名前を付けると一瞬で愛着が湧く不思議 ( No.39 )
日時: 2013/04/13 14:40
名前: 餅ぬ。

【名前のない猫】



「そういえば、最近うちに猫が住み着いたんだ」

 見に来るか? と気軽に理沙が誘うものだから、私も泉もほいほいと彼女の家までついてきてしまった。
 彼女の家である朝風神社まではそれなりに距離があったけれど、十月初旬の涼しい気候のおかげで何とか力尽きることなく辿り着くことが出来た。
 久しぶりに立ち寄った朝風神社はすっかり秋色に染まっていて、赤やら黄色やらに色づいた葉が目に眩しい。綺麗だねえと無邪気に空を見上げる泉に、理沙は少し気だるそうな声で掃除が大変なんだぞ、と呟いた。
 まだちらほらと残る緑が全て秋色の染まる頃、理沙は落ち葉の掃除に追われる羽目になるのだろう。そう言えば春や晩秋の巫女服姿の理沙はいつも竹箒を装備していたような気がする。
 神社の娘も大変だなぁ、と他人事のように心の中で呟いた。そして、うな垂れ気味の理沙の背中に頑張れよと視線を送る。その視線と意味を感じ取ったのか、振り向いた理沙は少々不服そうな表情を浮かべて私を睨みつけた。
 その顔を見据えながら、私はにやりと一つ笑ってやった。一層理沙の眉間の皺が深くなった。理沙の隣で、泉が困ったように笑っている。

「そ、それでさ、理沙ちん。猫さんどこにいるの?」

 私と理沙の間に漂うあまり宜しくない雰囲気を感じ取ったのか、泉が理沙に問いかける。

「あ、そうだ。猫見に来たんだったな。忘れるとこだった」
「理沙……自分から誘っておいて」
「美希と泉が掃除のこと思い出させるからだろ。私は一つのことしか考えられないからな」
「鳥かお前は」
「おい、美希。鳥を馬鹿にするなよ。カラスとかすっごい頭いいからな! クルミの殻を車に轢かせて割るなんて、私でも考え付かないぞ!」
「鳥より馬鹿か」
「なんだとー!!」
「もー! 理沙ちん! 鳥頭のことはいいから、早く猫さんー!!」

 またしても本題から逸れだした私と理沙の会話を、泉がすかさず軌道修正する。おまけに鳥頭という地味に辛辣なツッコミつきだ。鳥頭と呼ばれた理沙の肩が、少しばかりうな垂れた。
 けれどやたらと立ち直りが早いのも朝風理沙という人間の特徴であり、彼女はすぐに元気を取り戻した。そして私たちを先導しながら、猫がいるという神社の裏側へと向かっていく。
 猫さん猫さん、とご機嫌で不思議なリズムを刻む泉の声を聴きながら、私たちは紅葉の下を進む。泉の楽しげな声を聞いているうちに、私もどんな猫なのか少し楽しみになってきた。
 待ってろ、猫さん。



「ほれ、あれだ」

 神社の裏に回って暫く進んだころ、理沙が突然立ち止まった。そして生い茂る木々たちから少し離れたところでぽつんと佇む、一際大きな木の根元を指差した。
 遠くて少し分かり辛いが、その指差した場所には確かに真っ白の毛玉があった。その毛玉は木に寄り添うようにして丸くなっている。

「わ、真っ白だぁ!」

 まだどんな顔をしているのかも分からないというのに、泉はその真っ白な毛玉を見ただけで大興奮。
 そんなに素早く動けるのか、と思わずつっこんでしまいそうなスピードで猫に向かって走って行った。走り出す際に放り投げた泉の鞄は、見事理沙の脛に激突した。
 怒ろうにも怒る相手はもう遥か遠く。やりようの無い怒りと脛の激痛に身悶える理沙を一瞥して、私も泉の後をそそくさと追いかけた。背後から「見捨てるのかー!」という怒鳴り声が聞こえたが多分気のせいだ。

「あ、美希ちゃん! ほらほら、白猫さん、可愛いよー」

 木の下に辿り着くと、泉が満面の笑顔を向けながら膝の上に乗る真っ白の猫を指差した。随分と人馴れしているようで、猫は泉の膝の上で気持ちよさそうに目を瞑っている。
 私は泉の隣に座ってまじまじと猫を眺めた。思っていたよりも小さな猫で、鼻先が桜色をしていて何とも可愛らしい。穏やかに上下する白いお腹がフワフワと私を誘い、思わず手を伸ばした。
 誘われるがまま横腹辺りを撫でると、ゆっくりと猫が目を開いた。その目は綺麗な金色で、眠たそうに蕩けながらも一種の気品を感じさせる瞳だった。
 あ、あの人に似てる。と思ったのは言うまでもない。桜色の小さな鼻と、金色の釣り目。華奢な体つきも、私のよく知るあの人を連想させた。

