Re: そして朝風と寄り添うように ( No.3 )
日時: 2015/05/30 14:52
名前: ひよっくー

君の面影を、今日もまた一つ消していく。
 君がずっと幸せでいてくれることを祈っています。




 惰性で滑り落ちていくかのように日々を消費していた21歳のわたしが、一念発起したときのことを話しておかなければなるまい。
 季節は秋。長い休みの終盤に差し掛かった頃。
 きっかけは姿を消してから3年にならんとする、綾崎ハヤテという彼氏のことを思い出したことだ。ふらりと立ち寄った本屋の一角に、彼から最後に薦められた本の続編を見つけたときだ。
時空を行き来する警察官が、愛しい恋人との関係を断ち切って、未来に行った話。
わたしはそれを手にとって、レジに向かった。続編が出たらすぐさま買って読みたい、と思えるほど好きな本ではなかったけれど、恋人に別れを告げた男がどのようなことを思いながら生きていったのか、なんだか無性に気になったのである。
 笑いたければ笑えばいい。わたしは行方不明になりつつもまだ生きているはずの彼氏が、わたしを含むみんなとの日常を捨てたのではなく、やむを得ない理由によって姿を消しただけで、いつか必ず戻ってくるのだ。という夢見がちにすぎる幻想を捨てられずにいた。それどころか、その思いを努力して維持し続けようとさえしていた。
過去に縛られて前に進むことを忘れた人間など、馬鹿の極みだ。哀れなものである。
そんな風に自分を嘲笑しながら、わたしは恋というものへの情熱をダストシュートに投げ込みながら、日々を過ごしていた。
家に帰って、わたしはその本を開いた。そして呆れた。
毎回毎回恋人に会っては鬱陶しいくらい愛をささやき、イチャイチャしていた主人公は、あっさりと別の女を作っていたのである。そして「あいつはあれからどんな風に生きているのだろう」なんてことを、悲劇の主人公みたいな口ぶりで嘯いたりする。
渾身の力で、わたしは本を壁に叩きつけた。彼女と別れたとき、自分の彼女がどれだけ悲しんでいたか。こいつはもう忘れてしまったのか? いつか帰ってくるときを信じて待ち続けた彼女の気持ちはどうなる? 女なら誰でもいいのか? 
言葉にこそしなかったが、わたしは所詮は紙の上のキャラクターでしかない彼に、そんな文句を言い続けた。そして部屋を出た。
夕食を食べてお風呂に入り、寝間着に着替えたわたしは、壁際に落ちた本を拾い上げ、布団に寝転がってもう一度開いた。
深呼吸して気を静めてから、やはりどうしても気になる物語の続きを読み始める。
イライラを鎮められないまま読み進め、中盤に差し掛かったところで、わたしは驚いた。
視点が変わり、ヒロインが再登場したのだ。そして彼女は、彼を追って未来に行く。
自分が持つ全てを捨てて、愛を優先する。
ひどく眩しくて、なんだか目眩がしたものだから、わたしは3分の2ほど読み進めた本を閉じた。
電気を消して布団を被り、眠るために目を閉じて、だけどハヤテくんのことを思い出して、いつまでも眠れなかった。


わたしが鷺ノ宮伊澄の家を訪ねたのは、その翌日のことだ。
彼がまだ生きているのか。どこにいるのか。探ることは出来ないか。かつてぶつけたそんな質問を、もう一度彼女にするためだ。無意味かもしれない、と思う。だけどそのときのわたしは、とにかく動かずにはいられなかった。
本に触発された。という言い方は、実を言うと正しくない。
わたしの鬱憤はどれだけガス抜きをしようとも、胸の奥底に汚泥のように溜まっていて、いつか訪れる爆発の日をずっと待っていた。それを行動に変えるきっかけが、たまたまあの本だったというだけの話なのだ。
 静謐とした和室に正座して、わたしと伊澄ちゃんは向かい合う。我が実家よりも情緒ある庭園を横に、彼女に問う。
「ハヤテさまの行方、ですか」
 おっとりとした雰囲気で何を考えているか隠してしまう彼女らしからぬ、はっきりとした困惑の色である。元々そんなに深い付き合いがあったわけではないけれど、こんな彼女を見るのは初めてのことだ。
「ああ、生きているのならどこにいるのか。今でもわからないかな?」
 表情は、困惑から煩悶へと移り変わる。付き合いの浅いわたしでもわかるほど、彼女は悩んでいる。不安が心臓を鉄線で締め付ける。彼がもうこの世にいないかもしれない、という不安はいつだってわたしの中にあって、これまで行動を起こせなかった原因の半分は、それに真っ向から向き合う度胸がなかったから、というものである。
「ハヤテさまは生きています。ですが」
「ですが?」
「……あなたたちは、確か付き合っていた、と聞いています」
 それは明らかに、わたしを試す言葉だった。不安はさらにわたしを苛む。
 しかし意地っ張りはわたしの得意分野である。彼氏のお墨付きだ。
「そうだ。今でも彼が好きだし、戻ってきて欲しい。白皇を卒業してから今の今まで君に尋ねなかったのは、ハヤテくんが戻ってこないかもしれないと思うと、怖くて仕方なかったからなんだ。それでももう我慢の限界だ。なにか知っているのなら、どうか教えて欲しい」
 ……合格だろうか?
 わたしはそんな風に、小賢しく考える。
 伊澄ちゃんは懐から、一枚の札を取り出した。一度それを振り、こちらに差し出す。
 朝風神社の巫女として普段振舞ってはいるものの、わたしには彼女と違って特別な力はない。しかしそれでもわかった。これは彼女の力の一片だ。
「その言葉が嘘ではないなら、この札をお取りください。もしもあなたの心に邪念があれば、少々痛い目に遭うことになるでしょう。一応、命には……」
 言い終わるより早く、わたしはそれをひったくる。
 何も起こらなかった。札はわたしに危害を加えることもないけれど、静電気を帯電したドアノブのように、熱でも振動でもない、ほのかな圧力を放っている。
「信じてもらえたかな?」不敵に笑えただろうか。バクバクと高鳴る心臓を押さえつけて、わたしは正座したまま、彼女に詰め寄る。「教えてくれ。君は何かを知っているんだろう?」
「……わかりました。少しだけ歩きます。付いてきてください」
 立ち上がった彼女を追って、わたしも和室を出た。
 小さな後姿には、決意が滲んで見えるようだった。彼女がわたしに何を見せようとしているのか、歩きながらつらつらと考えてみる。
 少なくとも、このときのわたしは期待していた。
 まあ、屋敷を出てすぐに彼女が迷ったものだから、歩いた距離は少しというには少々謙遜がすぎるものになり、わたしはちょっとうんざりしてしまったのだけれど。


「ここは?」
 長い道のりを歩き続け、着いたのは鷺ノ宮邸から1キロと離れていない、古びた病院だった。
何故この距離で迷うのか、わたしにはわからない。方向音痴にも程があるだろう(ちなみに、わたしが彼女の方向音痴エピソードを詳細に聞いたのは、これより少し後のことになる。このくらいは迷ったうちにも入らないのだそうだ)。
「うちが経営している病院です。ただ、普通の患者さんはここには入院しません。訳ありの方専用です」
「……その訳ありの患者さんが、ハヤテくんと関係あると?」
「実際に見てもらってからのほうが早いでしょう」
 受付に携帯を預けたあと、はぐれないように伊澄ちゃんと手を繋いで、わたしたちは病院の地下へとエレベーターで下った。病院は苦手だけど、ここはより一層、わたしの背筋を寒くさせた。外観は病院そのものなのに、まるで監獄のように、中のものを外に出さないような仕掛けが目に付くのだ。それでいて、行き場のない情念が吹き溜まりに集まっているかのような、暗い雰囲気を感じる。
「精神病院、か?」
 伊澄ちゃんは答えなかった。
答えはすぐそこにあったからだ。

