後日談的な。乙女な理沙ちんに夢を見すぎた。 ( No.49 ) |
- 日時: 2013/05/19 17:05
- 名前: 餅ぬ。
- 【筆先が語る夏】
彼女の書く文字は、意外と綺麗なのだ。 眠たい時に書いたノートの文字はまるで象形文字だけれど、この時ばかりは彼女の本領が発揮される。 すらすらと滑らかに紙の上を滑る筆先を、私はひたすら眺めていた。
「理沙ちん、お習字は上手だよねぇ」
からかうようにそう言うと、彼女は怪訝な瞳で私を見た。
「は、ってなんだよ、失礼な。私の字はいつだって綺麗だろ」 「えー、だって、理沙ちんのノートの字! あれはもう文字ですらなかったよ」 「馬鹿だな泉。あれは草書体だ、草書体」 「そーしょ?」 「まあ、筆記体の日本語バージョンだ。私くらいのレベルになれば、日常生活でも草書体を扱うのさ」
偉そうにふふんと鼻を鳴らす彼女の顔は、根拠も理由も無しに自信に満ちている。 もしかして彼女は本当にそのそーしょたいとやらで、ノートを取っていたのではないだろうか。 彼女の自信満々の笑みには、単純な私にふとそんなことを思わせてしまうほどの魔力があった。
会話を終えた彼女は再び筆を走らせ始めた。白い紙に墨汁が滲む。 その中性的な見た目と口調も相まって、私たち三人の中で一番大雑把にみられる彼女だが、実は細かいことが得意だ。 手先が器用ということもあるが、何より彼女の内に秘めた女性らしさがこの丁寧な美しい文字を作り上げているのだと、私は思う。
「綺麗な字」
うっとりと呟くと、彼女は私に視線を移さないまま微かに笑んだ。 『にやり』とは形容しがたいその柔らかな微笑みは、少し照れくさそうで可愛らしい。
「まあ、書いてるものがものだからな。きちんと書かないとな」
そう呟いて彼女はさらさらと筆を進める。赤い瞳が動く筆先を追って、きょろりと上下する。
「にはは、そうだねぇ。大切なものだからね」
綺麗な瞳と文字を交互に眺めながら、私は先ほどの彼女の意見に賛同する。 彼女は小さく「ああ」とだけ答えて、再び口を噤んだ。滅多に見せない真面目な横顔は、凛とした彼女の顔立ちによく似合う。 最近の彼女は、トレードマークとも呼べるあの不敵な笑みをあまり浮かべなくなった。 掴みどころがなく、何事にも干渉を受けることなく自分を貫き通していた彼女。そんな彼女も今となってはこんなにも穏やかに笑むのだ。 すっかり丸くなった彼女の姿に、時の流れと一抹の寂しさを感じた。柔らかい笑顔も素敵だけれど、怪しげなあの笑みも私は大好きだった。 移りゆく時間と環境の中でずっと変わらずにいる方が無理なのだ。自覚はないけれど、きっと私も変わっている。
それでも、私たちを取り巻く全ての物事がゆっくりと変わっていく中で、彼女の書く文字だけは変わらなかった。 すらりと伸びる直線も、緩やかに弧を描く曲線も、昔から見続けてきた私の大好きな彼女の文字そのものだ。
「ねえ、理沙ちん」 「ん? なんだ、泉」 「結婚、するんだねぇ」 「まあ、私もいい年だからな。それとも何か? 私が結婚するのがそんなに意外か?」
筆先から目を離し、私に向かって浮かべたその表情はにやりと不敵に笑んでいる。 あ、懐かしい。なんて言葉が思わず口から飛び出しそうになる。
「えへへ、ばれてた?」 「なんだよ、ホントに意外だと思ってたのか?」 「だって理沙ちんだよー? 桂ちゃんみたいに自由気ままな独身貴族になるのかと……」 「泉ー? 失礼にもほどがあるぞー?」 「あはははっ、ごめんごめん……って、きゃぁぁぁ!? ちょ、顔に墨は止めてよー!!」 「ええい! 今回ばかりは泉が悪い! 父上とお揃いの髭を書いてやるから大人しくしてろ!」 「いやーっ! 止めてよ理沙ちーん!!」
