Re: そして朝風と寄り添うように ( No.4 ) |
- 日時: 2015/05/30 14:55
- 名前: ひよっくー
- どうして僕のこと、嫌いにならないのさ。
僕が三千院家の執事に戻ってから、二ヶ月が過ぎた。 僕がこの屋敷の敷居をまたいだあと、どんなことがあったのかは省略させていただく。 熱烈な複数のお説教と、ささやかな数の強烈な暴力と、膨大で盛大で壮大なお祝いが、僕を迎え入れてくれた。と、その程度の描写に留めさせていただきたい。 僕は滞りなく執事に復帰し、毎日のように彼女と話をしたり、お嬢様の漫画を手伝ったり、尋ねてくる友人や知り合いとの思い出話に花を咲かせ、今の彼ら彼女らがどんな風に生きているのかを聞いては、過ぎた時間の流れに思いを馳せた。 穏やかな日々だと思う。怖いくらいに幸せな。 「悩みは解決したようだな」 幽霊神父がまた姿を見せたのは、そんなある日のことである。実に三年ぶりの再会になるのだけど、幽霊だけあって外見にまったく変化というものがない。大人らしくなったり、頼れる大人になりつつある他の人を何人も見てきただけに、今までになく、現代に戻ってきたのだという実感が湧いた。 「……なんだか久しぶりですね」 「声優ライブを回るために全国行脚に出ていたからな。会場に行くたびにエクソシストや霊能者とかち合ってしまい、君が帰ってきたところに居合わせることは出来なかったのだよ。いやはや、血なまぐさい死闘だった……」 「この国の霊能者は伊澄さん以外あなたの同類なんですね……」 というか、これはとっとと祓われるのが一番自然なのではないだろうか。 「わたしが渡した十字架は、まだ持っているようだな」 「ええ、まあ。吸血鬼にはついぞ会いませんでしたが」 「十字架はヴァンパイアハンターのためのものではないよ。神を身近に感じるための、一種の象徴だ。特に、罪の意識に苛まれている人間には必要なものなのだよ」 「そんな風に見えますか?」 「見えるとも。詳しくは聞かないがね」 時々、幽霊には僕の思考が全て筒抜けなのではないかと思うことがある。それとも死んでさえ意識を保ち続けるような存在だからこそ、人を見る目も鍛えられているのだろうか。この幽霊神父に限ってそんなことは……、とは思うものの、確かめる気にはなれない。 結局、十字架も神様も、僕を助けてくれることはなかった。 だけど、信じるものが全て救われるということもないだろう。きっと、信仰というのは気休め程度のものなのだ。僕は自分自身でも気づかないうちに、その気休めに救われていたのかもしれない。結局、ずっと肌身離さず持っていたのだから。 「まあ、気休め程度にはなりましたよ」 そんなことを言うと、神父は苦笑いを浮かべたのだった。
僕が鷺ノ宮家を訪れたのは、季節が冬へ移り変わる準備期間中のことだった。 風情のある庭園と、純和風の広い屋敷。なんだかひどく懐かしい気分になりながら門をくぐり、出迎えてくれた執事の方に、広い畳敷きの一室に通される。 静かだ。 執事に戻ってからの二ヶ月間、伊澄さんが僕の前に姿を見せることはなかった。 責任を感じているのだろうか。だとしたらお門違いというものである。僕らは出来ることをやろうとしたし、決断したのは僕だ。 それを置いても、彼女には聞きたいことも、話したいことも数え切れないほどある。 お礼もその一つだ。理沙さんを僕の元まで連れてきてくれたのは、伊澄さんだと聞いている。それによって僕は自分を取り戻すことが出来たのだし、逃げ出した僕を捜索するのにも、彼女は協力を惜しまなかったと聞く(このあたりは理沙さんから後に聞いた話である)。お嬢様や理沙さんをはじめとしたみんなを守れたのも、彼女がいなければどうにもならなかった。いくら感謝の言を述べても足りないくらいなのだ。 そんなことを考えている僕の背後で、ふすまが開く音がした。 振り向いた先には、二人の女の子の姿があった。伊澄さんと、もう一人。 「え、あの……?」 言葉をなくす僕の前で、伊澄さんはぺこり。 「お久しぶりです。