そろそろギャグが書きたいけど書けない ( No.41 ) |
- 日時: 2013/05/01 22:12
- 名前: 餅ぬ。
「ねーねー。私って、ハヤ太君のことが好きだったんだっけ?」
ベッドの上に寝転がりながら漫画を読んでいた泉が、ふと思い出したように美希と理沙の背中に向かって問いかけた。 その瞬間、泉の転がるベッドに寄り掛かってゲームをしていた理沙の手がふと止まった。同じく、泉に背を向けてノートに何かを書いていた美希の手もぴたりと止まる。 何やら良くない空気を感じ取った泉が、心配そうに二人の背中を交互に見やる。理沙の持つPSPの画面には、操縦者を失い巨大なモンスターに跳ね飛ばされて宙を舞う可哀想なキャラクターが映っている。 ゲームの音楽だけが響いている泉の部屋の中。先ほどまでの個々が好き勝手に過ごしていた穏やかな空間は、ほんの一瞬で不穏な雰囲気へと変貌してしまった。
「……美希ちゃん、理沙ちん?」
私、何か変なこと言った? と、泉が再び二人に問う。美希も理沙も返事を返せないまま、自分の手元を眺めつづけていた。動かないキャラクター、書きかけのノート。全てが止まっていた。 何故こんな雰囲気になってしまったのかは分からないけれど、原因は自分の一言であることだけは理解していた。だからこそ、何とか雰囲気を変えたくて、泉は辺りを見回して一生懸命話題を探した。 そんな時彼女の目に飛び込んできたのは、いつもと違う美希のカチューシャだった。淡い水色の小さなリボンがちょこんと付いたそのカチューシャは、泉が今までに見たことがない可愛らしいもの。 あまり可愛らしいものを好まない美希がそんなカチューシャを付けているのが酷く意外で、思わず泉は俯いたままの美希の背中に話しかけた。
「あっ、美希ちゃんのカチューシャ可愛い! いつ買ったのー?」
泉らしい明るい口調。その問いかけはどこまでも純粋無垢で、邪念の欠片も含んでいない。ふざけてもいない。だからこそ、美希も理沙も悲しかった。 ベッドから降りて美希のカチューシャを物珍しげに観察し始める泉。指先で水色のリボンを突きながら、可愛い可愛いと連呼してニコニコと笑っている。
「なんだか美希ちゃんがこういうの付けるの珍しいね!」 「……似合わないか?」 「んーん、すっごい可愛い! 私の好みにドストライクだよ!」
そう言って一層笑顔になった泉を横目で眺めていた美希は、彼女にばれないように小さなため息を吐いた。ベッドに寄り掛かる理沙もまた、喉元まで出かかっていた言葉をため息と共に飲み込んだ。 泉が可愛いと褒めちぎる美希のカチューシャは、お洒落に興味を示さない美希を見かねた泉本人が美希の誕生日に贈ったものである。 一番可愛くて美希ちゃんに似合うの選んできたよ! と、鼻高々にカチューシャを手渡す泉の笑顔を、美希も理沙もしっかりと覚えている。しかし、泉だけがそのことを覚えていない。 泉は美希がそのカチューシャを付けてくるたびに、まるで初めて見たかのように可愛いと褒めるのだ。実際、泉にしてみれば贈った記憶も見た記憶も無いので初めて見ることには違いないのだが。 彼女がカチューシャを無邪気に褒めるたび、理沙も美希も笑いながらも酷く悲しい気持ちになった。けれど、仕方のないことだとも知っていた。
「えへへー、私もこんなヘアゴム探してみよっかなー。美希ちゃんとお揃い!」
ニコニコと微笑む泉には、記憶がなかった。
「……あ、それでさ、私って、ハヤ太君のこと好きだったんだっけ?」 やっと話題が逸れたと二人が安堵したのもつかの間で、泉は相変わらずの無邪気な調子で二人に再び問いかけた。美希と理沙は、ほぼ同時に眉を潜めた。 この質問は泉にとって他愛もない会話の一つなのかもしれない。しかし泉のかつての本心と現状を知る二人にとって、その質問は非常に答えにくいものだった。
