どんなに成長しても三人揃えばバカに戻るといい ( No.64 )
日時: 2014/02/15 23:09
名前: 餅ぬ。


 正面に座る泉の手元には飲みかけのストロベリーシャンパン。
 最後の一口が進まないようで、グラスに浮き上がった水滴を指先で弄んでいる。水滴のついた指先で火照った頬を冷やすしぐさに、可愛らしさと何処か泉らしからぬ色気を感じた。
 そんな泉の隣に座る美希は、一人涼しげな顔でウーロン茶をちびちびと啄んでいる。
 大人な私は深酒なんてしないのさ、とクールぶっていたけれど、ヒナと飲むたびに毎度彼女が泥酔状態になっていることを私も泉も知っている。情報提供者は元担任の酒豪だ。
 変わったようで変わっていない二人を眺めながら、私はジョッキの底に僅かに残っていた生温いビールを一気に飲み干した。この苦味の虜になったのは、さていつからだっただろうか。

 私がいつの間にやらビールを好むようになったように、変化なんて時間が過ぎれば多かれ少なかれ起きるものだ。私も彼女たちもそれを分かっていた。
 変わっていく世界の中でも変わらぬものがあると知っていたから、私たちは移りゆく日々を楽しむことが出来たのだ。
 いつも一緒だと思っていた。大学を卒業して離れ離れになった後も、こうして集まってお喋りできればそれでよかった。
 大人びていくようで、実際は何も変わっていないお互いを見て笑い合うのが、何よりも楽しかった。就職をしても、結婚をしても、子供が出来ても、泉は泉で美希は美希。私は私のままだった。 
 大企業の社長令嬢という名を背負いながら、社会人兼最愛の旦那の嫁を立派に努める泉。
 のらりくらりと政治家の妻としてと過ごしていると思いきや、いつの間にか自身も政治の世界に片足を突っ込んでいた美希。
 そして悠々自適に専業主婦をしている私。私だけスケールがやけに小さい気がするが、唯一子育てをしてるという点で忙しさは二人には負けていない……と思う。

 
 変わらないお互いを知るための小さなお茶会……もとい飲み会は、全く違う道を進み始めた私たちが集うことのできる数少ない大切な手段の一つだった。
 月に一度、泉や美希の仕事次第では二月に一度になってしまうが、大学を卒業してからずっと変わることなく続いてきた飲み会だ。
 懐かしい思い出話から昨日のドラマの話まで、他愛もない会話を交わす。泉を美希と二人で弄ったり、時々大人な顔をして社会を語ってみたり。
 学生時代とは全く変わってしまった私たちの世界だけれど、この飲み会の時だけは認めたくないけれど一番楽しかった「三バカ」時代に戻る事が出来るのだ。
 今の環境が嫌だという意味ではない。むしろ、新しい世界は学生時代よりもずっと深くて味わい深い。けれど、変わらない私たちの根本は、やっぱり三バカであることを望んでいるようだった。

 月に一度のささやかな集い。ずっと続くと思っていた。お婆ちゃんになって孫の自慢話が出来るような時代まで、ずっと続くものだと疑っていなかった。
 けれど、この飲み会は私たちのように、永遠に変わらないものではなかったらしい。どれだけ大切に思おうとも、時の流れには逆らえなかったのだ。


 大切な大切な三人きりの小さな飲み会。それは多分、今日で最後になるのだろう。




【変わる世界と三バカ】

 
 


「……今日で最後なんだねぇ」

 ふいに泉が呟いた。シャンパンの水滴を突くその顔は酷く穏やかなのに、言葉尻には隠しきれない寂しさが滲んでいる。

「最後とか言うなよ。それにもう会えないわけじゃないでしょ」

 らしくもなく落ち込む泉に、らしくもなく美希が慰めの言葉をかける。「うぅー」と唸り声をあげて机に突っ伏してしまった泉を横目で見ながら、美希は私に小さく笑って見せた。 
 丸くなった泉の背中を撫でながら、また会えるさと何度も繰り返す。その言葉は無論私にも向けられているようで、美希と泉の姿も相まって、年柄もなく熱くなった目頭を抑えた。

