Re: 群青(紅クロス) レス返し ( No.3 )
日時: 2015/02/28 23:15
名前: S●NY


                            『第二話 五月雨荘』





「ぶぅあっくしょいっ!!」

 盛大なクシャミをして、綾崎ハヤテは町を歩く。
 ああ、どうしよっかなぁ、と一人呟いた。
 やってしまった。
 今月はもうお金が無くて、どうしようもなくて、超ピンチで。
 ギリギリになって転がり込んできた仕事に、マジですか!と嬉々として飛びついたのだが。

「お金ないよおおおおおおおおおおおお」

 叫ぶ。
 なんだこの不幸は、自分のせいか畜生。
 街中でボロボロの制服で、わけの分からない事を叫ぶ少年。
 警察にでも見つかったら、すぐに補導されるだろう。

「って、そうだ。制服どうしよう……」

 コンクリとの摩擦によってべりべりに剥がれてしまった制服。服としての意味を半分以上失っている。
 この学校指定の制服。実のところ非常に高い。さすがは金持ちの学校、というほど高い。
 制服も新しく用意して、それだけで来月の食費はほとんど消え去るだろう。
 少年のお先は真っ暗だった。

「あぁ、寒い」

 ハヤテが高校生になってから、初めての冬。
 つまり彼が揉め事処理屋を始めてから一年もたっていないということ。
 それなりにうまくやれているはずだ、と思う。
 多少の感謝と多大な憎悪と、いくらかの謝礼を貰いながら、ハヤテは何とか生きてこられた。
 『あの頃』の自分が今の僕を見たらどう思うだろう。こうして生きていられる僕をみてなんと言うだろう。
 怒るか、呆れるか、それとも喜ぶか。もしくは、

「……さむっ」

 とりあえず自分は今、商店街にいるわけで、すぐ傍にはコンビニ。そして外は寒い。なら選択は一つだ。
 ハヤテはというとコンビニに入り、冷えた体を温めながら新聞に手を伸ばした。
 まだ読んでいなかった今日の新聞に目を通しておこうと思う。
 ここのコンビニはサボり癖の多い店員がほとんどで、たとえ半裸の男が店内で全紙面熟読しようとも文句を言われない。
 ハヤテにとって非常にありがたい店だった。
 制服の下のワイシャツはなんとか無事だったので、別に肌を露出しているわけではないのだが。
 紙面の大半を飾るのは相変わらず陰鬱な事件ばかり。
 自分より先にトイレに入ったから、という理由で母親を刺殺した中学生。
 電車内で泣いていた赤ん坊を母親から奪い、窓からほうり捨てて殺したサラリーマン。
 注意を無視したという理由で、小学生を射殺した警察官。
 5歳以下の幼児ばかり狙った連続強姦事件に、塾帰りの子供たちをナイフで襲った麻薬中毒の高校生。
 あまりに腐りきった最近の世相に「神様はいるのだろうか」と、一度親友の宗谷に聞いてみた事がある。

「そりゃ、いるだろ。だから『この程度』で済んでるんだよ。神様がいなかったら、きっともっと酷い世の中になってるぜ」

 と、あっさりとした口調で返された。
 なるほど、それじゃ神様もいっぱいいっぱいなのだろうな。と思う。
 だから、『僕はあの時助けてもらえなかった』のだろう。『あんな事が起こったのだろう』。
 はぁ、と重い息を吐き出した後、ハヤテは新聞をラックに戻し、外に出る。
 外に出た途端、冷たい風が体中にまとわりつくようにベタベタと触れてきた。また気分が悪くなった。
 空はこんなに晴れていて、だけど空気は腐っている。この町の下卑た空気を吸って自分も生きているのかと思うと、たまらなく吐き気を覚えた。
 ハヤテは背中を丸めて、風の冷たさに閉口しつつ、商店街を抜け、並木道を歩いてゆく。
 ハヤテが今年の初めから住みはじめた五月雨荘は、駅から徒歩十分程の位置にある古いアパートである。
 トイレは共同で、風呂はなし。鉄筋コンクリート製の二階建て。
 住人は、自分のほかに3人しかいない。その上、ひとりはいつも何処かに旅立っており、部屋にいることなどまったくといっていいほど無かった。ハヤテも一回しか会った事が無い。
 部屋は六畳一間。小さな台所はあるが、家具は最低限のものしか持っておらず、ほとんどが貰い物か拾い物。もともと物欲はそれほど無いハヤテは、現状に不満は無い。
 が、あえていうなら暖房器具が欲しいところである。
 この季節になると、暖房器具の無い自分の部屋に住むことはほとんど拷問のようにも思えてくる。
 先日見たチラシに、炬燵布団のセットが2割引きで売られていたが、もちろん日々の食費でひぃひぃ言っている自分が手を出せるものではない。
 ……地球温暖化しろ。
 心の中でと恨めしく、大自然に最高の反逆を働いた。
 