 行き着いた個室の病室に、ハヤテくんはいた。

待ちに待った瞬間だ。
わたしは涙を流して喜び、彼に抱きつくべきだったのだろうか。
黙って立ち尽くしたまま、わたしは頭の片隅でそんなことを考える。
彼は動かない。病的に白い肌。入院患者用の貫頭衣。まっさらなシーツが敷かれたベッドから体を起こして、ただ虚空を見つめている。細いようでたくましかった体は、今は見る影もない。喉元に浮き出た骨の形が痛々しく、わたしは目を背けたくなるのを必死で堪えた。
ベッドに駆け寄り、彼の手を掴む。痩せこけた手のひらはまるで老人のよう。
「ハヤテくん?」
 返答はない。
 優しくて、驚くほど強くて、馬鹿みたいにお人よしで、とびっきり不幸なわたしの彼氏。
この世の誰よりも愛しい人の心が壊れてしまったのだと、わたしはもうはっきりと理解していた。
 動かねば。そう思った。
 こうしていたら、またわたしの足は凍り付いてしまう。
「伊澄ちゃん。何故、ハヤテくんは……」
 振り返ったとき、不意に視界が滲んだ。
 それはショックだろうさ朝風理沙。
だけどうすうす予想は出来ていたんだろう? 今は状況を理解するべき時だ。彼に何があったのか。どうすればいいのか。それを考える時じゃないか。
 だけどわたしの理性は、大きすぎる衝撃と悲しみに押し流されてしまっていた。わたしの体は涙を流す以外のことをさせてくれなかった。
 肺から喉まで痙攣が上ってきて、わたしは大きくしゃくり上げ、盛大に泣いた。ハヤテくんにも、伊澄ちゃんにも見られたくなくて、だけど立ち上がることも出来ずに、シーツに顔を押し付けて、声を殺して泣き続けた。


 もう終わった話ですから。
 伊澄ちゃんはそう前置きした。
 わたしからすれば始まってすらいないことだ。情緒不安定なまま怒鳴ってしまいそうになったけれど、何も知らないくせにそんなことをするのはどうにも不公平に思えて、わたしは黙って話を聞いた。
 本来ならば、白皇学院高等部の卒業式は無事には終わらなかったこと。
未来からのテロによって、わたしたちのほとんどが死んでしまうはずだったこと。
生き残った伊澄ちゃんとハヤテくんは、協力者と共にその現実をなかったことにしようとしたこと。
一度は失敗して、2005年の夏休み後まで、全員の意識をタイムスリップさせたこと。
わたしが知る記憶を失ったあとのハヤテくんは、未来から過去へと跳んだあとの彼であること。
タイムスリップの鍵が、わたしの実家の宝物堂にあったこと。
彼がそれを盗みだしたこと。
しかし綾崎ハヤテは、打算であなたと交際をはじめたわけではない、という慰め。
「大丈夫だよ。それより、ハヤテくんがこうなった原因は? まだ続きがあるんだろ?」
 ここまでの話も大概理解しがたいことばかりで、頭が着いていけないところもある。だけど疑う気はなかった。目の前のハヤテくんがこんな状態でいるときに、こんな下手な冗談を言うこともないだろうし、もう一度彼と会う機会をくれたというだけで、わたしは彼女に大きな感謝の念を抱いているのだ。
ただ、わたしは彼女が全てを話し終えた後、何もかもが壮大なドッキリだと明かされる。という、あまりにも現実味のない可能性を願ってもいた。伊澄ちゃんは悪戯っぽい笑みを浮かべて「大成功」と書かれたプラカードを取り出し、呆然とするわたしの後ろでハヤテくんが大笑いして、振り返ろうとしたわたしを優しく抱きしめてくれる。こんな状況でするには、あまりに的外れで、だけどとても心地よい妄想だ。
続きを言いづらそうに、伊澄ちゃんが胸の前で手を組み、深呼吸を一つ。
「わたしたちがもう一度、未来を変えるために動いたのは、夏休みが終わって一週間ほどしてからです。テロを起こした未来の敵を止めるため。……いえ、命を奪うために、わたしとハヤテさまは未来に飛びました。
 未来での出来事は、わたしの口からは話せません。ここまで話しておいてあなたに黙っているのは、申し訳ないのですが。
 ……ハヤテさまがこうなってしまったのは、この時代に戻ってきてからです。今の状態を、ナギたちに見せるわけにはいかない。というのは、わたしたちが出した共通見解です。だから、行方不明ということにして、ハヤテさまが自分を取り戻すまで、ここに……」
「戻るのか?」
 声にした瞬間、わたしは心の中にわだかまっていた不安が、一気に形になるのを感じた。顔を上げておくことができなかった。伊澄ちゃんの表情を見ていたくない。もしもそこに落胆の色があったなら、わたしは堪えられそうにない。
「ハヤテさまなら……、きっと大丈夫だと思います。少なくとも、わたしたちはそう信じています」
 なんとか頷けた、と思う。
「今まで黙っていてごめんなさい」と、伊澄ちゃんは最後にそう言って、部屋を出て行った。きっと彼女は、わたしがもっと怒ると思っていたんだろう。怒る権利くらいはあると思う。だけどそんな気力は、少なくとも今のわたしには存在しない。
 わたしはハヤテくんのほうを振り返る。
 期待していた笑顔は、そこにはない。

 
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
その日、無理を言って病室に泊まったわたしは、彼がいつも自失しているわけではないということに気づいた。ベッドに横たわりながら、彼はうわ言のように呟き続けている。
 そばに寄っても、彼の目は何も見てはいない。淡い室内灯の灯る天井を見つめている。
漂白されたような部屋の空気に許しを乞う言葉が溶けていき、言葉の数だけこの部屋の重力が増したかのようで、わたしはうかつに動けなくなる。けれど、彼の苦しみを少しでも軽くしてあげたくて、恐る恐る手を握る。
「大丈夫だ」言葉を搾り出すのにも一苦労だった。だけど繰り返す。無責任な言葉だ。彼の自責の念を取り除くことは、わたしには出来ないかもしれないけれど「大丈夫」だと言うたびに、彼が少しでも楽になることを祈る。
 言葉を繰り返すたびに、部屋の空気が軽くなるような錯覚を感じる。それをどうか、彼も共有してくれますように。
 思えば、この謝罪はわたしが三年ぶりに聞いた、ハヤテくんの肉声だ。
「気分のいいものじゃないな。まったく。あとでちゃんと上書きしてくれよ」
 抱きしめても、彼は抵抗しなかった。鼓動を刻む心臓の音を聞いて、体温を感じて、彼が生きていることを実感した。
そうだ、生きているんだ。
今はそれだけでいい。

