(多分)意味のないデートを繰り返す二人。 ( No.56 )
日時: 2013/06/24 18:15
名前: 餅ぬ。


 好きだと言ったこともないし言われたこともない。並んで歩いたことは数あれど、指を絡めたことは一度もない。
 甘い雰囲気に包まれたことも、甘い言葉を囁いたり囁かれたりしたこともない。唇を触れ合わせた記憶もない。
 無いこと尽くしの僕らの関係は、何ともじれったくて奇妙な背徳感を醸し出していて、とてもじゃないが気分の良いものではない。
 けれどこうして何度もデートを繰り返すのは、多分、彼女の誘いを断れない僕がいるからだと思う。
 「いいですよ」の一言で、彼女は滅多に見せない女の子みたいな笑顔を見せるのだ。多分きっと、僕はその笑顔に弱いのだろう。
 だから、僕と彼女の無意味なデートは、何の進展もないまま回数ばかりを重ねていく。多分、これからも、この先も、変わることなく。

 今日の彼女はどうやら海へ行きたいらしい。
 連絡を受けた僕はお嬢様に「少し出かけてきます」と一言告げて自転車に跨る。事情を知っているのか知らないのか、お嬢様の小さなため息が僕を見送った。
 呆れられているのだろうか。それとも週に一、二度ふらりと出かけるようになった僕を怪しんでいるのだろうか。どちらにせよ、良い感情は抱かれていないように思う。
 ダメな執事でごめんなさいと心の中で謝って、僕はペダルを踏んだ。そして罪悪感から逃げ出す様に、彼女との待ち合わせ場所であるいつもの公園へと向かった。
 僕を迎える彼女はきっと、いつものニヤけ面を顔に張り付けていることだろう。心の底から満足げに。




【あの娘のシャンゼリゼ】



 
 自転車をこぎ始めて十分弱。ゆっくりと進んでいたつもりなのだが、予定よりも十分ほど早く着いてしまった。
 マイペースな彼女のことだからまだ来ていないだろうが、一応公園内を見回す。すると、意外なことにブランコにお行儀よく座っている彼女を発見した。

「あ、いる」

 名前を呼ぶより先に、思わず本音がポロリ。その間抜けな声をしっかりと拾ったらしい彼女は、公園の入り口に立つ僕と自転車を見た。そして口の端をにやりと釣り上げる。

「そんなに驚くなよ、ハヤ太君。ああ、いや、ハヤテ君」

 いつも学校で呼んでいるあだ名から、本名へとわざとらしく言い直すその様は、なんだか小憎たらしい。彼女曰く、こういう時くらい雰囲気を出したいそうで。
 ブランコの前に立ち彼女を見てみると、その頬には薄らと汗が浮かんでいる。穏やかとは言いづらい初夏の日差しの下、彼女はどれだけ僕を待っていたのだろうか。

「待たせてしまいましたか?」
「いやいや、今日は暇だったから早く家を出ただけだからな。ついたのはほんの三十分前だ」
「三十分!? ほんのじゃないですよ! 連絡くれればもう少し早く――」
「ふふん、私だってな、君の時間をこれ以上奪うほど無粋な女じゃないのだよ。それに待つのもデートの内さ」

 そう言って偉そうに笑う彼女は少し満足げで。

「さて、ハヤ太……じゃなくてハヤテ君。今日の目的地なんだがな」
「海、じゃないんですか?」
「まあ、海と言えば海なんだが、正しくは海の近くにある喫茶店だな」
「喫茶店?」
「うん。なんか海の見えるレトロな喫茶店があるらしいんだ。今日はそこ行きたい」
「場所分かりますか?」
「ん、地図」

 印刷してきたらしい地図を受け取り、僕はそのレトロな喫茶店とやらの道のりを確かめる。少し遠いけれど、まあ夕飯の仕込までに帰ってこれない距離ではない。
 僕は地図をポケットにねじ込んで、ブランコに座ったままの彼女を見た。そして、いつものようにニコリと笑いかける。

「いいですよ、行きましょう」

 そう言うと、彼女はどこかほっとしたように顔を綻ばせた。らしくない、全く彼女らしくない、優しい笑みを浮かべて見せた。
 多分、僕はこの笑顔が見たい一心で、彼女のワガママに付き合ってきているのだと思う。それは愛しいという感情というよりも、ちょっとした特別感が大きいような気がする。
 こんな風に彼女を笑わせることが出来るのは、きっと僕だけだという、意地汚い優越感。