色々と忙しくて、お会いする機会がありませんでしたね」 いえ、そうではなく。 三年ぶりに正気で対面する彼女は、もはや少女という枠から抜け出しつつある、楚々として上品な一人の女性である。が、周囲を意に介さないマイペースな姿勢は相変わらずらしい。 「そ、そうですね。僕のほうもやることが多くて、これまで顔も出せませんで……。ところでそちらの方は……」 見覚えのある女性だ。年頃は二十台の中盤といったところだろうか。薄い茶色の髪を長くして後ろで一本に縛り、ノンフレームのメガネの奥には深い知性が覗く。カチューシャも、優しい笑顔もない。しかし間違いない。 「とぼけなくてもいいわ。わたしのことは覚えているでしょう?」 「……忘れるはずがないでしょう」 言葉はどこか冷たく、突き放すようで、僕の記憶とは似ても似つかない。だけど多少年をとったって、その声を忘れるはずがなかった。 僕がこめかみを撃ち抜いた、あの女の子だった。 「……わたしとしても、色々とあなたには話したいことがあるんだけど、まずは名乗ったほうがいいでしょうね。わたしは……」 「九条美鈴さん、ですよね」 その瞬間の彼女の反応ときたら、いっそ痛快なほどに劇的だった。 「い、伊澄ちゃん!? わたしのことは知られてないって……」 「そのはずですが……」 実際、僕が未来において彼女の名前を知る機会はなかった。まあそれも当然だ。ずっとスコープ越しに覗いていただけなのだから。外見は覚えられても、声を直接聞くのはこれが初めてと言っていい。しかしそれも「現実においては」という枕詞をつければの話である。 「実を言うと、今日ここに来たのはその相談もあるんです。――僕は自分を取り戻してから二ヶ月間、毎日、なくなったはずの未来の可能性を見てきました。あなたが僕に見せ てくれたのと、同じものですよ」 伊澄さんが呆れたように顔をしかめる姿を、僕は初めて見た。 怒った顔や澄ました顔、笑顔は何度か見たけれど、基本的にいつだって無表情な女の子なのである。 「何故もっと早く言ってくれなかったのですか。わたしのサポートなしでその状態にあることが、どれだけ危険か……。わかっていれば対応したのに。……いえ、今からでも遅くはありません。申し訳ありませんが、あなたのことは後日に。わたしは今からハヤテさまの回復の手立てを……」 「いえ、その必要はありません。実は三日前から見てないんですよ。その夢」 予想外の事態に飲み込まれないよう、少しだけ気を張る。ここから先は言いづらいことなので、隠すことなく全てを話してしまうことにする。 「簡単に説明します。僕が見ていたのは、僕が未来で放棄した可能性です。つまり僕がそこの九条さんに銃を向けず、原因を探ってテロを未然に防ぐために動いた結果を、僕は毎晩夢で見てきたわけです。14歳の九条さんと知り合いになった僕は、たびたび彼女に接触を図りながら、戸籍の取得や定職探しに明け暮れて、……結局何もわからないまま、九条さんに巻き込まれて突然死んでしまいました」 「はい?」 まあそんなリアクションも無理はない。僕も大体同じような感想である。 「なんとなくでもわかっているのは、あの未来がどんな状況にあるかということ。それと、九条美鈴という女の子が、僕ら以外からも恨みを買っていて、暗殺を企てた連中がいるということだけです。多分僕らと同じく過去から来た連中でしょう。テロリストがレーザー銃を使うニュースがいつも流れてたのに、僕らを襲ったのは実銃でした。音から推定するに、この時代と技術的にはそう変わりません」 九条さんは頭痛の種を抱え込むように、こめかみに手を当てて上を向いた。子供の彼女しか知らない僕の目には、疲れたようなその仕草が、ひどく人間臭く映る。 「それで、それに撃たれてわたしとあなたは死んだというの?」 「ええ、気がついたときにはどうしようもなく」 「そう。ともかくそれは、確かに可能性の一つとして存在していたはずね。かくいうわたしも、あなたにとっては大して変わらないのでしょうし」 計算が狂ったわ。と呟いて、九条さんはため息を一つ。僕に向き直る。 「あらためて、わたしは九条美鈴。あなたの時代に拡散レーザーを打ち込むはずで、それによってあなたに殺されるはずだったところを、あなたによって救われた、この時代から分かれた、ちっぽけなパラレルワールドの住人よ」 「はい?」 先ほどの彼女と同じ反駁を、僕は口にした。