それからわたしは家にも帰らず、友人にも会わず、もちろん課題にも手をつけることなく、出来る限りの時間を彼のそばで過ごした。離れていた時間を埋めたいだとか、寂しいからというのも少しはある。しかし一番の理由は恐怖だ。目を離したらその瞬間に彼が消えてしまいそうで、怖くて仕方なかった。
三日目はまだ看護師さんたちも大目に見てくれたのだけど、四日目を迎えると、消灯時間以降は立ち入り禁止にされてしまった。忍び込んだら、次の日には病室に鍵をかけられた。ピッキングの道具を持ち込んだら、受付でこっぴどく怒られ、仕方がないのでわたしは病室前の長椅子に、夜の間中座り込む生活を送ることになった。
そんな生活を三日も続けたあたりで、ついに向こうが折れて、こっそりと中に入れてくれることになった。
「呆れたわ。お嬢様だって聞いてたけど、たいした根性ね」
 そんな看護師さんの言葉に、わたしは不敵に笑って胸を張る。それはわたしにとって儀式のようなものだ。実を言えば、気力はガス欠になって、今にも倒れてしまいそうなくらい疲れきっていたのだけど、こういうときに強がっていないと、わたしの心は案外簡単に折れてしまうということを、この数年で学んでいた。
 ハヤテくんは変わることなく、夜になるたびに怯えたような言葉を吐き出し続ける。わたしは彼を抱きしめる。そばにいるだけで何かを変えることは出来ないと思う。だけどそれでもわたしは、彼のそばを離れることが出来ない。
「大丈夫か?」
 時々見舞いに来る橘ワタル君は、わたしに何かを尋ねることもない。ただ缶コーヒーを手渡して、心配するだけだ。
「自分でも歪んでるな、と思うよ。でも大丈夫だ。多分何もしなかったら、寂しくて死んでしまうだろうからね」
 元動画研究会会長のワタル君とは、気心が知れたとは言わないまでも付き合いはあった。だから体も心も疲れていたって、気楽に軽口を叩ける。
「なあ元会長。わたしはここに来るようになってそう長いわけじゃない。だから聞きたいんだけど、ハヤテくんは、前より良くなっているのか?」
「……最初はもっと酷かったぜ。伊澄と二人で未来に行って、俺たちからはすぐに戻ったように見えたけど、あいつらの体感じゃ、割と長い時間だったらしい。戻ってきたあいつが俺たちの前で倒れたときは、何が起こったのか理解できなかった。目を覚ましたあいつは死人みたいな顔してて、何も話そうとしなかった。いや、話せる状態じゃなかった。あれに比べりゃ、弱音の吐き方思い出しただけでも、たいした進歩さ」
「わたしは、少しは役に立てているかな?」
「俺たちは3年待ってる。先は長いもんだと覚悟してるんだ。明日や明後日でどうにかなるもんじゃねえ。役に立つかなんてのもわかるわけがねえ。でも、あんたがここに来たことには、多分意味はあると思う。だからちゃんと休めよ。忘れないでいてくれるってだけで、きっと大きな支えになるはずなんだ」
 自分のコーヒーを飲み干して、ワタル君は軽く手を振って帰っていく。
「今日はここに泊まるけど、明日は一度帰ってみるよ。……ありがとう」
 応える声はなかった。聞こえていないかもしれないが、もう一度言おうとは思わなかった。

 予想に反し、ハヤテくんの容態はその日の夜のうちに進歩を見せた。
「ねえ、良かったらそのまま、聞いてくれないかな」
 不覚にも、わたしは耳を疑った。
 彼が意味のある言葉を口にするのは、わたしがここに来て初めてのことだ。咄嗟に名前を呼びそうになって、喉元までのぼった言葉を、胸に手を当ててどうにか飲み下す。
 触れてはならない。
サナギから羽化を迎えた蝶を見守るように、せっかく伸ばした羽根が歪んでしまわないように、わたしは彼のそばで、いつになく静かに言葉を待つ。
 待った時間は、5分だろうか、1時間だろうか、それとももっと長いのだろうか。不安が大きな雪だるまになろうとする頃に、小さな小さな言葉の束を、彼はつむぎ出す。
「僕は人を殺してしまったんだ。大切なものを守りたかったんだ。悪いのは向こうだって信じ込んでいたんだ。でもたとえそれしか方法がなかったとしても、僕自身が危なかったとしても大切な人がいつかそいつによって殺されてしまうとしても僕は犠牲を出さずに助ける道を探すべきだったんだ。四次元じゃなくて三次元に生きる僕らが未来に犯罪を犯すかもしれないという理由で人を裁いてはいけないんだ。それは人ではなくて神様の仕事だから僕は神様じゃないからただの不幸な男でしかないんだから。
 小さな女の子だった。見たこともないくらい高いビルの屋上に伏せて日よけのシートを被ってゴーグルを覗いて。やり方は訓練して学んでいたから問題なくって。カチューシャと眼鏡をかけた女の子が自動で動く歩道みたいなものに乗って学校に行くからそれを一発で仕留めなきゃならなくて他に方法はないと思っていたし僕に責任なんかいや駄目だ背負わなくちゃいけないんだ」
 そこで充電の切れたロボットみたいに、ハヤテくんは黙り込んだ。
抑揚がなく、感情の欠片も伺えない喋り方だ。私の知る彼とはかけ離れたその有様に、今さら驚きはしないけれど、胸を痛めるなというのは無理な話である。こんなにも痛々しい姿を見て、平気でいられるものか。
「女の子の周囲に女の子の移動パターンを変化させる不確定要素が消えて風も止んで光が反射して居場所がばれる可能性が排除される瞬間を僕は待った。何日も待ったんだ。一度失敗したらその瞬間から発生した未来の可能性が僕を消し去ってしまうことは疑いようがなかったんだ。時空干渉を押さえ込んだあの子のためにも絶対成功させなきゃいけない。でも僕は不幸だから運に左右される状況なんて絶対に駄目なんだ。ずっと待った。何日も何週間も。待っているうちに女の子の友達の顔を覚えた。親を覚えた。好きな人を覚えた。好きな漫画を覚えた。待っている時間が長くて孤独で仕方なくって僕はあの子がどんなことを話しているのかを想像するようになった。これから命を奪う相手に対して何を考えていたんだろう。
そのうち絶好のチャンスが来た。これ以上に条件の揃った瞬間は100年待ったって来やしないと思った。音速を超える銃弾が銃身から飛び出してこめかみを貫いて反対側に飛び出すイメージを僕はずっと固めてきたんだ。それを実行するときにも躊躇わなかった。
イメージの通りに事は運んだ。
僕は喜んだ。狙撃の瞬間を待ち続けるのは凄く退屈で大変で辛くてそれから開放されるというだけで嬉しくて仕方なかった。目的を果たせたし大切な人をこれで守ることが出来て誇らしかったんだ。やったって叫んだんだ。
女の子にたくさんの人が男の子が女の子が大人が駆け寄ったんだ。
みんなが憤ってみんなが悲しんでいたんだ。
きっと女の子が好きだった男の子が動かない体を抱き上げて泣いていたんだ。
女の子の手が上がったんだ。
あれは間違いなく奇跡だった。
泣いていた。唇が生きたいと呟くのを死にたくないと呟くのを僕は望遠スコープで確かに見たんだ。心から言っていたんだ。あの女の子は僕の大切な人を傷つける敵じゃなくてただの幸せに生きようとする子供だったんだ。あの子はこうするしかなかったって言ってくれたんだ。でも許されるべきじゃないんだ。だから謝るんだ。幸せになるわけにはいかないんだ」
そこで終わりだ。
充電の切れたロボットではなく、糸の切れた操り人形のように、ハヤテくんは倒れこんだ。毎日綺麗に洗濯されているシーツから、ホコリが飛ぶことはない。
恐る恐る顔を覗き込むと、ハヤテくんは目を閉じて寝息を立てている。心なしか、私の知るここ最近の彼の寝顔よりも、幾分穏やかに見える。
とにかく考えをまとめたかった。
地下にあるこの病室には月光も差し込まない。満月ではないけれど、今日は確か月の光が強い夜だったと思う。外に出ることにしよう。一旦落ち着かなければ、わたしは今聞いた話をどう受け止めるべきか、よくわからないままだ。
わたしはエレベーターで地上に上がり、口うるさい職員から小言を言われないように、人目を避けて外に出た。秋の夜風は少し肌寒いけれど、こんなこともあろうかとコートを着込んできたわたしには、風邪を引くほど寒いということもない。
ベンチに座ったわたしは、先ほどのハヤテくんの独白のことを考える。が実際問題、現実感は皆無と言っていい。これからどうすればいいのかもよくわからない。ようやく前に進んだ気がして、どこか安心すらしていた。
このときわたしは疲れていた。
深く物事を考えられなかったのもそのせいだ。
いつの間にか座ったまま眠りこけてしまったわたしは、朝になって、綾崎ハヤテが再び行方をくらませたことを知った。




