飢餓海峡のワンフレーズより。映画と小説見てみたい…。 ( No.18 )
日時: 2012/12/26 23:29
名前: 餅ぬ。



 ふと彼女に会いたくなると、私は机の奥から絹のハンカチに包まれた彼女の爪を取り出しそっと自分の頬を刺す。
 頬に広がるその痛みの、なんと甘美なことか。今はもういなくなってしまった彼女の一部が、私に触れているのだと思うと何とも言えない幸福に包まれる。
 チクリチクリと頬を刺しながら、私はその至福に溺れるように目を閉じた。瞼に映るのは、彼女がこの置き土産を残していった在りし日の光景。



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 いつのことだったか、もう覚えてはいないけれど。かつて彼女が私の部屋に訪れた時、偶然爪を切ったのだ。彼女は少しばかり几帳面だったから、伸びた爪が気になったのだろう。
 物音一つしない静寂の部屋の中で、パチリ、と彼女の爪を切る音だけが響いていた。彼女の白く細い指先から、爪が断ち切られていくその様子を、私は只々眺めていた。
 銀色の爪きりが彼女の指先に噛みつくたび、私は無機物に酷い嫉妬心を抱いた。それほどまでに、私は彼女に恋焦がれていたのだ。叶わない、醜い感情である。
 そんな私の気持ちにも気づかないまま、彼女は爪を切り終えて、爪切りが吐き出したその爪を丁寧にティッシュに包んでゴミ箱へと投げ入れた。
 そして爪を切り終えた彼女は何事もなかったかのように、会話を再開したのである。彼女に流されるがまま言葉を紡いだが、私の視線と興味は捨てられた彼女の一部ばかりに注がれていた。
 彼女の一部が、そこにあるのだ。そう思うだけで、何故だか胸が高鳴った。

 「じゃあ、またね」と言った彼女の後ろ姿を見送り、私は急いで部屋に戻った。そしてゴミ箱の中から、そっと、一つたりとも零さぬように、ティッシュに包まれた彼女の爪を取り出した。
 恭しくその包みを開く。そこには確かに、彼女の一部があった。掌に乗るそれを眺めながら暫し呆然とした後、私は不意に我に返った。
 これではまるで変態ではないか。私は彼女に恋焦がれてはいれど、爪などに劣情にも似た感情を抱くほど落ちぶれてはいない。と、自分に言い聞かせた。
 しかし私は仮にも彼女の一部であるそれを再びゴミ箱へと投げ捨てることが出来ず、箪笥から取り出した真っ白の絹のハンカチに爪を包んで机の奥にそっと仕舞い込んだのである。
 引き出しを閉めながら思いもよらぬ自分の変態性に落ち込みながらも、私の心はその時確かに昂っていた。
 そうだ、異常性や変態性などは隠せばいいのだ。自分で言うのも何だが私は心から彼女を大切に思っている。だから大切な彼女がいる限り、この劣情を隠し通せる自信があった。

 そう、彼女がいれば。


「美希ちゃん! ヒナちゃんが、今、交通事故で――」


 そう思った矢先の出来事である。鳴り響いた携帯電話を何気なしに取ると、泉の叫び声が私の耳を劈いた。
 泉は不幸にも、交通事故の瞬間に居合わせてしまったらしい。けたたましい救急車のサイレンの音と野次馬の雑踏が携帯電話から溢れていた。
 ヒナちゃんが、ヒナちゃんが、と繰り返す泉を私は宥めることができなかった。指先が白く変色するほど強く携帯電話を握りしめたまま、机の前で立ち尽くしていた。
 全てが夢の中の出来事のように思えた。しかし泣き叫ぶ泉の声は紛れもない現実で。そんな現実から逃れる為に、私はつい先ほどまでここに存在していた彼女の姿を反芻し続けた。
 何の言葉も発せないまま、彼女の一部が取り残された引き出しをそっと撫でた。たった十個の爪先だけれど彼女がいるのだと思うと、私の心は何故だか酷く落ち着いたのだ。