「んじゃ、出発するぞ! ハヤテ君!」
「はいはい、早く行きますよ」

 そう言って彼女に手を差し出す。彼女はその手を握ることなく、自分の力でブランコから立ち上がった。行き場を無くした己の手が、なんともまあ物悲しい。
 振り返ることなく自転車へと向う彼女の後ろ姿を見ながら、埋まることのない距離を見せつけられた気分になった。彼女は自転車の後ろに乗るとき以外、僕にあまり触れようとしない。
 その理由を、僕は知っている。
 二度目のデートのとき、まるで世間話でもするかのように、飄々とした口調で彼女が語ってくれたのだ。


 ――どうやら彼女には、キスを交わした相手がいるらしい。それは、まあ、言わずもがな、そういうことで。


 そういう相手が居ながら、彼女は構わず僕を連れ回す。それに付き合ってしまう僕は、その相手から見れば、考えたくもないけれど、立派な間男というやつで。
 しかし彼女は僕をデートに誘いながらも、頑ななまでにそれ以上へ進もうとはしなかった。ただ一緒に出かけて、世間話をする。ただそれだけの関係だ。
 彼女がこれをデートだと呼ばなければ、友人と遊びに出かけているのと何ら変わりないのだ。しかし、彼女はこれをデートだと主張して聞かない。
 しかしその意味のないデートを繰り返しながら、彼女はしっかりと例の相手に躁を立てているわけで。そんな彼女の真意など、僕に分かるはずもなく。

「おーい、何ぼーっとしてるんだ?」

 呼びかけられて我に返ってみれば、自転車に向かって行ったと思っていた彼女が隣に立っていた。そこで初めて気づいたが、今日の彼女は妙に身長が高い。
 彼女の足元を見てみれば、七センチ近くはありそうなヒールのついたサンダルを履いていた。長身を気にしているくせに高いヒールを履きたがる彼女は、意外と女の子だった。
 緑色の奇抜なサンダルだって、何処で買ったのか分からない真っ赤なビロード生地のバッグだって、彼女が身につければ立派なお洒落なのだ。

「お、そう言えばなんかハヤテ君小さくないか?」
「あなたが大きいんです!」
「む、女の子に大きいとは失礼だな」

 そう言って彼女は眉をしかめて見せるけれど、勝ち誇ったように口元を歪めている。それを少々上目づかいで見上げなくてはいけないのが、少し癪だった。
 たった一センチしか変わらない身長は、ヒールを好む彼女のファッションセンスによって常に追い抜かれていた。もう慣れたけれど、男としてのプライドは少し傷つく。
 けれどそんなことを気にも留めていない彼女は、再び自転車に向かって駆けて行き、我が物顔で自転車の後ろへと座った。

「ハヤテくーん! さっさと自転車乗れー!」

 無邪気に僕を呼ぶ。呼ばれるがまま、僕は彼女の元へと足を進めた。




               *               *               *




 彼女の行きたがっていた喫茶店に着いてみれば、それはレトロとは名ばかりな古びた喫茶店だった。けれど、それでも店内を眺める彼女はどこか楽しげだ。
 窓の外に見える海は、遺跡の残骸みたいなテトラポットががたがたと並んだ、ばしゃばしゃとうるさい波の音が響く何処にでもある狭い狭い都会の海だった。
 大した会話も交わすことなく、そんな海を僕と彼女は眺めている。彼女が頼んだオレンジジュースの氷が解けて、静かな店内にちりりと響く。
 水泡はグラスのふちまで上がって消えた。忙しないなあと彼女の方にちらりと視線を向けると、ストローでぶくぶくと泡を立てるお行儀の悪い彼女と目が合った。
 彼女はストローを咥えたまま、器用に口の端をにやりと持ち上げる。

「一口飲むかい?」

 ストローを口から引き抜いて、僕の方に向ける。
 反応できない僕を見て、彼女はいたずらに笑う。

「冗談冗談」

 そう言ってストローを咥え直した彼女は、僕がこういう冗談にうまく乗れないことをよく知っていた。乗らないことを知っていた。
 再びグラスの中を満たし始めた水泡をため息交じりに眺めながら、僕は外に視線を向けている彼女に声をかけた。

「……朝風さん」
「あ。ハヤテ君、名前」

 したり顔でにまりと笑う。

「……お行儀悪いですよ」
「……つれない男だなぁ、君は」

 名前を呼んでくれない僕に対して、つまらなさそうに不貞腐れて見せる。ぴょこんとグラスから飛び出したストローの先から、二、三滴オレンジ色の粒が落ちた。
 テーブルに落ちたそれを見て、彼女は気まずそうに笑った。お行儀が悪いという言葉は、意外と彼女の心に届いていたらしい。一応、彼女も箱入りのお嬢様なのだ。