泉には、記憶がない。ない、というよりは度々無くなると言った方が正しいかもしれない。昨日は覚えていたことでも今日には忘れていることもあるし、今日忘れていたことを明日思い出すこともあった。 彼女の忘れるものはとても大事な物であったり者であったり、無くてはならない感情や感覚であったりと様々だが、当の泉からしてみれば初めからなかったという気の持ちようなので、気楽なものである。 しかし、困るのは彼女の身近な人間だ。一週間前、泉に存在を忘れられた美希は悲しさに耐えきれなくて泣いてしまったし、一昨日は理沙への友情を忘れて妙に余所余所しくなり、理沙が柄にもなく落ち込んだりもした。 それでも二人が泉の傍に居続けるのは、大切な友人であるからに他ならなかった。大切な友人であるからこそ、忘れられても傷つけられても、変わらぬ笑みを浮かべる泉に寄り添い続けてきた。 美希も理沙も、瀬川泉という人間が大好きだったのだ。
だからこそ、泉が時折呟くこの質問は、二人にとって苦く悲しい問いかけだった。
* * *
泉が記憶を失うようになったのは、美希にカチューシャを贈った三日後のこと。九月十二日のことであったと、美希と理沙だけが覚えている。
その日の泉はあからさまにソワソワと落ち着きがなく、授業中も何やら独り言を呟いては顔を赤く染めていたりした。そんな面白そうな泉の様子を美希と理沙が見逃すわけがなく、昼休みに何事だと二人揃って問い詰めた。 問い詰められた泉は最初こそ顔を真っ赤にしながら「何でもないよー」と下手な誤魔化しをしていたが、やがては二人のしつこい追及に値を上げて照れ臭そうにポツポツと語り始めたのだ。
「あのね、私、今日すっごい良い夢見たの。 私がウエディングドレス着ててね、美希ちゃんとか理沙ちんとか、あとヒナちゃんも、皆がおめでとー! って祝ってくれてて。 それだけでも幸せななのに、隣を見たら、その、相手がね……相手が、は、ハヤ太君だったの……!! それでびっくりして飛び起きちゃったんだけど、起きた後もなんだかすごく幸せで、今日だったらなんでも上手くいくような気がして……だからね、」
だからね、の後に続いた言葉は、今でも美希と理沙の耳にこびり付いて離れない。耳まで真っ赤に染まった泉の幸せそうな笑顔と共に。
「私、ハヤ太君に告白しようと思うのだ!」
照れ臭そうに笑いながらも、その泉の目は決意と希望に満ちていて、いつものようにからかえるような雰囲気ではなかった。 そんな泉の決意を聞くと、美希も理沙も一言「頑張れよ」とエールを送るだけで、余計なことは何も言わなかった。二人とも、泉の幸せだけを願っていたのだ。
そして時間は流れて放課後。ハヤテに泉の手伝いを押し付けてさっさと帰るふりをして、美希と理沙は廊下に隠れていた。もちろん泉の告白の邪魔をする気は毛頭ないが、やはり好奇心には逆らえず、こっそりと見守ることにした。 残された泉とハヤテは、机に向かいながらも他愛もない会話を交わしている。ほんのりと赤く染まった泉の頬に、鈍感男はもちろん気付いていなかった。 そしてふと会話が途切れた瞬間、泉が深く息を吸い込んだのを二人は確かに見た。そして、泉がハヤテの名を一際大きな声で呼んだ。
「ハヤ太君! その、大事な話が――」 「あ、そうだ! 忘れてた……!!」
まるで泉の言葉に被せるように、ハヤテが叫んだ。そして焦ったように時計に目をやるや否や、非常に申し訳なさそうな表情を浮かべて泉に告げた。
「ごめんなさい! 泉さん! 今日はお嬢様との大切な約束がありまして……。お仕事の途中ですけど、本当にすいません!」 「えっ、えっ、あの、ハヤ太く……」 「本当にごめんなさい! また今度必ず、お手伝いしますので! 今日はお先に失礼します!」 「ちょ、待って! ねぇ、ハヤ太君!」
泉が立ち上がったころにはすでにハヤテは自慢の俊足で教室の外へと飛び出していた。風を巻き起こして廊下を駆け抜けていくハヤテの背中を、美希と理沙は非常に苦々しい表情で見送った。 しかしあまりにも突然のことでパニックを起こしていた泉は、追いつけないと分かっていながらも彼の見えない背中を追いかけようと駈け出そうとした。 告白の途中だった。今までの想いを全て今ここで吐き出そうと、朝からずっと決めていたのだ。親友たちにも暖かく見送られて、これ以上ないほど気持ちが高ぶっていたのに。 故に、置いていかれた真実を受け止められなかった。諦めきれなかったのだ。
