元ネタはサイハテ。ボカロはあまり知らないけど歌詞が凄く好き。 |
- 日時: 2013/06/30 15:44
- 名前: 餅ぬ。
【最果て】
不幸体質な人だった。 トラブルには必ず巻き込まれるし、怪我だってよくしていたみたい。それでもあの人はいつだって笑っていたから、私は彼は別に不幸なんかじゃないと思っていた。 美希ちゃんから聞いた彼の過去はまさしく不幸そのものだったけれど、今はこうしてナギちゃんみたいな優しくて可愛いお嬢様に拾ってもらえて、学校にも通えて、皆と仲良くなれて。 あんまり難しいことは分からないけれど、守らなくてはいけない大切な人が傍にいて、笑い合える人がいるっていうのは、とっても幸せなことじゃないかなあと、私は思う。 私たち三人組にからかわれて困ったように笑うあの人の顔は、不幸なんかじゃなかったよ。運は悪いけれど、彼は一生懸命楽しく過ごしていた。生きていた。 不幸と不運は違うのだ。色々な事件やトラブルに巻き込まれながらも、最終的にはニコリと笑って見せる彼は、不幸体質なんかじゃなくて不運体質なのだと、思っていた。 ハヤ太君は運が無いだけ。そう思っていた私は、多分、彼のことを何も知らなかったんだろうね。運の無い故に、彼はいつもすれすれのところで生きていたんだね。 この日を迎えて、やっとわかったよ。
白い着物に身を包んだ彼の姿は、酷く見慣れない。だっていつも私が見ていた彼は、皺ひとつない真っ黒な執事服をちょっと不器用に着こなしていた。 固く目を閉じた安らかな顔も、やっぱり少し違和感を醸し出していて。胸の上で組まれた真っ白な手も、眠る彼の周りを取り囲む色とりどりの花々も、見慣れることはない。 涙で滲んだ視界でいくら彼を眺めても、指先一つ動いてくれやしない。細い体はすっぽりと白い棺の中に収められて、脂肪のない薄いお腹は二度と上下することはない。 組まれた彼の手にそっと触れてみた。家事をしているとは思えない滑らかな肌は、ひんやりと冷たい。何度か私の手を握ってくれた愛しいその手に、かつての暖かさは感じられなかった。 つい先日まで、軽く手が触れあっただけで、私は嬉しくて恥ずかしくて顔が真っ赤になっていたのに。今こうして強く彼の手を握っても、私の顔は僅かな熱も帯びることなく。 流したくもない涙をボロボロ零して、嗚咽を漏らさないように唇を噛みしめて、こっちの気も知らず眠るハヤ太君を見つめた。 ナギちゃんは声を上げて縋りついているし、それを慰めるメイドさんも鼻を真っ赤にして懸命に涙を堪えている。いつも気丈なヒナちゃんだって、肩を震わせ小さな嗚咽を漏らしていた。 美希ちゃんも理沙ちんも、歩ちゃんも、みんなみんな、二度と目を覚ますことのない彼を想って泣いている。女の子をこんなに泣かすなんて、酷い人だね、ハヤ太君。
ねえハヤ太君。ここはひとつ、みんなを慰める為に起き上がってみてはどうでしょうか。 いつものちょっと困ったような笑顔を浮かべながら「生き返っちゃいました」なんて、明るく気まずそうに言ってみてはどうでしょうか。 泣いていたみんなを、驚かせてみてはどうでしょうか。笑わせてみたくはないでしょうか。ご主人様やヒナちゃんなんかに、いつものように怒られてみたくはないでしょうか。 ハヤ太君は優しい人だから、みんなを泣かせたままなんて嫌でしょ? だからほら、起き上がって笑って見せて。そしたら、私もまた、いつもみたいに笑えると思うから。 ――ねえ、ハヤ太君ってば。
「……そろそろ、お時間です」
静かな声でそう告げたのは、彼を焼く人。火葬場の職員の人だった。優しげな眼差しをした初老の男性だ。
「皆様、最後のお別れを」
男性はそう言って、私たちの輪から二、三歩遠のいた。私たちは誰に指示されるでもなく、順々に彼に別れを告げていく。 一番初めはナギちゃん、その次はマリアさん。その二人が別れを終えた次からは並んでいた順番で、眠る彼に思い思いの言葉をかけていく。 ハヤ太君の顔を覗き込んだヒナちゃんは耐え切れなくなってその場に崩れ落ちて、美希ちゃんと歩ちゃんに支えられながら懸命に言葉を紡いでいた。 嗚咽交じりの舌足らずな言葉は、いつもの凛としたヒナちゃんからは想像もできないほど弱々しかった。
「……好きだった。ハヤテ君、私、あなたが大好きだった」
人目も憚らず絞り出すような声でそう告げたヒナちゃんは、彼の冷たい頬を撫でた後、歩ちゃんの肩に縋りつくようにして嗚咽を漏らし始めた。 それを慰める歩ちゃんもまた、ヒナちゃんの前に眠るハヤ太君に想いを告げている。大好きな人を亡くした二人は、お互いを強く抱き締め合って懸命に前を見ようとしていた。 悲しい光景だけれど、二人らしい、すごく強い姿だと思った。私も、前を向かなくちゃいけない。