「……そうだぞ、泉。ずっと会えないわけじゃない。どこぞの執事みたいなお人好しで頼りない旦那さんなんだから、泉がちゃんと支えてやらないと。
 それに私たちは泣く子も黙るセレブだ。海外転勤なんかになっても、太平洋くらい自家用ジェットで一っ跳びだろ?」

 懸命に平静を装い、いつものようにふざけた口調で泉を慰める。しかし目頭を押さえて斜め上を向く私の姿を見て美希がにやりと口元を歪めた。
 一人だけ余裕ぶっているようだが、微妙に瞳がうるんで鼻頭が赤くなってきている。しかし美希本人は気付いていないらしく、彼女のいつも通り振いがさらに私の涙腺を刺激した。
 年を取ると涙もろくなっていけない。三年前の同窓会で雪路が言っていたことが、今になって身に沁みた。

「うん……うん……。そうだよね、また、すぐ会えるもんね……。美希ちゃんも、い、忙しいの終わったらまた、いつも通り会える、よね……?」

 グズグズになった鼻を啜りながら泉が泣き腫らした目で美希を見た。至近距離で泉と目が合った美希は、思わず視線を泳がせた。
 ただ泣きじゃくる泉を直視できないだけなのか、はたまた泉の問いに答えることが出来ないのか。真相は多分、どちらも正解なのだろう。

「ああ、暫くは忙しくなるだろうが、泉が落ち着く頃には私も落ち着いていると思う」
「そっか、良かった……。政治家ってね、なんだか忙しそうだから、もうこうやって飲みに行けないかなって……でも、大丈夫なら、良かった……」

 酔いのせいもあるのか、泉は舌足らずにそう言って美希に寄り掛かった。美希の言葉を信じて「にはは」と懐かしい笑みを浮かべる泉。
 それを無言で見つめる美希は、私と同じように目頭を強く抑えている。薄く開かれた唇から掠れた声で「ごめん」と紡がれた瞬間を、私は見逃さなかった。
 政治の事にはとんと疎い私だが、かつて美希に聞いた政治家の世界とやらはとても複雑で忙しそうだった。今のように月一で、お気楽な居酒屋で集うなんてことは多分――。

「あのねー、私の引っ越しと美希ちゃんのお仕事が落ち着いたら、またみんなで飲み会しようねぇ。それまでに外国の居酒屋さん調べておくのだー」

 ふにゃふにゃと笑いながら泉は言う。

「外国に居酒屋さんはないだろ」
「んー……なかったら作る!」
「お、それはいいな。私も協力するぞ、理沙も」
「うむ。お寿司とかおでんとか適当に日本っぽいものメニューに入れとけば外人さんにもバカ受けだろう」
「よーし! あっち行ったら三人で居酒屋さん作るのだー! おー!」

 泉の掛け声に合わせて私たちも元気よく拳を天に突き出した。満足げに微笑む泉の目じりに、じわりと小さな涙の粒が浮いてきたけれど、あえて見てないふりをした。
 夢物語を語るときはいつだってバカみたいに前向きじゃないといけないのだ。現実を見据えて泣きながら語る夢なんて悲しいだけじゃないか。
 美希も私と同じ気持ちらしく、私が手の甲で乱暴に涙を拭う動きに合わせて、小さな嗚咽を漏らしながら悲しい顔をお絞りで覆った。




 泉の酔いが程よく醒めるのを待って、私たちは店を後にした。
 数年前から贔屓にしているこの居酒屋は、高層ビルの中にあった。十階建のビルの七階にあり夜景を望みながらお酒が飲める小洒落た店だ。本来はダイニングバーと呼ぶべき場所らしい。
 まだ少し足取りの覚束ない泉を支えながら、私はちらりと泉の腕時計に目をやった。時刻は十時を回っていた。
 そろそろ帰らないと、休日出勤らしい旦那を起こせなくなるかも、なんて考えてしまうあたり、私も随分と家庭に毒されたものだと感じる。
 そんな私の焦りを感じ取ったのか、泉は私の顔を覗き込みながら少し寂しそうに笑った。