笑いながら私に筆先を向ける彼女は、すっかり昔に戻っているようで。 本気で筆を避ける私もまた、彼女と美希ちゃんの二人に弄られていたあの頃に戻ったような錯覚に陥っていた。 最後に三人で動画を撮ったのは、もう十年近く前のこと。二十八になった自分なんて、あの頃は微塵も想像していなかった。 卒業してもこうしてずっと三人で笑い合えるものだと思っていたのだけれど。やっぱり、難しいね。
「ふむ、我ながら中々の出来だな。遥か高みを目指す髭……忠実に再現できた」 「ううう……理沙ちんに穢された……」 「父上に失礼だぞ。親子でお揃い、微笑ましいじゃないか。なんなら泉の息子くんも……」 「三代揃って同じ髭とか嫌だよ!」
父と私とそれから息子。三人仲良く同じ髭を蓄えた姿を想像して、確かに少し微笑ましい気持ちになる。 彼女の結婚式には家族揃って髭を描いてきてあげようかな、なんて、ひっそりと計画を立ててみた。 髭を生やした私を、彼女は昔みたいにニヤニヤと笑いながら撮影してくれるだろうか。少しばかりの期待が芽生える。
「さて、おふざけもここまでだ。私は仕事に戻るぞ」 「はーい」 「……泉、向こうに手ぬぐいあるから顔拭いとけ」 「んー、なんか気に入っちゃったから暫くこのままでいる」 「そうか。うむ、自分で描いておいて何だけど、その顔で覗き込まれると笑いが込み上げてくるんだが」 「えへへー、自分の行いを悔い改めるのだ! 理沙ちん!」 「なんで偉そうなんだよ」
クスクスと肩を震わせて笑った後、彼女は口元に僅かに笑みを残したまま再び机に向かった。 すっかり乾いてしまった筆先を静かに墨に浸すその姿は、この和室の中で酷く栄えて厳かだ。
「ねえ、理沙ちん」
彼女が筆を動かし始めると同時に、私は彼女を呼ぶ。「ん?」という短い返事は、とても柔らかくて。
「結婚式の招待状、全部手書きにするの?」 「ああ。小さい式だし、本当に仲の良いやつらしか呼ばないからな。せっかくだから、色々気持ちを伝えたいと思ってな。 でも仲良くしてくれてありがとうなんて言える性分でもないから、そう言う気持ちは全部文字に込めたいんだ。 ……まあ、私の綺麗な文字を見て「やべ、理沙すごくね?」とか言われるのが八割方の目的だけど、な」
内緒だぞ、と言って左手の人差し指を口元に当てる彼女は少しばかり照れくさそう。 彼女の本心が前者か後者と問われれば、言わずもがな前者だろう。後者は間違いなく照れ隠しだ。 約二十年来の付き合いともなれば、掴みづらい彼女の本心も大体分かるようになる。 飄々としているようで、周りに興味が無いようで。実は一番周りを見ている。実はすごく女の子。それが朝風理沙という、私の親友だ。
「うん、きっとみんな分かってくれるよ」 「だろ? 特にヒナとか千春とか、絶対びっくりすると思うんだよ」
そう言って彼女はふふんと鼻で笑った。きっと私の言葉の真意には気付いているのだろうけど、彼女は昔から気付かないふりが上手い。 基本的に彼女は平和主義なのだ。ドタバタなトラブルや楽しい騒動は大好きだけれど、心と居場所の平穏を乱される出来事を彼女は酷く嫌う。