その焦りは足へとあらわれた。運動神経に乏しい泉が急に駈け出そうとしたところで、足が言うことを聞いてくれる訳がない。椅子から腰を上げて一歩を踏み出した途端、案の定泉は自分の足に躓いた。 ハヤテのことで頭が一杯になっていた彼女が受け身なんて取れるはずもなく、そのまま顔面から床へと倒れ伏した。 がんっ! という鈍く痛々しい音が廊下まで響き渡り、身を隠していた美希と理沙は思わず教室へ駆け込んだ。 ドアを開けた途端飛び込んできたのは、床に倒れている泉の痛々しい姿。暫し唖然としながら倒れた泉を二人で眺めていたが、声も上げずピクリとも動かない泉に異変を感じ、理沙がとっさに駆け寄った。 そして泉を抱き起しながら、彼女の名前を呼ぶ。しかし泉は瞼を固く閉じたまま、何の反応も示さない。理沙と美希の顔から徐々に血の気が引いていく。
「……泉が死んだ……!」 「馬鹿! 冗談でもそんなこと言うな! 泉! 大丈夫か!?」
二人で懸命に名前を呼んだ。すると、泉は小さな唸り声をあげながら、理沙の腕の中で身じろぎをした。 そして二人に見守られながら薄らと目を開けて、呑気に一言。
「おでこが痛い〜……」
その弱々しくも間抜けな言葉を聞いて、美希と理沙は安堵の息を吐いた。丈夫な奴だ、と美希が笑いながら泉の頭を撫でたその瞬間だった。 赤くなった額を摩りながら、泉はぽつりと呟いたのだ。
「もー、置いてくなんて酷いよねぇ。 ――綾崎君」
泉があまりにも自然に、けれど酷く聞き慣れない呼び方をするものだから、美希も理沙も自分の耳を疑った。怒っているのかとも思ったが、涙目で笑う泉の姿からそんな気配は微塵も感じられない。 あくまで普通に。今までそう呼んでいたかのように、彼女はハヤテの名を「綾崎君」と呼んだのだ。 きっと聞き間違いだ、と二人とも自分に言い聞かせるが、一度抱いた違和感はそう簡単には拭い去れない。そして恐る恐ると、美希がもう一度確認するように問いかけた。
「……綾崎君?」 「うん、綾崎君」 「ハヤ太君じゃなくて?」 「にはは、ハヤ太君なんて呼ばないよー。そこまで仲良くないもん」
泉のその一言に、二人は顔を見合わせた。 何かが、おかしい。
「……えと、泉? どした?」 「どしたって……何が? 美希ちゃん?」 「だって、お前、ハヤ太君のこと……好きだったんだろ?」 「え?」
泉が首を傾げる。丸く見開かれたその目には、純粋な疑問の色だけが浮かんでいた。 何かが、おかしい。それは確信に変わりつつあった。しかしその異変を信じたくない一心で、理沙が場違いに明るい口調で泉に話しかける。
「なんだ、泉ー。告白遮られたのがそんなに腹立ったのか? まあ、ハヤ太君の間が悪いのなんていつものことだろ。大目に見てやろうじゃないか」
理沙の乾いた笑い声が、奇妙な静けさに包まれた教室内に響き渡る。しかし、それに釣られて笑ってくれる者はいない。 泉はさらに状況が把握できないといった様子で、口をポカンと開けるばかり。そんな泉を眺める美希の心配そうな横顔は、一面が不安の色に染まっていた。 そんな美希の様子に気づかないまま、泉は傾げた首をさらに大きく傾けて理沙に問う。
「……告白? 誰が?」 「いや、だから、泉がハヤ太君に……」
理沙がそう言うと、泉は眉を潜めて困ったように笑って見せた。それは美希たちに悪戯をされたときや自分の悪戯が失敗したときに見せる、酷く見慣れた泉の笑顔だ。 その笑顔を向けられるや否や、美希も理沙も安心したように強張っていた顔を綻ばせた。性質の悪い悪戯を、とほぼ同時に心の中で呟きながらも、二人とも心底嬉しそうに胸を撫で下ろしていた。 さて、そろそろ泉の種明かしが始まるだろう。これだけ心配させられたんだ、デコピンの一つや二つお見舞いしてやろうか。そんなことを考えながら、美希と理沙は泉の言葉を待つ。 けれど、いつもの困り顔を浮かべる泉から放たれたのは、二人の期待した言葉とは真逆の言葉だった。
「あははっ! もー、理沙ちん! 変な冗談止めてよー! 告白なんてするわけないよ! だって私、綾崎君のこと全然好きじゃないもん」
泉に表裏がないことは、美希と理沙が一番よく知っている。その素直さと純粋さが彼女の何よりの美徳であり、泉が泉たる所以でもあるわけで。 いつもの笑顔といつもの口調で話す泉のその姿に、嘘偽りなどは全く感じられない。泉は心の底から、当たり前のように「好きじゃない」と口にしたのだ。 美希も理沙も只々目を丸くして、ハヤテへの恋心を当たり前のように否定する泉を眺めるしかなかった。そんな二人を、泉は可愛らしく小首を傾げて見つめ返している。