「理沙ちん、明日も早いの?」
「んー、まあ、なんとかなる。まだ大丈夫だ」
「無理しちゃだめだよー。今日は遅いし、二件目はやめておこう?」

 本当は誰よりもまだ一緒に居たいと思っているはずなのに、泉はいじらしくも私を気遣う。そんな可愛らしい泉の頭をわしわしと撫でながら、私は明日を捨てる覚悟をした。

「遠慮なんて泉らしくもないぞ! 本当は一緒に居たいくせにぃ!」
「きゃー! あはははっ理沙ちんやめてー!」
「……そうだぞ、泉、理沙。今日はまだ返すわけにはいかない」 

 子供のようにじゃれ合う私たちを少し遠巻きで見ていた美希が、妙に真面目ぶった口調で私たちにそう告げる。
 私と泉の視線が自分に集まったところで、美希は得意げに口の端を吊り上げながら人差し指をピンと立てて天井を指差した。泉と同時に天井を見上げる。

「……天井がどうかしたの?」
「天井じゃない。屋上だ、屋上。暫くはこうして集えないだろうからな。せっかくだからちょっと特別なことをしようと思って」
「特別なこと?」

 首を傾げる泉に、美希は悪戯っぽく微笑みかけた。

「ここ屋上、いつも鍵がかかってるだろう? でも、毎週土曜日だけ鍵が開いてるんだ」
「……で、あれか。忍び込もうってことか」
「ご名答。さすがは理沙、悪知恵は私と同レベルだな」
「うっせい。でも、なんか楽しそうだな」

 にやりとした笑みを交換した私と美希は、同意を求めるように泉の顔を見た。きょとんとしていた泉の顔が、少しずつ口元と目元がふにゃりと歪んで私たちとよく似た笑みを浮かべた。

「うん! 楽しそう! それになんだか、昔思い出すねぇ。
 ほら、小学生の時、高等部の生徒会の人から美希ちゃんと理沙ちんが時計塔の鍵くすねてきてさー」
「人聞きの悪いこと言うな! あれはちゃんとお願いして借りたんだって何度も言ってるだろ」
「理沙が「生徒会役員に兄弟が居て時計塔に忘れ物しちゃったから取りに行かないと!」って嘘ついてな。
 あの時頼み込んだ副会長さんがとんでもなくお人好しで騙されやすかったから出来た芸当だな」
「理沙ちん、そんなことしてたの……」
「……あの時の私は若かったからなあ」
「若さに逃げるなよ。中学も高校も大して変わらなかっただろ?」

 人の黒歴史を嬉々として掘り返す美希をじろりと睨みつける。そんな私を見て美希は大層楽しげにふふんと鼻を鳴らした。
 こんなやりとりも、昔から何も変わっちゃいない。そして再びどこぞへ忍び込もうという美希の思考回路も、時計塔に忍び込んだ小学生の時から大して変わっていないのだ。
 言い訳になるが時計塔に忍び込む計画を嘘をついて実行したのは私だが、計画自体は美希が立てたものである。私だけを悪者にしないでいただきたい。
 そして酷く緩い不穏な空気を一刀するかのように、泉がうっとりとした声で私と美希に語りかけた。

「でも、初めて見た時計塔からの景色、綺麗だったなぁ……。
 小さかったせいもあるかもしれないけど、高校で生徒会に入ってから見た時よりも、ずっとずっと高く見えて……。なんだか空を飛んでるみたいだった」

 言われてみれば、確かにそんな気がする。
 思い出補正というものもあるのかもしれないが、幼い私たちが見渡した憧れの時計塔からの景色は、当時見たどんな世界遺産よりも美しかった。
 夕暮れの中、遠くに見える大都会は灯りだしたネオンで明るく輝いていて。あの頃の私たちは、そんな街の中に自分が溶け込むなんて思ってもいなかっただろう。
 高いオレンジ色の空に、濃い群青色を照らす色とりどりのネオン。忘れられないほど美しい景色だったのに、どうして今まで忘れていたのだろうか。

「ああ、確かにすごく綺麗だった。……なんで今まで忘れてたんだろうな」
「私も今思い出したよ。ついでに理沙、忘れてたのは多分景色よりも忍び込んだ後、先生に死ぬほど怒られた方が印象に残ってるからだと思うぞ」
「……あーー。お前、ホントやめて。せっかく感慨深く昔を懐かしんでたのに……」

