Re: そして朝風と寄り添うように ( No.1 ) |
- 日時: 2015/05/30 14:48
- 名前: ひよっくー
- 難儀なものだ。歪なあなたを誰もが讃える。
16歳のわたし、朝風理沙にとって、学校生活は基本的に退屈で、それでいて愛すべきものだ。だからこそ、わたしは日常の範囲内で物事を楽しむための努力を怠らない。親友の美希も泉も、そのあたりは同様だろう。ヒナギクだって、些か真面目に過ぎるところはあるけれど、毎日を精いっぱい生きていることに変わりはない。 だけど彼はどうなのだろうか。 わたしはこのところ、その人のことを良く考える。 お人よしで、いつも自分の主をはじめとして、人のことばかり考えている彼、綾崎ハヤテは、自分の人生を彩ることを、ちゃんと考えながら生きているのだろうか。 彼と話す機会が増えてから、わたしはそんなことを考えてばかりいる。
涼しいが寒いに変わり始める秋の日。二人で防寒着をしっかり着込んで、わたしとハヤテくんは木陰に座り込んでいる。少し動けば汗ばんでしまうだろうけれど、わたしたちがそうすることはない。 「ハヤ太くん。本当に大丈夫なのか?」 「心配要りませんって」 そう言って、ハヤテくんは苦笑しながら、わたしをなだめる。大げさすぎると彼は笑うけれど、わたしは至って真剣だ。 一月ほど前のこと。 彼は学校に来てから様子がおかしかった。気になって尋ねてみれば、学校に関することは、白皇に通っていたということ以外、ほとんど何も覚えていないというのだ。 カウンセリング、診察を経て、突発的な記憶喪失だという診断が下された。 原因は不明。ストレスが原因なのではないか、というのは、なんだか無理矢理に原因を仮定しているように思えたけれど、人に辛いところをなかなか見せようとしない彼のことだから、それが一番ありえそうに思えた。 今ではいくらか回復したけれど、まだ思い出せていないことも多いのだ。「仕事のことは体が覚えているから、心配ないですよ」などと言っているけれど、今は主のナギちゃんにもゆっくり休むように言われて、暇を貰っているらしい。 放課後はこうして、学校を回ったり、わたしとお喋りをしたりする。記憶を取り戻すため、なのだが、最近はわたしと喋ることのほうが多くなった。 「住まわせてもらっておいて、働かないなんて、ニートみたいで心苦しいんですよね……」 「まあ、それだけ心配してるってことだろう。心遣いはありがたく受け取っておくべきだぞ。ハヤ太くん」 常になく、わたしは優しい声をしていたと思う。こんなのキャラじゃない、とも。気を遣われたら嫌になることだってあるだろうに、どうしてもわたしには、そんな対応しか出来ない。 「そもそも主人のナギちゃんからして、ニートみたいな生活を送っているじゃないか」苦し紛れに、そんな冗談を言ってみたりする。 ハヤテくんは、喉の奥で呼気を転がすように、小さく笑う。 「朝風さんに優しくされるのは、なんだかいつまで経っても慣れませんね。いつも新鮮な気持ちにされますよ」 「またハヤ太くんは、そうやって人の好意をからかう……」 「いえ、感謝しているんですよ。本当に」 また、そう言って人のよさそうな笑みを浮かべる。 わたしはその笑みに、責められているような錯覚を覚える。 親友の美希も泉も、ここに来ないのはなんとなく似たようなことを考えているからだと思う。ヒナギクも、雪路も、ホモも、他のみんなも、同じようなことを考えているのだ。彼はいつも周囲から被害を被ってきた。彼が記憶を失うほどにストレスを感じていたのなら、それはもしかして、自分のせいではないか、と。 「……そろそろ、帰りましょうか」 芝生から立ち上がって、ハヤテくんは提案する。こちらの本音を見透かしたような態度に、一瞬、怖くなる。今の状況に、戸惑っていないはずがないのに、自然に気を遣う彼が、なんだか他人のために磨り減っていくような、そんな気がする。 なんだかんだで、彼のそばはいつだって心地いい。だけどそれは、彼がいつも、誰かのために無理をしていることを証明しているようで。 