例えば私たちが小学生の頃。 モテ期とやらが到来していた彼女に、一人の男子が想いを告げた。 彼女は多分、彼のことが好きだった……と思う。あまり他人と干渉しない彼女が彼には好んで絡みに行っていたし、よく笑っていたから。 けれどその子は当時クラスで一、二を争う人気者で、告白を受けてしまえば必然的にたくさんの敵が生まれることは明らかだった。 だから彼女は「付き合って」の言葉に「どこへ?」と返したそうで。それは酷く典型的でふざけた答え方だが、当時の彼女の気持ちを思うと――。 彼女がこの時、淡い恋心より平穏な居場所を取ったのだと気付いたのは、ずっと後のことだった。 「いやあ、モテる女はつらい!」と本人は楽しげに語っていたものだから、私自身が恋をするまでずっと、これは笑い話だとばかり思っていたのだ。
恋よりも平和な日常を選んだ彼女は、私や美希ちゃんよりもずっと怖がりで。 告白をはぐらかしてからも時折その子を目で追っていた彼女は、誰よりもずっと女の子だった。
だからだろうね、彼女が今の今までずっと、一人きりだったのは。
「……あっ! それ、美希ちゃんの招待状だ」
さらりと書き上げられた宛名を見て、私は声を上げた。白い紙の背面に書かれたもう一人の親友の名前は、未だに少し見慣れない。
「うん、美希のだ。あいつ、妙に小難しい名字のやつと結婚したから書くのも一苦労だ」 「だよねぇ。美希ちゃんも名前書くとき面倒くさいってぶーぶー言ってたもん」 「あー、なんか簡単に想像できるな。ごねる美希の姿」
この場に居ない美希ちゃんの姿を想像して、彼女の口角が僅かに上がる。下がった目尻が、とても優しげだ。
「それにしても、まさか美希に先を越されるとは思ってなかったなぁ」 「美希ちゃん、私は結婚しない! ってずっと豪語してたもんねぇ」 「裏切者ー! って言ってやった時のさぁ、あいつの勝ち誇った顔と言ったらもう……」
彼女はわざとらしく眉を潜めて、腹が立って仕方がないといった表情を浮かべる。 でも私は覚えている。あの時彼女は、私と同じくらい笑って美希ちゃんを祝福していた。
「だが、これで美希と泉とも並んだな。私も明後日から既婚者だ」
書き終えた美希ちゃんへの招待状を丁寧に床へ置きながら、彼女はにやりとほくそ笑んだ。
「理沙ちん」 「んあ?」 「おめでと」
次の招待状を書き始めようとしていた矢先に不意打ちを決めてやると、彼女は目を少し見開いた後、それはもう、柔らかく、可愛らしく、微笑んだ。
「ありがと」
先ほど素直になれない女を自称していた人間だとは思えないほど、真っ直ぐな言葉が返ってきた。 穏やかに細められた目も、優しげな緩い弧を描く口元も、昔の彼女ならこんなに簡単に浮かべることは出来なかっただろう。 大人になったとはこういうことを言うのだろうか、などと考えながら、同い年である彼女の大人っぽさに息を飲んだ。
当の彼女は私が見惚れているのに気付いているのかいないのか、幸せそうに口元を綻ばせたまま筆を進めている。 かつて不真面目の申し子とまで呼ばれた彼女が書いたとは思えない、美しい日本語が羅列された招待状の文面。 大和撫子、なんていう言葉を髣髴とさせる丁寧な文章と文字が、彼女は由緒ある神社の娘であるということを私に再認識させた。 パソコンで印刷したものとは全く違う手書きの温もりと、見え隠れする彼女の意外な一面に、きっと彼女の大切な人たちは息を飲むことだろう。 私が尊敬されるわけでもないけれど、彼女の招待状が人々の手に渡った時のこと想像すると、何故だか誇らしい気持ちになった。
理沙ちんはこんなに綺麗な文字を書く素敵な女の子なんだよ、と、皆に伝えたかった。 特に、あの人へ。
* * *
「……あ」
彼女の筆が書き上げた「綾」の一文字。ハヤ太君? と問いかけようと彼女を覗き込んだ。 伏せられた瞳。真一文字に結ばれた唇。それから、先ほどまで休むことなく動いていたのに、「綾」の字を書きあげた瞬間止まった筆先。 ぽろり、と墨汁が一粒紙の上に滴り落ちた。じわりじわりと白に滲んでいく黒は、何だかまるで。
