
名前: サタン

「ナギちゃん! ナギちゃんじゃないかな!?」

後ろから大声で声をかけてみても、無視しているのか聞こえてないのか、彼女は振り向いてくれない。
だけど甲高いブレーキの音を響かせながら彼女を追い越しざまに急停止すると、
流石に何事かと思ったのか、顔を上げてくれた。

「…なんだ、ハムスターか」

上げてはくれたけど、私の顔をみたナギちゃんはそれだけぼそっと呟くと、
すぐにまたうつむいて歩き出そうとする。

「ちょ、ちょっと待ってよ! そのスルーっぷりはないんじゃないかな!?」

慌てて彼女の肩を捕まえると、
ナギちゃんはさも鬱陶しそうに振り返り、

「私は今、忙しいのだ…ハムスターなんかに構っている暇はない」

そういうもの言いは相変わらずだけど、
普段この子に備わっていた傲慢さとか絶対の自信みたいなものが、今日の彼女には全くなくて、

「…全然そうは見えないかな」
「う、うるさい! とにかく今は誰とも話したくはないのだ!」

少しも気圧されることなく、彼女と向き合うことができた。
ナギちゃんが自信無さ気なのもいつもと違うけど、
私も私でこうやって普段の様な虚勢―って認めちゃうのもどうかと思うけど…
堂々とした態度でこの子と向き合うこと自体、なかなかありえないことだったから、
そこに違和感と…そして、その理由にもすぐに思い当たったみたいだった。

「ええい、離せ! 私はお前に用など無いのだ!」

それこそいつもの私みたいに、落ち着きなく声を上げてじたばたするのは…
私が何の話をするつもりなのかわかっていて、
その話をしたくない、という意思表示なんじゃないかなと思う。
でも、それで遠慮なんかしてられない。
今日の私は堂々としてるんじゃなく、必死なのだ。

「ごめんね、でもどうしても聞かなきゃならないことがあるの…聞くまでは放さないよ」
「…っ」

そんな必死さが伝わったのか、ナギちゃんは悔しそうに私を見て、
もがくのをやめると、諦めたように顔を伏せてしまう。
それで私は少しだけ間を取って、焦る心を落ち着かせて、

「ハヤテ君のこと、追い出したって…本当、なのかな?」

最初から核心に入る。
…うん、やっぱり全然落ち着いてないかな、私。
でも、仕方ないんじゃないかな…うん。
ナギちゃんはうつむいたまましばらく黙っていたけど、
だんだんその肩が震えだして…

「おまえの知ったことじゃないだろっ!」
「なくないよ!」

キッ、と私を見上げて声を荒げるナギちゃんに、
間髪入れず同じ調子で言い返す。
その勢いに驚いたのか、ナギちゃんはちょっとだけ引いて、

「大体なんでおまえがそんなこと…知ってるんだよ」
「うん、ヒナさんから聞いたの。
 偶然ハヤテ君と会って、それでお別れを言われたって…
 …本当、なのかな?」

ナギちゃんは何も言わないけど、その沈黙がそのまま答えになっていた。

「どうして…なんでそんなことになっちゃったのかな…
 ナギちゃん、ハヤテ君のこと、好きだったんでしょ?」
「う、うるさいっ! あんなヤツ…あんな裏切り者なんて知らないっ!」
「裏切り…?」

口を滑らせたってことなのかな、ナギちゃんはハッとしたような顔をして、
また顔を伏せてしまうけど…

「ねぇ、ナギちゃん…一体、なにがあったの?」
「…」
「裏切りって…ハヤテ君がそんなこと、するわけ――」
「だって裏切られたんだ!」

下を向いたまま吐き出された彼女の叫びは…涙声になっていた。

「ハヤテは…ハヤテは初めて会った時に私に告白してくれたんだ!
 ハヤテは私のことが好きで! 私もハヤテのことが好きで!
 私たちは恋人同士で…そのはずだったんだ!」

話がよく見えないけど…なんとなく、わかることはわかる。
それは、つまり…

「私は…ずっと好きだったのに!
 ハヤテのこと…出会ってからずっと、毎日、いつだって好きだったのに!
 なのに…なのに…あいつは…
 なんで…どうして私じゃないんだ…
 どうして…どうしてマリアなんだっ!」

そういうことなんだ…
うん、確かにあの人はハヤテ君の好みにピッタリだ。

「そっか…ハヤテ君…マリアさんのことが…好き、だったんだ…」

ぼそり、と独り言のように呟いた私に、ナギちゃんはいきなり睨みつけるような目を向けてきて、

「そうだよ! ハヤテは私より…マリアを選んだんだよ!
 だからおまえだって!
 あいつの…ハヤテの心の一番奥に…居場所はないんだ…
 ふんっ! ざまあみろだ…」

それは私に対する憎まれ口だったけど、
でも、多分私が憎たらしいんじゃなくて、
誰かに当たらないと辛いから、胸が張り裂けちゃいそうだから、なんじゃないかなって…思う。
だって、口でいくら酷いことを言ってても…
泣き腫らして真っ赤になった目は、今まで見たどんなナギちゃんよりも…辛そうで、苦しそうだったから。





…でも。
同情なんて、しない。
気持ちはわかるけど…それに私だって、同情して欲しいくらいだけど…しない。 いらない。
今はそんなこと、したりされたりしてる場合じゃない。
私と、ヒナさんと…この子の為にも――

「だから…追い出したの?」

憎まれ口に全く動じない――どころか、
多分ちょっと…私にしては怖い顔をしてると思う私にナギちゃんはちょっと驚いた顔をして、
ぷい、と顔を背けてしまう。

「そっか…」
「そうだよ…あんなやつ、もう知るもんか!
 どこへでも行っちゃえばいいん―」

乱暴だとは、思う。
思いながらも、捕まえていたナギちゃんの両肩を思い切り揺すっていた。

「本当にそう思ってるのかな…?」
「う、うるさいっ! だって…だってハヤテは…!
 大体なんだよ、偉そうに!
 お前だってハヤテには選ばれなかったんだぞ!?
 それなのに…」

体裁も何もなく、今にも泣き出してしまいそうな顔で喚き散らすナギちゃんの姿は、本当に…

「ハヤテ君のこと…好きだったんだね」
「あ…」

瞬間、彼女は硬直して――ちょっとだけ赤くなって、

「う…うるさいっ!
 あんな…あんなやつ…!」

そこで言葉を区切ったまま、口を開いたまま…ナギちゃんは黙ってしまう。
感情が昂ぶりすぎて、言葉に変換できない…って、そんな感じかな?
だけどそれもだんだん落ち着いてきて、

「好きだったよ…
 マリアよりも、おまえなんかよりも…ハヤテのことを一番好きだったのは私なんだ!」
「でも…今はもう、嫌いなの?」

ハッとナギちゃんは泣き腫らした目を見開いて私を見て、
すぐに視線をそらして、

「だって…ハヤテは…」
「ハヤテ君がマリアさんのことを好きだってわかったから?」
「…」

多分、そんなこと考えてもいなかったんじゃないかな。
真っ先に“ハヤテ君に裏切られた”って言ってたし、
きっとそれだけで頭が一杯で、何も考えられなかったんじゃないかな。

「ねぇ、ナギちゃん」

その気持ちは、わからないこともないんだ…
この前…ハヤテ君に二度目の告白をして、振られたとき…
抱いた感情の種類は全然違ったけど――





「もしかしたら聞いてるかもしれないけど、
 私ね…ハヤテ君に告白して、振られたんだ」

あはは、なんて情けない笑いがつい出てしまう。
っていうか、笑い話にでもしないと、やっぱり重いんだよね…

「それも二回も」

唐突に始まった私の告白にナギちゃんは、ちょっとは驚きつつ…
でも半分くらいは呆れつつって感じで、

「だから何だよ…なんの自慢にもならないぞ、そんなもの」
「はは…うん、そうだね」

雑な口調で突っ込みを入れられたけど、
それ以上はなにも言わない。
続きがあるってわかってて…聞いてくれるってことなのかな。

「一度目はね、ナギちゃんと会う前のこと…突然いなくなったハヤテ君が学校に来たときに、
 もう会えない、みたいに言われて…思わず、だったんだ…振られたけどね」
「…ふん」
「それでね、二度目はついこの前。
 ほら、クリスマスってやっぱり…好きな人と過ごしたいなーって思ってさ、
 でも多分普通に誘っても断られるだろうなって…だからね、勇気を出して二回目の告白をしたんだ…」

結果はまぁ…前述のとおり、かな。
別に勝機があったから告白したわけじゃなかったし、こうなることは覚悟してはいたけどね…
やっぱり、本当にショックで…

「ダメ、だったんだろ?」
「うん…流石に、ちょっと辛くてね…試験休みの間、ずっと引き篭もってたんだ…」

こんな辛い思いはたくさんだと思ったよ。
だからもう、ハヤテ君のことは諦めようかって…本気で考えたりもした。

「でもね…
 ヒナさんからハヤテ君がいなくなっちゃうって聞いて、気が付いたら家を飛び出してたんだ…
 やっぱりまだ私…ハヤテ君のことが好き、みたい」

ナギちゃんは、何も言わない。
呆れてるのかもしれないけど、

「さっき、実感しちゃったんだ。
 振られたばかりでも、振り向いてもらえなくても…
 やっぱり…私、ハヤテ君のこと好きなんだって…
 だって、ずっと…ナギちゃんよりずっと前から好きだったんだから!」

なんでこんな話、してるのかな…ハヤテ君を探さなきゃならないのに…

「ナギちゃんは…ハヤテ君が自分のことを好きだったから、好きだと思ってたから、
 ハヤテ君を好きになったのかな?」

でも…うん、ナギちゃんには、気付いてもらわなくちゃいけない。

「ハヤテ君が他の誰かを…マリアさんのことを好きだってわかったら、もう嫌い…なのかな?」

この子が許してくれないとハヤテ君には帰る家もない、っていうのもあるけど、
それより、同じ人を好きになった者同士だから、かな…放っておけないや…

「…私は、好きだよ。
 ハヤテ君のこと…大好きだよ…
 振られてもハヤテ君が他の人のことを好きだってわかっても! それでも大好きだよっ!」

いけない…涙、出てきそう…
でも…うん、まだ我慢しなきゃ。

「だから、ハヤテ君に会えなくなるのは…寂しいよ…
 二度と会えないなんて…そんなの…嫌だよ…」

考えるだけで泣きそうだよ…
だけど、あと一言…

「ナギちゃんはいいのかな…
 ハヤテ君と、もう二度と会えなくなっても…顔を見ることも、お話することも…できなくなっても…」

うぁ…ダメだ…涙、出てきちゃった…うう…年下の子の前で泣きたくなかったのになぁ…
でもきっと伝わったと思う。
だって私たちは――

「…会いたい」

――うん。
当たり前だよね。

「会いたいよ…会いたいに決まってるだろ!」

私たちは、同じ人を好きになった者同士…
思うことは…一緒だよね。
彼女の答えを聞いて、私は涙を流しながら、それでも思わず微笑んでしまう。
けどナギちゃんは、

「だが私は…ハヤテに出ていけって…
 二度と顔を見せるなって…だからもう、ハヤテはきっと、私のことなんて――」

その台詞を最後まで言い終える前に、
ナギちゃんの肩に置いた手に、ぎゅっと力を込める。
驚かせる為じゃなく、私の思いが…伝わるように、って。

「本当に、そう思う?」

ハヤテ君のこと、好きだったんでしょ?
今でも好きなんでしょ?
だったらハヤテ君のこと…よーく知ってるはずなんじゃないかな?