「……可愛いな」

 そう呟いて、猫の喉を人差し指で掻いてやる。気持ちよさそうに目を細めた猫は、また泉の膝に体を預けてすやすやと寝息を立て始めた。一度だけ生徒会室で盗み見た、彼女の居眠り姿をふと思い出した。
 少し泉が羨ましくなって、彼女の方をちらりと見やる。泉の顔は見ているこちらが恥ずかしくなるほど、ふにゃふにゃとにやけていた。そのあまりにだらしない幸せそうな顔に、思わず吹き出してしまった。
 我に返った泉が、少し照れくさそうに「可愛いんだもん」と眠る猫そっくりの顔で笑うものだから、私もつられて目を細める。羨ましいなんて気持ちは、とうに引っ込んでいた。

「ふわふわだねー。あったかーい」
「綺麗な猫だよなぁ。飼い猫かな?」
「うーん、どうだろ……。でも自分から膝に乗ってきたし、飼い主さんいるのかも」

 猫を撫でながらそんな穏やかな会話を交わしていると、背後にあまり穏やかではない気配を感じた。ちらりと後ろを見やると、案の定私たちに置いてきぼりを食らった理沙が仏頂面で仁王立ちしていた。
 ただでも鋭い理沙の目にギロリと睨みつけられて、私も泉も少々苦笑いを浮かべる。すまん、とご機嫌取りで謝ると、理沙は眉を潜めたまま「脛が痛い」とだけ呟いて泉をじっと見据えた。おお、理沙が怒ってる。
 しかし睨みつけられた泉は自分の鞄が理沙の脛に当たったことなんて知らないし、多分理沙が結構お怒りであることも察していない。今の泉は膝の上の可愛い猫に夢中なのだ。
 理沙が無言で差し出した鞄を「ありがとー」と無邪気に受け取って、泉は再び視線を猫に戻した。猫が一つ大きな欠伸をしたのを見て、泉の顔がまただらしなくふにゃりと綻ぶ。
 そのあまりに柔らかな笑みに、理沙も怒っている自分が馬鹿らしくなったようで、小さなため息を一つ吐いた後、泉の隣に腰を下ろした。そして慣れた手つきで、猫の頭を軽く人撫で。

「ねー、理沙ちん。この子名前あるの?」

 泉が理沙に問いかける。理沙は猫を眺めながら、少し複雑そうな表情を浮かべた。

「んー。無いな。というか、名前は付けない」
「えー? なんで? やっぱり飼い猫さんで、もうほかに名前があるから?」
「いや、多分野良だとは思うけど……」

 そう言ったきり、理沙は目を伏せて黙り込んでしまった。彼女が何を考えているのか、私にも泉にもイマイチ分からなくて、二人で顔を見合わせて小さく首を傾げた。
 理沙は黙ったまま、無言で猫を優しく撫で始めた。猫はすやすやと、穏やかな顔で眠っている。その寝顔を三人で暫し眺めた後、理沙はぽつりと呟いた。

「名前を付けると、寂しくなるからな」

 妙に悲しげな口調だった。泉もいつもの理沙らしからぬ雰囲気を感じ取ったようで、猫から視線を外し俯いた理沙の横顔をまじまじと見つめている。らしくもない物悲しい雰囲気が私たちを包み込んでいた。
 そんな雰囲気をいち早く察してぶち壊しにかかったのは、言うまでもなくこんな雰囲気を作り上げてしまった理沙本人だった。彼女は真面目な空間を非常に苦手とする節がある。
 ぬあー! と意味の分からない奇声を発したかと思うと、理沙は急に立ち上がり、しんみりとした表情を浮かべる泉の頭を乱暴に撫でまわした。見る見るうちにボサボサになっていく、泉の頭。

「きゃー!! やめてよ理沙ちーん!!」
「ええい! 泉が猫みたいな顔して私を見るから悪いんだ! 撫でさせろー!」
「もっと優しくしてよぉ! ああっ、猫さん逃げちゃった! もー、理沙ちんのせいだー!」