いつか罪を犯した人間が、その罪の報いを受けるとするならば、それはいつの事だろう……。

朝焼けの町並みに目をすがめ、僕は本当に久しぶりに太陽の光を浴びながら、朝食のおにぎりとサンドイッチを頬張り、ブラックコーヒーで流し込む。使う機会も意思もないだけで、お金は病室の戸棚にずっとあったのだ。とはいえ大した額ではない。どこかで稼がなくては、この先生きていくには心もとない。
「言葉は不完全だから、言葉にすれば誤解を生む。勘違いの元となる」
もう合わせる顔もなくなった、小さな主はそんなことを言っていた。
まったくその通り、言葉は感情を表現するにはどうしようもなく不完全なツールで、僕はいつも人を勘違いさせたり、勘違いをしたりしては、痛い目を見てきた。
だけど、人はそれでも感情を言葉で表現しようとする。人が人と繋がるには、言葉はどうしても必要なものだから。言葉にすることで自分の感情を定義しなければ、前に進む勇気を持つことも出来ないものだから。
靄がかかったような混濁した世界と、僕は長いこと隣人として付き合ってきた。目の前に誰がいて何を話しているのか、自分がどんな状態でどこにいるのか、そんなことも理解出来ないまま、僕は自分の内側にだけ目を向けて日々を消費してきた。
朝風理沙が隣にいてくれたことが、崩壊して瓦礫の塊でしかなかった僕の自意識が、もう一度形を取り戻す手助けになったことは、疑いようもない。
ドロドロに溶けた自責の念と、後悔と、罪の意識を、整頓して受け止められるように形を整えることが出来たのは、彼女のおかげで、言葉にするだけの余裕が生まれて、言葉にすることで、僕を責め続けた大きすぎるそれに向き合うことが可能になったからだ。
今の僕にはそれがわかる。だから僕はここにいる。存在している。
我思うゆえに我あり。
昔の人はよく言ったものである。
しかし自覚したからには、僕は愛する人々のそばにいるわけにはいかない。もう何も出来ない僕ではなくなった。自分の足で歩くことが出来るようになった。だったら歩かなくてはならない。誰とも近づかずに一人で。
コンビニのレジ袋には、食料のほかにも染髪塗料や新聞、そして1箱のタバコとライターが入っている。髪を染めるのも、現在の日本がどうなっているのかを知るのも必要だ。しかし何故、こんな体に悪いだけのものを買ったのだろうか。自分でもよくわからない。
失われた未来で、僕はこれに手を出していた。
幸せな“彼”に近づきたかったのか?
だとすれば、僕も可愛いものである。そんなことは無理だと、わかっているはずなのに。
それともなんだろう。僕は落ちるところまで落ちてしまいたいのか?
 あるいは、自分の体を心配してくれる人がいないという現実を、真っ向から見るためか?
――きっと、その全てだろう。
ふと出た、そんな結論が、喉元を滑り落ちる氷解のように、僕の背筋を冷やす。
弱いものだ。誰かのために強くなろうとしてきたのに、僕は僕自身にとんと弱い。
寂しさと後悔に止められそうな足を動かして、僕は朝焼けに踏み出す。誰にも見つからないよう祈りながら。



「宗谷さんって変な人ですね。自動道路もVR広告も知らないなんて。どれだけ田舎に住んでたの?」
「ハハハ、まあ遠いところから来たのは本当だよ。東京には昔住んでたらしいんだけど、昔のこと過ぎて覚えてないんだ」
 眼鏡とカチューシャ。髪は淡い茶色。上品な言葉遣いと明晰な頭脳。道に迷った田舎の青年に自分から声をかけるくらい、気配りのできる女の子。
 未来に来て早々、頼みの綱だった伊澄さんとはぐれた僕が出会ったのは、そんな可愛い女の子だった。
 咄嗟に偽名を使った今の僕は、綾崎ハヤテではなく南野宗谷である。純真な笑顔を向ける女の子に嘘をつくのは心苦しいけれど、今の僕はこの世界に戸籍の存在しない異邦人だ。どの道本当のことなど、何一つ言えない立場なのである。
 区画は随分と変わっていて、ここは東京のはずなのに、見慣れた風景はほとんどなかった。そんな僕に、彼女は声をかけてきた。
「ところで、都庁まで案内してくれるのはありがたいんだけど、君はこんな怪しい変な人と一緒に歩いてていいのかい?」
「自分で言うんですか?」
「いやいや、青春は貴重だよ。放課後は友達と遊んだりしたほうがいいんだって」
「いいんですよ。困ってる人がいたら助けてあげる。これはわたしのポリシーなんです。それに、宗谷さんは悪い人じゃなさそうだし」
 なんともまあ、こちらに来てまでそんなことを言われるとは、非常に光栄なことである。なにせ僕はかよわい女の子を誘拐しようとしたり、愛しい人に嘘をつき続けたり、挙句未来まで人を殺しに来るような、稀代の善人なのだ。良心が痛むったらありゃしない。

 女の子と別れてから、都庁を足がかりに土地勘を掴んで、あてどなく町を歩く。
 外国人が、僕のいた時代と比べるとかなり多い。道行くスーツを着たビジネスマンの割合は、日本人的な顔立ちよりも北欧系の男が多い。
 色々と下調べして、実際に見た僕には、もうわかっていた。
もはや日本と世界各国を分かつものは、海以外にないと言っていい。というよりも、日本という国名が、もう昔ほどの意味を持たないのだ。
 今や人々のパーソナリティは、国ではなく所属する企業に依存する。だから陸続きに国境のある国同様、この島国にも様々な人が訪れ、根を下ろし、生きていく土壌が出来上がった。一方的ではなく双方向的に。
だから日本人もまた、世界中あちこちに住む場所を求めて旅立っていく。今や人は土地ではなく、そこに根を下ろした企業に寄り添っているのだから、僕のいた時代とは比べ物にならないくらい、海を渡ることへの心理的障壁は低い。
これを国際化が進んだと見るか、民族が分裂して、国という枠組みが貶められたと見るかは人によるだろうが、はっきりしたことは、現状に不安を持つ者も大勢いることと、その体勢を推し進めるための旗頭に、三千院ナギがいたこと。そして、彼女は既にこの世を去った今でも、恨み言を言われていること。
暗殺の原因が、なんとなく見えてきた気がする。
あてどなく思考を続けながら、僕は伊澄さんを探して歩き続けた。
 結局、伊澄さんと合流できたのは、その日の夜のことだった。
 僕が暗殺する敵が、僕に親切にしてくれたあの女の子だと知ったのは、次の日の朝だった。

