煙草を吸う理沙と美希が書きたかっただけの話 ( No.6 ) |
- 日時: 2012/12/06 00:07
- 名前: 餅ぬ。
「鏡の世界って、どんなんだ?」
かつて彼女は鏡の中へ入ったことがあるそうだ。 彼女が言うに大体卒業式を一か月後に控えた頃のことらしい。 記憶を手繰れば、そういえばその辺りから彼女がおかしくなった気がする。 まあ、気がするだけで気のせいなのかもしれないが。
「やっぱりあれか。男が女だったり、天才が馬鹿だったり、上下左右が反転してたりするのか」
私がそう問いかけると、彼女は煙草を吸いながらふるふると首を振った。 煙草を咥えながら首を動かしたものだから、彼女の太ももの上に煙草の赤い灰がポロリと落ちた。 彼女は基本的にTシャツと下着だけで過ごしているので、布に守られていない彼女の白い太ももにはくっきりと煙草の灰の跡が残った。 さすがに少し痛かったのか顔をしかめて灰を払っている。
「なんにも。ここと同じだった」
一瞬なんのことかわからなかったが、暫く考えて先の質問の答えであると気が付いた。 彼女は続ける。
「鏡の中でも私は女だったし、頭も悪かった。利き手も利き目も同じだったし、お前とも泉とも仲が良かった。好きな人も同じだったよ」
そう言って彼女は煙草を灰皿に押し付けた。吸い殻の山がどさりと崩れる。 煙草を消した彼女は私を見ながら無言で手招きをした。
「美希、こっちきて」
私は言われるがまま彼女の隣に座った。 ソファ代わりの万年床は彼女の体温で妙に生暖かかった。
「一本貰うぞ」 「ん」
彼女の足元にある煙草の箱に手を伸ばす。残り三本。彼女にもう無くなるぞと伝えるべきだろうか。 伝えるべきなのだろうが面倒くさいので、私は気づかないふりをして彼女の煙草を吹かし始めた。 煙草は不味い。けれど、彼女の匂いがするので嫌いではない。
「そういえばさ」 「ん?」 「高校の同窓会、あるらしい」 「行くのか」 「私はね。理沙はどうする?」 「行かない」
即答だった。 彼女は高校を卒業してから人とあまり会おうとしない。
卒業後すぐに携帯を解約して、貯金を全額下して家を出た。家族にも友人にも私たちにも一言の連絡も無しで、彼女は失踪したのだ。 けれど失踪して半年後、私の携帯に彼女から着信があった。近くの電話ボックスに居るというので、私は彼女に会いに行った。 ちなみに後々知ったのだが、私の携帯に電話してきたのは偶然覚えていたかららしい。運命も減ったくれもない理由である。 再開の後、何故失踪したのか、何故何も言わなかったのか、当時の私は彼女を散々問い質した。 彼女は何も答えてくれなかった。 彼女が変わってしまったのだと理解できたのは、浴びるように煙草を呑む姿を見た時だった。 その時私は泉に彼女を見つけたという報告をするのをやめた。今の彼女と泉は余りにも釣り合わない。 勝手な判断かもしれないが、泉にとっても彼女にとっても会わないほうがいいのだ。絶対に。
昔話に思いを馳せていると、彼女が急にあ、と声を上げた。
「そういえばさ」 「何?」 「鏡の世界、一つだけ違うとこあったんだ」 「へえ、どんなだ?」
私が問いかけると、彼女は私の手を両手でぎゅうと包み込んだ。 その掌のなんて冷たいこと。
「暖かさが違う」
私の手をぎゅうぎゅうと握って彼女は言う。伸びた爪が手の甲に食い込んでジワジワと痛む。 爪の先まで冷たい。彼女は生きているのだろうか。
「美希、冷え症だっただろ」 「ああ」
痛くて顔をしかめると、彼女は手を緩めてくれた。少しだけ微笑んでごめんな、と言った。 昔はそんな笑い方、しなかったのにね。
「でもな、あっちの美希は暖かいんだ」 「へえ。じゃあ、お前も」
私がそう言うと、彼女はまたにこりと笑った。 屈託のないその笑みには、微塵の不敵さも感じられない。
「ああ、私は子供体温で、冬はよく美希にカイロ代わりにされてただろ。 でもあっちでは私が美希をカイロ代わりにしてたんだ」
冷たい掌が私の手の甲を撫でている。 冷たい手と冷たい手が重なったところで、暖など取れないというのにね。
「なあ、美希」 「ん?」 「暖かいな」
私の手は冷たい。彼女の手も冷たい。暖かさは、どこにもない。
「お前の手は冷たいよ」 「美希の手は暖かいよ」
じゃあ、私の手が冷たくなったときは、二人で泉に会いに行こうか。
「早く帰っておいで」
いつものようにそう囁いて、私は煙草の火を消した。
――朝風理沙は、まだ鏡の世界にいる。
【鏡の世界より】
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