酔っ払いの本気のじゃれ合い ( No.45 )
日時: 2013/05/14 23:38
名前: 餅ぬ。




 酒は飲んでも飲まれるな。誰とも知らぬ先人が残した言葉の偉大さを、今更ながらしみじみと感じている。
 日曜日の穏やかな夕暮れ時。隣で気持ちよさそうにうたた寝をするヒナの頭を一撫でして、彼女に気付かれないように小さく鼻を啜った。
 そうだよな、叶うわけがないんだよな。そう自分に言い聞かせて、私は残りわずかになったグラスの中のお酒を一気に煽る。
 喉の奥がきゅっとしまった。酔いが回って過敏になった私の感情は、たった一粒の涙になって溢れた。火照った頬を伝う涙の、なんて熱いこと。
 何も知らずに眠るヒナの横顔が、愛おしくも憎らしかった。何も知らない彼女にとって、今日はただの日曜日。怠惰な夕方でしかないのだ。
 ほんのり赤く染まった頬の理由が、もしもお酒でなかったのなら。なんて、酒の回った緩い頭で夢想する。はあ、と一つため息が出た。


 酒は飲んでも飲まれるな。
 酒に飲まれた私は、先ほど彼女に想いを伝えてしまったのだ。驚くほど中途半端で言葉足らずで、微塵も伝わらなかった悲しい告白だ。
 一欠片の勇気も気合の一つも込めていない、他愛もない会話のような私の告白は、お酒で蕩けたヒナの脳みそと心には届かなかったようで。
 「そうなの、頑張ってね」なんて、見当違いも甚だしい言葉を返す彼女の笑顔があまりにも優しくて。私は何も言えなくなった。


 ねえ、ヒナ。もしもお酒を飲んでなかったら、貴女は私の本当の気持ちに気付いてくれたのかな。



                *                *                *



「……昼間からお酒?」

 日曜日の昼下がり。大量のお酒を抱えてやってきた私を、ヒナは怪訝な顔で出迎えてくれた。私を睨むその目の下には薄らと隈が出来ている。
 高校を卒業しヒナが白皇の生徒会長という任を降りて、もう四年が過ぎた。大学に上がって少しは気楽になるだろうと思っていたのだが、彼女は未だに忙しそうだ。
 元々頼り甲斐のある性格をしている上、その責任感と正義感から手を抜くということが出来ないヒナはいつだって少しお疲れ気味だった。
 最近では大学でも色々と頼られる立場になってしまったようで。会うたびに目の下に薄い隈を作ることが多くなったヒナを、私は密かに心配していた。

 だから今日はこうして、ヒナの大好きなお酒を抱えて彼女の暮らすアパートへと出向いてきたというわけである。
 ヒナはお酒が好きだ。しかし姉があんなのである手前、彼女は人前であまりお酒を飲むことはなかった。飲むときは必ず少人数、それも気心知れた友人のみ。
 しかしその気心知れた仲間を招いて自宅で飲み明かすような時間も、今の彼女にはないようで。だからこそ、暇を持て余した私がやってきたのである。
 
 意外と子供舌のヒナが好む甘ったるいお酒、それから嫌なこともすべて忘れてしまえるような度数の高いお酒等々。
 家にあった美味しそう且つ高級そうなお酒を片っ端から持ってきてやった。なんか父が大切そうにチビチビ飲んでいた酒瓶もあった気がするが、まあ気にしない。
 錚々たる面子を怪訝な顔のヒナに見せつけながら、私はにやりと笑う。そしてお疲れ気味のヒナを誘う甘い言葉を口にする。

「いいだろ、時には。せっかくの日曜日じゃないか。ヒナもちょっとは息抜きした方がいいぞ」
「確かに最近忙しかったけど……。でも真昼間からお酒なんて、なんだか」
「雪路みたいでイヤ、と?」
「うっ……。まあ、そのとおりね」

 酒に関しては雪路を反面教師にして育ってきたヒナ。お酒は夜に飲むものだという先入観が、彼女を縛り付けているようだ。
 けれど、そんな先入観を打ち崩さねば、私はまた再びこの重たいお酒たちを抱えて帰路を歩む羽目になる。それだけは避けたかった。

「大丈夫、ヒナももう分かってるだろ? ヒナ、雪路とは全然違うじゃないか。確かに酒豪っぷりは姉譲りだが……。
 酔っ払っても雪路みたいに暴れまわることもないし、理性を飛ばすこともない。ただちょっと甘えん坊になるだけでさ」
「もう。あんまり甘えん坊って言わないでよ、気にしてるんだから……」