 急に騒がしくなった泉の傍が居心地悪くなったのか、猫は泉の膝から気だるそうに飛び降りた。そしてじゃれ合う泉と理沙を横目で見ながら、また大きな欠伸を一つ。
 そして唯一まだ穏やかな空間を確保している私を目敏く見つけて、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。金色の大きな瞳と目が合う。にゃあん、と少し掠れた声で猫が一鳴き。
 おいで、と手招くと、猫は素直に私の足元にやってきて、撫でようと構えていた私の掌に自ら頭をこすり付けてきた。可愛いやつめ、と心の中で呟いた。きっと顔はだらしなくにやけていることだろう。
 懐いてくる可愛い猫を撫でながら、私はこっそりとこの猫に名前を付けることにした。理沙が名前を付けないというのなら、私がつけても別にかまわないだろう。付けたい名前はもちろん、この猫によく似たあの人の名前。
 心の中でその名前を呼んでみた。当の猫は私の手にじゃれるのに夢中で、生憎返事は返ってこなかったけれど、金色の釣り目がちらりとこちらを見た気がした。
 この瞬間、私の中でこの猫の名前が決定した。多分人前で呼ぶことはない、小さな花の、可愛らしい名前だ。

「あ、美希ちゃんが猫さん独り占めしてる!」

 ずるいー! と遠くから声が聞こえたかと思うと、泉がこちらに向かって歩いてきた。きっと理沙から逃げ回っていたのだろう。泉の頭は理沙に撫で繰り回されたせいで、見るも無残な姿になっていた。
 アホ毛をそこら中から生やした泉がおかしくて、小さく笑う。足元の猫も、泉を見つめている。その表情が少し呆れているように見えてくるのは、先ほどつけた名前のせいかもしれない。

「泉、頭酷いことになってるぞ」
「やっぱり? 理沙ちん、容赦ないんだもん」
「うん、容赦なくもしゃもしゃになってるな」
「いいもーん。今日はもうハヤ太君とも会わないし」
「ほう、ハヤ太君が居たらその頭はダメなのか?」
「は、ハヤ太君だけじゃないよ!? ハヤ太君とかだよ! とか!」

 自分の失言に懸命にフォローを入れる泉をニヤニヤと眺める。ここに理沙がいれば多分もっと話が広がったのだろうが、何故か理沙は戻ってこない。
 顔をほんのり赤く染めて「ハヤ太君だけじゃないもん!」と繰り返す泉から少し目を離して、後ろを見る。理沙は非常にスローなペースでこちらに向かって歩いていた。マイペースな奴だ。

「美希ちゃーん! 聞いてるの?」
「ああ、聞いてる聞いてる。泉はハヤ太君が大好きなんだなぁ」
「全然聞いてないー!! だからね、私はね!」

 茶化されてさらに顔を赤くした泉は、猫の存在も忘れて騒ぎ出す。騒がしいのが嫌いな猫は、するりと私の足元から離れ居ていった。余りにあっさりとしたその態度に、一抹の寂しさを覚える。
 心の中で猫の名前を呼ぶ。けれど猫は振り返ることなく、目の前にある雑木林の中へと姿を消した。まだ眠たかったのか、気だるそうな猫にしては重い足取りだった。

「あ、猫さん、行っちゃった」

 猫が去ったことに気付いた泉が、寂しそうに呟く。そしてそれに答えたのは、やっと戻ってきた理沙の声だった。
 
「まあ、猫は騒がしいのが嫌いだからな」

 一番騒がしくしたのはお前だろうと、つっこもうとしたけれど、猫の消えた雑木林を見つめる理沙が妙に寂しげだったせいで、言葉は喉の奥で掻き消された。
 理沙は、この猫の何かを知っているのだろうか。

「ねー、理沙ちん。また猫さんに会いに来ていい?」

 泉が無邪気に問いかける。理沙は相変わらず、笑っているような、寂しいような、複雑な表情を浮かべたまま、「ああ」と小さく頷いた。

「次は何かごはん持ってきてあげようかな」
「でも野良猫に餌付けってあんまりよくないんじゃないか?」
「ああ、そこらへんは気にするな。あの猫が住み着いたのも、うちの兄が勝手に餌付けしたからだし」

 ――責任もって、最後まで面倒見るさ。
 そう言う理沙の声は非常に小さくて、やっぱりどこか悲しげだった。しかしその悲しさの理由なんて、心の読めるはずのない私には見当もつかなかった。