「うぉっぷ、こんな遅くまで外をぶらつく非行少年確保―!!仕事してきたの!?お金貸して」
「今日も飲んだくれてますね、先生」

 五月雨荘の玄関で靴を脱いでいると、ドタバタと品のない足音を響かせながら女性が抱きついて来た。
 靴を下駄箱に入れながら、ハヤテはヒラリとかわす。

「いやいやいやーん。家ではぁお姉ちゃんって、いってぇ。お金もかしてえ」
「姉の自覚あるならお帰りくらい言ってください。あとお金はなしです」
「なんでじゃー!!」

 酔っ払いの頭を右手で抑えながら、ハヤテは自室である5号室に向かう。
 右手の下では、両手をバタつかせながら桂雪路が後をついて来ていた。
 桂雪路は、五月雨荘6号室の住人であり、白皇学園の教師であり、同時にハヤテの義姉である。
 10年前、ハヤテは大勢の友達と、家族を唐突に失った。
 大切な人たちを唐突に、無慈悲に、残酷に失ったのだ。
 ハヤテは死のうと思った。
 自分の身に降りかかった不幸から、悪夢から逃げ出したかった。
 死ねば逃げられると思った。
 でも、死ねなかった。
 怖くて。恐ろしくて。
 家族を失い、友を失い、もう一人で生きていくことなんて出来ないと思っていたのに。
 死ねなかった。
 そんな、生きる勇気も死ぬ勇気もなかった自分を引き取ってくれたのは桂家の人々だった。
 桂家の扉を叩いたあの日、ハヤテの虚ろな目に映ったのは、桂家の夫妻と、その傍らに立つ同い年の女の子。
 桂ヒナギクと、その姉、桂雪路だった。

「綾崎くーん、お仕事失敗しちゃったのー?」
「失敗してないです。……なんで急に苗字で呼ぶんですか」
「お姉ちゃんって呼ばないからだーい。でもよかったわ。ボロ雑巾みたいだからー。失敗したのかと。なら、お金かしてー」
「貸さないって言ってるでしょ!ボロ雑巾みたいな制服を買いなおさなきゃならないんですっ!」

 床板を軋ませながら、ハヤテは自室の前に付く。
 が、そのまま鍵を開ければこの酔っ払いがずかずか入り込んで来るのは明白だった。
 はぁと嘆息し、隣の6号室へ。

「ダメよ綾崎くん!いくら、ムラムラのイケイケの男子高校生だからって酔った先生の!それも義姉の部屋に押し入るなんてっ!!あっは、それなんてエロゲぷげらっ」
「……寝ろ」

 義姉の首根っこを掴むと、広げられたままの布団に放り投げた。
 それにしても酷い部屋だ。一昨日、この部屋の片付けをハヤテが行ったにも関わらず、すでに掃除前の状態に戻りつつあった。
 広げられた布団から一歩も動かず、食事から着替えまで行えるような配置になっていることに、ハヤテは頭痛を覚える。
 完璧な汚部屋である。

「風邪引かないように、ちゃんと布団かぶって寝てくださいよ」
「あー、うごけないー。綾崎くん、たのんだわー」

 あまりの横暴。あまりの怠惰。
 傍若無人ぶりに、頭を掻き毟りつつ雪路の身体に布団を掛ける。

「へへー。綾崎くんは昔っからやさしー。そんな綾崎くんにお知らせがありまーす」
「……なんです?」

 酔っ払いの相手を真面目にするほど疲れることはない。
 適当に相槌をうって、部屋を出ようとする。

「綾崎くんには、女難の相が出ています。ねえ聞いてる綾崎くん。そら綾崎くん。ほれ綾崎くん。部屋から出るなよ綾崎くん」
「女難の相?……っていうか、うるさっ」

 なにか今日はいつもより絡んでくるなと思いつつ、もう一度雪路のほうを振り返る。
 雪路は、布団から顔を上げて、猫のような口でふふーんと笑いながら、こちらを見ていた。
 お酒でほんのりと赤みかかった頬が色っぽい。