だから、きっとわたしは一人で空回りして、焦って、こんなことを言ってしまったのだと思う。 「なあ、ハヤテくん」 言ってから、物凄い恥ずかしさに襲われた。衆人環視の中に裸で放り出されたような、そんな気分だ。 わたしと彼の間には、いつだって冗談の壁があった。名前を言い間違えるというのはその際たるもので、わたしが彼に向ける感情をフィルタリングしていた。 ここからは、それがない。 真っ白になりかけた頭で、どうにか言葉をつむぐ。 「きみは、もっと、周りに、わがままを、言っていい。そう、思う」 声はどんどん小さくなって、最後のほうは自分でも聞き取れなかった。 きっと顔が真っ赤になっていたと思う。いつだって、わがままを聞いてもらっていたくせに、図々しくはないだろうか。そんなことを思う。 反応を見るのが怖くて俯いた。彼の顔に、ひとかけらでも迷惑そうな、あるいは失望したような色があれば、わたしはきっと立ち直れないだろうから。 わたしが、夕焼けに染まって金色の絨毯みたいになった芝生とにらめっこをしていたのは、そう長い時間ではなかったと思う。 「……それじゃあ。何か、一緒に食べていきませんか? 夕飯に差し支えない軽食とか、もしくは、コーヒーとか」 声が返ってきても、まだ顔は上げられなかった。そよ風に揺れる芝生をにらみながら、なんとか声を絞り出す。 「なんなら、奢ってあげてもいいんだぞ」 「いえ、そこまで言うのは、わがまま初心者の僕には荷が重いので」 顔を上げると、彼の笑顔がそこにあった。とびっきりの冗談を言った後みたいな、なんだか茶目っ気のある表情。あまり面白くはなかったが、わたしも笑った。 「スタバでどうだ」 「行きましょうか。あ、そうだ。今お嬢様がバイトをしている喫茶店もあるんですけど」 「そうか。じゃあハヤテくん。これはわたしからのわがままだ。二人っきりがいい」 不敵そうに笑えたと思う。いつものわたしみたいに。 後から思えば、わたしは俯くべきじゃなかった。ずっと彼の目を見ているべきだったのだ。
二人が付き合いだすのに、そう長い時間はかからなかった。悔しいことだけど、多分相性がいいのだ。きっとわたしよりも。 ハヤテ君が誰かと交際をするにあたって、おぼろげにわたしが予想していた障害。つまりはナギのご機嫌については、結局、危惧していたほど悪くはならなかった。彼に対して好意を寄せていた人は数多くいたけれど(たとえばわたしのように)、今でも概ね良好な関係のままだ。きっとそれは理沙に負けた、とみんなが理解せざるを得なかった。というのが大きい。 ハヤテ君が大変なときに、一番近くにいたのは理沙だった。みんなが彼を傷つけてしまうこと恐れてデリケートになっていたときに、彼女だけは近づいて、傷を癒すことを選択した。自分が傷つきたくなくて、彼のためだと心を偽ったわたしなんかとは大違いだ。 わたしは今でも覚えている。夏の終わりごろだった。夏休みが終わって色々と慌ただしくて、そんな中で学校に現れた彼の、迷子になったような途方に暮れた顔。クラスのみんなのこともほとんど覚えていなくて、結局彼は少しだけ泣いた。 その時の「ごめんなさい」という言葉で、わたしはこれ以上ないくらい打ちのめされた。そんなものは見たくなかったし、聞きたくなかった。わたしは彼に、何かをしてあげるべきだったのだと思う。少しでも恩返しをするべきだった。 だけど動けなかった。 きっとわたしに、彼のそばにいる資格はないのだと、そのとき思った。 理沙と付き合うようになって、ハヤテ君は少し積極的になった。もともと行動的ではあったけれど、人間関係で受身に回ってばかりだった頃と比べて、よく冗談を言うようになったり、慌てることが少なくなって、紳士的な態度で接するようになったり、言ってしまえば大人になったというか。魅力的になったというか。 それが彼女と付き合いだしてからの変化だというのが、なんとも憎たらしいものなのだけど。 今でも彼は生徒会室に手伝いに来るし、あの三人がサボることも少なくなった。