「私の好きなハヤテ君はね…すっごく優しくて、包容力のある人で…
 だからさ、きっと…許してくれるんじゃないかな?」

…そう言った次の拍子だった。
それまでの不安げだったナギちゃんの泣きそうな顔が、途端にぴくっと引きつって、

「わ、私の好きなハヤテだってそうだ!
 オマエが知ってるよりずっと優しくて、親切で、度を越してお人よしで…!」

うん、なんだか…やっといつものナギちゃんに戻ってきたかな。

「だったら…」
「む?」
「ナギちゃんも…ハヤテ君のこと、許してあげなきゃね…」

いったい“何”を許すのか、“どこまで”許すのか…
それはもう私がどうこう言うことじゃない。
後は彼女次第だから、その顔をじっと見ながら答えを待つだけ。
ナギちゃんは考え込むように目を伏せるけど…もう、その顔はさっきまでの泣き顔じゃない。
その目はどこか一点を睨むような強い光を帯びて、
かと思えば辛そうに眉をひそめ、目を細め、
やがてぎゅっと目を瞑り――
最後に、ぽろり…と涙を一粒だけ落として、

そして見開かれた瞳には、もう迷いの色は見当たらなかった。
私の知ってる――いつものナギちゃんだった。






だから今更、彼女の決心を聞くまでもなかったし、
そうなると今一番大事なのは…

「じゃあナギちゃん、二人でハヤテ君を探そう!
 きっと、ううん、必ず見つかるから!」
「いや、それは無駄だろ」
「…へ」

あれ?
ええと、私…もうちょっとこの子の心に響くようなこと、言ったつもりだったんだけど…

「…な、なんて言ったかな、ナギちゃん?」
「だから私とお前でハヤテを探すなんて、今更無駄だと言った」

…がーん。
そ…そ、そ…

「それはないんじゃないかなナギちゃん!?
 人が折角、ちょっといい感じに喋ってみたっていうのに、もーちょっとなんとか――」
「ええい五月蝿い黙っていろ!」


なんだかがくっと膝を落としそうになった私なんかに興味ないとばかりに、
ナギちゃんは携帯を取り出して、

「…私だ、クラウス、まだ外出中か?
 うむ…そんなのは放っておけ! いいか、ハヤテを探せ! 今すぐにだ!」

あ…

「これは最優先事項だ! 他の仕事も付き合いも後回しで構わん! 手段を選ぶ必要もない!
 とにかくあらゆる手を使って、何が何でも! 一秒でも早く!
 絶対に探し出せ!
 発見次第私もそこに向かう! いいなっ!?」

多分相手の人はほとんど何も言えなかったんじゃないかなって思うくらい、
ナギちゃんはもの凄い剣幕でまくしたてて、
ぴ、と通話を終える。
そして顔を上げた彼女はなんとなく恥ずかしそうな顔つきをしていて、

「…まぁ、そういうわけだ。
 オマエなんかが一晩その自転車で走り回るより、よっぽど確実だろう」
「ん…そうだね」

本音を言えば、自力でハヤテ君を見つけたかったかな、とも思ってる。
でも…うん、そうだよね。
ヒナさんにああ頼まれはしたけど…今のハヤテ君を止めることができるのは、
やっぱりナギちゃんしかいないからね。
だからちょっと悔しいけど――

「いいか? ハヤテは三千院の名にかけて、私が必ず連れ戻す!
 …だから、まぁ…安心しろ」
「…うん?」

あれ…ちょっとナギちゃんにしては…なんと言うか…安心しろって…私に?

「だがな!」
「は、はい!?」
「いいか! 連れ戻すのは私の為だからな!
 マリアにも、そしてもちろんお前にも…ハヤテを渡すつもりはない! わかったな!」

びしっ! と私に指を突きつけて言い放つ彼女の姿は、
ちょっと無理しているのかもしれないけど、それでもやっぱりナギちゃんらしくて…

「わ、私だって! まだまだこれからなんだからね! 勝負だよナギちゃんっ!」

私も私で、踏ん反り返って突きつけられた指と彼女の視線を受け止めてみる。
お互いに目は泣き腫らして真っ赤だし、ほっぺたには涙の跡がついてるしで、
そのくせこんな空威張り合戦みたいな感じになっちゃって、
端から見たらさぞかしおかしいんじゃないかな、とも思うけど、
でも、なんだろう…ナギちゃんとは改めて分かり合えたような気がする…かな。

…と、そんなことをふっと考えたとき。

キキ――ッ!

「うわ!?」

唐突に、もの凄いスピードで黒塗りの車が数台、私たち目がけて走ってきて、
ブレーキ音を響かせて停まったかと思いきや、今度はやたらいかつい黒服の男性達がワラワラと降りて来て、

「お嬢様、お迎えに上がりました!」
「ん、ご苦労。 ハヤテの居場所は見つかったのか?」
「既にある程度は絞り込めています。
 正確な場所はまだですが、時間の問題と思われますので…」

あぁ、ナギちゃんのところの人たちか…どおりで見覚えがあるわけだよ。
…なんだか捕まえられたり追いかけられたり、嫌なイメージしかないんだけどね…
でもとりあえず、安心して良さそうな雰囲気かな。
あとは…ちょっと悔しいけど、ナギちゃんに任せるしか…

「わかった、では早速その近辺に向かうぞ」
「はっ!」
「ハヤテ君のこと…お願い!」

車に乗り込んだナギちゃんは、ちら、と私の顔をみてからそっぽを向いて、
ふん、と鼻をならして、

「任せておけ、ハムスター」

やっぱりちょっと恥ずかしそうに言って、
そしてすぐに窓を閉めた。
彼女を乗せた車はもの凄いスピードで走り出し、
テールライトはすぐに他の車に紛れてわからなくなってしまう。
後には夜空を背景にやたら明るい街並みがあるばっかりだったけど、
ナギちゃんを乗せた車が走り去った、そっちの方向にハヤテ君がいるのかなって思うと…

「お願いだよ…ナギちゃん…」

いつまでも、その景色から目を離すことは、できなかった。

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Re: 大切なヒト (ナギ誕生日記念更新) ( No.10 )
日時: 2013/12/03 13:38
名前: サタン

私は一体、何をしているのだろう。

裏切られたと思った。
私の心を弄んだと思った。

許せなかった。
本当に好きだった…だからこそ、絶対に許せなかった。

そのはずなのに…
今、私はハヤテを探している。
ハヤテの元に向かっている。

裏切られたっていう思いはまだ消えてはいないし、
ハムスターに言われたように…許せるかどうかもわからない。
例え私がハヤテを許せたとしても…私がハヤテに許して貰える保証なんてないのだ。
でも…あいつと話していて、一つだけはっきりした。

私はまだ…ハヤテのことが好きだ。

嫉妬や絶望で千々に乱れていた私の心にも、その気持ちはちゃんと残っていた。
だからこれは…間違いない、私の本心。
本当の想い。

だから…これだけは伝えなきゃ。

「ナギお嬢様、そろそろ目的地に到着します」
「む…」

もう、か…
正直ハヤテと会う前に心の準備のため、もう少し時間が欲しかったが…

「そこにハヤテはいるのだな?」
「は、恐らく」
「…恐らく?」

はっきりしないな。

「は。 この周辺で綾崎ハヤテとおぼしき人物が目撃されたとの証言は得ているのですが、
 場所が絞り込めていないのに加えて、この場所ですから場合によっては…
 と、とにかく! 現在、継続して捜索中です!」

頼りにならないSPたちにイラつきながら、
同時に酷く不安になる。
ハムスターと別れてから一時間程も車を急がせてやってきたここは…港。
いつかハヤテが言っていたことを思い出す。

『――遠洋漁業にはよく行っていましたが…』

あんな風に出ていったハヤテだから、たぶん無一文に近い状況だろうし、
それにあいつのことだ…借金だって返す気でいるに違いない。
そんなハヤテが生活費をかけずにまとまった収入を得られる手段を選ぶであろうことは、想像するに容易かった。
ハヤテが屋敷を後にして、既に四時間は経っている。
もう、この中のどれかに乗り込んでいるかもしれないし…
もしかすると、もう出港してる可能性だって――

そう思ったら、もうじっとしてなんていられない。
心の準備どころじゃない!
港に着くと、私は車を飛び出す。
だが、走りだそうとする私を、どこからか湧いてきたクラウスが呼び止める。

「ナギお嬢様!? お一人は危険です! 一旦、お戻りください」
「そんなこと言ってる場合か! お前らもとっとと捜しに行け!」
「で、ですが! お嬢様をお守りするのが執事の役目…」
「うるさいっ! 主の命令が訊けないのか!」
「うわああああ…お、おじょ…」

一刻を争う事態なのに、ハヤテを探そうとしない…そんなクラウスに腹をたてて、蹴り飛ばした。
その瞬間、水音が響き渡った。
どうやらクラウスが海に落ちたらしいが、そんなことに構っている暇なんてない。
倉庫に、桟橋に、甲板に、
どこかにハヤテがいないかと…いてくれないかと思いながら、
必死になって捜し回った。





10分捜しても、ハヤテの姿はみつからなかった。
クリスマスの夜、人影もまばらな郊外の港をいくら走り回っても…あいつには会えなかった。
20分経っても、ハヤテを捜し出すことはできなかった。
どこかの船から出航を知らせる汽笛の音が聞こえる度に、
そこにハヤテが乗っていたらという思いが頭をよぎり…不安な鼓動が胸をギシギシと締め付ける。
疲れて足はガクガクするし、既にもう…手遅れかもしれない…
でも…それでも歩き続けた。
捜し続けた。

例えハヤテがどこへ行こうとも、
三千院の力を使えば世界中どこにいたっていずれ見つけることはできる。
連れ戻すことだって、きっと容易い。

でも…それではダメだ。

ハヤテがここを旅立ってしまったら、きっとその時点で…終わってしまう。
強引にハヤテを屋敷に連れ戻したとしても、
ハヤテにとってそこにいる私たちは…多分、過去の存在でしかなくなっていると思う。
そう割り切らないと…ハヤテ自身が、辛すぎるはずだから、
私もハヤテも、埋まらぬ溝に悩み…そして結局、ハヤテはまた屋敷を出て行くことになると思う。
私と…マリアをおいて。

マリア……

マリアにも、酷いことを言った。
裏切られたと思った。
ずるいと思った。
許せないと…思った。
例えハヤテを連れ戻せなくても、マリアはずっと私の傍にいてくれるだろう。
…罪滅ぼしという、自分への罰の意識のもとに。