「ふふーん。綾崎くんがお姉ちゃんって呼ぶまで、名前を読んでやらないぞぉ」

 ハヤテはそれを聞いて、肩をがっくり落とした。
 何を言っているんだこの人は。早く寝てくれ。僕も早く部屋に帰って休みたいんだ。
 彼女を姉というまで、雪路は絡んでくるだろう。
 数年間一緒に過ごしてきたのだ、雪路の扱い方は、少しは分かっているつもりだ。
 なにを考えているのか、まったく理解できないが。理解するつもりもない。

「はいはい。おやすみなさい、お姉ちゃん」
「うーい!!おやすみーっとくらぁ、ハヤテくんっ!!」
「もう寝てくれっ!!」

 付き合いきれずに、ドアをバタンと閉めた。
 どっと疲れる。なんなのだ、あの人は。
 昔からこうだ。なにかと彼女にはかき乱される。本当に困ったものだ。

「女難の相かあ」

 自室の鍵を探しながら、右手でそっと顔を撫でてみる。
 顔が少し熱くなっていたが、雪路とはまったく関係がないに決まっていた。
 眠たそうに、とろんとした瞳がちょっとかわいいとか思ったなんて、そんなことはない。
 そんなことは無いに決まっているのだ。

「恋の悩みかね?いいね、青春だ」
「うわっ!黒須さん!!」

 耳元で突然囁かれた女性の声に驚いて、大きく退く。
 見つからない鍵を鞄の奥から発掘しようとしていたハヤテは、バランスを崩して壁に激突。

「恋をする姿は美しい。命短し恋せよ少年、だよ」
「べつに恋とか、そういうわけではないですから」

 慌てるハヤテを余所に、黒須はまったく動じない。ハヤテは彼女が取り乱すところなど、一度も見たことが無かった。
 まったく不思議な人だ。
 初対面の際ハヤテが抱いた黒須の感想は、このアパートの自縛霊。もとい奇妙な人だ。
 その芝居がかった台詞も奇妙さに拍車をかけているが、一年も一緒にいると大分なれてきた。
 黒須は五月雨荘4号室の住人で、腕利きの医者である。が、本当に医者の免許を持っているかどうか、それは分からない。
 彼女曰く、かなりのスピード狂らしく、愛車は特注のランボルギーニ・ガヤルド・スパイダー。
 はっきりいってこのボロアパートには浮き過ぎている。が、本当に自動車の免許を持っているかどうか、それも分からない。
 それが、この一年間で知った彼女の情報。それ以外は、年齢も出身もフルネームすらも一切不明。
 謎の美女。そのイメージが実態を伴って具現化した姿が、黒須といえなくも無かった。

「しかし、あれだな。青い春と言っても相手が義理の姉とは、中々インモラルではないかね?」
「ち、違いますってっ。さすがにあんなの意識できませんっ」

 慌てて否定する。
 酒癖も悪く、浪費癖があり、男勝りなあの怪力。
 彼女のことは嫌いではないし、実は少し尊敬しているハヤテでも、さすがに女性としてアレを見ることなど出来なかった。
 だれか、アレを貰ってくれるような、心の広い人間はいないものか。
 しばし考えてみるも、まったく思いつかない上に、不毛なことこの上ないと結論づけた。

「じゃあ、僕はそろそろ……」
「ああ、引き止めて悪かった」

 そういって黒須は自室へと戻っていく。彼女の振り返りざま、長い黒髪がぱさりと肩から落ちて、甘い匂いが漂った。
 その横顔と、かすかに香る香水の匂いに少しどきりとする。