 頭を抱えた私の顔を覗き込みながら、泉はにははと笑い声をあげた。「えー? 怒られたっけ?」などと呟きながら、先生の怒号を思い出して顔をしかめる私を楽しげに見つめてくる。
 同じ思い出でも印象に残る部分は三者三様らしい。だからこそ、三人で語る思い出話はいつだって新鮮味に溢れているのだろう。
 泉の一言で蘇った遠い日の思い出に暫し浸った後、私が落ち着いた頃を見計らって美希が再び屋上を指差した。

「じゃあ、そろそろ行くか。屋上」
「わーい! 行こう行こう!」
「……怒られないだろうな?」
「理沙、何弱気になってるんだ。らしくない。大丈夫、先生はもういない! 怒られるとしても警備員くらいだ!」
「そっちの方が怖くないか!?」
「冗談だ、冗談。それに屋上に入っても私が居れば多分怒られないぞ。このビル、うちの父のらしいから」

 さらりとそう言ってのけて、美希は私に寄り掛かっていた泉の手を引いて泉を元気よく歩き出した。確かに身内のビルなら安心だ。だがスリルが減ってしまったのが悔やまれる。
 しかし現在の美希の立場上、ちょっとした悪ふざけも出来ないのだろう。当たり前のことだけれど美希も変わったなぁなんて悲しくなる自分が、少しばかり嫌になった。




 美希と泉の三歩ほど後ろを歩いていたが、未だに時折足元がふらつく泉を体の小さな美希が支えるのは少々辛そうで、気付けば私も泉を支える為二人と並んでいた。
 泉を真ん中にして下らない会話を交わしながらエレベーターを目指す。エレベーターまではほんの僅かな距離なのに、会話は途切れることを知らない。
 最後だからと無理に話を広げているわけではない。終わってしまう今日を名残惜しんでいるわけではない。ただただ三人が楽しいだけなのだ、と、自分に言い聞かせた。
 せっかくの飲み会、それも久しぶりに美希の突拍子もない計画を実行している最中だ。センチメンタルな気分になんて浸りたくはない。

 エレベーターに乗り込むと泉がすかさず九階のボタンを押した。そういえば生徒会室へ行くときも、エレベーターのボタンを押すのはいつも泉の役だった。

「えへへー、ボタンを押すのは私のお仕事だからねー」

 ほんのりと赤い頬で笑いながら、泉は小さく胸を張る。呆れたように笑う美希はそうだったな、と優しく一言だけ呟いた。
 そんなやりとりを見ていただけなのに、私は再び喉の奥からせりあがってくる嗚咽と戦う羽目になった。本当に涙もろくなったものだ。寄る年波には勝てないということなのか。
 九階で止まったエレベーターを降り、美希に先導されるまま屋上に繋がる階段へと向かう。展望台になっている九階は人の気配も音も無く、足音だけが痛いほどに響いた。
 心配していた泉の酔いは随分と醒めてきたらしく、しっかりとした足取りで私の隣を歩いていた。これなら階段も何とか上れそうだ。
 暫く歩くと屋上へ続く階段の前に辿り着いた。非常灯だけがぼんやりと階段を照らし出しており、なんとも不気味である。先ほどまで柔らかく綻んでいた泉の顔も少し硬くなっている。

「……それじゃ、行くか」

 意を決したようにそう言うと、美希は足が竦みかけていた泉の手を引き階段を上りだした。空いていた左手で私を手招きながら暗闇へと溶けていく。
 少々戸惑ったが「ひえぇ」と泉の情けない悲鳴を聞いた途端怯えている自分が馬鹿らしくなって、年甲斐もなく駆け足で美希たちの後を追った。
 二つほど階段を上り終えると、弱々しい蛍光灯に照らされた緑色の重たげな扉が私たちを待ち構えていた。
 暫しドアを眺めた後、一歩前に出た美希が錆び付いたドアノブを躊躇なく握り、軽く捻った。がちゃりと重たい音を響かせて、緑色のドアが開く。
 ドアの隙間から吹き込む風に髪を乱されながら、美希は得意げに私たちを見下ろし、にやりと笑った。