 そう言ってヒナは微かに頬を赤く染めた。酒の入ったヒナは、いつも気丈を装っている反動か少々言動が幼く……というか緩くなる節がある。
 泉のようにえへへと笑う酔っ払ったヒナの顔を何度か見たことがあるが、あれは中々の破壊力だった。これは男の前では飲ませられないなぁと、強く思ったものである。
 と、酔っ払ったヒナの姿を想像したせいか、私も本格的に飲みたくなってきた。これはもう無理やりにでもヒナの家に上がり込むしかない。

「とにかく! 私は今日、ヒナを癒しに来たんだ! 目的は達成させてもらうぞ!」
「だってこんな昼間から……」
「昼にお酒を飲んじゃいけないなんていう法律はない!」
「お姉ちゃんと同じこと言ってるわよ、美希」

 ヒナはそう言ってあきれたように笑ったが、その顔はどこか嬉しそうだ。多分言葉では断りつつも、内心は私と同じくお酒を飲みたい気持ちでいっぱいなのだろう。
 季節は初夏、時間帯は午後二時過ぎ。汗ばむ季節に飲む冷たいお酒の美味しさは、二十歳を越えた私たちはそれはそれはよく知っていた。

「なー、ヒナぁ。いいだろー? 今日は私とだらだらしよう? な?」

 少し甘えた口調でヒナにまとわりついてみる。二十過ぎの女が何してるんだと思うかもしれないが、それを受け入れてくれるのがヒナギクという人間なわけで。
 ヒナは縋りつく私と私の持つ大量のお酒が入った袋を交互に見て、小さなため息を吐いた。それは呆れと諦め、それから一抹の安らぎを感じさせる柔らかな吐息だった。
 落ちた。瞬間的にそう思った。そして、ヒナは腕にまとわりついていた私をぐいと引っぺがし、目元と口元に緩く弧を描いてみせた。

「そうね、時にはいいかもしれないわね」
「だろ? 日曜の昼なんだ、このくらいの贅沢は許されるさ」

 私とヒナはにひひと軽く笑い合う。そして私は抱えたお酒たちと共に、ヒナの部屋へと上がり込んだのである。




 ヒナの部屋に上がり込んで暫く。お酒が冷えるまでの間、二人でのんびりと話し込んでいた。最近あった出来事とか、友人がどうしただとか、あの人は今どうしてるだとか。
 頭の出来の違い故か同じ大学へは行けなかった私と彼女だが、こうして会うたびに他愛もない話に花を咲かせられる関係が続いているというのは非常に喜ばしいことだと思う。
 しかし私の知らない誰かの話を楽しげに語るヒナを見るのは、少しばかり心苦しかった。
 高校を卒業して四年、取り巻く環境が変わるのは仕方のないことだとは知っているけれど。

「なあ、そろそろ冷えたんじゃないか?」

 ヒナの語る知らない誰かに嫉妬した私は、大人げなく彼女の話を遮った。
 しかしヒナ本人は私が嫉妬しているなど知る由もなく、ああ、そうね。なんて嬉しそうに呟いて冷蔵庫へと小走りで駆けていった。軽い足取りが、なんだか可愛らしい。

「うん、いい具合に冷えてる」

 そう言ってヒナは用意していたグラスを二つ机の上に並べた。飾り気のない透明なグラスは先ほどまでお酒と一緒に冷やされていたようで、若干の冷気を放っている。
 表面に輝く氷の粒が、少しずつ溶け出して机の上を濡らしていた。その滴を指先で弄びながら、私はヒナがお酒を持ってくるのを待っていた。
 そして再び私の前に姿を現したヒナが持っていたのは、私の持って来た自慢のお酒たちではなく――。

「何でビール?」
「この前飲もうと思って買ってたのが余ってたのよ。やっぱり初めはビールでしょ?」
「うむ、まあ、確かに」

 本当は私の持って来たやつを飲んでほしかったのだけれど。嬉しそうに冷えたビールを注ぐヒナを見てしまっては、そんな無粋なことを言えるはずがない。
 二つのグラスに並々とビールを注いで、ヒナは満足げにふふと笑った。本当にお酒が飲みたかったようだ。来て正解だった、と切に思う。

「それじゃ、乾杯でもしましょうか」
「ああ、そうだな」

 グラスを掴んで軽く掲げる。そしてとびきりの決め顔で、ヒナに向かって一言。

「君の瞳に乾杯」
「ふふっ、もう酔ってるの美希?」

 私のおふざけに軽くツッコミを入れた後、ヒナは私のグラスに優しく自分のグラスを当てた。
 チン、という涼やかな音が部屋の中に響き渡る。窓の外はまだまだ明るい。昼下がりには酷く不釣り合いな音だけれど、不快感は微塵もない。
 さあ、二人きりの飲み会の始まりだ。そう意気込んで、私は冷たいビールを一気に煽った。