「まず、わたしにとっての認識を話させてもらうわね。わたしはこの時代から約200年後、23世紀に生まれた人間よ。あなたたちが来たのはわたしが14歳の時代ね。未来の社会情勢なんてものを、ここで話してもあまり意味はないでしょうけど、手短に言えば、あなたたちのクラスメイトは、後の時代に大きな爪あとを残していったのよ。それは世界を潤したけれど、同等のうらみも買った。ここまではあなたたちも想定していた通りね。 そしてここからが本題。現在のわたしは26歳。タイムマシンを完成させたのは2年前、わたしが24歳の頃よ。実用化に成功したわたしは、それから様々な実験を行った。わたしはその実験の過程で、魔が差したのかもしれないわね。変わってしまった時代に違和感を覚えて、その分水嶺を作り上げた、三千院ナギをはじめとした連中を殺してしまおうかと思ったのかもしれない。 それか、時空というものに対して増長してしまったのかも。死後100年以上が経過してなお、三千院ナギは有名人で、時代を象徴する伝説的な英雄だったから、子供の彼女がいなくなってしまった場合のタイムパラドックスを、この目で観測したかったのかもしれない」 「何故そんなに曖昧なんです?」 あなた自身のことでしょう。とは言わなかった。そのまま苛立ちを言葉にしてしまいそうだったのだ。そんな権利は僕にはない。 「わたしが取りうる可能性だったらしい、というだけで、わたしはそんなことをしていないんだもの。何故かというとね、そのときのわたしには友人がいたのよ。年上の、お人よしで変な人だけど、優しくて格好いい男の人。……なにを不思議そうな顔をしているの? あなたこれで察することも出来ないなら、天然とかじゃなくてただの馬鹿よ?」 「わかってますよ」 なんとなく察しはついていた。驚いたのは、彼女の僕に対する印象が思いのほか好意によったものであることと、語る口ぶりが、思いのほか柔らかかったからだ。 「わたしのそばにはあなたがいたのよ。綾崎ハヤテさん。14歳のわたしと出会ったあなたは、わたしのことをいつも守ってくれた。そして、あなたと出会ってからの騒動が、わたしのタイムマシン理論完成を早める助けになった。わたしが世紀の大発明をしたって大喜びであなたに告げたとき、あなたは全てを話してくれたわ。あなたがご主人様を守るために、200年後の未来に来たことも、一生の友達だと思ってた伊澄ちゃんがその目的のためにわたしに近づいたこともね」 なんと言っていいかわからない。九条さんの話を聞きながら、伊澄さんはそんな表情をしていた。 きっとこの話は、僕がここを尋ねる前から何度も交わされていたのだろう。それでもなお、伊澄さんにはありえたかもしれない未来の自分を、どう受け止めていいものか、わからずにいるのだ。 「勘違いしないでね。別に恨んでいるわけではないの。二年前のわたしは落ち込みもしたけれど、子供でもなかったからね。あなたが打算だけでわたしを守ろうとする人じゃないって事も、伊澄ちゃんが本心を全て偽って、十年も人を騙し続けられる人じゃないって事も、ちゃんとわかってたのよ。だから、わたしの中で、あなたたちは今でもかけがえのない友人」 ただね、と彼女は嘆息する。 「わたしは死ぬはずだったのよ。この時空ではね。わたしが生き残ったことによって、その先の未来は解消しきれない矛盾を抱えてしまった。わかる? 月並みな言い方をすれば、あなたたちは運命を変えたの。驕りでもなんでもなく、九条美鈴という天才の存在はそれほど大きいものだった、ということ。それによって、わたしがいた時空はこの時間軸から離れてしまった。そして一本の枝から根を生成する歪な樹木のように、この時間軸のそばに落下した。つまりわたしは異世界人、パラレルワールドの住人というわけ。