でも…そんなのは…嫌だ。
ハヤテをとられたのは悔しい。
本当に悔しいし、恨めしいし…ずっと隠し通していたと思うと…!
…でも、ハムスターに言われたことを思い返したとき…あいつの言葉は、
私にとってハヤテだけに当てはまるものじゃなかった。
マリアは…私のことを誰よりも理解してくれた…大切にしてくれた…
私の…家族なのだ。

もし…もしも、万が一!
今夜…ハヤテに会えなかったら…連れ戻すことができなかったら…
きっと私は、二人の大切なヒトを永久に失ってしまう。
一人とは、二度と会えなくなって…
もう一人とは、二度と…心を通わせることが、できなくなる。

そんなのは…嫌だ。
そうなったら、私は独りになってしまう。
友達はいても、家族はいなくなってしまう…
…だから!
私は走って…そして、30分程経った頃だと思う。

――見つけた。

立ち並ぶ倉庫の間、細く開けたその先にある、船の甲板。
こんなに遠く離れているというのに、絶対に見間違い等ではないという確信と共に…
私は、ハヤテを見つけたのだ。

「――ハヤテぇえっ!」

駆け出していた。
もう疲れきって足は棒のようになっていたはずなのに、
視線の先にいるあいつに向けて全力疾走する。
なかなか縮まらない距離がもどかしい。
でも、それでもだんだんあいつの姿ははっきりしてきて、

ボ――ッ

聞こえたのは、汽笛の音。
聞こえてくるのは、正面から。
ハヤテを乗せた、あの船から…

「ハヤテっ! は…っ、ハヤテぇ!」

今まで出したこともないような叫び声をあげながら、私は必死で走る。
こんなに走ってるのに、心臓が爆発しそうなくらい苦しいのに、
ハヤテの姿はなかなか近付いてこない。
私の声にも気付いてくれない。
ハヤテはただ、どこか遠くを眺めている。
それはもしかすると、私たちと一緒に暮らした屋敷の方かもしれない。
どこかへ去っていくその前に…最後の名残を惜しんでいるのかもしれない。

その姿は、まるで私のことを…私たちのことを過去のものとするための、儀式をしているかの様に見えて…

「ダメだ! 行くな! ハヤテっ! ハヤテ――っ!」

ありったけの声を張り上げる。
精一杯、走る。
船はまだ動かない、けれどハヤテとの距離も、なかなか縮まらない。
それでも走って――

「――あぅっ!?」

何かに足をとられた…と思った次の瞬間、身体が宙を泳ぎ…すぐに、堅い地面の衝撃。
後ろで何かがガラガラと崩れる音。
…つまずいて、思いきり転んでしまったようだ…くそっ!
我ながら情けない!

「うく…っ…っく!」

ええい!
転んでる場合じゃない!
痛がってる場合じゃないっ!

すりむいた膝と手の平に力を込めて身体を起こし、
顔を上げて、真っ先にあいつの姿を探して――

「…ハヤテ」

その姿は相変わらず遠くにあったけど、
ハヤテの顔は…こちらの方を向いていた。
いや…はっきりと、私を見ていた。
積み上げた木箱が崩れた音を聞いたか、視界に入ったか…
だが今はそんなことはどうでもいい。
大切なのはただ一つ…ハヤテが、私に気付いたのだ。

「ハヤテっ! そこを動くな! 今行くからな…ハヤテぇえ!」

転んだ痛みも疲れも忘れて、もう一度走り出す。
ハヤテが気付いてくれた…ならば、まだ間に合う…私の声は…まだ届く!

「はぁ、は…ぁっ! ハヤテ…ハヤテっ!」

少しずつハヤテの姿が大きくなる。
あいつも何か叫んでいるようだけど、声はまだ聞こえない。
聞こえはしないけど…よかった… ハヤテは逃げないでいてくれる。
だからあとは、声が届くところまで…船が出る前に!

走るのは苦しいけど、すりむいた膝も痛いけど、
走っていると、こんな時だっていうのに、マラソン大会のことが思い出される。
折角ハヤテがチャンスを作ってくれたにもかかわらずゴール直前で私は逆転されてしまい、
そのせいでハヤテはクビになりかけてしまった。
もしもあの時、あと一歩前に出ていられたら、あんなことにはならなかったのだ…

だから、今度は必ず…絶対に間に合って見せる!





倉庫と倉庫の間の、狭い路地のような通路、
その向こうに見えていたハヤテの姿もだいぶ近付いてきた。
倉庫の壁の切れ目までならあと僅か、そこまで出れば…きっと声も届く!
だから、走って、走って――

倉庫の間の路地を抜け、一気に視界が開けた…そのとき、
ハヤテの声が、届いた。

「危ないお嬢さま――!」

え…?

やっと届いたハヤテの言葉の意味は…横から照り付けるヘッドライトが教えてくれた。
路地から飛び出した私は、スピードに乗った巨大なトレーラーの目の前に踊り出て――

あ…

景色が…ゆっくり、進む。
絶望的なスピードで迫り来る真っ白な光に呑み込まれながら、私は――

「…ハヤテ」

ぽつりと呟いて、





衝撃、そして――





……






目を開けたとき…
そこには、一番会いたかった顔があった。

「お嬢さま…」

私はハヤテに抱きかかえられていて…

「大丈夫ですか?」
「ハヤ…っ! …っう…ぅ…ぅ…っ」

ハヤテの顔を見て、声を聞いて…これまで抑えていたものが一気に込み上げてきて、
そのままわんわん泣き出してしまいそうになる。
ヘッドライトの光に飲み込まれる寸前、私を襲った衝撃には覚えがあった。
いつか私を助けてくれた…ハヤテの必殺技。
ハヤテは、あのトレーラーなんかよりずっと速く、私の為に文字通り…飛んできてくれたのだ。

『二度と私の前に現れるな』

そんなことを言った私の為に…それでもハヤテはきてくれたのだ!
そう思うと、ハヤテの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくりたかった。
だけど…私は、そんなことのためにここまできたわけじゃ…ない。

「…っ …また…助けられてしまったな」
「いえ…それよりお嬢さま、お怪我は…って、その手! それにお膝も!」

まるで今朝までの、ハヤテがそこにいるのが当たり前だった頃と同じようなやりとり。
私は今、目を醒ましたばかりで…これまでのことは全部…悪い夢だったって…
そう思いたくなるような。
でも、それは甘い幻想に過ぎない。
そんなものに浸っていたら…きっとハヤテは戻ってこない。

「大丈夫だ、転んですりむいただけだ」
「ですが、早く消毒しないと…!」

あんなことを言った私に、ハヤテは本当に心配そうな顔を見せてくれる。
昨日まで、その視線には私への愛情が込められているって…そう思ってたんだけどな…

「なぁハヤテ、マラソン大会のこと、覚えているか?」
「え? は…はい」
「あの時、最後には負けちゃったけど、ハヤテが鍛えてくれたんだよな…」
「はい…」

突然現れた上にいきなり轢かれそうになって、そのうえこんな話だ。
ハヤテも混乱しているのだろう…そのせいか、今はいつもの…今朝までのハヤテに戻っている気がする。

「あの時…練習は疲れるから、嫌だったけど…
 でも、最後に一人で走ったとき…途中からでも、一人で…ゴールまで行けるって思ったとき…
 スポーツも案外悪くないって思ったんだ」
「お嬢さま…」
「それにな! ハヤテも見ただろう!?
 たった今、お前を探して、私はずっと走ってたんだぞ!
 ハヤテが私のこと、甘やかすばかりじゃなくて…ちゃんと鍛えてくれたから、
 だからあんな風に走れるようになったんだ!」

そして、じっとハヤテの目を見つめたまま、少しだけ笑う。

「お前が残してくれたものの、一つだ」





ハヤテは一年の間に、沢山のものをくれた。
形のないものがほとんどだし、今になってやっと気付いたものもある。
でも、どれも…どの思い出も、私にとっては宝物だ。

ハヤテはきょとん、とした顔をして、それから表情を崩して――

「お役に立てて何よりです、お嬢さま」

そう言ったときの顔はとても爽やかで、
まるで、これでもう未練はないとでも言いたげな表情だった。

「――だがな」
「…はい?」

実際、そんな気分だったんだろうが…そうは問屋が卸さないのだ!

「走るのはいいが、つまずいて転ぶわ轢かれそうにはなるわ…
 これではまともに走れるようになったとは…とても思えん!」
「は、はぁ…?」
「こんな中途半端ではどうにもならん!
 鍛え始めたからには、責任をもって最後まで見守るのが筋だろう!」
「え、いや、それは…」

ハヤテの表情に、露骨に混乱の色が混じるが…まだまだ!

「そもそもだ! 主に走らせるなど、執事として恥ずかしいとは思わんのか!
 そんなことでは一流の執事には程遠いぞ!」
「いや、あの…お嬢さま…?」
「マラソン大会の時だってそうだ!
 お前がヒナギクごときに手間取ったりせずに最後まで私を抱えて走りきっていれば、
 桂先生に遅れをとることだってなかったんだ!」
「いや…あの…スポーツも良かったのでは…?」
「うるさいっ! それはそれ! これはこれだ!
 要するに執事がしっかりしていれば主が無駄に走り回る必要など無いのだ!」
「は、はぁ…」
「だがハヤテ」
「は…はい?」
「たとえ未熟でもだ!
 私は…お前以外の奴に身体を預けるつもりはない」

ハヤテの表情が僅かに硬くなるが、構わず続ける。

「私を抱えて走ることが許されるのは、ハヤテ…お前だけだ」

やはりハヤテは…なにも言わない。
私が次に何を言うか理解して、その上で敢えて今は私の言葉を待っているのかもしれない。

「だからハヤテ…」

言葉が、詰まりそうになる。
いくら無茶を並べようが勢いでまくし立てようが、結局は――

「行くな…」

この言葉――

「行ってはダメだ…ハヤテ」

これを伝えなくては、何も始まらないのだ。





そして…この言葉はスイッチでもある。
屋敷で、一度は止めてしまった時計の針を、再び進める為の…

今そのスイッチは押され…動き出した針は、もう二度と止まらない。
決着がつくまでは…

「お嬢さま」

ハヤテはそれだけ言って、うつむいて…顔を上げ、少しだけ嬉しそうに、

「ありがとうございます」

そして、とても寂しげに――

「ですが…すみません」

はっきりと、言った。

「僕は…お嬢さまのお気持ちに応えることは…できません」
「…そうか」
「…」

…わかっていた答えだ。
ハヤテの心が簡単に覆ることはないし、
ウソを吐いて誤魔化すような奴ではないことくらい…十分過ぎるくらい知ってる。
だけど…

「なぁ、ハヤテ」
「…はい」

それでも、伝えなきゃならないことがある。

「いいか、よく聞け」

私の口から、自分の言葉で…
この男に。

「私は…ハヤテ、お前のことが…好きだ」

ずっと、ハヤテは私のことが好きだって思い込んでいた。
だから、こんなこと…わざわざ伝えるまでもないって思ってた。
…恥ずかしくもあった。
もし、もっと早く伝えることができていたら、
もっと違う“今”を迎えていたかもしれない。
今更、そんな仮定にはなんの意味もないけど…でも、
ずっと…ずっと抱いてた気持ちを一度も言葉にしないまま終わらせるくらいなら…!