「やあ」
「あ、怪しい宗谷さん!」
 またその次の日。夕日が落ちかける黄昏の頃に、僕は彼女を待ち構えて、さも偶然見かけたという風を装って話しかける。
 殺すためではなかった。
 もうそんなことは出来なかった。
 彼女は今のところ、どう見ても悪人には見えない。
だから自分に彼女を監視させてほしい。そう、伊澄さんに頼み込んだのだ。

『それで、なにかあればハヤテ様が止めて、説得するというんですか? 会ったばかりの女の子のために』
 返す言葉はなかった。しかしそうするべきだと思った。
彼女がいつか過去に向けてテロを起こすとしたら、それはなんのためなのか。理由を僕らは知らない。だが、何か原因があるならそれを止める。傷ついて道を踏み外すようなら話を聞いて癒してあげる。
 最初から違和感があったんだ。誰かを守るために誰かの命を奪うなんて。
 誰もを救う方法があるなら、それを模索することを、僕らは放棄してはならないのだ。
『そんなことでは、元の時代に帰れるときにはお爺さんですよ。いえ、あまりに時間をかけすぎれば、わたしはあの時代を見失って、もう帰れなくなるかもしれません。……ですが、協力しましょう。わたしも出来ることなら、酷いことはしたくありません』
 そうして僕らは綺麗ごとを選んだ。

「怪しい、っていうのは酷いな」
 そうして僕は嘘を重ねながら、彼女との距離を縮めることに成功したのだ。
 そして、それから……。



 もし神様がいるなら、なんでこんな惨いことが出来るのか、一度問いただしてやりたい。
目を覚ました僕は、昔幽霊神父にもらった十字架を、潰れそうなくらい強く握り締めて、そう思う。
 かつて僕は、伊澄さんの手によって失われた未来を垣間見た。今、僕に起こった現象のように。
もちろん未来の断片が何もかも見えたわけではないし、彼女の助けがなければ不可能なことだ。だけどそれを、僕は何度も何度も繰り返した。そして三年前、僕は一度未来へと飛び、もう一度ここへ戻ってきた。
そして、つい昨日まで僕は自失していた。まともな思考回路を形成することが不可能なまま、時間を浪費してきたのだ。
 未来を垣間見て、時間を跳躍し、それによって僕の脳、あるいは精神になんらかの異常が起きた可能性は、十二分に考えらえられる。
彼女が適宜外していた僕のリミッターがバカになり、睡眠中の僕の意識が、失われた未来を欠片を勝手に観測するようになってしまった。ありえない話ではない。
そしてその場合、僕は眠るたびに、何もかもを救えたかもしれない可能性を見せ付けられることになる。
「勘弁してほしいな……」
 自分の失敗を毎晩毎晩見せ付けられるのだとしたら、それは拷問に等しい。
 僕ははっきりと覚えているのだ。
助けを求めてか、最期に誰かを求めてか、彼女が小さな手を伸ばす姿を。
 落ち着かなくて、僕は真っ黒に染めた髪を触った。ごわごわとした感触はあまり気持ちのいいものではないけれど、今は東京から出ることだけを考えなければ。
いつかこの街に戻ってきて、影からナギお嬢様を見守ることが出来ればいいと思う。僕が病院から抜け出したことを、お嬢様は知っているだろうか。理沙さんは怒っているだろうか。愛する主と愛しい人を、僕はまた傷つけてしまったのだろうか。
現実に堪えられる気がしなくって、僕はタバコのパッケージを破り、ライターで火をつけた。案の定、喉に絡まった煙は苦々しく、盛大にむせてしまう。すぐに火を消して、忌々しい有害物質を踏み潰した。
こんなものの何が美味いというのだろう。喫煙者の気持ちはよくわからない。
買うならお酒のほうが良かったな。現実から逃げるなら、多分そっちのほうがずっとよかった。 
 結局その日、僕は眠ることはなかった。
 十字架を握り続けたところで、神様が助けてくれるはずもなかった。


 突然だが、あなたは出会いがしらに銃を向けられた経験はおありだろうか?
 僕はある。そして今もホールドアップの真っ最中だ。
「やあ、ハヤテくん。また会えて嬉しいよ」
 朝風理沙さんの家に、初めて行ったときのことを思い出す。神社の地下で、僕と彼女はやたらと大きなワニに遭遇した。それを理沙さんは麻酔銃で撃ち、僕らは事なきを得たのだが……。
「まさか、それを向けられる日が来るとは、夢にも思いませんでしたよ」
「同感だよ。なあ、ハヤテくん。目が覚めたとき、君のすぐそばには今でも君を慕う彼女がいたし、大切なご主人様にも、君のことを心配していた友達にも、その気になれば会えたはずだろ? それなのにいつの間にかいなくなって、髪まで染めて、どこに行く気なんだ?」
小さな古着屋で適当に見繕って、うんざりするほど多い人ごみに紛れ込むのは、そう難しいことではなかった。公共交通機関を使うのは避けたかったから、どこかで自転車でも購入できれば、それでゆっくり移動しようかと思っていた。
 声をかけられて振り向いたときには、銃口はしっかりと僕を見定めていた。
彼女に遭遇したのは、きっと偶然ではなかっただろう。
正午に近づいた午前の秋空の下、姿は見えずとも僕と彼女の周囲には、目的を持って包囲を固めようとする気配がある。
「もう僕には、そんな資格がないからですよ。ナギお嬢様にも、みんなにも、そしてあなたにもです。出来ることなら、すぐに忘れて欲しかった」
 その瞬間の、理沙さんの表情を、どんな言葉に出来るだろう。悲しさか、怒りか、失望か、はたまた自責か。彼女の整った顔が歪んだその一瞬の隙間には、何もかもが混ざり合った、ミックスジュースの表面みたいなさざ波が浮かんでいた。
「それを決めるのは、君じゃなくてわたしたちだろう。愛想を尽かしたら、とっくに君のことなんて忘れてるさ」
「……僕は」
「知ってるよ。君が何をしたのか。何を悔やんでいるのか」
 驚きはしなかった。伊澄さんから聞いたのだろうか。僕がベッドで寝ていた時間の間、彼女たちが何をしていたのか、ほとんど僕は知らない。けれど、何もしないということだけはあるまい。
「軽蔑しないんですか? 僕は自分でも驚くくらいのクソ野郎だと思っているんですが」
「どうかな。荒んだ君の顔も素敵だと思うよ。ハヤテくん」
 僕は、演技でもいいから、うんざりした表情を作るべきだったのだと思う。しかし冗談めかした彼女の笑顔は、物騒な銃を持っているにも関わらずとても魅力的で、その言葉に、自分でもどうしようもない嬉しさがこみ上げてしまったものだから、それが顔に出ないようにするだけで精一杯だった。
「……からかわないでくださいよ」
「怒ったならごめん、謝るよ。でもね、君がどんなことをしたのかなんてのは、結構わたしにとってはどうでもいいことなんだ。現実味もないし、辛いのだとしてもそれをわかってあげることは出来ないし、君を裁く人がいるわけでもない。わたしが怒っているのは、君がわたしを置いてどこかに行こうとしたから。つまり彼女としてのささやかなわがまま」
 自嘲するように肩をすくめて、理沙さんは一歩、こちらに近づく。
 目を離す気にはなれない。銃口を避けて、狭まりつつある包囲網を抜けるにはどうすべきかを考える。そもそも逃げ切れるのだろうか。だったら、もういっそのこと、みんなが僕を軽蔑するように何もかもを話してしまおうか。なんなら多少脚色したっていい。そうだ、それでいい。そうすれば、みんなが僕を見捨ててくれる。こんな人でなしは地獄に落ちてしまえ。そう思われれば、それでいい。
「今の君がさ、何を考えているかくらいは、実を言うとわたしにもわかる気がするんだ」困ったように、彼女は笑う。「だけど気づいてないのか?」
「何をです?」
「捨て鉢になってる人間の表情じゃないってこと。ハヤテくん、君はなにもかもに怯えてるみたいな、そんな顔をしてるよ」
 お前は自分を騙そうとしているんじゃないか?
 理沙さんの表情と、僕の中で客観的に僕自身を見つめる視点とが、同時にそう囁くのを聞いた。
 腰からうなじまで、暑気を弾き飛ばすように、全身に鳥肌が立った。それを認めたら、もう走ることが出来ないと思った。
「そんな! ……そんな、こと、は……」
 僕は僕を責め続けなければならない。償いにならない自己満足だとしても、僕は“幸せになってはいけない”。そうだ、そうやって生きていく道しか、今の僕にはないのだ。ないはずなのだ。
 肩に手が置かれた。
 こちらを向く銃口のことも忘れて、振り向いた先には、見事な髭を生やした執事長と、美しい金髪をツインテールにした、高校生くらいの女の子がいた。
 見間違うはずもなかった。
「お嬢……」
 言い終える前に、女の子の痛烈な平手打ちが、僕の頬を張った。