ハヤテ君と他の女の子が二人きりになるような状況が嫌な理沙と、彼女と離れたくない泉に美希、そして険悪な関係にならないよう絶妙にフォローを入れるハヤテ君。 調和が取れているというか、取っているというか。以前までの彼なら、状況に流されて、その状況自体が悪い方向へと向かっていったように思う。恋は人を成長させるということか。ああ、まったく。 「どうしたんですか? ヒナギクさん」 「いいえ、なんでもないわよ。ハヤテ君」 顔に出ていただろうか。神妙な顔を作って、彼から書類を受け取る。 と、同時に、さりげなく理沙のほうを伺ってみる。一見仕事をしながら他愛ないお喋りをしているように見えるけれど、長い付き合いのわたしにはわかる。あれはこちらを監視している目だ。目に見える嫉妬は表に出したくないけど、やっぱり心配だし気になる。そんな葛藤が、彼女の背後に浮かんで見える。 仕方のない子だ。 やれやれ、なんて心中で呟いて。わたしは浮き輪を投げることにした。 「もう何度も言ってるけど、ハヤテ君と理沙が付き合うって、きっと半年前のわたしに言っても信じなかったでしょうね」 「意外ですか?」 「そうね。理沙なんて誰かと付き合うってイメージがなかったし」 「失礼だな。ヒナ。わたしはこの中でも、随一の乙女だと自負しているぞ。まあ一番の乙女はハヤテくんだろうが」 「それで言うと、一番男勝りなのはヒナギクさんですか」 「よくわかってるじゃないか。流石は我が彼氏」 「ちょっ! ここで反撃するなんてずるいわよ!」 思わず机を叩くと、ニヤニヤした顔を隠しもせず、美希が話しに加わる。 「ほら、落ち着けってヒナ。帰りにハンバーグ食べさせてあげるから」 「美希! 子ども扱いもしないで!」 「何か食べるならお菓子にしようよ。ケーキとクッキーを、いいんちょさんは所望します」 「泉。所望なんて難しい言葉よく知ってたな。意味はわかってるのか?」 「知ってるに決まってるでしょー!」 なんで助け舟を出すつもりが、こんなに騒がしいことになったのだろう。 わたしは結局、その日予定していた仕事を諦めることにした。 元々余裕はあるのだから、今はもう、この騒がしさに身を任せてしまってもいいだろう。 自分でも驚くほど穏やかに、そんなことを思った。
彼が仕事を再開しても、わたしとハヤテくんが二人並んで座る放課後の時間は変わらない。広すぎるこの学園をあちこち歩いて、気が向いたら腰を下ろして、二人で話をする。 運動部のランニングの掛け声や、吹奏楽、軽音部、合唱部の音色が遠く響き合い、風に揺れる木々のざわめき、鳥の鳴き声が雑多に混ざる。 そんな雑然とした音の世界に、ふと静かな時間が訪れる。 軽口を止めて、目を閉じて、わたしはハヤテくんの前で無防備になってみる。 予想していた、ついばむような口付けを、わたし余裕綽々といった体で受け入れる。もちろん虚勢だ。心臓の音を聞かれてしまいそうなくらい、わたしの血液は緊張から体中を波打っていたし、普段の十分の一も動かない頭と心で、邪魔が入らないように、神様に祈ってさえいた。 「少しは、上手くなりました?」 目を開けて、離れた彼の顔を見れば、なんだか少し得意げで、いつものくせで憎まれ口の一つでも叩いてやりたいのだけど、心と喉は嘘を吐くなと、それに反抗する。 仕方がないから、素直になってやるとしよう。 「ああ、凄く。きっとわたしのほうが下手なんだろうな」 愛はきっと、お互いを強く抱きしめあうことで伝わるんだと思う。わたしは彼にそれを伝えたくて、のしかかるようにして彼のほうに倒れこむ。 ポン、と二人の厚着が空気を弾いて、わたしはハヤテくんの腕の中に収まる。難なくわたしを支えてよろけもしない彼に、男らしさを感じる。 見た目からは想像できないけれど、彼はとても強いのだ。 少しだけ早くなった心臓の音と、背中に回しあったお互いの腕に身を任せて、わたしたちはそのまま、ぬくもりを確かめ合う。 なんだか最近、ハヤテくんが凄く大人びて見えるときがある。いつだって笑っているけれど、微笑の消えた彼の顔立ちは、普段の幼げなイメージとはかけ離れた、泰然自若とした青年のような趣がある。 