「そうだ少年。君に女難の相がみえているよ」
「女難の相?」

 ハヤテは慌てて聞き返すが、黒須はすぐに部屋の中へと入ってしまった。
 ……女難の相、ね。
 その単語を聞くのは、本日2度目だ。
 けれど、思い当たる節などいまのところは無いのでどうしようもない。
 ぼろぼろになった鞄の内ポケットの中から、部屋の鍵をようやく見つけたハヤテは。
 先ほどの会話たちを放り捨てるように頭を振って、5号室のノブを回した。

「ただいま」

 部屋の電気をつけながら、だれも居ない空間に挨拶した。
 ボロボロになった学生服を脱ぎ、私服に着替える。次に窓を全開にして、空気を入れ替えた。
 冷たい夜風に当たりながら少しの間、黄昏れる。アパートを囲む樹木が空気を浄化するのか、排気ガスの臭いはしない。

「さて、と」

 ハヤテは一度大きく伸びをすると、窓を閉め、食卓兼勉強机であるちゃぶ台に明日提出の宿題を広げた。
 はっきりいって勉強は苦手だ。揉め事処理屋の仕事は様々で、深夜まで行うことも多い。
 二日、三日徹夜は当たり前で、睡眠時間は昼間の授業中という事も少なくなかった。
 特に白皇は進学校、授業に遅れれば進級も怪しい。せめて提出点だけはと、眠い頭を必死に回転させて、数字の羅列と格闘を始める。

「あー……。参考書どこやったっけな」

 勉強は苦手だ。
 中学を卒業して一人暮らしを始めたハヤテだったが、始めは学校に通うつもりは無かった。揉め事処理屋として、一人で食って行くつもりだったのだ。
 それに猛烈に反対したのはヒナギクである。
 なぜそんな危ない仕事をするのか。なぜ事前に相談してくれなかったのか。なぜ家から出て行く必要があるのか。学校には行け。
 桂家の夫婦はハヤテの好きなようにして良いと言ってくれたが、ヒナギクだけは決して譲らない。
 結局ハヤテが折れる形で、ヒナギクと同じ白皇学園に通う事となり、ひとり暮らしは認めてくれたものの、雪路の住むアパートに下宿する事となった。
 始めは学費も生活費も自分で払おうと思っていたハヤテだったが、桂家の夫妻はそれだけは許してくれなかった。
 白皇に通うお金は桂家が負担してくれている。もし、留年するようなことがあったら家に戻れとは、ヒナギクの談。
 生活費はなんとか、その場凌ぎ的に稼げてはいる。しかし、結局のところ自立できていないのだと思うと、ハヤテは自分が情けなく思うこともあった。

「……ふぅ」

 息を吐いて落ち着く。やっとの思いでプリントの左半分を埋め終わる。すると、誰かが部屋のドアをノックした。
 五月雨荘の各部屋には貧弱な鍵しかないが、防犯という意味では鉄壁。
 それを聞いたのは引っ越してきた初日、雪路からだった。聞けば雪路も、一人暮らしの際はここに住むように、桂夫妻に言われてきたそうだ。
 泥棒も強盗も訪問販売も通信販売も新聞の勧誘も宗教の勧誘も。絶対にありえない。
 ここはそういう場所。
 そういう「暗黙の了解」が成り立つ場所。
 だから、ここを訪れる人は住人の知り合いか、確かな用事が存在する人。
 ハヤテはのっそりと腰を上げてドアに向かった。

「どちら様ですか」
「俺だ」

 名乗る必要はない、という口調。
 それを許される人間が、あらゆる傲慢を許された人間が、この世には極僅かに居る。
 ハヤテは慌ててドアを開け、そこで動きをとめた。
 知り合ってもう長いのに、いつも数秒見とれてしまう。それは同姓である自分すら。
 すらりと伸びた足に、筋肉質な身体、小さい顔と額の十字傷。
 大人の男性。それでいて女性にも、10代の少年にも見えるような意地悪そうな瞳の輝き。
 彼の名前は、戦部大和。
 思わず頭が下がった。

「お久しぶりです。大和さん」
「元気そうだな」

 堅苦しい挨拶はなしだと言い、大和は僅かに口角を上げる。
 彼を部屋に招こうとしたハヤテは、そこでようやくあることに気がついた。
 彼が羽織ったトレンチコートの影に隠れるように立っている。
 それは、小学生ほどの小柄な少女だった。