Re: Bitter Milk(短編集) ( No.1 )
日時: 2014/10/01 23:06
名前: 明日の明後日




 私、瀬川泉が誰かと食事に行くと、必ずと言っていいほど驚かれることが一つある。
 今日、大学の後輩と駅裏に新しく出来た喫茶店に入ったときも、その例から漏れることはなかった。

 そのお店は、テーブルの端に置かれた角砂糖が物語る様に、ちょっとばかしレトロな雰囲気が漂っていて、
 BGMとして流れている音楽も、ほとんどが私達、所謂ゆとり世代には誰が歌っているかさえ分からないものばかりだった。
 普段入る様なお洒落で近代的な喫茶店とのギャップに新鮮味を覚えつつ、お品書きに目を通してみると
 ナポリタンだのハムサンドだのフレンチトーストだの、まさに“昔ながら”と言うほかないメニューばかりが並んでいた。

 各々が注文を終え、雑談に花を咲かせる。どこの学部の誰がカッコイイとか、もうすぐ冬休みだとか、中間試験の結果がどうだとか。
 どこででも聞こえてくる、他愛のない会話。飲み物が運ばれてくるまでそんな会話は続いて、丁度キリのいいところだったからか、沈黙が数瞬。
 すぐに次の話題に移るかと思いきや、最初に響いた声音はこんなものだった。

「瀬川先輩は砂糖、いくつ入れますか?」

 後輩の中でも特に気の利く一人が、角砂糖の入った瓶に手を伸ばしながら、私に訊いてきたのだ。

「ん、ああ、大丈夫だよ。私、このままの方が好きだから」

 ありがとうね、と労いつつ、ブレンドのコーヒーを一口啜る。香ばしい香りと強い苦味、その中の仄かな旨みが口内に広がる。
 うん、この店のコーヒーはなかなかの逸品だ。

「泉先輩ってブラックコーヒー飲めるんですか!?」

 また別の後輩が驚いた様に声を上げる。

「飲めるけど。なんで?」
「だって先輩、いかにも甘党っぽいじゃないですか」
「確かに、カフェオレとかカプチーノとか飲んでそうなイメージあるよね、泉さんって」

 また一人、会話に加わる。

「そりゃ甘いものは好きだけど。コーヒーはブラックが多いかなぁ」

 「へー」「いがーい」「そうなんだー」と。三者三様の感想。
 いつものことだけど、私がブラックコーヒーを飲むって初めて知った人は、そんな反応をする。
 時には「見た目より大人なんだね」と、褒めてるのだか馬鹿にしているのだかよく分からない返しをしてくる人もいるけど。それも無理ないと言えるだろう。
 私自身、ブラックコーヒーは大人の飲み物だと思っていたし、自分がそれを飲めるようになるなんて思ってもいなかったのだから。

 カップの中に広がる真っ黒な水面を見つめると、昔の、もっとあどけなかった頃の私が蘇る様な気がして、けれどそこにはもう“大人”になってしまった自分しか映らなかった。




















               〜 苦い恋はお好き? 〜




















 2学期も残すところ2週間、冬休みまでカウントダウン状態に入った12月某日。
 私は生徒会室のソファの上でティカップを手に、透き通った、綺麗な朱色の水面に映る自分とにらめっこをしていた。
 もう20分近くこうしているものだから、紅茶は随分とぬるくなってしまっていて、カップから伝わる温もりもたかが知れている。

「こら泉、仕事手伝わないんならさっさと帰りなさい。もう外、暗くなってるわよ」

 左手から聞こえてくる、ヒナちゃんの叱責と、カリカリという筆音。

「えー」 
「えー、じゃない」
「まだいいでしょ」
「なら手伝って」
「えー」
「えー、じゃない」
「じゃぁ、一緒に帰ろうよ」
「それはいい提案ね。なら早く帰れる様に手」
「えー」
「だからえー、じゃなくて」

 そんな会話のループを何回か繰り返す。5、6回目辺りに突入しそうになったとき、丁度そのループを断ち切る様にチーン、という音が生徒会室に響き渡った。
 エレベーターの到着音。殆ど反射的に、私達二人はその方向へ顔を向けてしまう。静寂。それを破ることなく、開いた扉の向こう側。

「ハヤテくん」
「ハヤ太くん」

 晴れ渡る秋空を思わせる様な蒼色の髪と、漆黒の執事服。

「こんにちは、ヒナギクさん」

 エレベーターから降りながら、笑顔で挨拶するハヤ太くん。付け足したみたいに「あ、瀬川さんもいらしてたんですか」なんて言われてしまった私は、いないことが当たり前に思われている様で、なんだか情けない。実際、いないことが殆どだけど。