わたしはそんなハヤテくんが好きだ。思うだけでも気恥ずかしくて、口にしたならきっと、わたしは緊張で体が爆発してしまうんじゃないかと思う。 「上手いですよ。きっと。比較は出来そうにないですけど」 「当たり前だ。そんなこと言ったら軽蔑してやるんだからな」 「心配しなくてもしませんってば。……それに、理沙さんは、甘え方なら世界一上手いですよ。それだけは保障します」 耳元で交し合う会話に、わたしは返球しなかった。黙って身体を押し付けて、彼の背中側に顔を突き出すような格好になる。今の顔を見られたくない一心なのだけど、きっとこういう行動が、彼の目には甘え上手の動かぬ証拠と映ってしまうのだろう。 違うと否定したってうそ臭いし、弁解のために顔を見るなんて、心臓が耐えられそうになかった。それに、わたしをからかうような彼の声は、優しくて嬉しそうだった。 他にも色んな理由から、わたしは甘え上手の汚名を被ることに決めたのだった。 もちろん口に出すことはなく。 ただそこを立ち去るまでの間ずっと、何も言わずに彼を抱きしめて、彼に抱きしめられていた。
朝風神社の宝物堂には、先祖代々の蒐集癖の結果とでも言うべきか、いわくつきの骨董品だの貴重な絵だの、歴史的に見ればそれなりに価値があろう日本刀だのが、壁際の棚に無造作に並んでいる。 ヤンチャな子供だった頃の私にとって、ここは兄と忍び込んで探検して回れるかっこうの遊び場だったのだけど、ここを管理している祖父に見つかって日本刀片手に追い回され、宝物堂はわたしと兄にとって、拭いがたいトラウマの象徴になったのだった。 せっかくのお休みの日に、わたしとハヤテくんが、何故そんなところに来ているのかというと、その手の骨董品の管理や修繕にも詳しいということを、彼が言ったからで、最近いよいよボケてきたお爺ちゃんが、ちょうど維持管理の専門家を探していたからで、これは本当についでなのだけど、彼を家族に紹介できたら、というわたしのささやかな願望があったからでもある。 将来どうなるか、ということを実はわたしは良く考えていない。高校時代に付き合った人と結婚する、というのが割と夢物語に属することだというのは、なんとなく知っているし、いかに私の家がお金持ちだからと言って、婿養子のために一億五千万をポンと出せるほど彼に甘いかといえばそんなことはいやいやわたしは何を考えているんだ。 「あの、顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」 「大丈夫だ!」 何も心配することはない、という意思を込めてサムズアップ、ついでに胸を張って、わたしは彼の言葉をさえぎる。 ハヤテくんの不安そうな視線は、やがて宝物堂の中に戻っていった。真剣な目つきで、いつの時代のものかよくわからない壷をさまざまな角度から眺めて布巾で拭いたり、古書をパラパラとめくってから天日干ししたり、日本刀をゆっくりと引き抜いてから綿でほこりを取ったり、真剣そのものだ。真剣だけに。 「なかなかいい手際じゃな」 入り口のあたりでそれを見ていたお爺ちゃんが呟く。わたしは振り返るけれど、お爺ちゃんはずっとハヤテくんの手つきを見ている。わたしは彼が盗みなんてするわけないと思っているけれど、お爺ちゃんにとっては自分の管理する骨董品をいじくる彼の手つきを、端から信用するわけにはいかないのだろう。一度は賽銭泥棒と間違えた相手だし。気分はどうあれ、それくらいはわたしにもわかる。 ハヤテくんは無造作に置かれた護符を手にとって、裏を見て、書かれた文字を数秒注視して、元の場所に戻した。ああいったものへの対処は専門外だったのだろうか。 「お爺ちゃん、一応言っておくけど、ハヤテくんはいいひとだぞ」 「それはわしが見てから決めることじゃよ」 「あと、わたしの彼氏でもある」 お爺ちゃんは絶句し、ハヤテくんは新たに手にとっていた壷を危うく落としかけた。 恨みがましそうな、爆弾を投げないでくださいよ。という視線を受けて、わたしはにやりと笑って見せた。兄とイタズラを繰り返していた、一人のヤンチャな女の子に戻ったようで、なんだか少し気分が晴れた。 作業はそれから放課後や休日に暇を見て続けられたけれど、お爺ちゃんの視線は、警戒よりも品定めのほうに重点が置かれたように、わたしは思う。