順番は回って、とうとう別れを告げる時が来た。彼の足元に立っていた私は、微かに震える足を引き摺って彼の隣へと向かう。 そのときハヤ太君の左隣に立っていたナギちゃんが、泣き腫らした目で彼を悲しげに眺めている姿が視界の隅に映った。血が出てしまうのではないかと思うほど噛みしめられた唇が痛々しい。 その唇が微かに開かれて「ハヤテ」と彼の名前を呟いたナギちゃんを見て、彼女はまだ彼とのお別れが足りていないのだと気付いた。 私は大きな瞳から涙を零しそうになっているナギちゃんに笑いかけた。しっかり笑えていた自信はないけれど、一番傷を負っている年下の可愛い友達を見過ごしたらいいんちょさんの名が廃る。
「ナギちゃん、お先にどうぞ」 「え?」 「ナギちゃんはハヤ太君のご主人様だもん。みんなよりたくさんたくさんお別れしないと、ね?」
そう言って手招くと、ナギちゃんは少し戸惑いながらもマリアさんに背中を押されて私の前に立った。そして真っ赤になった目を細めて私を見た。 歪んだ口元も悲しげに潜められた眉も、少しやつれて涙に濡れた頬も、決して笑っているとは言えなかったけれど、ナギちゃんは懸命に私に笑いかけてくれていた。
「……ありがとう」
静かな声でそう告げたナギちゃんは、ヒナちゃんたちもに負けないくらい強い女の子だと思った。引きこもりだったハヤ太君の大切なお嬢様は、すごく立派になっているよ。 私に背を向けてハヤ太君と向き合ったナギちゃんは、こちらにはほとんど聞こえないような小さな声で何か語りかけている。 唯一聞き取れた言葉は、たった二つ。
「今まで、ありがと。ハヤテ、大好きだぞ」 言葉を紡ぎ終えた後ナギちゃんは浅く息を吐いて、ハヤ太君にそっと唇を寄せた。彼の頬に触れるだけのキスをしたナギちゃんは、一言「つめたい」とだけ残してマリアさんの元へと戻って行った。 マリアさんに肩を抱かれて「ハヤテの頬が冷たい。暖かくない」と泣くナギちゃんを、私はただ眺めていた。今慰めるには、私は少し役不足すぎる。 再び泣き出してしまったナギちゃんを見ていると、ふいに肩を叩かれた。振り向くと、そこには美希ちゃんと理沙ちんの姿があった。
「次は泉の番だぞ」 「ちゃんと悔いのないようにな。泉」 「……うん。きちんと、お別れしてくるよ」
本当はお別れなんてしたくないけれど。つい二、三十分前まで彼がいつもの笑顔で起き上がってくれる夢なんて見ていたけれど。 逃げ出したくなる現実と泣き叫びたくなる感情を受け入れて別れを告げたみんなの姿を見ているうちに、私も夢など見ずに彼を見送ってあげようと思えるようになっていた。 かつて彼が素敵だと言ってくれた笑顔で、いつもの明るい私で、彼の旅立ちを送ってあげたい。
「……ハーヤ太くん」
彼の隣に立ち、その穏やかな顔を覗き込む。組まれた手が乗っている胸は、どこまでも静かに、静かに。
「ねえ、ハヤ太君。学校は楽しかった?」 「……そっかそっか。楽しかったなら良かったのだ。いいんちょさんは大満足」 「いっつもハヤ太君にはお仕事とか報告書とか手伝ってもらって、本当に助かってたんだよ。そのお手伝いが無くなっちゃうと思うと、なんだか悲しいな。……すごく、寂しいな」 「……えへへ、しんみりしちゃだめだよね。私は明るいいいんちょさんのまま、ハヤ太君に、お、……お別れするって、決めたんだもん」
口調と口と目元だけは一生懸命いつもの瀬川泉を装った。でも溢れてくる涙と嗚咽は、どうしても止められない。 問いかけても問いかけても、ハヤ太君は一言も返してくれやしない。笑いかけてもくれない。今更ながら、泣き崩れてしまったヒナちゃんの気持ちが痛いほどわかる。 多分、ナギちゃんたちに比べたら、それはとても小さくて穏やかなものだったかもしれない。それでも、私はナギちゃんたちと同じく、彼に細やかで確かな恋心を抱いていた。
「ねえ、ハヤ太君……。むこうにいっても、ハヤ太君は楽しく過ごせるかな」 「ナギちゃんも、ヒナちゃんも、私たちもいないけど、ハヤ太君は楽しく過ごせるかな」 「……ごめんね、なんか心配になるようなこと言っちゃって。でもね、むこうはどんなところなのかなって、思って」 「……ハヤ太君、私ね、お手紙書いてきたの。……お返事用の便せんも一緒に入れておくから、むこうに着いたら、できれば、できればでいいから、お返事欲しいな」
