勿体無い精神で短編再録その2 ( No.36 )
日時: 2013/03/24 14:37
名前: 餅ぬ。


 私の小さな手のひらじゃあ、男にしては細い彼の首さえ満足に締め付けることはできないようだ。伸びた爪が柔らかな肉に食い込むばかりで、一向に彼の鼓動は止まず。
 もしも私の爪が全てを切り裂く獣の爪であったなら、薄い皮膚の下に隠れる暖かな血液の流れをいとも簡単に断ち切ることができるだろう。
 もしも私が指の長い大人であったなら、こんな細首、いとも簡単に締め付けることができただろう。
 けれど生憎私はそのどちらも持ち合わせていない。実に残念なことである。

 ギチ。

 ああ、やっと彼の首に指が食い込んだ。親指に更なる力を込める。すると彼が初めてせき込んだ。

 ギリッ。

 気管と血管が締まる音だけが、耳に入る。指先からは彼の鼓動と温もりが伝わってくる。
 しかし鼓動は首を締め始めたころに比べて、随分と早くなっているようだ。心臓が刻む鼓動は数が決まっているという。このまま、全てを刻み終えてしまえばいい。

「ハヤテ」

 愛しい彼の名前を呼んだ。しかし彼の返事はない。まあ、それもそのはずである。私が首を締めつけているのだから。
 咳きこむ回数が徐々に増えていく彼を見ているうちに、ふいに全てが滑稽に思えてきて口元を歪めた。愛しい人が苦しむ姿を見て笑う私は、最近流行りのヤンデレとやらでも気取っているつもりなのだろうか。
 ああ可笑しい。ヒロインを気取る私も、首を絞められせき込んでいるにも関わらず笑顔を湛える彼も、何もかもが可笑しくて仕方がない。
 早く終わらせよう。そう思って、小さな指に全体重をかけた。細い身体だが、彼の首をへし折るくらいの重量はあるだろう。

 ギリ、ギリ、ギリ。

 彼はもう咳き込まない。微かな吐息を漏らすだけ。鼓動も徐々にだが遅くなってきた。あと何度脈打てば、彼の心臓は一生涯を終えるのだろうか。
 全身で首の締まる音を感じて、指先だけで彼の生命を聞いていた。静かな終焉を迎えようとしていたその矢先、急に彼がゆっくりと腕を動かした。そして氷のような手のひらで、私の頬を愛おしそうに撫でてみせた。
 私を見つめるその瞳は主を見る慈しみの眼差しではなく、男が愛しい女を見つめるときの眼差しそのものであった。その穏やかながらも熱い彼の眼差しが嬉しくて、一瞬だけ手の力が抜けた。
 そして彼は力が抜けた瞬間を見計らったかのように、心の底から愛おしむように甘く囁いたのだ。


 「――」


 囁いたのだ。私ではない、他の誰かの名前を。

 ボキッ。

 鈍い音と振動が、全身を包んだ。何も、感じなかった。
 ただ、噛みしめた下唇だけがジンジンと熱を発していた。




         =             =           =




「痛っ……」

 ふいに感じた口元の激痛で飛び起きた。恐る恐る痛みの元である唇に指をあてると、案の定ぬるりとした感触が指先にまとわりついた。
 外はすでに明るくなっているようで、カーテンの隙間から入り込んだ日光のおかげで部屋は電気をつけずとも薄明るい。故に、人差し指を染めている赤を確認するのはそれほど難しいことではなかった。
 その赤を指先で弄びながら、私は上半身をまたベッドへ埋める。そしていつものように独り言。

「またか」

 唇を噛みしめて流血したのは、これが最初ではない。これで、八回目だ。
 唇についた歯形が消えるたび、私は気づかぬうちにまた唇に傷をつけるのだ。その傷は回を増すごとに深くなり、血のとまりも遅くなった。そしていつの間にか朝の日課に止血が加えられたのは、まだ記憶に新しい。

「……もう八回目、か」

 私は枕元に置いてあったティッシュを傷口に当てながら、ぼそりと呟いた。
 もう八回目。この三ヶ月足らずで、私は八回もあの夢を見ているのだ。八回も彼を殺しているのだ。
 傷口を押さえていない方の手を、目の前に掲げる。そして先ほどまで見ていた夢を脳裏に浮かべてみれば、それはそれは鮮明に、吐き気をもよおすほど鮮明に、あの感触が甦って指先を包み込んだ。
 徐々に速くなる鼓動、弱々しく鳴る喉、咳の振動、骨の砕ける鈍い感触、そして消えた命の音。
 何もかもが鮮明すぎて、私は思わず枕に顔を埋めた。ティッシュが傷口からずれていたようで、枕の生地が溢れてきた血を吸い込んでいく。

(ああ、またマリアに怒られる)