「僕も…」

ハヤテはいつもの優しげな目を一度、僅かに伏せて、そして私に笑いかけるように…

「お嬢さまのこと…好き、ですよ」

そう、言ってくれた。





優しすぎる微笑みは、ハヤテの心遣いに満ちていて、
ハヤテの本心を知っていても、それでも…嬉しかった。

「だが…それは、一人の男としてのお前が、一人の女としての私に向けた言葉ではない。
 …そうだろう?」

恨み言を言うつもりはない。
満面の…は無理でも、一応は笑顔を浮かべられている…と、思う。

「はい…」

ハヤテは短く答えると、目を伏せる。

「そうか」

わかっていたことだけど…やっぱり…辛いな…

「つまり私は…振られたわけだ」

軽く笑い飛ばしてみようかとも思ったけど、無理だった。
乾いた笑いすらも出てきやしない。
代わりに、目頭がじーんとして、鼻がつんとして…
熱いものが、こみ上げてきて…

今になって初めて…失恋した、って実感がした。
好きな人に気持ちが届かない…切ないよ…
辛いよ…胸が…心が、痛いよ…
このまま泣き喚きたいよ…!

…だけど、それでもあいつは――

「ハムスターは、二度もこんな思いをしたのか…」
「ハムスター…西沢さん…?」
「だが、それでもあいつは…まだ諦めないって言ってた」

こんな辛い思いをしながら、それでもハムスターはハヤテのことが好きだって言い切った。
本当にあいつは…ハヤテのことが、好きなんだって…よくわかった。

「だがな!」

そう思うと、心が奮い立ってくる。
そうだ。
あいつは…ハムスターは友達で、そして…ライバルだから…
負けてなんかいられないのだ!

「私だって…まだ諦めないぞ!
 この私が! そう簡単に諦めるわけがないだろう!
 あいつなんかに負けてられるかっ!」
「お…お嬢さま!?」
「それにいいかハヤテ! 私はまだ14歳になったばかりだ!
 背はまだ伸びるし、む、胸だって多分もっと大きくなる…かもしれないんだぞ!
 三年もすればマリアより美人にだって、ヒナギクより格好よくだってなるかもしれないんだぞ!」
「え、ええと…?」
「そんな私と、それにハムスターもだ! 私もあいつも簡単には、いや絶対に諦めないぞ!
 例えお前が逃げたって追い掛けて、アタックし続けてやるからなっ!」
「……」

はは…ハヤテの奴、唖然としてる…
ここまでは…ちょっと癪ではあるが、あいつのお陰で一気に言えた。
あと少し。
あとは…私だけの言葉で伝えなきゃいけないこと…

「なぁ、ハヤテ…お前は私の気持ちに応えられないから、戻れないと…そう言うのだな」
「…はい」
「そうか…」

ハヤテを追い出した私が、自分の言葉で伝えなきゃいけないこと…

「ハヤテ、お前は私に恩があるからとか、借りがあるからとか…
 それでそういう風に思ってるのかもしれないな…だけどハヤテ、知っているか?」
「…?」

今更気付いた、私の…心。

「お前を捜して走り回っている間、私はお前のことばかり考えてた。
 お前がいた一年間のこと…」

色々なことがあった。
いつもバタバタしていて、騒がしくて、楽しくて、嬉しいことが沢山あって、
恥ずかしいことも切ないことも、腹立たしいことも悲しいことも、とにかく色んなことがあった。
でも、本当に――

「本当に、楽しかった。
 お前がきてから、私の世界はいつの間にか変わってしまっていた。
 友達も増えたし、学校も少しだけ…楽しくなった。
 それも全部、ハヤテ…お前のお陰なんだ」
「……」
「私はお前を助けたかもしれない…でもな、ハヤテ。
 お前は私に新しい世界を見せてくれた…
 屋敷に引き篭もって、限られた友達としか付き合わなかった私に、沢山の出会いと、経験をもたらしてくれた。
 お前が…ハヤテがいてくれたからだ…
 だから私はな、お前に…本当に…感謝しているのだぞ」
「お嬢…さま…」

私は、ハヤテのことが好きだ。
でも、ただ好きだから戻ってきて欲しいわけじゃないんだ。

「今だから、これだけは…はっきりと言えるよ…
 ハヤテ、お前と…マリアと過ごした日々はな…私にとってかけがえのないものだった。
 本当に…本当に大事な…何よりも大切な日々だったんだ。
 だから…だから…!」

心からそう思う…だからこそ…

「…帰りたい」
「……」
「私は…お前と…帰りたい…お前と一緒に帰りたい!
 また、昨日までと同じように、ハヤテとマリアと、三人で一緒に暮らしたい!
 ハヤテといた…ハヤテがいてくれた日々を…終わりになんかしたくない!」

例え――

「…お前が…最後に私を選んでくれなくても…」

この想いが叶わなくとも――

「――それでも私はお前といたい!」

じわ…と、熱いものがこみ上げてくる。
ダメだ…泣くなんて…あとでいくらでもできるんだ…
だから、今はちゃんと顔を上げて…前を、ハヤテの顔を見て――

「だからハヤテ…これからも…私の執事でいてくれ…!
 どこにも…行かないでくれ…」

涙がこぼれそうだけど、絶対に顔は伏せない。
ハヤテから目を逸らしたり、しない。

この想いが届きますように…って。

私の心が“大切なヒト”に届きますように――

「…お嬢さま」

滲む視界の真ん中で、ハヤテもまた私のことをじっと見つめていた。
何も言わず、私の視線を真っ直ぐに受け止めて、

そして軽くうつむいて…

「僕も…帰りたいです…」

目を伏せたのは、涙を隠す為なのかもしれない。

「僕もお嬢さまと…帰りたい…です…」

ハヤテの声は、涙声だったから。

「…わかった」

ぎゅっと握られているハヤテの手を強引に取って、引っ張る。
顔を上げたハヤテの目には、やっぱり涙が浮かんでいて、
そんなハヤテに、やっぱり泣きそうな顔の私が声をかける。

「帰るぞ、ハヤテ…私たちの家に」
「…はい!」

そう言って、私の手をぎゅっと握り返された。
手の平の擦り傷にはちょっと痛かったけど…

でも、ハヤテの手は…とても温かかった。








ようやく、今回の話でタイトルに繋がりました。

それにしても…ナギの誕生日に彼女が失恋する話を投稿するとか、泣けるぜ…

だがとりあえず…ナギ! 誕生日おめでとう!
ではまたー♪
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Re: 大切なヒト (12/9更新) ( No.11 )
日時: 2013/12/09 13:42
名前: サタン

お屋敷へと向かう車の中、僕はお嬢さまと並んで後部座席に座っていました。

一年前の真実を知ったとき、自分はもうお嬢さまの隣にはいられないと、
お嬢さまに言われるまでもなく、お屋敷を出ていくべきだと…そう、思っていました。
でも結局、僕は今こうしてお嬢さまの隣に座っています。

「なぁ、ハヤテ」
「はい、お嬢さま」

あれから、お嬢さまは僕の手を握ったまま、放そうとしません。
車に備え付けの救急箱で擦り剥いた膝と手の平を手当てしている間も、
空いている方の手はずっと僕の袖を掴んだままでした。

もう逃げたりしませんよ。 ――なんて冗談めかして言ってみたりもしましたが、
お嬢さまはうつむいたまま、僕の手を放そうとはしませんでした。

「どこに行こうとしていたのだ?」

そんなお嬢さまが口を開いたのは、車が走り出してからしばらく経ってからのこと、

「はい…遠くへ…」
「アテはなかったのか?」
「はぁ、まぁ…どこかの漁港まで密航して、
 以前に何度か乗った遠洋漁業の船にでも乗せて貰おうか、くらいは考えていましたが…」
「やはりか…」
「お見通し、でしたか」

お嬢さまはふん、と微かに笑い、
僕自身も、はは、と軽く笑ってしまいました。
確かに…安易ですよね。

「だがハヤテ、密航だったら、あんな目立つところにいてはマズかったのではないか?」
「そうですね」

確かにその通り。
ああいうことも以前は慣れっこでしたから、発見されにくいポイントは熟知していたのですが…

「できるだけ早くここを離れなきゃ、って…思ってたんです。
 でも、出航まであと僅かっていう時、つい…」
「名残を惜しんでいたのか」
「はは…本当にお見通しなんですね」

ふっと、小さく息をついて…その時の気持ちを振り返ってみます。
自分が腹立たしくて、情けなくて、お嬢さまとマリアさんに申し訳なくて、
でも、やっぱりどうしようもなく寂しくて、切なくて…

「お屋敷を出てから、偶然ヒナギクさんに出会ったんです」

お嬢さまは“口を挟む意図はない”とでも言うように、小さく相槌をうたれるだけ。

「引き留めてくださって…嬉しかったのですが、
 お嬢さまに会わせる顔がなくて…お断りしてしまいました。
 そのまま別れを告げようとした時、言われたんです。
 ―――必ず、帰ってくるように…って」





胸に響く言葉でした。
僕はまた…今度こそ、全てを失ってしまったと思っていたのですが、
そうではなかったのです。
僕との別れを惜しんでくれる人がいるんだ…って。

「それで…考えてしまったんです。
 お嬢さまに救われてからの一年のこと…出会った沢山の人たちのこと…」

散々だった僕の人生のなかで、間違いなく一番輝いていた一年。
きついことも辛い思いをすることも沢山あったけど、それでも文句なしに楽しかった、一年。

「そんなことを思ってる間に何本か船をやりすごしてしまいまして…
 いい加減に覚悟を決めて船に乗り込んだんですが、最後にまた、未練に駆られた…んでしょうね。
 なんとなく、お屋敷の方を眺めたくなったんです」

いかに広大なお屋敷も、そびえ立つ学院の時計塔も、もちろん…あの人の姿も、
ここからでは見えないってわかっていたんですけどね…

「そこを私が見つけた、というわけか」
「はい」

答えて、思わずクス、と笑みが溢れてしまいます。

「そんな気分に浸っていたら、いきなり激しい音がして、何かと思ったら…」
「ふん…」

転んだところを見られたのが恥ずかしいのか、お嬢さまはちょっと拗ねられてしまった様ですが、

「でも、お嬢さまがきてくれたってわかって、嬉しかったんですよ?」
「…そうか」
「はい…でもやっぱりあの時は、お嬢さまと会わせる顔がない、っていう思いも強くて…」

逃げ出しもしませんでしたが、すぐにお嬢さまの元へ駆け寄ることもできませんでした。

「そのせいで、お嬢さまを危険な目に遭わせてしまいました」
「いいよ、無事だったしな。
 それになんだ…ハヤテに助けられて…嬉しかったぞ」

ぎゅっと…お嬢さまの手が、僕の手を握り締めていました。

あの時。
お嬢さまが迫っていたトレーラーに全く気付く様子もなく路地から飛び出した瞬間…
僕は叫びながら…考えるより先に、跳んでいました。
お嬢さまの元へ――文字通り、疾風の如く!