余談ながら、ハヤテくんはこのとき、保護修繕した品を一つ一つリストアップしていた。比較的管理がずさんだった我が家の宝物堂において、それが重宝したのは、また別の話である。宝だけに。
うちの彼氏には甲斐性がないものだから、基本的にデートは割り勘である。お互いの経済状況からすれば、わたしが毎回奢ったっていいくらいなのだけど、それは流石に拒否された。 「殿方のプライドというものは、わたしにはよくわかりませんわ」 口元を隠してオホホなんて笑ってみる。 「微妙に似合っているところが、またなんとも嫌味だな」 「いつも悪そうな顔してるだけで、理沙ちゃんほんとは美人さんなんだよねー。気品があるっていうか」 「……そんなに、普段のわたしは駄目かな?」 「あ? え? い、いやそんなことないよ? いつだって理沙ちんは美人さんだよ?」 「美希、泉がいじめるんだ……心にもないことばかり……」 「ち、違うよ! 理沙ちん泣かないでー」 「泉、……遊ばれてることに気づけ」 今は昼休み。三年生になっても、わたしたちの会話は変わらない。 これはとても望ましいことだし、幸せなことだ。実のところ、ハヤテくんと付き合い始めるにあたって、泉やヒナとの友情にヒビが入ってしまうのではないかと危惧していたのだけど、結論から言えばまったくもって杞憂でしかなかった。友情は恋より硬いのだ。 「しかしそうなると、デートも中々難しいんじゃないか? というか、お前たちは趣味が合うのか?」 美希の疑問は案外痛いところを突いている。わたしはハヤテくんがわたしに合わせて、自分自身は楽しめない、という状況が一番嫌だ。といっても、ハヤテくんの方からすれば、わたしがつまらなそうにしているというのが一番嫌だ、ということになるだろう(このあたりは、付き合い始めの頃に話し合った内容である)。 結局のところ、お互いが楽しめてなおかつ金銭的に負担の大きくないデートを、という目的が十全に果たされているかといえば、課題多々、といったところである。 放課後に二人で話しているだけでもわたしは幸せなのだけど(もちろんこんなことは二人には話せない)、二人で遊んで楽しみたい、というのはまた別の願望なのだ。 映画を見に行ったり、遊園地に行ったり、一緒に食事をしたり、ゲームで狩りをしたり、お茶を点ててみたり、恋人同士でやることなのか疑問符の残ることも色々やった。それでももっと、と思うのはわがままだろうか。一緒に楽しめることをなにもかもやり尽してしまったら、わたしと彼の間にある恋人同士の感情は、飽きという名の逃れ得ない奈落に落ちて、消滅してしまうのではないか。 そんな無形の不安を振り払いたくて、わたしは色んな遊び方を彼に提案しているのだ。 「どうなんだろうな。わたしの趣味はハヤテくん寄りになっている、と思うんだけど、向こうがどうかとなると……」 そんなわたしのセリフに、まず美希が驚き、ついで泉も可愛らしく口元を押さえて、少し身を引いた。 「え? な、なんだ?」 「いや……、そうか。当たり前だけど、理沙はハヤ太君のことをハヤテくんと呼んでるんだな」 「恋人同士だし、そんなものなんだろうけど、今の呼び方、なんかいつもの理沙ちんの喋り方より、すっごく優しそうだったよ。愛がこもってたっていうか」 ぬあああああああああああああ!!! 失態だ。 あまりにも恥ずかしくて、わたしは頭を抱えた。 いつだって二人の前では、ハヤ太くんと呼んでいたというのに。そもそもなんで、名前呼びしていることがばれるだけで、こんなに恥ずかしい思いをしなくてはならんのだ。 「理沙ー?」 「今は何も聞かないでくれ…………」 「そうか、ならもう一人に聞こう。ハヤ太君。君はうちの親友から、いつも名前で呼ばれているのかね?」 いっそここから逃げてしまおうか。 「ええ、そうですよ。恥ずかしがることないんですけどねえ」 君もなにを普通に答えてるんだ。愛しの彼女が頭を抱えているのが見えないのか。 「あと、うちの彼女をあんまりいじめないでやってくださいね」 「……その発言のほうが、理沙を追い込んでいると思うぞ」 「理沙ちゃん耳まで真っ赤だー」 この隠れ鬼畜め……。 結局わたしは午後の授業が始まるまで、ややニヤケ気味の顔を戻せないまま、俯いていたのだった。