 頭ではそう理解していながらも、私は顔を上げることができない。顔をあげたら、夢の続きが広がっていそうで怖かった。冷たくなった彼が、私のベッドの下で転がっているような気がして仕方がなかった。
 暗いところは大嫌いだ。けれど、今だけは何も見えない暗闇に飲み込まれてしまいたかった。


 
「ナギ?」

 血がやっと止まり始めたころ、ドアの向こうでマリアが私を呼んだ。返事をするのも億劫で、私はそのまま狸寝入りを決め込んだ。いや、億劫というのはただの言い訳で、本当は顔を上げるのが恐ろしかっただけ。

「もうお昼ですよ? ご飯、食べないんですか?」

 マリアのいつもと変わらぬ優しい声が、私の耳を刺激する。少しだけ、闇が晴れたような気がした。けれど私は何処までも頑固者で、素直にマリアの声に反応することが出来なかった。また、わざと聞こえないふりをしてマリアを無視した。
 きっと期待していたのだ。私を心配した彼女が部屋の中に入ってきて、丸まっている私の背中を優しく撫でてくれることを。そして「どうしたの?」と優しく問いかけてくれることを。 
 けれど、現実は夢と同じだった。私の期待を、ことごとく裏切ってくれる。

「マリアさん、お嬢様はまだ寝ていらっしゃるんですか?」
「ああ、ハヤテ君。それがまだ寝ているみたいで……」

 彼の声。一番聞きたくなかった人物の声が、ドアの向こうから響いてくる。相変わらず穏やかな響きを含んだ彼の声を聞いて、治まりかけていた吐き気が再発した。脳裏に、彼の笑顔が浮かんだのだ。
 最後の、彼の表情だ。
 全てを振り払いたくて、私はベッドにもぐりこんだ。布団に唇がすれて、ズキリと鈍く痛んだ。なぜだか、声を上げて泣きたくなった。

「僕が起こしましょうか?」

(入ってこないでくれ、お願いだから)

 今、彼の笑顔を見て、平常心を保っていられる自信はない。もしかしたら、とうとう夢と同じ過ちを犯してしまうかもしれない。そんな恐怖心だけが私の心を支配していた。

「いいんですよ、ハヤテ君。私が起こしますから」

 このマリアの言葉に、私はどれだけ救われただろう。けれどマリアの伸ばした救いの手は、私が握る前に引っ込められてしまった。私は、救われてはいなかったのだ。

「それに、ハヤテ君は今からデートでしょう? ナギのことで時間を取らせるわけにはいきませんからね」

 優しい、優しい声色だった。
 心がギュッと締め付けられた。鼓動が速くなる。ふと、あの指先の感触を思い出した。私の心臓は、心は、一生分の鼓動を打ち終えて死んでしまうのだろうか。

「――さんを、待たせちゃいけませんよ」

 息がつまった。ギリギリと心が軋んだ。
 このままドアを開け放って、マリアの言葉を遮れば心は死なずにすむのだろうか。けど、苦しくて、恐ろしくて、ベッドの中から動けない。
 まるで弱り果てた捨て犬のように私は短く息を紡ぐ。いっそ肉体共々死んでしまえたら、どれだけ楽だろうか。

「ほら、ハヤテ君。もう約束の時間ですよ」
「あ、本当だ! ……でも、お嬢様が」
「だから、ナギのことは私に任せてください。ハヤテ君は今、――さんのことを考えていればいいんですよ」

 ボキ、という音が聞こえたような気がした。どうやら、私の心は今日も死んでしまったらしい。最近はいつもこうだ。彼がアイツの話をするたび、醜い嫉妬に駆られては私の心は死んでいく。
 絞めつけられ、呼吸を止められ、へし折られ、捻じられ、溺れ苦しみ、私の心は日々に何度も死んでいく。
 しかしこの死を、彼やマリアに伝えることなんてできない。私は彼がアイツと付き合うことを決めた日に、言ってしまったのだ。

 ――幸せにするんだぞ。

 カッコつけたかったのか、それとも想い人に振られた悲劇のヒロインでも気取っていたのか。私は彼とアイツが付き合うことを許してしまった。
 無論、この言葉に至るまでは色々なことがあった。クビにすると脅したことさえあった。けれど、彼はそれでも構わないといった。この言葉を聞いて、私は彼の想いの強さを思い知らされた。
 ああ。きっと私は酔わされていたのだろう。あのドラマチックな雰囲気に。だから、後々のことも考えず「アイツを大切にしろ」だなんて、言ってしまったのだ。
 後悔しても後悔しても、時は戻らない。後悔すれば後悔するほど、自分の醜さに腹が立つ。