「まったく…あんな助け方をされては、ますます…」
「はい?」
「―――っ! だから…その…!
 ますますハヤテのことが好きになってしまうではないか!」
「あ…あは、はは…」

なんと言いますか、思わず引き攣った笑い方をしてしまう僕を、お嬢さまはじろりと睨まれて、

「…なんだその嫌そうな笑いは?」
「い、いえ! その…」
「…ふんっ!」

ぷいっ、とそっぽを向かれてしまいました。





「いいかハヤテ! さっきも言ったがな、私はお前のことを諦めるつもりは毛頭無いからな!」

そう…そこは、根本的には何も解決されてはいないのです。
お嬢さまは僕のことを想ってくれている…それは、嬉しいことではあるのです。
でも…僕は…

「ハヤテ!」
「は、はい!?」
「お前は誰が好きなのか…言ってみろ」
「へ!?」
「いいから! 早く!」

唐突です、でも…そうですね…お嬢さまははっきりとご自分の気持ちを言葉にされました。
ならば、僕も――

「…マリアさん、です」

僕の手を握るお嬢様の手に、ぴく、と力が入ったのが伝わってきます。
それでも…僕は、やっぱり…

「僕は…マリアさんが好きです」

ぎゅ、と…
お嬢さまの手を、傷に響かないように気を使いつつ、それでも…強く握り返しながら、そう答えました。
お嬢さまは“ふっ”、とひとつ溜息を吐いて、

「そうか」

と穏やかに言われながら、じろりと僕の顔を睨みつけて、

「それでも私は諦めないからな。
 いつか必ず…借金だとか、執事と主だとか、そんなことと関係なく…
 一人の女として、必ずお前の気持ち…捕まえてみせてやる!」

それだけ言うと、またしてもぷいっと窓の方を向かれ…

「だから…」

微かに肩を震わせて、

「それでもお前が、お前の今の気持ちを貫くというのなら…私を諦めさせてみせろ…」

僕の手をぎゅ…っと握り締めて…

「認めさせてみせろ!」

叫ぶように、言われました。
…言って下さいました。

「…はい」


お嬢さまの手は、僕の手を握り締めたまま。

その小さな手は温かく、
でも、その温もりに…胸が少しだけ、痛みました。





それから僕たちは何も言わず、黙ってシートに身体を預けていました。
やがて車が高速を降り、スピードを落としたところで、

「お嬢さま、そろそろお屋敷ですね」

本当に何気なく、僕はそんなことを口にしました。

「む…」

それまでずっとうつむいていたお嬢さまも、やはり何気なく顔を上げて、
窓の外に目をやっていましたが、

「おい、止めろ」
「へ?」
「いいからすぐにだ!」

唐突に、有無を言わさぬ口調で命じ、
車が止まると戸惑うSPの方には目もくれず、
お嬢さまはちらり、と僕を振り返り、さっさと外に出てしまいます。

「お嬢さま…?」

ついてこい、ということなのか…
どのみちお嬢さまを一人にするわけには行かず、後を追って外へ出ると、

お嬢さまが向かうその先には、女の子が二人。
一人は自転車を支えていて、もう一人はピンク色の長い髪の――

「…ハヤテ君!」
「ハヤテ君…」
「ヒナギクさん…西沢さんも…」

お二人がどうしてこんなところにいたのか…
車がここを通ったのは偶然ですが、彼女たちがここにいたのは、きっと偶然なんかじゃありません。
その理由は、恐らく…

「ったくバカモノめ、この寒い中、ずっとここにいたというのか」
「あ、あはは…でもほら、やっぱり…気になって…」
「それにしたって、私が帰りもここを通る保証なんて無かっただろうが…
 大体、なんでヒナギクまでここにいるのだ」
「なんでって、歩にハヤテ君のことを伝えたのは私なのよ?
 そりゃあ、ハヤテ君のこと…止められなかったけど、でも…
 だからって歩に全部押し付けておいて、それで自分は家でのうのうとなんて、してられるわけないでしょ!」
「む…」

やっぱり、考えていた通りみたいです。

「でも…待ってた甲斐はあったかな」
「ふん、任せておけと言ったろう」
「うん…」

お嬢さまと軽く言葉を交わすと、西沢さんはじっと僕を見て、

「帰ってきてくれたんだね…よかった…」

目を潤ませて、そう言ってくれました。





数日前、僕は西沢さんに告白されて、その気持ちに応えることができませんでした。
にも関わらず、彼女は…

「おかえりなさい、ハヤテ君」

頬に涙の跡を残したまま、それでも満面の笑顔でそう言ってくれるのです。
だから…たくさんの申し訳なさと、そして…心からの感謝を込めて――

「はい…ただいまです、西沢さん」

精一杯の笑顔で応えました。

「ご心配をおかけしました」
「全くよね」
「う、す、すみませんヒナギクさん…」

一方のヒナギクさんは、ジロリと僕のことを睨みつけて、

「いきなり一方的にあんな別れの挨拶なんて、された方はどんな気持ちになると思ってるのよ!」
「す、すみません! ホント、すみません…」
「あんな風に別れて…本当にもう二度と会えないんじゃないかって思ったら…私…!」

顔を伏せて、肩をわなわなと震わせて、そしてくるりと後ろを向かれ、

「…まぁ…ちゃんと、帰ってきたから…今回は…許してあげるわ…」

途切れ途切れの声で、そう言ってくれました。

「ヒナギクさん…」

僕がこうしてここに戻って来られたのは、ヒナギクさんのあの一言――

「必ず帰って来いって言ってもらえて…嬉しかったです」

それが僕を、“ここ”に繋ぎとめていてくれたのですから。

「本当に…ありがとうございました…」
「…うん」

そんな感謝の思いを込めて、
ヒナギクさんの震える背中に、僕は深く頭を下げました。


「でもよかったよ…ハヤテ君が帰ってきてくれて…本当に…」
「連れて帰ってきたのは私だがな」
「うん…そうだね、じゃあ今日のところは、お礼を言わなきゃかな」
「…今日のところは?」
「うん、あくまで今日のところは。
 だってハヤテ君が戻ってきてくれた以上、ナギちゃんと私はライバルだからね!
 当然じゃないかな?」
「む…」

西沢さんのお嬢さまに対する話し方は何処となく挑発するような感じですが、
でも、そこには険悪な感じじゃない…何となく、親密なものが込められているように聞こえます。

「調子に乗るなよ!? 私が動かなかったらハヤテはここに戻ってはこられなかったのだぞ!?」
「でもナギちゃんにそうお願いしたのは誰かな?」

お嬢さまが迎えにきてくれたその前に、二人に何があったのか…僕にはわかりません。
僕は二人の気持ちを知っていて、
でも、少なくとも今は――そしてきっと、最後まで――その気持ちには応えられません。
お嬢さまはそれでも尚…僕を許し…受け入れてくれました。
西沢さんはきっと…そんなお嬢さまを後押ししてくれたのだと思います。
ならば、僕が為すべきことは、その気持ちを…
痛みを伴う想いを受けとめて、その上で――普段通りに振る舞うこと。

「ハムスターだってヒナギクに頼まれなけりゃ、知りもしなかったんだろうが!」
「あら、じゃあ私のお陰?」
「んな…っ!? ば、バカを言うな!
 誰に何も言われなくたって、すぐに探しに行ったに決まってる!」
「どうかしらねぇ? またこんなことにならないか今から心配だわ。
 そうだ…ねぇハヤテ君、やっぱりうちにこない?
 部屋も空いてるし、ハヤテ君ならお義母さんも大歓迎だろうし」
「んなっ!? ま、待てヒナギク…まさかお前も!?」
「だ、ダメなんじゃないかな!? いくらヒナさんでもそれはズルいんじゃないかな!?」

いつの間にかヒナギクさんまで加わって、
他人事のように聞き流していられる話題ではないのですが、
お嬢さまたちの声を聞いていて…改めて、実感しました。
そう、ここが…僕が帰ってきた“場所”。

沢山の大切なヒトがいて…
応えられない想いもあるけれど、それでも…受け止めて、受け入れて…
ここにいたいって、心から思えるような…僕の、居場所。

「…おい、ハヤテ?」
「…あ、はい!?」
「どうしたのかな? ぼーっとしちゃって」
「そうよハヤテ君、あなたのことを話してるっていうのに」
「す、すみません、その…帰ってきたんだなぁ、って…」

…ただでさえ今回の騒ぎを起こした張本人な上に、
こうして話も聞いていないようでは怒られてしまいそうですが…
お嬢さまたちは顔を見合わせて…溜息を吐かれて、でもそれから、

「そうね、お帰りなさい…」
「うん、お帰りなさい、ハヤテ君」

西沢さんとヒナギクさんは、そう言ってくれました。

「ふん、まぁいい…」

お嬢様は、やれやれ、という感じでそう言って、そして…

「よし、ハムスター、ヒナギク。 カラオケに行くぞ」

唐突にそんなことを口にされました。





「は?」
「…へ?」

お嬢さまの突飛な提案に、西沢さんもヒナギクさんも目を丸くします。
僕だってびっくりですけど…

「ほら、何をグズグズしている! とっとと行くぞ!」

そんな僕たちの様子など構うことなく、
お嬢さまは西沢さんとヒナギクさんの手を取って、有無を言わさず歩き出そうとします。

「ナギ!? 急にどうしたのよ?」
「わ、ちょ、ちょっとナギちゃん!?」
「なんだよ、嫌なのかよ」
「べ、別にそういうわけじゃないけど…」
「いや、嫌じゃないけど! あ、それじゃあ! ハヤテ君も一緒に――」

お嬢さまに引きずられつつある西沢さんが、空いている方の手を僕に差し出してくれます。
でも、僕には…

「ハヤテには行くところがある」

僕が口を開く前に、お嬢さまがそう言われました。

「あ…」

その言葉が意図するものを、西沢さんもすぐに理解されたのか、

「うん…そうだね…」

僅かに表情を陰らせながら、それでもあくまで笑顔のまま…

「今日は…仕方ない、かな」

そう、言ってくれました。

「西沢さん…」

僕も、せめて何か一言、言わなくてはと思いつつ、
でもなかなか言葉が浮かんでこなくて、

「いいかハヤテ! 今晩だけだからな!」
「お嬢、さま…?」
「今日は、その…い、色々あったから、特別に許してやる…
 だがな! 二人きりにしてやるのは今日だけ! 今夜だけだからな!」

ああ…

「だからモタモタしてないで…早くマリアのところへ行ってやれっ!」

お嬢さま――――

「はい…」

本当に…

「ありがとうございますっ!」





「…ふん」
「仕方ないわね…じゃあ今夜はいいけど、まだまだ言いたいことが沢山あるんだから…!
 今度じっくりと付き合ってもらうからね!
 それじゃあまたね! ハヤテ君!」
「はい、ヒナギクさん! また今度です!」
「わ、私も今日はちょっと心配かけられちゃったし…今度、ちょっと付き合ってもらおうかな!
 うん、仕切り直しだからね…じゃあハヤテ君、またね!」
「はは…はい、わかりました、西沢さんも、また今度!」