「どうしたのハヤテくん。何か用?」
「いや、用というか。この前、生徒会の仕事のお手伝いをしたとき、持って帰ってしまったみたいで」

 問い掛けるヒナちゃんに、ハヤ太くんはバツが悪そうに鞄の中から数枚のプリントを取り出した。

「あ、それハヤテくんが持ってたんだ。ごめんね、わざわざ」

 教室で渡してくれればよかったのに、と付け足してそれを受け取るヒナちゃん。
 ハヤ太くんはすみません、と苦笑いを浮かべて、

「じゃぁ、僕はこれで失礼しますね」

 踵を返す。それが私には少し意外に思えて、なんとなくその場面を見送ってしまう。

「瀬川さんも。さようなら」

 ソファの脇を過ぎるとき、不意に声を掛けられた私は「あ、うん」と間の抜けた様な答えしか返せない。
 ハヤ太くんはそのままエレベーターへと歩いていって、

「ねぇ」

 後ろからの声に、足を止める。私も一緒に、振り返る。声の主は、視線を下に向けて、上げようとはしない。
 肩を小刻みに震わすその姿が、気丈な普段の彼女とは余りにもかけ離れていて、なんだか物凄く脆弱なものに見えた。

 そのまましばらく時が過ぎた。その時間が、私には物凄く長く感じたし、刹那にも満たない程の短いものだった様にも思う。

 ちらり、と。ヒナちゃんがこちらを―――“私を”見て。唇を噛む。息を吸い込む。

「せ、折角来たんだからお茶でも飲んでったら?」

 たった。たったそれだけのこと。その一言を口にするまでに、一体どれだけの勇気が必要だったと言うのか。一体どれだけの逡巡を繰り返したと言うのか。
 私には想像も付かなかった。躊躇う理由すら、分からなかった。分からない、気がしていた。

「ありがとうございます」

 そしてその勇気を受けたハヤ太くんは、

「でもスミマセン、今日はお嬢様に早く帰ると約束してしまったので。また機会がありましたら是非、ご馳走してください」

 それをあっさりと踏み潰した。

「あ…うん、分かった。それじゃ、気をつけて帰ってね」

 はい、と返事をして、今度こそハヤ太くんはエレベーターの中へと飲み込まれていった。後ろの方で、短い嘆息とともに、ボフッ、と鈍い音がした。

「残念、だったね」

 申し訳程度の励ましに、返事は返ってこなかった。私も、期待してはいなかった。また、筆音だけが空間を支配する。カリカリ、カリカリ。

 カップの中の紅茶はもうすっかり冷たくなってしまって。ユラユラと揺れる朱色の水面に映るは3つの面影。
 波紋に飲まれ、浮かんでは消える自分達を見ながら自然と口は動いていた。

「ヒナちゃんってさ―――」








































「ところで、泉先輩って彼氏とかいるんですか?」
「ほえ?」

 不意に響いた声に、現実へと引き戻される。カップの中は、真っ黒なコーヒーに変わっていた。

「あー、それ私も気になってた!」
「そうそう、それか好きな人とか ! 」
「どうなんですか、先輩?」

 別の後輩達も、その話題に乗っかってくる。身を乗り出して訊いてくる三人に、ちょっとだけ気圧される。





 彼氏。恋人。付き合ってる人。そんなのいないし、いたことないし、もしかしたらこれからずっといないかもしれない。
 好きな人。気になる人。恋してる人。そんなの、いない。いたことは、ある。でもこれから先はずっといないかもしれない。

 勝負を挑む勇気も、目を移す器用さも、出し抜く卑怯さも、私にはなかった。
 臆病で不器用で馬鹿正直な私の恋は、まるで苦い苦いブラックコーヒー。
 砂糖もミルクも入ってない、ブラックコーヒーの様な恋をして、私の心はすっかり萎えてしまった。

 だから多分、これから先、誰かを好きになることはないだろう。

「いないいない。付き合ってる人も好きな人も、どっちもいないよ」

 素っ気なく答えて、残ったコーヒーを流し込む。口一杯に広がる苦みと、鼻から抜ける香り。いつごろから飲めるようになったのか、もう覚えていない。

「え〜〜っ」
「ホントですか〜」
「勿体無い」

 それぞれの感想を漏らす後輩を他所に、ベルを鳴らしてウエーターを呼ぶ。




















「すみません、コーヒーお代わりお願いします」