ここまではわかる?」 「え、ええ」 生返事を返しながら頭の仲を整理する。 今目の前にいる女性は、僕が殺した女の子でも、守ろうとした女の子でもなく、守ることが出来た女性なのだ。そしてそのせいで、彼女のいた時間はこの世界からはじき出され、パラレルワールドになった。 では。 「あなたは何故、ここに?」 「時空間を行き来する渡航機を作ったからよ」 一応言っておくけれど、色々と妙な経験をしたとはいえ、僕は彼女の専門分野に関してはまったくの素人だ。 そんな僕でもわかる。彼女は今めちゃくちゃなことを言っている。 「えっと、タイムマシンを作ったのは、あなたにとって二年前なんですよね?」 「そうよ」 「二年で、そんなとんでもないものを作ったんですか?」 「うん、その通り。といっても、理論は既にあったから、それを実行しただけなんだけどね。タイムマシンの理論も流用できたし、伊澄ちゃんの協力で時空断絶の観測に成功したのも大きかったけれど、そもそもわたし、天才だから、ね?」 超鈴音(チャオリンシェン)じゃあるまいし。 などということは言わなかった。まあ、それが出来たというのなら、それが正しいのだろう。僕のちっぽけな常識の物差しは、こういう場合一切役に立たないのだ。十分すぎるくらいに僕はそれを学んでいる。 「と、いうわけで、わたしがここに来ることができた訳はわかったわね? ここに来た理由はわかる?」 「……実験ですか?」 「半分正解」 合わせた手のひらを蝶の羽根のようにはためかせて、九条さんは可愛らしい拍手をした。 「だけど上出来。もう半分の理由は、あなたたちは本来どのように生きていたのか、それが気になったから。言うなれば完全な興味本位ね。わたしと一緒にいるあなたたちは、もう向こうで生きることを選んでしまったし、渡航機にはまだ1人しか乗れない。だから、元の時空に帰すことは難しいし、やる意味も今のところないの」 どこか得意げな表情からして、彼女は僕の考えを先読みして答えた気だったのかもしれない。だけど、僕は別の世界にいる僕のことを上手く想像出来なかったし、彼ら(あえて彼らと呼ばせてもらいたい)が元の時代に戻りたがっているかもしれない。ということにも思い至ることは出来なかった。 過去に変えることの出来る可能性を放棄してまで、手を汚すことを拒んだ彼の気持ちは十分に理解できていたからだし(それは毎晩夢に見てきた、彼女とともに死んでしまった“ありえたかもしれない僕”が考えていたことだから)、僕とはみなまで言わずとも通じ合ってしまう、親しい友人だと錯覚している九条さんの勘違いのせいでもある。 「あなたの知る僕と、今ここにいる僕は別人ですよ」 「顔を見たときからわかっているわ。向こうのほうが数段いい男よ。あなたはずっと、罪悪感で死にそうな顔をしているもの」 どこかがっかりしたような顔を見せる九条さんに、僕は返す言葉もない。 「えっと、それでこの時間軸にきたのは、いつ頃なんですか?」 「二ヶ月前」 「ああ、僕が目を覚ましたのと同じくらいですね」 「……若くても、やっぱりハヤテさんなのね。思考が硬いわ。あなたが目を覚ます時間に合わせて来たに決まってるじゃない」 「え……、どうやってその時期がわかって……、いやいいです。これ以上混乱したくないので教えてくれなくて結構です」 「思い出したように失礼な言い方をするとこまで一緒なのね……」 まったく。と、そんな風にため息をついて。 「あなたが綾崎ハヤテなのは、今までの会話でよくわかったわ。……正直言うと、心配してたのよ。あなたが時間移動の影響を受けて、罪悪感にかられて、心を壊して、あなたでなくなってしまったかもしれないってね。でもどうやら問題ないようね。愛する人のおかげかしら?」 あとになって思い返せば、そのときの彼女の笑顔には違和感があった。 そのときの僕は、得体の知れない居心地の悪さから逃れようと必死で、それに気づくことはなかったのだけれど。 「理沙さんのことも、知ってるんですか」 「知ってるわよ。もちろん。あなたは知らないでしょうけどね。