                *                *                *



 飲み始めて一時間が過ぎた。
 ヒナは本当に久しぶりにお酒を飲んだようで、驚くようなスピードでどんどん飲み進めていく。そのハイペースさは、まさしく雪路である。
 けれど理性と口調、それから顔つきもしっかりしたもので、缶ビールを四本ほど空けた後でもヒナの表情は飄々としていた。
 問題は私の方である。ヒナの人間離れしたペースについていこうと無理をしたものだから、飲み始めて早々顔が火照り始めた。

「美希、顔真っ赤」

 そう言ってクスクス笑うヒナの頬は、まだまだ健康的なピンク色。酔いが回っている気配はない。
 ああ、酔いつぶれたヒナを解放してあげたかったのに! なんて、心の中で悔しがってみる。その悔しさは知らず知らず呻き声となって外に漏れた。
 私の呻き声を聞いたヒナは私が酔いつぶれたと勘違いしたのか、困ったように笑いながら背中を優しく撫でてくれた。

「無理しなくていいわよ」

 そんな優しい言葉をかけながら、ヒナは私の持って来たお酒の中で一番アルコール度数が高いと思われる酒瓶に手をかけた。
 そしてすっかり温くなったグラスに半分ほど注いで、ゆっくりと口を付けた。白い喉がこくりと鳴る。

「あ、これ強いかも」

 そう言うヒナはどこか楽しげだった。生来の負けず嫌いに火が付いたのか、ヒナは他のお酒たちには目もくれずその強いお酒を煽り始めた。
 多分彼女の中で勝負が始まったのだろうなあ、と他人事のように思いながら私はグラスに残っていた桃色の液体をぐっと飲み干した。
 くらり、と一瞬眩暈がした。喉の奥と目頭、それからお腹の真ん中あたりが熱くて堪らない。それでもふわふわと宙を漂う頭は心地よくて、私は再びお酒を口にする。
 飲めば飲むほど現実離れした感覚に包まれていく。きっと私は比較的酔いやすい体質なのだ。
 酒は飲んでも飲まれるな。そんな言葉が一瞬頭によぎったけれど、ぐにゃりと曲がった思考回路はその言葉の意味を理解することが出来なかった。
 だから私は、少しずつ確実に、お酒に飲まれていったのだ。

「なんか、酔ってきた」
「私も。やっぱりこのお酒強いわね」

 私の独り言に返事を返したヒナの横顔は、やっとほんのりと赤みを帯びてきていた。



                *                *                *


 
 二人ぼっちの飲み会が始まって、既に三時間近くが経過していた。大量にあったお酒は大半が空になっている。飲んだのは殆どヒナだ。
 一時間ほど前、一度酔い覚ましの為に休憩を入れた私は比較的しっかりしていたが、四時間ぶっ続けで飲んでいたヒナはすっかり潰れかけていた。
 とろんと微睡んだ瞳は今にも瞼に押しつぶされそうになっている。ついでにフラフラと左右前後に揺れだす始末。彼女が眠ってしまうのも時間の問題だろう。
 そんな状態になりながらも、ヒナは握ったグラスを離そうとしなかった。時折気づいたようにゆっくりとグラスの中の液体を喉に通していく。

「んー……やっぱりおいし」

 舌足らずにそう呟いて、ヒナは誰に向けるでもなくへにゃりと微笑んだ。そのヒナらしからぬ情けない笑みに、吹き出しそうになった。
 自分が笑われているとはつゆ知らず、ヒナはマイペースにお酒を煽り続ける。
 ヒナの頬はすっかり火照っており、桜色だった唇も心なしかいつもより赤みを増していた。
 赤い唇が透明なグラスに口付けるその姿を、私はぼんやりと見つめていた。
 酔っ払っていても所作の一つ一つに気品を感じられるのは、桂ヒナギクだからこそだろう。雪路じゃそうもいかない。
 ほんのりと赤みを帯びた白い喉がゆっくりと上下する様を眺めていると、私の視線に気づいたらしいヒナが可愛らしく首を傾げた。
 その姿を見て、私は思わず。
 
「ヒナは綺麗だなあ」

 そんな言葉を口にしていた。自分が何を言っていたかは分かっていたけれど、不思議と恥ずかしくはなかった。多分この時、私は既に酒に飲まれていた。
 しかしヒナは酔っ払いながらもその強い精神のおかげでお酒に飲まれてはいなかった。故に唐突に放たれた私の言葉を受けて、恥ずかしそうに眉を潜めた。

