部屋が寒かったので真夏の話 ( No.13 )
日時: 2012/12/15 14:00
名前: 餅ぬ。

「熱中症になってしまいますよ」

 校庭の片隅に咲いていた朝顔を観察していると、急に頭上から声が降ってきた。んあ、と間の抜けた返事をして上を向くと、そこには私を見下ろすハヤ太君の姿があった。逆光でよく見えなかったが、多分彼は苦笑していたと思う。
 どうやらハヤ太君は、燦々と照る太陽の下で日陰も何もない場所にしゃがみ込む私を見つけ、心配して走ってきたようだ。本人の口から聞いたわけではないが、彼の僅かに弾んだ息と上下する肩がそう物語っていた。
 よく見えない彼の顔をぼんやりと見つめていた。何か話しかけようと思ったが、暑さで茹った頭に気の利いた言葉は浮かんでこない。額からジワリと染み出してくる汗を感じながら、私は目を細めて彼を見上げることしかできなかった。

「ほら、なんだか目が虚ろですよ。早く教室に戻りましょう」

 そう言って、ハヤ太君は手を差し出した。一瞬手を伸ばしかけたが、手汗が酷いことを思い出して躊躇った。ねっとりと汗に包まれたこの手で、彼の手を握るのはなんだか嫌だった。率直に言ってしまえば、恥ずかしかったのだ。
 中々手を握らない私を見て何かを感じ取ったのか、ハヤ太君は伸ばしていた手を引っ込めた。そしてポケットを漁り、一枚の白いハンカチを取り出した。これで手を拭け、とでも言われるのかと思ったが、彼は思わぬ行動に出た。
 取り出したハンカチを広げると、彼はおもむろに私の頭に被せたのだ。訳が分からず目を丸くすると、彼はやっぱり見えない笑顔を浮かべてこう言った。

「朝風さんは髪が黒いですから。こうしておけば少しはマシでしょう?」

 私が手を引っ込めた理由を、彼は「まだここに居たい」という風に解釈したらしい。やはりハヤ太君は女心というものに鈍感である。思わずため息が漏れた。しかし彼の見当違いな心遣いに、思わず口元が綻んでしまう。
 そんな口元を隠すために、私は再び視線を朝顔に戻した。ハヤ太君はまだ私の背後にいる。彼の影が私にちょうど重なって、ほんの僅かに涼しくなったような気がした。

「なんだか」

 私の背中を眺めて黙り込んでいたハヤ太君が、突然口を開いた。

「上から見ると朝顔みたいですね、朝風さん」

 ほら、スカートが広がって。と、ハヤ太君が言う。
 暑かったのでスカートを足に挟まず、地面の上に広げっぱなしにしていたのだが、どうやら彼にはその広がったスカートが朝顔の花弁に見えたらしい。なんという乙女思考。彼は本当に生まれる性別を間違えたのではなかろうか。
 上げ足でもとってやろうかと思ったが、意思に反して私の口は動かない。太陽の日差しが、脳を焼いているようである。顔が熱くてたまらない。

「……綺麗ですね」

 背後から、ハヤ太君の声が聞こえてくる。思わず耳を疑った。背後から聞こえてくるうっとりとしたその声は、一体何に向けて囁かれたのだろうか。
 今、彼の視線はどこにある? 朝顔を見ているのか、それとも私を見ているのか。振り向きたかったが、首が言うことを聞かなかった。彼の視線の先を知るのが、怖かったのだと思う。
 ぼんやりとした頭はさらに霞んで、火照っていた顔はさらに赤くなった。その熱はじわじわと心臓のあたりからやってきて、私の全身を蝕んだ。太陽の暑さとは明らかに違う、やりどころのない熱さに私は小さく身悶えた。


 多分、この時だ。
 私が――。




「おーい! ハヤテー!」

 遠くから、少女特有の可愛らしい声が聞こえてきた。そういえば、今日は珍しくナギちゃんが登校して来ていることを思い出した。

「お嬢様!」

 主に呼ばれたハヤ太君が、弾んだ声を上げる。まるでご主人様を見つけた犬のようだと思った。……まあ、あながち間違いではないが。

「あ、朝風さん」

 主の下へ駆け寄ろうとしていた足を止め、彼は再び私の背後に立った。顔を見られたくなかった私は、振り向かなかった。けれどハヤ太君は気にせず話を続ける。

「観察もいいですけど、あんまり無理しちゃだめですよ」

 子供を諭すような優しい声色で彼が言う。きっとそう言うハヤ太君の顔は、それはそれは穏やかで柔らかなものだったのだろう。去っていく彼の足音を聞きながら、彼の笑顔を夢想する。顔と心臓のあたりが、何故だか沸騰しそうになった。
 視線を下げ、足元を見つめると、顎から一つ汗が落ちた。乾いた地面に染み込んでいくそれを眺めながら、私は先ほど気付いた感情をぽつりと口にした。