ヒナギクさんと西沢さんと、“さよなら”ではなく“また会いましょう”と挨拶を交わし、
そして…

「ハヤテ…」
「はい、お嬢さま」
「マリアのこと、頼んだぞ…」
「…はいっ!」
「では、明日の朝には帰るからな」

一緒に帰ることにはなりませんでしたが、
また…明日からもお屋敷での、お嬢さまとの生活が待っていることを改めて確かめて、
それが特別なことじゃない…明日も、明後日も…これからも、ずっと当然のことだと思っているって、
お嬢さまに伝わるように…

「はい…お屋敷でお待ちしております」

そう考えていたら、自然と浮かんできた笑顔で…そうお答えしました。

「うむ…」

お嬢さまは短くそれだけ言って、不意にうつむかれてしまい…
僕も、敢えてお嬢さまに声をかけることはせず…

「では皆さん、失礼します! また会いましょう!」

三人で、姉妹のように手を繋いだままの彼女たちに背を向けて、
あの人の待つお屋敷に向かって、僕は駆け出して行きました。







………

「ハヤテ君…行っちゃったね…」
「うむ…」
「ナギちゃん…」
「…なんだよ」
「ん…なんでもない」
「…ふん」

「さ、それじゃあナギ、歩…じっとしていると寒いし、そろそろ行きましょうか」
「はい! 今日はもう、夜を徹して歌っちゃおうかな!」
「いいわね、今日は私もそういう気分よ」
「うん…いっぱい歌って…いっぱい…泣いちゃおうかな… ね…?」
「う…うるさいっ! 私は、別に…泣いて、なんか…」
「……そうね」
「う…まだまだ、なんだからな…これからなんだから…だから…
ぅ…ぐす…ぅあ…あぅう…っ」

「ナギ…頑張ったわね」
「うん、偉かったよ…」
「っう、ひっく…うるさ…っ! 別に、わた…っ…ぅえぇ…うぁぁ…」





………







次回でいよいよ最終回を迎えます。

12/24に投稿予定ですが、できないかもしれませんので、
早めに投稿するかもしれません。

それでは、また。
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Re: 大切なヒト (マリアさん誕生日記念完結) ( No.12 )
日時: 2013/12/24 10:45
名前: サタン

は…っ、はぁ…っ、はぁ…」

もう二度と戻ることはない――

数時間前、そう思いながら閉じた門を、今こうして開いて、
僕は、お屋敷へと戻ってきました。
帰ってきた…帰ってこれたと思うと、胸にじわりと込み上げてくるものもありますが、
今はそんな感慨に浸っている余裕なんてありません。
息が整うのを待つのももどかしく、玄関までの道を一気に走り抜け、お屋敷へと駆け込んで――

「マリアさんっ!」

彼女の姿を求め、その名を呼びますが…

「………」

返事は…ありません。
すぐに駆け出してマリアさんの部屋に向かい、
扉の前で一呼吸して息を整えると、
逸る心を抑えながら軽くノツクして――

「マリアさん。 僕です…ハヤテです」

…やはり、返事はありません。

「…失礼します」

扉を開いても、部屋にはマリアさんの姿はありませんでした。
なんとなく、ですが…そんな予感はありました。
お屋敷中を駆け回ってみても、やはり探し求める彼女の姿を目にすることは叶いませんでした。
少しだけ、嫌な考えがよぎります。
僕が出ていって…お嬢さまも飛び出してしまって…
マリアさんがここに残る理由は――

そんな想像を、頭を振って追い出します。
代わりに思い出すのは、あの人と過ごした日々のこと。
マリアさんとここで重ねた、沢山の時間のこと…

そんな幾つもの思い出の断片から、どうして“そこ”を選んだのか…
特に根拠があったわけではありません。
ですが…僕の足は、自然とお屋敷の外へと向かいました。
広大な三千院家の庭ですが、目指すところはただ一ヶ所。
いつか、落ち込んだ僕を励ましてくれた…導いてくれた…
あの、池のほとり。

――そこに、彼女は居ました。
石の上に腰を掛けて、膝を抱え、顔を伏せて。
月明かりの下、うずくまっていたマリアさんの背中は…本当に頼り無く、小さく見えました。





僕は呼吸を整えると、逸る心を抑えながら…一歩、一歩と彼女に歩み寄ります。
ざ、ざっ、と…静かな夜の空気に、僕の足音はいやに大きく響きます。
ですが、その音がマリアさんにも届くであろうところまで行っても、
彼女は振り向いてはくれません。
僕はそのまま、彼女まであと数歩、というところまで歩み寄り、
胸の奥から溢れだしてしまいそうな感情を言葉に変えて、

「マリアさん」

ゆっくりと紡いでゆきます。

「僕です…ハヤテです…」

マリアさんの肩がぴく、と揺れたのは、ただ風のせいなのかも知れません…
マリアさんは、それ以上は動かず…何も言わず…

「マリア…さん?」

聞こえていないのか、もしかしたら…無視、されているのか…

背筋を冷たい感触が走ります。
僕は、マリアさんも僕と同じ気持ちだとばかり思っていました。
――別れたくないって、もう一度、会いたいって…

ですが…思えば、僕はこの人を…置き去りにしたのです。
僕の身勝手な告白で心を乱し、
それでも想いを告げてくれた…応えてくれた彼女を置き去りにして、
僕は一人…お屋敷を逃げ出したのです…
だから…これは、仕方ない…受けるべき罰のようなもの、なのかも――

「あなたは――」

そんな勝手な想像に、一人で眉をひそめかけていたそのとき、
その声は確かに聞こえました。

「あなたは…本当に、ハヤテ君…なのですか…?」

聞きたくて堪らなかった彼女の声は、夜風に紛れて消え入りそうなほどか細く、
そして、

「マリアさん…?」

どう答えてよいのかわからない…その真意を測りかねる言葉でした。
為すべきこと、言うべきことが見つからず、僕はただ一歩、マリアさんへと歩み寄ります。
じゃり、と…冬の地面を踏む靴音に、マリアさんの身体が今度は間違いなく、
ぴくり、と反応します。
でも…こちらを振り向いてはくれません。

「今まで何度も聞きました…ここにきてくれた、ハヤテ君の足音を」
「え…?」

一体…何を…?

「でも、振り返るとそこには…ハヤテ君はいませんでした。
 そうですよね…ハヤテ君は、もう…ここにきてくれるはずがないのに…」

どうすればいいのかは…わかりません、でも…
今、僕の為すべき事はきっとこうだって…直感に背中を押されて、
また一歩、マリアさんの背中に近づきます。

「そう思って振り返るのをやめようとしたら…今度は、ハヤテ君の声まで聞こえてくるんです…
 私の名前を呼んでくれる…ハヤテ君の声が」
「マリアさん…僕は…」

もう、一歩。

「でも…でも! それでも! 振り返るとハヤテ君の姿はなくて…
 わかってるんです! ハヤテ君が戻ってくるはずがないって!
 戻ってこられるわけがないって!
 足音も、声も…全部私の心が勝手に作り上げた、幻聴に過ぎないって…わかっているんです…」

ずき、と胸が軋む思いでした…
マリアさんは…こんなにも…

「だから、もう振り返らない…振り返れません…
 もしまた、幻だったら…振り返ってもハヤテ君がそこにいなかったら…
 私は…私は、もう…う…ぅう…っ、っく…ぅ…うぅう…」
「マリアさんっ!」

その名を呼んで…いや、叫んで――
僕は、彼女を後ろから抱き締めていました。

「幻なんかじゃありません! 僕はここにいます…綾崎ハヤテは…ここにいます!」

声を張り上げたのは…怒っていたから。
マリアさんにではなく、この不甲斐ない自分自身に。
この人は、こんなにも僕のことを想っていてくれていたのに…
そんな人を…置き去りにして逃げ出した自分に…
少しでも疑ってしまった、自分に!

…でも、今は自責の念に駆られている場合ではありません。
この腕の中で震えている華奢な肩を…愛しい人の冷えきった身体を、少しでも温めてあげたくて――

「マリアさん…」

もう一度、今度は彼女の耳元で囁くように名前を呼んで、
ぎゅっと…抱き締めました。
永久に失ったと思った、この人の温もりを…僕の身体に刻み込むように…

「…ハヤテ…君…?」
「はい」

マリアさんの手が、彼女を抱き締める僕の腕に触れました。
こうして抱き締められても…それでも、まだこの感触が信じられない…
信じたい、けれど…信じるのが怖い、とでも言うように…恐る恐る、微かに触れて、

「ハヤテ…君…」

僕の腕をぎゅっ…と掴んで…
そして、確かめるように発せられた声。

「本当に…本当に、ハヤテ君…なのですね…?」

その声は震えていました。
すがるような声に応える為に、僕は彼女に腕を預けたまま立ち上がり、
膝を抱えてうつむいたままのマリアさんの正面に立って、
小さく、ですがはっきりと言葉にします。

「マリアさん」

幻じゃないって、伝えるために。

「僕は ――――ここにいます」

マリアさんはゆっくりと顔を上げて
目と目が、合って、

「ハヤテ君…」
「マリア…さん…!」

もう二度と会えないって…一度はそう覚悟すらした最愛の人の顔は、月明かりに照らされて、
そこに浮かぶのは、涙の跡が残る頬、泣き腫らした目。

そんな彼女の悲痛な表情を見て、すぐに理解しました。
僕に裏切られたお嬢さまを、西沢さんが支えてくれました。
そんなお嬢さまとヒナギクさんが…絶望を抱えて去って行こうとした僕を、再びここへと導いてくれました。
でも…マリアさんはその間、ずっと独りだったのだと。

僕とお嬢さまの間の誤解をただ一人、知っていたこの人は、
僕のことを想ってくれるようになったその日から、ずっと苦悩していたのだと。
そして…その誤解が招いた出来事の責任を、きっと全て自分のせいだと思い込んで、
この寒い夜に、ずっと一人…ここで膝を抱えて…自分を責めていたのだと…

「――ハヤテ君っ!」

だから僕は、すがりついてきた彼女を受け止めて、
そして僕も、彼女の背中に腕を回して…思いきり抱き締めて――

「もう…会えないって…お別れなんだって…
 ハヤ…っ、く…ぅあ、あぁ…う、うぅ…!」
「もう、どこにも行きません…ずっと、そばにいます…
 マリアさんのそばにいます!」

僕がお嬢さまたちに支えられてここへ戻ってこれたように、
今度は…僕があなたを支えます。
だから泣かないで…笑顔を見せてください…… って、言いたかったのですが、
ダメでした。
僕も…涙が、抑えきれなかったから――