「もう、何よ、いきなり。酔っ払ってるの?」
「うん、酔ってるかも」

 私がそう答えると、ヒナはあどけない笑みを浮かべて「酔ってるんじゃ仕方がない」とふざけた口調で呟いた。
 そうだ、仕方ないのだ。酔っ払ってるんだから、仕方がない。

 だからさ。全てを酔いのせいにして、今ここで、ヒナに抱き着いたらどうなるんだろうね。
 ここが大学なんかの飲み会の席ならば、百合だなんだと言われながらも、酔っ払い同士のじゃれ合いで済まされるんだろうけど。

 ねえ、ヒナ。どうなんだろうね。


「ねえ、ヒナ」


 なあに? なんていう甘ったるい口調で返事が返ってくる。脳みそのずっと奥の方が、じわりと痺れだす。それはきっとお酒のせい。全ては酔いのせいなのだ。


「私ね、好きな人がいるんだ」


 じっとヒナの目を見据えて、そう告げた。
 貴女のことだよ、と訴えかける。
 ヒナは蕩けかけた焦点の定まらない瞳で、私の方を見ている。


「そうなんだ」


 ヒナは一言、そう言っただけだった。
 酔っ払いには私の気持ちは一ミリも伝わっていないようだった。

「……片想いなんだ」
「そうなの」
「うん」
「大丈夫、美希はいい子だから。きっと叶うわ」

 微笑むヒナは、心の底から私を応援してくれているようだった。
 相手がだれかは知らないまま。


「ねえ、ヒナ」
「ん?」
「……叶うかな」
「うん、大丈夫。頑張って」


 ――相談にならいつでも乗るから。
 ――だってあなたは私の大事な友人だもの。


 そうだ、私はヒナの友人だ。


「……ありがとう」
「どういたしまして。頑張ってね、美希」


 励ますようにヒナは強く私の手を握った。その手は熱い。きっと酔っているからだ。
 優しく微笑むヒナの顔を見つめていると、じわりと視界が歪んだけれど、それも酔いのせいにした。
 好きだなんて言っていない。だから振られてもいない。そして気づかれてもいない。
 もしも、お酒に飲まれていなかったら、酔いに任せて変なことを言っていなかったら、こんな虚しい気持ちにはならなかっただろうにね。
 どうしようもないやるせなさも酔いのせいにしたかったけれど、ヒナの言葉が、突き付けられた現実が、そうはさせてくれなかった。


 私と彼女は友人なのだ。


 嬉しい言葉だ。それも大事な、ときたもんだ。ちょっと特別感がるじゃないか。なあ、なのになんで、こんなに悲しいんだろうね。
 皮肉にも酒に飲まれたばっかりに、私は柔らかくて暖かな苦い現実に打ちひしがれることになったのだ。

(ああ、いらんことを言ってしまった)

 そんな後悔も、グラスに入ったお酒と共に胃の中へと押し込んだ。



                *                *                *


 
 私を励ました後、ヒナは糸が切れたようにこくりと眠りこけてしまって、今に至る。
 私の肩を枕代わりにして眠るヒナの横顔はあどけない。元生徒会長様の威厳も今となってはどこへやら。
 火照った彼女の頬を軽く突いて、迷惑そうに眉を潜める姿を観察した。やっぱり綺麗な顔だなあとしみじみ思う。
 ヒナの顔から視線を逸らして外を見た。時刻は午後六時を過ぎており、空はすっかり黄昏色だ。かぁかぁと鳴くカラスが、私も侘しさを一層際立たせた。

「ばかヒナー……」

 寝息を立てるヒナに八つ当たりにも近い罵声を浴びせて、寄り掛かる彼女の頭に自分の顔をそっと寄せた
 お酒の香りとシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。頬で感じるヒナの髪の感触は、いつもよりずっと柔らかい。
 彼女の髪にすりすりと頬ずりをする私はまだまだきっと酔っているのだ。目頭が熱いのも、鼻がぐずつくのも多分酔っているからだ。
 
 滲む視界で再びヒナの顔を見た。幸せそうな寝顔である。疲れの象徴であった隈も、心なしか薄れている気がした。
 ああ、彼女は今まさに幸せなのだ。そう思うと、私も少しばかり気が晴れた。一文字に結ばれていた口元も、微かに綻んだ。

「うん、今日はいい日だ」

 言い聞かせるようにそう一人ごちて、そっと目を閉じた。寄り掛かる彼女の重みが心地よくて、なんだか苦しい。
 規則正しく繰り返される彼女の浅い呼吸音。それから彼女の首辺りから感じる微かな鼓動。それらをこんなに近くで感じられる私はきっと幸せ者だ。


 大事な友人の幸せを間近で感じられる私は、彼女と同じく幸せなのだ。
 今日はいい日だ。もう一度呟いて、私は溢れそうになる嗚咽を静かに飲み込んだ。




【Happy Sunday Evening】