「二人とも驚いた顔してどーしたの? なんか変だよ?」
変なのは泉の方だと告げたかった。けれど、二人の口からその言葉が零れることはない。口を堅く噤んで、言葉を飲み込んだ。 泉は至っていつも通りなのだ。笑い方も話し方も美希たちも向ける感情も、全てがそのままなのだ。おかしいのはたった一つだけ。
「……なあ、泉」 「ん? なあに、美希ちゃん」 「泉にとって、綾崎ハヤテってどんな人だ?」 「んー……。あんまりお話した記憶もないし……よく分からないなぁ」 「本当に、自分が彼をどう想ってたか、分からないのか?」 「うーん……印象があんまり……。でも良い人だよね!」 「……じゃあ、好きか?」 「あーっ! 美希ちゃんまで! だからね、綾崎君は大切なクラスメイトだけど、好きとかそんなのはないよ! 泉、好きな人なんていないもん!」
――泉は、ハヤテへの恋心を失くしていた。おかしいのは、たった一つ、それだけだった。
「そっか……、うん。大丈夫、きっと大丈夫。な? 泉、美希」 「え? 何が大丈夫なの?」 「ああ、大丈夫だ。多分、漫画とかでよくある記憶の混濁ってやつだろう。明日になればきっと戻ってるよ、なぁ、泉」 「え? え? 戻るって、何が? 私、なんか変?」 「大丈夫、明日には治るから。大丈夫……だよな、うん……」
まるで呪文のように「大丈夫」を繰り返す二人を、泉は訳も分からず眺めていた。忘れたことさえ忘れているから、自分が大切な感情を失ってしまったなんて思ってもいない。 ふいに床にぶつけた額がひりひりと痛んだ。泉は少し腫れた額を撫でながら、二人がこの怪我のことを話しているのだと勝手に解釈した。 大丈夫、大丈夫、と誰にでもなく呟き続ける青ざめた二人に向かって、泉は一人、朗らかに笑って、
「だいじょーぶ! 私の頭は丈夫だから、絶対明日には戻るよ!」 明るい笑顔が、二人の不安を煽った。治らない、そんな嫌な予感が、美希と理沙の脳裏に過ぎった。
――その日を境に、泉は色々なものを忘れるようになった。
* * *
初めて記憶を失った次の日、泉は予告通りハヤテへの恋心を思い出していた。けれど、その代わりに雪路のことを忘れていた。 雪路のことを忘れた次の日、泉はやっぱり雪路のことを思い出していた。そして、その日は自分のお気に入りのシャーペンの存在を忘れていた。 シャーペンの存在を忘れた次の日、泉はシャーペンの存在を思い出す代わりに、笑顔を忘れていた。一切笑わない彼女を見て、クラス中が騒然としたのは記憶に新しい。
悲しいという感情を忘れたこともあったし、熱い(暑い)という感覚を忘れたこともあった。泉の忘れるものは実に様々で、病院へ行っても理由も原因も分からなかった。 けれど忘れていたということさえ忘れてしまう彼女にとって、その記憶の欠落は特に気にならないことらしく、周りが頭を抱える中で泉一人がニコニコと笑っていた。 当事者がそんな調子だから、周囲の人々は彼女が記憶を失うということを気に留めなくなった。本人が楽しそうならそれでいい、と勝手に納得する人が少しずつ増えていった。 けれど彼女の身近にいる人たち、特に美希や理沙は、いつまでも泉の記憶の消失に慣れることは出来なかった。 長年彼女と時間を共にしてきた彼女たちにとって、泉の忘れる記憶全てが、自分たちの知る泉の一部だったのだ。
泉が何かを忘れるたび、泉の一部が欠落していくようで、酷く悲しかった。
* * *
そして、今現在。
「ねえねえ、美希ちゃん、理沙ちん。私、ハヤ太君のことが好きだった?」
純粋な疑問からそんな質問を二人にぶつける泉。規則性のない記憶の喪失は、時折泉に奇妙な忘れ方をさせる。 ハヤテへの恋心を完全に忘れてしまうときもあれば、逆に恋心が嫌悪感へ変化するときもある。時には恋心だけを覚えていながら、ハヤテの存在を忘れてしまうときさえある。 そして、今のように、自分がハヤテのことが好きだったか嫌いかだったか分からなくなってしまうときも。 何か特別な想いを抱いているということは、何となく泉本人も分かっているようで、その感情が何なのか、自分のことをよく知る二人に問いかけるのだ。