「ほら、開いてるだろ」

 そう言った美希は扉を勢いよく開いた。吹き込んできた強風に思わず顔を背けたが、扉の向こうに立つ美希を目がけて、私と泉はほとんど同時に残り二段の階段を駆け上がった。




 屋上に出てみると、当たり前だがそこには都会の夜景が広がっていた。いつも七階で見ている景色よりも遥かに高くて、ネオンも遠い。
 濁った空に星なんてありゃしない。星は全て下に落ち、ギラギラと下品なほど鮮やかに夜の街を彩っている。正面を見れば、同じ背丈の高層ビルが視界を遮った。
 ため息が出る程美しい夜景なんて、ここにはなかった。しかし、地上で見れば煙たいだけのネオンを素直に綺麗だと思えたのは、いったいいつぶりだろうか。
 かつて時計塔で見た夕暮れは、それはそれは美しくて、幼い私たちに空を飛べると夢を抱かせてくれるほど優しい景色だった。遠くで灯るネオンも大人への憧れの象徴となった。
 しかし大人になって忍び込んだ先に見た光景は、昔のように夢を抱かせてくれるというわけではなく、ただただ現実の違った側面を見せてくれるだけだった。

 それでも十分に満足してしまうあたり、私たちはとっくの昔に夢なんて見れなくなっていたのかもしれない。 
 先ほどセンチメンタルにはならないと誓ったはずなのに、ついつい物悲しい気分になってしまった。綺麗だと素直に騒げなくなった私は、自分が思っていた以上に変わって――。

「うわー! すごい、すごいね! 美希ちゃん、理沙ちん! ほらほら、下に夜空があるみたい!」
「あああ!! 泉! フェンスから乗り出すな! 落ちるぞばか!」
「にははははっ! だいじょーぶ! 心配性だなぁ美希ちゃんはー」

 遠くで大人げなくはしゃぐ二人の声が私の纏っていた大人の雰囲気をぶち壊した。酔っ払いのにはははー! という高笑いと美希の本気の焦り声が耳をつんざく。
 本当は昔のようにバカ騒ぎする二人の様が嬉しいくせに、認めるのが気恥ずかしくて、誰も見ていないけれど眉をしかめて二人を見る。
 そこには子供のようにフェンスの下を覗き込む泉と、長い髪を振り乱しながら懸命に泉を羽交い絞めにしている美希が居た。思わず吹き出した。
 その笑い声で一人安全地帯で安らぐ私を発見した美希が、必死の形相と叫び声で私を呼びつける。

「理沙ああっ! 笑ってないで泉を止めろ! この子まだ酔っ払ってるぞ!」
「だって楽しいんだもーん! 空が下にあるから飛べるのだー!」
「飛ばせてたまるか! 早まるな!」
「あいきゃんふらい!」

 はたから見ていればしっかりフェンスを握る泉に飛び降りる気が全くないのは明白だ。それを戯言だと流せず本気で心配する美希の姿は日頃の冷静さも相まって妙に可愛らしかった。
 堪らず二人の元に駆け寄って、私も美希ごしに泉の腰に抱き着いて止めるふりをした。私と泉の間に挟まれた美希から「うぎゅっ」と苦しげな声が漏れた。

「にははっ理沙ちんも来た! ほら、見て見て! お星さまが下にあるのだー!」
「おー、本当だな。これなら私も飛べる気がする!」
「理沙、泉を煽るな! 本当に飛ぶぞこの酔っ払いは!」
「泉ー! 飛ぶときは私たちも一緒だぞー!!」
「わーい! うぃーきゃんふらーい!」

 大人三人が高校時代……否、小学生でもおかしくないようなじゃれ合いを繰り広げる。笑い声も歓声も叫び声も、全てが夜に溶けていく。
 美希と泉の肩ごしに見る真下の夜空は、先ほど一人で眺めていた時よりもずっと美しくて。思わずため息が漏れた。
 そうだ。きっと、どんなにありきたりな景色でも、この二人が居れば素晴らしいと思えるのだろう。思える日が来るのだろう。