「理沙ちん、あの……」 「ハヤ太君、かぁ。なんか懐かしいなー」
私の言おうとしていた言葉を聞くまいと、彼女はわざとらしく明るい口調で彼の話を始めた。
「あの甲斐性無しで天然ジゴロのハヤ太君も、もう結婚してるんだよなぁ。人生、分からんもんだな。連絡来たの、五年前だっけ? きっとハヤ太君と結婚した彼女は苦労してるぞー。男は結婚してから暫くが一番油が乗ってモテるらしいからな。 無自覚で女の子を虜にしていくスナイパーのようなやつだからな、ハヤ太君。あの性格からして浮気なんて絶対しないだろうけど、奥さんは気が気じゃないだろうな。 な、泉も分かるだろ? 高校のとき、ハヤ太君好きだったんだしさ」
急に口数の増えた彼女は、懸命に何かを隠している。
「うん、分かるかも。ハヤ太君、本当に女の子の理想像みたいな男の子だったから」 「まあ、顔は貧相だったけどな」
でも、あの優しさは本当に理想的だった、と彼女は静かに言った。 そうだ、彼は、ハヤ太君は、女の子なら誰しも揺らいでしまうような優しさを持った人だった。 「ねえ、理沙ち、」 「あ、もしかして泉、まだハヤ太君のこと好きだったりするか?」 「……ううん、お友達としては大好きだけど、恋愛感情はもうないかな。告白した時、きっちりお断りされちゃったしね。 私は、もう未練はないよ」
私は、ね。
「そっか」
彼女は一言そう言って、再び筆先へと視線を戻した。二十年来の付き合いだ、彼女だって気づいている。私の、言いたいこと。 「じゃあ、次は私が聞いてもいい?」 「……」
返事はない。意外と長い睫に覆い隠された瞳は、きっと震えている。 十年間、彼女は得意の気付かないふりをしてきたのだ。平穏の乱れを嫌う、臆病な彼女は、悲しいほどに彼のことをよく知っていた。 彼を取り巻く人間関係も、彼の人柄も、彼女はきっと誰よりも理解していた。実らぬと分かりながらも根づいてしまった恋心を、彼女はずっと隠し持っていたのだろう。 隠し持っていた彼女の恋心に私と美希ちゃんが気付いたのは、確か三年生の夏ごろだったか。
「理沙ちん、ハヤ太君のことさ、」 「――泉」
酷く静かな、聞いたこともないような強い声で、彼女が私の名前を呼ぶ。思わず口を噤んだ。 彼女の顔を見据えれば目に飛び込んでくる、情けなく下がった眉尻と、薄く細められた切れ長の目。 怒りとも悲しみとも取れないその表情は、まるで笑っているようだ。泣いてしまえれば楽なのにね、と彼女の震える睫毛を見て思う。
「聞かないでくれ、やっと枯れた想いなんだ」
本当に? なんて問いかけるほど私も野暮ではない。 何より彼女の酷く悲しげな笑みは、私のお喋りな口を縫い付けるのに十分すぎるほどの威力があった。 彼女の想いは枯れたのだ。だからこうして彼女はやっと、前に進めたのだ。それでいい。それで十分。
「……もしかしてさ、泉、ずっと知ってた?」 「そりゃあ、長い付き合いだもん。美希ちゃんも気付いてたよ」 「うわー、私そんな分かりやすかったか……。なんか恥ずかしいな」
筆をおいて照れくさそうに後頭部を掻く彼女を、私は出来るだけ穏やかな表情を浮かべて眺めていた。 そして思い出される、あの夏から今日までの日々。