 ――私の部屋で爪を切ったその日の帰り道で、彼女は死んだ。


 その現実を受け入れた日から、私はこの爪を彼女の代わりに愛し愛でるようになった。



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 今日も今日とて、私は彼女の爪を優しく手に取り自分の頬に突き刺す。その甘美な痛みに、私の唇は歪に弧を描く。
 彼女の体から離れたばかりの爪はとても柔らかで、頬に突き刺すたびに軽くしなっていた。しかし月日が過ぎて彼女の爪はかつてのしなやかさを失い、白さを失い、固くなり薄らと黄ばんでいる。
 彼女が老いていくようで、酷く悲しかった。けれどいくら老いて古びて朽ちようとも、この爪は彼女の一部であることに変わりはない。この爪は確かにあの日まで彼女の指先と繋がってたのだ。
 彼女の爪先が私の頬をチクリと刺している。私に触れている。彼女に愛されているのだ、と錯覚する。かつて彼女には好きな人がいたような気もするが、それも今や過去の話である。
 今の彼女はこうして、私を頬を突くばかり。彼女に触れられるのは、彼女に触れられているのは、この世で私だけなのだ。これを愛と呼ばずして、何と呼ぶ。
 グリグリと彼女の爪で自分の頬を抉る。頬の一部が熱を持ち、突き破られた皮膚から生温い感触がつつ、と伝う。頬の傷が増えるたび、私は彼女をより近くに感じることが出来た。



 とある日、私の頬の傷の理由を知った理沙に「狂っている」と罵られた。鼻で笑い飛ばしてやった。自分でもそうだと分かっているので、罵られようが蔑まれようが特に気には留めない。
 「これが私と彼女の愛なのだ」と私が答えた時の理沙の顔といったら。苦虫を噛み潰したようなその表情は、怒りなのか悲しみなのか。今になっても分からない。

 とある日、私の頬の傷の理由を知った泉に「可哀想にね」と泣かれた。同情なのかと尋ねたら違うと首を振られたので、只々戸惑った。何故泉が泣いているのか、分からなかった。
 「私は幸せだよ」と私がそう言って慰めた時の泉の反応といったら。「だからだよ」と一言呟いて、大きな瞳からボロボロと涙を零すだけだった。あの言葉の意味は、今になっても分からない。

 面倒くさいことや分からないことは放っておくに限る。深く考えることを拒否した私を前に、友人たちの意味深な表情と言葉は記憶の片隅にポツンと突っ立つことしか出来なかった。
 二人の問いかけは、現実への誘いであることを私が一番よく知っていた。それでも私は、幻想の至福だけを貪っていたかったのだ。



 爪は彼女の遺伝子の残りカスである。頬を突き破って私の中に入り込んでくるのは、彼女の爪であると同時に遺伝子なのだ。そう思うだけで、全身が喜びに震えた。
 私は、彼女と一つになりたかった。幾度となく飲み込んでやろうと思ったが、出来なかった。目に見える形で、そばに居て欲しかった。
 少し前に十もあるのだから一つくらい、と血迷って彼女の薬指の爪を軽く食んでみたことがある。かりり、と口の中に音が響いた。彼女が泣いているような気がして、思わず吐き出した。
 薄く歯形のついてしまった薬指の爪を眺めながら、私は泣いて謝った。痛かったね、ごめんね、ごめんね、もう痛い思いなんてしたくないのにね。と爪を両手に抱きながら、夜明けまで泣き通した。
 「あの時の私はどうかしていたね」と、傷ついた薬指の彼女に語りかける。返事はないけれど、私の頬には紛れもなく彼女の感触が存在していた。
 一つになれないから、私は頬に傷を作る。この傷は彼女が与えてくれたもので、彼女の一部が私に入り込んだ証しなのだ。彼女がここにいる証なのだ。


「幸せだよ」


 そう、私は幸せだ。
 自分に言い聞かせながら、鋭く甘い至福の痛みに酔い痴れる。
 この幸せに酔わなければ、私はきっと生きていけない。






【爪先で感じるの。】