#10 ( No.16 ) |
- 日時: 2014/10/27 17:41
- 名前: 春樹咲良
- 参照: http://soukensi.net/perch/hayate/myself/patio.cgi
- ◆◆◆
20時49分
部屋に入ると美希はテレビを点け、一通りチャンネルを回したあとニュースに固定した。
『……から明日で七年となるのを前に……では……』
じっくりと見るつもりがあるわけでもなく、ただBGM代わりにテレビを点けておくのが、ホテルなどに泊まる時の美希の癖だ。 無音の中では考え事にも逆に集中できない性質なので、一人で過ごすときは大体いつもこうしてしまう。
『……全の専門家は……の……策として……』
荷物を机の上に置いてスーツのジャケットをハンガーに掛けてから、風呂の準備のために浴室に入る。 蛇口を捻って湯を張る間、美希は明智の言葉を頭の中で反芻していた。
『……いい機会です』
『いいですか、印象派というのはですね……』
『……たまには、いいかなと思ったんですよ』
「……」 やはり、今回の福岡行きの間の明智の言動は明らかに普段と違うところがあるように思える。 しかし、この違和感はもっとずっと前からあったものだ。それがはっきりし始めたのは、この間の同窓会……いや、それより前の―― ――分からない。いや、考えたくない。知りたくないのだ。 明智の言うとおり、その気になって調べれば、すぐに分かることなのだろうと思った。 ただひたすらに、美希は恐れていたのだ。明智と今のように接することが出来なくなることを。 揺れる水面を見つめながら、思い出すのは明智と過ごしてきた日々だった。 今の明智との関係が心地よかった。 明智は、決してこちらに踏み出してこない。 いつも、付かず離れずの間隔を保ち続けている。
いつまでもこうしていられたら、どんなにいいことだろう。ただ、そう漠然と思っていた。 何も知らないままでいれば、何も見えないようにしていれば、まだ今しばらくは、このままでいられるのだろう。 いつまでも、とはいかなくても、出来るだけ長くこのままの関係を続けられるのなら、それがいい。 その考えが常に頭の中にあったから、次の一歩を踏み出せないまま、違和感を抱えて今日まで過ごしてきた。
ぼーっとしている間に溢れた湯が足許を濡らしていることに気づいて、美希は慌てて蛇口を閉めた。
一旦浴室を出て、ベッドの上に服を脱ぎ捨てる。ニュースは今度の知事選の話題に変わっていた。 与党の苦戦について伝えるアナウンサーの声を聞き流しながら浴室に戻る。 片足ずつゆっくりと湯舟に体を滑り込ませると、割り込んだ体積の分だけ押し出されて、浴槽の縁から零れた湯が音を立てて排水溝へと流れていく音が響いた。 腰を落として肩まで浸かったバスタブが静寂を取り戻してから、目を閉じる。 閉じた扉の向こうから、まだ微かにテレビの音が聞こえていた。
『いい機会です』
明智の言う「いい機会」の意味は、はっきりとは推し量れない。 しかし今、明智がこちらに向かって一歩を踏み出そうとしているのは確かのようだ。 美希の葛藤を見透かしているかのように、美希との適切な距離を今までずっと保ってきた明智の、最初のラインオーバーである。 それならば、美希の方も全てを知る覚悟をしなければならないのだろう。 必要があれば、自分の全てを語ることにもなるだろう。 明智が何を思い、自分が何を思うのか。 明日になれば、全てが分かる。それを受け止めてから、どうするかを考える。
その日は、浅い眠りの中で、珍しく夢を見た。 美希は白皇の教室にいて、辺りを見回すと、何故か明智がそこにいた。 明智は黙って、誰かの机に手を置いて、じっと見つめていた。 その横顔が、美術館で見たのと同じ表情をしていたのを、美希も無言で見ていた。
ふっ、と目が覚めると、設定していたアラームの時刻の10分前だった。 音量を絞って点けっ放しにしていたテレビが、天気予報を伝えているところだった。 今日は一日、晴れだという。
◇◇◇
9月29日7時50分