 うわぁ、という声が、後ろから確かに聞こえた。
 3年の時間が経って、ナギお嬢様は背が伸びて、大人びた顔立ちをするようになって、ついでに言えば力も少々強くなったようである。
 それとは反対に、衰えきった僕の体は、強烈な平手打ちの衝撃に耐え切れずたたらを踏んだ。驚いてろくに考える余裕もないまま、お嬢様の声を聞く。
「3年待ったぞ。この馬鹿ハヤテ。いつの間にかいなくなって、ずっと心配かけて、ようやく会えたかと思ったら、ガリガリに痩せて、今にも倒れそうな顔をして。わたしが、マリアが、ヒナギクが、伊澄が、咲夜が、ワタルが、白皇の連中が、みんなが、どれだけ……」
感情に任せるまま、氾濫しそうな言葉を切り、お嬢様は震える手をこちらに伸ばしてきた。
 そして両手で、僕の胸倉を掴む。
「どれだけ! ……わたしが、どれだけ、心配したと思っているのだ! いつもの不幸に巻き込まれていたのならわかる。でも勝手にどこかに消えるなんてことは、わたしが許さん! 借金を返してもらうまで! わたしが、幸せになるのをしっかり見せ付けて! お前がわたしを振ったことを後悔して、地団太を踏むところを見るまで、お前を離したりするものか!」
 大きな瞳に、涙が膜を張っているのがわかった。それが零れてしまう前に、お嬢様は僕の背中に勢いよく両手を回して、がっちりと抱きついてきた。
 昔は僕の肩くらいの身長だったのに、今の彼女は頭を僕の左肩に乗せるようにして、顔を見られないようにしている。少しだけ背伸びしているけれど、僕とお嬢様の身長差は、驚くほど縮まっていた。
「お嬢様……」
「うるさい、馬鹿、見るな」
 耳元で、お嬢様がしゃくりあげながら、にべもなく言い切る。
 ということは、涙が引くまで離れるな、ということだ。
それは困った。
 というのも、成長した彼女は女性としても急激な成長を遂げており、ということは昔のような子供そのものの体ではないということで、慎ましいながらも確かな存在感を発する柔らかい物体が、薄い生地越しに僕の胸に押し付けられているわけで。
 僕は13歳の彼女をまったく意識しなかった。しかしそれは、16歳の彼女に女性としての魅力を感じない、ということは決してない。
「君たちの主従関係には、なんだか妬けるな」
 そう言って、背中側から理沙さんも抱きついてくる。感触については、もう何も言うまい。意識を鋼のように硬く保ち、前後のなにもかもを無視することに決める。
「……理沙。お前、この状況だとお邪魔虫も同然だぞ」
「気にしないでくれ。というか、わたしだって久しぶりなんだ。ハヤテくんをこうして抱きしめるのは。大目に見てくれたっていいだろう」
「ふん、まあいい」
「恩に着るよ」
 理沙さんはそこで一息。
 空いている僕の右肩にあごを乗せて、転がすように骨を刺激する。
「なあ、ハヤテくん。わたしも君も、もう二十歳だ。お酒も飲めるし、選挙にもいける、立派な大人の一員だ。子供の手本になるように、大人としての責任を果たすべきなんじゃないかな。借金を返す。主の幸せを見届ける。恋人を一方的に振らない。他にも色々、そんな感じで」
 軽い口調と、からかうような意図。だけど背中から感じる圧力は強く。
彼女の言葉は正論だ。
「です、けど」
「けど、じゃない。君はさっきから自分なんてって言ってるが、たとえどんな理由があったって、幸せを手放す理由にはならない。口をすっぱくして言っただろう? 君はわがままになるべきだって。誰も君を責めたりしない。責める資格なんかない。ただ、わたしたちのことをちゃんと見てよ。君の幸せを願う人が大勢いることを、思い出してよ」
 彼女の腕が、お嬢様ごと、僕を一層強く抱きしめる。
 泣いているのだろうか。
顔が見えないのに、僕はそんなことを思った。
幸せになるチャンスを見逃す理由などない。それはいつだったか、咲夜さんにも言われた言葉だ。誠実な言葉を返さねばならないと思う。ほんの少しだけ状況を忘れて、彼女の言葉に真正面から向き合わなければ。
ぼんやりとしていた脳みそを回転させて、心の奥底で自分が何を思っているのか覗き込んで、心臓の底にこびりついた一滴の勇気を振り絞って、僕は口を開く。
「僕は……」
「……ところで、ハヤテ、なんだか臭いぞ」
 空気を読まない言葉の槍が、僕の心を勢いよく貫く。
「ああ、確かに。なんだか匂うぞ。ハヤテくん」
 さらにもう一撃。
「た、確かに昨日は入浴もできませんでしたけど……。というかあの、今そういうことを言いたいわけではなくて」
「いや、体臭じゃないんだ。どこかで嗅いだことがあるような……」
「ああ、わかった。タバコだ。時々吸ってるSPがいて、匂いが移るってマリアにこっぴどく怒られてた。ハヤテ、もしかして不良になっちゃったのか?」
「いや、別に不良というわけでは……」
「確かに成人がタバコを吸っても問題はないが……」
「え? あ、あの……」
 というか乗っかるんですか?
 さっきまであなた主導で、シリアスな空気が出来上がってたと思うんですけど。
「吸ったといってもちょっとだけですよ? まずいだけでしたからすぐに捨てちゃいましたけど、そんなに匂いが染み付いてます?」
「染み付いてる。口臭が物凄いことになってる」 耳元で、物凄く心が傷つくようなことを言われる。「ふん、がっかりだよ。こんな煙臭い男が好きだったなんて」
「度量が狭いな。人の嗜好に口を出す女の子は嫌われるぞ」
 理沙さんのフォローとともに、背中から感じる圧力が少しだけ緩む。
「ふん、嫌われて結構。有害物質を撒き散らすような奴と一緒にいられるか」