 この日を境に、私と泉は猫に会うため、足繁く朝風神社に通うようになったのだ。



               *               *               *



 色づいた葉が全て落ち、理沙がぶつくさ言いながら掃除するのを泉と二人で眺めた十一月。猫は理沙の集めた落ち葉の上で寝転がっていた。
 すっかり寒くなり、うっすらと雪が積もったりもした十二月。猫は私たちから立派な住処をもらって、一日中その中でぬくぬくと過ごしていた。
 朝風神社が参拝客で賑わって、雪も深くなった一月。猫は人ごみとと雪を嫌って、神社の裏の我が家から出てくることはなかった。
 雪も解け始め、梅のつぼみが膨らんだ二月。まだまだ肌寒いこともあり、猫はやっぱり引きこもっていた。構ってもらえない寂しさのあまり、猫の家に手を突っ込んだ泉が引っかかれた。

 そして桜の蕾が膨らんでちらほらと花が咲きだし、辺りにほんのりと春の香りが漂い始めた三月下旬。また掃除の時期だと理沙がうな垂れた頃、猫が久しぶりに外に出ていた。
 私たちと初めて出会ったときと同じ、一際大きなあの木の下で、再び白い毛玉となってすやすやと眠っていた。その白い毛皮は、秋の紅葉よりも桜の淡いピンク色が良く似合っていた。
 桜の花びらを背に乗せて寝息を立てる猫を笑いながら一撫でした時、妙に身体が骨ばっていることに気が付いた。そういえば、二月あたりから私たちの持ってくる餌をあまり食べなくなったような気がする。
 まあ、春になったしこれから食欲も出てくるだろうと、私も泉も楽観視していた。ただ一人、痩せこけた猫を悲しげに見つめる理沙を除いて。


 そして桜が満開になった四月の初め。
 朝風神社から猫が消えた。誰にも気づかれず、ひっそりと、猫が姿を消したのだ。


               *               *               *


「理沙、猫がいない」

 猫が行方をくらまして四日が過ぎた頃、私はとうとう心配になって震える声で理沙に問いかけた。理沙は忙しそうに動かしていた手をぴたりと止め、酷く悲しそうな目つきで私を見た。
 理沙は私たちと猫が出会ったあの木の下でしゃがみ込んでいる。随分と散ってしまったその大きな桜の木の下には、屋根が取り払われ、ボロボロのクッションがむき出しになった猫の小屋があった。
 彼女は猫の住処を撤去している最中だった。
 その行為自体が、もう猫は帰ってこないということを示していたのだけれど、私はわざと分からないふりをして、もう一度理沙に話しかけた。

「猫がいないんだ、理沙」
「うん、知ってるよ」

 静かな声で理沙が答える。

「泉も昨日探してたよ。でも見つからなくてさ。私が花見客が拾っていったんじゃないかって言ったら、ちょっと悲しそうな顔して帰って行ったよ」
「拾われたのか?」

 そうであってほしかった。僅かな希望を込めて尋ねてみたけれど、理沙はゆっくりと首を横に振る。そしてつい最近まで猫が眠っていたボロボロのクッションを、優しく撫でながら、ぽつりと。

「多分、死に場所を探しに行ったんだろうな」
「……なんで」

 あの猫は、ここが気に入っていたはずだ。私が見る限り、猫は暖かな住処と美味しいご飯がもらえるこの場所を好いていたはずなのに。何故、死に場所なんて。と、どうしようもなく悲しくなった。
 それと同時に、妙に悟った口を利く理沙に一種の不信感を抱いた。もしかしたら、彼女は全て知っていたのではないか。

「なあ、理沙。お前はあの猫がもう長くないこと、知ってたのか」

 理沙は目を細めたまま、頷いた。その手は未だ名残惜しそうに猫のクッションを撫で続けている。

「知ってたよ。でも美希たちには言えなかった」

 ごめん、と小さく呟いて、理沙は視線を自分が壊した猫の住処へと視線を戻した。理沙の表情をうかがい知れなくなった今、彼女がどんな顔をしているのか分からない。
 けれどもう一度ごめんな、と呟いた理沙の肩が小さく震えたのを見て、彼女が泣いている、もしくは今にも泣きだしそうになっていることを悟った。俯いたまま顔を上げない理沙の背中に、私は言葉を投げかける。

「猫に名前を付けなかったのも、猫がいなくなることを知ってたからなのか?」
「ああ。名前を付けると情が湧いちゃうからな。名前を付けなくても、こんなに悲しいのに」

 理沙が小さく鼻を啜った。

「もしかしたらさ、泉も本能的に分かってたのかもしれないな。ぬいぐるみにさえ名前を付けるあの子が、最後まであの猫のこと、猫さんって呼び続けてたんだ」
「ああ、確かに。そうだったな」
「そういえば美希も、名前付けてなかったな」
「……ああ」