「すごいなぁ、泉、美希ー」
「うん、すっごく綺麗! すごいねぇ、すごいねぇ!」
「な、すごいだろ? 綺麗だろ? 私に感謝しろよ二人とも」

 すごいと綺麗だけが繰り返される語彙の少ない感嘆の声。しかしお互いに感動を伝えあうには、それで十分だった。
 小さな子供のように三人でぎゅっと肩を寄せ合い抱き合って、一緒に空を見下ろすだけで全てが伝わるような気がした。

「ねぇねぇ、美希ちゃん、理沙ちん。私、遠くに行っても絶対戻ってくるからね。そしたらまた、ここに忍び込んじゃおう」

 無邪気な口調で泉が言う。後ろからその横顔を覗き見ると、唇を噛みしめて今にも泣きだしそうな泉の姿があった。
 美希ごしに泉の肩を抱きしめて「絶対にまた来よう」と独り言のように呟いた。真ん中に挟まれた美希は無言のまま小さく震えている。

「な、美希もすぐに暇になるよな? 面倒くさいの嫌いだし」
「……当たり前だ。面倒くさいのはゴメンだからな。すぐ……すぐに、また、こうして、皆で……」

 ずず、と鼻を啜りながら美希は泣きっ面を隠すように泉の背中に顔を押し付ける。多分、泉の背中は大層大変なことになっているのだろう。
 かくいう私も涙と鼻水の嵐に見舞われているのだが、彼女たちを後ろから抱き締めている側なので二人が振りかえらない限り顔を見られる心配はない。
 それを良いことに私はぐずぐずと嗚咽を漏らし始めた二人に、まるで泣いていないようなふりをして優しく語りかけた。

「月に一度の飲み会が無くなっちゃうだけだ。私たちは何にも変わらないよ。
 半年後でも、一年後でも、何年後でも、またこうして集まればいつもの私たちなんだからさ。
 飲み会が無くなろうが、会える回数が減ろうが、一緒に過ごした思い出は変わらないだろう?」

 振り向いた二人の少し驚いた瞳が、我ながららしくもなく良いことを言ってしまった私を見つめる。少し照れくさくなって視線を逸らすと、美希と泉が同時にクスクスと笑いだした。
 人の顔を見て笑うとはなんて失礼な奴らだ。そんな思いと今さら込み上げてきた気恥しさを込めて、再び二人をきつく抱き締めた。また挟まれた美希がぐえ、と呻き声を上げる。 

「人が良いセリフ言ってるのに笑うなよ」
「だって理沙ちん、顔ぐっちゃぐちゃなんだもん。どんな涼しい顔してるのかと思いきや!」
「うるさい。お前らが泣いてるのに私だけが泣かないわけがないだろ!」
「それに理沙は気づいてなかったみたいだけど、完全に涙声だったからな。こっちの涙が引くほど後半とかもうボロボロだった」
「そう言うことは泣きやんでから言え。美希だって泉の背中で鼻かんでたくせに」
「えっ!? うそ! 美希ちゃんマジで!?」
「すまん、マジだ」

 いやー! と叫び声をあげる泉を見て私と美希は満足げに微笑み合った。別の意味で泣き出した泉とにやにやと笑う美希の姿は、本当に何も変わっちゃいない。
 月に一度の大切な飲み会は、今日で終わってしまうけれど。泉も遠くへ行ってしまうけれど。美希も私たちには想像できない多忙な世界へ行ってしまうけれど。
 何気ない夜景に無邪気に夢を抱ける時代はとうの昔に過ぎ、それと同時に三人で思い出を重ねる時代も終わってしまって。
 けれど、この先何十年経っても、幼い頃から交わしているこの馬鹿げたやり取りだけはきっと変わる事の無いままで。


 いつか再び集うときは、成長してきた部分を全て投げ捨てて馬鹿な三人でまた会おう。
 夜空を見下ろして小学生みたいに飛べる飛べるとふざけ合った今日を、思い出話に出来る日は、きっとそう遠くないはず。


 変わらない私たちは、バカみたいに真っ直ぐに、そう信じている。