彼女はあなたを追いかけて未来に飛んできて、今でもわたしの友達なのよ?」 そしてその言葉で、僕が頭の片隅で抱えていた違和感も吹き飛んだ。 どうしよう。リアクションに困る。もちろん嬉しい。だけどそれは僕の知らない朝風理沙が全てを捨てて、僕ではない彼を追いかけた、という事実だ。もちろん今の僕たちと何の関わりもないというわけではなく。いやそれは置いておくとして、そもそもどうやって……。 ああ、そうだ。 「ということは、伊澄さんが?」 「らしいですね」 水を向けた伊澄さんはというと、なんとも退屈そうに畳に座り、お茶とお饅頭をつまんでいた。リラックスしすぎじゃないですか……? 「九条さんが言うには、向こうのわたしはハヤテさまのために、理沙さんを迎えに行ったのだそうです。あくまでも本人の意思を尊重して、でしょうが。永住も視野に入れていたようですから、そういう行動も取れたのでしょうね。とはいえ、とても危険な行動でもあったようなのですが」 「……というと?」 「あなたが陥ったのがそれです。先ほど九条さんも言ってらしたでしょう。“時間移動の影響”です。わたしが行った時間移動は、秘術である強制転移の法にアレンジを加えて行ったものです。しかし時間をまたぐとなると、色々と支障が出てしまうらしく……」 「簡単に言ってしまえばね、時間移動は感情の増幅をまねくの。高揚していればハイになるし、落ち込んでいれば際限なく気分は沈む。この時代に取引されている麻薬のようなものだと思えばいいわ」 「麻薬の知識が一般的なものだと思われるのは納得いきませんが……。じゃあ僕が正気を失ったのも、そのせいなんですか?」 「そうなるわね。わたしも調べてみたんだけど、転移と時間移動では本来プロセスがまったく違うのよ。転移は周囲の空間ごと移動させるだけ。といっても、それだって物理法則を力業で無視するようなとんでもないことなんだけど、これが時間移動になるとそうもいかないから、転移先で存在を再構築することになる。人の思考を司るのは脳だけど、思考、感情、人間性などを総括して呼称するべきもの。大まかに言えば魂と呼ばれるものは、そこを流れる電気信号のことなのよ。だけどそこを流れる信号は刻一刻と変化していく。彼女の時間転移の方が実行される時は、ニュートラルな安定した状態を0とした場合、極端に言えば高揚の+にも悲嘆の−にも、針が振れていてはならないのよ。極端な高揚は情緒不安定に繋がり、精神のバランスを崩してしまう。極端な悲嘆の例は、あなたが良く知っている通り。当たり前だけど、これからタイムスリップしようってときに完全に冷静でいられるはずもないんだけどね」 長い説明は、正直半分くらいよくわからなかった。 伊澄さんは、僕のほうに深々と頭を下げる。 「申し訳ありません。わたしがしっかりしていれば……」 「いえ、そんなことは……。そもそも伊澄さんがいなければ、僕らは何も出来なかったでしょうし、……むしろあなたには感謝しているんです。自分の手を汚したことに対して、後悔がまったくないと言えば嘘になりますが、恨む理由はありません」 彼女の肩に手を置いて、頭を上げさせる。 言葉に嘘偽りは一つもない。悔やむのは僕のみであるべきだ。そもそもここに来たのだって、伊澄さんにお礼を言うためなのだから。 今思えば、僕はなんて馬鹿なことをしようとしていたのだろう。あの日、誰にも見つからないように姿をくらませていれば、彼女はこうして自分を責め続けたに違いないのに、そんなことにさえ気が回らないなんて。 「悪い奴がいるとすれば、あなたのご主人様を亡き者にしようとした、別の世界のわたしくらいよ。だからといって、わたしに責任があるわけじゃないから、謝ったりはしないけどね。あとはまあ、伊澄ちゃんがあり得ないくらい天才だったせい、と言えなくもないかしら。感覚的な術のアレンジだけで、不十分とはいえ人類の可能性を200年以上早めたんだから。それを自分で責めるのもどうかと思うけどね」 九条さんの言葉はなんともあけすけで、もしかしたらそれが良かったのかもしれない。