あの夏の日を境に、ハヤ太君を見る彼女の目が変わった。 その日までは、恋人がいながらも色んな女性関係のトラブルに巻き込まれる彼を、三人でからかっていたのだ。 すでに告白を澄ませて断られていた私はその頃にはもう立ち直っていたし、彼女だって例の日までは彼に明確な恋心は抱いていなかったのだと思う。 恋人と仲良く手を繋ぐ彼の姿を、三人で冷かして、三人で祝っていた。それが私たちの日常だった。 だからすぐに分かったよ、彼女の心境の変化。冷やかす言葉が時折詰まって、恋人と並んで歩くハヤ太君の後ろ姿から目を逸らすことが多くなって。 夏休みを直前に控えた、三年生最後の夏。校内のそこら中で咲き始めた朝顔と同時に、きっと彼女のずっと奥に仕舞ってあった恋心も花開いてしまって。 卒業式間近の彼女なんて、もう見ていられなかった。一人では彼に声すらかけられなくなった彼女の姿は、切ないなんてものではない。 それでも私たちに気付かれまいと、日常を乱すまいと、必死に普通を貫く彼女の姿に、私も美希ちゃんも声をかけることが出来なかった。 恋人のいる彼に想いを伝えろなんて言えるわけもない。かと言って下手に同情すれば、誰よりも周囲に敏感な彼女はきっとさらに傷つくだろう。 あくまで平和な日常を。変わらない日々を。怖がりの彼女を少しでも安心させる為に、私たちは彼女と同じように気づかないふりを続けた。 それが友人として最良の策だったのかは分からないけれど、私たちにはそうすることしか出来なかった。それが良いと信じていた。 彼女が吐き出したくなった時、全てを受け止めてあげればいいのだと、自分に言い聞かせていた。 そんな日は、とうとう来なかったけれど。
静まり返った和室の中に、ぴちゃりと水の音が響く。彼女が筆を墨汁に浸した音だ。 再び真剣な眼差しで「綾」とだけ書かれた紙を見据えはじめた彼女を見て、もうこの話は終わりなのだと感じた。 最後まで本心を伝えてくれなかった彼女に対して少しばかりの寂しさを覚えながら、私は彼女の顔から筆先へと視線を移した。 しかし、筆は一向に動かない。
「……あの日な、朝顔の観察をしてたんだ」 「へ?」 「小学生の頃、泉たちと適当に巻いた朝顔の種が、未だにその場所で咲いてることに気付いてさ。 なんか懐かしくて、ずっと見てたんだ。その日はすごく日差しが強くて、ものすごく暑かった。それでも負けじと、私はその場にしゃがみ込んでたんだ。 そのうち頭もくらくらしてきてさ。ああ熱中症になるかもなぁ、なんて他人事みたいに思ってた時に、」
急に語りだした彼女の口調は酷く淡々としている。感情を込めまいと、必死に無表情を装っている。 泣けない彼女の代わりに、彼女の握る筆先からポタポタと墨汁が滴り落ちて白い紙に染みを作っていく。 その様は、なんとも物悲しい。
「何処からともなくハヤ太君が現れてさ。さすが執事、神出鬼没だよな。それで、言うんだよ、「熱中症になりますよ」って。 それで、教室に戻ろうって手を伸ばしてきたんだけど、私、その時汗だくでさ。汗まみれの手でハヤ太君に触りたくなくてさ。 そしたらハヤ太君、急にハンカチ取り出してな、それでどうしたと思う? 普通、汗ふいてくださいって渡すだろ? なのにあいつ、私の頭にそのハンカチ乗せるんだよ。髪の毛黒いから暑いだろ、とか言ってさ。もう、アホかと思った。 でもそのズレた気遣いがさぁ、なんか、嬉しくて」
僅かに綻んだ口元。綺麗だな、なんて場違いな感想を抱く。
「でさ、ハヤ太君、いきなり言うんだよ」 「何って?」 「朝顔みたいですね、って。地面に広がったスカートが、花弁みたいだって。発想が乙女だよなぁ、ほんと」
くつくつと喉の奥で笑う。彼女の内面が滲み出たその柔らかい笑みこそ、まさに乙女だと、私は思う。