「時間は未来から過去に流れる、っていう言葉があるんですよ」 夏休み前の期末テストが終わった頃、ハヤテくんはそんなことを言った。わたしたちの雑談の種は意外と節操がない。というよりもハヤテくんの雑学が豊富なので、わたしは彼の話を聞いてはなんだか一つ賢くなったような錯覚をして、それを自慢げに親友たちに話したりするのである。 「それは、普通に考えて逆じゃないのか?」 「ええ、僕らは普段、過去に原因があるから、未来でその結果が起こる、という考え方をしています。勉強しなかったから補習を受ける羽目になった、とか」 「……今回は、補習は一個だけなんだからな」 「大幅な進歩ですね」 さらりと言う彼は、一時期記憶をなくすなんて騒動で、勉強も停滞していたというのに、今では成績優良生。普段の努力の賜物なのだろう。でも劣等生をいじめるのは止めて欲しい。 「話を戻しますと、この考え方は、未来にある結果が先にあって、その原因が過去に生まれるんだ、という考え方なんです。時々ビジネスや受験生相手のうたい文句に使われてますね」 「受かりたければ、受かるための勉強をしろということだな」 「そういうことですね。流石に飲み込みが早い」 「ふふふ、もっと褒めるがいい。あ、いや、頭は撫でなくても……、いやなんでもない。……でも、それがどうしたんだ?」 「最近ではそれを題材にした、未来が確定して過去が変わるっていうSFがでてるんですよ。なんとなく小説を読んでみたら、これが面白くって。……嫌じゃなければ、このまま撫で続けますけど、いいですか?」 「誰か通りがかったら恥ずかしいから、それはあとで。その本は気になるな。タイトル教えてよ。あとで注文する」 「貸しましょうか?」 「いや、いい。きっと時間がかかると思うんだ」 「読書はあんまりしませんもんね。それで、タイトルは……」
結論から言ってしまうと、わたしがその本を読み終えたのは夏休みが終わる直前だった。 海外のSFで、未来を変えるために秘密裏に作られたタイムマシンを使って、過去を奔走する警察官と、彼の手から零れ落ちていく無数の未来を描いた連作短編。ラストでは前提が崩れ落ち、ハヤテくんが言う、未来が確定して過去が変わる、という理屈が正しいのだ。という話から、男がそれに反抗してもう一度歩き出す。というストーリー。最後は未来に行ってしまうのだ。 紹介されたときから既に、わたしはネタバレを食らっていたことになる。特別腹立たしいとは思わなかった。わたしが特に注目して読んでいたのは、主人公と一人の少女が、仕事に翻弄されながらも恋を育んでいく過程だったからだ。結局最後には、主人公はヒロインを置いて、男として最後の仕事をしに未来へ行き、そこで残りの人生を過ごす、というストーリだったのだけれど。 後味がいいとは言えないが、それでも面白い話だった。文句は次に会ったとき、たっぷり言ってやればいいだろう。 一応言っておくと、夏休みの間、ハヤテくんに会えたのは片手で数えられる程度の回数である。 三千院家は、というかナギちゃんは同人誌を描くのに集中するのだそうで、ハヤテくんはそれを手伝うのだそうな。そしてそれが終わったらバカンスにもでかけるらしい。まあ、彼女より主を優先するのか? なんて文句は、下手をすればわたしたちの関係を崩しかねない爆弾だ。口にする気はない。 それにわたしはわたしで、毎年夏休みはかけがえのない友人と旅行に行ったり、ダラダラと駄弁って過ごすのが慣例だ。友人と彼氏のどちらを優先するか。というのは、わたしたちがその時々で決めることであって、基本的に固執することはない。