伊澄さんの表情は柔らかくなり、僕もシリアスな気分は飛んでしまった。 「そうですね。さっきの言い方からして、理沙さんにもそんなに大きな影響はなかったんでしょう? 結果オーライですよ。伊澄さんも大丈夫そうでしたし、僕も今ではどうということもありません」 「…………そうね」 「何故目をそらすんですか?」 彼女が気まずそうな顔をしているものだから、にわかに不安になってくる。 「朝風さんはその、わたしも聞いただけなのですが、ハヤテさまを思う一心で、未来まで飛ぶ決意を固めたらしくて……」 「簡単に言うと、ヤンデレというか、ね? 愛が重いってやつ? わたしが知る限りでも、あなた三回くらい刺されてるわ」 「一大事じゃないですか……」 「いやほら、平穏な心を取り戻すまで一年くらいかかったけれど、今では鬱陶しいくらいいちゃついてるから平気平気。仲良くなったのもここ一年の話でね。あなたに近づく女全員に殺意振りまいてた時期は脱したから、心配することなんて一つもないのよ」 どのみち僕に、パラレルワールドとやらを確認する術も、行く手段もない。だから関係ないと思ってしまったっていいのだけれど、彼女の言葉にはなんとも不安にさせられる。 「……とりあえず、伊澄さん」 「はい?」 「あれは、もう使わないほうが良いですね」 「そうですね」 そういうことになった。
九条美鈴が自分の世界に帰ったのは、それから二日後のことである。 観光くらいしていったらどうですか? と聞いたら、僕が鷺ノ宮家を尋ねる前に散々したのだそうだ。僕に会ったから、この時代の用事は全て消化済み。「はっきり言ってもう飽きたわ」とまで言われると、もはや言うこともない。基本的にドライな人なのだろう。 「理沙さんには会ったんですか?」と聞くと「一人で会うのもあなたと一緒に会うのも怖いし、伊澄ちゃんはいつの間にかいなくなってるから論外」と返ってきた。心の傷があるらしい。詳しく聞く気にはなれなかった。 前日には二人でお酒を飲んだ。いまや僕は精神的にも肉体的にも成人を迎えているし、彼女はいわずもがなだ。 その夜話したことは、本当に多い。 彼女の世界での僕のこと。僕が見た彼女のこと。誰かのこと。僕らのこと。過去のこと。未来のこと。こいのはなし。あいのはなし。ゆうじょうのはなし。 大量の情報はアルコールが綺麗に洗い流してしまい、気絶するように酔いつぶれた僕らは、お酒を飲みながら交わした会話を7割がた忘れていた。お茶漬けをつつきながら、どちらからともなく笑いあった。 きっとこれでいいのだろう。 本来なら出会うはずのなかった僕らであるから、きっと何もかも忘れてしまうのが一番自然なのだ。 色んなことを吐き出して、必要に応じて忘れて思い出して、それぞれ生きていけばそれでいい。 別れの日、涙はなかった。 僕を抱きしめた彼女は、僕より少しだけ背が高くて、花の匂いがした。 ただそれだけだ。覚えているのは、本当にそれだけ。
秋は冬に変わり、年が明けた。 お正月の三が日は、神社の娘である理沙さんにとっては一年で一番忙しい時期と言っても過言ではない。だから僕と彼女が二人でゆっくり出来たのは、1月の三分の一を消化してからのことである。 「慌しいわたしたちの新年に」 「乾杯」 寒風の吹き込む縁側で、カツン、という音を立てて打ち合わされたのは、甘酒入りの湯のみである。夜の早い冬であるが、太陽はまだ僕らの頭より上にある。こんな時間から酒盛りをするわけにもいかない。 僕はそこそこ飲めるけれど、彼女は底なしの酒豪である。おまけに酒癖もそこそこ悪い。恩師に似たんですかね。なんてことを言うと、あとあと口移しで日本酒を飲まされたりするので、あまりお酒の席でからかわないようにしている。恥ずかしさと驚きと幸せとアルコールで、僕は体中が熱くなって、林檎みたいに真っ赤になってしまうのだ。 「ここ何日か、親戚や地元の名士の席に呼ばれては、酌をして回ってたんだ。今はゆっくり座って、君と一緒に冬の景色を眺めていられる。いい気分だよ」 コートを羽織ってマフラーを巻いて、おまけに耳当てまでつけた彼女は、大人びた表情とは裏腹にモコモコしていて可愛らしい。