 学校のこととか、クラスのこととか、僕の最近とか、彼女の最近とか。他愛もないことを話し合った後、少し傾き始めた太陽を見て「そろそろ帰ろう」と彼女が言った。
 時計を見れば午後四時を少し過ぎた頃。夕飯の仕込にはなんとか間に合いそうだと、少し安堵する。眉尻が下がっているであろう僕の顔を、彼女の鋭い瞳が見ている。

「間に合いそうか?」
「あ、え?」
「ナギちゃんたちのご飯に」
「え、ええ……。なんとか」
「それなら良かった。んじゃ、さっさと帰るぞ」

 彼女は僕より先に席を立ち、軽快なヒールの音を響かせて喫茶店の出入り口へと歩いて行った。その背を目で追った。
 彼女が外へ出たのを見送った後、僕は視線をテーブルに落とした。半分近く残っている薄くなったオレンジジュースと目が合った。
 綺麗に平らげられたガトーショコラと並んだ姿が、少しだけ可哀想だった。

 外へ出ると彼女が海を見ていた。ぼんやりと何も考えていなさそうな間抜け面は、常に何か企んでいそうな顔をしている彼女の結構貴重な表情である。
 間抜け面の彼女の隣に立って、一緒に海を眺めてみた。やはりお世辞にも、綺麗だとは言えなかった。それでも、それを見る彼女の瞳は、とても綺麗で。

「……よし、満足した! 今日も楽しかったぞ、ハヤテ君」

 猫みたいに目を細めて笑う彼女は、その言葉の通り満足げだった。

「帰るぞ! ほら、乗った乗った!」

 早く乗れと急かされて、僕は再び彼女を後ろに乗せて走り出した。来る時よりも少し速めのスピード。強めの風が僕と彼女の髪を揺らす。
 腰に回された彼女の腕に力が入った。彼女の細くて長い指が、僕の服をわずかに握り締めている。彼女が僕に触れるのは、唯一この時だけだった。
 ちらりと後ろを振り返ると、流れる景色を眺める彼女の横顔があった。髪が目に刺さって鬱陶しいのか、とても渋い顔をしている。

「……なあ、ハヤテ君」

 ずっと黙りこくっていた彼女が、名前を呼んだ。彼女の口から放たれる自分の本名は、未だに少し聞き慣れない。
 返事を返す前に、彼女は静かな声で言葉を続けた。


「キスしたことあるっていっただろ? あれさ――」


 静かな静かなその声は、隣を通り過ぎた車のエンジン音と車内から溢れてきた大音量の音楽によって掻き消された。
 未だに遠くから聞こえてくるその曲は、随分と昔に流行った洋楽だった。

「朝風さん、今なんて……」
「あ、今の曲、私結構好きなんだ」

 聞こえなかった言葉の続きを問いかけても、当の彼女の興味は完全に先ほどの洋楽へ移ってしまって全く答える気がないようだった。
 洋楽の特徴的なワンフレーズを口遊む彼女の声をBGMに、僕はひたすらペダルを漕いだ。彼女の言葉を、何故か懸命に忘れようとしていた。

「なんかこの曲聴くとさ、外国に行った気分になれるんだよ」
「そうなんですか」
「うん、そうなのだ。ハヤテ君も、そう思うだろ?」

 弾んだ口調で話す彼女の顔を、もう一度ちらりと盗み見た。先ほどの言葉などなかったかのように、楽しそうに景色を眺めている。
 既に海は姿を消し、辺りはよく見る景色に変わっていたけれど、それでも彼女は楽しそうに。僕の背に頬をくっつけて、僕の服をぎゅっと握りしめて。

「私、次は水族館行きたいな」
「……水族館ですか」
「海見てたら、行きたくなった。来週行こう」
「相変わらず急ですねえ」
「だって、ハヤテ君とのデートは楽しいからな」

 余りにも彼女が弾んだ口調で言うものだから。
 視界の隅で、無邪気に笑うものだから。
 さらに強く、腕に力を入れたものだから。

「……そうですね、来週、行きましょう」
「お! やった!」

 来週のデートは水族館。
 意味のないデートは、意味のない関係は、多分、これから、この先も、変わることなく。
 彼女が楽しければ、それでいいのだ。