やがて、マリアさんの嗚咽はすすり泣きに変わり、それも静かになってしばらくして、

「…ごめんなさい、ハヤテ君…恥ずかしいところをお見せして…」
「いえ、気にしないで下さい。 僕も似たようなものですから…」

顔を上げたマリアさんの表情に微笑みはまだ戻ってはいませんでしたが、
涙で潤む瞳は、少しだけ安堵の色を湛えていてくれました。
ですが…まだ、話さなくてはならないことも、話したいことも残っています。
それを全て伝えなくては、マリアさんの笑顔をもう一度目にすることは叶わないでしょう。

「寒いとは思いますが…少し、お話していいですか?」
「はい…私も聞きたいことがありますから…」

僕は一度マリアさんから離れると震える彼女に僕のコートを羽織らせて、
石の上に並んで腰をかけました。

「…お嬢さまが、追い掛けてきてくれました」
「ナギが、ですか…」

寒い中、マリアさんをいつまでも座らせておくわけには行きません。
それに…彼女の聞きたいことと、僕の話したいことはきっと同じでしょうから、
前置きはなしです。

「はい。 一緒に帰ろうって…昨日までのように、マリアさんと、僕と…
 三人で、このお屋敷で暮らしたいって…言って下さいました」
「あの子が…」

それはマリアさんにとって、余程意外だったのでしょう。
うつむいていた顔を上げて、目を見開き気味にして、

「あの子は、ハヤテ君が出て行った後…私に、“ウソツキ”って言い残して、飛び出して行きました。
 私のことも、ハヤテ君のことも…とても許してくれるようには見えなかったのですが…」

僕も、そう思っていました。
それに、許してもらおう、とも思ってなかったのですが…

「ちゃんと聞いたわけではありませんが…
 途中で西沢さんと出会ったようで…多分、親身になって話してくれたんだと思います。
 それから…僕を捜してくれて…
 最後のギリギリのところで、僕をここへと繋ぎ止めて下さいました」
「そうだったんですか…」

マリアさんの表情に、微かな安堵の色が浮かんでいました。
僕が勝手に戻ってきたわけではなく、お嬢さまがそれを認めて下さっていること…
そうでなくては、僕が帰ってきたとは言えないのですから。
ですが、マリアさんにいつもの素敵な微笑を浮かべさせることはまだできません。

「でも、そうすると…」

不安げな口調でそれだけ言って口をつぐむマリアさんもまた、わかっているのでしょう。
これだけでは…お話は振り出しに戻ったに過ぎないのです。
僕とお嬢さまの間の誤解こそはなくなりましたが、それは潜在していた問題が顕在化しただけのこと。
解決とはまったく違います。
そして実際に、まだ何も解決してはいないのです。
でも…だからこそ、マリアさんに伝えなければいけないことがあります。

「お嬢さまに、まだ諦めないと言われました」
「諦め…」

言葉の意味を少しだけ考えたのか、ひと呼吸ほどの間を置いて、

「それは、ナギが…ハヤテ君のことを…ということですか?」
「はい」

僕を見上げる彼女の表情に、再び不安げな陰が射します。
でも…

「その上で、こうも言われました…
 “それでもお前が、お前の今の気持ちを貫くというのなら…私にそれを認めさせてみせろ”…って」

その言葉が暗示するのは、この先の平穏ではない日々。
確かにそこには希望の光も見えてはいますが、

「ナギに…認めさせる、ですか…」

それがどれだけ困難であるかは、お嬢さまと付き合いの長いマリアさんのこと。
僕以上に実感されていることでしょう。

「はい…そんなわけで正直、この先どうなるか…
 お嬢さまがどうされるかも、僕がどうなるかも…まだ、はっきりとは何も言えません」

こんな時、自信をもってマリアさんを安心させてあげられるような言葉をかけてあげられればって…思います。 
ですが、僕は…まだ未熟です。
借金だって一年働いた分だけ、つまり40分の1しかお返しできていません。
執事としてもまだまだ一流には程遠く…
これでは、お嬢さまから認めてもらう以前の問題です。
でも…いえ、だからこそ――!

「だから、まずは借金を全額返済すること…そこから始めようと思います!」
「…はい?」

マリアさんが思わずきょとん、とした顔をされますが、僕はそのまま話し続けます。

「借金を返して…その上で僕は、成り行きなんかじゃなく…
 自分の意思でお嬢さまの執事になります!」
「は…はぁ」
「そして…執事として、お嬢さまからも、誰からも認められるような、
 一流の執事になって見せます!」

それで一旦、言葉を切って、
僕の意図を測りかねる、といった感じでぽかんとしているマリアさんに笑いかけながら――

「それくらいにならないと、
 マリアさんと釣り合うなんて誰にも認めて貰えそうにありませんからね」
「…!」

僕の想いが伝わってくれたのでしょうか、
マリアさんの表情からは不安げな色は薄れ、頬に微かな朱が差して――

「ですから、すみませんマリアさん…しばらく待って下さい。
 僕は出来るだけ早く借金を返して、必ず一流の執事になって、そのときこそ…マリアさんを…」

それ以上は、今はまだ言葉に出来なくて、
ただ、この想いが伝わってくれるようにと…彼女のことを見つめました。
マリアさんは目を逸らしたりせず、僕の目を見て…
そして、軽く目を細めて…

「…でもそれでは、下手をすると40年待たなくてはいけないかもしれませんねぇ」
「え!? あ、いや! そ、そんなにはお待たせしません!
 二、三年のうちには何とか、いや! 必ず!
 ほら、白皇の伝統行事なんかもありますし、それで――」
「冗談ですよ」

そう言って僕を見上げるマリアさんは、悪戯っぽく、
だけど、とても魅力的に…

「40年だって50年だって…ずっと、待っていますよ」

笑ってくれました。
ずっと見たかった、この人の…大好きな人の、大好きな笑顔を見て…

「…できるだけ、お待たせしない方向で…」
「はい♪」

やっと、心から思うことができました。
僕はここに…マリアさんの元に、帰ってきたんだ、って。





「…初めてハヤテ君と出会ったのも、月の綺麗な夜でしたね…」

しばらくお互いに黙ったまま座っていましたが、
ふとマリアさんが口を開きます。

「そういえば…」

月を見上げながら、一年前のことを思い出しているのでしょうか…
月明かりに照らされたマリアさんの横顔に見惚れながら、
僕も一年前のあの時に、思いを馳せてみました。
どんな天気の気まぐれか、ちらつく雪の合間から満月の光が降り注いでいた、
あの晩のこと…

「あの時は驚きました…
 まさかあんなところに人が倒れているなんて、思いもしませんでしたから」
「あ、あはは…まぁ、そう思うのが普通かと…ははは…」

クスクスと笑うマリアさんに、僕も同意せざるを得ません。
自分でも、まさか人生を諦めて雪の中に我が身を投げ出すことになるなんて、
その直前まで想像できませんでしたから。

「まぁ、衝撃の出会い、でしたねぇ」
「衝撃的過ぎて、私は少し心配でしたが…」
「あはは…」

でも、本当に衝撃的でした。
死のうと思って道のど真ん中で倒れていた分際で、
自転車に轢かれて文句を言おうとして…
そんなこと、一瞬でどうでもよくなってしまうくらい、綺麗な人に出会ったこと。
それだけでも、十分に衝撃だったんですが…

「覚えてますか? あのとき、マリアさんは僕にマフラーをかけてくれて…」
「はい…だってハヤテ君、あんな雪の中で、凄く寒そうな格好だったから…」

寒空の下で綺麗な人と出会えた感動も、
彼女と話しているうちに荒んだ胸に湧いた嫉妬の念で消え失せて…
そんな気持ちを抱えたまま、逃げるように去って行くつもりだった僕の肩に、
不意にかけられたマフラー…

「あの時、マリアさんがかけてくれたマフラーは、本当に…温かくて…
 卑劣な事を考えていた自分が情けなくて…優しさが…嬉しくて…」

本当に、情けないくらい大泣きしてしまいました。

「もしあのとき、あのままマリアさんと別れていたら、僕はどうなっていたか…
 最低ギリギリのところで泥水をすすりながら生きていたか、
 僕の両親のように、卑劣な人生を歩んでいたか…
 それとも、呆気なく借金取りに捕まって…今頃は…もう…」
「ハヤテ君」

あの、救いのない夜の気持ちを思い返しかけた僕の手に、マリアさんの手が重ねられて…

「ハヤテ君は今、ここにいます。
 こうして…私の隣にいてくれます」

優しく微笑んでくれます。

そうでした。
そんな僕を待っていたのは、新しい日々、そして…沢山の、素晴らしい出会い。
それも、これも、全て…

「…あのとき、マリアさんが優しくしてくれたお陰です」

初めて出会って、この人の優しさに触れて…
きっとそのときから…僕の心の中にはマリアさんがいたのだと思います。
この人のことが好きだって気付いたのはそれからずっと後のことでも、
あの瞬間…彼女へのこの想いは、きっと僕の胸に生まれていたんだと…

「それでは、今日は一年前とは逆ですね」
「逆、ですか?」

柔らかな笑顔で上目使いに顔を覗き込まれて、
顔が火照るのを感じながら、思わずちょっとのけぞってしまいます。

「今日はハヤテ君が、私にコートを羽織らせてくれて、
 そして何より…こうしてまた、私の前に来てくれたのですから…」

マリアさんは笑顔のまま、だけどその目には新しい涙を浮かべながら、

「嬉しかったです…ハヤテ君が帰って来てくれて…どんなに救われたって…思ったか…」
「マリアさん…」
「いけない、嬉しいのに…ごめんなさい、なんだか涙腺が…」

ぽろぽろと涙を流すマリアさんに何かしてあげたくて、
ハンカチで目尻を拭ってあげます。

「あは…ありがとうございます…」

なんだか気障ったらしい気がして少し恥ずかしくもありますが、
マリアさんに喜んでもらえるなら、それくらいなんでもありません。
大切なこの人の為なら、どんな恥も苦労も、喜んで買いましょう。

「…でも、わからないものですね…」
「何がですか?」

マリアさんは池の方に目を向けながら、呟くように話します。

「はい…昨年のクリスマス・イブ…ハヤテ君がナギを助けて怪我を負われて、
 お屋敷に運び込まれた時は、こう思っていたんですよ?
 “クリスマスだからってサンタさん、こんなプレゼントされても”…って」

くす、と笑みをこぼし、

「でも、今はサンタさんに感謝しています。
 あの夜、ハヤテ君と巡り会わせてくれて…
 それに…もう会えないって思っていたハヤテ君を、もう一度私の前に導いてくれて…
 こんな素敵なプレゼントはないなぁ…って」

静かに語るマリアさんの横顔は、とても穏やかでした。

「クリスマス・イブは、いつも憂鬱でした。
 嫌でも私の過去について考えさせられてしまうから…
 でも、もうきっと…憂鬱になんてなりません。
 だって今日は…
 この日は、ハヤテ君と出会えた日で、