赤くなった顔を見て、なんだか頬が緩んでしまった僕は、湯せんにつかったとっくりから甘酒を注ぎ、顔を隠すようにあおる。 「お」 純な高校生ではなくなってしまった僕らは、少しだけ大人の付き合い方というものを学んでいる。だけど不思議なもので、僕が一番楽しいのは、彼女の子供じみた悪戯に振り回されているときだったりする。 たとえばこんな風に、甘酒とお酒をすり替えられたり。 「ゴホッゴホッ」 予想していた甘さとは違う、強烈なアルコールの匂いと味。美味しいのだけれど、それは心構えをしていればの話だ。驚いた僕は思いきり咳き込んでしまった 「ごめんごめん、匂いで気づくかと思っていたんだけど。なにか考え事でもしてたのかい?」 「……まったくもう、また変な悪戯をして。気がつかなかったのも不覚……」 口直しに熱いお茶を一口。こちらに細工はないようだ。 「まあまあ許してくれたまえ。多忙なわたしの、ささやかなお遊びなんだ。なんならもっと飲むかい?」 「ふむ、昼間から酔っ払ってるようなダメ人間が、理沙さんのお好み、と」 「そんな雪路みたいな彼氏は嫌だが、まあ君なら許すよ。許容範囲だ」 不敵な笑みを浮かべて、彼女はとっくりを手に取った。そしてそれをそのまま口元に運び、味わうように一口。そしてそれをこちらに向ける。 「わたしの酒が飲めないか?」 「まったく、可愛い彼女が変なことを覚えてダメ人間と化して、しかも恋人をダークサイドに誘うこの悲しみ。誰に相談したものですかね」 「誰にも相談できやしないさ。また惚気話かって、煙たがられるだけの話だよ」 「そんなところばっかり冷静なんですから……、まったく」 とっくりを受け取り、僕も一口。一口も二口も変わらないだろう。ああ、こんな考えがまたダメ人間っぽい。 理沙さんはどこか子供っぽくニヒヒ、と笑い、二人の間にある湯せんをどかしてこちらに近づく。 「これで今日の仕事は無理だね」 「……ですね」 「心配しなくていい。既にナギちゃんには話を通してあるから。一本電話を入れるだけだ」 「こういうときは本当に、用意周到ですね……」 不承不承、といった顔を作っているつもりなのだけれど、理沙さんは一向に気にしていないようである。 きっと見抜かれているのだろう。彼女の提案が楽しそうだと感じていることも、嫌な気持ちなど持っていないことも、ちょっとした後ろめたさを感じること自体に、少しだけ興奮していることも。 「さて、どうしようか。今日は神社のほうに警備の人とバイトの子がいるだけだから、家の中にいても見咎められたりはしないんだ。部屋でテレビでも見ながら飲むか?」 「そうしましょうか。どこかに出かけて、新年早々昼間から酔っ払ったカップルとして見られるのは嫌ですからね」 「確かに。それでヒナや美希たちに見つかったら最悪だな」 姉に向けるのと同じような視線で僕らを叱るヒナギクさんや、こちらを大笑いしながらはしゃぎ回って仲間に入れろと騒ぐ美希さんや泉さんを想像する。なるほどそれは考えうる限り最悪の事態である。 含み笑いを堪えきれないまま、僕は彼女の手をとった。なんで笑ってしまうのかな。お酒のせいだろうか。きっとそうだろう。 引き寄せた理沙さんの体を抱きしめて、頬をくっつける。真っ白な肌は柔らかくて絹のような感触。猫のように頬でその手触りを確かめながら、僕はささやく。 「今日はゆっくりしましょうか。二人っきりで、飽きるくらいだらだらしてましょう」 「ふふ、みんなが働いているときに、わたしたちは酔いどれてだらだら時間を消費するわけか。背徳的だね」 わかっているくせに。とは言わない。 言わなくてもわかるなら、言う必要はない。 それでもなお話すのなら、それは決まりきった問答のときだけである。 「今日くらい、わがままになってもいいじゃないですか。堕落しましょうよ。頑張ってきた僕らへのご褒美には、ちょうどいいわがままです。……そしてまた、明日から頑張ればいいんですよ」
そんな馬鹿馬鹿しい問答が、僕にとっては何にも変えられない宝物なのである。
|
|