勿体無い精神で短編再録その4 |
- 日時: 2013/03/24 14:42
- 名前: 餅ぬ。
- 【厭な笑み】
厭な笑みだ。 どんなことでも、何もかも、全てを受け入れる覚悟がありますよ、とでも言いたげなその穏やかな笑みに吐き気がした。 誰にでも向ける彼の菩薩のような微笑みは、今までに何度も私を救い、何度も苛立たせた。 なんともまあ、厭な笑顔である。
「こんなときでも笑うのですね」
吐き捨てるように、彼に話しかける。けれどどこまでも鈍感な彼は、私の言葉の真意を知ることなく、その笑みを湛えたままこう言った。
「こんなときだからこそ、笑うんです」
穏やかな表情とは対照的な暗い声。 当たり前だ。もし彼の口調がその笑顔に似合うものであったなら、私は周りを憚らず、彼を張り倒していただろう。
「笑う門には福来る、と言うでしょう。だから僕はこんなときこそ、笑うようにしているんです」
もしそれが本当ならば、貴方はきっと世界中の幸せと言う幸せを手に入れていることでしょうね。 そう言い放ちたくて仕方がなかったが、あえて口を閉ざした。自分の不幸体質を誰よりも理解しているくせに、彼はそんなことを言う。馬鹿なのだろうか。
「ねえ、ハヤテくん。最後なんだから、感情を表に出してみてはどうですか?」
こうやって会話を交わすのも、今日で最後になるのだ。最後の最後くらい、理不尽極まりないこの状況に憤怒し、罵声暴言の一つでも上げてほしいものである。 けれど、彼はやはり厭な笑みを浮かべる。 いつかはこうなると分かっていたのだ、と悟ったようなふりをして、未だかつてないほどに穏やかな表情を私に向けてくる。
「仕方がないんです。僕とお嬢様の関係は、勘違いで成り立っていたものなんですから」
仕方ないんです。と、自分に言い聞かせるように彼は呟いた。少しだけ、彼の笑みが崩れた。 今だ。今攻め立てれば、きっと彼は激情を私に、もしくは自分を解雇した主に向けることだろう。今こそ、この厭な笑みを彼から奪い去る時なのだ。
「ハヤテくん、いいんですか? ナギは何も真実を知らないんですよ? 貴方があの人と付き合っていると、自分を裏切ったと、勘違いして暴走しているだけなんですよ? 前に言っていたじゃないですか。あの人と出かけたのは、お嬢様へのプレゼントを買うためだって。付き合ってなんかいないって。 それをナギに言えばいいんです。今のあの子は頭に血が上って聞く耳を持たないかもしれませんが、明日になればきっと……。 だから、ね。ハヤテくん。真実を話して、今までのことを白紙に戻しましょう。ナギだって、きっと貴方と離れたくないはずですわ」
まくし立てるように、けれど口調だけは穏やかに。 さあ、今こそ心の内の激情を! どうしようもない、と泣き叫ぶもよし。今更どうしろと言うんだ、と逆上して見せるもよし。 とにかく、私もナギも誰もかも見たことのないその感情を、見せつけてほしいのだ。
「ハヤテくん! チャンスは今しかないんですよ!」
私にとってもチャンスは今しかないのだ。彼の笑みをはぎ取るチャンスは。 けれど、俯いていた彼が顔を上げて私を見据えた時、全ては失敗に終わったと悟った。 彼は笑っていた。厭になるほど、優しげに。
「ありがとうございます、マリアさん。でも、もういいんです」 「……っ。もう少し、粘ったりしないのですか? ナギに真実どころか、文句の一つも言わないまま、この屋敷を去っていくつもりなんですか!?」
そんなこと、私が許さない。
「……これは僕にとっては別の意味でのチャンスかもしれないんです」 「どういうことですか?」
「――実は僕、本当にあの人のことが好きなんです」
「へ?」
思わず耳を疑った。もしかして、彼の言うチャンスとは――。
「お屋敷を追い出されて、もう一度借金にまみれて、彼女と会える学校にも通えなくなってしまうけれど、これで誰の目も気にすることなく、彼女を好きでいられるんです」 「……それはナギが足枷になっていたということですか?」 「ちっ、ちがいます! そういう意味じゃなくて、その、」 「そういう意味じゃないですか! ナギの執事という手前、自由に恋の一つも出来なかったと言いたいんでしょう!?」
この恩知らずを睨みつけながら、私はジリジリと彼との距離を詰めていく。流石の彼も今ばかりは笑みが顔から消えている。けれど何一つ嬉しくない。 私が見たかったのは、彼の本心なのだ。出て行きたくない、一緒に居たいという、私とナギに対する執着心。私たちを必要とする彼の激情を見たかったのだ。 ……けれど、彼の本心は全く逆で。私たちに対する執着心どころか、自由にしてくれと願う彼の本音。そしてそれを隠すため、張り付けられる厭な笑み。
なんだかもう、全てが忌々しくなった。
「もう、好きにしてください」
彼の耳元で囁くように吐き捨てる。行くあてもなく路頭に迷って、自分の不幸体質と恩知らずぶりを身に染みて感じればいいのだ。
「出ていってください」
彼の腕を掴み、無理やり外へ押し出す。「うわわ」と、場に不似合いな間抜けな声を上げた彼は、寒空の下へ私の手によって放り出された。 ムカムカとどす黒い感情に蝕まれる胸をそっと擦りながら、窓から彼の様子を窺う。 まだ、期待していたのだ。彼が泣きながら、叫びながら、執事に戻りたいと縋ることを。私たちに対する執着心を。 けれど放り出された彼は、しばし呆然とした後、深く息をついて門の方へと歩き出した。その後ろ姿を見ながら、口の奥で舌打ちをする。
もう一度外を見てみると、門に向かう彼はバッグから携帯電話を取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。きっと例のあの子だろう。 その電話の主と会話する彼の横顔を、私は一生忘れることはない。
それはそれは穏やかな、幸せそうな、厭な笑みだった。
「ああ、厭な笑み」
私たちを捨て自由を手に入れた彼に、どうか不幸を。
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