「にははっ、なんかハヤ太君らしい」 「だろ? ……それで最後の一言が、これまた彼らしいんだ」 「ん?」 「綺麗ですね、だって」 「……理沙ちんのことを?」 「分からん。私は朝顔見てたし。でもな、すっごい優しい声だったんだ。あの声、今でもはっきり覚えてるんだ。 馬鹿だよなぁ、私。自分に言われたのか、朝顔に言ったのかも分かんない言葉にさ、こんなに――」
そこで彼女は口を噤んだ。筆先が僅かに震える。再び滴った墨汁が紙を濡らす。
「……なあ、泉」 「なあに、理沙ちん」 「多分、私、あの時から、」 「うん、分かってるよ」
言わなくてもいい、分かっているから。そう言って私は彼女の背を優しく撫でた。 微かに震える彼女の背の、なんと弱々しいことか。
「夏になると、今でも思い出すんだ。もう十年も経つのに、忘れられないんだ。 今年も、あと少しで夏が来る。蝉が鳴く。朝顔が咲く。きっと私はまた泣いてしまう。 他に大事な人が出来たのにさ、酷いやつだよな、私。でも、朝顔はさ、忘れられても咲くんだよ。
枯れても枯れても、種を付けて、次の夏には必ず咲くんだ」
そう締めくくって、彼女は再び口を堅く閉じた。見据える紙は、垂れた墨汁ですっかり斑な水玉模様。 暫し滲んだ水玉模様を、二人して眺めていた。そして、彼女のふふ、という小さな笑い声で私はやっと我に返った。 ちらりと見上げた彼女は、優しい顔で笑っている。
「……書き直しだなぁ、これは」
そう言って、彼女は乱暴な手つきでその紙をぐしゃりと丸めた。潰れた綾の文字に、何とも言えない侘しさを抱いた。
「理沙ちんは強いね」
丸めた紙をぽいと放り投げた彼女に、私は言う。彼女は優しい笑顔のままで、私を見た。
「本当に強かったら、早々に花なんて引っこ抜いてるさ」
静かな口調でそう言って、彼女は真新しい紙を一枚取り出した。それを机の上に置いて、再び筆を構える。 そして辺りに漂う雰囲気を吹き飛ばそうと、わざとらしくふふんと鼻を鳴らした。 気丈を装って懸命に日常を取り戻そうとする彼女の姿が、酷く痛々しく見えた。
「綾崎ハヤテ。思いっきり綺麗な文字で書いてやろうじゃないか。そして私を見直すがいい!」
軽く叫ぶと同時に、迷いなく進み始めた筆先の力強さ。滑らかな筆の動き。それらを只々目に焼き付けていた。 未練の一つも感じさせないその動きは、見ていてとても心地が良い。 書きあがった『綾崎 颯』の文字は、彼女の宣言通りそれはそれは美しい文字で。
「どうよ、完璧な出来だろ?」 「うん、綺麗な字」 「だろ! 再びハヤ太君が私にゾッコンになるんじゃないかと心配になるほどの完璧さ!」
高らかと自慢げに笑う彼女は、高校時代に戻ったよう。 再認識してしまった彼への想いを、ふざけた言葉で覆い隠すその姿もまた、あの頃とよく似ていて。 だから私も同じように。
「にははっ、それはないない」 「なんだとー! 真面目ムードの最中、ヘンテコな髭生やしやがってー!!」 「変な髭って……! 書いたの理沙ちんでしょー!」
今までの会話を無かったことにでもするように、私たちは馬鹿みたいに声をあげて笑い合った。 彼女の書いた美しい文字が溢れる部屋の中で、ひた隠しにされた彼女の心が一瞬だけ溢れた空間の中で。 私たちはいつものように何も知らないふりをした。 机に置かれた綾崎颯の文字だけが、ひたすら彼女の本心を語り続けていた。
遠くで蝉の声が聞こえる。 今年も夏がやってくるのだ。 彼女は今年も、彼を想って、朝顔の傍で泣くのだろうか。
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