 言うが早いか。お嬢様は顔を背けたまま、僕から離れていく。小さな落胆が心臓にすとんと落ちた。
 逃がすまいとでも言いたげに、理沙さんが僕を抱きしめる腕に、また少しだけ力がこもったのがわかる。
「そうか、わたしは好きな人のせいで死ぬなら、それでも満足だけどね」
「理沙さん、滅多なことを言うものじゃ」
 少しでも声が届きやすくなるように、僕は僅かながら左に顔を向ける。
言葉の続きは言えなかった。
いつかと同じように、懐かしい柔らかな感触と、清潔な石鹸の香りが、僕の唇を包む。
単純なもので、僕の驚きはさほどの時間もかからぬうちに、腹の底から脳天まで突き抜ける幸福感に取って代わられる。罪悪感も、決意も、鬱屈とした迷いも、困惑も、もう一人の少女の存在すら、洪水に巻き込まれた流木のように押し流してしまう。
かつて、僕と彼女との間で、長いキスはそれほど珍しいわけではなかった。
 違っていたのはその先だ。
 片手で後頭部を押さえつけられて、逃れられないよう固定される。口腔に割って入ってきた舌が、僕の歯を舐めとるように動く。驚きに僕の体は硬直し、首元から頬まで一瞬で紅潮するのを感じた。
 次の瞬間、小さくて硬い金属製の何かが、僕の口の中に転げ落ちてきた。
「――ッ!」
 抵抗は無意味だった。振りほどくことも、その鮮やかな舌使いを跳ね除けることも。
軽く鼻をつままれて、空気を求めた喉が勝手に開く。
 僕の喉は、その何かを嚥下せざるを得なかった。
瞳に映る色彩まで判別できそうなくらい近づいた彼女の目に、してやったりとでも言いたげな色が浮かんでいるのが見えた。
 そのあともたっぷり十秒ほど、僕らのキスは続いた。
 唇が離れた後、彼女は無性に懐かしい、悪戯に成功したあとのような、あの憎たらしい笑顔を作って見せる。昔よりずっと大人びた彼女が浮かべる子供のような表情が、激しく鼓動を刻む心臓を、今にも止めてしまいそうになる。
「満更でもない、って顔をしてるぞ。ハヤテくん」
 僕を抱きしめていた腕を解いて、彼女は踊るように一歩後ずさる。手を腰に当てて少し前かがみになって、からかうような「にひひ」という表情を隠そうともしない。
「……なんです? 今の」
「発信機」
「なっ」
 発信機? あれが? ということは……。
「君が思っている通り、君の居場所はわたしに筒抜けになったということさ。長い間体内に留まることになって、体外に排出されるのはいつになるやら、わたしにも見当がつかない。なにせ牧村先生の試作品だからな」
「な、なんて危ないものを人の体に入れてくれてるんですか!」
「まあまあ、死なば諸共ということさ。さっき言ったとおり、わたしは君のせいで死ぬなら本望だし、そのために何を捨てても構いはしない。何が言いたいか、わかる?」
「……わかりませんよ」
「嘘つき。わたしは君がどこに行こうと、絶対についていくと言ってるんだよ。君が誰に愛想を尽かされようと、わたしが何を捨てて何に見捨てられようと、ね。絶対に見つけ出すし、君が死んだらわたしもそこで死ぬ」
 彼女の表情だけを見れば、そこに狂気と呼べるものは見当たらない。むしろ誇らしげな風でさえあった。つまり彼女は正気で本気だ。
「さっきの話の続きだ。君はね、幸せにならなきゃいけないのさ。君を愛した人のために。そして君はもう、いくつかの義務を負わなければならない立場なんだ。
まず生きる義務。
借金を返す義務。
そして、君が愛した人を幸せにする義務」
言い切った理沙さんは、どうだ、と言わんばかりに胸を張っていた。
思わずため息が漏れる。そうだ、昔から変わらないことじゃないか。僕の彼女は呆れるくらい強引な方法で僕を引っ張りこんで、お互いが笑う道を探そうとするのである。
思えば、彼女と恋人として過ごした一年足らずの間、喧嘩をしたことは一度もなかった。その原因は多分これだろう。彼女のこういう強引さが、僕から苛立ちや毒気を抜いて、やるせない馬鹿馬鹿しさに変えてしまうのである。
今もそうだ。意固地になるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった僕は、自然と口元が緩むのを自覚していた。嫌われるためにそれを隠そうという気もしなかった。
というよりも、僕はきっと彼女に嫌われることを、最初から心から望むことが出来なかったのだと思う。
「覚悟は決めたかい? ハヤテくん」
 得意げな、いや“不敵な”笑みが、僕の心をまた揺らす。
「あなたといて、あんなに幸せだった理由が、なんだか今さらわかった気がしますよ」
 一歩一歩、彼女に近づいていく。
 彼女が差し出した手を引いて、胸元に抱き寄せる。僕と彼女の身長はほとんど一緒だから、胸に抱きしめて、独占欲を十全に満たすことは出来ないけれど、きっとそれでいいのだろう。予測のつかないことを悠々とやってのける彼女だからこそ、こんなに大切に思うことが出来るのだ。
「諦めがつきました。……不幸にかけては右に出るもののいない僕ですが、どうか、あなたを幸せにさせてください」
「期待してるよ。それに、間違ってるぞ。わたしも、君を幸せにするんだ。幸せは二人で作るんだからな」
「……そうですね、そうしましょう」
「なあ、ちゃんとわかってるかい? 君はわたしを嫌いだと言えば、わたしの言ってる屁理屈を真っ向からひっくり返せたんだぞ?」
 もちろん百も承知である。
言わなくてもわかることだと思ったので、僕は何も言わずにもう一度顔を近づける。
 今度のキスは短かった。
 それで十分だと、僕も彼女もわかっていた。
 