――ハヤテ君と…想いが通じ合えた日なのですから…」


穏やかな微笑を湛えたまま、マリアさんは僕の方を向いて、
じっと目を見て…


「大好きですよ、ハヤテ君」


そう、言ってくれました。
恥ずかしげに顔を赤らめながら、だけど目を逸らそうとはしないマリアさんの瞳から、
僕も目を離すことができなくて…
その瞳に吸い寄せられるように、少しずつ顔を寄せて――


「僕も――」


彼女の吐息を感じられるくらいに近づいて――


「マリアさんのことが――」


目を閉じたマリアさんの肩を抱き寄せて、目を閉じて――


「――――大好き、です」


想いを紡いだ唇を、大好きな人の唇に…重ねました。





唇を通して、僕の想いがマリアさんに流れ込んで行くような…
マリアさんの想いが、僕の中に流れ込んで来るような…

唇を触れ合わせるだけの行為に、そんな幻想を感じながら…この柔らかく、温かな感触に、
僕は…そしてきっとマリアさんも…浸っていました。


やがて、どちらともなく唇を離して、

「……」
「……」

何も言葉にできず、ただただ、見つめ合っていました。
やがて…

「あの…」
「は、はい…」

マリアさんが口を開き、

「これは…ハヤテ君からの、誕生日プレゼントだって…そう思って、いいですか?」

恥ずかしそうに、でも、本当に嬉しそうに、問い掛けてきます。
そんなつもりではなかったですが…

「…そう思って貰えるなら…嬉しいです…」

僕の答えを聞いて、マリアさんは…満ち足りたように微笑んで、
涙を湛えた目を閉じて…僕の胸に顔を埋めて、

「素敵…」

そう、呟きました。

「一生、忘れません…この日のこと…初めて…キスしてくれたこと
 ずっと、ずっと…忘れません」

僕だって、忘れません。
絶対に…忘れられません。

彼女が口にした言葉。
唇の感触。
この、腕の中の温もり。

例えこれから、同じことがあったとしても…何度繰り返すことになろうとも…
この夜の、池のほとりでの出来事を…僕は生涯、忘れることはないでしょう。





















クリスマス・イヴには、あまり楽しい思い出はありませんでした。
自分に与えられた仮初めの誕生日。
それはどうしても、私の出自を顧みてしまう日でしたから。

クリスマスに対するそんな印象のせいか、サンタさんにもあまりいいイメージは抱いていませんでした。
クリスマスの朝、枕元にプレゼントが置いてあるのを見つけたときはそれはそれで嬉しかったのですが、
それがおじいさまの手によるものだということくらい、幼い頃からわかっていました。
それに三千院の家にいれば、欲しいと思ったものは普段からなんでも手に入ってしまいますし、
クリスマスというイベントに対するありがたみというのは、
私の感覚からは欠如していました。

ですが、今日…私は初めて、サンタさんを信じてもいいかもしれないって…そんな風に思いました。
大切だと思える人と出会えて、そしてその人と想いが通じ合えた日なのですから。

そんな聖夜に私は、幸せな夢を見ました。

ナギや、沢山の人たちに囲まれて、
私の隣にはハヤテ君がいて、
みんなは、私とハヤテ君のことを祝福してくれていて 、
そんなみんなの前で、私たちは…

――ア、――リア…

永遠の…

――リア、マリア!

「…ハヤテ…君…?」

耳元で鳴り響く大声に、ふっと目を開くとそこには…

「ハヤテでなくて悪かったな、目が醒めたか、マリア?」
「……」

ぼおっとしていた寝覚めの頭が、だんだんとはっきりしてきて、

「まだ寝ているのか? おいマリア」
「…な、ナギ!?」
「うむ、おはよう」
「お、おはようございます…って、どうして!?」
「いや、どうしてって…何も…」

やっとハッキリした視界の真正面にナギが、そしてナギの背後には…

「おはようございます、マリアさん」
「あ…」

そこにはハヤテ君がいて、
ああ、そうか…そう、ですよね…

「こんな早朝に帰ってきたから冷えてしまったのだ、
 早速だがお風呂の用意をしてくれ!」
「はい、お風呂ですね?」
「うむ、ハムスターとヒナギクも来ているからな、大浴場にしてくれ」
「はい!」
「では、その間に僕はお茶でもいれてきますね」
「うむ、頼んだぞ」

そう言って別の用事をこなすように装いながら、
私は浴場、ハヤテ君は厨房へと、同じ通路を並んで歩いて行きます。
それはナギがくれた私とハヤテ君の二人きりの一夜の…最後の欠片。

「ところでマリアさん」
「はい、なんでしょう?」
「さっきのマリアさんの寝顔…本当に幸せそうだったんですが、楽しい夢でも見られてたんですか?」

わざわざそんなことを聞かれるくらいですから、さぞかし幸せそうな寝顔だったのでしょう。
でも、仕方ありませんよね。
実際に…本当に幸せな夢だったんですから、ね♪

「ふふ、それはヒミツですよ♪」
「えー」
「ほらハヤテ君、もう厨房ですから、お茶の用意をお願いしますね」
「あ、はい!」

夢のような一夜の後の、短い逢瀬はこれでお終い。
あとは、再び訪れたお屋敷での日常に戻るだけ。
でも、その前に――


「ねぇ、ハヤテ君」
「はい、なん――」


振り向きざまの彼に、愛しさと…一つの願いを込めて、キスをします。


これから始まる日常の先にいつか、
大切なヒトと結ばれた日の――
夢の風景が続いていますように、って――――










――     END     ――









「冬の海は冷たいものだな…ハッ…クション!」





















後書き





まずは止まり木一周年おめでとうございます!
お陰様で色々な方々と交流することができて、本当に幸せな日々を送らせてもらってます。 
この場を借りて管理人さんの双剣士さんにお礼を申し上げます。
ありがとうございました。
最大限の感謝の気持ちを込めて、この作品を送ることにします。

さて、読者の方々へお礼のメッセージを。

皆さんここまで閲読して下さり、ありがとうございます♪
初めて長編を完結することができました。
本当に感謝です!

ここからは少しだけこの小説を書くに至った経緯について色々話していきます。
興味の無い方はブラウザーバック推奨です。
ここまで本当にありがとうございました!

まず、なぜ今回マリアさんを主役にしたかの経緯について。
それはぶっちゃけ、原作でメイン回がなかなか回って来ず、可愛そうな役回りが多かったからですかね?
そして、原作の方は12月24日が最終回になりそうな伏線というか、雰囲気が漂っていたので、
私なりに「ハヤテとマリアが相思相愛ならこんな最終回になるんじゃね?」と妄想を含ませていった結果がこのような形になりました。(最後のあれは完全に蛇足だったかなw)

それに加えて、「自分が感情移入できるくらいの完成度じゃなきゃダメだろう」とハードルを上げ、推敲に推敲を重ねて仕上げました。
少しでも楽しく読んで下されば、作者としてこれ以上の幸せはありません。

因みにハヤテのごとく!3期のキャラソン「Invitation〜君といる場所で〜」のイメージを少し取り入れてみました。
ですので、このキャラソン聴きながら当作品を読んでもらえるとをより一層、感慨深くなるかもしれません(笑)

最後に読者の方に申し上げたい事が一つ。

処女作の長編を失敗して以来、「長編ハヤテSSを一作品完結させる」という密かな目標を持ってここまで書いてきました。
今回、その目標を達成させることができたため、
止まり木ではSS書きとしての活動をしばらく休止したいと思います。


勿論、SS書きを止めるわけではありません。
他サイトで別作品SSを書いていきます。


そういう訳ですので、これから私は止まり木では読者&チャット勢を主にしてとして活動しようと考えている次第です。
何らかの区切りがついたらここにSS書きとして戻って来ようと考えています。


では、皆さまここまでお付き合い下さり、本当に感謝です!
またここでお目にかかるその日まで…ありがとうございました!
 

最後にマリアさん誕生日おめでとう!


あなたにとっての幸せが訪れますように…!

この作者は、誤字脱字の連絡を歓迎しています。連絡は→[チェック]/修正は→[メンテ]
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Re: 大切なヒト (マリアさん誕生日記念・完結) ( No.13 )
日時: 2013/12/25 07:49
名前: 双剣士
参照: http://soukensi.net/ss/

完結おめでとうございます、管理人ではなく一読者としての感想です。

まずはマリアさんルートを正面から描ききったことに敬意を表します。
ナギが許し、でも諦めない……負けず嫌いと依存心の強さが同居してる彼女の性格からすれば
これ以外の結着はあり得ないと私も思いますが、そこに至る過程を丁寧に、かつ(ナギにとって)
部外者であるヒナギクや西沢さんを使って立体的に表現したことが素晴らしかったです。

ハヤテが戻ってきたときのマリアさんの態度もいいですね。お屋敷の守護女神のような笑顔を
浮かべるのではなく、半ば廃人のように池の前でうずくまる……「やるべきこと」を着実に
やってきたマリアさんの仮面が剥がれたところを恐れることなく書いてくれたことが印象的でした。

特に好きになったのはここ。

>今になって初めて…失恋した、って実感がした。
>好きな人に気持ちが届かない…切ないよ…
>(中略)
>…だけど、それでもあいつは――
>「ハムスターは、二度もこんな思いをしたのか…」
>(中略)
>こんな辛い思いをしながら、それでもハムスターはハヤテのことが好きだって言い切った。
>本当にあいつは…ハヤテのことが、好きなんだって…よくわかった。
>(中略)
>そう思うと、心が奮い立ってくる。
>そうだ。
>あいつは…ハムスターは友達で、そして…ライバルだから…
>負けてなんかいられないのだ!

自分のことばかり考えていたあのナギが、こんな立ち直り方を出来るようになるなんて!
終わってみればこの成長過程が一番強く印象に残りました。本作ではメインヒロインじゃないのにね。

改めて、予定通りの完結おめでとうございます。そして執筆お疲れ様でした。
あとがきのほうでは何やらショッキングな一言があったような気もしますが、また何かを思いついたときに
ふらりと新作を書きに来てください。何ヶ月以内に更新しないと除名というルールがあるわけじゃないので。

最後に……蛇足の1行はあって良かったと思います。マリアさんが幸せをつかんだ裏でクラウスさんが凍死してた、
なんてことになったら後味が悪いので。

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Re: 大切なヒト (マリアさん誕生日記念・完結) ( No.14 )
日時: 2014/02/19 21:13
名前: サタン

お久しぶりのサタンです。

私生活の忙しさが一段落したので、戻って参りました。
簡単にですが、レス返しに参りましょう。

>双剣士さん
レスありがとうございます。
マリアさんルートは一度描いてみたかったので、挑戦させて頂きました。
やや重い展開でしたので、執筆するのが時々苦しいこともありました。
しかし、私はこういう流れでないと納得して物語を完結させることができないと思い、このような出来になりました。
ナギの成長については私のやりたかったことのひとつなのです。
丁寧に描くように色々試行錯誤してみたのですが、心に残ったようで嬉しい限りです。
蛇足については特に言及しません。(クラウス乙)

少し余計なことを言いましたが、改めてレスありがとうございました。
それではまた。

PS.今週の土曜日からチャット会に参加予定です。
皆様、またよろしくいお願い致します。

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