身支度をひと通り終えた美希が鏡台に向かって座って髪を梳かしていると、ドアをノックする音がした。 「入ってくれ」 振り向かずに答えると、鏡越しに見える扉を少し開けて顔だけのぞかせてから、明智が入ってきた。 「失礼します。おはようございます、花菱さん」 「ああ、おはよう」 ネックレスを付けるために首の後に手を回しながら、近づいてくる明智が、濃い青のネクタイをしていることに美希は気づいた。 「もう出る準備はできてるみたいですね。珍しく早起きじゃないですか」 「……君に寝坊で迷惑をかけたことなんて無かっただろ」 「そうでしたっけ。イメージですよ、イメージ」 いつも通り、ひどい秘書である。そんなひどい秘書は、美希が未だにネックレスをうまく付けられないでいることに気づいて、美希の後ろに立った。 「はい、動かないでくださいね」 ネックレスを受け取って、丁寧に金具を扱う明智に、美希は大人しく従いながら話を振る。 「おや、なかなかセンスのいいネクタイをしているじゃないか」 「ええ、下ろしたてなんですけど、気に入っているんです」 ネックレスを留めながら、明智も鏡越しに美希に微笑んで返す。 「花菱さんこそ、ネックレスがとてもお似合いですよ」 「ん、そうか。付けてる人間のセンスがいいからな」 ネックレスの入っていた小箱をそっと鞄にしまいながら、美希もいつもの調子で答えた。
◇◇◇
10時24分
抜けるように青い空が広がっていた。 もう10月もすぐそこに来ているのだから、夏の盛りはとうに過ぎているはずだが、降り注いでくる陽射しはどこまでも強い。 賑やかな繁華街からそれほど離れているわけでもないのに、果てしなく高い空の下で、ここだけは別世界のように静謐な空気が流れていた。
朝食を済ませてチェックアウトをしてから、車で向かった先は小さな霊園だった。
一つの墓標の前で、静かに目を閉じて掌を合わせる明智を、美希は無言で見つめていた。
暑さのピークに乗り遅れたツクツクボウシが鳴き止んだタイミングで、明智は目を開けた。 「……意外ではなさそうですね」 車に乗ってからここまでずっと黙ったままだった明智が、こちらを向かずに静かに言った。 美希はそれに答えずに、明智の隣に立って手を合わせた。しばらく二人並んで立ったまま、沈黙が続いた。
「……何となく、こういうことなんじゃないかとは思っていたんだ」 腕を下ろしてから、美希がゆっくりと、口を開いた。 「別に隠すつもりもなかったんですけど、言い出すタイミングが無くてですね」 美希の方を見ないまま、明智が答えた。 「君はいつだって、タイミングを逃す男だな」 この間の誕生日プレゼントの件を思い出しながらそう指摘すると、明智は 「ええ、本当に……」 とポツリと答えて俯くと、またしばらく目を閉じた。 その姿は祈りを捧げているというより、何かを思い出しているように見えた。
◇◇◇
10時51分
駐車場に戻りながら、淡々と明智と言葉を交わす。 いつから気づいていたのか、という明智の質問に、美希はこう答えた。 「最初におかしいと思ったのは……やっぱり、スウェーデンに行く途中だったかな」 それを聞いた明智は、一瞬意外そうな表情を見せたあと、憂いを帯びた笑みを浮かべた。 そう、この感じ―― 「あぁ、あの時ですか……。思ったより、早かったですね」 「あの時」と同じ声のトーンで、明智は呟く。 美希をからかっているのではなく、もっと別の対象を意識して放たれた皮肉。 その中には、自嘲的な意味も含まれていたように思えた。 いつになくシニカルな笑みを浮かべながら、明智が言った。 「しまった、とは思ったんですよ。 でも、あの後に誕生日パーティーのサプライズもあったので、上手いこと有耶無耶になったと思っていました」 「君の軽口のニュアンスに気づけない私じゃないさ。 秘書にしてからずっと、言いたい放題言われ続けてきたんだ。 私に向けて言っているのかどうかくらい、聞いていれば分かる」 得意気に言うことでもないが、事実である。 「いやまったく、花菱さんにはかないませんね」 明智もいつものようにおどけて言ってみせるが、この一言も、美希へのからかいよりは、自嘲的な意味合いが強いように感じる。 「……まぁその前から、飛行機が嫌いなんだろうなということには薄々気づいていたよ。 極力乗らないで済むように手を回していたみたいだし……今回は特に露骨だったしな」 「日頃の積み重ねがものを言うって本当ですね。 ――僕もまだまだ、精進が足りません」 わざとらしい自嘲がいつもの明智らしくもなく、もの哀しさを感じさせた。 何より、出来るだけ美希に気づかれまいとしてきたことを一層強く感じさせて、思わず美希は口走った。 「……そんなこと言うなよ」
◆◆◆
ちょっとずつですが伏線回収編。分量次第ですが、もしかしたら次で終わりかもしれません。 その前に合同本の原稿が挟まるので、いつになるかは相変わらず見通しが立ちませんけど。 ちなみに合同本の方はこのお話の前日譚のような形にしようかなと構想しています(明智君は出てきません)。
ここ最近、女性の閣僚の不祥事がニュースで取り沙汰されているのを見て複雑な気持ちになっています。 小渕さんは、実はちょっとだけ美希のモデルにしている部分があったりしたので辞任は結構ショックでした。 本編に政治的な話を挟み込むつもりは無いですが、書いてると現実の世界の色々なことが気になりますね。
|
|