そう言って私はポケットにしまっていた手紙を、彼の懐にそっと滑り込ませた。あの手紙はいつか渡せたらいいなと思いながら、ずっと机の引き出しの奥にしまっていたものである。 書いただけで満足してしまった私はもういない。やっと渡せたのだ。お返事がもらえないとしても、やっと、想いを手渡すことが出来たのだ。 手紙を入れたところに手を添えながら、私は眠ったままのハヤ太君に微笑んだ。唇の震えが止まらないから、酷く歪な笑顔になっているだろう。 それでも、私は笑ってハヤ太君を見送りたい。
「またいつか、絶対にいつか会えるから。その時にお返事、ハヤ太君の口から聞かせてね」
いつの日にか出逢えると信じて、彼から返事をもらえると信じて、私はこれからの日々も変わらず過ごしていく。 学校に行って、理沙ちんたちと笑って、時々ハヤ太君のことを思い出して、暖かで小さな恋心を思い出して、私はその日が来るまで生きていく。
「……ハヤ太君」 「……その日まで、さよなら」
好きだとは告げられなかった。告げてしまえば、お手紙の意味が無くなってしまうような気がした。 ――むこうでお手紙を読んだハヤ太君が、私の気持ちに驚いてくれるといいな。
最後にもう一度ハヤ太君の手を握りしめた。固くて冷たい彼の手は、握り返してくれることなどなくて。 それでもその女の子みたいな滑らかな肌は、私が大好きだったハヤ太君の手だ。 手紙を隠した部分に溢れた涙が一粒落ちた。
私の順番が終わって、理沙ちんがハヤ太君にお別れを言って、次に美希ちゃん、その次、その次――。 たくさんの人がハヤ太君に別れを告げて、とうとう最後の一人が言葉を終えた。とうとう本当のお別れの時が来た。
「それでは……」
遠くにいた男性がこちらに戻ってきて、ハヤ太君の棺に蓋をした。顔だけを見せる形で棺に収まったハヤ太君は、相変わらず気持ちよさそうに眠っている。
「……扉をお閉めしますね」
男性がそう言うと同時に、ゆっくりとハヤ太君の顔が隠れていく。ああ、本当に、これで、これが、ハヤ太君の最後――。 ぱたん、と観音開きの小さな扉が閉まって彼の顔を完全に隠した。目の前にあるのは横たわる彼ではなく、彼の入った棺になった。 彼の頭の先にあった鉄の扉が、重々しい音を立ててその口を開いた。この中に入って、鉄の扉が再び閉まれば、彼は。
男性が何かを言った。もう何を言っていたのか、理解することは出来なかった。ハヤ太君の入った棺を、目に焼き付けていた。 ゆっくりと棺が動いて、ゆっくりと、ゆっくりと、頭から鉄の扉の向こうに吸い込まれていく。そして足の先まですっぽりと収まった時、鉄の扉は再び重々しい音と共に口を閉じていく。 私はその様を唇を噛みしめて見つめていた。見ていた。見ていることしか、出来なかった。
「泉、泣いとけ」 「やだ」 「理沙の言うとおりだ。もう、ハヤ太君には見えないさ」 「……やだ」 「……ちなみに私は泣くぞ」 「……美希と同じく。というかもう既に私は泣いてるぞ。だから泉も、な?」
理沙ちんが私の肩を抱いて、美希ちゃんが私の頭を優しく撫でた。その手があまりにも暖かくて、さっきのハヤ太君の手とは比べ物にならないほど柔らかくて。 ハヤ太君を送る火をつけるボタンが押されたとほぼ同時に、私は張り付けていた歪な笑顔をはぎ取って、理沙ちんと美希ちゃんに抱き着いた。
「ハヤ太君、ハヤ太君、ハヤ太君……っ……!」
彼の名前を繰り返して、私は耐え切れなくなった涙をボロボロと零した。 美希ちゃんたちに縋りついて、子供みたいに泣きじゃくって泣きじゃくって、我に返ったときには私たちは火葬場の外に出ていた。
火葬場の駐車場から空を見上げた。季節は初夏で、空は果てしなく青い。彼の髪の色に、よく似ている。少し強めに吹いている涼やかな風も、まるで彼のようで。 それはまるで彼のために用意されたような、悲しいほどのお別れ日和で。
「あ。美希ちゃん、理沙ちん」 「ん?」 「ハヤ太君だ」
そう言って私が指差したのは、火葬場の煙突から上がった白い煙。風に吹かれてゆるゆると空へと昇って行くあの煙は、きっとハヤ太君だ。 三人で昇る煙を呆然と眺めていた。青い空に吸い込まれるようにして伸びていくその様は、皮肉なほどに爽やかだった。
「私、好きだったよ」
呟いた声は誰に拾われることもなく、風に流されて消えて行った。出来ることならこのまま風に乗って、煙になったハヤ太君に届けばいいなあ、なんて。 楽しくもありふれた日常を、赤く色づけてくれたのは間違いなくハヤ太君だった。燃え上がるとまではいかずとも、心に小さな恋を灯してくれたのは彼だった。 ――それはとても細やかで、たおやかな恋でした。
「大好きだよ」
最果てへ向かう君へ、
「さよなら」
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