 ――私、ハヤ太君が好きだ。


 その気持ちに気付いたのは、高校最後の夏だった。

 気付くと同時に、自分の鈍感さに嫌気がさした。もう、何もかもが遅すぎたのだ。



 彼には、彼女がいた。



            *             *            *            *             *



 高校を卒業して、五度目の夏がやってきた。
 私は庭に植えた朝顔の前でしゃがみ込んでいる。私の髪は燦々とした太陽の日を浴びて、じりじりと根元から焼けてきているようだった。
 額から頬へ、頬から顎へと汗が伝う。もうどれだけこうしてしゃがみ込んでいるのだろうか。

 私の頭はあの日のようにぼんやりと霞んでいて、まともな思考を保てていない。目に映るのは朝顔なのに、浮かんでくるのはあの日の光景ばかりである。逆光で見えなかった彼の笑顔が、浮かんでは消えて、浮かんでは消えて。
 綺麗ですね、という声が頭の奥で反響する。何に、誰に向かって囁かれたのかさえ分からない言葉は、今でも私の心を支配し続けているのだ。あの時、振り返っていたら何か変わっていたのだろうか。
 否、何も変わっていないだろう。

 気づいてしまった感情は水をやらなくても育つのだと知ったのは、確か冬ごろだっだろうか。微笑ましさにも似た気持ちで眺めていた彼と彼女の後ろ姿が、直視できなくなった。
 卒業するころには彼の顔さえまともに見れなくなっていて、泉たちとつるんでやっと話しかけられる程度の有様だった。元々、あんまり彼との接点はない方だったから、泉たちが私の変化に気付くことはなかった。
 そして誰にも気づかれず、誰にも伝えられなかったこの感情と共に、私は高校を後にした。卒業式の日、人ごみから離れた場所……あの朝顔の咲いていた場所で一人きりの告白ごっこをして、こっそりと泣いた。
 それで踏ん切りをつけようと思っていた。けれど、咲いた花は枯れても種をつける。私の想いは夏になるたび、再び咲くのだ。
 例え、彼が絶対に振り向いてくれないと分かっていても。
 そう、絶対に。

 
 ――先日、ハヤ太君が結婚した。


 虚ろな目を足元に向けると、ぽつりと滴が一粒落ちた。汗かと思ったが、ポロリポロリと零れるそれはどうやら私の目から溢れているようである。足元に伸びる私の影の肩が小さく震え、それ滲む視界で眺めていた。
 燦々と輝く太陽が、私を見下し笑っている。いくら待っても彼は来ないぞ、と。いくら熱中症で倒れかけようが、駆け寄ってきてくれる人もハンカチをかけてくれる人も、もう存在しないのだ。
 汗とも涙とも分からない塩辛い水滴が、ポタポタと地面を濡らしていく。足元に映る影の震えは増すばかり。

「こんな服着て、何してるんだか」

 自傷気味に呟いた。
 地面に広がるロングスカートは空と同じ色で、ふわりと柔らかく広がった裾は朝顔を髣髴とさせた。けれど、それを指摘してくれる人はもういない。それでも夏になるとこんな服を着てしまうのは、何故なのだろうか。

 
「枯れればいいんだ。こんな花」


 広がったスカートの裾を砂ごとぎゅっと握りしめた。思わず嗚咽を漏らして、その場に跪いた。背後には何の気配もない。誰もいない庭の片隅で、私はひっそりと泣き続けた。
 泣けば泣くほど、恋しくなるあの夏の日。思い出すのは、彼の声と見えなかった笑顔ばかり。暑さに茹だった脳みそは、悲しみに浸りながらも彼のことを忘れさせてはくれないのだ。



 だからきっと、来年も花は咲くだろう。






【夏に咲く花】