「……ありがとうございます、マリアさん」
「いいえ、きっとナギも望んでいることですわ」

 マリア、私はそんな良い子じゃないんだ。
 ハヤテ、私はお前とアイツに幸せになってほしいなんて、これっぽっちも思っていないんだ。
 嫉妬に心を殺されて、夢で愛する彼を殺して。私はどこまでも、果てしなく、醜いヤツなんだ。
 


「じゃあ、行ってきますね」

 そうハヤテが言い終えた瞬間、ドアの前で足音が一つ。どうやらハヤテが立ち去ろうとしているようだ。愛するアイツを迎えに行くために。
 ……気が付けば、私はいつの間にか部屋を飛び出して、マリアと彼の前に立っていた。

「ナギ、起きていたんですか? だったら返事を……」
「ハヤテ!」

 マリアの言葉を遮るように、彼の名を呼ぶ。あまりの音量に、彼は少々驚いた表情を浮かべた。けれどさすがは執事といったところか。すぐにその驚きは色褪せ、いつもと同じ優しい笑顔を浮かべてみせた。
 その笑顔を見た瞬間、何も入っていないはずの胃から何かがこみ上げてくるような気がした。この顔の彼を、私は夢の中で絞め殺そうとしていたのだ。

「どうなさいました? お嬢様」

 ハヤテが私に二三歩近付いた。この距離なら、背伸びをすれば彼の首に手が届く。

「……あ、お嬢様。口に血が……」
「え? ああ、これはその」

 私を思いやる彼の純粋な瞳を見るのが辛くて、ついつい目を逸らしてしまう。けれど、私の視線はハヤテの伸ばされた手によって強制的に元に戻されてしまった。
 彼の手には桃色の可愛らしいハンカチ。そのハンカチで、私の口元を優しく拭ってくれた。傷に触れて、少しだけ痛かったけれど、それ以上に高鳴る胸が痛かった。
 死んだと思っていた心は、彼のこのささやかな行動によっていつの間にか息を吹き返していたようで。目と鼻の先に在る彼の顔を見つめるだけで、顔と胸が熱くなった。

「も、もういい! あとは自分でやる!」
(ああ、私のバカ)

 いつもの強がりでハヤテの手からハンカチを奪ってしまった。唇を拭くふりをして、そっとそのハンカチの匂いを嗅いで見ると、洗剤の香りとほのかな彼の香りが鼻を刺激した。
 また若干色褪せているところから、毎日のように使っていることが見て取れた。随分と、大切なもののようだ。
 ここで、ふと嫌な予感が脳裏をよぎった。

「……ハヤテ、このハンカチって……」
「ああ、それはこの前――さんに貰って」

 聞かなければ良かった。
 ああ、せっかく息を吹き返した心がまた締め付けられる。

「悪いな、大切なものなのに」

 奥歯を噛みしめながら、出来るだけ普通を装った。彼は照れくさそうに笑って、「いいんですよ」とだけ言った。

「あっ、時間が……! すいません、お嬢様! 失礼します!」
「ああ」
「いってらっしゃい、ハヤテ君」

 駆けだす彼を、私はマリアと並んで見送った。走りだす直前に一瞬だけ見せた彼の笑顔は、私に見せたことのない笑顔だった。例えるなら、そう。男が愛する女に見せる笑顔。
 すなわち、夢の中の彼の死に顔。無論、私に向けたものではなくアイツに向けたもの。
 屋敷の遠くの方でバタンと扉の閉まる音が聞こえた。彼がアイツに会いに出かけたようだ。私は頬の肉を噛みしめて、歪もうとする顔の筋肉を抑えつけた。

「じゃあ、お昼にしましょうか」
「……スマン、もう少しだけ寝させてくれ」
「まだ寝るんですか?」
「朝方までゲームをしてたから、あんまり寝てないんだ」
「もう、じゃあ一時間だけですよ」
「ああ」

 呆れたような微笑みを残して去っていくマリアの背中を見つめた後、私は再びベッドに身を投げた。すでに心は死んでいて、何も感じることはない。
 今頃アイツと笑い合っているであろう彼を想像しても、愛しているとアイツに囁く彼を想像しても、私の心は何の反応も示さない。ただ、漠然とした後悔だけが広がっている。

 あの時彼に泣いて縋っていたら?
 「付き合わないで。私だけを見ていてくれ」と伝えていたら?
 幸せを願っているなんて、言っていなかったら?

 もう、全ては終わったことなのだけれど。



           =          =           =



 私は彼の上に跨っていた。そしてため息をつきながら、「またか」と呟いた。
 彼は笑っている。私も笑っている。
 そっと、彼の首に手をかけた。細い指が彼の細首に、ズブズブと食い込んでいく。その様をみて、私は滑稽だと笑う。


 彼は九回目の死を遂げた。


 心は相変わらず死んだままだった。


【夢で殺して八回目、心殺され数知れず】