そのたびに、二人は悲しそうな笑みを浮かべながら、いつも同じ答えを泉に返す。
「うん、泉はハヤ太君のことが好きだし、ハヤ太君も泉のことが好きだよ」 「え!? ハヤ太君も?」 「うん、両想いだ。一か月前に、告白成功しただろ」
そう言う美希の顔は俯いていて、表情を伺い知ることは出来なかった。ただシャーペンを握る右手が、微かに震えていた。
「そっかー。私、ハヤ太君と付き合ってるのかー」
驚いた様子も特別嬉しそうな表情も見せることなく、泉は納得したように頷いた。きっと彼女が僅かにでもハヤテへの恋心を覚えていたのなら、頬を染めるなり嬉しそうに微笑むなりのリアクションを見せたのだろう。 けれど、今日の泉はハヤテへの恋心を忘れている。間の悪い彼に何度も告白を遮られながらやっと想いを伝えたことも、様々な困難を乗り越えて実らせた恋であることも、今の泉はすっかり忘れていた。 覚えているのは、ハヤテへのよく分からない特別な感情。そんな曖昧なものだけ。
「じゃあ、この感情は好きってことだね」
そう言って泉はにはは、といつものように笑った。今の言う泉の好きには、何一つ重みがない。ただの確認行為である。 そんな軽い泉の言葉を聞くのが、彼女の今までの苦労を知る美希と理沙にとって何よりも苦しかった。
「泉、ちゃんと覚えてるんだぞ」 「ん?」
理沙がゲーム画面を見つめたまま、静かな声で言う。
「ハヤ太君が好きだってこと」 「うん! だいじょーぶ! 忘れないよ!」
そう言って元気よく親指を立てる泉の姿を、二人は直視できなかった。彼女がその感情をいつか必ず忘れることを、二人は誰よりも知っていた。 何度も泣いて何度も挫折しながら、ハヤテへの想いを一途に貫き通してきた泉が、簡単にその感情を忘れてしまうのが何よりも悲しかった。 「でも泉は忘れっぽいからなあ」
あくまで自然に、美希はそう呟いた。そして書きかけのノートを閉じ、そのノートを泉に差し出てにこりと微笑んだ。 泉は促されるがままノートを受け取り、淡い桃色の表紙をまじまじと眺める。その表紙には、美希の几帳面そうな角ばった文字でこう書かれていた。
――『泉とハヤ太君の思い出ノート』
「ハヤ太君が好きか嫌いか分からなくなったら、それを読むといい。私と理沙が、泉から聞いた惚気話をまとめたものだ」
そう言って、美希と理沙は目を細めた。笑っているとも泣いているとも取れるその表情を、泉はどう受け取ったのか。
「……ありがと、美希ちゃん。大切にするよ」 「うん。大切に、ね。また泉から惚気話を聞いたら、そのノートに書き加えるよ」
きっと泉は忘れてしまうだろうから、と泉には聞こえない声で呟いた。 ノートをぱらぱらと捲る泉は、にっこりと笑ってる。少しだけ頬が赤く染まっているのは、知らない自分がそのノートの中でハヤテといちゃついているからだろう。 そしてノートを静かに閉じて、頬の赤をほんのりと残したまま、泉は美希と理沙を交互に見る。そして、ベッドの下から大きな箱を取り出して、そのノートを大切そうにしまった。 箱の中には今までに美希と理沙から貰った、色々な思い出と感情を書き残した記憶(ノート)が詰まっていた。記憶を失うようになってから今日まで、美希と理沙は少しずつ泉との思い出を書きだしてきたのだ。 そんな思い出の記憶が入った箱を、泉は大事そうにぎゅっと抱きしめながら、消え入りそうな声で言った。
「忘れないよ。大切な思い出だもん」
忘れたくないよ、と呟く泉の声は、僅かに涙声だった。 そんな泉の頭を、美希が優しく撫でる。理沙もゲームを床に置いて、微かに震える泉の肩に手を添える。 そして、酷く優しげな、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべて、泉に言う。
「大丈夫、私たちも忘れないよ」
私たちが全部覚えていてあげる、と二人は何度目になるか分からない約束を口にした。
【忘れないよ】
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