Re: 小説の書き方を議論するスレ ( No.4 )
日時: 2013/03/19 21:20
名前: きは

わー。面白そうなことをなされている。
そんな好奇心でこのスレッドを眺めました。きはです。
気に入った方々の文章には指摘をさせて頂いている身の上から、いつかは小説の方法論を共有しあえることができたらなぁと思っていました。
――ええ、どストライクです。このスレッド。
立ち上げてくださったピアノフォルテさんには、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。

さて、私も議論に参加させて頂きます。持論だったり小説サイトの受け売りだったり、色々と混ざっていますがご了承ください。


>オノマトペについて

「オノマトペは魔法の言葉」。私はそのように捉えています。
そもそも、オノマトペとは擬態語・擬音語のことを指しています。「擬態・擬音」ですから、動きを音で表現している言葉なのですね。
つまり、オノマトペを用いれば、自然と動きも加わっていることになるのです。
一言で「雨が降っている」と書かれていても……

・雨がざあざあと降っている。

・雨がぽつぽつと降っている。

・雨がしとしとと降っている。

上の三つの文章は、全くの別物となります。そして、想起される情景も異なったものになります。
描写や説明が省ける点では、非常に便利です。あと、語感によっては心地よいテンポをもたらしてくれるのでしょう。
しかし、当然ながら欠点も存在します。それは、「主観によるところが大きい」ことです。その傾向は、特に人物描写の際に顕著になります。
例えば、

・きびきびと歩く。(背筋も手足も伸ばして歩いているイメージ。集団だと整然としている様を想像する。)

・とぼとぼと歩く。(足元はおぼつかないまま、肩を落として歩いているイメージ。)

と二つの例を挙げましたが、括弧の中はきはの主観によって成り立っています。
辞書で調べれば意味は出てきますが、基準までははっきりと示されていないと思われます。
例えて言うなら、ダラダラしているつもりはないのに「ダラダラするな!!」と言われるようなものです。
価値観の齟齬。視点となる人のフィルターを通して表現する以上は必ず生じてしまうものですが、オノマトペだとより一層色濃く出てきてしまうように感じます。

特に一人称の時は、「人の心情が関わるオノマトペ」について気をつけなければなりません。上記で取り上げた「とぼとぼ」が、一つの例になります。
「とぼとぼ」と判断したのは私(視点となる人)であって、実際にその人が「とぼとぼ」しているわけではありません。
――自分で書いていて混乱してしまっていますが(笑)要は、「使いすぎ要注意」です。

あと、オノマトペと効果音は別物です。これ、結構重要です。
オノマトペが稚拙に写ってしまうのは、ひとえに効果音のように使ってしまうからだと私は考えます。
だからこそ、描写も必要になってくるんですよねぇ(笑)。


>文章のレイアウト、台詞と地の文との関係について

私は、台詞と地の文に間隔を設けている人です。ですが、間隔を調整することで間をとろうとはしません。間をとるのはあくまで地の文だ、という信念を持っています。
それと同時に、台詞が「主」で地の文が「従」であると考えています。私の中では二つを並列とは思っていません。
なぜなら、物語における台詞が果たす役割は、地の文のそれよりもはるかに大きいからです。

台詞って、本当に便利ですよ。特に一人称小説だと、尚更です。
他人の心情は分からない。それに対して、その心情が基となって口にする言葉は、耳にすることができるのですから。
極論、地の文がない文章によって成り立つ世界は想像しにくいものですが、台詞がない文章によって成り立つ世界は前へと進まないのです。特に他人がいるとき。

――でも、台詞と地の文に間隔を設けているのは、憧れの人がそうしているのを模倣しているからなんですけどね(笑)。


……あれ、小説の書き方について何も語っていないかも(笑)。
しかし、本当にためになるスレッドだと思います。自分の考えを振り返られるとともに、他の方の意見を聞くことで勉強にもなるのですから。
今後、積極的にこのスレッドにて発言していきたいと思います。
長文、失礼しました。