 本当はずっと心の中で呼んでいたけれど。

「何か名前、付けてあげればよかったかな」

 でも私は弱虫だから名前なんて付けられなかったんだ。と、理沙は一人ごちた。春のそよ風にさえ掻き消されてしまいそうなその小さな声は、酷く掠れていていたが、微かに涙を含んでいた。
 名前も付けてやれなかったと後悔する理沙に、本当は名前を付けていたんだと伝えたかった。けれど、言葉にさえしていないその名前は、本当に猫の名前と言えるのだろうか。
 私一人がこっそりと、心の中で呼び続けたあの猫の名前――。




「……さてと! しんみりしてても仕方ない! 猫の名前は猫さんだった、それでいいんだ!」

 急に大声を出したかと思うと、理沙は急に立ち上がった。真面目な雰囲気が苦手な彼女は、またしても空気の流れを変えようとわざとらしいほど元気な素振りを私に見せつける。
 猫のクッションを小脇に抱えて、にやりといつもの不敵な笑みを浮かべる理沙。私もつられてにやりと笑い返したが、彼女の頬に走った一筋の涙の跡を見つけて少しだけ顔が曇った。
 強がる理沙にかける言葉が見つからなくて、思わず目を逸らしてしまう。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、理沙は相変わらずの明るい口調で言葉を続けた。

「それにあの猫は根っからの野良だったからな。どんなにここの居心地が良くても、最後はきっとこうなったんだ」

 仕方ないさ、と寂しそうに微笑んで、理沙は抱えていたクッションを何故か私に押し付けた。非常に獣臭い毛だらけのクッションだけど、抱えることに不思議と不快感は無かった。
 素直にクッションを受け取った私を見て、理沙は嬉しそうに笑った。そしていつもの偉そうな口調でこう言った。

「それは美希にやろう! なんだか、私たちの中で一番寂しがってるみたいだしな」

 そんなわけあるか、とでも言い返したかったが理沙の言っていることは紛れもなく真実で。こっそり名前を付けていた分、私のあの猫への思い入れは人一倍だった。それもその名前が、あの人と同じものなのだから尚更だ。
 理沙は私が猫に名前を付けていたことは知らないはずだが、妙に勘が鋭い彼女は私の猫への想いを目敏く感じ取っていたらしい。

「……一応もらっておく」

 獣臭いクッション。爪でも研いだのかそこらじゅうが毛羽立って、お世辞にも日常で使える代物ではない。けれど、捨てることが憚られるのは、あの猫の遺していったものだからだろう。
 
「汚いけど大切にしろよ」
「言われなくても」
「うむ」

 私がクッションを両手で抱きしめたのを見るや否や、理沙は満足そうな笑みを浮かべて猫の小屋の片づけを再開した。
 再び木の下にしゃがみ込んだ理沙の背中をぼんやりと眺める。ついこの間まで猫が寝ていたはずのその見慣れた小屋が形を失っていく様は、見ていてとても苦しい。けれど、見守らなくてはいけない気がした。
 猫はもういないという証をしっかり見ておかないと、きっと私はいつまでも引きずってしまうだろうからな。




 ザザ、と一際強い風が吹いた。桜の木から無数の花びらが舞い散って、一瞬私の視界を遮った。桜吹雪で曖昧になった世界の中で見た理沙の背中。その隣に、白い猫が佇んでいるように見えた。
 桜色の小さな鼻をひくつかせた、真っ白の猫。気の強そうな金色の瞳があの人そっくりな、可愛らしい猫。

「――」

 初めて声に出してその名前を呼ぼうとしたが、不自然なほど言葉が喉につっかえた。息を吸い込み、心を落ち着け、再び名前を呼ぼうとしたときにはもう既に猫の姿はなかった。
 目の前に居るのは、黙々と作業を続ける理沙一人だけ。


(ひなぎく)


 心の中でもう一度猫の名前を呟いた。とうとう最後まで言葉にすることが出来なかった、あの子の名前。
 日頃から親しんでいる呼びなれた名前のはずなのに、今は心で思うだけで酷く物悲しい。

(やっぱり、こんな名前、付けるべきじゃなかったかな)

 ふいにそんなことを思ったけれど、四か月以上呼び続けた名前を今更変えることなんてできるわけもなく。
 それに何より、呼ばれることはなかったけれど、名前のなかったあの子の持つ唯一の名前なのだから、無下にできるわけがない。

(ひなぎく)

 もう一度だけ、猫を呼ぶ。
 私の大好きな、小さな花と同じ、愛らしい名前の猫だった。