愛する人しか目に見えない、なんて関係ではないのだ。 それでも、よく写真つきのメールを送りあったり、電話をしたり、旅行先が近いと知って予定を変更して突撃したり、そんな風にして、わたしと彼の夏休みは過ぎて行った。 夏休みが終わり、少しだけ日焼けしたわたしは、彼に会った。文句を言うのも忘れて「あの本。すごく面白かった」と言うと、ハヤテくんはなんだか誇らしげに笑った。それなのに、どこか寂しげな印象を受けたのは、わたしの錯覚だろうか。 前見たときより大人っぽく見えるのも、きっとあまり会えなかったこの夏の間に、色々と苦労をしたせいなんだろうな。 そんなことを思っていたわたしを、彼は突然抱きしめた。 みんなに冷やかされた。 わたしは恥ずかしくて真っ赤になっていた。彼は楽しそうに笑っていた。 幸せだったと思う。
綾崎ハヤテが行方不明になったのは、それから一週間ほど後のことである。
彼の行方不明に関連するあれこれの騒動については、わたしはほとんど覚えていない。ただ、ナギちゃんが手配した捜索隊、それから警察への連絡が、功を奏するように祈っていたことは、なんとなく覚えている。 祈りも虚しく、ハヤテくんは三日経っても、一週間経っても、一ヶ月経っても、半年後のわたしたちの卒業式になっても、姿を見せることはなかった。 死んではいないはずだ。とは、わたしとは違って霊能力を持つ本物の巫女、鷺ノ宮伊澄の発言である。身近な誰かが死んだなら、自分にはわかるはずだ。と。彼女の言葉を、今さら疑う余地もない。それがわたしたちの、一縷の希望になった。 皮肉なことなのだけど、ナギちゃんが学校に来る頻度は、彼がいた頃よりも増えた。朝起きてハヤテくんがいないことを確認し、それでも学校に来れば、何食わぬ顔で自分の席に座っているような気がするのだという。 悲しい想像だと、わたしは思う。 人のことを言える義理もないだろうに、わたしは彼女を励まそうとした。仲のいいみんなで集まって、彼の思い出話だとか、帰ってきたらどんなお仕置きをしてやろうか、なんてことを殊更冗談交じりに話しては、傷を舐めあった。 時間が経つにつれて、そんなことをする機会も減っていき、わたしはいつしかどこか義務的な、彼は帰ってきたか、という質問を繰り返すようになった。 よくもまあ、あんな非生産的で暗いやり取りに、短気な彼女がかんしゃくを起こさなかったものだと思う。 ともあれ、わたしは高校を卒業。受験勉強の甲斐もあって、どうにか、という体ではあるけれど、晴れて大学生の身分を手に入れることができた。 情けない話だけど、彼のことを過去にするのは、この時点でのわたしにはとても不可能なことで、結局彼氏の一人も、作ることは出来なかったのである。
お酒の飲み方を覚えて、代わり映えのない面子と、成人とは思えない遊びに精を出して、時々は新しい友達と笑いあって、気まぐれに勉強して、そんな風にして、わたしの大学生活は過ぎていった。目に見えて堕落したわけではないけれど、やっぱりなんだか惰性で生きているという思いはあった。 ハヤテくんに会いたかった。 もはや遠い昔のように思えるあの日々のことを、わたしはどうしても忘れられずにいる。 不敵と冗談と馬鹿な真似は、わたしの得意技だったはずだ。でも、それでは人を誤魔化すことは出来ても、私自身を助けることは出来やしないのだ。 わたしの悪い癖をすぐに見抜いてしまう彼に会いたい。見ているだけで本音を言わずにはいれなくなる、彼のあの眼差しが恋しい。優しさに包まれて、優しさを返してあげたい。 「一体、どこをほっつき歩いているんだ」 いつまで待たせる気だ。 そんなことを、わたしは何度となく呟く。 彼のことを振り払えなくて、いや、振り払ってしまうことが怖くて、わたしは日々を消費していった。 いなくなる前、彼に薦められたあの本の続編を、わたしが見つけたのは、そんな大学三年生のときのことだった。
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