「三千院ナギさん」
 僕らのやり取りをじっと見つめていた小さな女の子に、僕は声をかける。心なしか顔が赤い気がするが、まあ気にしないほうがいいのだろう。
 ポケットに入っていたタバコを取り出して、それを箱ごと握りつぶす。くしゃりと潰れたそれを指でつまんで、彼女に見えるように掲げた。
「タバコはお嫌いとのことでしたので。――これで、というのも失礼な話だとはわかっておりますが、どうか一つお願いを聞いていただけませんか?」
 お嬢様の表情が変わるのを、僕は見た。釣り目がちなまなじりをさらに上げ、口を引き結び、彼女は真剣な面持ちを作る。
「言ってみるがいい」
 丁寧に一礼。
「僕は今、三千院家に一億五千万の借金をしているんです。これをきちんと返済しなければならないと思っています。それに、かつてそこにお仕えしていた頃からの、一つの心残りがあるのです。……主であった女の子をずっとお守りする。その約束を、果たせなかったことが」
 泣きそうな表情を、僕は無視することにした。僕自身、緊張と不安で今にも泣いてしまいそうだった。
「……それで?」
「一度投げ出しておきながら、こんなことを言うのは、大変心苦しいのですが、その心残りを解消する機会が、もしあるのなら、僕はその機会を離したくはないのです」
 僕は熱気の残るアスファルトに跪く。
 少々キザだっただろうか?
 頭を下げたまま、僕は不安を無視して言葉を紡ぐ。
「どうかもう一度、僕を執事として雇ってはいただけないでしょうか?」
「わたしを、守ってくれるのか?」
「あなたが僕を邪魔だと思うまで、ずっと」
「わがままな主でも?」
「慣れていますよ。そのほうが楽しいくらいです」
「不満があるから、どこかに行ってしまったんじゃなかったのか?」
「それはやむを得ない事情と、僕自身があなたのそばにいる資格がないと思っていたからです」
「今は、思っていないのか?」
「実を言うと……、よくわからないんです」誰にも見られることのない苦笑が、つい顔に出てしまう。「駄目だと思ったら、どうか放り出してやってください」
「そんなことをするか、馬鹿者」
 作法に反して、僕は思わず顔を上げてしまった。
 懐かしい主の泣き顔が、そこにはあった。
 彼女は涙を隠そうともせず、ただ手を差し出す。
「こっちからクビにした覚えはないんだからな。執事をやろうというなら、すぐにでも元通りだ。……だけど、ここはハヤテの意思を尊重してやる」
 意地っ張りな内面が透けて見えるようで、僕は苦笑しそうになるのを堪える。
あの頃の僕は、途方に暮れた少年で。
 あの頃のお嬢様は、退屈な女の子で。
「もう一度、わたしの執事を、やらないか?」
「……はい」
 今の僕らは、喧嘩のあとの、遠回りな仲直りをしようとする、不器用な子供のようだった。
本当は、僕が一方的に悪いのだけど。
 謝罪の意味も込めて、僕は小さな手をとり、手の甲に口付ける。
 バッ、とお嬢様は手を引いた。
 その顔は耳まで真っ赤になっていて、驚いて飛びのいた猫みたいな体勢のまま、なんだか恨みがましそうな声を上げる。
「そういうことをするから、誤解されるんだ……」
「同感だ……」
 何故か理沙さんまで、僕に計り知れない馬鹿を見るような視線を向けてくる。
 ……失敗したかな?
「ハヤテ、今のお前は一応彼女がいる身なんだから、主人相手でもこういうことをするのは……その、駄目だぞ」
「相変わらず、無意識に女の子を落とすのは得意なんだな。ハヤテくん」
 誠意のつもりだったのですが……。
 手の甲への口付けは忠誠の証である。
 しかし女の子にとっては、口付けという行為そのものが、神聖かつ不可侵な儀式的なものらしい。
「い、以後、気をつけます」
 二人分の視線の圧力に気おされて、僕は頷く。
 お嬢様は気を取り直したように、背後を振り向いた。
「クラウス、この新しい執事に執事服の用意を。それと、色々と教えてやれ。仕事のやり方を忘れているかもしれん」
「は、お任せください」
 それまで一度も喋らず、はっきり言ってしまうと途中から存在そのものを忘れられていたクラウスさんは、丁寧に一礼する。
 そして僕に向き直ると、しわの増えた顔にどこか嬉しそうな笑いを浮かべる。
「この三年間、久しぶりに忙しい日々だったぞ。一から仕事を叩き込んでやるから、覚悟しておくといい。だが……、さし当たっては体力を戻さなくてはな。お嬢様、帰って食事といたしましょう。まだまだ暑い季節ですから、マリアが精のつくものを作ってくれているはずです。――朝風さまも、ご一緒にいかがですか?」
「ええ、是非」
「なんだ、来るのか」
 お嬢様の憮然とした表情に、僕は笑みがこぼれるのを自覚する。
 歩き出したお嬢様と理沙さんについていくように、僕とクラウスさんも歩を進める。
「ナギちゃん。来るのか、とはなんだ。来るのか、とは」
「ふん。どうせ今日中にパーティーでも開く気なんだろう。そのときでもいいじゃないか。というかだな、食事中に目の前でイチャイチャされたら鬱陶しいんだよ」
「僕ら、人前では基本そんなにくっつきませんよ? さっきのは特別です」
「そうだそうだ。人をバカップル呼ばわりするのは止めていただこうか」
「バカップルじゃなくても馬鹿には間違いないだろうが。何を自慢げに言ってる」
「天才基準で人を馬鹿扱いするなー! これでもちゃんと大学に受かってるし、勉強だってついていけてるんだぞー」
「大学生ですか。もう理沙さんに勉強を教えることも出来なくなったんですねー」
「今からでも勉強してみたらどうなのだ? 成績が悪かったわけではないのだろう? お嬢様も大学生だし、教養を身に着けるにはいい機会かも知れんぞ?」
「いえ、執事に専念させていただきます。とにかく仕事をちゃんとやらないと。キャンパスライフに憧れているわけでもないですしね。同じ学校じゃなくなったからといって、理沙さんに会いに行くのにいちいち理由をつける必要もないことですし」
「あ、友達に彼氏として紹介する必要があるな。これでちゃんと合コンに断りを入れられるよ」
「時間を作って大学まで会いに行きますよ。そのときにしましょう」
「ふふ、楽しみだな」
 屈託なく笑いながら、理沙さんは腕を絡めてくる。肩が触れ合って、歩幅を合わせて、僕にはそれが心地よい。
「早速イチャついてるじゃないか……」
 お嬢様は呆れたように肩を落としてみせる。
 すいません。前言撤回します。僕らがバカップルです。
 あ、そういえば。
「お嬢様、一つお聞きしたいことがあるんですが」
「ん、なんだ? ハヤテ」
 さっきの会話に、一つ気になる点があったのだ。

「僕に惚れてた。というのは、本当なんですか? 振ったというのも、なんのことだかよくわからないのですが」

 空気が凍る音というのを、久しぶりに聞いた気がする。
 信じがたいものを見る目を向けてくる、お嬢様と理沙さん。天を仰ぐクラウスさん。雰囲気の変化に、地雷を踏み抜いたことを悟る僕。
「こんなところも、相変わらずか」
 理沙さんの声が、緊張の最中にある僕の耳には、実際以上に遠く響く。
 衝撃から立ち直ったお嬢様の目は屈辱と怒りに燃え盛りはじめ、拳は力強く握り締められていた。
「ハヤテの……」
 運動不足で引きこもりな、現代っ子の代名詞のようだった少女が体をそらすように振りかぶった構えは、見違えるほどに力強く。
「馬鹿ァァァ!」
 意識を失う寸前まで、僕は妙な安心感を抱いていたのだった。
 変な奴だと思われるようなら、心外なことこの上ない。
なにせこれは、僕が愛した日常の光景であるのだから。